2008年4月30日水曜日

A personal memory of bubbles

「だれか!」
慌てふためく男性の声。

指さす先には、溺れる人の影。

高い見張り台の上で、それを見つけた男は、すぐさま無線で応援を呼び、
近くにいた数人の仲間とともに現場へ走り出す。

人数分のライフジャケットと、
救助用の予備を脇に抱え、

男達は人混みをかき分け、砂浜を駆け抜ける。

後に残る砂しぶき、長く伸びた足跡。

男達の慌てた様子に、
次第に群衆も気がついたらしく、
道を空け、彼らの通る道を確保し始めたが、

好奇心には理性は叶わず、
本当に現場近くまで来ると、
溺れる人を見ようと、
群衆は二重三重の輪になって、
彼らの進行を阻んだ。

「どいてください!」
彼が大きな声を出す。

目の前の数人の人々が道を譲る。
その先に、また人混み。

「どいて!、どいて!」
力ずくで道をこじ開け、
突然開けた視界の先に、先ほど台の上で見た溺れる少女の姿。

先ほどより確実に沖へと流されており、水を掻く力も、ずいぶんと弱っている。

事は急を争う。

あたりに船の姿はない。
水上バイクも、まだしばらくかかる。

仲間の一人が一枚のボディーボードを抱えてきた。

ボードの男は、ちらりと彼の方を見ると、
一人何かにうなずいて、水面へとこぎ出した。

男の影がみるみる離れていく。

なすすべのない時間。

男は次第に小さくなる。

残された者達には、それを見守るしかできない。

救急車は呼びました。
無線が曇った声で叫んでいる。

「了解」
男は答える。

今からでは、20分はかかるだろう。
彼は咄嗟に考えている。

病院は気が遠くなるほど遠い。
今の彼にとって20分は生命線の彼方の数字だった。

それでは、みすみす殺してしまう。

彼を含め、陸に取り残された3人のライフセーバーは、
周りの人を退け、
彼女の救命措置を行えるだけのスペースを確保した。


「...ミチ!」

群衆の一人が、沖の一点を見つめ、
思わず声を上げる。

ミチとは少女の名だろう。
叫んでいたのは、中学生位の若者。

飛び出そうとしている身体を、仲間の一人が必死に抑えている。

「...ミチ!」
彼はなおも叫び続ける。
意識があるかも、はっきりしない、遠い沖の、少女に向かって。

この付近はこの時間になると、
沖へと流れ去る海流が良く発生する。

少女はそれに飲み込まれたらしかった。

この流れに乗ってしまうと、
泳ぎ慣れた人間でも、
そのまま岸に流れ着くのは難しい。


沖へこぎ出した彼は、早くも、
溺れる少女と同じ位に小さな影になっている。

彼は、しきりに少女に声をかけ、その反応を伺っている。
少しの間、それを続けた後、
彼は少女に、手に持ったライフジャケットを結わえ、

沖への流れから逃れるように、
海岸線と平行にしばらく泳いだ後、
こちらへ向かって真っ直ぐに泳いできた。


「...ミチぃ!」
少女の姿が近づけば近づくほど、少年の声は大きくなり、
身体は前へ前へと押し出された。
抑える方の彼も、顔を真っ赤にして、必死だ。

「あぶないから!落ち着いて!」
黒いゴーグルの向こうで、彼は弟を叱る兄のような眼差しを
少年に向けている。



ゆき!
ゆき!

少年の声が聞こえる。あたりに人影はない。
僕らだけの砂浜。

ゆき!

遠くで、少女が溺れている。
少女の小さな影はみるみる小さくなり、
波間に消え、
そして現れた。

少年は、
手元に残された、浮き袋を抱え、
彼女のもとに泳ぎだした。

泳ぎには自身があった。
水泳部の副主将。

彼は、彼女を押し流しているものと、同じ流れに乗り、
みるみる彼女に追いついた。

彼女はもはや、水面に顔を出していることすら覚束ない。
手だけを高く掲げようとしているが、
それも、時折波間に沈んだ。

彼女の手が、彼の浮き輪に触れた、
彼は咄嗟に、彼女の手を掴もうとした。

ぐらり。

浮き輪は、水を飲んで重くなった彼女の重力に絶えきれず、
傾いてしまう。

彼の知っている、彼女の重さではなかった。
彼女はもはや、海に魅入られてしまったかのように、
彼を道連れに、深く、海の底まで引きずり込もうとしているようだった。

彼は彼女の腕を掴み直そうとした。
しかし、濡れた腕は、彼の掌を滑り、

彼女は為す術もなく、暗い海面に吸い込まれていった。

これまで、何度も、握ったはずのその手が、
彼を拒むかのように、

冷たい、青い色をして、
波にのまれた。

彼女の掌の滑らかな感触。
命を失いつつある者の、無慈悲な冷たさ。

彼女の沈んだ後から後から湧いてきた、
無数の小さな気泡の列。

それは彼女から立ち上る、彼女の命の欠片、そのものにも思えた。

水面に至った気泡は、彼の目の前で、
小さな音を立てて、
次々と、はじけた。


ゆき!ゆき!

叫べども、叫べども、
彼女は遠く、

彼は浮き輪にしがみついたまま、
天も地も見失った意識で
闇へ向けて彼女の名を呼んだ。

誰もいないビーチ。
僕らだけの砂浜。

数時間前までの、少女の笑顔。
日に焼けた、肌の温度。

太陽の光。

始めて見た、少女の、水着姿に、
高揚した、少年の瞳。

ねえ、海、行かない?
誘ったのは彼の方だった。
いい場所、知ってるんだ。僕だけの、砂浜。
他に、誰もいないんだよ。

彼女が海が好きなのを、聞いていたから。

嫌われるかな。
そんなおそれを抱いて、彼がかけた言葉を、
彼女は、何も言わず、とびきりの笑顔で応じた。

じゃあ、日曜日に!


高揚した気持ちを、抑えきれずにいたのは、
おそらくは、彼女も同じ。

恥ずかしげに、はにかんだ笑みを浮かべながら、
高鳴る心臓の鼓動を、隠そうともせずに、
太陽の子は、
水着から伸びた、褐色の手足を惜しげもなく彼へ差し出して、
銀の砂浜へと踊り出す。

彼の手を取って、
波打ち際へと導いた、
その手が、


今、

僕の、

目の、前で、

沈んだ。



彼は、彼女の名前を叫び続けている。


僕ら、だけの。

僕の...、




「早く!」

仲間の声がする。
泳いでいった彼が、少女を抱えて戻ってきた。

待ち受けた男の瞳に、再び冷静な光が宿る。

意識は?
怪我は?
呼吸は?
脈は?

決められた手順に従って
状況を一つ一つ確認すると、

彼は心肺蘇生を開始した。

救急車が来るまで、
あと10分。

それまで、可能性を繋ぐのだ。

彼が、彼女の胸を圧迫する度、
少女の口元はゆがみ、
中から少量の水が零れ出る。

命を塞いだその水と、
彼は今戦っている。

彼の背後では、
少年が、まるで、自分も胸部圧迫を受けているように
不安にゆがんだ顔をして、
少女の力のない表情を見つめている。


おれは、あのときから、
少しは前に進んだだろうか。

彼は考える。

大切なものを、
為す術無く失った無力な少年は、
できる限りの手法を覚え、知識を蓄え、再び
浜辺に戻ってきて、

実際に何人かの、命を救い、
実績も付けたけれど。

どれだけやっても、自信だけは付かなかった。

次第に微かになっていく、心臓の鼓動の、
名残惜しそうに消えゆく、微かな歌声が、
彼の身体には、今尚、染みついて離れない。

ありもしない、可能性を掴むように、水面から、
彼のいる空へ差し出された彼女の、
日に焼けた細い指が

滑り落ちた、濡れた肌の感触が、

彼の脳裏に、しつこくフラッシュバックする。

その度に、萎える指先に、二の腕に、
彼は再び力を込めて、
少女の心肺蘇生を続けた。

おれは、
ゆきをすくう、力を
身につけただろうか

いまなら。

彼は、永遠に失われた彼女の心臓のリズムを
思い起こすように打ち続けた。

早まる気持ちを抑えながら、
自分にできる限りの処置を、

冷静になれ、
冷静になれ、

ビートは刻まれる。
回復に向かって。
祈りを込めて。


ゆき...。




「ミチ!」

彼の背後で少年の声がした。
彼女の口から、大量の水があふれ出した。

けほっ。

彼女は苦しそうにむせ込んでいる。
彼が背中をさすると、
咳は続き、
やがて苦しげな表情の隙間から、
彼女の瞳が薄く覗いて、彼と、その背後の少年を見た。

薄くひらいた瞳は、たちまち
涙に溺れた。

こぼれ落ちた滴を受け止めたのは、
駆け寄ってきた少年だった。


群衆に笑顔が戻る。
気がつくと、男達も微笑んでいる。

一人、また一人、群衆は離れていく。
一つの劇が終わったように、
彼らは三々五々、
自分の生活を取り戻していく。



遠く、近づいてくる救急車のサイレンを聞きながら、
彼は、少女の沈んだ砂浜の、名もない岩礁を見ていた。

岩礁を背に浮かぶ、一羽のカモメ。

カモメは、彼らの姿を遠くからじっと見ていたが、
やがて何かに首を振るような仕草をすると、
やにわに羽ばたき、水面を蹴り、

宙へ踊った。

カモメの飛び立った跡には
いくつかの水泡がわき出して、
しばらく波間に漂っていたが、

そのうち、静かにはじけて、
みんな消えてしまった。


男はそれでも、依然として、
なにもなくなってしまった静かな水面を、

身じろぎもせず、見つめている。

その眼差しの先には、
溺れる少女と、
届かない手をさしのべる少年との姿が
二重写しに見えていた。

2008年4月29日火曜日

Say hallo tonight.

トゥルルルルル....。
電話の呼び出し音が鳴る。


誰も出る気配はない。



くたびれたソファ。

脱ぎ捨てられたままの衣服。

すっかり乾いてしまったシンク。

火というものの熱さを忘れてしまったように眠る、
ガスレンジは白く煤けてしまって、
もはや此処では主がしばらくの間、生活した記憶がない事を、
それは臆びれもせず、静かに物語っている。

部屋の奥の、
更に奥の、

暗がりに
潜んで、
こちらを
静かに

いや、
何もない暗い空虚を、
ただ、冷たくなった目で
さめざめとして、
見つめているのは、
一個の、
くまの
ぬいぐるみ。

あの日まで、毎夜のように、抱きしめられ、
主の眠りに着く時までひっそりと寄り添って、
その穏やかな吐息の数を数えた、
そのくまのぬいぐるみも、
今はその眠気に火照ったようなぬくもりを
すっかり忘れてしまったように
冷たい目をして、カーテンが引かれたままの、
薄暗い部屋の中を見ている。


そこは長いこと無人にされており、
生活を彩ったいくつもの日用雑貨達は、
その意義を見失って、
居場所を無くした子供のように、
部屋の隅で、息を詰めている。

主は、どこへ行ったのだろうか。

あの日まで、そこにはありふれた生活があった。


彼女は、帰って来るなり、
いつも、狭い玄関で無造作に靴を脱ぎ捨て、
靴箱の上の、ドライフラワーの頭をからかうように触れた。

ドライフラワーたちは、狭く日の当たらない玄関で、一日、
それだけをひたすら、待っていたかのように、彼女の手の先で
さらさらと音を立てて揺れた。

彼らが、一日のうちで、一番輝く、たった一瞬の、唯一の出来事。
遠い国の、広い草原で、風に撫でられたあの日を遠く思い出したかのように
熱に乾いた、彼らは揺れた。緑の記憶が、彼らを一瞬包んだその、
恍惚とした表情が、ぬいぐるみは今も、その綿詰めの軽い脳裏に
焼き付いて離れずにいる。

買ってきた、ビールを
すぐに冷蔵庫に入れて、

彼女は臆することなく身につけた衣服を全て取り外し、
もとの姿に戻って、

細長い足を操って、シャワールームの敷居をまたいだ。

シャワーの滴が駆け抜けていく。

曇りガラス越しに見える
彼女の伸びやかな細影を、ぬいぐるみは今も覚えている。

彼女があの形になるまでに、
いくつかの形を経て、
時にはその、自らの形の変化に
不安を感じ、
怯えて泣いた夜もあったことを、
ぬいぐるみは覚えている。

ふくらみ始めた、胸の感触を、
その奥で怯えたように震える、心臓の音を
ぬいぐるみはまだ、昨日のことのように、覚えている。

形すら、一定しない、
人間というものの
はかなさを
ぬいぐるみは時折、一人放り出された夜に
思ったものだった。

彼女が、やがて自分の形を受け入れ、
それに怯えることもなくなってからは、

形を越えて生きていける、人間というものの不思議を
逆に感じるようになった。

くまのぬいぐるみが、
己の今の形を失えば、
それは、
何になってしまうのだろう。

ぬいぐるみはそれを考えると、怖くなり、
それからはもう二度と、考えないようにしていた。

形のあるようで、無い人間の
いつも隣に、
形に縛られたぬいぐるみは寄り添っていた。


シャワーの音が止まった。
駆け抜けた滴達のさざめきは穏やかになった。

彼女は、シャワーの滴を、まだいっぱいに付けた身体のうちに
匂いのこもるシャワールームから出てきて、

まっしぐらに、キッチンに向かう。

冷蔵庫に冷やされた6缶のビールのうちから、一番手前の、
一缶だけを取り出し、
丸く整った、爪の先を痛めないように用心しながら、
プルタブに指をかけ、一息に引き寄せた。

気圧の解放された、
晴れやかな音。

あふれ出す、泡すら楽しいと言ったように、
彼女は、それをすぼめた唇の隙間から、一息に口に含んでしまう。

暖かな舌の上で、
炭酸は目覚め、
冷たい感覚とともに、はじけるような清涼感を残して、
彼女の口腔に踊り出し、
思い定めたように彼女の細い喉を駆け下りていく。

冷たいビールが
暖かく静かな腹腔で、穏やかにまどろむのを感じた時、

彼女は、
ふう、と一息吐いて、
満足そうに微笑んだ。

一日の勤めを終えた、と言う安堵感。

他には誰もいないという、背筋をなぜるような孤独と不安。

それらが、紙一重に隣接する、刹那の沈黙。



ビールは缶の中で、まだ、はじけ足りないいくつかの炭酸を
しきりに外へ放出している。

彼女は、
避けきれない孤独と沈黙の中を
一人打ち破るように、
晴れやかに笑った。

頭の後ろにまとめた長い髪の
跳ねるように伸びた先端に、
小さな滴が膨らんできて、

大きくなって、

彼女が笑うと、危なげに、
左右に揺れて、

やがてはじけて、飛んでしまった。


ベッドサイドに置かれた、
くまのぬいぐるみは、
その彼女の強がりで脆い笑顔を、
今と同じ、冷えた瞳で、見つめていた。

だが、その肢体は、少なくとも今とは違い、
毎夜愛されているぬいぐるみに良くあるように、
人の肌に慣れた、暖かさが宿っていた。


思えば、いつも、そうして彼女を見ていた。

幼い日、始めて彼女の胸の中に抱かれた夜から。
ぬいぐるみは、冷たい瞳で、内在する暖かさを感じながら、
その主の、幼い日から変わることのない、
弱さと、その成長を日々思い起こしている。

彼は、ぬいぐるみとしては幸せだった。
人が生きるために、本当に必要とされている、ぬいぐるみというものが、
この世の中に、一体、いくつ、あるというのだろう。

ぬいぐるみは、それを思うと、幸せだった、


彼女は、昼間は他人に弱みを見せられない人なのだろう。

一缶のビールに少し気持ちが落ち着くと、ぬいぐるみを抱き寄せ、
彼を相手に、よく、会社での話をした。

さぼてんのような後輩の話。
気の利かない部下の話。
自分のことしか考えない上司の話。

そして、

ずっと気になっていた、一人の先輩の話。

その話をしている時、彼女は、
初めは上機嫌に、快活に話し始めたが、
いつも、次第に憂鬱になり、最後には
ぬいぐるみを抱き抱えたまま、
うう、と俯いて、
嗚咽することも、あった。

そんなとき、ぬいぐるみは
いつも通りの冷たい瞳で、うずくまるように泣いている彼女を
身じろぎもせず、じっと見つめていた。

その頃、彼女には、
それとは別に、つきあい始めた男性が、
確かにいたはずだった。

彼と彼女が、時々、
部屋の隅に置かれた電話を通して、
語り合っている姿を、
ぬいぐるみは度々目にしていたが、

ぬいぐるみと、彼女が、こうして
二人語り合う時、
彼らの間に、彼の話が出てくることは
ついぞ、無かった。

彼女は、いつも、
その、気になっていた、唯一の
先輩の話をして、
そして時々涙につまり、
ぬいぐるみのふかふかした胸に、
泣き濡れた顔を埋めた。

泣き濡れた彼女の胸と、
膝の間に、
押しつぶされそうに、なりながらも、
彼は一言も漏らさず、彼女の泣き言を聞き、
その涙を、吸い続けた。

涙は、場所を得たように、
ぬいぐるみの身体に溶け、そして、静かな香りを残して
ゆるゆると乾いた。

それは、彼女のまだ、幼かった頃から、
ぬいぐるみの仕事だった。

流れる先のない涙は、
あまりに悲しすぎるから、
ぬいぐるみは進んで、
その涙を、
自らのうちに
取り込むのだった。


ぬいぐるみは、考える。

彼女の姿を見なくなったのは、
いつの日だっただろう。

いつも通り、彼女は会社に出て行ったきり、夜になっても、もう、
彼の待つ部屋には帰って来なかった。

いくつもの夜を越え、
昼を待っても、

ぬいぐるみの目の前にあの彼女が現れ、
ただいまの代わりに
抱きしめてくれる事はなかった。

そんなとき、彼女の身体からいつも香っていた
淡いシトラスの香りを
ぬいぐるみは懐かしく
思い出している。


前兆がないわけでは、無かった。

少し前から、彼女は次第に、家を空けることが多くなった。
ある時は一日おき。

ある時は数日空けた。

それでも、それ以上家を空けることはなかったし、帰ってくれば
いつもと同じように、彼を抱き寄せ、愛情を注いでくれた。

むしろ、そう言う時の彼女は、
いつもより上機嫌で、いつもより深く、彼を愛撫し、
いつもより、固く抱きしめて眠った。

まるで、そこに、
ぬいぐるみの、向こうに、
何かを、見ていたかのように。

そんなとき、彼女の身体からは
いつもよりずっと強い、お酒の匂いがした。

慣れない強いお酒の
燻されたような、くぐもった匂いに
ぬいぐるみはむせるような思いがした。

でも、そんな夜も、
ぬいぐるみはいつもと同じ冷たい瞳で、
酔いつぶれて眠る、彼女の上気した暖かな頬の温度に、
ゆるやかに同調した。

ぬいぐるみの向こうに、たとえ、何か別の何かの夢を見ていたとしても、
ぬいぐるみはその分限を越えて、
彼女の気持ちを求めることはできなかった。

進んで、その何かの、代理として、
彼は抱かれ、
愛撫され、
その熱い身体の熱を吸い、
そうして朝を迎えた。

ぬいぐるみはいつも、冷たい目をしている。
それは、自分がぬいぐるみであることを、誰よりもよく、
知っているから。

瞳に、驚喜を浮かべたとて、
それがいずれ、潰えるためにある恋であることを
ぬいぐるみは、ぬいぐるみとして生まれた時から、その身体の中に
たたき込まれている。

期待もしなければ、絶望もしない、
乾ききった瞳で、
ぬいぐるみはただ一時の、彼女のぬくもりに
身を委ねる。

頭を撫でられたドライフラワーのときめきを、
ぬいぐるみは今、思っている。

そのためにこそ、彼らは待つのだ。

渇ききった心で。



そんな彼女が、家にすっかり帰って来なくなって、数日経つと、
ぬいぐるみは自分が、ぬいぐるみであったことを忘れ始めた。

愛されるということを、なりわいとする道具でありながら、
愛されることにすら、枯渇し、
ただ、一布の、綿入れの袋に戻ってしまったようで、
冷たい瞳を暗闇に向けながら、
もう二度と帰ってこない、
主の帰りを、
主の熱を、
ささやきを、
強がりな笑顔を、
涙に濡れた瞳を、
吐息を

ひたむきに待ち続けていた。


...電話が鳴り続けている。
しかし、誰も出る者はいない。

電話の向こうの彼も、
自分と、何ら変わりのない、
一布の綿入れの袋のような彼なのだと、
ぬいぐるみは、思った。

2008年4月27日日曜日

innocence

君が地元に帰ってきているという話を
僕はあらかじめ友人の一人から聞いていたので、

近々、君は僕の前に現れるだろうとは思っていた。

でも、その君が本当に僕の家のドアを叩き、
中に入ってきたとき、僕は少なからず覚悟をしていたはずなのに、
大いに動揺していたのは、事実だ。

「何ヶ月になったの?」

僕は自身の動揺を押し隠し、さりげない風を装って
君に尋ねた。

「5ヶ月。」

君は、明確に、端的に答えた。
それは君にとって、間違えようのない事実だった。

君の関心の全てが、その丸く膨らんだ下腹部に注がれ、
君の思考、生活、行動の全てがそれを中心に回っていることを、
僕は認めざるを得なかった。

君に渡すコップの中の、オレンジジュースの液面が微かに震えるのを、
自分では努めて見ないようしていた。

地元の大学を卒業した後、君は、彼の後を追って東京の会社に就職した。

僕がそのことを知ったのは、それもやはり、友人伝いだった。

要するに、君に、多大なる関心を払っているつもりでいながら、
僕は君の何一つ知らず、
同時に、何一つ知ろうとしていなかったのだ。

こんな僕が、君から、君の多くの一人の友人として見られていたことに、
あれほど驚き、そして悲嘆に暮れる権利は、なかったのかもしれない。

君は僕の見ていない、見ようとしていないところで、他人を好きになり、
その気持ちを引くために、当然の努力をし、笑顔と優しさの全てを使い、
おそらくは僕の見たことのない君すらも惜しげもなく見せて、
そして、多くの人がそうであるように、君もまた、一人の女になった。

しかし、それほどまでした彼ではなく、
よりによって、僕の知らない、また別の男と懇意になり、
そして、今になって、こんな姿で帰ってくるとは、
当時の僕は想像もできなかった。

僕は、身の回りのことは、身の回りのうちだけで起きるものだと錯覚している。

しかし、今君のおなかに宿っている小さな命は、現に僕の知らない世界の
知らない顔をした男と、僕が知るつもりでいた君との間にできた、
小さな間隙なのだ。

そこからは、君だけが知り、僕が知らなかった世界が透けて見える。

妻はもう出かけていた。

息子は幼稚園に行っていた。
僕一人、休日出勤の振り替えで、休みをもらっていた、
その最中だったのだ。

君は、妻に会いに来たに違いない。

だが生憎と、彼女は近所の奥様達と仲良く買い物に出かけており、
今日は遅くなるとあらかじめ言っていた。

由希子、いないの?
君は僕の家のキッチンを、首を伸ばすようにのぞき込んだ。

いま、外出していてね。今日は遅くなるそうだ。
僕は彼女の言ったままを伝えた。

開け放たれたベランダの窓からは、
雲一つなく晴れ渡った初夏の青空が見える。

そして、そこから絶え間なく、すがすがしい5月の風は吹き込んでいて、
窓辺に吊された、僕の淡色のシャツが、その風に乗ってそよいだ。

いい天気だね。
君は言った。

フローリングの上に惹かれた小さなマットの上に、
脚を伸ばして座った君は、その前に置かれた木製の小さな机によって
そのいたいけな腹部が隠れたこともあって
あの日の瑞々しい笑顔をそのままに見ているようだった。

ねえ、
君はあの日の笑顔のまま、僕の方を振り向いた。
妊娠の影響か、あの頃よりも、幾分印象が丸くはなったが、
目が糸のように細くなり、首をかしげ、甘えるような微笑み方は、
あの頃のままだ。

おさんぽ、しようか。



僕の家から100メートルも歩いたところには、
市の中心部を流れる大きな川が流れていて
その川沿いは、遊歩道として整備されていた。

僕には君と、以前、この川沿いを歩き、昨日や今日の、
とりとめのない会話を交わした記憶がある。
あのときの僕は、これこそが、恋愛というものだと、
信じて疑わなかった。

その川沿いを、上流に1キロも歩けば、
市内で最も大きな公園にたどり着く。

君はそこまで歩こうと言い出した。

妊婦さんには、
適度な運動が必要なの。
取って付けたような医学知識を生真面目に語る君の顔に
僕は、以前のあどけない面影をはっきりと見た。

オレンジ色のアスファルトで舗装されたその遊歩道を
僕らは、ゆっくりと、歩いた。
それは言うまでもなく、君と、君のおなかを気遣うため。

その腹部のふくらみが、
君が並々ならぬ関心を向ける対象であるからという、
ただそれだけの理由で、僕は身重な君の歩みに、
身軽な自分の歩みを併せようとしていた。

それは僕の思いやりであったのかもしれないが、
端から見たら、よほど滑稽な光景だったことだろう。
健康そうな男女が、牛歩のようにとぼとぼと
遊歩道を歩いているのだから。

久しぶりだね。
こうやって歩くの。
君は言った。
僕の懸念など意に介さず、その表情は晴れやかだった。

覚えてるの?
僕は聞いた。

覚えてる。
この川も、この草木の色も。
あなたは、あのときも、そんなとぼけた服を着て、
私の右側に、立って歩いた。

そう言って、何かを思い出したのか、懐かしそうに
ふふ、と笑った。

僕には、君の中で、
僕に対する記憶が、どのような位置を占めているのか分からなかった。

最も重要な記憶ではないことは、確かだと思う。
しかし、忘れるに値する記憶でも、ないようだった。

思い出せば笑ってしまう、
楽しい記憶ではあるようだが、

それが僕の思うほど、
貴重でかけがえのない記憶であるという保証はなく、
それゆえ、僕は内心苛立っていた。


どこかで、ヒヨドリが鳴いた。
セキレイが黄色い腹を見せながら、
長い尾羽を上下に振って、僕らの前を横切り、
はたはたと飛び立った。

全ての名もない命が僕らの周りで確実に息づいている。
長い冬の終わりにほっと息つく暇もなく、彼らは次の命のために
その活動を始めている。

平日の昼下がりと言うこともあってか、擦れ違う人もない。
ただ僕らだけが、遠く公園に向けて、しずしずと歩みを進めている。


その時、不意に、僕の腕に薄い微かな肌の感覚があった。
僕が、驚いて見れば、それはいつしか君の左手に繋がれていた。

そんなに、びっくりしなくても、いいじゃない。
君はまた微笑んだ。

あの頃も、こうやって、歩いていたんだから。

君はあの頃から何も変わっていなかった。
思えばあの頃もこうして、不意に僕の手を取って
歩き出したことがあった。

なんか、おさんぽしていると、隣の人と、手を繋ぎたくなるじゃない。
そんな子供じみた言い訳を、君は臆することなく主張し、
僕の右手を取ったまま、楽しげに歩いた。

その仕草も、表情も、君は君なりの理由を持って、
友人である僕に対して、
そう言う行為をしていただけなのだが、当時の僕には、
女性が時折見せる、そのような無邪気な行動が、
それだけを意味するものとは到底思えなかった。

全てのものに、意味を求めていた時代でもあった。
全てを疑い、全てに作為を見いだして、それで分かった気になっていた。

今、あの頃と同じように繋がれた君の手は、
あの頃と変わらぬ大きさで、僕の掌にひっそりとなじんだが、

その肌はあの頃のように何も知らない少女の手ではなく、
多くのものに触れ、多くの感覚を知った手のはずだ。

あるいは対象を掻き抱き、
色めく感覚に際限なく溺れたこともあるはずの、その手で、
君はあの日と同じように、僕の手と繋いでいる。

しかし、その君の手が、
多くの経験を経たあげくに僕の手の中に、
また、こうしてあるはずの、その手が、

あの頃と変わらない質感と無邪気さを、
未だにしっかりと内包していることに、
僕は驚き、狼狽えていた。


変わったね。
君は言った。

少しだけど。
小さな声で、付け足した。

以前より、ずっと
臆病になったみたい。

前、あなたの手をこうして握ったときには、
あなたは口には出さなかったけど、目を爛々とさせて、
いつもより少し、胸を張って歩いてた。

でも、いまのあなたは...。

何をそんなに怯えているの?
僕の右手を掴んだ左の手に君はぐっと力を込めた。


もし、失うことを恐れているのなら....
誰かに繋がることすら、怖くなっているのなら....


もう離さないから。
君はそうとでも言うように、繋いだ手に更に力を入れた。

君が僕の手を、あまり強く握ったので、君の掌を流れる
血流の脈までもが、その手を通じて伝わってくるようだった。
あるいは、それは実際には、締め付けられた事によって、
僕の側の脈拍が感じられただったのかもしれない。

だが、僕は、君の掌を通じて、
君の身体を巡る血液と、君に宿る、新たな命の拍動を感じていた。

それは、間違いなく他人だった。僕の知らない、
おそらく君すらも良く知らない、
誰も知らない、誰かだった。

君は小さな身体で、必死に、この日に日に大きくなる他人を
抱えて暮らしているのか。

それはもちろん、成長する喜びではあるのだろうが、
膨張する不安でもあるに違いない。

父親のない子を産み、育てる母親の心痛など、
平均的な人生を選んで生きてきた、臆病な僕に、
どこまで分かるというのだろう。

ただ、一つ考えられるのは、僕が君であれば、
産めないだろう、と言うことだけだ。

生まれてくる子供に罪はないとはいえ、
その半分は君をこういう境遇に追い込んだ、その男だ。

それを産み育てようとする母親の心理にあるものは
自らの過ちを悔いる罪の意識であるのか、
それとも男に対する復習であるのか、
あるいは、単純に、子供が欲しいという純粋な母性であるのか
僕には分からない。


分からないけれど、


僕は君を、包み込むようにして、抱きしめた。

君は逆らわなかった。

分からないけれど、そのいたいけな小さな腹部には
君の唯一微かな希望が、美しい、楽しい過去の思い出が
すくすくと育っているのだろう?

君の肩は、正直、昔より少し肉付きが良くなった。
生まれてくる子供のために、
君の身体はまさに作り替えられようとしている。

そしてその、新たな命のために、
この小さな肩をいからして、君は生きていこうとしている。

抱きしめた君の、
小さな肩口からは、微かに母の匂いが漂い始めていた。


僕らは、そうして公園にも行かず
遊歩道を静かに行ったり来たりするばかりで
君の言う、おさんぽを終えた。

疲れた君を家に送り届けるため、
僕らは最寄りの駅から、電車に乗った。

電車はそれほど混んではいなかった。

僕らは二人が座れるスペースを見つけ、
そこに並んで腰を下ろした。

電車が走り出すとまもなく、
君はうとうとと眠り始めた。
やがて僕にもたれかかるようにして
君は眠った。

電車は次第に速度を上げながら僕らの過去と未来とを置き去りにして
現実から次の現実までの軌道を定刻通りに刻んでいく。

僕は、身体の側面にぴったりと寄り添う君の柔らかな感触を感じながら、
今はもう、遠い昔の話になってしまった、
若い頃の君の心の声を聞きたくて、
その肩をそっと、自分のもとへ引き寄せた。

そして、君がうわごとのように小さく漏らした一言の言葉に
思わずはっとしたとき、

近づけた君の瞳が真っ直ぐに僕の表情をのぞき込んでいることに気づいた。

僕は自分の太ももの薄くなったデニム地越しに、君の暖かな左手の感触を
確かに感じていた。

その左手からは、彼女の身体を流れる血流と、
小さな他人の確かな胎動とが、
一緒になって、僕の身体に流れ込んできた。

僕は君を抱き寄せた。
君は抗うことなく、それに従った。

電車は次第に速度を上げ、
その街の風景をまだ十分に視認できないうちに
ごうごうと、音を立てながら、真っ暗な地下世界へと下っていく。

僕は君に、まだ降りる駅を聞いていないことに気づいた。

しかし、これから僕らの向かう先に、そもそも降りる駅など存在するのかすら、
僕には自信を持って答えられそうになかった。

2008年4月25日金曜日

What are you doing the rest of your life?

君を失った悲しみはまだ癒えていないのに、

僕はまた次の恋をしようとしている。


君を失って始めて、君が存在したただそれだけの事実の
他のものでは代替のしようのない、致命的な欠落を知り、
その苦しみに、乾きに喘ぎ、
もう二度と、恋はしないと誓ったはずなのに、

僕はまたこうして、恋をしようとしているのか。

昼下がりの校舎で、休み時間に僕を連れ出し、
誰もいない体育館の用具室で、
小さな唇をくれた、君の
あの疑いを知らない眼差しを、僕はまだ心に掲げ続けている。

あの眼差しは時を越えて、
今、こうして、おそらくは不純な
恋の熱望に駆られた、不義の虫を
真っ直ぐと射通し、そのことが
余計に僕を苦しめている。

目の前にいる、この女の、

暖かな乳房と
居心地の良さに甘えて、
僕は薄暗がりの中、彼女の肢肉と肢肉の間に
自らを差し入れ、それで満足している。

女の声が聞こえる。

君の声が聞こえない。

求めたのは、何より、君の声だったはずなのに
どうしてここで聞こえるのは、君の声ではないのか。

女の声が聞こえる、
しきりに何かを訴えている。

僕はそれに、答える気は起きずにいる。
ただひたすらに、自らの作業を続ける。

やがて女のあきらめたように
僕のペースに自分のリズムをシンクロさせ、
それで、しきりに、満足げに、
うんうんと、唸っている。

この、自分の下にいる、女が、
君と同じ女であるとは、
僕にはどうしても、思えないのだ。

同じように好きになり、
同じ言葉で、告白はしたけれど、
あの遠い日、君に抱いた感情と、
今こうして、僕の股の下に喘ぐ
一人の女に抱く感情とは、
似ているようで、いつまでも一致しない。

この女に、豊かな乳房と、尻と、
抱きつくに足りるだけの肉が満ちていることは僕には分かったが、

あの日、僕は、君のくちづけの温度さえ、
正直、計りかねていた。

握った手の微かな熱すら、
手を離した直後から、
アルコールが揮発するように速やかに、
涼しい風だけを残して消えてしまった。

そして、別れ際、君が密かに残した言葉は
その後僕の心の中に、
秘められた魔術の真言のように
言葉にしてはいけない事実として、そっと僕の胸の奥に
刻み込まれたままだ。

後になって、
ずいぶんと後になって、
この女も、
君と同じような、その真言を
うわごとのように、僕に言ったことがあったけれど、
君が言葉とともに残した、
甘い果実のような、余韻は
彼女の言葉尻を、いくら噛みしめてみても
少しも、醸されては来なかったんだ。

僕は、この女を愛している。

こんな、いつまでも、疑念を捨てきれない僕を、
こうして受け入れ、

飽きもせず、それを夜ごと繰り返してくれるのだから。

僕は苦笑している。
この女の愚かさに。

でも同時に
感謝
している。

鍵をかけた部屋には、誰にも立ち入らせない僕なのに、
彼女はその鍵を開けて中を見せてくれとも言わず、
閉じられた部屋は部屋のまま
それでも僕を、愛してくれている。

僕はこの女が、溶けるほど愛してあげたいと思っている。

叶うことなら。


君との間には結局、
何があったかと言えば、何もなかったようで。

長い時を一緒に過ごした割には、
これと言ってヒトに伝えたくなるようなエピソードもない。

ただ、その割には僕は、未だにこうして君を慕って、
目の前にいる女すら、真面目に
見てあげることができずにいる。

それはこうして、現実の僕を受け入れてくれているこの女に
とても申し訳ないことのような気がしている。

あらゆる事に、君との思い出を蘇らせている僕には
本来もう人を愛する権利など持ち合わせてはいないはずなのに、

彼女とこうして夜を過ごし
そして昼を渡り、

共同生活をしながらも、
心はここにはなく

僕は身体だけ、この女と同棲している。


病院のベッドで力なく横たわった君に
僕はかける言葉も見つからないまま、

初めての告白から、長い長い年月が過ぎ
それでも結局、二人結ばれることはなかったコノ
不運な現実に
何か恨み節を述べようとしても、特には思い当たらず。

目を合わせて、にんまり微笑むだけで、
後は君の身体に流れる、
点滴の管の、
しずくの滴る数を数えてた。

君の命を救うという名目の
このクスリの一滴一滴がまた同時に、
君の命の果つるまでの、カウントダウンのように思えて、
その黄色い液の滴が、
できれば少しずつ、ゆっくりと滴るように感じられないかと、
何度も、願っては、みたものの。

僕は何度も、君の病室を訪れたけれど、
することはいつも同じだった。
君を見て微笑んで、
点滴の管を見て、
声には出さず、一緒に数を数えた。

でも、連れ添うと言うことは、そう言うことなのだと、
僕らはすでに、気づき始めていた。

二人の間の、残された時間を過ごすことが、
破壊に向けての時を、静かに穏やかに数えることが
二人の末路を、連れ添うという行為であるのだと。

君が不意に、僕に差し出した白い手を
僕は優しく握りしめ、

やせ細ってしまったその薬指に、

買ってきたばかりの
銀の指輪をはめた。

それは、なんの約束にもならないけれど、
小さな一つの、答えではあった。


女の声が静かになった。
僕はいつしか女のことを忘れていた。

悲しいほど、真っ直ぐに
黒くひらいた目で
僕を見つめている。

その女の顔にかかった、細く長い前髪を、
僕はそっと掻き上げた。

ふふ。

女が、うれしそうに息を漏らした。
無邪気な少女のようだった。


君の死んだあの日まで、
僕はこの女を知らなかった。

しかし、今日の日に至っては、
これほどまでに、その女と
馴れあい、そして、現にこうして抱き合ってすらいるとは、

僕もあきれたものだ。

僕は君がいないことをいいことに
別な人生を歩んでいるのかもしれない。

君を知らなかった僕。

そうして過ごす、幾年月のうちに、
君を忘れられるかとも期待したけれど、

結局は、この有様。

記憶とは無様なものだ。

目の前の女に、心の底から正確に、
愛情を注いでやることすら
かなわずにいる。

不運なのは、この女。
不幸にしているのは...。

なら、止めればいいのに。
なぜ僕はそうしないのだろう。

君との間にはなかった
この負の連鎖のようなシチュエーションに
僕は今も戸惑っている。

女が音を上げた。
すでに物語の終わりは近づいている。

ひとしきりのプロトコールを終えた後
僕らはいそいそと身を離した。
それはいつも、事務的な後始末。

二人の行為の後に訪れる、
寂寞とした、
脱力感を
彼女はその、疲れた指で、
そっとなぞり

それが癒しにならないことを知りながら、
何もしないわけにはいかなくて、
そうしてくれたその、焦りにも似た焼け付くような思いを
僕は、数十年前の、君越しに
再び彼女に見ている。

僕は慈しむように、力なく横たわる彼女の首筋に腕を回すと、
昔、君のしてくれたように、
静かに息を止め、
そっと、脣を合わせた。

2008年4月24日木曜日

Dagger, in the Jack's pocket

「なんで?」
彼女が言った
「何で、そう言うことになるの?」

街の郊外のファミレス。
あたりにあるのは原色の寂れたネオンばかり。

飲むだけ飲んで、語り疲れた男女が、
言葉のむなしさを抱えたまま、
言葉のいらない交流を欲して
集蛾灯に群がる虫たちのように引き寄せられる。
そうした街の当然の一角。

理性の生き物と言われる人間が、理性の限界を易々と認め、
言葉を放棄し、ため息と喘ぎに飽和したいくつもの城の建ち並ぶ
不条理の巣窟。

その片隅にある、小さな、ありふれたファミレス。
そこだけがぽっかり空いた日常のように、
決められた格好をしたウェイトレスが、マニュアル通りのお辞儀を繰り返す、
秩序と法の砦。
蛍光灯も、此処だけは外から見えるほど明るい。

そこで彼女は大きな声を上げている。
僕らの空気が凍る。

厨房で、何か金物を落とす音がした。

「もうしわけありません」
孝史が言う。
「健二がどうしても無理だと言うもので」

孝史は、結局“いい奴”なのだ。
そう言って、いつも僕の所為にして、話を終わらせようとする。

「え?、また健二なの」
美佐子は言う、その目は僕を明らかにさげすんでいる。
「いい加減にしてよね、私をいくら待たせたら気が済むの」
彼女は、その切れ長の目で僕に迫る。
それは見方によっては狐のように鋭く、
一方で猫のように妖艶だった。

「すみません」
僕は謝った。彼女の前では、下手な口をきくだけ無駄だ。
自分のプライドなど捨てて、一匹の虫けらになったつもりで、侍るほかない。
それが、いかに僕にとって屈辱だとしても、それが僕らの礼儀であり、最大の愛情表現だ。

「意地のない男」
彼女が鼻で笑った。
僕は卑屈に笑った。
心の中では、くそったれ、と思いつつも。

この女の、度を外れた虚勢には、
僕はある種蔑みに似た感情を持っていた。

男を知らない女ほど、
自分がサディスティックか、マゾヒスティックか気にするものだ。

それは男の本質を知らないが故、意気がれる、
ガラスのような虚勢に見えた。

それだけに、僕らには、それは儚く、
哀れですらあり、そして美しかった。

「ふん。斉藤」
彼女は僕の名を名字で呼んだ。まるで、
僕を足下でも及ばない存在にまで見下したと言わんばかりに。

「あんた、私にそんなことを言う権限があるの?」
僕は心の中で、爆笑した。

世間知らずの童女め。

男のなんたるかも、
満足に知らないくせに、女王気取りだ。

「ごめんなさい、美佐子さん」
僕は言った。あくまで申し訳ない表情を取り繕ったまま、諂うように。

「僕はその日予定があるんです」
僕は言った。

「あたしより優先する予定ってなに?」
美佐子は言った。僕のどこまでも下に出る態度に、
確かに彼女は一種の快楽を感じていた。
彼女とは、そう言う人間なのだ。

整った顔。容姿。

それが彼女だった。
彼女とは、形だった。

その表情は、いつも自信に溢れていた。

あばた顔の僕など、
虫けら程度にも思っていない様子だった。

「ごめんなさい、その日は、友達と約束があるので」
虫けらの僕は言った。

「友達?」
美佐子は鼻で笑った。
僕の言う友達が、彼女はおおよそ察しが付いているようだった。
おそらく、孝史か誰かが僕のその“友達”というものについて
彼女に告げ口したに違いない。

「あの田舎くさい女に、あなたは私を優先するというの?」
美佐子は再び笑った。
「ばかばかしい」

全くです。
孝史が言う。
ばかだな、おまえ。
下僕どもが笑う。

どいつも、卑屈な顔をしている。
僕も卑屈に笑う。

「斉藤」
彼女はなおも僕に絡んだ。
実際には、たいした興味もないくせに、自分から目の前に転がり込んできた、
この痩せたネズミが、おもしろくてしょうがないのだ。

「あなた、その子の約束の前に、私への服従があるでしょう?」
彼女は蔑むように言った。

僕は、そうです、と答えた。

「それに、背いたのだから、それなりの罰は受けてくれないと、ねえ」
その目は、ネズミをいたぶる猫ほどの慈愛もなかった。

彼女は、自分の細く美しい脚を、僕の前に突きつけた。
そして、その黒く鋭いヒールの靴をひざまずく僕の鼻面に突きつけ

「お舐め」

と言った。

僕は拒んだ。

彼女はそのことを見越したように高圧的に言った。

「あたしへの報恩が足りないようね。」

そして、あきれたように孝史を振り向くと、

「こいつの女の名前、なんて言ったっけ」
と尋ねた。

「光、です。」
孝史は答えた。

僕は、こんな奴らに簡単に名前を扱わせてしまった光に、申し訳なさを感じていた。
そして同時に、煮えたぎるような怒りも。

「光、ふうん」
彼女は鼻にかかったような息を漏らした。

そしてもう一度孝史を振り向くと

「じゃあ、その子を、あなた達のえさにしてしまいなさい」
と言った。

ぷっ
と孝史が思わず吹き出すのが聞こえた。

そして、笑いをこらえきれず、わなわなと小刻みに身体を震わせたまま、
「美佐子様の言う通りに。」
と、やっとのように言った。

「前にそうしたように、金を与えて、不特定多数の男を、捕まえておきます。」
孝史は努めて笑いをこらえながら続ける。

「後は、彼らを押し込めた、窓のない密室に、その餌を投げ込みます。
...僕らは、それを外から、監視カメラででも、のぞき込んでいればいいでしょう」

「それでいいわ」
美佐子は満足そうに言った。
すでにその中で起きる惨劇が、ありありと彼女の目には見えるようだった。

「一人の男では」
美佐子は僕の方を見ると、さもうれしそうに、
言った。
「満足できない身体にしてあげて。」


ファミレスの運営は粛々と進む。
先ほど帰ったお客の皿を、
厨房から出てきたボーイが
手際よく片付けていく。

少し遅れて、ウェイトレスも出てきた。
彼女は先に働いていたボーイの仕事を無言で手伝い始めた。

それはどこまでも、規定と契約に基づいた一連の動作ではあったが、
そのウェイトレスの細く白い首筋に見える、真新しいキスマークまでは、
ここからは見えない。


「ばかばかしい」
僕は言ってやった。陵辱もついに僕の度を超えた。

「とんだ、おままごとだ。」

世界が凍った。
孝史は、笑顔のまま固まっていた。

「何を言うの?」
美佐子は言った。つとめ提言を保とうとしているように、僕には見えた。
彼女は、自分に諂う男の顔は覚えていても、
刃向かう男の顔は知らないはずだった。

「ばか、ね」
彼女はそう言っただけだった。

ガラスは、いつの時代も美しい。

傷一つない一枚板のガラスよりも、
砕け散って散乱したガラスは尚のこと。

それには、血の跡すら、美しく見せる、
怪しげな力がある。

「此処に、二度といられなくなるわよ」
それでもかまわない、と僕は思った。

彼女と一緒に、この呪われた街を出て、
どこか広い海と、空の下で、
カモメのように笑って暮らしたいと、僕は夢を描いた。

光は、確かに美佐子の美しさには及ばないのは知っている。

しかし、僕は彼女こそ、僕が最優先すべき女性だと思いつつあった。
何を捨ててでも、守るべきものはまず、あの女性だ。

孝史は狼狽えていた。
彼にとっては美佐子が全てなのだ。
彼女が全ての美意識の基本であり、彼女の基準に合わない者は全て、愚であった。
それは言わば、美佐子以外の女を知らないことの裏返しだった。

「へっ」
僕はいつものクールな印象に似合わず、
慌てふためく彼を見て、僕は思わず鼻で笑った。

孝史の顔色はずいぶん青かった。
彼の頭の中は、美佐子の機嫌をいかにして修復するか、
その一点で凝り固まっているように見えた。

彼女の機嫌をこれ以上損ねれば、
側に仕える彼もただでは済まない。

元々その屈辱を味わうことを欲している彼とはいえ、
必要以上の被害を追うことは避けたいのだ。


美佐子は以前、
この上なく不機嫌だったとき、

5人の男に一人の反逆者を捕まえさせ、
よってたかって、女をもはや愛せない男に変えてしまったことがある。

初めは抗っていた男の表情が、
おそらく彼のこれまで感じたことのない快楽にゆがみ
次第にだらしなく、唾液などを滴らせて、
ひくひくと痙攣しながら、
自我を失っていく様子を、

彼女は一段高いところから、
足を組んで楽しそうに、見下ろしていた。


彼女は“いじめ”の天才だった。

彼女のいじめは誰にも怪我はさせない。

むしろ、閾値を超える快楽のなかで、
その人間を蝕み、精神をゆがめ、
廃人同様の人間にすることを得意としていた。

巧妙に法の抜け穴を利用するので、
誰も彼女を裁くことはできなかった。

僕らも、彼女の巧妙な手法によって、
もはや彼女以外の女を愛せなくさせられた人間だった。

僕らは毎夜、
群がる虫のように、
彼女の身体を貪った。

彼女無しには生きていけないほど、
性的な面において完全に依存していた。

だが、時折何かの拍子に、その魔法が解ける人間もある。
今日の僕のように。


「孝史。」
僕は言った。
「哀れだな。おめえは虫だ。」
僕はなおも言った。
「よく見てみな、この女を。
50過ぎたら、どこを見て過ごすつもりだ?」

美佐子は、依然として威厳を保っていた。
軽い笑顔すら浮かべて。
刃向かわないネズミを相手にしても、いじめ甲斐がない、とでも言うように。

孝史は依然おろおろしている。
彼は、美佐子の価値観に従う意外の何物をも、発達させてはいなかった。
あるいはそれら、通常の価値観を全て、退化させてしまった、哀れな男だった。


「ばか、ね」
美佐子は言った。

「あたしのもとから去った男を、幸せにはさせない。」
彼女の脅しには、現実味があった。
なまじ、口先だけの輩とは違う。確かに僕らは、無事では済まないのかもしれない。
しかし、あらがう価値をすでに、僕は見いだしていた。

「やってみやがれ」
僕はそう言うと、手元の机をひっくり返した。
そして出口近くの消化器をひったくると、
それを店内にばらまいた。

もうもうとした消化剤の煙の中、
僕は一目散に逃げた。

逃げながら、彼女に電話し、すぐに此処を逃げ出せるように
準備するように伝えた。

遙か後方で、
消防車の音が聞こえる。

パトカーが数台、僕の脇を慌てふためいて通り過ぎていった。

僕は自分の心を取り戻した痛快さに、
ネオンサインのきらめく街で一人苦笑せざるを得なかった。

夜の街の空気はつめたく
冷え切って、また澄んでいる。

僕はその闇の中を疾走した。

あの女のためか。
僕は再び苦笑した。
笑いが止まらなかった。

僕の脳裏には、さっきから、決して美人とは言えない光の笑顔が、
ちらちらしている。

しかし、世界で唯一、後先見えない自分をそうと知りながら、
好きだと言ってくれた、その優しく、また愚かな笑顔を、

むざむざと見捨てるわけにはいかない気がして、
僕は全速力で夜の街を駆け抜けた。

2008年4月23日水曜日

Spring shower

開け放たれた扉が、主の不在を物語っていた。
女が帰宅したとき、そこに男の姿はなかった。

「マサト」女は呼びかけた。
「どこへ、言ったの?」

しかし、部屋の中から返事がない。
わずかに、男の酸えた臭いが、漂ってくるだけだ。

たった、15分程度の外出だった。
15分前、彼女がここを出るときには、彼はまだ、ここにいた。

それが、今やもぬけの空だ。
彼女は上がり込み、部屋の内部を調べた。
特に変わった様子はない。

書類の散乱は、彼のいつもの癖だった。
それをあきれながらも片付けてあげるのが、
彼女の小さな楽しみになっていた。

「どこへ行ったの?」
女は再び問いかけた。
虚空に問うても、返事はない。
ただ、問いかけるよりいっそうの不安が、彼女を冷たく包むだけだった。

彼女はバスルームを開けた。
そこには、彼女が先ほど出かける前、体を洗った残り香がかすか漂っている。
バスルームの床はまだ塗れていた。

彼女は靴箱を開けた。
彼の、いつも外出の時に履くスニーカーは、依然としてそこにあった。
しかし、よそ行きの革靴はなくなっていた。


彼女は手提げ鞄から、携帯電話を出した。
慣れた仕草で、彼の番号にかけてみる。

誰も、出ない。

暫くして、もう一度かけなおしてみた。

それでも誰も出ない。


そうして何度目かの呼び出しをしている際、彼女は異変に気づいた。

どこかで、電話がバイブしている。

驚いて部屋の奥に戻ると、彼のベットの上で携帯電話が震えていた。
小さな液晶画面には、彼女の名前が表示されている。


彼とのつながりが途切れてしまったことを実感した。

どこに行ったのか、見当も付かなかった。

ほんの数十分前まで、ここにいて、
「行ってらっしゃい」
などと、のんきな顔で言っていた彼が、突然、姿を消したのだ。


彼女は、なすべき事を考えた。
ふと、彼の携帯電話を手に取り、その着信履歴を覗いた。

一番上には、先ほどかけた、彼女の名前があった。
そして、そのすぐ下には、名前の表示されない、番号だけの表示があった。
彼女が家を出て、すぐの着信だった。

彼女は、自分の携帯電話を取り出し、その番号と合致する番号がないかどうか調べた。
しかし、そんな番号の知り合いは彼女にはいなかった。

だれなんだろう。
彼女の不安は募った。

この人が、彼がどこへ言ったか知っているのだろうか。
彼女は訝しんだ。
この番号は、誰だろう。

知らない人との電話で、彼がいきなり家を飛びな出すなんてことは考えられない。

彼女には、彼が意図的に、この番号を登録しなかったのではないかと思われた。

それは明らかに、彼女への発覚を恐れての処置だと思われた。
そうまでして、彼女に隠すべき事実が、彼にはあったということになる。

彼女は、よく知っていると思っていた彼の、
最大の理解者だと信じていた彼の、
全く知らない側面をかいま見てしまった気がして、
その闇のあまりの奥深さに、ふるえがした。

彼女はおそるおそる、その数字の羅列で表記された何者かにカーソルを合わせた。
震える右手は、その操作すら拒んだ。

彼女は目を固く閉じ、2度、深呼吸して気持ちを静めると、
余計なことを勤めて考えないようにしながら
おもむろに、リダイヤルの操作を取った。

トゥルルルル...、

呼び出し音が、規則的に彼に向けて発信された。
しかし、いつまでたっても、その向こうに誰かの声が聞こえてくることはなかった。

トゥルルルル....、

彼女にはこの呼び出し音が、先の見えない濃霧の中で発信される、霧笛のようにも聞こえた。
それは周りにそれを受け取る対象がいない可能性を理解しながら、放たずにはいられない、不安の信号だった。

ガチャ

突如、規則性は破られた。

あ...、
「あのっ..!」

あなたのおかけになったでんわはげんざいつうわすることができません。
おるすばんせ....。

彼女はスピーカーから耳を話した。

突如途切れた緊張により、携帯電話はその手からぼとりと落ちて転がった。

漠として空を見た。頭の中には何も映らなかった。

通話を切るのを忘れていたことに、彼女は暫く気づかなかった。

そうしてしばらく呆然とした後で、
彼女は再び、ひたひたと不安が立ち上ってくるのを感じた。

(不安とは、希望の存在するところに生じる、一種の影だ。
そもそも、何の希望もいだかない人間に、
不安という感情など生じるはずも無い。
絶望的な状況に、少しでも希望を見出そうと努力すればするほど
その人間は不安に苛まれることは、よくあることだ。)

彼には、仕事が午後いっぱいかかりそうとは言ってあった。
しかし、彼女は駅のそばまで着いた時点で、空模様が怪しくなってきたのに気づき、
傘を取るために、家に引き返しただけだったのだ。

実際、彼女が家に着くまでに、ぽつぽつと雨が降り出し、
今、外を見れば、窓硝子は泣き濡れた赤子のように、無数のしずくに濡れている。


彼は...、

彼女は思った。

その瞳は窓ガラスを濡らす無数のしずくたちの盛衰を無為に追いかけている。
彼女は自分がバラバラになったのを感じた。


雨のしずくは次から次へとガラスに付着した。
それは以前についていた水滴と一つになって大きくなった。
それは周りの液滴に出会えば出会うほど膨らんで、
膨らめば膨らむほどより多くの液滴を取り込もうとした。

しかし、ある臨界までその大きさが達した時、
液滴はその自重に耐え切れなくなって、周りの罪の無い多くの液滴を巻き込みながら、
ガラス戸の上から下までを一息に駆け下りた。

液滴の流れた後は、一本の筋となって残った。
こうしてできた幾通りもの筋によって、
彼女と彼女の世界は、斜方形に区切られてゆく。

彼は...、

彼女は思った。


彼は、傘を持って行っただろうか。


傘立には、彼の赤い傘が、入ったままになっていた。
雨を知らない、よく乾いた傘が、玄関から吹き込む湿った風をうけて、
戸惑うように傘地の一端を揺らしている。

あの傘、結局使わなかったんだ。

欲しいって言うから、買ってきてあげたのに。


彼女はそんな些細なことに捉われていた自分に気付き、
自分を弄するように笑った。

笑いは次第に大きくなり
やがて声を出すのを堪えられなくなって

彼女は身をよじって笑った。

おかしくてしょうがなかった。

自分の醜態が、浅はかさが、見事に翻弄された
この恋愛という、柄にも無く真面目腐った思い込みが!

とめどなく涙があふれ、呼吸は乱れた。
息をつく暇も無いほどの笑いの発作の中で、
彼女は突如、涙に咽んだ。

ばか、みたい。
咽びながら彼女は思った。

なにやってんだ、あたし。


そしてふと何か思い当たり、

かつて無いほど皮肉な笑みを浮かべた。
それは一つの破壊的な結論だった。
自虐的な恍惚に、彼女の表情はゆがんでしまっていた。


彼がもう、帰ってこない。

彼女はそれを悟った。

その兆候は以前からあった。

近頃、彼はケイタイでよく誰かと通話していた。

ただし、それが仕事の関係で、不特定多数と話しているのか、
それとも特定の対象であるのかまでは分からずにいた。


今、彼女は彼の通話記録を、過去へ、過去へとさかのぼっている。
先ほどの、彼女の直前にかかってきていた番号は、
頻繁に、時には、彼女の番号より多くリストに現れた。


そういえば、彼が最近ケイタイで話しているとき、
ずいぶん優しい声をしてたっけ。

彼女は微笑んだ。

あんな声を聞いたのは、
つきあって、半年位までだったな。

彼女の脳裏には、そうしたいくつもの、
具体的事実が後から後からわき上がってきた。

それ一つ一つは様々な解釈が可能なもので、
都合よくとらえれば、別けなく握りつぶしてしまえるものだった。

しかし、一つのある決定的な疑惑に取り付かれた今となっては、
それらの具体的事実は、彼女に、一つの結論を突きつけていた。


疑わないことが、優しさだと、思っていたのに。

彼女は思った。
嫉妬心から、彼の携帯をのぞき見するとか、
いちいち通話の相手を訪ねるとか、
そう言うことは、したくなかった。

彼も大人なんだし、いろいろなつきあいはあるだろうが、
その中でも彼女との関係は特別なものと認識して呉れさえいれば、
それでもかまわないと思っていた。

でも。

彼女は再び笑った。
瞳そのものがこぼれ落るかのように、大粒の涙は止めどなくあふれた。


特別なものと認識したがっていたのは、私だけだった。
それは、勝手な思い違いだった。




...ごめんなさい。




彼女は自分が、不思議でならなかった。

しかし、何度も口をついて出たのは、この言葉だった。

どんな怒りも、憎しみの言葉も、胸の奥ではわだかまっていても、
体の表面で、涙にふれたとたん、それは謝罪に変わった。


ごめんなさい.....。ごめんなさい...。


彼女は、誰もいなくなった部屋の真ん中で、対象もないまま謝り続けていた。


開け放たれた玄関からの暖かく湿った風に紛れて、
彼の匂いは、いつの間にか消えてしまっていた。


風の中に、かすかな春の土の匂いを彼女は感じた。


彼女の華奢な手の中では、彼の携帯が、彼が最後に受け取り、
通話した着信の電話番号を、かたくなに画面に表示し続けている。

2008年4月22日火曜日

Kind of blue

札幌午前三時。

僕らが会うのはいつも、その時間だ。
街はすでに寝静まっている。往来する車ももう無い。
しかし、僕らだけは、この死に絶えた街の中で、
二個体の生命として息づき、その過去に失われた交流を果たそうと、
夜の闇に咽いでいる。

君の声が聞こえる。
暗闇の中で、その出所は分からないが、僕はそれを探り当てようとしている。
君の、そんな声は初めて聞いた。あの頃から君は、長い時間の経過を経て、
僕の知らない、女性になっていた。


僕らはかつて一人だった。
僕らはどこへ行くのも一緒だった。
駅前の通り、小さなアーケード。
僕らだけの古いレコードショップ。
喫茶店。お気に入りの雑貨屋。
空の色、花の色、君の唇。
僕のものだった。どれも、これも全て。
君も、それを受け入れていた。全てが、僕のものになり、
同時に、君のものであるという生活を。
僕らはお互いの体すら、共有しつつあった。
それなのに。


また、声がする。
大きく、より深く。君はなにを求めているのか。
この部屋の闇を、臭いを君は嫌っているのか?
しかし、すでに世界は光を失って久しく、
君の努力は虚しく、ただ、声となって、砕け散る。
朝はまだ遠い。

声は、理性の首輪から解き放たれ、すでに自由を手にしていた。
それはもはや、喉を震わせる音に過ぎなくなっていたが。

今君は、一本の楽器でしかない。がらんどうになった胴体を支えて、
君は夜に泣いている。吹き込まれた空気は体の内部を通り、
喉の奥で反響する。君は一本の管。

中空の君に、もとのような充足をもたらすために僕は
君にひたすら風を送り込もうとしている。
君はそれに連れて、やせた喉を震わせている。

しかしそれは、天使の笛の音と言うよりは、地獄の叫びに聞こえる。
天を目指して昇っていくが、果てが見えてしまっている。

やがて、その喉は、絶えきれないほどの圧を掛けられた日には、
はじけて飛んでしまうのだろうか。

しかしその夜、僕には、君は、
そうなることを望んでいるように思えた。


もうダメなのよ、私たち。
久しぶりに出会ったとき、君は言った。
末期、ね。

その言葉を吐き出すとき、その指輪を失った左手は下腹部を軽く押さえていた。
君は以前は吸わなかった、たばこを吸っていた。
化粧もずいぶん、濃くなった。

君は、あの人と出会ってから、変わった。
聴かなかった音楽を好むようになり、
見なかった映画を見るようになり、
知らない言葉を使い、
知らない歌を歌った。
僕らの間では飲んだことのない、
強い琥珀酒も好んで飲んだ。

僕はそれを認めなかった。
君の心が、僕から離れた証拠だと、認めるわけにはいかなかった。
君の、多くの友人関係の中で、君が成長しているだけなのだと思うことで
僕はかろうじて、自分を保っていた。
それなのに。

彼は、君と全てを、新たに共有しつつあった。
君は、彼によって、新たに作り替えられていた。
僕の知っている君は、塗りつぶされようとしていた。
僕は耳を塞いだ。

沈黙の時間の中、再び君は現れた。
そのときも同じように、左手はそうして、優しく下腹部を、支えていた。

結婚することにしたの
君は言った。
あなたにも、祝ってもらいたくて。

私たち、"仲良し"だったでしょ?


より大きく、より深く。圧は高まっていく。
君はこの世界を、僕らを覆う、得体の知れない闇を、
その細身の体で懸命に吸い込もうとしている。
僕は君に風を送り続けている。
君のその闇を、少しでも早く、晴らしてあげるために。
闇はいっそう深くなる。僕らは闇に埋まりそうになる。
その闇から伸びてくる冷たい手を振り払うほどに
僕らは、僕らを見失っていく。

流れたの。
あの赤ちゃん。
君は昼間言っていた。

それから何度か、兆しはあったけど。
君はそこに手を添えていた。
ダメだった。

彼、子供が好きなのよ。
いっぱい作ろうねって。
君はかつて、言っていた。
僕の知っている君が、まだかすかに残っていた頃。

彼、それから浮気し始めたみたい。
数ヶ月もしないうちに、その女に会わされた。
左手に、私に呉れたのと同じ、指輪を付けてた。
そして、その左手は、静かに、おなかを支えてた。
私は...、

午前三時五十九分。
世界が止まる。
鳥が鳴き始める。
世界は目覚め始める。
日の光は、次第に、僕らを追いかけ始めた。

しかし、僕らの闇は晴れない。
太陽が昇っても、僕らは闇をふりほどくことができなかった。
闇の名残を、一身にまとったまま、僕らはまだ、一つの個体であり続けた。

やがて、一瞬の真空が僕らを包み、僕らはつかの間、
春の夢を見た。そして、その甘い花の香りもさめやらぬうちに、
僕らはすでに、また二人の人間に戻っていることに気づいた。
僕らの間にはすでに、届かないほどの暗い裂け目が開き始めていた。

君の中に残した風はまだ君の息を上げていたが、
やがてはそれも消え始める。
そうなれば、僕らは、また、かつての呪いでつながりをたたれた、
二個の生命に戻ってしまうのだ。

僕は、そのことが恐ろしくなり、
現に呼吸を続ける抜け殻のようになった君に体を押しつけた。
体はまだほのかに上気しており、
僕はその中に、君を見いだそうとしたが、
どこまで掘り返しても、君は見つからなかった。

抜け殻の君は、体の上でさまよう僕をしばらくそうして、
なすがままにさせていた。

と、やがて、僕の首筋に、そのすっかり痩せて細くなってしまった、左手を当てた。
そして、ゆっくりと、喉をさすると、心配しないで、とでも言うように
静かに、微笑んだのだ。

朝の光は、開け放たれた窓の隙間から狭い部屋を照らしている。
君の顔は、全体が依然影になっているが、僕に差し出された小さな左手は、
その黎明の青い光を浴びて、失われた彫像の片腕のように、
しなやかな曲線を描いていた。