2008年5月30日金曜日

'Round Midnight

真夜中の車中。車の中に男と女。

車は疾走する。
誰もいない高速道路。アスファルトの上を滑る様に走る銀のセダン。
車中には絶え間なく低音のベース音。

オレンジ色のナトリウムランプに照らされた、助手席の女が運転手の男に話しかけた。
「ねえ、私達、これからどうするの?」

男は答えなかった。

唯、その先に続く道が、ほとんどRの無い緩い曲線を描いていることを知ると、静かにギヤをシフトした。エンジン音が一段と軽やかに上昇する。

「ねえったら。」
女はもう一度、男に語りかけるが、男は依然として答えない。

男は黙り込み、前を見たままだ。自分の行く先に続く、何もない道をひたすらに見つめている。高速に乗ったばかりの頃は何台か見かけた対向車も、ここしばらくは一向に姿を現さない。彼と彼女の前にはオレンジ色に照らされた道が、暗闇にぼんやりと浮かび上がり、遙か視界の彼方まで伸びているだけだった。それは良好なようで、目印もない悪路。ともすれば、自分たちの居場所すら、見失ってしまいそうになるほどの。

女は問いかけるのを止めた。ふてくされたように助手席にもたれかかった。
「...勝手にすればいいわ。」

女はそう、投げやりに誰に向かってでもなく呟いた。


二人は共通の友人の結婚式に招待され、出席した帰りだった。
彼女らはもう付き合って3年になるが、男の側から二人の今後についての示唆を受けたことは、これまで一度もなかった。

彼女は彼と一緒になっても良いと付き合い始めてからずっと思っていた。しかし、彼は一向に彼女に自分の気持ちを明らかにしなかった。

私とは、一緒になる気はないのだろうか。
彼女は最近、そう思い始めていた。

遊びなら、遊びでもいい。
それでも、それならそうと、説明はして欲しい。
彼女の思いは、月日を重ねれば重ねるほど、切実だった。

しかし、その思いは何時になっても彼には届いた様子はなかった。

彼は依然として、そのことについては口をつぐんでいた。
友人の晴れやかな結婚式の後、二人で食事した、小さなレストランのテーブルでも、この静かな車中でも、彼はその話を持ち出してはくれなかった。

車だけが黙々と真夜中の高速道路を北上している。
大きな言葉の欠落を抱えたまま、エンジンだけが雄弁に、この重苦しい沈黙の中、独りよがりな語りを続ける。


街路灯のオレンジ色の光が入る度に、女の黒い瞳に涙が光った。しかし、前ばかりを見つめる男は、それを気遣う様子もない。

女は、サイドウィンドウ越しに流れる街路灯の列を見ている。風景は残像となって、瞳の中に何列もの光の帯を描き、そして、月もない闇にうっすらと消えていく。

「あなたは、いつもそう。」
女はその姿勢のままで呟く。サイドウィンドウに映る半透明の男の影に向かって。

「私のことを、本当にかまってくれたことなんて、今まであった?...いつもそうやって、自分勝手で、都合が悪くなると、黙り込んで...。」

男は何も答えない。半透明に流れる風景を写したまま。
カーステレオは低音を響かせている。遠い昔、交通事故で死んだ天才的ベーシストのはじく弦の音。

「そうやって黙っていれば、そのうち、私の気持ちが収まると思っているんでしょう...。分かってるんだから...。」

男はそれでも答えない。
女の見つめる影の中の男は不敵に微笑んでいるようでもあり、無表情のようでもあったが、いずれにしろ鮮明な像を結ばなかった。後ろの風景を写しながらガラスの中の男は彼女の方ではなく、前の何もない道を見つめ続ける。

女はそれきり、何も言わなくなった。

沈黙のまま、時は流れた。
何時しか曲は切り替わり、トランペットが静かな立ち上がりの曲を演奏し始めた。始めは夜に溶けるように、そしてやがて嘆くように、金管の響きは音色を変えていく。

「...トイレに行きたい。」
女はぽつりと言った。



深夜のパーキングエリアは、まるで忘れられた城のように、赤々とランプに照らされているばかりで、人影はほとんど無かった。広い駐車場の隅で、疲れ果てたトラックが数台寄り集まって眠り続けるばかりで、昼間はあったであろう街の特産品の売り場も、すっかり影を潜めていた。安紙に書かれた昼間の露天のメニューが時折吹く湿った夜風に揺れる。

彼女がトイレから出てくると、彼は先に戻ったらしく自動販売機の前で缶コーヒーを飲んでいた。左手には暗闇の中にたばこの先端の光りが赤く灯っているのが見える。


彼は自分の車の方を向いていたが、それを見ているようではなかった。
そのずっと先の、視界を左右に横切る高速道路の先の高い山々を見ているようだった。
山々はそこへ沈もうとしている月に照らされて、ほのかにその頂を暗闇に浮かび上がらせていた。

彼女は時折深く息着くようにたばこの煙を吐き出す彼に、何か話しかけづらいものを感じて、自分がトイレの前にいるのも忘れて、しばらくそこで彼を見ていた。

そうして、再び吹き始めた夜風の冷たさに、ふと正気に返り、つかつかと彼の前に進み出ると、少し振り向くようにして、

「行くよ。」
と言った。

彼は表情も変えず、たばこを近くの灰皿でもみ消すと、缶コーヒーをあおるように飲み干して、彼女に続いて運転席に戻った。

彼が運転席に座ると、
彼女は彼の腿の辺りに先ほどのタバコの灰のようなものが微かに付いているのが気になった。
暗い中でそれは、白く...、あるいは月光を浴びて銀色に光っているのだった。

彼女は咄嗟に、彼の腿を払った。
銀の雫が、はらはらと落ちた。

彼はその時、一瞬彼女の瞳を確かに見た。
そしてその行為の意味を理解すると、何も言わずに車のキーを回し、高速道路へ戻った。


車に戻っても二人の間に会話は依然としてなかった。

彼女はまた同じようにウィンドウに映る彼の横顔越しに流れゆく暗い風景を見つめていた。

ありがとうって、言えなかったな、あたし。
彼女は考えていた。

昔だったら...、会って最初の頃だったら、ああいう時、待ってもらったから、
ありがとうの一言くらい、反射的に言ったはずなのに。

彼女は、ぶっきらぼうに『いくよ』としか言えなかった自分に後悔していた。

慣れてくると、どうして、この言葉をひとこと言うのに、
こんなにも難しさを感じてしまうんだろう。


彼女の方の窓からは月は見えなかった。
月明かりは常に、彼女の見つめる方向の後ろ側から差し込み、車外の風景を照らした。
屋根のある車の中だけが、ほとんど暗闇になり、計器類を照らす僅かな光り以外、はっきりとした輪郭を持たなかった。

暗闇を運んでいる、一台の車は北に向けて疾走する。


たぶん、期待しているからかな。

彼が私に何かをしてくれる分、
私が彼に、何かをしているって。

彼女は一人考えていた。
男がが何も言ってくれなかったから、彼女は考え続ける以外になかったのだ。


でも...、これで二人の関係が終わるとしたら、
言わなきゃ無いのかな、『ありがとう』って。


突然、暗がりの中で、吹き出したように女が笑った。


ありがとうって、別れの言葉だったんだ。


そして、それで何かが吹っ切れたように、女は前を向いた。男と同じ風景をフロントガラス越しに見つめるために。その顔には微かな笑みすら浮かんでいるようだった。

彼は、私が灰を払ってあげた時、
『ありがとう』って、言わなかった。

彼女はその事実だけが、まだ二人の先に続きがあることの...、
少なくとも彼がまだ、別れを考えていないことの現れであるように思った。

それだけにすがるのも、ばかばかしいけど。
女は口元を抑えて、もう一度微かに笑った。


しかしその表情は夜の闇に取り込まれるように、また、すぐに曇った。


でも...、こんな不確かなものじゃなく...。

黒く濡れた瞳が、男の横顔を覗いた。
その瞳はどこか切実なものを秘め、声にならない声を含んでいた。しかし、自分の弱い部分を見透かされたくなかったので、その瞳を男に覗き返されることは避けたかった。男が視線を僅かにでも彼女の方に動かすと、すぐに視線をフロントに戻してしまった。

男は彼女のその視線を気にしているようだった。何も言わなかったが、無関心な振りをして、彼女の視線を追いかけているようだった。

女はそれに気づいていたが、それでも、あえて視線をそらし続けた。自分に対して何の説明もなく、黙り込んだままの男の意のままにさせたくない気持ちと、視線を合わせたい欲求の中で、揺れ続けた。

「...なんだよ。」
たまりかねたように男は言った。

不意に女が笑った。

「...気持ちわりいな。」

女はそれ以上、戯れるのを止めた。
男もそれ以上何かを口にすることはなかった。

彼女が逃げるのを止めたことに安心したのか、あるいはその小さな戯れ事が急に終わってしまったことに興ざめしてしまったのか、先ほどのような潜むような熱心さは、すっかり失せてしまった。

女はそれでも、言葉にならないながらも、彼がまだ、彼女を気にする素振りを見せたことには満足していた。溜息を吐くようにゆっくりと深い息をした後、椅子にもたれるように深く腰掛けて、女は再びフロントグラスに目を戻した。


道はどこまでも続いている。
ずいぶん家に近づいたようでもあり、更に遠ざかってしまったようでもあった。


この道で合っているのだろうか。

女は、ふと、そんなことを考え始めた。

来る時に通った道のようでもあったが、夜になったためか、元とは違う道を走っているような感覚を彼女は感じていた。

もしかすると、彼は道を間違っているのかも知れない。
でもそれを私に言いそびれて、走り続けているだけなのかも知れない。


彼女が危惧するようにそれは、得てして正しい道を外れているかも知れなかった。男は何も言わなかったので、確かめる術も無かった。二人はどこへ向かおうとしているのか分からなかった。そして、今どこにいるのかさえ、曖昧だった。

それでも彼女は、もはやそんなことは気にしなくなっている自分に気づいた。


夜は、どこまでも続けばいい。
彼女は思った。

人生のどこに、ゴールがあると言うんだろう。

それは、結局どこまでも走り続ける事じゃないんだろうか。

ありがとうを忘れた、二人のまま。


女は一人助手席でそんなことを考えながら、男と同じ加速度の中に身を委ねた。


トランペットが夜に叫んでいる。
エンジンはそれに呼応するように、更に回転数を上げた。


どこへ連れて行くのかな。
女は運転席の彼の横顔を気づかれないように、ちらりと見て、
そして、何かおかしくて、くすくすと笑った。

夜の闇は一層深くなる。
対向車は、まだ来ない。

2008年5月19日月曜日

Defect of originality

「ふふ...。ぼくは....、ぼくは爆弾...なんだ。」

少年は一人つぶやく。ある地方都市、人通りも激しい駅前の中央交差点を前にして。
目の前には大型の電気店、その脇には同様に集客力のある大型書店。信号が赤から青にめまぐるしく変わる度に、人と、車が交互にその交差点を埋め尽くした。

そんな、人混みの中に一人、紛れていた少年。
もうじき夏だというのに、長いコートを着て、髪の毛はしばらく切っていないのか伸び放題。元々パーマ気のある髪は、すっかりぼさぼさになってしまっていた。

コートの下は裸だった。分厚いコートの生地が歩く度に直接に肌をこすれ、少年は常時、こそばゆいような感覚を味わっていた。


目は、前を見すえている。そして、口元だけが笑っている。

「僕は...。僕は爆弾、だぞ.....」

へへ。少年は笑った。

こいつらは知らない。僕が爆弾だって事が。見ろ、あそこの女。世界で一番、おまえが見られているかのように、スカートをまくり上げて、太い尻を半分出して、長い付けまつげを振り回してやがる。もし、此処で、僕が爆弾だって知ったら、どうなるのかなあ。

へへへ。少年は再び笑った。
彼の脳裏には、その怖い物を知らないようにすら見えるきつい目つきの女子高生が、恐れおののいて逃げまどい、そして彼に哀願するように泣き叫ぶ様子が見えていた。

そうさ、僕に、乞うほか無いんだ。どんな、美人も、不細工も、此処にいる、男も、女もぜえんぶ...。

少年の口の端から唾液が出て、その灰色のコートの端に付いたのに、少年は気づく様子はなかった。唯、ひたひたと、道の真ん中を目指して、歩いていく。

月曜日の昼下がり。お昼休みもそろそろ終わる時間となり、人々は昼食を食べていた店を出て、仕事の待つ会社に戻るため、路上にどっと繰り出していた。

一様に陰鬱な雰囲気と、蘇り始めた緊張感に、都市のその一角は包まれていた。人々の目は真っ直ぐにオフィスの自分のデスクの上のいくつか積み重なった書類の山を見すえていた。見つめる方向が、たとえ同じであっても、彼らの見ている物は相互に異なっていた。

少年はその視点の交差する、中心点に向けて歩いているのだった。

グラウンド・ゼロ。
いつかの事件にまねて、彼はその地点をそう呼んでいた。

あの瞬間、全ての、交差する視点が、
あの一点に集中したんだ。

少年はそんなことを考えていた。

見ているようでお互いを見てもいない、この街に、僕は新たな視点の集結点を見出すんだ。

そしてそこに僕がいる。
少年は再び笑った。


少年はその瞬間を想像しては、何度も恍惚を味わった。長い間自分の求めていた物が、今、まさに手の届くような距離にまで近づこうとしている。自らの脚がもどかしい。しかし、そこに早く至ってしまうのも、また、つまらない。

彼の脚は、その二つの相反する思惑に縛られたかのように、すり足ぎみに、じわりじわりと距離を縮めた。

街頭の人通りは一層混雑を増した。地下鉄が着いたのか、駅からどっと人が塊のように出てきた。横断歩道前に立ち並ぶ人の列。いや、群。いろいろな臭いが入り交じり、音も激しく鳴り響いてはいるものの、会話は驚くほど少ない。孤立した群像。

少年もその中にいた。
すでに、彼は目的とする交差点の中央まで、あと少しの距離。

「あと、少しだ....。」

少年がにやりと笑んだ。その時、彼が何のことを考えていたのか、もう知る術はない。

彼が嘗て交際し(彼はそう信じていたが、それは彼の思い過ごしであったようだ)そして、裏切った数人の女性が、この付近で働いていた。彼はその復讐が間近に迫っていることを、喜んでいたのかも知れない。

あるいは、こんな事も関係しているのかも知れない。
彼は、幼い頃から、目立ったところがない少年だった。幼い頃の彼を知るという誰に聞いても、小さい頃はいい子だった、と言う決まり切った言葉しか返ってこない。それは言い換えれば、これと言った印象がなかったと言うことの、裏返しである。

その短い人生で、彼は何度となく、自分が社会から無視されているという感覚を味わってきたのだろう。その多くが、やはり同様に思い過ごしであったことは、事実だが。

実際、彼には、彼のことを考えてくれている友人が数人いた。しかし、少年の側が、その友人達のことを、どの程度考えていたかは疑問が残る。

こうなると、孤独はどちらが作り出したのか、分からない。


いずれにしろ、彼は、人の流れの交差するその点の上に立ち、
右手に起爆装置のスイッチを握ったまま、天を仰いだ。

信号は青。人々は、こちらから、向こうから、彼の前を大勢行き過ぎた。

彼は、その時、天に向けて何事か叫んだ。が、それを正確に聞いた人はいない。

都市に暮らす人々はすでに、こういう輩には慣れていた。
そして、そこから身を守るのは、無関心であることを人々は長い都会暮らしの中で学んでいた。

普通と言う殻に閉じこもった人間と、閉じこめられた人間とが、交差していた。
青信号によって生まれた一時的な雑踏。

だが、それも、これまでだ。
彼は思った。
これを押せば、全てが変わる。

彼は“普通”を破壊しようとしている。
長らく、封じ込めた....。

それを思うと、身体がぞくぞくと震えた。
未知の感動に、彼の恍惚は一気に高まり、そして溢れた。
何かが、どくどくと彼の中から垂れてきて、
内ももをひやりと濡らした....。



彼は微笑んだまま、
右手の中のスイッチを押した。

かちり。

乾いた小さな音を、彼は聞いた気がした。


***


葬祭場は、黒と白とに彩られていた。
好きでもなかった、多くの菊の花に囲まれて、彼の笑った写真が見える。
その笑いはどこか引きつったようで、おそらくは笑えと言われて笑ったんだろうなと見る者に想像させるほど、不自然な笑みだった。

高く掲げられた段の前で、一人泣いている女性がいる。おそらくは彼の母だろうか。
父親の姿は、ここからは見えない。

参列者は数十人。決して多くはない。

しかし、彼の生前感じていたであろう孤独を考えれば、この人数は、むしろ多いと言っていいかも知れない。壇上の彼は相変わらず不自然に笑っている。


「全く、ご不幸なことでありました。」
誰かが、彼の母に弔いの言葉を投げかけた。

「いいえ...。」
母親は言葉に詰まった。

「交通事故、だそうで。あんな人通りの多いところでも、本当に、無責任な運転をする奴が....。」
「ええ...。ほんとに、不幸なことでありまして...。」
母親は答える言葉を持たない。

「ところで...。息子さんは、一体何をなさろうとしていたのでしょう?からだに...。無数の電気コードが巻かれていたとか....。」

遺留品に...。トイレットペーパーの、芯が....?
まあ...。

入り口付近に集まった夫人達の、ひそひそとした会話が聞こえる。

それは確かに、祭壇の前の母と男にも届いたが、母はそれを、努めて聞かないようにしているようだった。その様子を見て、慰問の男も、それ以上、彼女の息子の目的について聞こうとはしなかった。

慰問の男は彼の祭壇に手を合わせると、棺桶の小窓を開けて、その亡骸をのぞき込んだ。

「しかし、奇跡的にとでも言いましょうか、事故でご不幸に会われたにしては安らかな笑顔だ。まるで、こういっては何ですが...、幸せそうな....。さぞ、ご多幸な人生だったので、しょうな....。」

小窓の中の彼は、恍惚に浸った表情で眠っている。
男が、思わず幸せそうだ、と言ったのも無理はなかった。
誰の目にも、写真中の生前の彼より、それは確かに幸せそうに映った。

母親はその彼の亡骸をじっと見つめている。
そして、最後に彼のこうした笑顔を見た日のことを思い出そうと努めたが、それはいずれも、古ぼけた、あまりに幼い日の面影に過ぎなかった。

母は一人、涙に顔を伏せた。

男はそんな母を慰めるように言葉を掛けた。そして、祭壇の彼の遺影に再び目を遣った。

遺影の中に微笑む、引きつった笑顔の彼と、不意に目があった気がした。


男は人知れず、ぶるり、と身震いした。

2008年5月16日金曜日

Kid

少女の手を握った時、男はその小さな指先に、人間の感覚を覚えた。

ああ、俺は、ずいぶん長いこと、この感覚を忘れていた。
男は思った。

最後に触れた手は誰の手だったか。

今のように、必要に迫られて触れた幼い少女の手だったか、それとも、単に、コンビニの店員がおつりを渡す時、多すぎる小銭を落とさないように、そっと添えてくれた左手だったかも知れない。

いずれにしろ、俺は、この人の手の感覚という物を、もうずいぶんと長いこと感じていなかったようだ。
男は少女の小さな手を握りながら、そう感じていた。


思えば、彼は孤独な男だった。

数年前に、付き合った女性と別れたきり、彼は恋愛という物に愛想を尽かした。
それまで抱いていたその希望的な側面を正視できなくなり、その背後につきまとう利害関係と、別れ際の醜さから、彼は恋愛という塊が成長を始めるそばから、それをたたきつぶすように無関心を装い続けて生きてきた。

彼は、人と人が、精神的にある一定以上の距離に近づくことにすら、恐怖を感じていた。
ある一定の距離に近づいた時、人はそれまで見せなかった異なる一面を、彼に見せつけるかのように思われた。生真面目だと思っていた人の、面倒くさがりの側面。寡黙だと思っていた人の饒舌な笑顔。優しさの中の利己的な思惑。全てが、彼を幻滅させた。

人は、距離によって色が変わる。
彼はそう思っていた。

近づけば近づくほど、醜い細部が見えるような気がして、彼は何時しか、人という物に、出来るだけ近づかないようにしている自分に気づいた。いつも一定の距離を開け、そして遠くから人々を眺めた。たとえ話しかけられても、自らの内をさらけ出すことはせず、一歩引いて、その話しにさも関心があるような振りをしていた。

俺は一生、孤独なのかも知れない。
彼はある時からそう考え始めた。

誰にも頼らず、誰にも必要とされないまま、俺は世界の平行線上を生き続けるのだろう。

歴史に残る軸を中心とするなら、それとは一生混じり合うことはないと思っていた。世界のどんな流れも、人生の一般則も、彼に直接関係があるとは思えなかった。
幾つになったら家庭を持ち、子を産み育てる。そんなセオリーですら、彼には無縁だった。
唯、彼だけがいて、彼だけが死ぬ。
それだけのことだと、覚悟、していた。

だからこそ彼は、人に気兼ねなく、自分の好きなスタイルで生きようと決めていた。
週末には歓楽街に出入りし、その場限りの快楽を貪ることもあった。
しかし、将来に対し何を残すこともない彼には、そう言う一時限りの喜びこそ全てであった。
見たこともない未来のために今を捧げるより、今の瞬間を生きることこそが彼の生き方だと信じていた。

しかし、今、彼の連れている、この小さな少女は明らかに彼の力を必要としていた。

少女は涙ぐんだ目で、辺りの、原色もけばけばしい、ネオンを見つめている。

彼はそのいたいけな瞳から、出来るだけこの毒を帯びた陳列物を引き離そうと、その手を強く引いて歩いた。無数の裸婦像が、男を品定めするような女の瞳が、あるいは着飾った男の肖像が、彼と彼女を凝視していた。彼らはその中を、どこか目的地でもあるかのようにせかせかと歩いた。

この場所は彼にとって喜びを得るための場所のはずだった。
しかし、彼が少女の手を握っている今は、息苦しいほどに場違いに感じられた。

「お母さん...。」
少女は時折、思い出したかのようにつぶやく。
立ち並ぶ原色に縁取られた写真の中に、母の面影を見出したようだった。

「違うよ」
男は冷たくも取れるほどさめた声で、その子の言葉を断ち切った。
これが現実であるとは、現実であっても見せたくはなかった。

お母さんは、もっとちゃんとした格好をして、ちゃんとして、君を迎えてくれる。
迎えたがっている。

そう信じたかった。


彼が少女に会ったのは、とある性風俗店の狭い入り組んだ入り口から、外の通りへ出た時だった。

彼はいつもそう言う時、それまでのまやかしの幸福感から、現実の重苦しさと平凡な空気の中にたたき落とされる気持ちがした。全ては用意された夢なのだという、自分の行為の無益な結末を自嘲するような寒々とした心持ちがして、彼の高揚はいつも一気にさめてしまった。

少女はその店の入り口の電飾の派手にきらめく看板をじっと見つめていた。

どこにでもいそうな普通の、年はおそらく小学校の1,2年生だろうか。小さな少女が、目を大きく見開いて、看板に書かれた卑猥な漢字交じりの文言を必死に読もうとしていた。

「どうかしたの」
彼はその不釣り合いな光景にあっけにとられたままに、その少女に声をかけた。

「お母さんがいないの」
少女は言った。
「あたしを置いて、いなくなったの」

彼女の目は、何かを訴えかけるような物でもなければ、哀願することもない目だった。
しかし、その真っ直ぐに彼を見た丸い目は、現実を理解できないながらも必死に考えようとする、少女の駆けめぐるような思考がありありと浮かんでくるほどに切実だった。

「おかあさんが...。」
彼は今し方、自らの一部を差し込んだ、年かさの女をふと思い浮かべた。
そして、この場所と、この子の置かれた状況から、彼の脳裏にはこの子の出生と母に関する、ある一つの仮説が浮かんだ。しかし、それを認めるには、彼にはあまりに情報が少なすぎた。

「お母さん、もし、ひとりになったら、“ありす”って言うところのおじさんに頼りなさいって言ったの」

アリス。その名前には彼も覚えがあった。
この近所にある、バーの名前である。入ったことはなかったが、その前を何度か通りかかったことはあった。この様な歓楽街の中で、そこは比較的静かな場所で、大げさな飲酒に疲れた人々が救いを求めて立ち寄るような枯れた一角だった。

「そうかい」
男は言った。
「おじさんで良かったら、そのお店、知っているけど、連れて行ってあげようか」
男はそう言って、そう言ったことに、すぐに後悔した。
知らないおじさんについて行っていけないと言うことは、どこの親でもまず子に教えることではないか。何より、どうして自分がそんな面倒なことに首を突っ込もうとしているのか分からなかった。余計なことをしてしまった。男は言ってしまってから、そう思った。

少女は案の定、男の顔を見極めるかのようにじっと見ていた。
が、すぐに、その大きな丸い頭をこくりと縦に振った。そして、彼の左手に、その何も知らない小さな右手を預けた。

彼はこうも簡単に、見ず知らずの男に己を託してしまう少女の無知に悲しくなった。出会ったのが俺で良かったという、的外れな自尊心と、どういう教育をしているんだという、知らない親への怒りが同時にこみ上げてきた。
知らない人間に、己を預けてしまう、少女の無知な勇気。こういう場合に特有な、戦慄を帯びた使命感に、男は目が覚める思いがした。とにかく、俺がやらねばならない。男はそう感じた。

浅黒い男の左手に繋がれた、丸い小さな手。
男は、自らの汚らわしさを、急に感じる思いがした。
先ほどの行為の蒸れた匂いが、あるいは体液の香りが、まだ自分の周りに漂っている気がして、少女に対して、申し訳ないような気持ちになった。

何よりこの手はさっきまで....。
男はそこまで考えて、回想するのを止めた。


目的とする、“アリス”は、すぐ見つかった。
5階建ての古いビルの2階の奥に、その店はあった。

見かけ倒しの重厚な扉を開くと、そこはカウンターとテーブル一つしかない、小さなバーだった。カウンターの奥のひな壇に並んだボトルが、一斉に彼の方を見たような気がした。

「いらっしゃい」
髭の生えたマスターは、初老、と形容した方がいいような男に見えた。
髭の中に白いものが見えた。

マスターはグラスを丁寧に拭きながら、確かに、彼の連れた少女を見た。

「あの...。」
威厳のあるマスターに気圧される思いもしたが、男は左手の中の少女に勇気づけられるように言った。
「この子の母親を捜しているんですが...。」

「この子の?母親?」
マスターはグラスを拭く手を止め、額に皺を寄せて、彼を見た。そして少女をいぶかしがるように見た。

「君、名前は?」
「えんどうひかり」
少女は、はきはきと答えた。

「遠藤...。」
マスターは少し考え込むように宙を見上げたが、やがて彼女に視線を戻し、その顔をまじまじと見た。そして、それで何かの合点がいったかのように、頷いて、
「わかったよ。少し、此処で待っていなさい。お母さんはもうじき来るから。」
と言った。

そして男の方を見て、
「お客さんも、申し訳ないが一緒にいてやってくれませんか。この子のために。」
そう言うのだった。

男は、正直、もう自分の役割は済んだと思っていたので、このマスターの言葉は期待していなかった。少女と別れるのは少し寂しかったが、面倒とはそろそろお別れしたかった。

少女を見ると、彼の腰ほどの位置から、真っ直ぐに彼の瞳を見上げていた。
そして、彼の中指を、しっかりと掴んで話そうとしなかった。
自らの身体をぴったりと、彼の脚に沿わせるようにして立っていた。

「わかりましたよ」
男は観念したように、そう言った。

カウンターの一番奥まった位置に腰掛けた。
背の高い椅子には少女を持ち上げて座らせた。

マスターは彼女のために、グラス一杯のオレンジジュースを出した。
そして、彼の所には、柑橘系の香りのするカクテルを出した。
その小さな一杯を少しずつ舐めながら、男と少女は母の帰ってくるのを待った。

始め、店にいた客は彼らだけだったが、時間が経つにつれて、
店には数組の男女が来るようになった。

あら、かわいい。
女達は決まってそう言った。

男達は怪訝そうな顔をしていた。
こんな所に子供を連れてくるなんて。
大方、そう思っているのだろう。男には予想が付いた。普段なら自分が、向こうの立場なのだから。

だれだい、あの子。

一人で来た客の中にはそうマスターに尋ねる者もいた。
おそらくは常連なのだろう。木製ステッキを壁に預け、古い酒を飲んでいた、老紳士風の男だった。マスターが老紳士になにやら耳打ちすると、紳士は、ほう、と感嘆の声を漏らした。しかし、それきり、彼女を一瞥したまま何も言わなくなった。

更に時間が経つと、その老紳士も帰ってしまい、店には彼らの他、誰もいなくなった。
マスターは店の表に出て、表札を『Closed』に換えた。

少女はすでに眠っていた。椅子には背もたれがなかったため、こくりこくりと首をゆらし始めた少女を彼は抱き取って、自分の膝の上に座らせていた。子供の重みと、その暖かさに、子を抱いたことのない彼であったが、なぜか優しい笑みが漏れるのを感じた。あるいは、子供に対する優しさは、全ての人間の奥底にあらかじめ、すり込まれているのかも知れない。男はそんなことを考えながら、すやすやと寝息を立てる少女を支えていた。


女が現れたのはそれから更に数時間ほどした頃だった。すでに夜は明け始めていた。

がらがらとドアのベルが鳴り、駆け込んできた女には、男が予想していたほどの派手さはなかった。むしろ着ている物は質素に感じる程だった。しかし、彼に近づくと、女からは、強い香水の匂いがした。

「ありがとうございます」
慌てて駆けつけたのか、女の息は上がっていた。いつの間にかマスターが、連絡を入れていたのかも知れない。女は、母と言うには、まだ若い年頃のような気がした。男はすっかり眠ってしまった少女を、女に預けた。女は慣れた手つきで、その子を抱き上げた。

「本当にありがとうございます、このお礼は何と言ったらいいか...。」
「いいえ、いいんです」
男は言った。
「私も、滅多にない経験をさせてもらいました」
「お邪魔だったでしょう」
女は言った。美しい眉間にしわを寄せた。

「いいえ、この子はずっといい子でしたよ。」
男は言った。
「ずっと、お母さんのことを待っていました。」

女はそれを聞くと、先ほど男が、抱きかかえていた少女に対して浮かべたのと同じような笑みを浮かべた。そして、

「そうですか...。」
とだけ言って。抱き上げた我が子の背を優しく撫でた。

彼女はその後、二言三言話して、店を出た。
もう二度と、会うこともないんだろうな。彼はそう思った。

彼女の出て行った扉から、明け始めた朝の光が差し込んできた。

「もうこんな時間ですけど」
マスターが言った。
「よろしかったら、もう一杯、どうですか」

ええ、と言って、彼は受けた。名前も知らない、柑橘系のカクテルだった。
さわやかな酸味は、先ほどまで彼女の飲んでいたものと同じ、
オレンジジュースが使われているからかも知れない。

マスターは自分のグラスにも少しばかり、何かの酒を青いボトルから注いだ。
そして宝石色のマドラーで、静かにそれをかき混ぜた。

気がつくと彼もまた、あの母親と同じ笑みをうっすらと浮かべている。
この人は今、誰のことを想っているのだろう。
男は思った。

あの子だろうか。
それとも、彼しか知り得ない、誰かのエピソード。

いずれにしろそれは、幸せな思い出の一つではないかと男には想像できた。
あえてそれを聞く気にはなれなかった。
個人的な幸せは言葉にしても、大して面白く無くなってしまうことは、
痛いほど知っているつもりだったから。

男は先ほどまで彼の膝の上にあった、幼子の暖かさと重さを思い返しながら、
喉に下りていくシトラスイエローの冷たい感覚に酔いしれていた。

ドアの外では、朝を告げる雀の歯切れ良い鳴き声が、
アスファルトの裏通りに響いているのが聞こえる。

2008年5月11日日曜日

In the bowl (5)

僕と君の食卓はいつも、この小さなテーブルの上。

ブラウンの長方形に区切られた
閉鎖的な低い平テーブル。
その空間に並べられた僕らの料理。

生きようとする僕らの浅黒い意思の表れ。
人に絶望したことはあっても自らの命までは捨てきれない人間の。

しかし、僕らの皿にのせられた食事は、
いつもそんな動物的な要求を感じさせないほど優しい色をして
澄ましている。

生血に口を濡らし、肝臓をすする肉食獣と
毒の入った草を平気で毟り喰らう草食獣の間にあって、
僕らの食事はどうして、こんなにも優しいのだろう。

一杯のシチュー。
底の深い、白磁の皿に。鶏肉と、サヤエンドウと、
ちょっと大きめのにんじんとジャガイモ。

僕の切った野菜は、いつもなぜか大きくて、
小さくすれば、切りすぎると言われ、
大きければ大きいと言われ、
一度も、このシチューを褒められたことはない。

もちろん、それは以前の話だが。
今の彼女は、どんな僕の料理も、批評することはない。
ただ、おいしければ笑って、
おいしくなくとも、笑って、
食べてくれる。

それはうれしいことだけれど、
少し申し訳ない気もしている。

優しさは時に、僕らに苦い後味を残す事もある。
特に、純粋すぎる優しさは、甘くないことが多い気がする。
僕は彼女と一緒にいて、時々、その味を感じている。
それは決して、嫌なわけではないのだけれど。


シチューの傍らに
君の作った、ポテトサラダが一鉢。

僕がシチューに使ったジャガイモの余りを手に取ったので、
何を作るのかと思ったら、
案の定、このサラダを作った。


白い皿に並ぶ、二つの白い料理。
僕らを照らす白色灯。青白い冷光。

静かな食卓。
それはいつものこと。
低めにかけたラジオから、
静かな、控えめのメロディが切々と流れている。

静かな食卓に流れるメロディーは、
食事をさしおいて、食卓の空気を決めてしまうと僕は感じている。

上品な曲であれば、それは上品になり、
やかましければ、食べている気がしなくなる。

今、僕らの間に流れてくるこのメロディは、
明らかに、先ほどから、僕の注意をそいでいた。

僕らの食事には、この曲は、
あまりにしんみりしすぎているように感じた。

本来なら、僕は穏やかなトーク・ショーが聞きたい。

何をさしおいても、落ち着いた人の声が一番、食事の場には似合う気がする。

どんないいレストランでも、必ず人の声はするから。

むしろ、人の声を求めて、誰かと一緒に食事をすることがある位だから、
食事と話し声は常に対になる組み合わせなんだと思う。

でも、今の彼女に人の声は、
沈黙以上の苦痛をもたらすだろうとは感じている。
特にその声が周到に練られたものであればあるほど、
彼女の耳鳴りは次第にこめかみを締め付けるような苦痛を伴って
彼女に苦悶の表情を浮かばせてしまう。


だから僕は、ラジオの番組を切り替える代わりに、
僕の空いた左手で、
君の右手を掴むようにしている。

それは、言葉のない僕らの間をつなぐ。
食べるという作業につきまとう孤独を
少しでも癒してくれる、僕らなりの工夫。

利き腕を封じられた不自由な状態で、それでも
その手を払いもせず、左手でシチューを口に運ぶ君。

ぎこちないことには、僕の右手も同じ。
シチューを口に運ぶ度、ぴりぴりとしびれるこの右腕は、何を思っているのか。
口先で微かに震えるその先端の、乳濁したスープのどよめきを、
僕は時々見つめている。

不器用に進行する僕らの食卓。


この手を離すことで生じる、
向かい合っていると言うだけの孤立感が、
僕らには、なんだか、恐ろしい。

そんな恐ろしさの中で食事する位なら、
お互いの繋がっている感覚を保持したまま、
不便な食事を続けたほうが、まだ僕らの気持ちは救われる思いがした。

君と繋がれた左手が、
左手の面積以上の安心感を僕に与えてくれている。

左手から伝わってくる君の体温と皮膚の呼吸が
僕らの沈黙を和らげる。それによって確認する、君の確固とした存在。
これが、幻、ではないことの保証。

今の僕らに必要なのは、お互いに共有できる感覚。
たとえば、この皮膚感覚のように、僕らに残された感覚で、
僕らは僕らが未だ繋がっているという安心感を必要としている。


君は僕の手の下から、一度右手を抜き出すと、
僕の左手の上に、その右手を置き直した。

そして時折、思い出したように、
僕の手をさすりながら、食事を続けた。


言葉にならない不安に
君はいつも怯えている。

本来なら、一言、何か泣き言を発してしまえば、
それはそれで終わってしまうのだが
君はあの日から言葉を捨てている。

いずれにしろ、今の気持ちを素直に表す言葉など、
君には選べないのかも知れない。

あふれ出す言葉全てを吐き出すには、
あまりに細く、弱すぎる、その、喉。

全てを言い尽くす前に、それは灼けて潰れてしまう。
後には、言い尽くせなかったいくつもの思念が、
その胸にわだかまることだろう。


君はそれならばいっそ、黙り込んでいることを選んだのか。


君のしなやかな細い手は、僕の左手の上を、さっきから、
行ったり来たりしている。

その微かな感覚は、君の心の中で渦巻く不安を
象徴しているようにも見えた。

細い腕にかかる、押しつぶされそうな君の思いを
僕は確かに見た気がした。


僕は静かに腰を上げた。

食卓を回り込むように位置を変え、
そして、彼女の隣に座った。

窓を向いて座る彼女に並んで、僕も窓向きに座る。

カウンターに腰掛けた、いつかの二人のように。

あれは何時のことだったろう。
始めて、二人で会った日、だっただろうか。


取り残されて、右腕を失って間もない僕と、
両耳を失った君が、
傷口からの出血も十分に止まっていない状態で、
ぱっくりと開いた赤黒い傷口の深さに自分でも驚きながら、

まやかしのようにアルコールを飲んでいた夜。

それを思い出す。あれはもう、ずいぶん遠い日のことのように感じる。


あの時も今も、身体の側面に、
いつも感じている感覚は、彼女。

もたれかかるでもなく、
頼らないでもなく、彼女の重力が
僕の体の横で微かにふらついているのを、僕は感じている。
それはあのときと同じ。
君はあのときも、僕に頼るとも、頼らないともしなかった。

あやふやな軌道を巡る小さな彗星のように
常に大きな惑星の重力に翻弄されていた君。


僕がこんな窮屈を強いても、
君は何も言わなかった。

低いテーブルの間に、四本の脚を織り込んで、
僕らは二人折り重なるように、上手に体をずらしながら、
滑稽な食事は続いた。

思いの外冷たい彼女の肌。
温かいシチューもまだ、その肌には届いていない。


お互い顔をを合わせるわけでもなく。


窓の向こう。見えないいくつもの星。
地上に残る窓の明り

駅前の高層タワーのライトアップ、
そしてその頂上の衝突防止用の赤い明滅灯。

誰もいない空に、高層タワービルディングは
寂しげに空を見上げる。

月はない。


ここから見えるいくつもの窓の向こうに、
僕らと違った生活が、幾つもあるのだろうか。

あの窓の向こうには幸せが、
この窓の向こうには不幸が、
あちらには家族の肖像、
こちらには孤独の幻影。

いくつもの異なる生活が同じように照らし出す、
窓の明かり。無表情な星。

遠すぎる星の大きさは、僕らには分からない。

でもその中に、こうして並んで
シチューを食べているこの二人のように
失った部分を余った部分で埋め合わせながら、
かろうじてお互いを繋いでいるような、
不器用な恋が、他にもいくつか、あるのだろうか。

僕はそんなことを考えている。


彼女のシチュー皿から時折、かちゃかちゃと音が聞こえる。
僕の皿からも。

飲み込んだシチューのスープが僕らの喉の奥に
温かく流れ込み続ける。

ラジオからは相変わらず、場違いなメロディー。
傍らに感じられる彼女の重みが次第に大きくなってくる。

柔らかな肢体の中の硬質な悲しみ。
あふれ出しそうで、居場所を失った言葉。
行き場のない、その言葉の内圧に
彼女は破裂しそうになっている。

食事をしようと僕らが動く度、
机の上で、コップに入った水が微かに揺れる。

コップの水は揺れながら
それでも零れることは無く、
僕らの目の前で左右に危なげな均衡を保っている。


彼女がちょっと僕の方を見た。

流れるのは場違いなメロディー。
砕けたジャガイモ。なおざりにされたスプーン。
白い液体の上に浮かぶ色彩のオブジェクトは不安げに僕らを見上げる。

コップの水は更に左右に振幅を強めていく....。

ベランダ越しの遠い寂しげな高層ビルディング。
赤い明滅灯。誰もいない空。一様に無表情な幾つもの恋愛の形。

彼女は、隣に座った僕の胸に、その顔を埋めた。

小刻みに震えている、その小さな心臓。

両の手はしがみつくように、
僕のシャツの胸元を掴んでいる。シャツに刻まれる深い皺。
君に向けて流れ出すその陰影。

その爪の先が、奥まで突き刺さるような
痛みを胸に走らせる。

僕のシャツに冷たい感覚がしみ通ってきて
そこからゆっくりと広がっていくのを感じた。

僕は左手で彼女を支えている。
彼女の中から、この何か冷たいものが、
早くみんな出て行ってしまえばいいのにと、僕は思っている。

彼女はまだ震えている。
スプーンはシチュー皿の中で、先端を高く跳ね上げて転がっている。

コップの縁から静かに零れ落ちようとしている、一滴の雫。
それに映るのは逆さまの僕らの肖像。

濡れたグラスの表面を滑るように落ちて、やがてコップの縁を濡らし、
そして見えなくなった。


ごめんなさい。
彼女は言った。

僕の胸に顔を埋めたまま、
その声は僕の胸膜を直接震わせ、
そして心臓を握りしめた。

彼女の重みが僕の胸に全てかかってきているような気がする。
小さな身体にはあまりに重い彼女の
その身体に背負わされた記憶。

赤黒い魂の傷口。


僕は気が遠くなるような感覚を覚えて、思わず宙を見上げた。


人が見せるこうした、
動物的な、
あまりに動物的な仕草が、
人の感情を動かすことがあるのは、なぜなのだろう。

考えてみればくだらない、いくつもの物事。
でもそれは、同時に僕らにとって、あるいは生きることにも直結する、
切実な問題だったりもする。


サラダボールに入れられたままの、
彼女のサラダが目に入る。

そうだった。

君がポテトサラダを作るのは、何日ぶりだっただろう。

近頃はめっきり作る回数が減ってきていたのに、
久しぶりに君はこのサラダを作った。


君の作るポテトサラダにはいつも、
マカロニや、グリーンピースに混じって、
缶詰のミカンが入っている。

白いポテトサラダの中に、ポテトに埋もれるようにしながら
まぶされたミカンの果汁の詰まった水滴のような欠片が、
オレンジ色にちりばめられている。

僕は君と出会うまで、
ポテトサラダに缶詰のミカンが入ることを知らなかった。


...僕はうすうす気づいている。

君がポテトサラダを作るのは、
彼を思い出した時。

缶詰のみかんの入ったポテトサラダは
おそらく、彼の味なのだろう。

以前はこのサラダを、君は本当に良く作っていた。
だから僕は、これが、君と彼との思い出の味なのだと何となく
察していた。


今日君がこれを作り始めた時、
僕は彼のことを考えているのだと思った。

でも、僕にもそれを責める気はない。
僕の今日のシチューだって、
彼女との思い出がないわけではないのだから。

それを思い出さずに作っていたかと言えば、それは大いに疑問だ。

心のどこかで、彼女のことを思い出していた。
そうに違いないのではないかとさえ、思えてくる。


僕は、泣いている君を起こし、涙を拭いた。
そして静かに抱きしめてあげる。

人は、人と生きていると
どうしてこんなにいろいろなことが、
不自由になるのだろう。

もっと子供のように、
全てをありのままに、見つめて、

おもしろいか、おもしろくないか
そのたった二つの価値観で、生きていけたなら、
僕も君も、もっと
このポテトサラダと、シチューの味は
シンプルだと気づいただろうに。


君の掴んだ、僕の胸のあたりは、今もちくちくと痛んでいる。
拭き取った君の涙が、僕の指先で揺れる。

僕は君の顔を、正面で見すえた。
君は涙に濡れた瞳で、僕の目を真っ直ぐに見つめている。

泣いた後の乱れた呼吸が、僕の頬を吹き抜けていく。
嗚咽に揺さぶられる身体。上気した頬の色。

先ほどまでシチューを食べていた君の脣には、
うっすらと脂が浮かんでいる。


そんな表情のまま、君があまりに、真っ直ぐに僕を見るから、
僕は思わず、はにかんでしまった。

キスをしてもいいかとは思ったけれど、
その前に。

その脣を拭いて、
そして、

君の作った
ポテトサラダを。

柑橘系のその香りは
僕らの気持ちを少しでも
前に向かせてくれるだろうから。

先ほどまでびりびりとしびれていた右腕は、
微かに力を取り戻したようにも思える。

僕はその右手で、そっと、彼女の濡れた頬を撫でた。


ポテトサラダは食べないの?
僕がそう聞くと、

彼女は一瞬きょとんとして、
そして笑った。

泣き腫れたまぶたを時折
右手でこすりながら、

君はかつての思い出をその小さな手で装う。

2008年5月9日金曜日

Some, so formulaic (4)

太陽が落ちてから、
世界が本当に夜に浸るまでの、
短い薄明に、彼らは匂いの籠もった巣を這い出し、
おもむろに街に行き交う人々の中に混じる。

光源を無くした世界は、それでも太陽光の間接照明を受けて
薄明かりの中に微睡んでいる。

その時間には、影が消え、かといって、十分な明かりがあるわけでもなく、
深みを増す群青色の空の下、
夜にも昼にも属さない刹那の時間の中で万物が狼狽える。

それは彼らも同じ。
むしろこの混乱する時間にこそ彼らは、
何食わぬ顔をして、街のありふれた一員になることができる。

しかし、今、彼らのいるこの
巨大なアーティファクトの中では、
そんな薄暗がりなど、ほとんど意味をなさないのは事実だ。

現に彼女は暗くなり始めた世界の中でも、なおも明るく輝く、
店頭の楽天的な希望に満ちたショーウィンドウの先の未来を
次々と物色しながら、

灯から灯へ渡り歩く
夜の虫のように、
光を求めてうろついている。

その目は憧れる少女の瞳ではなく
儚むようなうつろな瞳。
届かないものを知ってしまった者の、
あきらめに似た。

店頭の希望に満ちたオブジェをいくつもいくつも眺めた後で、
その下に控えめに飾られた立て札の中の数字を
ちらりと見ずにはいられない
悲しい習性の虫。

希望を希望で終わらせているうちは、まだそれは美しい夢なのに
その数字は、彼らに、具体的事実でもって
その夢の入り口を指し示す。

光ばかりを追うこともないだろうに。
どうして人は、光を求めるのだろう。
光を、むしろ畏怖する彼らでさえ、
こうして夜の灯を渡り歩く。

彼は、彷徨う彼女の手を、付き従う一個の付随体として、
握りしめている。

この掌からこちらは彼、の領域。

この掌から向こうは彼女、の領域。

しかしもう長いこと、そうして繋いでいたので、
彼女の領域が次第に彼の方まで伸びてきて、
同時に彼の領域が彼女の方まで伸びて、
そのオーバーラップした領域から
彼女の生理的反応までもが
伝わってくるような奇妙な感覚に、彼は陥っていた。

手を繋ぎ続けた相手は、あるいは、もうすでに、
自分の体の一部になってしまうのかも知れない。

とすれば、失った物が感じる痛みが
時折、幻肢痛のように私の心を痛めるのも、
それは無理のないことなのかも知れない。

彼はそう思っている。

忘れたはずのささやきが耳元で聞こえる。
彼は思わず目を塞ぐ。

今の感覚を取り戻す。
取り返せない過去の幻のような曖昧なものなどではなく。

右手に触れるのは、彼女の冷たい左手。

嘗てそこには誰かとの約束があったが、
今ではそれも見あたらない。

彼に塗りつぶされた
凛として冷たい彼女の左手。

しかし、どうして、繋ぐのはいつも右手なのか。
それは彼には、今もって分からない。

彼の右手は、すでに、
彼女の一部と同化してしまっている。

これを失うことは...。

あるいは右腕を失うのに等しいのかも知れない。


彼らが身を寄せ合って生きている、
この、何時来ても知らない街のような顔をして迎える、
洗練された人工都市の片隅に、時折吹くのは、冷たいビル風。
人の間を抜けてきたその乾いた風が彼らを徐々に干上がらせていく。

水が、飲みたい。
彼は思う。

しかし、見渡してみても、
喉を潤す泉すら、この街は欠いている。

あらゆる所にはびこる、リスク・ファクターが、
彼らから泉を奪い、安全性の名の下に、
ペットボトル詰めの水を並べさせる。

塞がれた泉はそれでも、この乾いた街の底を
耐えることなく流れているのに、
人はその暗流に見向きもせず、
遠いアルプスの恵まれた土地の泉に口を潤す。

いつか泉はあふれ出す。
あるいは、地面を沈める。

彼は自分が、その時を心の底で待っているようにも感じている。
平常から路線を外れつつある彼らは、
もはや適度の混乱の中でしか、安心して生きられない。

平静の世界は常に無関心のようで、
言いしれぬ興味に満ちた眼差しを彼らに向けて、
そうして舐め回すようにじろじろ見ているような錯覚に、
彼らはいつも苛まれている。

常に付き纏う、その感覚。

それは幸せになるために、選んだ選択だったはずなのに、
結果としてみれば、それを心から満喫する気持ちは起きず、

ただ、街の目を避けて、
彼らの生きるのはいつしか、
こうして夜になった。

彼は、目を恐れている。

いつも目が、その周りにはあって、
あり得ない角度から、視線を送り込んでくるのを感じる。

ある時は正面。
ある時は頭上から。足下から、背中から。

しかし、どうにもやりきれないのが、
その目は、彼の心の中からも、
彼を覗いていると言うことだ。

こればかりは、どこに隠れても、どこに潜んでも逃れられない。


街は、目立とうとするものには冷笑と無視を与えるが、
目立ちたくないと祈るものには、残酷なほどの興味を向ける。

彼は...、
いや、ひょっとすると彼女も、そうした
ほとんど錯覚と言っていいほどの
自意識の嵐に
頭を抱え、
目をつむり
太陽を避け、

しかし、だからといって、
二人離れてしまうことも出来ず (なぜだ?、と彼は自問している)、
むしろ、二人の間に風の吹く
谷間を少しでも埋めようと、
常にどこか繋がっていることを必要としている。

彼には、もうおそらくは会うことのない、友人の声が聞こえる。
では、なぜそうまでしてこの道を選んだのだ、と。


それは...、
彼には答えられない。

あの頃の彼には、確かな結論があった。
しかし、少なくとも
それは今の彼の中では揺らいでしまっており、
結論と言うのが恥ずかしいほどに、根拠のない
妄信と言ってもいいものに変わってしまっている。

それは、それを信じていなければ、今の彼の生き方に、
なんの筋道も見いだせない気がして、その深く暗い泥の中に
埋もれてしまいそうな恐怖を感じるから、
その川に浮かぶ浮き草のような結論に
しがみつかずにはいられない、と言うだけのことだ。

結論という、言葉の形を取らせているのは、
それは常に説明できる形にしないと怖いからだ。

彼は何より、自分自身に対する説明を
常に必要としている。

本当なら、もっと、
素直に生きたい。

彼は思う。

愛すべき人を、何のはばかり無く
愛し、供に笑うことが、
今の彼には何と尊いことに思えるか。

彼女は...、
あんな事のあった後だというのに、彼には、元気を失ってはいないように思える。


あるいは元気にしている振りをしているだけなのかも知れない。
彼女は日に日に痩せてきた。

明らかに分かる。
まだそれほど老け込む年でもないはずなのに、
腕の血管がはっきりと浮き上がっているのに彼は気づいている。

その笑顔を裏打ちするものが、彼女自身も目を背けてしまうほどの
暗い闇であることが、彼の目にははっきりと見えている。

彼女がどんなに笑おうにも、
はしゃごうにも
高い声を上げても
彼は、余計惨めな気持ちになるだけだった。

多くの犠牲を払って得た、彼女との時間を
少しでも満ち足りたものにしようと、
彼らは何度もお互いを確かめ合い、

距離を縮め、
呼吸を縮め、
凍える心臓を摺り合わせるように、
毎夜眠った。


ねえ。
彼女は言う。
真っ暗な、闇に紛れて。
皮膚と温度だけになった存在で。

私たち、今、
幸せかしら。


彼は、すぐには答えられない。

暗い、暗い闇の中。
定かに見えるはずもない彼の瞳を、のぞき込むように見つめている彼女。
それを正面から捉えることが、彼には出来ない。

彼女の目の光だけが、闇に浮かんで見える。
その瞳は至って切実だ。
冗談や、はぐらかしなど通ぜぬ、差し迫った目。
彼女は息を止めている。
息を止めて、答えを待っている。

答える勇気は彼にはない。
彼の舌は乾き始めている。

しかし、意を決して、彼は自虐に満ちた言葉で答える。

「幸せさ。」


彼は思い出している。
昔の私には、もっと言葉があった。

しかし、
今の私に使える言葉は、何と少なくなってしまったことか。

嘘を吐くことすら、造作もないほどの語彙があったはずなのに、
今となっては、こんな見え透いた
言葉を一つ吐くのにも不自由している。

私は君達とともに、
自分自身の言葉も、失ってしまったようだ。

彼はそれ以上の言葉を吐くのが億劫になり、
彼の答えに満足できずに、顔をのぞき込み続ける彼女の脣を、
半ば強引に奪った。

彼女はそれでも、その奪われた脣の奥で、何かを言おうとしているらしかったが
彼の舌は絶え間なく、その言葉を封じた。

やがて、彼女も察したように
静かに、それに従った。


彼は気づき始めている、彼らに用意された言葉はもう無いのだと。


言葉の多くは、理性の産物だ。
理性を裏切り、情に従った彼に
それを弁解する、言葉など
もう、あるはずはないと、
彼は諦めて仕舞った。

先ほどまでのアルコールの香りが、
まだぷんと香っている。

酔っているんだ。
彼はその事実に
勇気づけられるように、
彼女の上に覆い被さる。

彼はそうして、二人が一つの対である感覚を得ようと
彼女に求め続けるのだが、

近づけば近づくほど、
彼らの間に立ちふさがる
皮膚の分厚い壁を
意識せざるを得なかった。

その皮膚を突き破る糸口を探して、
彼の指は、彼女の本来薄いはずの皮膚の上を
いつまでも、虚しく滑った。

彼は思う。
最初の夜より、
彼女は今、確実に遠くなった。


それは、彼らの切実な祈りに反して
流れ去る、二つの流氷のように
次第に大きくクレバスを広げながら
不運にも、異なる海流に乗って離れていこうとしている。

近づこうと、彼らはお互い手を伸ばし続けている。

しかし、いずれは、それにも疲れてしまう日が来るのだろう。

その時、どちらが先に、その伸ばした手を下ろすのか。
彼はその審判が下される日を恐れている。


もし私と出会わなければ、彼女も、君ともっと幸せに暮らせていたかも知れない。
彼は時々考える。彼の、もう会うことのない友人のことを思っている。

でも、考えようによっては、この選択をしたのは彼女でもあるのだから、
我々は同罪者として、同じ法廷に立つべきなのだ。
陪審員として、君達の裁く法廷に。

皮肉な笑みを浮かべながら、
私は自己弁護するだろうな。
彼はそう思うとすでに、皮肉な笑みを浮かべているのに気がつかない。

もはや、空論に過ぎなくなった
私の言葉で。
その時、私に、いくつの言葉が味方してくれるか、
それは定かではないが。


強がりを言うようだが、始めて彼女にあった時、
すぐに恋に落ちたわけではない。

その時私には、
私の女がいたわけだったし、
彼女とはそれなりに、うまくいっていたから。

しかし、
その後、偶然に彼女に再会し、
少しばかり、話をしているうちに

私たちは旧知の知り合いのような馴れ馴れしさを
得てしまったのだ。

彼女の体を知ることには、
不思議と、何の抵抗もなかった。

知り合いの君の、彼女と言うだけなのに
どうしてこうも、気ままなまねが出来たものだろう。
今となっては不思議だ。

魔がさした、そう言ってしまえば、そうかも知れない。
彼女はそれほど魅力的に当時の私の目に映った。
多少痩せてしまったとはいえ、それは今でも、色あせてはいない。

しかし、その一瞬のはずだった出来事が
私達にとって、今の逃れられない日常になってしまっている
この残酷な現実。

おそらくは彼女も、同じ思いだろう。

私達は一時のスリリングな戯れ事を終え、離れた後も...、
離れられなくなった。


そうして...。

私は、いつの間にか、言葉を捨てていた。


彼は懐から一箱のたばこを取り出し、
うつむき加減に、そのうちの一本に火を付けた。
紫煙の向こうに彼の表情が翳る。


今の自分たちに起きている現象を
説明しきれない言葉など、
もはや無意味だと、彼は悟ったのだ。

しかし、罪悪感に苛まれた日には
彼はそれでも言葉にすがろうとした。

この呵責を丸めて表現してくれる、
矮小化してくれる、
言葉の魔力に
彼は再び頭を垂れて懺悔しようとするが、
それは、言葉に、やはり、ならないのだ。

思い通りに行かない交接のようなやるせなさが、
彼の中にわだかまって、
彼はいつもそのような時には、自嘲気味な笑みを浮かべた。


私は言葉を探している。
理性を裏切った私に、
それでも手をさしのべてくれる、
慈愛に満ちた...、悪魔の、呪文を。

たばこの先が、いっそう赤く光る。
煙が、ゆるゆると彼の口からあふれ出していく。


彼女は、まだ見つめている。
ショーウィンドウの向こう側。

ウェディングドレス。

ハネムーン。

リング。

ダイヤモンドは永遠。
空虚な響き。

しかし人は、刹那を生きる。


私であれ、君であれ、
あのときの永遠は、今、どこに行った?


ショーウィンドウの向こう側。

普通の恋人達にとっては当たり前の、
行き着く先にある品々が、

彼らの流される先にある未来には存在するかどうかも、疑わしい事を
おそらく彼女は、彼以上に承知している。

ショーウィンドウのなかで、
マネキンは微笑んでいる。

樹脂の瞳を空に向けて、
口元も涼やかに、
白鑞の腕は腰元。

夢を見続けていれば、
いつかは人も、こうなってしまうのだろうか。
彼女は思っている。

樹脂の動かぬ瞳は
ショーウィンドウの外の、くたびれた二人には目もくれず、
作られた当初に設定された方角を見つめ続ける。

その見つめる先では、一筋の飛行機雲が、
長々と、細い二列の平行線を残して、
やがて、いつもより遠い色をした空に吸い込まれて消えていく。

2008年5月8日木曜日

Crescent drown in glass (3)

僕と君が失った物が、本当に
右腕と、両耳だけであるかは、
考えてみると、疑わしくも思えてくる。

僕らはそれ以上に、何か大切なものを、永久に、
失ってしまったような気がするのだが、
それが何であるかを具体的に見出すことはできずに、
ただ、身体的なこの欠失感を、
あたかも、僕らの、あの時失った物であるかのように
錯覚しているだけなのかも知れない。

少なくとも、僕には利き腕を通して、
君を感じることは今もって出来ていないし、
君が、僕の話に、注意深く耳を傾けてくれることは
期待できない。

何かを失った物同士が、どうして、
吹き溜まる落ち葉のように、街の片隅に
身を寄せ合って暮らしているのか
僕にはまだ、確かな答えは見いだせていない。


君は、冷たいフローリングの床にひたと座り込み、
ベランダ越しに月を見ている。

魂を失った抜け殻のように、月を見上げるその姿は
この世界という呪縛から、自らを抜け駆けさせる術を、
空を巡る月に求めているかのようにすら見える。

僕はこういう時、いつか君に、僕一人、置いて行かれるのではないかという
恐怖を感じる。

君の中に、僕がどれほど認識されているのか、
僕にはまだ、はかり切れていない部分がある。

君にとって、僕が無二だという確証は
未だに僕は得られていないように感じている。

おそらくはどれほど求めても、それは永遠に得られない
幻のような理想なのかも知れないが、
それでも僕は、君との関係を信じるにたる
何かを求めずにはいられずにいる。

世界から、言葉を失った君は、
おそらくは此処に生きているという実感の半分ほどを失ったに等しいのだろう。

小さな頃から、耳が聞こえないならともかくとして、
君は自分の耳を、そこから入ってくる言葉を
もはや信じようとしなくなっている。

言葉を信じない君に
僕は、何を持って、僕を伝えればいいのだろう。

僕の右手は依然しびれに似た感覚を持ったまま
君に優しく触れることも叶わない。

ともすれば、それは粗暴になりそうで、
ともすれば、虚しく空を切るだけに終わりそうで、

いずれにしろ、僕は君に、優しく触れる事すら叶わずにいる。

どう触れようにも、僕の頭には
過去の傷口から、浸みるような痛みが、
右腕で君を触れる度に蘇ってきて、

そうしてそれは、いつまでも、僕の中にうずいている。

君もそれは同じなのだろう。

僕のささやく言葉を聞く度に、
君は青ざめた顔をして、
そしてやがて、我慢ができなくなったように、
そっと僕の口に、君の人差し指を当てる。

言葉がむしろ僕らの気持ちを虐げてしまうとでも言うように、
君は言葉を遠ざけようとする。

僕は夜になり、
失った感覚以上に、光まで失う時間になると、
君を見失う恐怖が、よりいっそうに強くなるのを感じる。

こうして、ぼんやりと月を見上げている君は
僕からすでに、遠くへ行ってしまった存在のようにも思える。


開け放たれた窓から、
湿った夜風が吹き込んできた。

窓のカーテンが内向きに揺れる。

君はまだ、月を見ている。

手には両手で抱えるようにして
小さなグラス。

食事の終わった後の、一杯の水。
すでにそこに注がれた時の温度を離れ、
君の掌の冷たさに染まっている。

口を付けて、半分ほどにまで減った水は
頭上の弦月の光を受けて、
かつての海原を思い起こしたかのように、
前後にさざめく。

その一向に落ち着かない水面に、月の光と、
君の面影が揺れている。


遠くで、誰かが歌っている。

と、思うとそれは、君の歌だった。


君は、小さな声で歌っている。

僕も知らない歌を。

それは幼い日の、思い出の歌なのか。
それとも...。

いずれにしろ、まだ彼女に、今より素直な聴力のあった時代、
それは彼女の脳裏に刻まれた、今となってはかけがえのない音の記憶。

君は小さな声で歌っている。
かすれて消えてしまいそうな小さな声で。
ともすれば夜の闇に紛れてしまう、
その微かな歌声は、それでも
僕の耳に静かに流れて来る。


君は、何に向けて、歌っているのか。

この空の月か。
傷つくことを知らなかった、かつての君か。
それとも、この歌を教えてくれた、また別の誰か。

おそらくは君自身にも、君の歌は届いていない。
それは君から発せられ、誰にも届かず消えていくため息。

暗くなり始めた蛍光灯の下で
君はまだ冷たい床に座り込んだまま、
月を見上げ歌っている。

小さな肩が、震えているようにも見える。
恐ろしいほど小さな背中に
酷いほどの暗い夜が背負わされているのを感じる。

君はつぶれそうになっている。

その二本の脚で、明日も、立ち上がることができるのだろうか。
それすら、今の僕には疑わしい。

いつか、君はその脚までも、
夜の重さに砕いてしまうのではないだろうか。


夜の光が、君の頬を照らす。
君はいつしか歌うことを止めた。

しかし、依然として、月の返事を待つかのように、
彼女はじっと瞳を夜空に向けている。

グラスの中に、小さな波紋が立った。

同心円状に立つ波紋は
その中心に落ちた雫の
疑うべくもない一列の名残。

波紋はやがて重なり合い、
幾重にも連なって、
そうしてコップの縁へ
吸い込まれるように消えていく。


君は身じろぎもせず、月を見上げている。

収まる気配のない波紋の列は、
君と月の横顔を絶えず乱し続けた。

君の嗚咽が聞こえる。
それすら、夜の闇には
あまりに弱く儚いものだ。

月は気づかない。
僕らが、月に泣いていることすら。
この暗い闇の中で、何を、見ればいいのか。
彼自身は、あんなにも明るく、輝いているのだから。

僕は、月を見上げる彼女から、
そのグラスをそっと奪うと、

残った水を静かに飲み干した。

口の中を潤すのは
冷え切った彼女の温度。

もはや、凍えているとしか、
形容のしようがないほどの
その冷たい感覚で、僕の喉が濡れていく。

先ほどまで月を見上げていた色の未だ褪せていない彼女に
彼女の温度に濡れた舌で、できる限りの僕を、伝えた。

失った右腕はしびれて、うずくような痛みを
僕の神経に訴え続けた。

君の聴覚を襲う耳鳴りが
僕の耳にも
遠く届いてくるような、気がした。


傍らに打ち捨てられたグラスは
更に冴え冴えと輝き始めた弦月の冷光を浴びて、
青白い光に砕けている。

2008年5月6日火曜日

Phantom calling (2)

その喫茶店は、小高い丘の始まるちょうど手前に広がった、
林立するポプラの木の向こうに、隠れるように建っていた。

一見すると作業後屋のようで、
しかし別な面から見るとしっかりと土塀も塗ってあり、
木製の表札が慎ましやかに、その屋根の下を飾っている。

近づくとコーヒーの香りが様々に僕らの脳裏を刺激し、
幻想と恍惚とが入り交じったその、魔力のような匂いの中で、
僕らは体を無くした二つの霊魂のように寄る辺なく、
吸い寄せられるように入り口をまたいだ。

立ち寄った時間のためなのか、
人影はまばらで、
そうした喫茶店が常にそうであるように
店内も、テラスも、
適度な無関心と沈黙とに満ちていた。

足踏みするようなピアノ曲が、静かに流れている。
鍵と鍵の間に時々聞こえる、内に篭もる様なウッドベースの低いリズム。

大きな窓から突き刺さる、十分な太陽光線。
薄い黄色を帯びた窓のガラスのおかげで、それからは憑き物の、
棘のように鋭く網膜と精神を焦がす、青色系の光が失われ、
穏やかな丸みを帯びた暖色のささやきが踊っている。

翳るようなテンポを刻むのは、おそらくは穂先のような
スティックを操るドラムス。


年輪の見える大樹の輪切りのテーブル。
切り口に厚く塗られたニスはなめらかに磨き上げられ、
窓硝子から差し込んでくる光を
鈍く反射している。

室内に満ちる、木の香り。
呼吸。

ベージュ色をした空気が、長らく息つくことを忘れていた僕らを、
当然のような顔をして、迎えてくれた。

いらっしゃいませ。

まだ若いマスターの、
落ち着ききらない声。

だが、彼の横顔には、日に焼けた農家の青年のような
空と大地とを相手に生きる人間特有の古木を感じさせる風格が、
すでに現れ始めている。


僕らはその屋内を通り、涼やかな高原の風の吹くテラスに出て、
外の空気を吸いながら、
ポプラの梢の揺れる音を聞いた。

そこは、家と同じ木材を四方に組み合わせて作られた、テラスだった。
来る時に見た並木のちょうど影になり、
梢に遮られた光が、
僕らの机の上で楽しげに揺れた。

人語を遠ざける君にも、
あるいは人語を遠ざけているからこそ、
こうした自然のささやきには敏感であるのか、

君は見るからに色めきだった瞳のまま、
何もなくなってしまった空に吹く
一陣の風を見遣った。

そうしてふと、我に返ったように僕を見て、
その先ほどの輝きのさめやらぬ眼差しを
惜しげもなく僕に送った。

口角を横に引き延ばし、
口元だけが、ほとばしるように笑みを浮かべていた。

その少女のような、縛られることなく、愉悦する表情の上を
ポプラ並木を吹き抜ける風は、もう一度、からかうように滑っていった。


その喫茶店のメニューには
店長のこだわりだという、様々な名前も知らない国の、コーヒーが並んでいて、
僕らのもとに水を持って生きた店員は、その膨大な羅列を提示しながら、
どれになさいますかと、聞いた。

この様な喫茶店に来ておいて、
それは滑稽にすら思われるほど、矛盾することではあるのだが、
僕も、君も、
コーヒーという飲み物には、実は正直疲れていた。

それは、恋愛という現場の、実に様々なところに現れ、
その都度、涙も、一人芝居も、見てきたはずなのに、
いつも知らない顔をして
白いカップに収まっている。
ポーカーフェイスの悪党のように、その香りは官能的なのに、
いつもその熱を忘れさせるほど涼しげに、僕らの前に現れる。

そうしてそれは口に含む度、
ぬか喜びと一人芝居と、
涙の複雑な味を僕らに鮮やかに想起させる。

僕らはもう、コーヒーをコーヒーとしては味わえなくなってしまっている。

それは純粋に味わうには、あまりに、知りすぎた味なのだ。

だから、コーヒーを出す店にいながら、
僕らはその事実を避けていた。

でも、この店には、コーヒーの他にはアクリルのコップに入った水位しか、
出す物がなさそうだった。

僕らはそれで、折衷案として、
できるだけ、僕らの知らない国のコーヒーを頼んだ。

中南米のありふれた名前のコーヒーでは
僕らは正直怖かったのだ。

やがて銀の盆にのせられ、
いそいそと僕らの前に、
そのコーヒーは運ばれてきた。

東アジアの
コーヒーの飲み方をおそらく覚えたばかりの国の
旧植民地のコーヒー。

それはコーヒー栽培の後進国でありながら、
育ってしまえば同じ植物のようで、
幾分かの香りと味の違いはある物の、
やはり暗い褐色のポーカーフェイスの飲み物には相違なかった。

苦いコーヒーを飲みながら、
時々、舌を洗うように飲み込む
アクリルグラスに水を一口。

さほど冷たくはない、しかし、体温を適度に下げる
15℃の感覚。

その温度の精妙さに、僕が思わず微かに独り微笑むと、
同じように微笑む君に目が合って、
僕らは小さな机にコーヒーを挟んで、
二人、声を立てずに、笑った。

高原には、何もなかった。

収穫の季節でも、種まきの季節でもないこの初夏の一時期には、
そこは人影もなければ、
土を耕すトラクターの音もない。
風の潤す沈黙が広大に広がっている。

夏のこの一時期、
高原の主役は、この一陣の風なのだ。

彼らだけが、
この大地の起伏に沿って低く広がった緑の中で、いつも絶え間なく動き、
ジャガイモのつぼみを揺らし、
そばの花に陰るような笑顔をもたらす。

そして、温度から温度へと、彼らは熱を運ぶ。


僕らの上を吹きすぎた風が、そのまま
小高い丘を吹き上げて、
広いそば畑を揺らしていく様子を
僕らは木陰のテラスにいながらありありと
見て取ることができた。

自分たちと、世界との間に、なんの垣根も存在しないことを
風は嘲笑うように、
何度も、何度も、そうした悪戯のような行為を、僕らに見せてくれるのだった。

ついつい、二人の閉鎖的な世界にこもりがちの、
恋愛という視野狭窄に陥り、
それから立ち直る術を模索し切れていないまま、
新たな恋愛に戸惑っていた僕らにとって、
この風の無邪気としか言いようのない悪戯は
僕らに世界の広さを思い出させてくれるのに十分すぎるほどの微笑みを作った。

いつしか、一杯のコーヒーも底をつき、
そうして、しばらくの時間が、また重ねられて過ぎていった。

こうしている僕らの間に、いつも不思議なほど、言葉はない。
それは、言うまでもなく、
上っ面だけの見え透いた言葉に
全てが言い表されてしまうむなしさを
味わい尽くした、君であったから。

表現すると言うことは、
表現できなかった、他の多くの思い出を
全て捨て去る作業であるという
その悲しさに、
僕らはもう、絶えきれずにいたから。

僕らはもう、時々発作的に浮かんでくる、
二人の間の微笑み以外に、
必要とする交流を、
持てずにいる。

吹き抜ける風は、
その不自由に縛られた僕らの上を、
何不自由なく駆け抜けていく。

温度から、温度へと、
彼は単純な、
しかし、深遠な法則に従って
ありのままに、熱を伝える。


一杯のコーヒーと風の悪戯と
高原の気候と、そうして、音もなく降り積もる
ひとときの時間の中で、

風に揺れる抜け殻のような僕らはそれでも充足した何かを感じている。

それはあるいは、二人顔を見せつけ合って、
語り合うより雄弁に
二人の距離を確実に、近づけてくれているように想っている。

長い沈黙の中で、
それぞれの中に篭もり始めた行方を知らない小さな熱は
時々吹き抜ける小さな風を
僕らの間に必要とした。

それが、二言三言の、小さな言葉になり
そして、ため息になり、
時折、零れ出るような微笑みに変わる。

そうして、乾き始めたコーヒーカップを見ながら、
僕らは二人の何か大きなものが欠落した時間を静かに満たしていく。

耳鳴りも手のしびれも、依然として僕らの深い所に
巣くってはいたが、
失った物をぎこちなく補いながら
それでも残った方の手で、
残された感覚で、
僕らは僕らの時間を刻むのだ、

僕は左手で彼女の手を取った。
そして彼女が振り向くのを待って、一言、

もう、行こうか、
と言った。

君は、僕の目を見ると、
僕の左手に空いた方の手をのせて、包み込むようにしながら
微かに笑って、

小さく、頷いた。

2008年5月4日日曜日

Phantom pain (1)

君は、いつも僕の右手と、
君の左手を、繋ごうとした。

でも、どうして、いつも右手だったんだ?

君が、あんまり、僕の右手にばかり、
君の思い出を残すものだから、

君と別れたあの日から、
僕の右腕は、永遠に、
僕から失われてしまった。


今、僕は、彼女と並んで、電車を待っている。
地方鉄道の列車は、
客を乗せることを放棄したように、
思い出したようにしか、僕らの前を通り過ぎない。

その、時折通り過ぎる、
そして僕らには目もくれず、全速力で通り過ぎる
いくつもの、快速列車と、特急列車を見送りながら、

僕と彼女は初夏の日差しの中、
駅に張り出した庇の薄暗い影で、
未だ来ない、各駅停車を待つ。


この土地に画に描いたような田園風景を
期待していた君は、
その意外に商業的で、
何台もの観光バスが行き来する“ファーム”の入り口に、
辟易していた様子だった。

そして、そうした現実的な人足の羅列に背を向けて、
誰もいない方へ、いない方へと、
二人並んで、田園を横切る、舗装された広い農道の片側を
とろとろと歩いた。

幸い、僕らの目指す、
その一軒の喫茶店は、そうした、駅近くの商業的ファーム群から
さらに離れた場所にあった。

目的地周辺の、人影もまばらな静かな佇まいに、
僕らは今まで胸を縛り付けていた何かが、
僅かにゆるんだように感じて、ほっと安堵した。

あたりには唯、見渡す限り、そばの白い花だけが揺れている。

もし、死後の世界という物があるとしたら、
きっとこういう世界だろうと、僕は内心思わずにはいられなかった。

その彼岸の国のような静かな大地を、僕と彼女は手を繋いだまま
歩き続けた。

低すぎる人口密度は、人を不安に感じさせる物らしい。
都会の高密度な生活を嫌っていながらも、
その中で毎日を送ってきた僕らにとって、
この、見渡す限りの視界にほとんど人影の見られない世界は
僕らを次第に、そうした不安に陥れた。


君は寂しくなると決まって、
僕の右腕に、手を伸ばす。

そして僅かな力で、僕の右掌に、それを密着させる。
小さなひんやりとした、その左手。

でも、その感覚は、実際には
僕の心に、もはやなんの感情も、
蘇らせてはくれない。

僕の右腕はすでに失われているのだ。

以前付き合った彼女と、突如として、別れた、
あの日から。

今、君が、いくら、その形の良い手を
僕の掌にすりあわせたとしても、
また、僕がどれだけ、この右腕で君を求めたとしても、
その感覚は、僅かなしびれに似た感覚を僕にもたらすだけで、
本来それに伴うはずの、精神の高揚と安心感すら、
僕には一切、わき上がっては来ないのだ。

君はそれを知っているはずだ。
しかし、君はそれでも、僕の右腕に、手を繋ぎ続ける。

それが、一つのリハビリであるかのように。

あるいは....、

それはあるいは、以前の彼女、に対する、
ささやかな挑戦、なのか?


いずれにしろ、僕の希望とは裏腹に、
僕の右腕は、まだ、君の手の感触に対する素直な感動を
僕に伝えては呉れない。

ただ、しびれに似た冷たさだけが、僕の感覚神経を逆なでしている。


左手に繋げば、まだ、もう少しは僕に、
切実にそれは訴えてはくれるだろうに、
君にいくら言っても、それを聞き入れてはくれない。

その理由を僕は、知らないわけではない。

僕が右腕を失ったのと同じように、
君は、二つの耳を失っていたから。

そんな君に、もとより僕の言葉など、
届くはずがないのだ。


以前付き合った彼は、
とても話のうまい、男だった。

口先だけでなく、実際にも品行が良く、
その時々に漏らす一言一言の言葉の中に
君はまだ見ぬ人生の一端を、
一つの視点を見出して、

その小さな啓蒙の一つ一つに
何も知らない、幼い君は酔いしれた。

なんて、賢い人なのだろう。
年上の彼への憧れと、恋の狭間に、垣根を作ることを知らなかった君は
その憧れを、恋と思いこむ日々を重ねた結果、
それはいつしか、本当に、恋に変わっていた。

彼との時間の密度が増し、
その言葉を、もっと間近に聞くようになって、
君はますます、その一言一言に酔いしれた。

見る世界が変わり、
考えが変わり、
陽気な君に落ち着きが加わり、
笑顔の中に、微かな悲哀が混じった。

君は明らかに、子供から、一人の大人の女性へと
彼の言葉を浴びながら、脱皮しようとしていた。

僕が始めて君と出会ったのはその頃だった。
彼が紹介してくれた君は、
すでに彼の言葉の渦にしっかと飲み込まれていた。

おそらくはその時が、君が僕の以前の彼女と出会った最初だったはずだ。
君はどういう感想を抱いただろう。

それを聞こうにも、君には僕の声は聞こえないのだから、
きっとそれは、不可能なことなのだろうけど。

君が別れたのは、それからさほど日にちの経過しない、
ある日のことだったと記憶している。

品行方正を是とし、そこから生み出される言葉を君に浴びせかけていた彼の
突然の脱走。

相手の女性は、僕の“知り合い”だった。
だから、僕はよく知っている。

それは、僕の失われた右腕の最後の感覚として、
今も、夜ごとに蘇る、幻肢痛でもある。

ともかくも、
僕は、右腕を失い、
君は耳を失ったまま、取り残された。

彼の甘く、深い言葉を浴びすぎ、
心酔したあげく、それに混じった毒素にやられた君は、
もはや、誰の言葉も、
聞き入れることはなくなった。

ただ、うつろな笑顔で、
僕の話にも、空回りのような相づちを打っているだけだ。

そうして、時折ぼんやりと外を見ては、
何もない空間の中に
何かを見つけていた。

君の目は、やられていないはずだった。
だから、おそらくあれは、ぼんやりと何かを見ていたと言うよりは
時々聴覚を乱す耳鳴りに、
君なりの対処法で答えていただけなのかも知れない。

何かの、ほんの小さな助詞の一句にでも、
君は彼からすり込まれた、
長く、甘い警句を思い出し、
その幻聴のもたらすしびれに
君も立ち向かっていたに違いない。

僕の言葉など、君に届くはずもなかった。
ありふれた大衆品のような僕の言葉とは違い、
彼の言葉は研ぎ澄まされていた。

そんな洗練された言葉を、毎日のように浴び続けた君には
粗悪な僕の言葉などに、反応する神経は、もはや残っていないのだろう。

純度の高い言葉は
まるで麻薬のように、僕らの神経を冒す。

君の時折見せるあのおぼろげな笑顔は、
その禁断症状に疲れた
あきらめの表情なのだろうか。

言葉が氾濫する時代の中で、
明らかに君は疲れていた。
その疲れた精神を休ませるのは
誰もいない、人語のない、
遠く、広い、田園のはずだった。