2008年6月28日土曜日

お姉さんになる日

「ねえ、先生。」
放課後、教室に残って先日の課題の添削をしていた私のもとへ、クラスの女子児童の一人がやってきた。
「なんだい?」
私は答案から目を外し、少女の顔を見ていった。少女はまん丸い目を更に円くして言った。

「お母さんが妊娠したの。」
私はどきりとした。少女の口から妊娠という言葉が飛び出すとは予測していなかった。
「ほんとかい。」努めて冷静に私は言った。「じゃあ、お姉さんになるんだね。」
「お姉さん?私が?」少女の円い瞳が喜々と輝いた。「私、お姉さんって呼ばれるの?」
「そうだよ。」私は微笑んで答えた。「もっと、お姉さんらしくしないと、赤ちゃんに笑われるぞ。」
「お姉さん、お姉さん。」少女はうれしそうに何度も繰り返した。
「お姉さんなんだ、ちいさい私が。」
「小さくても、お姉さんはお姉さんさ。」私は笑った。
「そうだよね。」少女は言った。「赤ちゃんは私よりきっと小さいもの。」
少女はその場で意味もなく、くるくると回った。うれしさが彼女をそうさせるようだった。
「先生は、赤ちゃん見たことある?」
「そりゃあるよ。」
「小さいよねえ。」少女は両の手を、赤ちゃんくらいの大きさに開いた。「おててなんかも、こんなに小さい」彼女の指をすぼめるようにして表した。「私見たことあるんだ、ケン君が家に来た時。」
「ケン君?」
「ケン君。お母さんのお兄さんの子供。」
「それはいとこって言うんだよ。」
「そう、いとこ。」少女は真面目な顔で言った。「ケン君とっても小さいの。」そう言うとまた両手でケン君の大きさを表した。「もうすぐケン君みたいな赤ちゃんが生まれるんだもんね。...先生、名前はどうしよう。」
「それは、お父さんお母さんが考えてくれるさ。」私は笑った。「君が心配しなくても、良いことだよ。」
少女は真っ直ぐに私を見ていった。「でも、家、お父さんいないよ。」不思議そうに首をかしげた。「じゃあ、お母さんが考えるのかな。」

私ははっとした。
少女の家庭は母子家庭だった。父親は存在しなかったのだ。
私は言葉を失った。
「先生、先生。」少女は不思議そうな顔で私を見ている。
「どうしたの先生。」
「ああ...、なんでもないよ。」私は努めて微笑んだ。「お母さん、うれしそうだった?」
少女は頷いた。
「うん。笑ってた。...でも。」
「でも?」私は聞き返した。
「でも、お母さん私に聞いたんだ。妹か、弟ほしくない?って。」
「なんて答えたの?」
「もちろんほしいって。」少女は自身の胸の内を表すように、体をきゅっと縮めた。「いもうとがいいなって。男の子って、すぐに散らかすでしょ。私、ご飯作って上げるんだ、サヤちゃんに。」
「サヤちゃん?それって、妹の名前?」
「そう。お名前。」少女はにかりと歯を見せて笑った。「私のサヤちゃん。」
「なんだ、もう勝手に決めてるんじゃないか。」私も笑った。
えへへ。少女は少し恥ずかしそうに身をくねらせた。

「おかあさん、結婚するの?」
私は努めて柔和な表情で彼女に問いかけた。

少女はきょとんとしていた。
「何で?」
「なら、いいんだ。」私は苦笑いした。「なんでもないんだよ。」
「変な先生。」少女は首をかしげた。「先生、お母さんと結婚したいんでしょ。」
「ち、違うよ!」私は今考えると不自然なほど慌てて否定した。
「だって、じゃあ何でお母さんが結婚するかどうかなんて聞くの?」少女が意地悪そうに笑った。「好きなんだ。ミワちゃんが、たっくんと結婚する時も、そうだったもん。」
私は苦笑した。
「先生は、お母さんが、もっと幸せになったらいいなと、思っただけだよ。」私はそう弁解した。
「ふーん。」少女は不思議そうに言った。「お父さんになくても、幸せだけどな。わたし。」そう言って首をかしげていた。

少女はしばらく話した後、生まれたら私にサヤちゃんを見せてくれる約束をして、手を振って帰って行った。

私は少女が帰ってからも、なかなか仕事に手が着かなかった。
そうしているうちに、上級生の担任をしている2つ上の彼女が来たので、その話しをすると、彼女は笑っていた。
「保護者の家庭の事情を詮索しなくても良いじゃない。」
「でも、担任としては、子供の家庭の様子くらい把握してないと...。」
「言わなくても、向こうからやってくるわ。」彼女はあきれていた。「知らせる必要のあることなら。」
私は返す言葉がなかったので、そのまま黙っていた。
彼女も私の脇に突っ立って、しばらく黙っていたが、やがて、
「サヤちゃんって、名前もいいかもね。」そう言って、教室を出て行った。

私は答案の丸付けを再開しようと赤ペンを持ったが、彼女の置いていった言葉の真意にそこでようやく気がついて、廊下の向こうに小さくみえる後ろ姿を慌てて追いかけた。

2008年6月26日木曜日

吠える犬

「俺、鹿児島に両親がいるんだ。」男は言った。
両軍の衝突から3日続いた戦闘は、彼の表情から少年じみたふくよかな頬をすっかり奪い去っていた。落ちくぼんだ眼下の奥から、緊張と恐怖の渦巻いた目が、ぎらぎらと光っていた。
「それでも戦わなくちゃ行けないのかな」
「まだ迷っているのか。」年上の男があきれたように言った。
「君は志願して、この隊に入ったはずじゃないか。それでもまだ...。」
「確かに、志願はしたさ。」若い男は声を荒げた。
「でもそれは、名目上だ。実際には...。」
「周りが、一斉に志願したから。」
部屋の奥で聞いていた、細身の女性兵士がぼそりと呟いた。黒い大きなライフル銃を丁寧に磨いている。
「あなたらしいわね。何時までも子供なんだから。」男の方を見もせずに女は言った。
「...お前はどうなんだよ。」子供と言われた若い兵士は不平そうに問い返した。
「あたし?あたしは...。」女性兵士はふと、微笑んだ。
「どこでもよかったわ。この子と一緒にいられれば。」そう言って、ライフル銃の銃身に軽く口付けた。
「気が狂ってる。」若い兵士はいぶかしがるように女を見た。
「お互い様。」女性兵士はまだうっとりと、黒い銃身を見つめていた。
「じゃあお前は、」二人のやりとりを黙って聞いていた、年上の兵士が口を開いた。
「その銃とさえいられれば、敵方にでも付いた、と言うことか。」
女はその言葉に、きょとんとして、男の方を見た。黒い大きな瞳だった。
「ええ。もちろん。」女は質問されたことすら意外と言った様子だった。
「考えられない。もう、この子と離ればなれになるなんて。向こうの軍じゃ、正規兵しか、こんな立派なスナイピング銃、使わせてくれないでしょう?流れ者は何時までも流れ者扱いよ。能力があってもなくても。」そう言うと、愛おしげに銃身を撫でた。
「だからこっちの軍に入ったの。」
「恐ろしい。こいつには政治の欠片もないのか。」若い男がうんざりした様子で言った。
「イデオロギーだの正義だの、正当性だの大儀だの、この女には一切関係ない。」
「はは、くだらない。」女は軽くあしらった。「だから何時までも坊やなのよ。」
「なにを!」若い兵士は立ち上がった。挑みかかろうとする彼を止めたのは年上の兵士だった。
「まあ、待て。」彼は言った。「勝てる相手じゃない。」
「こんな女ごときに!」若い兵士は言った。「俺が負けるとでも言うのか。」
「ばか!」年上の兵士は、叱責した。
「あの女の銃をよく見ろ。」
女は依然として何食わぬ顔で銃身を磨いていたが、その銃の安全装置はすでに外されていた。
「この距離からなら、あいつは確実にお前の脳天を打ち抜くぞ。」
「クソ!」若い兵士は、足下の椅子を蹴り倒した。部屋に大きな音が鳴り響いて、奥の方で壊れた通信機械を直していた老兵が思わず顔を上げた。
「静かにせんかいガキが。」老兵は大声で言った。「気が散って修理どころでないわい。」
「直りそうかい?じいさん。」年上の兵士は老兵に語りかけた。
「は?」老兵は問い返した。彼は耳が少し遠いようだった。
「直りそうかい?」兵士は大きな声で聞き直した。
「わからん。」老兵は首を振った。「何せ老眼で、細かいところまでは見えんからな。」
「役立たず。」若い兵士が、すねたように小声で言った。
「だまらっしゃい!こわっぱ。」老兵は大声で怒鳴った。
「まあ、じいさんも、あんなガキの言葉に一々腹立てなくても。」
「じじいでも、ガキでも、悔しいものは悔しいわい。」老兵は顔を真っ赤にしていた。薄くなった頭の皮膚まで、茹で上がったかのように赤くなっていた。
「わしはこう見えてかつては第92連隊で、くろがねの泰蔵と...。」
「また、昔の話しか。」若い兵士は皮肉に笑った。「昔のことしか語るべき事がないんだろうな。」
「お前はいい加減黙ってろ。」年上の兵士は低い声で叱った。「これ以上、隊の和を乱すと、それなりの罰を受けることになるぞ。」
そのとき、それまで無関心のように振る舞っていた女兵士が、安全装置を外したライフルを真っ直ぐに若い兵士の頭部に向けた。そして片目を照準に当てたまま、美しい歯を見せてにこりと笑った。
「ばん。」
そう言って女兵士は引き金を引いたのだが、それは銃の轟音にかき消されて誰の耳にも届くことはなかった。轟音が微かな響きを残して、部屋の中から消えていくと、あとには床に転がった若い兵士が残された。
「撃ったのか。」年上の兵士は女の方を見た。女はもう一度にこりと笑った。彼女は美しかったが些か色が白すぎた。青白いほどの笑顔だった。

撃たれた若い兵は、床に転がったまま動かない。目が天井の一点を見つめて凝り固まっていた。
老兵と、年上の兵が彼のもとに駆け寄ったが、女はそれに見向きもしなかった。
「おい!」「しっかりしろ!」
体を揺すっても彼は動かなかった。
「貴様!」年上の兵は女の方を見て怒鳴った。
「見方を撃つこと無いだろう!そもそもなぜ、安全装置を無断で外している?」
「かわいそう。」女は言った。「大好きな子の首を、首輪で縛っちゃうなんて。」女はそう言うと銃身をその身に抱いた。「噛みついてもくれない犬には、何の魅力もないわ...。あなたも、そう思わない?」
「たわけ!」老兵は言った。「まだ生きておるわい。」
若い兵士は天井を見上げたまま、硬直していた。恐怖のためか、体が小刻みに震えていた。彼は失禁したようだった。
「馬鹿め。」老兵は言った。
彼女の弾丸は、若い兵士の耳元をかすめ、板張りの壁に穴を開けていた。おそらくはこの兵士の耳には、銃弾の空気を切り裂く音が、しっかりと刻み込まれたことだろう。
「意気地無し。」女は笑った。
そして銃を大切そうに、革のケースにしまった。

2008年6月21日土曜日

すいかのたね

ぺぺはすいかのたねをうえました。
とおいとおい日本から、アフリカまで、船に乗ってやって来た、丸くて大きなすいかは、ぺぺたち小さなギャング団によってぬすみだされてしまい、すっかり食べられてしまいました。ぺぺははじめこのかみなりのようなくだものを見て、ばくだんではないかと思いました。おそるおそる近づいてみて、ちょんちょんと指でつついて、それでも何とも言いませんでしたので、ぺぺは勇気を振り絞って、それを近くにあった石でたたき割ったのです。

さくり、という音がして、石の下から赤いしるが飛び出してきました。
ぺぺはおどろいてとびのきました。動物の血か何かだと思ったのです。

「これは、肉だぞ。」ぺぺの仲間のカカは言いました。「赤い血が流れたんだから。」
もう一人の仲間のワワはくんくんと、その割れたすいかの匂いを嗅ぎました。
「ちがう、これは血のにおいじゃない。」ワワは自信を持って言いました。
「なんだろう、これ。」ぺぺは言いました。「肉じゃないけど、血が出てる。」
「血じゃ無いったら。」ワワが怒ったように言いました。
「食べられるのかな」カカが言いました。「おいら、腹が減ってるんだ。」
「食べてみようよ。」ワワが言いました。「いいにおいだよ。」
「食べるの?」ぺぺが言いました。「僕はちょっと怖いな。」
「いくじなし。」カカが言いました。
「いくじなし。」ワワも言いました。
「いくじなしなんかじゃない。」ぺぺが怒ったように言いました。

ぺぺは意気地無しなんかじゃないことを、ワワとカカに見せるために、そのすいかの赤いところを手で掬って、口に放り込みました。

「...あまい。」ぺぺが言いました。「なつめやしみたい。」
「そんなにあまいのか」カカが言いました。「肉なのに。」
「肉じゃないよきっと」ワワが言いました。「これは血じゃないもの。」

ワワとカカはぺぺの言葉を聞いて、われ先にとすいかを食べ始めました。ぺぺも混じって三人があんまり勢いよく食べたものですから、すいかはあっという間になくなってしまいました。
「ああ、おいしかった。」カカが言いました。
「もっと食べたかった。」ワワが言いました。
「ほんとにおいしかった」ぺぺが言いました。

ぺぺはすいかを食べているあいだ、お母さんのことを考えていました。すいかがあんまりおいしかったので、お母さんにも食べさせて上げたくなったのです。

ぺぺのお母さんは昼間は町に出て、ものごいをしていました。

ふつうの身なりでは誰もなかなかお金をくれないので、ものごいをする人の中には、わざわざ足の悪い人の動きをまねして、お金をもらう人もいました。中にはもっとすごい人もいて、わざわざ本当に足を折ってしまう人もいるようでした。ぺぺのお母さんは、体が一番だいじと、ぺぺにいつも言っているような人でしたので、そんなことはしませんでした。道路でしんごうを待っている車の間を縫うように歩いて、お金をくださいと、言って歩くのでした。

ぺぺはすいかを食べている内に、これがワワの言うように肉ではなくて、植物の実のようなものだと感じたので、その中にあった、黒いたねのようなものをいくつか拾っておきました。それからぺぺは近くの街路樹の下に、そのたねを埋めました。その街路樹はとても大きなもので、毎日管理人がその根本に、水を撒いていくのを、ぺぺはしっていました。管理人が水を撒けば、このたねにも水がかかるはずでした。ぺぺはこのたねが芽を出して、早く大きくなるように、おまじないをしてから、駆け足でお家に帰りました。

お家に帰ると、お母さんは先に帰っていて、夕食の用意をしていました。
「今日は余り稼げなかったよ。」と、お母さんは言いました。
「お金のありそうな人は、いっぱいいたのにねえ。」
お母さんの作っていたのは、ぺぺの大好きなマメのスープでした。平たくて丸くて大きな豆が、すりつぶされたのとすりつぶされていないのが一緒に入った、とっても栄養のあるスープなのでした。

ぺぺの家には、隣に住むタタおじさんも来ていました。おじさんもマメのスープを食べに来たようでした。おじさんはとてもけちで、人のものはもらうのに、自分のものを人にあげることはありませんでした。

「今日の豆は、わしがもらってきたものだぞ。」タタおじさんは言いました。
「だからわしがもらうのじゃ。」
でも、ぺぺはしっていました。おじさんの持ってきた豆というのは、近くで外国人が、お金のない人たちのために配っている豆だったのです。ぺぺたちの豆も同じでした。だから、けっきょく同じ豆だったのです。

お母さんはそれをしっているはずなのに、何も言いませんでした。お母さんはいつもそうでした。タタおじさんはひどい人なのに、余り文句を言いませんでした。タタおじさんが来る日は、お母さんの様子がいつもと違う気が、ぺぺはしていましたがそれがどう違うのか、ぺぺには分かりませんでした。

「はい。豆のスープだよ。」お母さんは大きな鍋のスープをおじさんに渡しました。「これで良いね。」
「ああ、」おじさんはにこにこ笑ってそれを受け取りました。そして、うれしそうに帰って行きました。ぺぺたちのもとに残ったのは、お母さんがこっそり取り分けておいた、ほんの少しのスープだけでした。

ぺぺとお母さんはそれを分け合って食べました。お母さんはぺぺより体が大きいのに、ほとんど全部をぺぺにくれました。ぺぺはいくらかお母さんに返そうとしましたが、お母さんはもう食べたからと言って、みんなぺぺに食べさせてしまいました。

「ぺぺ。」お母さんが言いました。「ぺぺはお父さんがどんな人か、知りたいと思ったことはないかい?」
「ないよ。」ぺぺは言いました。「僕のお父さんはペルペルポンだもの。」ぺぺは胸を張って答えました。
 ペルペルポンというのは、ぺぺたちの一族の英雄で、神様でもありました。昔、この土地にまだ土人間がたくさん住み着いていた頃、ペルペルポンが海から上がってきて、土人間を海の神様からもらったやりで、みんな打ち倒してしまったのでした。ペルペルポンがやりを空に掲げると、たちまち雨が降ってきて、土人間はみんな溶けてしまいました。そして、雨の降ったところにはオアシスが出来て、それがぺぺたちの住んでいる町の始まりになったのでした。
 だから、毎年雨期の始まりにペルペルポンのお祭りがありました。男の子は4歳になると、小さな槍を手に持って、空に突き上げて、みんなでペルペルポンのうたを歌うのでした。女の子はこのときだけ、特別なきれいな服を着て、それにあわせて踊りました。ぺぺたち、お父さんのいない子供は、みんなペルペルポンの子供でした。カカも、ワワも、そうでした。

「ペルペルポンねえ...。」お母さんは困ったように笑いました。

ぺぺの頭の中はそれどころではありませんでした。今日うえてきた、すいかのたねのことでいっぱいでした。豆のスープを食べていても、ぺぺはどうしても、すいかのことを考えてしまって、気がつくと自然に、顔がほころんでしまいました。

ぺぺが豆のスープを食べながら、あんまりにこにこしているものですから、お母さんは不思議がって、「どうしてそんなに、にこにこしてるんだい。」と聞きました。

ぺぺは笑って、「ないしょ。」と答えました。そしてまたにこにこしていました。
お母さんはそれを見て「変な子だねえ。」と言って笑っていました。すいかが大きくなるまで、ぺぺはお母さんには教えたくなかったのです。大きな甘いすいかを突然持ってきて、お母さんをびっくりさせて、喜ばせてあげたいと思ったのでした。
ぺぺはそれを考えると、ますます顔がほころんでしまうのでした。


その日の夜、ぺぺは夢を見ました。
もちろん、すいかの夢でした。

ぺぺの夢の中で、すいかは大きな木になり、
これまで見たことのない、真っ青な花を付けました。

ぺぺたちはそれを見ながら、うれしくて木の周りを何度も何度も踊りました。


青はペルペルポンの色でした。
ぺぺはそれからすいかのことを、『ペルペルポンの実』と呼ぶことに決めました。

でもそれを、ぺぺはまだ、お母さんには教えていません。
おいしいすいかの実がなったら、お母さんにこのことを一緒に教えて上げようと、ぺぺは思っているのでした。

老人と電車

抱き上げてみると少女の体は思ったよりずっと重かった。
老人はその重みに、自らの子を抱き上げた時のことを思い出した。妻の初めての出産は難産だった。当時は分娩室にはいることは許されず、老人は夜通し、待合室で、うろうろと落ち着かなかった。何度も外に出ては星を見上げ、月を見上げて、妻と、そして生まれてくる新たな命の無事を祈った。柔らかな産着に包まれて初めての娘が真っ赤な顔をして彼の前に現れた時、老人はどれほど泣いたことだろう。ストレッチャーに載せられて、妻が運ばれていく時、何度、ありがとうという言葉を口にしたか、今ではもう、覚えていない。

半日歩き続けた少女はすっかりくたびれてしまったようだった。
渠の肩にもたれるようにして、ぐっすりと眠ってしまっている。老人の耳元で、安らかな寝息が聞こえていた。

「この子を早く家に送り届けて上げないと。」
老人は独りごちた。

老人が、この少女と出会ったのは、老人がいつも利用する駅のホームでのことだった。
少女は自動改札の前で手間取り、辺りをきょろきょろ見回していた。

「どうしたんだい。」老人が尋ねると少女は、
「おばあちゃんちに、いくの。」と答えた。

どうやら少女は、一人で祖母の家に行くところのようだった。親もまた、子供に冒険をさせたものだ。老人は尊敬を通り越してあきれた。老人の目に少女は確かにしっかりしたこの様に見受けられたが、一人旅に出すにはあまりに幼い年齢に見えた。

「お母さんと来なかったのかい。」老人は尋ねた。
「お母さん、いない。」少女は答えた。

少女には元々、お母さんがいないのだろうか。老人は思った。今の家庭事情を考えれば、そんな家庭があってもおかしくないと感じていた。父子家庭なのだろうか。

「お母さんは、元々いないのかい」老人は念のためもう一度聞いてみた。
少女は首をかしげたまま、老人をきょとんとしてみていた。老人の質問が理解できないようだった。

「まあ、いい。」老人は仕方なく笑った。
「おばあちゃんちは近いのかい?」
「宮城県東郡陸前町字菅原1-10-5 ごとう、とめこ」少女ははきはきと答えた。
「ごとう、とめこ...。」老人はその名に聞き覚えはなかった。そのような住所も、この辺りには存在しなかった。
「ここの近くじゃないなあ。」老人は困ったように言った。
「間違えていないよね。」

「宮城県東郡陸前町字菅原1-10-5 ごとう、とめこ」少女はもう一度言った。
「...お父さんが言ったもん。」

「お父さんが、か。」誰が言おうと、存在しない地名は存在しないのであった。
どうやらこの子は完全に迷子のようだった。警察に引き渡すか、それとも自分でこの子を家に送り届けるか、そのどちらかしかなさそうだった。

老人はその日、特に何もすることがないので、近くの競馬場にでも行くつもりだった。元々、それほどギャンブルをする方ではない。しかし彼には、これと言って趣味がなかった。仕事を引退し、地元のこの田舎町に帰ってきてはいたものの、特にすることがあるわけでもなく、日がな一日、新聞を読んだり、縁側に出たり、その程度のことしかできなかった。娘も、そのあとに生まれた息子もとっくに独立しており、妻は先年先だった。

「じゃあ、おじいさんがついて行って上げよう。」老人は言った。久しぶりに小さい子を相手にしてみたかった。孫は娘夫婦にいたが、彼女は二年に一度も帰ってきていない。孫が生まれた時に年賀状に写真を貼って送ってきたきりだった。
「おばあちゃん地に行くのは難しいから、お家に戻ろうか。...さあ、お家はどっち?」
「海老原駅」少女は言った。ここから、一時間ほど電車で走ったところにある駅だった。
「よし。」老人は少女の頭を不器用に撫でた。「じゃあ、冒険に出発だ。」
少女はきょとんとした顔で、老人を見上げた。

海老原に出るには下りの列車に乗る必要があった。
ホームの時刻表で時間を確認しているうちに、海老原方面の列車が入ってきた。老人と少女はすぐに列車に飛び乗った。

列車の中で少女は、小さな財布をずっといじっていた。
子供に人気のマスコットキャラクターの絵柄の入った小さな小銭入れだった。

「お財布かい?」老人は尋ねた。
少女はそのお財布がお気に入りなのだろう。それを見せつけるようにぐいと老人の前に尽きだした。
「おお、かわいいねえ。」老人は笑顔で応じた。
少女はそれを手元で再びいじり始めた。そのうちそれにも飽きたのか、ふと顔を上げ、椅子に逆さまに座って、窓の向こうの景色を見つめた。そこは工業地帯であった。白と赤に塗り分けられた煙突が、数本、彼女の前を通り過ぎた。

「電電工業」少女は目の前に並ぶ建物の一つを指さした。老人は後ろの窓をふり返った。
「お父さんあそこにいるの。」少女はガラス玉のような大きな黒い瞳で、じっと電電工業の立ち並ぶ工場群を見つめていた。
「お父さん、何屋さんなの?」老人は尋ねた。
「さらりいまん。」少女は答えた。退屈を紛らわすためなのか、座席の上でぴょんぴょんと跳びはねたが、余り楽しそうではなかった。
「サラリーマンか...。」老人はその言葉に、思わず一人苦笑を浮かべた。そう呼ばれた頃の自分を懐かしんでいるようだった。

あの頃は、よく電車に乗った。老人は思った。
だが、俺はどのくらい、町の景色を見ていただろう。
20年住んだあの都会の町並みの、どの程度を俺は知っているだろう。

少女は電電工業の建物を見送ってしまうといよいよ退屈になったようだった。
しばらく椅子に座って足をばたつかせていたが、やがて、うとうとと眠り始めた。
老人は少女が反対側に倒れてしまわないように、腕を回して、自らの体の方へ抱き寄せた。
少女の体は大人しく、老人の体にもたれた。

老人は母親が子守歌を歌うときそうするように、少女の小さな肩を、はたはたと拍子をとるように打ち始めた。それは遠い物語だった。老人の母の、老人がまだ、老人ではなく、今彼のそばにいる少女のような、一人の子供だった時代の、母の残してくれた、体に刻まれた、拍子だった。

老人はその拍子で、体の思い出すままに、少女の肩を打ち続けた。
そのリズムに少女は気持ちがよくなったのか、より深い眠りに落ちたようだった。
老人は思わず、穏やかな微笑みを浮かべた。

2008年6月19日木曜日

雨の校舎

昨日から降り続いた雨が、今日もまた校舎の窓を濡らした。幾多の水玉模様で、きれいに磨かれた窓は濡れていた。くらい空の下で、蛍光灯に照らされた教室の中だけが妙に明るい。先生は黒板を見つめたまま、何やらぶつぶつ言っている。

少女はうんざりしていた。梅雨という季節は彼女を憂鬱にさせた。何時になっても、雨、雨、雨。夏が遠く、待ち遠しい。

しかも、少女をうんざりさせる物がもう一つあった。父だ。

彼女は傘を壊していた。来る途中、学校近くの電信柱とブロック塀の間に挟まれて、傘の骨はすっかり曲がってしまった。雨は相変わらず降り続いている。家に帰るには、父を呼ぶしかなさそうだった。

またあの緑色の車で来るのかな。
彼女は思った。思い出すだけで溜息が出た。
父は地元の小さな会社に勤めていた。車は、会社から貸し与えられている物だった。緑の古くさい型のライトバン。運転席と助手席のドアには、目立つ白抜きの文字で『山下工務店』と大きくプリントしてあった。

どうしてうちは、もっとちゃんとした車を持ってないんだろう。
少女は思った。
別に、ポルシェとか、ベンツとまでは言わないから、普通の車がないんだろう。

少女が思い描く『普通の車』には、少なくとも山下工務店という文字はプリントされていなかった。シルバー、あるいは青や赤とといった色をしていて、後ろはベニヤ板の敷かれた広々とした貨物室ではなく、ちゃんとしたリアシートが入っているような車だった。

それぐらいのお金もないんだろうか、家って。少女は危惧した。
あたし、高校行けないんじゃないだろうか。
それはそれで良いような気がした。目前に迫った高校入試は彼女を悩ませる一番の代物だった。家にお金がないという理由で、高校受験をせずに済むのなら、それに越したことはなかった。私はただ、残念、哀れ、と言う顔をして、あくせくと勉強するみんなを眺めているだけでいい。
それはどんなに気楽だろう。彼女は思った。そうなればいいのに。

「...瀬戸内、...おい。」
隣のコウイチが話しかけてきた。何?と言う顔で彼女が振り向くと、コウイチは黙って前の方を指さしている。少女がその指さす方を見ると、そこにさっきまでいた先生の姿がなかった。
「...自習だってよ。何でだろうな、急に。他のクラスの先生方も、みんな出て行った。」
コウイチが不思議そうに言った。教室に取り残された生徒はみんな、一様にコウイチと同じような表情をしていた。何人かの生徒が、教室を出て、廊下に半身を乗りだして、外の様子をうかがっていた。
「どうしたんだ。」生徒の一人が隣のクラスの生徒に話しかけた。
「わかんねえ」その生徒が答えた。

自習と言ってもすることがなかったから、教室は事実上の無法地帯になった。みんなそれぞれにしたいことをしていた。トランプを始める者があり、誰かをからかい始める者もあり、隣の教室から乱入してくる者もいた。受験を控えているだけあって、大半の生徒は大人しく机に向かっていたが、それでも気持ちは上の空のようだった。みんなしきりに、面白そうな声を上げているグループを気にして、きょろきょろしていた。

少女は、そのようなグループに参加する気分にもなれず、かといって勉強など、毛頭する気になれなかったから、頬杖をついてぼんやりと雨の降る校庭を見ていた。長雨で校庭はすっかり沼地のようになっており、所々に深い水たまりが出来ていた。誰かがおもしろ半分に歩いたのか、しばらく誰も出ていないはずなのに、一列の足跡が付いていた。その足跡は校庭の真ん中まで行って、そこから同じ道を通って引き返していた。

「何見てんだ。」コウイチが再び話しかけてきた。
「...足跡。」彼女は答えた。
「足跡?」コウイチはおもしろがって、身を乗り出してきた。彼女に覆い被さるように校庭を眺めた。「お、ほんとだ、誰か出たんだな、この雨の中。」コウイチは言った。「でも途中で引き返したんだ。意外と根性無いやつだな。」
「...コウイチ、臭いよ。」少女は言った。
浩一は思わず身を引いた。
「お、わりい。」恥ずかしそうに笑った。「ちゃんと部室でシャワーを浴びたんだけどな。」
「その後、なんかスプレーでもしなかった?」少女は言った。「その匂いが臭いの。」
「...お前、こういう匂い嫌いなのか。」コウイチは自分の着ているシャツをつまんで匂いを嗅いだ。「別に普通の匂いだと思うけど。」
「普通だとは思うけど。」彼女は言った。「でも私は、そう言う人工的な匂いは全部嫌い。...なんかトイレの芳香剤の匂いみたい。」
「まあ、言われてみれば。」コウイチは言った。「トイレの物ほど匂いは強くない気がするけど。」
彼女は、依然として雨の降る校庭を見ていた。思えば、嫌いな物ばかりが増えてくるような気がした。お父さんも嫌いになり、雨も嫌いになり、勉強も嫌いになり、コウイチの体に付いた匂いも嫌いだった。いずれ私は、世の中の物みんな嫌いになってしまうのかも知れないと、彼女はぼんやり考えた。世界はどんどん狭くなる。彼女は思った。

「お前、どんな匂いなら好きなんだ。」コウイチが言った。
「...考えたこと無い。匂いの種類なんて。」彼女は答えた。
「変な女だな。」浩一が言った。「女子ってみんな、香水みたいな物に興味あるのかと思ってた。」
「人それぞれじゃない?」彼女は言った。「女子って、ひとまとめにしないで。」
「その言い方も嫌い、なのか。」コウイチは言った。「...お前、好きな物って何か無いのか?」

「べつにいいでしょう、私の好きな物なんて!」彼女は強い口調で言った。「...うざいよ。ほっといて。」
コウイチはそう言われると口をつぐんだ。しかし、悲しげな目で、少女の方を見ていた。
「何?」いらついた口調で少女は言った。「何じろじろみてんの?」
コウイチは俯いた。「お前、楽しいか。」
「何が?」少女はコウイチをにらみつけた。
「...生きてるのがさ。」コウイチは彼女の方を見ずに言った。
「お前みたいな性格だと、なんか、世の中みんな嫌いになって、そのうち自分も嫌いにならないか。」コウイチは何かに困ったように頭を掻いた。「そんなの楽しくないだろ。」
「何で、楽しい必要があるの?」少女が言った。「私の人生でしょう。つまらなくっても、それは、私の物だよ。コウイチに言われる筋合いなんか、ない。」
「...まあ、そうなんだけどよ。」コウイチは言った。「まあ、そうなんだけど...。」
コウイチはそれ以上何も言わなかった。彼女は苛立った気持ちのまま相変わらず雨の降る校庭を見ていた。世の中ってなんて面倒なんだろう。少女は思った。
人間が一人で生きて行けたら、気持ちはどんなに楽だろうか。
少女は山奥で自給自足する自らを思い描いた。畑があり、田があり、せせらぎがあり、広い大地と空があった。いくらか鶏も飼っており、ヤギが大きな声で鳴いていた。そこはとても気持ちの休まる土地ではあった。気に障る物は何もなかった。人間関係の煩わしさもそこには存在しないようだった。
こんな所に住めたらいいだろうな。彼女は空想しながら思った。面倒な物は何もない。

ただ、会話だけが足りなかった。

会話がなかったから、笑いもなかった。流す涙もなかったし、心を揺さぶる感動もなかった。
想像の中の彼女は、いつも穏やかな微笑みを浮かべてはいた。しかし、それ以上の感情は生じなかった。
ヤギに笑ってもしょうがないか。

少女は一人笑った。

「...お前、気持ち悪いな。」コウイチが言った。「何、一人でにやにやしてんだよ。」
「何であんたに教える必要があるの」少女は言った。「どんな顔しようと、私の勝手でしょう。」
「ああほんとに勝手だ。」コウイチはそっぽを向いた。
「お前みたいな勝手な奴、どうにでもなれ。」

「...怒ったの?」少女はコウイチの顔をのぞき込んだ。「怒ったの、コウイチ?」
コウイチは答えなかった。むっつりとふくれたまま、黙って前を見ていた。
「コウイチ?」少女は再び尋ねた。反応はなかった。「ねえ、コウイチ?」コウイチの前に身を乗り出した。前を見るコウイチの目を真っ直ぐにのぞき込んだ。コウイチの顔は真っ赤だった。小刻みに震えていた。彼は笑いをこらえているのだった。

突然コウイチが吹き出した。
「コウイチ?、コウイチ?」コウイチは少女の口まねを始めた。
「コウイチ?コウイチ?」
「うるさい!」少女は手元にあった消しゴムをコウイチに投げつけた。コウイチはそれでも身をよじらせて笑っていた。

「コウイチ?、コウイチ?」コウイチは尚も口まねを繰り返した。
「うるさいったら!」少女も顔を赤くしてコウイチの二の腕を二度三度となく叩いた。
コウイチはそれでも笑うことを止めない。
大きな声でげらげらと笑っている。

少女は顔を真っ赤にして、唇を突きだしていた。
自分自身の世界を見る目が、このときを境に少しずつ変わり始めたことを、
後に少女は知ることになる。

2008年6月18日水曜日

再会

女と再会したのは十数年ぶりだった。

男は女の横顔を見ながら、長い時の経過を思っていた。男の目に、女はひときわ美しく映った。男の知る女に見られた、少女の面影はすでになくなっていたが、以前までは目立たなかった女性らしい容姿と物腰が今の女には見受けられた。女は左手をアイスコーヒーの冷えたグラスに伸ばした。その薬指には銀の指輪が光っていた。
「久しぶりね。」女は言った。「...何年ぶりかしら、こうして二人過ごすのは。」
「さあ。」男は言った。
「おそらく、十年は過ぎてるね。」
ふっ、と女は笑った。「余り言わないでよ。歳を感じるから。」
「そんなことはないさ。」男は言った。「...君があんまり変わらないから、こっちは驚いていたくらいだよ。」
女は口元に手を添えて笑った。
「あなたこそ、変わらないわね。」女は言った。「いつも顔だけは真面目なんだから。...それが嘘か本当かは、相変わらず分からないけど。」
「僕はいつも、本気のつもりだが。」男は言った。
「あなたの本気は、あんまり本気すぎるのよ。正直すぎるのも嘘になるわ。」女は言った。
「よく分からない。」男は言った。「君の言うことは。」
「分からなくてもいい。」女は意地悪そうな笑みを浮かべた。「それも、あなたらしくて素敵よ。」

昼下がりのカフェには、彼らの他にも幾人かの客が思い思いの方法で余暇を過ごしていた。
新聞を広げて読んでいる者もあり、恋人と楽しげに談笑する者もあり、一人黙々とノートに何かを書き付けている者もいた。各々のテーブルは一つ一つが小さな世界のようで、その間を行き来する背の高い初老のウェイター以外、その世界に立ち入る者はいなかった。

彼と彼女はその中でまったくの偶然に出会った。彼女は電話をしていた。電話の向こうの相手と親しげに話すその声に、男は聞き覚えがあるものを感じて、そちらを振り向いたところ、女と目があった。女は口の動きで、ちょっと待って、と彼に伝えた。
彼は微笑んでそれに応じた。

「相変わらず、小説を書いているの?」女は尋ねた。
「ああ。」男は答えた。「僕にはこれしかないからね。」
「素敵ね。」女は言った。「一つのことに一生を捧げるなんて。」
「君はどうなんだい。」男は尋ねた。「作詩はものになったかい?」
「全然」女は答えた。「...詩を作るのは止めたわ。」
「なぜ。...あんなに良いセンスしてたのに。」男は驚いたように身を反らせた。
「まったく...。」女はあきれたように言った。「あの頃は褒めもしなかったくせに。」
「そうだったか。」男は笑った。「心の内で僕は君の才能を賞賛してたよ。」
「...嘘つき。」女は言った。「あなたが正直者なのか、ただの嘘つきなのか...、だから信じ切れなくなるのよ。」ふくれた面で小さく呟くように言った。「あなたの言葉なんて...、信じなくて正解だったわ。」
「それは残念だった。」男は言った。「僕の言葉は、届かないままか。」
女はその言葉に、ちらと男の表情をのぞき込んだが、男が特に表情を変えていないことを認めると、すぐにまた視線をそらした。
男は苦笑した。

「君は、変わらないな。」
「おかげさまで。」女は言った。「小じわも旦那も、なかったことにすれば、ですけど。」
「それでも君は変わらないさ。」男は言った。「...確かに、あの頃のままとは言わないが。」
女はその言葉に沈黙した。男も黙り込んだ。じっと何かを思い返しているようだった。
「...ねえ。」女が口を開いた。「ねえ...、あの頃..、あなたは私と、本当に結婚しても良いと思ってくれてた?」
「それは、僕が聞きたいくらいさ。」男は言った。「君の方こそ、どうなんだい?」
「それは...。」女は躊躇った。「それは...。」
男は笑った。「答えなくてもいい。...過ぎた話なんだから。」
「好きだったわ。私は。」女は言った。「あなたのことを。」
じゃあ、なぜ...。男の脳裏に、思わずこの疑問が浮かんだが、こらえて口に出さなかった。
その質問を口にするには、二人はまだ若かった。年齢的にやり直しがきくだけ、この話題に深く踏み込むのは危険だった。
「真っ直ぐすぎたのよ。」女は言った。「あなたの言葉は。」
それ以上何も言わなかった。
風が沿道に立つ銀杏の葉を揺らした。木漏れ日が、彼らの上で瞬いた。
二人の間に置かれた白い小さな丸テーブルの上には、すでに空になったアイスコーヒーのグラスが薄い紙製のコースターを敷かれた上に載っていた。氷に冷やされて、二つのグラスは結露していた。

お下げしましょうか。

いつの間にかテーブルの脇に立っていたウェイターが、彼らの顔をのぞき込んだ。
「ええ、お願いします。」男は言った。

「真っ直ぐすぎたのか。」ウェイターがグラスを持って立ち去った後、男が言った。「それは、勲章だな。俺にとっては。」
「傷を負ったのが、勲章なの?」女は言った。「...男の人って馬鹿ね。」
「要領よく生きるより、不器用に死にたい。」男が戯けた調子で言った。「...誰かの言葉だ。」
女は笑った。
「あなたの言葉でしょ。...あなたが、小説の主人公に言わせた言葉。」
「そうだったな。」男は笑った。その小説は彼がまだ大分若かった頃に書いたもので、彼の作品の中でも、批評家から酷評されたものだった。それでも、彼は満足していた。その作品は、彼の人生観をやむにやまれず書き綴ったものだったから。他人に通じるかどうかは、そもそも度外視していた。

「青かったな。」男は言った。「誰にも通じない言葉を、平気で書き捨てていた。」
「そうね。」女は言った。「でも、近くにいた人間には、十分通じたわ。」
女はテーブルの上に置いていた革の財布をハンドバッグに仕舞った。
「じゃあ、また会いましょう。」女は言った。
「いつになるかな。」男は言った。
「さあ。」女は笑った。「忘れた頃かな。...私とあなたが、恋人だった過去なんて。」
女はそう言うと、紅い鰐革のハンドバッグを手に取って、大通りをすたすたと歩いて行った。
その後ろ姿を、男はもの悲しい目で何時までも見送っていた。

2008年6月17日火曜日

ハツカネズミと人間

 男はネズミの脳を取り出そうとしていた。同僚の多くはすでに夏休みを取っていたため、研究室には男一人しかいなかった。
 雲一つない青空が窓から見えていた。もう、お盆だもんな。男は窓の外に陽光を浴びて眩しくきらめく、隣棟の白壁を見つめながら思った。ネズミは麻酔を掛けられ、解剖台の上にうつぶせに手足を固定されて、観念したように大人しくしていた。鼻先が小さくひくついている。その様子は、男の胸中にも些かの同情を呼び起こしたが、解剖する前に、どうしてもそのネズミの息の根を止める必要があった。男は解剖台の引き出しから注射筒を取り出した。そしてそれに致死量の薬剤を詰めた。
 
 恨むなよ。男は心の中でそうネズミに語りかけながら、注射筒に針を接続した。針先がネズミの腹の位置に近づくと、男の中で躊躇する心は急速に膨らんできた。いつもこうだった。この一針を注射する時の抵抗感は男の針先を小刻みに震わせた。抵抗感が限界まで膨らみ、血圧が上がるような感覚があって、やがてそれを突き抜ける頃には、針はネズミの腹内に達しているはずだった。

 しかしその日の男は違った。いつまでも針を刺すことが出来なかった。針は小刻みに震えたまま宙に留まっていた。しばらくそうした状況が続いたあと、男は、やがてぷつりと糸が切れたように、針を持った手を下ろした。大きな溜息が出た。「やっぱり向いてないのかな。」男は一人呟いた。


 男は父親だった。三歳になったばかりの男の子がいた。たどたどしいながらも親と会話ができるようになり、笑ったり泣いたり、感情表現もずいぶん豊かになった。先日は、どこで捕まえたのか、小さな芋虫を捕まえてきて、彼の書斎の机の上にはい、と言って置いていった。彼の妻はその後ろに立って息子の小さな背中を支えていたが、そのような悪さを仕組んだのは他ならぬ彼女であることは明らかだった。
 彼は芋虫が嫌いだった。幼い頃、近所の悪戯好きな少女に、首筋に虫を投げ込まれて以来、彼は徹底して虫が嫌いだった。そんな彼が気づいてみれば、あのときの少女のような、悪戯好きの女性を妻にしてしまっていた。しかも、妻は息子まで、彼女と同じ悪戯好きの人間に育て上げようとしているらしかった。裏の小さな畑で泥遊びや砂遊びをするのは日常茶飯事で、ミミズをたくさん捕まえて一つの箱に閉じこめ、彼の机の引き出しの中に入れていたこともあった。庭に出ていたら、突然二階から布団が落ちてきたこともあった。息子がネクタイを締めて、七三分けにされて、すっかり中年サラリーマンみたいになって、彼の部屋に入ってきたこともある。町外れの古い町営の借家で、彼女は毎日そうした悪戯を考えながらにやにやしていた。

その妻に昨日言われた。
「あなたの仕事って、やっぱり面白い?」
休日の昼下がり、退屈しのぎに一緒にテレビを見ていた時だった。彼女は息子のために、実家から送られてきたトウモロコシを芯から剥いていた。
「ああ...、楽しいさ。好きで選んだ仕事だもの。」男はそう答えた。食べ終わったトウモロコシの芯を寝転がったまま皿に戻した。
「前から思ってたけど、今はどんなお仕事をしているの。」妻は身を乗り出して聞いてきた。
男はその質問を意外に感じた。「何だい、今頃...、どうしたんだ、今まで聞いた事なんて無かったくせに。」
妻は笑った。「結局私には分からないんだろうけど...、でも知っておきたいのよ。分からないなりに、夫のしていることくらい。わたくしの夫様が、昼間のほとんどを費やしている仕事ですもの。」そう言って、また笑った。「それに...、」
「それに?」彼は尋ねた。
「最近、思うの。あの子を見ていると。新しい命ってすごいんだなあって。生まれた時はあんなに頼りなかった小さな命が、今ではああやって、自分の手足をぶんぶん振り回している。」
妻がそう言って見た先には、口の周りにアイスクリームをいっぱい付けた息子がいた。自分で口の周りを拭こうと思ったのか、箱の中のティッシュペーパーを上手に引き出そうと、ティッシュの箱と格闘していた。彼は何時しか目的を忘れたらしく、ティッシュを箱から出すことに熱中していた。おかげで周りは、引き出されたティッシュペーパーが白い雪のように舞っていた。
 彼は妻の方を見て、丸顔でニカニカと笑った。妻も笑って答えた。

「あなたの仕事も、生き物を扱う仕事でしょう?」妻は言った。「だったらきっと、私が感じる命の不思議や、神秘的な出来事に、あなたは毎日たくさん触れているんだろうなって思って。」
「まあ、それは...、」
「それもいい仕事よね。」妻は言った。「役に立つ立たないは別としても、誰もが気がつかないものと、大切に向き合えるから。」そう言って彼女はティッシュをまき散らして誇らしげにしている息子に駆け寄った。そして、積もったティッシュで真夏に雪合戦を始めた。息子はきゃっきゃと声を上げて逃げまどっていた。

男には言えなかった。
自分の仕事はネズミの脳を取り出す仕事であることを。
命の神秘だとか、不思議だとか、そんな物を考える以前に仕事に忙殺されていることを。
彼は自分の仕事の意義を、ちょうどその時、見失っていた。唯ひたすらネズミの脳を採り続けるだけの人間になっていた。


 研究室の片隅の窓辺に立ち、男はタバコを吸っている。解剖台にくくりつけられていたネズミは飼育箱に再び戻されていた。命拾いしてほっとしたのか、小さな前足を器用に使って毛繕いをしていた。
 彼はプロだった。その自負もあった。必要とあれば、無論ネズミも殺すことも厭わなかった。実際、これまでにも相当数のネズミをさばいてきた。しかし、飼育箱から解剖台に移すためにしっぽを掴まれたネズミが、恐怖の余り失禁して、硬直する姿を見るにつけ、彼は心を締め付けられるような思いがした。普段は大人しい実験用のネズミたちも、その時は決まって大きな声で鳴いた。
(俺の研究は、この小さな命を奪うに値する研究なのだろうか。)男はネズミを殺す度、そのような疑念を抱かざるを得なかった。この研究で、脳の機能の一端は分かるかも知れない。でも、大勢の人の命が特に救われるわけでもない。俺は結局、研究者として自分が生きていくために、このネズミたちを殺しているに過ぎないんじゃないか?
 彼はこの疑念を、もうずっと繰り返し考えていたが、その答えはなかなか出なかった。妻の顔を思い出した。悪戯をする時の息子の顔を思い出した。(俺が科学を志したのは...、)男は思った。(そもそも、ああいう悪戯心が発端だったんじゃないのか?)

 男は首筋に青虫を投げ入れた少女に連れられて、野山を駆けめぐった日々を思い返していた。少女の手はいつも泥だらけだった。そして、あちこち擦り切れていた。
 あの頃は自分の手も、同じような手だった気がした。
男は、改めて自分の手を見つめた。白魚のようにきれいな指が並んでいた。多くのネズミを手に掛けながらも、その手は傷一つ負っていなかった。男は自らの手を見つめながら苦笑した。そして灰皿で吸っていたタバコをもみ消した。

2008年6月16日月曜日

捨て子の話

つい、先日の話だ。早朝、まだ薄明かりの時間だった。私は、いつものようにバイト先の店の前を掃除していた。辺りに人通りはなく、車もほとんど通らなかった。ふと、向かいの建物の角に立つ人影に気がついた。そこは個人病院だったが、開業までには、まだ時間があるはずだった。それは女のようだった。しきりに辺りを気にしていた。女はやがて、病院の入り口の前に手に持っていた荷物を下ろすと、振り返りもせず、その場を立ち去ろうとした。

「ちょっと待って!」私は店の前から、大きな声で呼び止めた。影はびくりとして、その場に立ち止まった。慌てて駆け寄ると、女が置いていこうとしたものは案の定、小さな赤児だった。二重にバスタオルのようなものを巻かれて、すやすやと眠っていた。女は怯えた様子で私の方を振り返った。まだ相当に若い女だった。おそらくは10代前後ではないかと思われた。

「君の子かい。」私は尋ねた。「どうするんだ、こんなとこに…」
「お願いします」私の言葉を遮るように、女は言った。「その子を育ててやってください。」
「ちょっと待ちなさい。」私は言った。女の幼さに苛立っていた。「産んでおいて、こんな所に捨てて、どうするつもりだ。」
「捨てるつもりはなかったんです。」女は言った。「でも、難しくって、結局...」
「結局捨てるのか。」私はあきれて言った。
私の語気が無意識に荒くなっていたためか、女はすっかり怯えてしまっていた。半べそを掻いていた。私は呼び止めたことを後悔し始めていた。この様な娘の取り扱いにはあまり詳しくなかった。出来るなら早くこの場をうっちゃって自分の持ち場に戻りたかったが、今更この状況を放って置くわけにも行かなかった。私がすっかり困り果てていると、ちょうどそのとき、病院の婦長が出勤してきた。
「どうしたの?」婦長は私の顔を見るなり言った。
そして今にも泣き出しそうな少女と、私の抱えた赤児を見て状況を察したらしく、少女を促して「まあ、入りましょう」と言った。女は大人しくそれに従った。私は赤児を抱えて、彼女らの後について行った。

それから20分ほど、少女は休むことなく泣き続けた。私は彼女の話をじっとして聞いていられなくて、応接室の中をうろうろしていた。17歳で、親の気がつかないところで妊娠し、ネットを見ながら自力で何とか出産まではしたようだった。でも、その後の扱いにほとほと疲れ果て、捨てることにしたのだという。
「赤ちゃんって」少女は言った。「こんなに泣くものだとは知らなくて。」
婦長は少女の手を握って、背中をさすりながらそれを聞いていたが、相槌を打つ程度で、特に諭すようなこともしなかった。少女は涙に咽せ、その話は後半ほとんど聞き取れなかったが、それでも婦長は辛抱強く黙ってそれを聞いていた。そして、やがて話があらかた出尽くして、少女の気持ちが落ち着いてくると
「じゃあ、またいらっしゃい。」と言って、彼女を送り出した。
その手には、身ぎれいに整えられた赤児と、婦長の連絡先などが書かれたメモが握られていた。少女は両まぶたをすっかり腫らしていた。それでも婦長と私に涙声でお礼を言って、来た道を帰って行った。
「あの子、大丈夫ですかね。」私は尋ねた。10代の母というものが信用できなかった。
「何度も泣くでしょうね。」婦長は言った。「でも、泣かずに親になった人なんて、きっといないわ。」婦長はそう言って私の肩をとんとんと叩いて、にこりと笑った。そして忙しそうに病院の奥へと消えていった。私は婦長の言った言葉の意味を計りかね、しばらくそこに突っ立っていたが、仕事を放り出していたことに気付き、慌てて持ち場に戻った。

2008年6月15日日曜日

家族

「あんたあたしを、アル中だと思ってなめてんだろ。」
女は言った。時間はまだ、夜の八時にしかならないが、彼女はすでに相当酔っていた。キッチンの床には空けられたワインの瓶が2本転がっている。小学4年生の娘がその空き瓶を片付けようとしていた。その表情には、また始まるんだ、という大きな不安が張り付いていた。
「なめてなんかいないさ。」男は努めて冷静に言った。「ただ、君を思ってのことだ。」
「あたしを、『思って』!?」女は突如高い声で笑い出した。その背後に、不安げにこちらを見る娘の姿があった。男は娘に向かって、上に上がっていなさい、と手で合図した。女はそれに気がつき後ろを振り向いた。
「美和子。」名前を呼ばれた娘は一瞬びくりと震えたように見えた。しかし、逃げ出すわけにも行かず、わなわなと震えたまま、母親の顔を見つめていた。女は娘の方に片腕を伸ばした。しかし相当に距離があるため、その手は半分も届かなかった。それでも女は身体を伸ばして、娘を抱き取ろうとしているようだった。
「もう上に上がっていなさい。」男は言った。「美和子、美和子。」女は娘を求めた。娘は理性を失った母親にすっかり怯えてしまって、そこから動くことが出来ない。不安な顔で、父親を見た。「美和子、美和子...、そんな顔しないで。美和子も、お母さんが、好きだよねえ。」女は猫のように優しい声で娘に呼びかけた。
「嫌い。」
娘は怯えながら言った。
「嫌い?」ふと、女の動きが止まった。そしてまた、甲高い声で笑い始めた。その笑い声に部屋の壁が共鳴してきんきんという金属的な音が聞こえた。「嫌い?嫌いだったの。」女は言った。「嫌いだったの、美和ちゃん。嫌いだったの?」
「そうね、お母さんアル中だもんね。またお酒、飲んじゃったもんね。」女の声が急に勢いをなくした。「お母さんも嫌いよ。美和ちゃんなんて。お母さんを嫌いって言う、美和ちゃんなんて。」女は底に座り込んだまま、俯いてぼそぼそと言った。「お酒なんて嫌い。お母さんを不幸にするもの。」女はそう言うと、まだ手元に残っていたワインを瓶からぐいとあおった。「お父さん、離婚するの?」娘が父親の顔を見ていった。「お父さんとお母さん、離婚するの?」
「離婚?離婚?そうよ、離婚するのよ。」女が言った。「お父さんとお母さんは離婚するの。また楽しい女の子に戻るの。」
彼女は若い頃重度のアルコール依存症だった。それでも、結婚し娘が生まれてしばらくするまでは酒を断っていた。周りはすっかり直ったと安心していた。しかし、娘が大きくなり、しだいに手がかからなくなって、彼女一人の時間が増えるにつれて、彼女は少しずつまた酒に手を出すようになっていた。男が買ってきていた数本のワインを勝手に開けて飲んでいたこともあった。男はその兆候が現れだしてから、また家には酒を置かないようにしていたが、彼女は自分で買ってきて飲んでしまうようだった。
「お母さん達は、離婚するの、こんなお家を出て行くの。」女の声は歌うようだった。
なかなか飲酒を止めない女に、男は、今度飲んだら、離婚すると言っていた。女はそれから、3ヶ月は辛抱した。しかし、彼が会社から帰ろうとすると、先に帰っていた娘から電話があった。震える声で娘は言った。「お父さん...お母さんが、また飲んでるの...。」男は急いで家に帰り、リビングの扉を開けると、この様に泥酔した妻がいた、
「おっかあさんたちはね、好きだったのよ。」女は言った。「でもね、すきだったのはどっかいったの。だから離婚しちゃうの。バイバイしちゃうの」女は突然泣き始めた。小さな声で何か言っているようだったが、その声は聞き取れなかった。娘は心配そうな顔で母親を見つめていた。娘はこれまで真っ直ぐに育った。この子の将来のためにも、離婚した方が良いかもしれない。男はそう考えていた。
「お父さん」娘は父親の顔を見て、言った。「お母さんと離婚しないで。」娘は不安げな顔で切実に訴えた。
「お母さんのことを嫌いなんだろう。」男は言った。妻の耳にはいるのを承知しながら。「じゃあ、離婚した方が良いじゃないか。」
「かわいそう。」娘は言った。「お母さん、かわいそう。」娘はそう言うと、うなだれた母の背中を支えた。母親はそれを認識できていないようだった。「あたし達が、一人ぼっちにしたのよ。知らない町で、友達も上手く作れないのに。」娘は、泣き続ける母親の背中をさすった。「これで、離婚しちゃったら、お母さんもっとひとりぼっちになっちゃう。」娘はそう言って、母親の顔をのぞき込んでいた。泣いている妹を心配する姉のような仕草だった。特に教えていなくても、彼女はすでに思いやることを覚えたようだった。
男はその様子を見ながら、しばらくリビングの入り口に突っ立っていた。そして、まだ帰宅したままの格好であることに気がつくと、慌ただしく書斎に戻り服を着替えた。着替えて、再びリビングに戻ると、娘と母親がいなかった。どこに行ったかと、男が家の中をうろうろしていると、二階から、娘だけが下りてきた。
「お母さんは?」男は尋ねた。
「もう寝た。」娘は微笑んだ。
男は娘の小さな身体を抱きしめた。娘は父親に抱かれながら、泣いているようだった。ずっと我慢していたものが、一気にわき上がってきた様だった。
男は娘の一つに結われた頭を撫でながら、この子とこの家庭の将来について、考えていた。その娘の髪の結い方は、彼女の母が教えたものだった。