2008年8月30日土曜日

無題

東京から神奈川に入り、海の見える海岸線沿いの道をずっと南下していった先に、小さな一軒家があった。

「早々庵」

その家の入り口には、古い木材に、筆字でそう書かれた表札がかかっていた。
その家に住む老人は、齢67に過ぎなかったが、頭はほとんどはげ上がり、見た目にはもっと年取って見えた。
先年妻が亡くなったため、彼は一人だった。それでも、家の庭に小さな畑を構え、そこでピーマンや白菜など日常使う野菜を育てては、自らの食事に供するという生活をしていた。幸い病気もなく、街に通うのも、数時間に一本走るバスに乗って、週1,2度出れば十分という生活をしていた。

早々庵、と言う名前は、彼の妻がまだ元気だった頃、せっかちな彼をよくからかっていたことに由来している。しかし、若い頃はせっかちだった老人も、今ではすっかり大人しくなった。

「お前ののんきさが、移ったのかな」
老人は姿のない妻に、時々、そう語りかける。

妻が亡くなり、家族は彼と、一匹の猫だけになった。
子供は結局授からなかった。妻は、それを気に病んで、死ぬ間際まで、度々それを口にした。
夫はそれを聞く度、
「そればかりは、運命みたいなものだ」
と言って妻を慰めてはいたが、何かしら後味の悪いものが残った。
彼も子供が欲しかったのは山々だったからだ。
結婚する前、子供は何人欲しい、などと喜色ばって二人で話していた頃を思い出す度に、夫は溜息をついた。

しかし、その妻もなくなった今では、その夫は、これはこれで、良い人生だったと思っていた。二人の間に、子供という存在がなかった分、彼らは何時までも、夫婦でいられた。他の同僚達が、何時しか夫婦から、父母へと移り変わっていったのとは対照的に、彼らは彼らを大切にして時間を過ごすことが出来た。それだけ、彼らの間には濃密な時間が流れていたし、おそらくは、子供のいた夫婦よりも、その絆は強かったのではないかと、老人は思っていた。

一匹の猫は、その時間を、特に後半の数年間を見てきた猫だった。
子供がいなかったので、夫妻は猫を数匹飼っていた。始めは、近所の数匹の野良猫に、妻がえさを与え始めたのがきっかけで、それから人なつこい赤い虎模様の一匹が、すっかり飼い猫のようになついてしまったのだった。飼ってみると、その猫は雌だったようで、ある日、縁側の下に捨てられた段ボールのなかで、かわいらしい子猫を数匹産んだ。その子猫のうちのほとんどは猫同士の力関係に破れたのか、家を去ってしまったが、一匹の斑の猫だけが家に残った。長い夫婦生活のなかで、猫は何度も子供を産み、そして世代が代わっていった。
今いる猫は、始めに飼った猫の、7代目か8代目くらいに当たっていた。心なしか、その頃の猫の面影が、ここにいたって再び蘇ったような気がするほど、その猫の毛並みはかつての猫に似ていた。名前は、初代の猫にあやかって妻が「とら」と名付けた。8歳の雌の猫だった。

老人は晴れた日には、縁側から道路越しに静かな海を見ながら、とらの頭を撫でているのが好きだった。とらも、もう長いことそうされてきたためか、老人の細い足の上で、大人しく丸くなっていた。

神奈川沖を通る船は昔老人が見た時よりも大きく代わっていた。
かつては小型の釣り船や、漁船が行き来していた頃もあったが、今では大きなレーダーを積んだモーターボートのような船が縦横無尽に駆け回ることが多くなった。遙か沖の方では、大型フェリーかあるいはタンカーや貨物船の様な巨大な船が、海に浮かぶ要塞のようにじっとして、そしてじりじりと前進しているのが見えた。
有機的に打ち寄せる波間に、そうした無機的な構造物が、浮かび上がっている様を見るのはなんだか不思議な光景だった。

それでも、老人は総じて海が好きだったし、それはかつての妻も同じだった。この家はそもそも、彼と彼女が老後に住まうために購入した家だったからだ。その妻は、この家にまもなく越すという段になって死んだ。

老人は計画を一年延期し、ここに住まうことを半ばあきらめた時期もあったが、結局ここに引っ越して来た。

妻の亡くなった家に何時までもいるのはつらかったし、彼女も夢見ていた生活であったから、老人は彼女の魂と暮らすつもりで、この家を彼の最後の住居にすると決めた。

越してきてすぐに、声を掛けてきたのは隣の家の夫人だった。
長川、と言うその家は代々その土地で漁師をしており、彼の夫もまた漁師だった。ゴム長に防水のカッパ姿で現れた長川の夫人は、老人が一人暮らしであることを知ると、幾分不安そうにしていたが、「何かあったらいつでも声を掛けてください」と気さくに受け入れてくれた。

田舎住まいの経験に乏しかった老人としては、そのような隣人の好意というものにほとんど触れずに過ごしてきたので、たったこれだけの心配りにも、大いに感激したものだった。

長川の夫妻は、実際本当に老人を気に掛けていた様子で、時々彼を食事に招いてくれた。
彼らには中学生になる男の子と、今年小学校を出る女の子がおり、家は常に騒々しかった。中学の男の子の方は、思春期と言うこともあって、見知らぬ老人にうち解けるのに随分時間がかかったが、この夫妻の子供だけあって元来素直らしく、半年もすると老人にぼそりぼそりとではあるが口をきくようになった。
女の子の方は早いもので、あっという間に老人と親しくなり、退屈な時は彼女の側から老人の家に遊びに来るほどだった。

長川の家で出される料理はどれも取れたての魚介で、一人暮らしでそういうものをなかなか食べる機会のない老人には大変ありがたかった。お礼に彼の方でも、季節事に、家で取れた野菜を持って邪魔することにしていた。

素人の作った、形の悪いものも多かったが、長川の夫人は喜んで、それをその日の夕食に早速使ってくれた。老人にとってそれは自分の努力の報われる、何とも言えず楽しいひとときだった。

2008年8月28日木曜日

サテライト

これは裏切りに当たるのだろうか。

なめらかな女の肌の上で、男は自問自答していた。
時は深夜。週末の捨て鉢のような喧噪が静まり、人々がふと、何か埋めがたい物寂しさを覚える頃。

男もまた、一人、あふれ出してくる孤独に耐えかね、同じような気色に囚われた様子の女と供に、他人の歴史に汚れた寝床の上で、夜を明かそうとしていた。

そのホテルに入ったのは、男にとって初めてのことだったが、彼が特にそのような素振りも見せなかったため、女は終始、男がよく、ここを利用するものだと思っていたようだった。

慣れた手つきで入り口の手続きを済ます男に、女はやや皮肉の混じった一瞥を向けた。
「何?」
男がその眼差しに気付き、問いただしても、女は特に返事せず、微かな笑みを浮かべたまま、不信げな瞳を向ける男を見つめ返していた。

男はその表情に、何か空寒いものを感じたが、特にそれ以上問うこともせず、先に立って、割り当てられた部屋に入った。

女も、何も言わず後に続いて入った。


男は、この女をよく知らなかった。
顔見知り。あえて言えばその程度の仲だった。彼がこの街に越してきてもう1年近く経つが、男は自分でも笑ってしまうほど、他の女との関係を持たなかった。

男の中には一人の女の面影が常にあった。
その女とは、結局、結ばれはしなかった。もう別れて、何年も経っていた。だが、どれほど時間が経っても、遠い土地に引っ越してきていても、その影はいっこうに消える気配がなかった。

男はもう、自分は十分に恋をしたと感じていた。

その、男をとらえて放さなかったかつての女のために、彼は身を焦がれるような思いを何度も経験した。思えば、青かったと男は今は考えていた。単に、女というものを、知らなかっただけなのだと。

しかし、なぜか男はその後、それ以上誰かに恋をする気には、なれなかった。
何度か試みたことはあったが、あの頃のように、自らを捧げるような気持ちには、いつまで経っても、なれなかった。

プロセスが似通っている。
男はそれが原因だと思っていた。

どの恋愛も、かつての恋愛を思い出すのに足りるほど、似ている。
それが男に、かつての女と、目の前の女を、容易に比較させ、色あせたものにしてしまう何よりの理由だと、彼は感じていた。

「どうしたの?」
体の下で、女が不思議そうに男を見上げていた。

「...何でもないよ」
男は静かに、女の体を撫でた。

「...変なの」
女はそういって、息を漏らした。
二人の間に、それ以上の会話はなかった。


なぜ、今頃になって、たいして好意を抱いていたわけでもないこの女を、ここへ連れ込むことになったのか、男は自分で、説明がつかなかった。

自分に関心を抱いてくれた女は他にもいたはずで、彼はそれを、これまで、ことごとく無視してきたはずだったのに、今夜はなぜか、この女をこうして受け入れてしまった。それが彼には解せなかった。

男はまじまじと、女の体を見た。
それは、かつての女とは、似ても似つかなかった。
貧相で、生臭いものに男には感じられた。

男は、かつての女の裸身を実際に見たわけではなかった。
それは彼なりの、空想に過ぎなかった。そしてその空想は、長い時間のうちに美化されてしまい、最終的には彼女の顔のような、それまで幾度となく見てきたはずのものでさえも、実物の彼女よりも、ずっと美しくなってしまっていた。

そうなるともはや、誰を本当に愛しているのか分からなかった。

しかし、男はそれを自分自身で知りながら、ずっと黙認していた。
どうせ叶わない恋ならば、それは現実でも、空想でも、同じ事だった。
むしろ空想の方が、彼の望みに従っている分だけ、ストレスが少なかった。

実際に恋愛している時に、どれだけ現実の女を、俺は見てきたのだろう。
そう思うとおかしかった。
実際には、自分の空想を、多分に現実の彼女に重ねていなかったか。

結局、俺は空想に始まって、空想の内に終わったのだ。男は思った。
彼女を題材にして、一人で夢を見ていたに過ぎなかったんだ。

目の前にいる、生身の女からは、男はあまり魅力を感じなかった。
普段のすました表情からは想像しえない、しかめしい表情や鬼女のような声に、男の心はむしろ滑稽さを見た。

ただ、生理的に男は女を求めていた。
二人の間に展開されているのは、ただそれだけの行為だった。

俺は二人の人間を裏切った。
行為が終盤に至った頃、男は思った。

この後に続く恍惚と快楽は、その代償になりうるのだろうか。
そもそもこの行為は、何かの約束か?

そんなことを考えている内に、あえなく女が音を上げた。


あいつも、今頃誰かの下で...。

そんなことを考えながら、男は、その行為を締めくくった。