2008年9月29日月曜日

夏の記憶

祖父は幼い私を、いつも抱きたがっていた。私がご飯を食べている時も私を膝の上に載せたがって、甘い声で、

「こっちへこねえが?」
と呼び寄せたりする。

私も、優しい祖父は大好きだったから、祖父がそう言ってくれればすぐにでも立ち上がって、彼のあぐらの上に喜んで腰を下ろした。でも、そう言う時は決まって、
「これ!」
と、傍らから檄が飛んできた。目尻をつり上げた祖母が、恐ろしい形相で、祖父を睨んでいる。その表情を見て、私は自分自身が怒られているような気がして、怖くて泣きそうになった。

なぜ、祖母が祖父をことある事に怒るのか、私には分からなかった。

祖父は庭仕事が好きで、天気のよい日にはよく庭に出て、花壇の土を掘り返しては、新しい花の苗を植えたり、植木の剪定をしたりしていた。

祖父が特に好きだったのは朝顔とチューリップで、中でも朝顔は殊更、力を入れていた。大きなおなかを窮屈そうに丸めてしゃがみ込み、せん定ばさみをくわえて、朝顔の蔓が巻き付きやすいように、細い竹の格子を作ったりしていた。祖父の太い指は驚くほど器用で、そうした物をあっという間にくみ上げてしまった。

私は、祖父の指が竹の格子の上を行ったり来たりしながら、見たこともない結び方で、どんどん格子が組上げられていくのを、まるで魔法のわざでも目撃したかのように、目を輝かせてみていたそうだ。

しかし、そうして、祖父と私が気分よく庭仕事をしていると、決まって後ろから聞こえてくるのは祖母の声であった。

「これ!」

私はいつも、その声を聞くと、驚いて立ちすくんでしまった。
祖父を見れば、彼も同じように立ちすくんでいた。まるで悪戯をとがめられた少年のように、すごく申し訳なさそうな顔をして、縁側から顔を出して怒る祖母を見ていた。

私は、祖母が嫌いであった。

こんなに、子供のような心を持つ祖父をガミガミ言う祖母が嫌いであった。
祖父が、自分の布団で私と一緒に寝ようとしている時に、それを取り返してしまう祖母が嫌いだった。
祖父と縁側に出れば怒り、庭に出れば怒り、散歩をしても怒る祖母が、嫌いだった。

祖母はきっと、祖父が嫌いなんだろう。
子供心に、それが分かった。

おじいちゃんは、いつもかわいそうだ。

私は祖父と一緒にいる時には、必ず祖母が居ないのを見計らうようになった。
そうすれば、私も、祖父も怒られずに一緒にいることが出来るからである。

私は、祖父と一緒にいたかった。
もっと、何時までも、一緒に。

なのに。


祖父が死んだのは、突然だった。

正確には、突然と思っていたのは、幼かった私だけだった。
祖父は、末期の脳腫瘍を患っており、実はかなり長い期間、入院していたのである。幼い私には何も知らされず、祖父は、遠い大きな街に住んでいるとしか、理解していなかった。

この退院そのものが、もう手の施しようのない祖父への、病院側の、せめてもの計らいだったのだ。

しかし、それは、おそらく祖父自身も知らなかった。
知っていたのは祖母と、私の両親だけだった。


私は覚えている。

朝食を食べている祖父の、白米の盛られた椀に、鮮血の雫が、ぽたり、と落ちるのを。

見れば、祖父の鼻から、血が滴り出ていた。数時間経っても祖父の出血は止まらず、そのまま病院に担ぎ込まれた。

私はその日から、祖父を見ていない。


大輪の朝顔が、華々しく裏庭に咲き誇った、夏の初めの出来事だった。
前日まで、祖父はそれを見ながら、満足げに笑っていたはずだった。

この世界の青を全部集めたような、色とりどりの朝顔が、祖父の用意した、大きな竹の格子を埋め尽くさんばかりに咲いていた、7月。

祖父の笑顔と、朝顔の青と、白米の赤い鮮血。


私の、最初の夏の記憶。




そらから程なく、家の前に、大きな提灯が飾られた。
白黒の幕が、周囲を取り囲んだ。

祖父の遺影が、先祖の遺影の列に、新しく加えられた。


祖母はその日から、誰も怒らなくなった。
もう、顔を真っ赤にして
「これ!」
と叱ることも、なくなってしまった。

2008年9月27日土曜日

避行

冷えた夜風が吹き抜ける夜道に、少年は片膝を立てるようにして座り込んでいた。辺りからはもうすっかり人影は消え失せ、季節に置いて行かれた秋の虫が、悲しげに、今にも消え入りそうな細々とした声を立てるばかりであった。

少年の前には、赤々と燃える炎があった。

拾ってきたライターで、落ちていた新聞紙をたき付けに、ようやく起こした火だった。
少年はその炎を切らさないよう、十分な量の薪を用意したつもりでいたが、それもどうやら足りなくなりそうだった。外気は先ほど降った小雨で、かすかに湿り気を帯びていた。どうやら、新しい薪を得ることは難しそうだった。

少年は、長く寒い夜になることを覚悟して、炎照らす闇の中、身を縮めた。

彼の前には、一人の少女が横たわっていた。
少女は彼らの持っていた唯一の毛布にくるまって眠っていた。今日一日の移動ですっかり疲れてしまったのか、少女は微かに寝息を立てていた。先ほどまで履いていたミュールは片方のかかとがすっかり外れて、革一枚で繋がっているような状態だった。

少年は、彼女がそれを、不安定に揺らしながら歩いている昼間の様子を思い出し、微かに微笑んだ。少年がいくら脱ぎ捨てろと言っても、少女はそれを捨てようとしなかった。思い出の品だからと言うだけの存在理由で、その折れたミュールは、彼女の足にくっついたまま、結局夜になってしまった。

それを考えると少年は、このミュールが自分自身のようにも思えてきた。
そもそも彼女を、彼の家出に誘ってしまったのは間違いだったような気がしていた。家を出るなら、彼一人、出ればよかったのだ。彼女を誘ってしまったのは、自分の弱さの表れにも他なら無かったように思えた。家に居続けるだけの気持ちのゆとりもなく、かといって、一人で出て行くほどの勇気もない。家を出て、僅か数時間で、彼女にメールをしてしまったことを、彼は今、悔やんでいた。

彼が呼び出すと、彼女はすぐに現れた。

いつもと代わらない軽装で、足下には彼の贈ったミュールが見えた。
彼に出会った時、彼女は始め、家に帰るように説得した。彼の母親が随分心配していたこと、父が落ち込んで、朝から黙り込んだままであることなどを彼女は彼に伝えたが、彼は今更、父母の居る我が家に帰ることは出来なかった。これだけの騒動を起こした後で、何事もなかったかのように家に帰るだけの図々しさを、彼は持ち合わせていなかった。一体家に帰ったところで、どんな顔で、それほど心を痛めた両親に会えばいいのか、彼には見当も付かなかった。

彼女は、彼の話を、大きく目を見開いて熱心に聞いていたが、やがてうん、と頷くと、
じゃあ、私も連れてって、と言いだした。

「いいでしょう?私がついて行っても」
彼女の半ば強引な要求を、彼は拒否することが出来なかった。彼一人になって心細さを感じ始めていた矢先でもあったし、彼女がそばにいるのは心強かった。とはいえ、彼女を巻き込んで、騒動をこれ以上大きくしてしまうことには抵抗があった。それでも、このときは、弱り切っていた自分の気持ちを補正することの方が、彼にとって差し迫った優先事項だった。

彼と彼女は、何も言わず連れだって歩いた。
彼らにこれといった目的地があるわけではなかった。ただ、一時的でも心の安まる場所を求めて、街のあちこちを歩き回った。その多くは、彼らの一度行ったことのある場所であり、知らない場所には滅多に行かなかった。どうやら気持ちの萎えている状況では、新しい場所に行く緊張と不安を、自然と避けてしまうようだった。彼らは彼らの思い出を、一つ一つたどるようにして、何時か来た場所を一つ一つ巡り歩いた。そうして歩いていると、彼は時々、まるで彼女と、いつものようにデートでもしているような錯覚に囚われることがあった。町並みも、そこを行き交う人々も、彼女の格好も、自分の服装も、いつものそうした状景と、何ら変わりはなかった。ただ一つ違うのは、彼らに帰る意志がないと言うことだけだった。これは日常からの別れの旅だった。

夜になり、辺りが暗くなってくると、彼は夜をどこで明かすかと言うことが心配になり始めた。何処かに泊まろうにも、彼らに、二人で宿泊するだけのお金はなかった。困った挙げ句、彼は幼い頃何度か隠れたことのあった、学校の裏手の小さな洞窟を思い出した。そこは洞窟と言っても、深さが1, 2メートルほどしかない、崖のくぼみ程度の物で、雨露をかろうじて防げる程度の物だったが、外からは見つけにくい場所にあり、今の彼らにとっては格好の隠れ家になってくれそうだった。

彼がそこに彼女を案内するのは初めてだった。
その洞窟を見た時に、彼女は何も言わなかったが、予想とは大分違っていたようで、思わず目を大きく見開いた。それを見て、彼は幼い頃の自分の恥部を見せたようで、なんだか恥ずかしくなった。

彼らは空腹を抱えながら、それでも暖だけは取ろうとたき火を起こした。
そして、近くに捨ててあったまだそれほど古くはなさそうな毛布を彼女に与えて、先に眠らせた。彼女は嫌がりもせず、その毛布に身をくるめると、横になって、後はすっかり、眠ってしまった。

彼は今夜は眠らない覚悟をしていた。体も、心も彼女同様にくたくただった。しかし、彼自身のわがままで家を飛び出し、そして彼女まで巻き込んでしまった以上、彼は何としても彼女を無事に送り返す必要があると感じていた。

彼女はおそらく、この様な汚い毛布にくるまって眠ったことはないだろうし、壊れたミュールを引きずってこれほど長い距離歩いたこともないはずだった。それでも何も言わず、彼に付いてきてくれた彼女を、これ以上、不幸な目に遭わせるわけにはいかないような気がしていた。

本当の幸せとはなんだろう。彼はふと、そんなことを考えた。
目の前に燃えるたき火の炎の中に、答えはなかった。彼にとっては今は幸福ではなかった。しかし、また、不幸でもないと感じていた。かつての日々は不幸だった。彼は少なくとも、不幸から逃避は出来ていると思った。

しかし、彼女にとってはどうだろう。彼は再び、彼女の方を見た。
赤い炎に照らされたその横顔は、あどけない少女のように、深い深い夢を見ていた。
彼はその横顔を見て、思わず微笑んだ。

彼女を好きだった。何時までも、この横顔を眺め、一緒にいたいと思った。でも、その彼女と一緒にいることが、彼女自身をかつてより不幸にしてしまうとするならば、それは本当に、彼女を好きな人間が取るべき態度なのだろうか?

彼には答えられなかった。
だが、彼女を明日、家に送り返すことで、実は自分は、また一つ逃避をしようとしているような気がして、彼の決意は右に左に、揺れ動いていた。

2008年9月23日火曜日

猪狩り鉄忠

江戸市中から大分離れた山奥の村に、たいそうな強力で知られた大男が居を構えていた。
この男、いつからここに住み着いたのか村のものですら正確には知らなかった。年は40とも、50とも言うが、時折見せる笑い顔は、童のそれのようで、実はもっと若い男なのかも知れなかった。

いずれにしろ、村の片隅にいるこの大男に、村人は、畏怖と好奇の両方が混じり合った気持ちで接していた。男は普段、家の周りにこしらえた畑にでて、他の村人と同様に鍬を振るい、自らが日頃食う分だけの菜物を育てていた。どうやらその畑で取れるものだけで腹は満たされているようで、村人の世話になることは滅多に無かった。

それどころか、男は月に数度、大きな大刀を一本下げて近所の山に分け入り、二、三日も帰ってこないかと思うと、大きなイノシシを抱えて降りてくることがあった。捕ってきたイノシシは当然のように村人にも振る舞われたから、村人は皆、イノシシが捕れる時期になると、内心、男が山に入るのを心待ちにしていた程であった。

村人はその猪肉の礼として、僅かばかりの米を男に分けた。
男はその米を日々の糧としていたのはもちろんだが、食べきれないと思った時には、町の市に持って行って売りさばき、必要なものを買ってきているようだった。

ただ男の家はいつ見ても薄汚いあばら屋のままだったし、何かが新しく買い足されたようでもなかったので、男が得た金を何に使っていたかというのは何時までも謎のままであった。

立派な大刀を持っていることから見て、男の出自は武士のようだった。
しかし、着ているのものは村人ですら驚くほど薄汚い身なりだったし、髷も十分に結っていなかった。刀の鞘もすっかりぼろぼろで、おそらくは中の刀はすでに刃が落ち、鉄の棍棒に等しくなっているものと思われた。

実際、男が捕ってきたイノシシには全く刀の傷がなかった。
ただ頭蓋だけが激しく陥没していて、これが致命傷になったと察せられた。

村人は男の名を知らなかったから、とりあえずの通称として、
「奥山の鉄柱殿」と彼のことを呼んでいた。


そんな折、一人の若い侍が村をたずねてきた。

「佐田雷哲様という御仁を捜しておるのですが」若い侍は村の長にたずねた。
「佐田雷哲様、ですと?....うちにはそのような立派な名前のものはおりませぬが...。見ての通りの寒村でして。」
しかし、若い侍は村長の言葉を聞いていないのか、
「いえ、佐田様はここにいらっしゃるはずなのです。この村の何処かに...。」
そう言って聞かなかった。

村長はすっかり困ってしまって、とりあえず村の中を案内することにした。
そうしてこの村のことを知れば、こんな村にそのような名前のものが居ないことなどじきに察せられると思ったからである。

村長が、若い侍を連れて村の中を歩いていると、山の奥から例の鉄柱が、イノシシの死体を引きずって歩いてきた。

彼の連れているイノシシはこれまでの中でも3本の指にはいるかという大猪で、運ぶだけでも常人ではひと苦労であるはずなのだが、この男にとってはそれもなんでもないらしく、平然とした顔で村の真ん中の道を歩いてきた。

すると突然、それを見た若い侍が
「もし、あの方は?」
と村長にたずねた。

村長は突然のことに驚いていたが、
「へえ...。私らも本当の名前は知らないんですが...。奥山の鉄柱殿と呼んでおります。」
と正直に話した。

「奥山鉄忠殿...。」
若い侍は突如、つととしてその大男の前に立った。
「もし、鉄忠殿」

呼び止められた大男は、ぼやりとした顔をして、目の前に立った細身の若い侍を見下ろしていた。

「わたくしは太田三朗ともうすもの。さる用向きにより、佐田雷哲様というお方を捜しておる。そなた、何かご存じないか。」

大男は、それまで、右手に猪を引きずり、左手に鞘に入った大太刀をかつぎ上げていたが、
佐田雷哲という名前を聞くやいなや、右手から猪を放した。そして、おもむろに太刀の束に手を掛けた。

若い侍もあわてて身構えた。

大男は太刀を引き抜くと、素早くそれを横になぎ払った。
刀を引き抜こうとしていた若い侍はその動きに全くついて行けなかった。

刀を半分抜いたまま、後ろに飛び退いて、かろうじて一太刀目をかわすと、ようやく鞘を払った。どっと全身の毛穴から汗が噴き出た。

男は間合いを一気に詰め、再び振り回すように太刀を振るった。
ぶうん、と風を薙ぐ音がして、若い侍のすぐ目の前を、大太刀の切っ先が通り過ぎていった。

若い侍は完全に劣勢だった。刀をよけるのに精一杯で、この大男に立ち向かう術はなさそうだった。

大男は青眼の構えから、咄嗟に切っ先を揺らし、相手を袈裟に切り上げる素振りを見せた。
若い侍は不意の動きによけきれず、思わず目をつぶった。

斬られる。

がちん、と耳をつんざくような大きな音がして、
無意識に突き出した彼の太刀が、ものすごい力で持って行かれるのを感じた。
太刀は彼の腕をすっぽ抜け、遠くの屋敷の軒へぶすりと突き刺さった。

恐怖に腰が砕けて、若い侍は尻餅をついた。おそるおそる顔を上げると、そこには大男が、先ほどと代わらぬ静かな瞳で若い侍を見下ろすように立っていた。だらりと下げられた右腕には大太刀が、指の太い手の中にしっかりと握られていた。

大男はしばらくそうして若い侍の顔を不思議そうに見ていたが、やがてくるりと向きを変えると、のそのそと、うち捨てられた猪のもとに戻り、そしてそれを再び引きずって、もとのように歩いて去った。

「大丈夫でございますか!」
遠くから見ていた村長があわてて若い侍に駆け寄ってきた。

「あの方はどういう...。」
若い侍はまだ放心した気持ちが戻らないまま、村長にたずねた。

「さあ、私どもも素性は存じないのです。...ただ、普段は優しい大男で、村人にもあの猪の肉を分け与えてくれるほどなのですが...。よもや、人様に剣を抜くとは...。」

「いや...。これは私の方に責任があるのでしょう。」若い侍は言った。「あの大男、私を斬ろうとしなかった...。追い返すだけが目的だったのか....。」

2008年9月22日月曜日

ナイフの世代

「届かないものを追いかけていると言うことぐらいは自分でも分かっていたんだ」
ユウキはコウイチを見ようともせずに、そう言った。
「でも、しばらく...。もうしばらくと思っているうちに....。」
ユウキの目はうつろだった。その瞳は、もう遠くなってしまった過去を...、静かにふり返っているようだった。

コウイチとユウキは同級生だった。いつも、何をするにも一緒で、なんにも面白いことがない時でも、二人して何やらごにょごにょと話しては、ひひ、と笑い会うような仲のよい男児の典型のような二人だった。

その二人の関係も、彼らが中学3年生を迎えた頃から、微妙な変化を示し始めた。

コウイチは一人の女性を恋したのである。
女性と言っても、同じ学年の女子生徒なのだが、それでも彼にとっては立派な初恋だった。彼女と過ごす時間は何をするのも楽しく、些細なことでも笑いあえた。彼は時々、人生でこんなに笑ったことがあっただろうかと思ってみることもあった。それほどに彼女と過ごす時間は幸福だったし、彼女も同じ幸福を味わっていると言うことを確認する度に、その幸福は更に倍加するようだった。

一方でユウキも、誰か女性を好きになったという噂は聞いていた。
それはコウイチのように、同じ学年の女子生徒ということでは、どうやらないらしかったが、彼らが話す中で、そのことを話題にすることはなかった。いつも一緒にやってきた二人の関係に、二人の違いが入り込むのが、怖かった。
彼らは何時までも、以前の彼らのままで、そういう時は無邪気に笑い転げた。


ある日の夕方、コウイチが部活の帰りで遅くなり、帰宅を急いでいる時のことだった。
春先のことで、日は次第に長くなってきてはいたものの、6時を過ぎるとだいぶ薄暗くなって、学校の周辺は人通りもまばらになった。紺色の空の下に聳える白亜の校舎は、1階の職員室を煌々と明るく照らしたのみで、普段明るい声の響く幾つもの教室のいずれもが、真っ暗な闇に飲まれていた。コウイチは薄闇に沈み逝く校舎に別れを告げて、校門を出た。

校門を出てしばらく歩くと交差点があり、底がコウイチとユウキが、いつも別れる場所だった。ユウキの家はそこを右に曲がった先にあり、コウイチの家は左に曲がった先にあった。今日は一人で家に帰るコウイチはいつもはユウキが曲がっていく右の通りを無意識に眺めながら自身は左に曲がった。

薄暗い左の通りは、彼の前に不穏に立ち上がっていた。点々と続く街路灯の明かりが断続的な平和をもたらす以外には、暗い不安が立ちこめていた。おそらく、女性一人では縮み上がってしまうだろうというような、不気味な通りだった。

コウイチはそのほの暗い道を転々と連なる明るい場所を突き抜けるようにして進んで行った。彼を覗いて通る人はなく、通る車さえない静かな道だった。

ふと、その時コウイチは目の前を見つめ、そして思わず立ち止まった。

二軒ほど先の、知らない民家から、ユウキが一人の女性に付き添われるようにして出てきた。
暗くてはっきりと分からなかったが、女性は、少なくともユウキの母親ではないようだった。ユウキが女性と親しげに言葉を交わすと、彼女は喜んでいるようだった。ユウキはやがて彼女に手を降って別れた。女性も、門の前に立って、同じように手を振りながら彼の背中を何時までも見送っていた。

コウイチはその様子を、通りの角からずっと見ていた。

自分の知らないユウキがそこにはいた。

彼は彼のことを、幼い時から、何一つ余すことなく、知っているつもりだった。
しかし、目の前にいる、ユウキの殻をかぶったような...、それは紛れもなくユウキ自身なのだが...、ユウキは、彼の全く知らない女性と、全く知らない親しみでもって会話していた。

それは、思わずコウイチを通りの角に隠れさせてしまうほどに、見てはいけない光景のように思われた。

ユウキはそんなコウイチには気がつかない様子で、彼のすぐ目の前を、少し早歩きで通り過ぎていった。そうして歩いていくユウキの姿は、いつものユウキと何ら変わることがないようだった。コウイチは嫌な夢でも見たような顔つきで、しばらくそこにいたが、やがて静かに歩き出すと、ふらふらと自分の家に帰っていった。


次の日、彼はユウキと話すのを躊躇っていた。
いつものように話しかけようにも、どのように話しかければいいか分からなくなってしまったのだ。いつも見慣れたユウキは、まるで赤の他人のように、今日は感じられた。だからコウイチは、ユウキがいつものように親しげに話しかけてくるまで、結局こちらから話しかけることが出来なかった。

話してみると、ユウキはいつものユウキだった。
そんな様子に、コウイチも次第にいつもの感覚を取り戻した。昨日のことは、悪い夢だったのだと思うようにした。彼の様子には、何も代わったところはなかったのだ。彼の見たものを裏付ける変化は、何も。


しかし、何時までも、夢のままでは終わらなかった。
事実は、いくら本人が思い違いをしようとも、事実として冷たいほどそこに居座り続けるものだ。コウイチにも、それを思い知らされる時が来た。

ある時ユウキが、全身あざだらけの無惨な姿でコウイチの前に現れた。

それは昼間の出来事だった。日曜の午後、いくら電話しても電話に出ないユウキに見切りを付けて、コウイチが公園脇の道を歩いている時だった。

向こうから、よろよろと歩いてくる人影があった。

始めはそれがユウキであるとはコウイチも気がつかなかった。
それほどまでに彼の姿は痛々しかった。

コウイチがそれがユウキであると気が付いて駆け寄ると、こちらに向かって居歩いてきたユウキの足取りが、ぴたりと止まった。彼は腫れた目を上げて、コウイチを見た。そして、悲しそうに切れた口元だけで笑った。


ユウキが洗いざらい、すべてを話してくれたのは、その日の夕暮れ、もはや遊ぶものの誰もいなくなった、小さな公園だった。
その話は、同級生どうしの無邪気な恋愛しか知らないコウイチにとってあまりに衝撃的なものだった。

静かに、その話しをしている時のユウキは、彼の知るユウキではないように思った。
またあのときの、遠い存在に、ユウキはなってしまったように思われた。
まるで、夜の闇と会話しているかのように、コウイチとは一度も目を合わせずに、ユウキは小さな声で一人語り続けた。

「当然なんだ。考えてみれば。」彼はそう言うと、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「僕は、いけないことをしたんだから」そうして、一つ、大きな溜息をした。
「好きになるって事は、どうしてこうも、自由にならないものなんだろう。それがいいことなのか、悪いことなのかも分からないのに、どんどん前にだけは進んでいく。...それは、彼女も同じだったと思うんだ。僕らは、ふたりとも、同じ気持ちだったのだから。」
ユウキはもはや、コウイチの存在を意識していないかのように、切々と話し続けた。
コウイチは彼が話し切ってしまうまで、質問を挟むことは憚られるように感じていた。

「彼女、泣いてたよ。僕が殴られている間、ずっと。」
コウイチはそう言うと、俯いたまま身を小刻みに震わせた。
口の間から、微かな嗚咽が漏れた。

「もう、こんな恋は嫌だな」
一言、ぽつりと言った。
その声さえも、夜の闇に吸い込まれていくようにコウイチには感じられた。

「僕らは結局、こうするしかないんだ」

ユウキの言葉をコウイチはよく理解できなかったが、それでもなぜか、胸の奥に迫るものを感じていた。
それは彼に突きつけられた、一本のナイフのようでもあった。

2008年9月8日月曜日

野辺送り

老人は嘆いていた。

彼のたった一人の孫が突発的な大波にさらわれ、数日前から行方不明になっていた。仲間が船を出し連日捜索してくれたものの、息子の安否を示す手がかりすらえられなかった。

毎日、浜辺に立ち、仲間の漁船が帰ってくるのを今か今かと待ち続ける老人に、手ぶらで帰ってくる友船の乗組員達は合わす顔がなさそうだった。

「じいさん、すまねえ...。」
若い衆を率いている大柄な男が小さな老人に申し訳なさそうに頭を下げた。

そんなとき、老人の瞳はただ青い海を見つめているだけだった。
彼の灰色の瞳には、彼の孫を飲み込んでも平然とした、穏やかな青い海原が拡がっているだけだった。

これに生かされ、そして殺されるものたちがいる。

老人もかつて漁師だったから、そのことはよく分かっているつもりだった。
彼の息子も、そして娘の婿も、この海に飲まれて死んだ。

しかし、それでも、自分の孫までが、こうしてが生死も判然としない状態になってしまうと、老人はもう気が狂ってしまいそうだった。今はもう亡い、彼の娘に...、すなわち、この孫の母に、彼は誓ったのだ。
先に逝くお前の変わりに、この子を一人前の人間にしてみせる、と。

彼の娘は、その夫が亡くなってそれほど経たないうちに、気をおかしくして海に飛び込んでしまった。
何とか助け出されたものの、溺れて長い時間息ができなかった影響か、もう立つことも話すことも出来なくなってしまい、目を回したような顔のまま、10日と持たずに息絶えた。

幼くして母を亡くした子供は、きっと乱暴者になると、村の老人達は口々に言った。かつてそういう者が出て、村はたいそう迷惑したことがあったという。その言葉に恐れをなして、その子を何処かへ里子に出すように彼に強く迫る者も少なからずいた。しかし、彼は結局、子供を手放さなかった。

この子を、一人前の、漁師にするまでは、私はこの子を育てなくてはいけない。
愛する娘を失った父の、それが生きる支えになっていた。

幸い、彼の孫は周囲の心配を他所に、すくすくと成長した。

そして、まだ随分幼いうちから、祖父について漁を習い、成人する頃には、すでにいっぱしの漁師を名乗れるまでに腕を上げてていた。

彼が港で一番の水揚げを上げたとひとから聞く度に、老人は有頂天になった。
実際、彼の孫は本当に上手に魚を捕ってきた。多くの漁師が、魚をあちこち傷だらけにして、ようやく仕留めるところを、息子はそれを本当に最小限に留めるので、魚の鮮度がほとんど落ちなかった。

街からやってくる仲買達も、彼の孫の捕った魚は特に高く買い取っていった。
おかげで、老人は普通より少し早く引退することが出来た。最近になって、孫の妻となる娘もようやく決まった。彼の孫に対する娘達の評判は悪くはなかったようで、妻となる娘の親ともすぐに話が付いた。


しかし、そんな折、事故は起こった。
孫の船が沈んだ場所は昔から三角波という、極めて大きな波が突然起こる海域で、漁船が転覆する事故がたびたび起こっていた。ただ、それも風向きと天候に左右されるようで、いつもはなだらかな、なんの変哲もない場所だったから、村人も、特にそこを警戒して避けるようなことはしていなかった。何より、その辺りは魚の好む岩礁もいくらかあって、村の漁師達はまずそこで小さな魚を捕まえてから、それを餌にして大魚をねらいに行く場合が多かった。

その日は彼の孫も、おそらくはカジキかマグロあたりを狙って、まずその餌を確保しようとその海域に船を向けたようだった。その様子は、近くで漁をしていた多くの仲間が目撃していた。しかし、少したった後、仲間の一人が彼の捕っていた場所で同じく魚を捕ろうとしたところ、先ほどまでいた彼の船がないことに気がついた。

始めは、いつの間にか立ち去ったのかと思って特に気にしていなかったが、海面に、彼の船名の書かれた板きれが浮かんでいるのに気がつき、あわてて持っていたメガネで海底を覗いた。

揺らめく海底に、途中から真っ二つに折れた一隻の小舟があった。人影までは確認できなかったが、男はあわてて仲間の船を呼びに船を走らせた。


それから、もう数日が過ぎていた。

老人は隠居したと言ってもまだ若く、はつらつとしていて、肌のつやも、目の輝きも未だ衰えを知らぬ印象だったのだが、孫が行方不明になったと聞いた日から、おそらく夜も眠れないのか、眼窩は深くくぼみ、頬はすっかりやせこけていた。心配した彼の姪が、毎日彼の家を訪れて、何かしらのものを食べさせようとしていたが、彼は一向に受け付けなかった。

起きればいつも、なだらかな海ばかりを見て、眠る時は闇の中、閉じられることのない眼を一晩中ぎらぎらと光らせていた。

このまま、彼の帰ってこない日が続けば、この老人もすぐに参ってしまうだろうと、村人は皆心配していた。


そんな折、遺体が浜に打ち上げられた。

知らせを持ち込んだのは、孫の幼なじみの娘だった。

その娘は、彼の孫が行方不明になったと聞いた日から、毎日浜に出て、砂浜の上を歩き回っていた。

昼間の浜には誰もいなかったので、歩き回る彼女の小さな足跡だけが延々とその砂の上に刻みつけられた。そしてそれが潮の満ち干でかき消される頃には、また彼女によって新たな足跡が刻まれた。生存を信じるほどの希望があったわけでもなかった。彼女の父親も、一昨年海の事故で死んだ。海に生きる漁師が海で死ぬのは当然のことだとは彼女もよく分かっていた。せめて、彼の身につけていたものでも流れ着いてくれれば、それだけを幼なじみの形見にしようと彼女は考えていた。
そうして何日目かのある日、視界の向こうに、彼女は、それまで無かった、何か大きなものが流れ着いているのを発見した。

気丈にも、彼女はそれに恐れず近づいた。そして、うつぶせに倒れていたそれをひっくり返し、彼女の幼なじみであることを確認しさえしたのだった。それは、ある種の気の動転のなせる業だった。彼女はその事実を、半ば無意識に、近所に住んでいた村長と、漁師の頭と、そして彼の父である老人に伝えてまわった。

「おじいさん、ヤンが...。」
娘がそう言うのが早いか、老人は家を飛び出してきた。そして娘について、一緒に浜に下った。
老人はそれまで不眠不休で孫の無事を祈っていたとは思えないほどの早足だった。とはいえ、娘の方もすっかり気が急いていたから、そのようなことにも全く気がつかなかった。

老人と娘が浜に付くと、すでに漁師仲間と村長がヤンの亡きがらを取り囲んでいた。
どこからか話を聞きつけたのか、他の多くの村人も浜に続々と降りてきて、そこにはすっかり人だかりが出来ていた。

村人達は、老人が来たのに気がつくと、すぐに道を譲った。
人混みをかき分けるようにして、老人とその幼なじみの娘はようやく、輪の中心にたどり着いた。

そこには、砂の上に眠ったようなヤンの亡きがらがあった。
顔は鑞のように白くなっており、長い間水の中にあったからか、体がふやけて、生前の彼より幾分膨らんでいるように見えた。
亡きがらを前にして、老人に言葉はなかった。
老いさらばえて、すっかり細くなった指を、愛する孫の髪に絡ませた。そしてそのまま、じっと動かなくなった。

その様子に、周りを取り囲んでいた村の女の一人が、さめざめと泣き始めた。鳴き声は静かに、二人を取り囲んだ輪の全体に伝わり、やがて輪全体が、静かな優しい涙に包まれた。

村人はそうして、しばらくみんなで泣いていたが、やがて漁師の頭が、似合わぬ涙声で
「じいさん、そろそろ、家に上げてやろうぜ」
と言った。

輪の中から男達が数人進み出て、ヤンの体を大きな戸板の上に寝かせた。
そして、板の両端を持って、彼を老人の家に向けて静かに運び始めた。

先頭には頭と村長が付き、その後に漁師仲間に囲まれたヤンの亡きがらが続いた。
女達はその後ろについて、老人は幼なじみの娘と彼女の母に支えられて最後尾を歩いた。

他の女達はまだ泣きやまず、そうして歩いている最中にも悲しげな鳴き声がしくしくと聞こえ続けていたが、老人を支える娘の顔には涙はなかった。彼女は、老人が悲しみの余り倒れてしまったりしないように、終始気を遣っていた。

娘の母は、始終泣いていた。
娘は、そんな母に、
「かあさん、ヤンのお父さんには私が付いているから、先に行って休んでいて。」
と気遣いを見せた。
彼女の母はその言葉に頷いて
「じゃあ、後はお願いね、スー」と言い残して、しずしずと進む隊列を抜けて、早足で老人の家に向かった。

老人は浜に駆けつけるために体力を使い果たしたのか、歩き続けるのさえ、ままならなかった。
時々立ち止まったり、左右にふらふらと力なく振れたりしながら、何とか前に進んでいた。
娘と老人は次第に隊列から遅れ始めた。

先頭の何人かがそれに気がついて、隊列を止めようとしたが、娘は手を高く挙げて、先に行っていてください、と合図した。先頭の男達は大きく頷いて、再び歩き出した。

娘は疲れ切った老人を励まし、少しずつ少しずつ、彼の家に向かった。
いつも通い慣れている丘の上の家が、今日は随分遠くに見えた。

こうやって坂を上って、いつもヤンの家に遊びに行ったっけ。
娘は自分が小さかった頃のことを思い出した。

ヤンったら、いつも、私の前では海のことしか話さないから、私まで、女なのに海の仕事に詳しくなっちゃって。
網を縫ったり、仕掛けを作ったり、銛を研いだり。
ああいう仕事をしている時のヤンは、本当に楽しそうだった。
私も、彼と一緒にいつもそんなことばっかりだった。
変な女だって彼も言ってたけど、私も一緒にやると、すごく、よろこんで...。

娘はふと顔を上げた。丘の上の老人の家が見えてきた。
「おじいさん、もう少しです」
彼女に肩を支えられた老人は、うめきとも返事とも付かない声を漏らした。
そして、膝を小刻みに震わせながら、一歩一歩坂を昇った。

ヤンは、本当はもっとかわいらしい女の子の方が好きだったんじゃないだろうか。
私が、彼の結婚相手に選ばれたのは、親の考えだったし、あの頃の彼の周りにはいつも女の子がいたから、私以外に好きな子がいたとしても、おかしくなかった。
悪いことをしたのかな、彼には。
彼の幸せを、私は奪ってしまった。私がはっきり断れば、それだけのことだったのに。
ヤンはおじいさんを大切にするから、きっと断りにくかったんだろうな。

ヤン。ごめんなさい。



二人が老人の家にようやく戻ると、中ではすでに弔いの準備が進んでいた。
村の女達は、弔いに出席する人数分の煮炊きに忙しく、泣くことも忘れていた。
スーの母親も、腫れたまぶたのまま、竈に薪をくべている。老人を座敷にようやく上げると、スーも母を手伝った。


やがて、山寺から僧侶が呼ばれてきて、弔いの儀式が始まった。
僧侶が念仏を唱え、ヤンの魂を山の頂にあるという仙人の国に送った。
そして、一通りの儀式が済むと、僧侶が先に立って、ヤンの亡きがらを山に埋めに行った。

そこから先は男だけの仕事と言われていたので、漁師仲間の数人が僧侶の後について山に入った。
そして、それほど経たないうちに彼らだけが軽くなった戸板を持って山から下りてきた。
それを見た時、スーはようやく、ヤンがいなくなったと言うことを実感した。

足下から力の抜けていくような感覚が彼女を襲ったが、まだ彼女にはすることが残っていた。
ヤンを弔う静かな宴が始まろうとしていた。

「全く、惜しい人を亡くしてしまった。それもこれも、俺の責任だ」
会の冒頭、漁師の頭はそう言って、老人に頭を下げた。老人はその言葉に、
静かに左右に首を振った。
「あんなに明るく、はつらつとして、腕も立つ若いものをみすみす溺れさせてしまうなんて..。」
老人はますます強く首を横に振った。老人の両の瞳から涙の粒がぼとりぼとりと落ちるのを出席した誰もが見ていた。

「スー、お前にも、本当に悪いことをした。」
頭は末席に腰掛けたスーに顔を向けた。
「婚約の日取りも、決まっていたというのに。」
「そんな...。わたしは...。」スーはそれだけ言うと、目を伏せた。

「二人の幸せを奪った、このことは忘れないようにしよう。あの三角波の場所での漁は、今後硬く禁じよう」
漁師達はみな、無言のうちに頷いた。

宴はそれから、静かに進められた。

そして、小一時間もすると、一人、また一人と客は帰っていき、やがてスーと彼女の母親だけが残った。
彼女らは宴の後を片付けていた。

老人は疲れてすでに座を払って奥で休んでいた。

「スー、あなたは大丈夫?」
母親がスーを気遣った。
「今日は疲れたでしょう。先に帰って休んだら。後片付けは、明日早く来てやってもいいんだから。」
スーは首を振った。
「おかあさんこそ、寝ててもいいよ。私もこれだけ片付けて、今日は下がるから。」
母はそれを聞くと、それならと言って、皿だけ机の上から下げて、家に戻った。
スーはそれをみんな水に浸けてしまった後、
「おじいさん、おやすみ」
と一言小さな声で挨拶して、老人の家を出た。


外は月もない夜空で、空には幾つもの星が瞬いていた。
カモメの星座や、海の神様の星が今日はいつもよりよく見えた。

海の神様の星は、他の町の人間は北極星と呼んでいるのだと、スーは以前ヤンから聞いたことがあった。
夜の海で陸が見えなくて迷った時、あの星を頼りに進んでくれば、きっと村までたどり着けるのだと彼は言っていた。

北極星は丘のふもとのスーの家の方から見れば、いつもヤンのいる丘の上に光っていた。
丘の上に立ってそれを見れば、ヤンの魂の昇っていった山の上に、その星は輝いていた。

スーはその小さな星の光を見て、もう一度、足の力が抜けてしまう感覚に囚われた。
そしてその場に座り込んでしくしくと泣き始めた。

風に揺られたすすきがさらさらと乾いた音を立て、
小さな声で鈴虫が鳴いているのが聞こえた。

スーの泣き声は、その中で、途切れ途切れに夜の闇に響いていた。

頭上には、彼の御魂の登った山が、夜空より更に深い闇として、静かにそびえ立っていた。

2008年9月7日日曜日

無題

翌朝老人はいつもよりやや遅く目が覚めた。
昨夜眠りにつく時間が遅かったためかもしれない。
目が覚めるとすでに太陽はすっかり昇っていた。

女もまだ起きていなかった。
彼女も、なかなか寝付けなかったのだろう。

知らない他人の家に泊まり込むほどの事情があった女なのだ。
おそらく、とても疲れているにちがいないと老人は察した。

彼女が起きるまで、そっと眠らせておくことにした。

顔を洗い、手早く着替えをすませると、外に出て、菜園からピーマンを数本取ってきた。
そして、それらをあらかじめ買っておいた他の葉野菜と合わせてサラダを作った。

老人は余り料理には詳しくなかった。せいぜい作れるものは、こういったサラダのような単純なものばかりだった。それでも、自分で野菜を作るようになって、実はこういうシンプルな料理の方が、素材が十分に新鮮な場合にはよっぽどおいしいと言うことがよく分かった。

料理をすれば、品質にややに劣る野菜であっても、ある程度のおいしさにまではすることが出来る。
でもそれは、結局醤油や砂糖などの調味料の味でごまかしているだけで、野菜の本来の味はだいぶ霞んでしまっている事が多い。野菜を作るようになって、老人はそのことをもったいないと感じるようになった。
生のピーマンの苦み、ニンジンの持つ香草のような爽やかな香り。そう言った生の食材の味を老人はこの年になってようやく意識するようになった。

台所で朝食を支度していると、後ろから誰かが歩いてくる音がした。
「...おはようござます」

老人が振り向くと所在なげに女が立っていた。
他人の家と言うことを意識してか、ある程度身は整えてあったが、疲れた表情は隠せていなかった。

「...あの、何か手伝えることは...」
女が老人に気を遣う素振りを見せたので、老人は笑って首を振り、
「あなたはお客さんなのだから。底に座って、新聞でも読んでいてください」
と言った。
「でもそれでは...、せめて何かさせていただかないと...」
女は何もせずに見ていることなど出来ない様子だった。

落ち着かないまま女をほうって置くわけにも行かないので、老人は
「じゃあ、うちのとらにえさをやってはもらえませんか」
と言った。女は老人が指し示したところにあった大きなえさの袋から、一鉢分のえさを取り出すと、その音に気がついてしっぽを立てて近寄ってきたとらを縁側に連れ出した。そしてそこで彼女にえさを与えながら、おそるおそる頭を撫でた。

老人はその様子をほほえましく思いながら、二人分の食事の用意を調えた。
「さあ、出来ましたよ」

二人はそれから、小さなテーブルに向かい合わせに座って静かに食事を取った。
お互いが、どんな人間かも知らないので、会話は僅かだった。

ただ、老人の作ったサラダと、味噌汁を口にした時女は思わず
「おいしい」
と小さな声を漏らした。

「昔から、お料理は得意だったのですか」
女がそんなことを聞くので、老人は首を振った。
「いえ...。元々は、料理なんてちっとも。ただ、妻が死んでからは、自分で作らなくてはいけませんから、何とか、覚えました」
「奥様は亡くなられたのですか...」
「ええ、もう2年になりました」老人は無意識に仏間の方へ目をやった。
「それは...」女は申し訳ないことを聞いたというように目を伏せた。
「いえいえ、気になさらんで下さい」老人は沈み込んだ女に笑いかけた。
「もう、すっかり立ち直りました。今では料理は大切な趣味になりかけていますよ」

「このサラダのお野菜は、ご自身が作られたものですか?」
「分かりますか?」老人は喜々として答えた。
「ええ...。先ほど猫ちゃんにえさをあげていた時に、お庭の畑が見えたものですから...。結構いろいろなものをお作りになられているようですね。」
「ピーマンになすにカボチャに...、季節に応じていろいろ作っています。今年はすいかも始めたのですが、どうもうまくいかなくて。なかなか、ああいう甘いものは難しい。」
「なんだか、とても楽しそうですね」老人が急に饒舌になったので、女が思わずそう言った。
「ええ...。すっかりはまってまして。他にやることがないからでしょうな」
「いえ、素敵なご趣味だと思います。」女は初めて微笑んだ。「なんだか、うらやましい。」
「余り、こういう事はやられませんか?」
「ええ...。うちはマンション住まいで、庭もありませんから...。」女は伏し目がちに答えた。
「庭など無くっても、プランターでも十分です。」家庭菜園のこととなると、老人の言葉は熱を帯びた。「それほど難しいことでもないですよ。」
女は老人の語気に、些か気圧されたようだったが、はにかむように微笑んで「今度挑戦してみます」とだけ、答えた。

食事が終わると、女は再び縁側に出た。
そこでは同じく食事を済ませたとらが、夏の陽光を避けて日陰で涼んでいた。
女は縁側に座って、眠る猫の頭を優しく撫でながら、そこから見える白い雲の浮かぶ広い空と、青い海を見つめていた。庭には青い野菜がたわわに実っており、食べ頃のトマトも、なすも、夏らしいすがすがしい彩りをその風景に添えていた。蝉が強い声で鳴いている。
海から涼やかな風が吹いてくる。

女は一つ深い呼吸をした。
先ほどよりも随分、くつろいだ様子に見えた。

老人はようやく穏やかさを取り戻しつつある女の後ろ姿を見守りながら、冷たい麦茶をグラスに注いだ。

「麦茶でもどうですか」
老人が冷たいグラスを差し出すと、女は
「何から何まで...本当にすいません」と言いながら素直にそれを受け取った。

二人静かに海を見ながらその香ばしい飲み物を味わった。

「...いつも、この海を見ながら過ごしておられるのですか。」
女は遠くを見つめながら言った。
「ええ。これが見たくて、この家に決めたのです。」
老人も女と同じ海を見つめた。
「私の憧れでした。海を見ながら、老後を過ごすのは」
「わたしも、そうありありたい。」女が言った。「こういう、のどかな暮らしを私もしてみたい。」
「したらよろしい。」老人は言った。女が老人の方を見た。
「遠慮などすることもない。独り身の老人が住んでいるだけなのだし。疲れたら、いつでもいらっしゃい。海は、そもそも私だけのものでは無いのだから」
女は老人のその言葉に、みるみる涙ぐんだ。そして、手に持った麦茶のグラスを握りしめるようにして、かろうじて涙をこらえていた。

老人は、女を、静かな瞳で見つめていた。
やがて、女は顔を上げると、絞り出すような声で、
「...ありがとうございます」と言った。そうして、ぼろぼろと涙をこぼした。

老人が差し出したタオルに、女は顔を埋めるようにして泣いた。

老人は女に連れ添って、彼女が泣きやむまでずっと見守っていた。


その日の夕方、彼女は帰った。
帰り際、女は名前と電話番号の書かれた紙を残していった。

樋口と言うのが女の名だった。


「また、お邪魔してもよろしいでしょうか」
遠慮がちに女がそう聞いた。

老人は微笑みながら無言で頷いた。

真っ青な自動車が、夕焼けに輝く海沿いの道を、しだいに小さく遠ざかっていく。
その様子を、老人は家の前まで出て車がすっかり見えなくなるまで見送った。

2008年9月3日水曜日

無題

始めそれは、老人の思い過ごしかと思われた。
彼はその亡き妻にうり二つな女を目の前にしても、まだ己の目が信じられずにいた。

女を客間に通し、かつては妻が使っていて、今は来客用に取ってある布団を与えると、老人は自室に戻って、タンスの奥から、古いアルバムを取り出してきた。

それは、彼と、妻が結婚した時に記念として撮った写真だった。

セピア色の画面の向こうで、若き日の老人と、彼の妻が、幾分緊張した面持ちでこちらを見つめていた。なれない装束を着せられた妻は写真越しにもぎこちなさが見えて、老人は当時の慌ただしさを思い出し、思わず微笑んだ。

その妻の表情はちょうど、先ほど彼の前で不安げに嘆願した女の表情に、やはりよく似ていた。彼の妻の方が、幾分丸い印象は受けたものの、それ以外は全くそっくりだった。

「こういう事もあるものか」
老人は独りごちた。
「涼子が帰ってきたかのようだ」

古いアルバムを、元の場所に大切に仕舞うと、老人の足は自然と、女の眠っている客間の方へ向かった。

特に、目的があったわけではないが、この奇跡のような光景を前にして、彼は居ても立ってもいられなくなっていたのだった。何となく、その奇跡に寄り添っていたい気持ちが、彼の中に働いたのである。そんなことは実際無理だとしても、彼はたとえ一寸でも彼女のそばにいたかった。

老人が客間のそばまで来ると、閉じられた襖の間から、僅かな明かりが漏れているのが見えた。女はまだ、眠っていないようだった。

「もしもし」
老人は襖の向こうへと声を掛けた。
「はい」
はっきりした返事が聞こえた。考えてみれば、今時分は普段の老人にとっては寝る時間だが、彼女位の年齢の人にとってはまだまだ起きていてもおかしくない時間だった。
老人が静かに襖を開けると、女は案の定、まだ着替えもせず、古い布団の上に座っていた。

「眠れませんか」老人がそう言うと、女は
「ええ...。」とだけ言って、困ったように笑って見せた。

「こんな夜更けに、どういう事情があったのか...。無理を言うわけではないのですが、もしよかったら聞かせていただけませんか。私ごときが、なんの話し相手になるか知れませんけれども。」

女はその老人の申し出が意外だったらしく、目を大きく見開いた。黒い瞳が鮮やかに濡れていた。
「ええ...。」女はしかし、何かを躊躇うかのようにその目を伏せた。
「それは...。」

女の様子に、何かよほど言いがたいものがあるのだと悟った老人は
「いえ、いいのです。...何か理由がおありでしょう。今日はとにかく、ごゆっくりお休みなさい。」とだけ言って、その場を立ち去ろうとした。

「!、 あの....。」立ち去ろうとした老人を、女が呼び止めた。「あの...。」
「どうしました?」老人は振り向いて、女の表情をのぞき込んだ。その目には、今にも零れんばかりに涙が溜まっていた。
女の、その涙の溜まった目は、老人の瞳を避けるようにしばらく何もない畳の上に向けられていたが、やがて、意を決したように老人に向けられた。
「しばらく、ここに置いていただけないでしょうか。」

その申し出が意外だったので、老人は驚いて思わず目を丸くした。
女はそんな老人に構ってもいられない様子で、
「理由は...。必ず話します。お願いです、2,3日でもいいんです。もう少しだけ、もう少しだけ...。」女はそう言うと、無意識にか、頭を布団にすり寄せるほどに下げて老人に懇願した。

「いや...。まず、頭をお上げください。」
老人は彼女の肩を支えるようにして、頭を上げさせた。
女の顔はもう、涙ですっかり濡れていた。まぶたと鼻の頭が、子供の泣いた後のように、すっかり赤くなっていた。
「2,3日と言わず....。あなたの気が済むまでいらっしゃったらよろしい。理由など、特に言う必要もない」
それを聞くと、女の瞳から、また涙が溢れた。そして泣きながら、何度も、ありがとうございます、ありがとうございますと、繰り返した。


部屋を出て襖を閉めると、老人はその足で仏間へ向かった。
そこには彼の妻の遺影が、梁の上に掲げられていた。姪の結婚式に出た時の、久しぶりに着飾った晴れやかな表情だった。彼女から彼に向けられる、静かな眼差しを老人は意識しながら、妻の遺影の前に頭を垂れ、これを信じていいのか?と妻に問いかけた。

女がここにしばらく泊まっていきたいと言い出した時、思わず浮ついてしまった自分の気持ちに老人は少なからず罪悪感を覚えていた。忘れていたはずのそうした感情が、まだ時分の奥底に確かに残っていたことに、老人は少なからず驚いていた。

「私が、世の中を避けてこんな田舎へ越してきたのは、もしかするとこういう気持ちを避けるためだったのかも知れない。」
暗闇の中で老人は一人呟いた。

「お前を失って、ただでさえ、流されそうな心を...。」
老人はそこまで言って口をつぐんだ。無言の内に、彼は亡き妻と会話しているようだった。

彼はしばらくそうして、暗がりの中で黙ってじっとしていたが、やがて、伏せていた顔を上げると、彼にほほえみかける妻の遺影に向かって
「いっそのこと気持ちの奥底まで、枯れ果ててしまえれば楽なのに...。」
ふと、そんなことを言って、一人、笑った。

遺影の妻は変わらぬ表情で、静かに男を見つめていた。

2008年9月1日月曜日

無題

ある晩のことだった。

季節はすでに秋で、7時にもなると辺りは暗くなった。老人にとって、特に遅くまで起きている理由もなく、その日も早くに寝るつもりだった。老人は自分一人の寝床を整え、そうして眠気が訪れるまで、布団の中で静かに横になっていた。

その辺りは、都市に近い海辺がみんなそうであるように、夜遅くになると暴走族がひっきりなしに通り過ぎた。当然警察もそれを警戒して、網を張っているので、毎晩彼の家の前の道路では、激しいカーチェイスが行われていた。老人にとっては、轟音を立ててバイクを乗り回す若者も、それを大声上げて追いかけ回す警察も、どちらも眠りを邪魔する騒音の主には違いなかった。故に、老人が早くに寝床に着くのは、そうした夜の喧噪が始まる前に寝入ってしまうためでもあった。

それは、柱時計の鐘が8つを打った時だった。
どんどんと、玄関の戸を叩く音がした。ちょうど寝入りばなだったので、始めは夢かと思っていたが、いつまで経っても、戸を叩く音は鳴りやまなかった。何事かといぶかしがりながらも、老人はゆっくりと立ち上がり、玄関の方へと歩いていった。

老人の動きが、あまりに遅かったので、扉を叩いていた主は、どうやらすでにあきらめていたようだった。老人が玄関へたどり着く頃には、もう扉を叩く音はすっかり止んでいた。それでも老人は念のため、鍵を外すと、戸をがらりと開けた。
そこには、薄暗い玄関の明かりに照らされて、不安げな女の顔があった。
老人は、その顔を見て一瞬はっとしたように目を開いたが、それは女には気がつかなかった。
「すいません、」女は不安げな表情のまま、老人に言った。肩まで伸びた髪は所々乱れていた。

「お宅の前で車が動かなくなってしまって...。この辺りに、ガソリンスタンドか何か、ありませんでしょうか。」女の声は押し殺したような小さな声だったので、老人には上手く聞き取れなかった。ただ、その女の様子から、随分困っているようには察せられたので、
「こんな夜分遅くに...。まあ、とにかく、中へお上がりなさい」
女にはとんちんかんな回答と思われるだろうと思いながらも、老人は彼女をとりあえず中へ招き入れた。女は、老人の目の前に現れた時からすでに、理由は分からなかったが、しきりに辺りを気にしていた。老人にはそれがずっと引っかかっていた。
「でも、車が...。」
女は、後ろを振り向いた。明かりの消えた車が、国道の真ん中で、老人の家の出口を塞ぐように止まっていた。
「車...。」老人はそれを見て、ようやく状況を察したらしく、
「あそこに置いておくと、夜中に騒がしい連中が来て、悪戯されることがあるから、私の家の庭に、とりあえず入れなさい。」そう言って、足下にあった草履を突っかけて、彼女に先立って歩き出した。女はどうして良いのかすっかり困っているらしく、その後ろから何も言わずにおずおずとした様子で付いてきた。老人が運転席のドアを開け、サイドブレーキを外して、ハンドルを取ると、女はようやく後ろからそれを押し始めた。車は、幸い軽自動車だったので、二人の非力な人間の力でも、それほど労無く動かすことが出来た。

車をすっかり庭の中に入れてしまっても、女の顔から不安げな表情は消えなかった。
「お電話、お借りしても良いですか。」
女は、老人の瞳をのぞき込むように言った。
「携帯をおいてきてしまったもので..。」
「ああ、どうぞ、どうぞ。」老人はそう言って、女を内に上げ、電話の前まで案内して、自分は居間に入っていた。

「...。」
電話を前にして、女は受話器は取ったものの、一向に何処かへ掛ける様子はなかった、じっと、受話器の無くなった電話機を見つめるようにしながら、女は何かを思い詰めているように見えた。

ややしばらくして、女は結局、どこへも電話した様子のないまま、受話器を置いた。
そして、老人の前に座り込むと、
「すいません、今日一晩だけ...、今日一晩だけ、泊めていただけないでしょうか」と言って頭を下げた。

「...ええ、それは構いませんが...」老人は女の何か必死な様子に、頷かないわけには行かなかった。
「ありがとうございます」
女がそう言って、一度顔を上げて老人を真正面から見た。その表情を見て、老人は再び、何かが胸の中に激しく渦を巻くのを感じた。この女を放って置いてはいけない。彼の奥底にそのような理由のない、熱い意志のようなものがわき上がるのに、彼自身驚いていた。

女は、年は30も後半だろうか。確かに美しい女ではあったが、どこにでもいる程度の美しさであることは、老人は十分認識していた。彼の年を経た精神は、もはやそのようなものに、闇雲に感情を乱されるほど素直ではなかった。むしろ、頭の一方で冷静にその場を見つめる余裕すら、彼にはあった。だからこそ、自分の心理の一方に、そうした理由のない感情がわき上がってきても、彼はそれはそれで受け入れながら、そんな様子はおくびにも出さずに、目の前の女を観察することが出来た。

それでも、老人は少なからず動揺はしていた。

その女は、若き日の、彼の妻の姿に、あまりにも似ていたからである。