2008年10月25日土曜日

クスリ

どこに行けばいいのだろう。

女は一人途方に暮れていた。
知らない田舎のはずれの無人駅。
すでに通る列車もなく、辺りは静まりかえっている。

女は死に場所を探していた。
死ぬのならば、誰も知らない、どこか遠くで、ひっそりと死にたいと思っていた。誰からも振り向かれることの無かった己の人生に、それが一番相応しい最後であると、彼女は思っていた。女はふと、手に提げた小振りのボストンバックを見た。中には、少々のお金と、そして、両親と、何人かの友人に当てた遺書が入っていた。遺書を残した友人のうち、一人はかつて、彼女が本気で恋をした男だった。しかしそれも、今となっては遠い昔の話で、おそらく彼も今頃は、別な女性と、幸せに暮らしているのだろうと、彼女は思っていた。彼女からの遺書が、万が一にでも、彼の元に届いたら、彼はきっと、迷惑するかも知れない。彼女は遺書を書きながら、ふと、そんなことを考えもした。
しかし、結局、遺書は書いてきた。
どうせ、死ぬのだから。
それで、この小さなわがままの一つ位、許してもらえたっていいのではないだろうか。

死と引き替えに、たった一通の手紙を残す。
それもなんだか不釣り合いな気がしていた。
彼と付き合ってさえいれば、そんなこと造作もなかったはずなのに、今のわたしにとって、この一通分の思いを伝えるのが、なんて難しく、つらいことなのだろうか。
女はそれを思うと、今彼と付き合っているであろう、見知らぬ女を恨みもした。
でも、それもすぐに止めた。恨み辛みを抱えたまま、己の死に際を、醜悪に終わらせたくはなかった。
せめて、散り際だけはさらりと、逝きたかった。

自殺の理由は、特にこれと言って無かった。何か特定の原因と言うよりも、いろいろな不安が押し重なって、彼女を死のきわまで追い詰めていた。生きるのが、嫌になった。そう言うのが一番正確なのかも知れない。生きていても、楽しい事なんて、期待できないのかも知れないな。彼女はそんな、脱力感にもにた思いに囚われたのであった。

彼女の持ってきた荷物の中には、多量の睡眠薬が入っていた。
首をつることも、海に飛び込むことも考えたが、苦しまずに死ねる方法を考えて、これにした。
実際、本当に苦しまずに死ねるかどうか、死んだ人が教えてくれるわけでもないので、知りようがなかった。ただ、テレビや映画では、みんなまさにに眠るように死んでいくような描かれ方をしていたし、死に際も醜くなる心配はなさそうだった。高いところに昇るのは怖かったし、怖じ気づいてしまうだろうという予測があった。首をつるのも、目玉が飛び出るほど苦しむという話を聞いていて、考えただけで吐き気がした。

彼女は鞄を開け、睡眠薬の入った小瓶を取り出した。
それを掌で暖めるように押し抱きながら、しばらく佇んでいた。

この小瓶を手に入れてからずっと、彼女は不安になるごとに、この瓶を抱いていた。
これを飲めば、いつでも楽になれる。
そう思うと、不思議と心が静まった。死ぬために買った薬で、これまで生き続ける事になろうとは、彼女自身、思っても見なかった。もしかすると、彼女に不安をもたらしていたのは、出口のない毎日であったのかも知れない。毎日というものから、脱出する出口を見出すことで、なんにせよ彼女は、その不安を軽くすることが出来た。

これで、この毎日も終わる。

彼女は辺りを見渡すと、誰もいない駅の待合室が目についた。ここなら、次の日の朝には、彼女の遺体を誰かが見つけてくれるだろう。ひっそりと死にたいとは言っても、誰にもその死を伝えたくないというわけではなかった。わたしは悩み抜いて死んだのだ。そのことを、一部の人には確実に伝えておきたかった。

彼女は、待合室のベンチに腰を下ろした。夜露に濡れたプラスチックのベンチは、座るとひやりとした。
彼女はそっと小瓶の蓋を開けた。そして、ありったけの錠剤をその掌に載せると、微かに微笑んでそれを飲み下した。

次第に、世界が揺れていく。

目の前はやがて真っ暗になった。




明くる日、まだ太陽が昇りきらないうちに、彼女は目を覚ました。
太陽は、真向かいの大きな山の頂から、赤く眩しい光りで、地上を照らしていた。

彼女は、のそりと起き上がった。頭が、がんがんしていた。
喉も少し痛かった。

おそらくは、風邪を引いたのだろうと思った。




こうして死ねなかった女が、どこへ行ったのか、誰も知らない。
ただし、彼女がもう一度、自死を試みたことだけはなかったと思われる。

彼女の去った後の駅のくずかごには、破り捨てられた彼宛の遺書が、
くしゃくしゃに丸められてうち捨てられていた。

2008年10月15日水曜日

ゴンドラ

この恋の先に、一体、何があるって言うんだろう。

わたしには、それが見えずにいた。


彼との時間は楽しかった。どんな些細なことでも笑いあえたし、二人の間にはなんの問題もなかった。
彼は優しく、頼りがいがあり、仕事もきっちり出来る人で、申し分のない男だった。
わたし達は、言うまでもなく「順調」だった。

でも、「順調」という言葉は、そもそも何が「順調」だというのだろう。

まるで二人の関係が、すでに行き先が決まっている旅のようで、そうしていずれ、決まり切った過程を経て、行き着くところへ行き着くとでも言うような...。その道すがら、わたし達は「順調」だというのだ。

まるで、わたしが、彼の運命を縛っているようにすら感じてしまうその「順調」と言う言葉。
進めるべき所に、進めているのは彼?それとも、やはりわたしなのだろうか。

ときどき、わたしは思うのだ。

彼は、この、私達の関係を、どのように考えているのだろう、と。
彼は、わたしの前ではいつも饒舌に、そして時々冗談を交えながら、陽気に振る舞ってはくれているけれど、その笑顔の下の本心には、何か、全く違うものが隠れているのではないだろうか。

それを考え始めると、怖くなる。
彼が笑えば笑うほど、その表情の下にもっと暗い何かが立ちこめているのが見えてしまいそうで、わたしの笑顔は硬くなる。

実際には、それは心配のしすぎなのかも知れない。
彼はいい人だし、これまで、そんな暗い兆候なんか、わたしの前では一度だって、見せたことはなかったのだ。

ただ、どうしてなのだろう。
彼が笑うと、わたしは不安になる。
幸せにならなければいけない場面で、わたしは思わず、尻込みしてしまうのだ。


いま、彼が朝のトーストを用意してくれている、ほんの僅かな時間に、
わたしはこの文章を書いている。

昨日も大分遅くまで仕事をしてしまったから、明るい窓から差し込む朝の光が、目に灼けるように眩しい。
カーテンは彼の好み。うすく、透き通るようなブルー。
庭のコスモスの淡い赤が、その色によく映えるように、彼は計算していたらしい。

わたしにはもったいないぐらい、出来る人だ。


昔、わたしが彼に、今のような不安をぶつけた時、彼はわたしをじっと見て、
僕は君を必要としている。
と、はっきり言ってくれた。

わたしは、その言葉を信じている。
なんの根拠もない言葉かも知れないけれど、他の誰でもない、
彼の言葉だし、わたしは信じてみたい。

でも、同時にわたしには分からないのだ。

一体、彼のどこに、わたしが必要だと、いうのだろう。


彼はあまりに、よくできた人なのだ。

わたしなどがいなくても、おそらく彼は十分にやっていけるだろう。
それなのに、「わたしが必要」とは?

たぶんわたしが恐れているのは、その不可解さなのだ。

かれが、わたしの何を必要としているかが分からないから、わたしは始終、彼を恐れている。
もしかして、彼の意に沿わない何かを、わたしはしてしまうんじゃないか。
あるいは、わたしの唯一、彼が必要としている「よい点」を、わたしは何時しか、失ってしまうのではないか。

そうなってしまうことを、わたしは恐れている。


彼が、帰ってくる。

今日も、優しく笑っている。
わたしも笑い返そうと思う。

今日も、綱渡りの
甘い一日

2008年10月4日土曜日

カスク

こいつは、何時か俺を裏切るに違いない。

男と並んで隣を歩いていた女が、親しげに腕を組んできても、男の心の中からそうした思いが消えることはなかった。手を握ること、腕を組むこと、口づけをかわすこと、夜を供にすること。そうした、物理的な二人の交差は、決して二人の行く末の安泰を保証するものではないことは、男は長い経験のうちから知っているつもりだった。むしろ、そうした事実の積み重ねを急ぐような恋愛は、得てして、短命に終わる。男はそう考えていた。

 決して、恋愛経験に乏しい男ではないにもかかわらず、未だに、うち解けたつきあいの出来る女を得られずにいることが、彼のすべてを物語っていた。それは、これまでの彼の恋愛が、仮に物理的な経験は十分にあったとしても、最後は心理的な行き違いで、後味の悪い感情だけを残して終わっていたことに、そもそも起因していた。

どの恋愛も、最後は裏切りで終わる。
それが、男がこれまでの経験から得た結論だった。

友達で終わるとか、きれいに別れる、などというのは、建前もいいところだ。
それは、そもそも始めから恋愛関係ではなかったのだ。

憎しみの伴わない愛が、どこにあるというのだろう。
相手に、自分の理想を抱けば抱くほど、その理想と現実とのズレが、いずれ憎しみとなって吹き出してくる。
それがない愛など、相手に理想を抱いていないも同然ではないか?

傍らの女は、男の腕にしがみついたまま、ひたと身をすり寄せてきた。
男は、感情のこもらない目で、女の顔を見た。女の目は彼を見ていなかった。
ただ前だけを見ていた。しかし、男から見られていると言うことは明らかに意識しているようだった。

男は何も言わず、ただ溜息をついた。


用事があるから、と適当な理由を付けて女と別れた後、男は一人街を歩いた。

何か当てがあるわけではなかった。ただ、女と歩くのにうんざりしただけのことだった。

俺にはそもそも、こういうのは向いていない。
男はそう感じていた。

街は次第に暮れ始めており、西の空深く太陽はは沈んで、薄赤い残光が夜の縁を照らすのみだった。

男はその太陽の残り火を求めるように歩きながら、ネオンの明るく灯り始めた街の中を一人歩いた。


「いらっしゃい」
手近な一軒の店の入り口をくぐると奥から声がした。金属の呼び子が、からからと音を立てた。まだ店は開いたばかりのようで、男の他に先客は客は誰もいなさそうだった。
「お一人様ですか」奥の方から、店の主らしい女の声がした。太く、枯れた女の声だった。
「ええ」
男は端的に答えた。

「では、どうぞお好きなところへ」
男は足の赴くまま、店の一番奥のカウンターテーブルの端に腰を下ろした。
よく磨かれた質朴なその机は、店の穏やかな白熱灯の間接照明を受けて、鈍い輝きを放っている。

「何にいたしますか」
店の主の女が、カウンターの奥から男にたずねた。女はこちらを真っ直ぐに見ていたが、暗さに目が慣れないため、表情までは読み取れなかった。

「タリスカーは、ある?」
男はなじみの酒の名を呼んだ。
「ええ。水割りでよろしいですか?」
「ダブルで」

男はそう簡単に答えると、差し出された手ぬぐいをそっと目に押し当てた。
どうしようもなく、疲れた気がしていた。

あの女と歩いた2時間は、彼に徒労以外の何物をも残さなかったと思うと、自分の人生のほとんどは、疲れるために生きているような気さえしてきて、彼は自分の32年間を無駄多いものとして実感するほか無かった。

もっと効率よく、生きる道もあったはずだった。
それが、どうしてこう、徒労の多い生き方を選んでしまったのだろう。

男は目に厚い手ぬぐいを押し当てながら、ふと笑った。

そして、何事もなかったかのようにそれを傍らへ退けると、差し出された冷たい酒を喉に流した。

男は通しとして差し出された小鉢の和え物を竹の箸でつまんだ。
何処か懐かしい味のする、牛蒡と人参の和え物だった。

「うまいな」
男はふと、独りごちた。
人気のない店内に、男の声は静かに響いた。

「気に入っていただけました?」
女は控えめに男にたずねた。ようやく目が慣れて来た様子で、男はその女の表情を灯るような薄明かりの中、はっきりと見ることが出来た。そして、はっと息をのんだ。

「気に入っていただけた?もう、10年にもなるものね。」
女はそう言うと、恥ずかしそうに目をそらした。
紛れもなくそれは彼がかつて恋した女だった。

よく見れば、見間違うはずもなかった。顔つきも、表情も昔のままだった。
しかし、10年の間に彼女の雰囲気はすっかり変わっていた。
和服を着て、しっかりと化粧をした彼女を彼は見たことがなかった。それに、声も昔よりは幾分低くかすれているように感じた。

「私は、変わってしまったでしょう」
女は眉を下げて困ったように笑った。見覚えのある表情だった。
「十年は、長いものね。でも、あなたは全然変わらない」
「こんなところで働いていたのか。」男はようやく声を出した。
「大学を出てから、君だけ連絡がつかなくなっていたと聞いたが...。」
「わたしは、私を捨てたのよ。」女は困ったような笑顔のままで言った。
「大学時代に見聞きしたものも、それまでに培ったものも、あなたとの思いでもすべて...。そうしないことには生きられなかったから。」
女は、手元の水割りを、マドラーで静かにかき回した。
乾いた氷の音が心地よく耳に届いた。

「あれから、何があったんだ?」男がたずねた。
「俺と別れてから、何が?」
「...何もなかったわ。何も。取り立てて、言うようなことなんか」
女は静かに言った。かすれ気味の声が、言葉じりを匂うように煙らせた。

男も、聞く言葉を失った。
そして、手元の酒をもう一度あおった。

二人は無言のままそれから半時ばかりを過ごした。
男の脳裏には、女の過去に対する疑念が次々に浮かんできたが、男はそのつど、浮かんでくる言葉を酒とともに飲み込んでいた。

男は、自分には彼女の別れて後の人生について、質問する権利を持たない気がしていた。傷を負い、傷を負わせた者の、それが最低限の慈しみのように、彼は思っていた。

女は男が酒を飲み干すと、無言のうちに同じものを差し出した。
それが、彼の無言の質問への彼女の答えなのかも知れなかった。女は慣れた手つきで、その行為を何度となく繰り返した。

二人の視線はその間、度々交差した。
しかし、その手が触れあうことすら、ついぞ無かった。


それは、男が幾杯目かのグラスを開けた時だった。
「....あと、30分もすると、別なお客が入ってくるわ。」
それまで黙っていた女が突如、口を開いた。
「...その前に、帰った方がいい...。...あなたは、見ない方がいいと思うわ...。」

男はなおも無言であった。
が、女の言葉に答えるかのように、最後のグラスを干してしまうと、席を立ち、
勘定を済まして店を出た。


「ちょっと待って」
男が店の前から立ち去ろうとした時、女が呼び止めた。
「これを」
女は一枚のハンカチを男に差し出した。

「昔、私が、他人に言われたことが悔しくて泣いた時、あなたがくれたの。私の...、お守りのようなものだった。すべてを捨てようとして、結局何も捨てられずにいる私の象徴だった...。私は、これを見ていて、私を許せたの。何も、変わっていないような気がする時、何かが、変わってしまったような気がする時、このハンカチが、私を元の私に、引き合わしてくれた。」

女は目を細めて微笑んだ。
「でも、もういいの。私は、私の道を見つけた。私はこれからも変わっていく。でも、私を失うことは、もう無いと思うわ。変わり続けても、変わりきれないものだと気づいたの。どうしても動かせない部分が、人にはあるのよ。...他人はそれを、不器用と言うけれど。」

男は、その言葉に、何かを言おうとした。
しかし、女はそれを遮るように続けた。

「あなたとは結局けんか別れしちゃったけれど、私にとっては最後の恋らしい恋だった。あなたのおかげで、いっぱいいっぱい、いろんな事を知った。...ありがとう。それだけは、言いたかった。」

そう言うと、女は昔のように、片手を上げて、小さく遠慮がちに手を振った。
男は無愛想な表情のまま、それでも軽く頭を下げた。

角を曲がって、女の姿が見えなくなってから、男は女のくれたハンカチを、まじまじと見た。
飾り気のない、暗いトーンの格子柄の、男物のハンカチだった。それは確かに、彼のものだった。女はそれを、肌身離さず持っていたのか、裾はすっかり擦り切れて、ぼろぼろになってしまっていた。布地からは、先ほどの女と同じ香水の匂いがした。彼の知らない彼女の香りだった。

彼の背後から、先ほどとは違う調子の女の声が、微かに男の耳に触った。
男はその声を聞きたくなかった。早足で逃げるように、ビルを出て、ほの暗い通りに出た。

通りでは幾組もの男女が、腕を組み、あるいは手を繋いで、親しげに通りを行き来していた。
男はその中を、両の手をポケットに突っ込んだまま、やや前かがみに、足早に通り抜けた。

男は行き交う群衆の中で、寂しい、と感じた。

裏切りのリスクを背負ってでも、誰かと繋がろうとする寂しさを、
彼は初めて、理解したような気がした。