2008年11月24日月曜日

あと5分、まって

彼女が、化粧をしている。

僕の家の狭いユニットバスの、湿ったフロアの上に裸足で立って、所々、端っこからさび付いて、茶色い斑点が浮かび上がった鏡の前で、薄い青色のアイシャドーを、まぶたの下端に塗っている。

彼女は鏡に映った自分の顔を斜めからのぞき込むようにしてその青い塗料を、すっかり目尻の所まで、念入りに塗りつけている。

僕は玄関先に立って、その様子を見ている。
僕の方はもう、外出する準備は整っている。

彼女に比べて、僕はいつも軽装。

彼女は、近所のマックにちょっと出かける時でさえも、どうしてこれだけ荷物がいるのだろうと思うほど、いろいろなものを小さな手提げに入れて、そうしてそれを大事そうに左手の手首の上の方にぶら下げている。

化粧もそうだ。
できあがった彼女の顔は、決して厚化粧の方ではないのだけれど、その準備には、なぜだかとても時間がかかる。

シンプルな絵が、決して短時間で完成するとは限らないように、
彼女のメイクもそれだけ念の入ったものだと言うことなのだろうか。

はやくしろよ。

そんな言葉が、さっきから僕の頭の中に聞こえている。

でも、僕は口に出さない。
ありきたりな、お父さんのようなキャラクターには、染まりたくないから。

優しい彼、でいたいから。


でもそれは、僕の本当の姿なのだろうか。

僕はいつも自問自答している。

偽った僕の優しさを、彼女が僕の本来の優しさだと勘違いしているとしたら、そのまま、この関係が発展してしまうのは、危険じゃないだろうか。

どうせなら、偽らざる、醜い僕を、
彼女には好きになって欲しいけれど。

偽る、と言えば、彼女は、今、僕の前で、化粧しているが、
あれは、誰のための化粧なのだろう。

僕は、彼女の、ちょっと素朴な感じのする、素顔を知ってしまっている。
現代的なメイクの下の、そんな愛らしい素顔を知っている僕の前で、ああして念入りにメイクする彼女の行為の理由を、僕は知らない。

もしかするとあれは、僕以外の、他の誰かのために、メイクしているのだろうか。
そう考えると、軽い嫉妬を覚えてしまう。

大切な素顔は、あなたのために、取っておいているのよ

昔、そんな映画の台詞があったけれど、それならば、もっと適当でもいいだろう。
何が、彼女をあそこまで、念入りにメイクさせるのだろう。

ごめん、ちょっと待っててね。

斜めから鏡をのぞき込む、彼女の瞳が一瞬僕の方を向いた。
僕の贈った耳元の白いイヤリングがそれに併せてちらりと揺れた。


昔、幼かった頃、
母が何処かに出かけるために、化粧を始めると、
僕はなんだか不安になった。

化粧はそれ以来、僕にとって、
そばにいて欲しい大切な人が、自分から離れてしまうような
切ない幻想を抱かせる。

化粧をした母に、僕は泣いたものだった。

そうして未来に、怯えたものだった。


「お待たせ。」
すっかり準備の整った彼女が、美しい睫毛を交差させて、にこりと笑った。

そのまぶたには薄く引かれた青い影。

彼女が遠くに行ってしまうような、そんな幼いおののきを覚えて、
僕は差し出された彼女の手を、待ちくたびれた手で、しっかりと握った。

2008年11月22日土曜日

笑顔

しんしんと降り続く雪の中、男と少女は、雪深く沈んだ原野の上を、ただひたすらに、北を目指して歩いていた。

すでに、民家の建ち並ぶ住宅街を越え、未だ開発も行われていない裏山に、二人は入り込んでいた。2月を過ぎ、雪は二人の膝下位まで積もっていた。誰も歩いた形跡のない、ふわふわとした新雪の上を、赤い上着を着た少女に手を引かれるようにして、暗い灰色のコートに身を包んだ男が進んでいった。

「どこまで行くつもりなんだ。」
雪の中、腕を引かれた男が少女にたずねた。その声は少し、苛立っているようだった。
「....もっと上の方まで。」
少女はそう言うと、目を細めてにこりと笑った。
白い雪の中に融けるような笑顔であった。

少女は男の実の娘ではなかった。
亡くなった妻の連れ子だった。結婚した当時で、すでに小学校5年生になっており、性格的にすっかりませていたこともあって、それから5年もたった今になっても、彼のことを一度も「お父さん」と呼んだことがなかった。

彼女自身、元の、本当の父親によほどの愛着を感じていたらしかった。
実の父と母が離婚し、男と再婚するために、母と、遠く離れたこの街に引っ越してきた後になっても、男がいない時には、事あるごとに、そのことで母を詰っていたようだった。

しかし少女は、男の前では決して、そのような素振りを見せなかった。
普通の娘として振る舞い、男に対しても屈託のない笑みを振りまいた。

そんな少女に、男は、何処か掴み所のない不気味さを感じながらも、自分の愛する妻の娘として、惜しみなく愛情を注いできたつもりだった。


そんな折、つい先日、彼が愛してきた妻が、突然の病で亡くなってしまった。

少女の嘆き様は、痛々しいほどだった。
この世の終わりでも来たかのように、少女は母の棺にしがみついて大声を上げて泣いた。多くの参列者が、それを見て、思わずもらい泣きをしたほどであったが、妻を失った当の男一人は、少女のその様子を見ても、泣くことができなかった。

俺が死んだ時、この娘は、これほど悲しんでくれるだろうか。

式の間中、男の脳裏にはそんな疑問がずっとわだかまっていた。

実の母ほど、泣いてくれなくても構わない。
でも、娘となった少女に、これまで惜しみなく注いできた愛情の分だけでも、せめて、この子を置いて去った元の父親よりは、大切な存在であって欲しい。
心の内で男はそう、切に願っていた。

男のこの願いは、しかし実際には、確かめようのないことだった。
式が終わると、少女は、いつものように屈託のない笑みを、男に返してくれた。だが、そうなってしまうと、その笑顔の奥にある少女の本来の気持ちなど、男にはもう計りようがなくなってしまうのだった。

笑顔ほど、空恐ろしい表情はないな。
男は時々、思うことがあった。

どんな感情も、覆い隠してしまうことが出来る。
わざと泣くことは難しいが、わざと笑うことはたやすい。

男は、年を増すごとに美しくなっていく少女の微笑みを見ながら、つかみ所のない彼女の本心をどうにかして聞き出したい欲求に、いつもに駆られていた。



「裏山に行こうよ」
大雪の降った朝、少女が、突然そう言いだした。
それを聞いて、男は始め、何かの冗談かと思った。

しかし、彼女はとぼけた様子もなく、もう一度強く、そうせがんだ。男にはこれと言った理由も分からなかったが、彼女に気圧されるようにとりあえず身支度をして、同じように厚く重ね着した少女と共に、深く雪の積もった裏山に出かけて行った。

二人連れだって裏山に行く理由を、少女はなかなか教えてくれなかった。
何度たずねても、はぐらかすように笑うだけで、
その足がついぞ止まることはなかった。
少女の足取りは、明らかに、散歩のたぐいではなく、何か明確な目的を持っていることを感じさせるものだった。


そうして、もう小一時間も歩いただろうか。

男の言葉に耳も貸さず、ひたすらに斜面を登っていた少女が、もうじき山頂というところの
南を向いた斜面の上で、突如ぴたりと歩みを止めた。

「柳瀬さん」
少女は言った。

「なんだい。」
男は答えた。

「柳瀬さんは、どうしてお母さんと結婚したの。」
歩き疲れてうつむき加減だった男の顔が、不意の質問に驚いたように少女に向けられた。
雪の中に一層白い少女の頬が、生真面目に引き締まって、黒い瞳が野ウサギのように、じっと男を見すえていた。

その強い眼差しに耐えきれず、男の瞳は思わず一瞬、宙を泳いだが、
「...君のお母さんが好きだったからだよ」
俯いて、男はようやく、呟くようにそう答えた。

「それだけじゃ解らない。」
怒りを込めた口調で少女は言った。
「みんな、ありきたりの答えばっかり言う。誰も本当のことは話してくれない。...お母さんに言っても、おじいさんに聞いても、答えるのはそればっかり。柳瀬さんは、お母さんを好きだったんじゃないか...。...私は、そこまで子供じゃない。本当の理由は、何?」

町を離れた裏山に、他に人の気配はなかった。苛立ちと怒りに満ちた少女の声は、周りの深い雪に吸い込まれ、消えていった。

少女は、ずっと、この時を待っていたらしかった。
他人の目を気にせず、この男に、自分の中に長年わだかまっていた感情をぶつけられる、この大雪の降った日を。

それは、普段娘を演じてきた少女がみせた、初めてのあからさまな反抗だった。
観客のいない舞台に響く、役者の生々しい肉声であった。


男は、少女のその、強い口調で言い放たれた言葉を受けても、ただ小さく、悲しげに笑うのみであった。

それは少女の幼さに笑っているのではなかった。
なんの理由も答えられない自分に、ただ笑っていたのだった。

男は、本当に彼女の母が好きで結婚しただけだった。
それまで、積み上げてきたもの、ほとんどすべてを捨てて、男は彼女の母と結婚した。しかし、彼にそれほどの行動を取らせたのは、単に彼女に対する情熱にも似た感情だけであって、何らかの、明快な理由など、そもそも始めから存在していなかった。

彼女に、それをどう説明したらいいのだろう。
男には解らなかった。

大人の方が、時に子供よりも、理由のつかない行動に身を任せてしまうと言うことを、この時期の少女に教えることは、少し酷なような気がしていた。

「...何か、おかしいの?」
少女が気味悪そうに聞いた。

「...いや。...なんでもない。」
男は答えた。
「...君は、僕のことを嫌いか?」

「...そんなこと。」
少女は答えに詰まった。

「いや、それなら、それでいいんだ。...考えてみれば、父親とは、そう言う役目なのだから。」

男は手近なところから掌いっぱいに雪を取ると、それをさらさらと零して見せた。

「雪というのは何かに似ていると、ずっと思っていた...。それが、ようやく解った様な気がするよ。」
そう言って、男は笑った。

「表面に出して醜いことは、みんな笑顔の下に眠ってる。でも、それでいいんだ。笑顔の下など、本来、どう知りたいと願っても見れるものではないのだから。」

男はそう言うと、南の斜面から、彼らの住む町を見下ろした。
深い雪に沈んで、町は一時、沈黙しているように見えた。
普段の喧噪も、諍いも、その風景からは些かも感じられなかった。

「...きれいなものだ。雪が降っただけで。」
男はぽつりと呟いた。

少女は未だ、硬い表情を崩してはいなかった。

男はそれに気がつくと、自身の表情を和らげて、言った。
「俺に対して、どんな感情を抱いていても構わない。...ただ、見せかけだけでもいいから、今までのように笑っていてくれないか。娘、として。...俺は、それ以上は求めないから。」

少女は困惑しているように見えた。
まだ、難しいことなのかも知れないな。男は思った。


男と少女は、それからすぐに山を下りた。

彼らの歩いた後には、来た時と同じように、何もない雪原に、大きさの違う二列の足跡が、長く長く、残されていた。

しかし、それは少なくともたった一つの点で、彼らが山に登ってきた時とは異なっていた。

男の大きな足跡から、少し離れるようにして、少女の小さな足跡が、転々と続いていたからである。