2008年12月20日土曜日

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走り書き;主人公の心情

0.

テニスコート、午後6時半。

夏だから、まだ日は落ちてはいない。でも沈みかけてる。斜め光線。オレンジ色、みんな。
私は窓辺に座って、ずっとそれを見ている。野球部が見える。ずっと遠くに、えいえい、言っている。

アカネは、まだ出てこない。

ずっとシャワー室。そう、ずっと。
もう、出てこないの?

そんなことはない。いつか出てくる。
水が流れる音が聞こえる。彼女の、小さな歌声。誰かのワルツ。

出てこなければいい。
愛しい人ほど、そう思うのはなぜだろう。

ことに、それが、私を苦しめる、届きそうで、決して届かない存在だからこそ、
もう、出てこなければいいのに、そう言う気持ちにしてしまう。

彼女のことが、嫌い?

嫌い。でも、欲しい。
欲しいから、嫌い。欲望を駆り立てるものは、
みんな避けたくなってしまう。臆病な私が悪い。

ロッカー室に、いつの間にか差し込む、斜め光線。
オレンジ色。食べかけのお菓子の袋が、真ん中の机の上で、悲しげに口を開けている。

笑っている?泣いている。

夕日は、どんどん、ああ、斜めになっていく。

シャワーの音が聞こえる。
アカネの体を洗う音。

水が、走り抜ける音。

もう、出てこなければいいのに。
そう思いながらも、私はここで、彼女を待っている。


嫌い。



1.
私が大学に入って、一番喜んだのは、母だった。
私よりも、母が喜んだ。

私の選んだ学部が看護学部だったから。
母は私を女の子としての私を、誰より望んでいたから。

私が、私でいてはいけないと思わせたのは、母。
男の子と、毎日ケンカして帰ってきた私を、ひどく叱ったのは、母。

スカートより、ワンピースより、ハーフパンツを好んだ私を嫌ったのは、母。

母の買ってくる洋服は、みんな、恥ずかしい位ひらひらしていて、ピンクや白や、ありとあらゆる暖色系の色が優しく組み合わされている、さわり心地のよい服ばかりだった。青や、黒や、びっくりするような刺激的な言葉の書いてあるTシャツは決して着させてくれなかった。

反抗もした。でも無駄だった。
だって、母が生んで、育てている、私だから。
その抵抗にも、限界があるんだ。

高校の同級生と、結婚したいと本気で思って、彼女と一緒に逃げだそうとしたこともあったけれど、それも、準備しているところを母に見つかってしまった。

小さな頃から見ている彼女には、私よりも、私を知っている節があって、それがどうにも、私には疎ましい。

結局、二人の逃避行は見事に失敗した。

相手の彼女は、逃げ出した。
そして、帰ってこなかった。

行き先は、まだ解っていない。向こうの親とも、それがばれて噂になって広まってしまってからは、全く逢えなくなってしまった。

私は、彼女はもう、死んでしまったのではないかと思っている。
二人とも、それほど本気だった。
ただ、私の方には、母にそれ以上逆らうだけの気持ちがなかっただけ。


私は、その失敗があってから、ますます母には逆らえなくなってしまった。
彼女の言うとおりに大学を選び、そして、問題なく学年を進んだ。

私が、この学科に合格した時の彼女の喜びようと言ったら!
私をようやく檻に閉じこめた飼育係のように、彼女は安堵の表情を浮かべていた。

今でこそ、看護は男女の隔てがなくなりつつあるが、彼女にとっては、未だにそれは女性らしい職業の代名詞なのだ。女性らしい職業に就き、他人への奉仕を身につけることで、一種の行動療法のようにわたしの“ゆがんだ”心に作用するだろうと、彼女は考えているに違いなかった。

私の心は、そんな単純なものではない。
それは、何より私自身が一番よく分かっていた。

中学、高校と、『女の子らしい』格好を義務づけられていながらも、私の心は変わらなかったのだ。むしろ、そう言う格好をさせられることで余計に、私が通常とされる人々とどれだけ違っているかと言うことを強く意識させられる結果となった。

これが更に、看護学部だったとしたらどうだろう。
私はすでに、自分がどのような人間であるか、はっきりと意識していた。

もちろん、自分を変えようと思った時期もあった。それは中学校の不安定な一時期に限られてはいたが。
だが、今では、もうそのようなことを考えることはなくなった。

私は私なりの、幸福を見出せばいいのだ。
そう悟っている。


そうして、今、
私はテニス部の先輩として、シャワー室にこもったきりの、後輩が出てくるのを、事実上、待っている。

彼女は...、いや、もはや、私の過去を知るものなど、いないのだ。
私はなんの変哲もない、看護学科の女子学生として、彼女と付き合っている。

私の心の底にわだかまる気持ちなど、彼女は知るよしもない。
でも、それでいいのだ。

それを明らかにすらしなければ、私は、彼女に憧れるだけの男子であれば決して出来ないほど身近に彼女を感じ続けていることが出来るのだから。

越えられない一線が、普通の男女より、随分手前に設定されているだけのことだ...。

2008年12月13日土曜日

a-cross

もしも、君に出会えていなかったなら。

そんな陳腐な言葉は使いたくなかった。
嫌みできざったらしい言葉ばかりが、頭の中を駆けめぐっていて、この瞬間、目の前の彼女の心に残るような、確実で、またとを得た言葉が、浮かんでこない。

『搭乗手続中』

プノンペン行き202便には、さっきからそう表示されている。
もうそろそろ、ゲートをくぐらなくてはいけない時間。しかし、彼女はまだ席を立とうとはしない。

飛行場の滑走路のよく見える細長い造りのカフェに二人で入って、もう1時間近く経つだろうか。普段落ち着きのない君の割に、長く持った方だ。

君はさっきから、手元の紅茶が冷めていくのも気にせずに、着陸しては離陸していく何機もの飛行機の後ろ姿を、ずっと目で追い続けている。

紅茶の中に沈んだ小さな茶葉が、口の広いカップの底に不安げに漂っている。

君がここに座って以来、見送ってきた何機ものボーイングの背中には、幾人もの僕と君が、散り散りになって機乗している。幾つもの似たような運命の中に、物珍しくもない僕らのラブストーリーも存在している。

カフェの店員には、見慣れた光景だろう。
彼女の水をつぎ足す所作には、一瞬の乱れすら感じられない。

恭しく頭を下げ、水差しを傾けて、楚々と去っていく。

その一連の動作を、僕は目で追っていたが、君はそんなことなど、全く構っていないようだった。

「ねえ、」
僕が、無愛想な君に話しかけた。
「プノンペンには、何時間かかるの。」

「3時間。」
彼女はぶっきらぼうに答えた。

「3時間...。なんだか、中途半端だね。寝るにも足りない時間だ。」
僕は努めて、彼女に笑いかけた。

「そうね。」
彼女は僕の方を見ようともしなかった。

「ねえ...、気持ちは分かるけど、もう少し、ポジティブに考えてもいいんじゃない?会社はきっと、君の将来を見込んでいるんだよ。」
「...そう、かしら?」
彼女は突き刺すような眼光のまま、それでもようやく僕の方を向いた。
「あなた、本当にそう思う?これが、ニューヨークとか、せめて上海ならともかく、プノンペンよ。なんの仕事があるって言うの?明らかに、左遷じゃない?」
「それは...。」
「向こうでの事業は確かに、まだ始まったばかりだけど...、私が回されるのは、前回失敗した事業の尻ぬぐいよ。他人の失敗の後片付けに、どうして私が、わざわざ本社から回されなくちゃいけないわけ?」

僕には、返す言葉もなかった。

「いい加減なこと言わないで...。」
彼女は少し俯いて、それからぷいと、再び滑走路の見える窓の方を向いてしまった。
その目には、微かに光るものが浮かんでいた。

彼女のような、自分の仕事に誇りを持っている女性にとって、会社の今回の措置は、嫌がらせ以外の何物にも映らなかっただろう。

決して、何か間違いを犯したわけでもなく、彼女の仕事の成績はいつも人並み以上だった。

むしろ、彼女に仇なしたのは、この彼女の優秀さにあったのかも知れない。
彼女のこの性格のためもあって、社内のやっかみは相当あるようだった。

「...わたしが、何をしたって言うの...。」
彼女は大きな窓に目を向けながら、小さな声で、そう呟いた。

彼女は、プライドが高かったが、芯が強いわけでは無かった。そう振る舞っていただけで、内心は繊細で、傷つきやすい人間なのだ。

むしろ、だからこそ、彼女は周りの人間に対して、時に威圧的にも見える態度を取っていたのだと、僕は思っていた。

正直、耐えられないだろうな。
口惜しそうな表情で、窓を見つめる彼女の横顔を見ながら、僕はそう感じた。

だが、ついて行くわけにも行かなかった。
僕には僕で、やらなければいけない仕事があるのだから。

「...ねえ。」
消え入りそうな声で、彼女が言った。

「別れ、ましょ」

彼女は、体は向き直っていたが、うつむき加減で、僕の目も見ていなかった。

「もう、そのほうが、いいとおもうの。...お互い、歯車は、別方向に、動き、出したのよ」
言葉を絞り出すように、彼女は小さな声で僕に語りかけた。
長い髪が、顔の両側に黒い幕を下ろしたように垂れ下がって、表情を覆い隠した。


「....こんな、急な話で、ごめんね...。ありがとう、いままで。さよぅ...」
「あの、さ。」
僕は、おそるおそる、切り出した。

「結婚、しちゃわない。」

今まで俯いていた彼女が、驚いたように顔を上げた。
先ほどの泣き顔が、まだその顔には張り付いている。

「なんか...、僕の方こそ、こんな飛行機の待ち時間みたいな時で、悪いんだけど。」
「でも、」
「...いい考えだと思うんだ。僕には君の支えになれるか解らないけれど、だからと言って、放っても、おけないんだよね...。プノンペン行きは、君にとっては、そりゃあ....、不安だろうと思うけれど、僕にとっても不安なんだよ。だから...、ね。君にこれだけ振り回されても、ずっとここまで、くっついてきた僕なんだから、少しは....、考えてくれないかな。...この不安の、解消」

彼女は黙ったままだった。

ベージュのチノの膝の辺りをくしゃくしゃに握りしめて、彼女の体は微かに震えていた。

「式とか、手続きとか、そう言うかたちの上のことは、正月に帰ってきてから、またゆっくり話せばいいことだしさ」

彼女に僕の気持ちを言ってしまっても、僕の中にはまだ、少し後悔があった。

本当なら、もっときれいなところで、落ち着いた時間にきっちりとしたかたちでプロポーズするべきだったと思っていた。

彼女の転地が決まってから、お互い、ここ数ヶ月は忙しくて、ゆっくり会う暇もなかった。
それは、言い訳にしかならないのではないか。“男の勝手”な...。
彼女の、口癖だ。

膝を握りしめた彼女は、動こうとしない。

そうこうしているうちに、いよいよ飛行機の出発時間は近づいてきた。

「もう、行かない?」
彼女の手を取って、促した。
彼女は俯いたまま、ゆっくりと立ち上がった。

ベージュ色の生地に、雫に濡れた跡があった。

やはり、泣いていたらしかった。

彼女の黒いキャリーバックを引いて、手荷物検査場の手前まで歩いてきた。

ここから先は、彼女だけが行くことの出来る領域。
僕の手は、いよいよ、もう、届かなくなる。

彼女は、無言のまま、僕の手から、彼女の荷物を受け取った。
そして、俯いた顔をあげて、ようやく僕の顔を見た。

「...行ってくる。」

頬は涙に濡れたまま、にこりと微笑んでみせた。

2008年12月7日日曜日

潜る

それはまだ、赤い太陽が僕らの頭の上にぎらぎらと照っていた、夏の盛りのできごと。

僕とお姉さんは、二人して、近くの川辺に出かけていた。

その日のお姉さんは普段着たことのないワンピースなんかを着ていて、それは小さな水玉がいっぱい入っていて、お姉さんが動くと、模様のの水玉がはじけるようにはね回るのだった。

「ユウキ、泳がないの?」
お姉さんは僕に向かって笑いかけた。僕は思わず目をそらした。お姉さんの笑顔を、僕は真っ直ぐに見ることが出来ない。

「泳がないよ」
そのつもりはなくても、ぶっきらぼうな返事。お姉さんを怒らせたんじゃないかと不安になって、僕は目の端で、その表情を伺う。

「泳げばいいのに。ユウキ学校の水泳大会で、2等になったんでしょう。見たいな、ユウキの泳ぐとこ」
お姉さんは、僕の連れない返事なんかちっとも気にしていない様子で、相変わらずにこにこしていた。僕が水泳大会で賞を取ったのを、母さん当たりからどうも聞いたらしかった。

「母さんに聞いたの?...言わないでって言ったのに」
僕はむすっとして言った。
「いいじゃない。姉弟なんだから」
お姉さんは笑っている。
「姉弟って言っても...。」
僕は小さな声でそう言い欠けて、口をつぐんだ。これ以上言ったら、僕らの間に何か冷たい風が吹き抜けてしまいそうな気がしたから。

お姉さんは、僕のお姉さんなんだ。たとえ、何があったとしても。


お姉さんは当時、もう三十は少し超えていたように思う。でもずっと家にいて、昼間はお家で眠っていることが多かった。お仕事は夜で、明け方になるまで帰ってこなかった。帰ってきた時のお姉さんからは、いつも香水とお酒の匂いと、あとちょっと、タバコの匂いもしていた。

僕は知っていた。
お姉さんは、いつもお仕事から帰ってくると、眠っている僕を、そっと抱きしめてくれるのだ。僕の小さかった頃から、そうしていたようで、僕が中学生になっても、相変わらず帰ってくると抱きしめてくれた。僕は、実は起きていることもあったのだけれど、お姉さんにされるままにしていた。なぜだか、そうしている時のお姉さんは、いつもひどく、疲れているようだったから。

昼間の、水玉模様のお姉さんと斯うして外に出かけたのは、だから本当に稀なことだった。次の日のお仕事が、きっとお休みだったからだろう。

斯うしている時のお姉さんは、年齢よりもずっと若く見えた。まだ、少女のような、そんな微笑みを、お姉さんはときどき見せてくれた。それは、夜に疲れて僕を抱きしめるお姉さんとは、まるで別人のようだった。

「ユウキって、けちね。泳いでみせる位、何でも無いじゃない」
お姉さんは言った。ぼくはそっぽを向いたままだった。お姉さんの前で、何かをすると言うことが、全体的に恥ずかしかった。何をやっても、お姉さんの前では不自然になってしまうだろうと僕には解っていた。

ここ数日雨が降っていなかったので、川は川底がはっきり見える位澄んでいた。僕らの見つめる先を、鮎の魚影が流れに逆らうようにして鋭く横切っていく。

「おさかなって、いいわよね」
お姉さんが、突然そんなことを言った。
「こんなきれいな、冷たい水の中にいて。誰に構わず自分の好きなところに泳いでいける」

「でも、水の外には出られないよ」
僕はそんな意地悪を言った。
「ぼくは、いやだな。鳥の方がいい。鳥の方が自由だ」

お姉さんはそれを聞いて笑っていた。
そして、ふと空を見上げて、
「確かに、鳥になれるものなら、鳥になりたいけど。...みんな、羽を持っているわけでは、無いから」
と言って、ちょっと悲しそうな顔をした。


お姉さんは、もちろん、僕の本当のお姉さんではなかった。
それどころか、どこからやって来たのかも、誰も知らなかった。

僕の母さんが貸していた部屋にずっと前から住んでいて、僕はお姉さんを、本当のお姉さんのようにして、育った。

お姉さんのことを、悪くいう人もいた。
夜の仕事というものが大人達には印象が悪いようだった。

でも、母さんは、昔から住んでいるお姉さんの本当の人の良さを知っていて、そんな大人達とは見方が全く違っていた。

お姉さんと僕ら母子は一緒にご飯も食べたし、よく一緒に旅行にも行った。

お姉さんにはすごく借金があって、お姉さんがあんまりいい人だから、母さんはそれも、少し手伝おうとしたようだったけれど、お姉さんは決してそれには手を出させなかったそうだ。
それどころか、家賃も最初に決めた額を毎月きっちり払っていた。

そんな事情を知ったのは、もっと後のことだ。
僕にとって、物心ついた時からそばにいるお姉さんは本当のお姉さんと変わりがなかった。

「ユウキ、」
空を見上げていたお姉さんは、僕の方に目を向けて話しかけた。
「将来、なりたいものって、もう決めてる?」

「海上保安官」
僕は映画を見て、その職業に憧れていた。泳ぎが得意だと言うことも生かせそうな気がしていた。

でも、お姉さんはその答えを聞いても、あまりうれしそうではなかった。
「確かに、かっこいいけど...。人を守る人は、人に縛られるのよ。ユウキはそれに憧れる?私は、ユウキにはもっと違った職業が向いているような気がするけどな」

「じゃあ、何?」
気に入っていた考えを否定された気がして、僕は少し機嫌が悪かった。
「フリーダイバー」
お姉さんは、真面目な顔で言った。
「酸素ボンベも背負わずに、体一つで深い海に潜っていくの。光りの届かない、世界で最も静かで、透き通った蒼い闇の底。海は敵ではなくて、他人も関係ない。地球や、自分自身との会話を続けながら、潜っていくの。誰も到達したことのない、深い深いところへ」

「それって、職業といえるの?」
僕は気になって聞いた。
お姉さんは、少し困った顔をしていた。
「職業といえるか解らないけれど、一つの生き方ではあると思う。自分の可能性を、追い求める仕事ね。...ユウキにはそう言う仕事についてもらいたいな」

僕は、それでも、フリーダイバーを目指そうという気にはならなかったけれど、お姉さんが僕に求めていることは何となく解った。

蒼い静かな闇の冷たさを身に感じながら深い海の底へ一人潜っていく自分の姿を僕は想像した。

そのそばには、真っ白な長い手足を持ったお姉さんが連れ添って潜ってくれていた。

いつも、何をするにも、見守ってくれる人を当たり前のように想定していた。
孤独と言うことが、当時の僕には、まだ想像できなかったのかも知れない。


...でも、その孤独は期待していなかったかたちで、全く無慈悲に訪れた。

お姉さんは、首を吊って死んでしまった。
川辺で二人並んで話してから、そう幾日も経たないうちに。

二人で話した時にはお姉さん自身もまだ知らなかったのかも知れないが、おなかには、誰かの赤ちゃんがいたと言うことだった。あの頃のお姉さんはいろいろ、他に病気も持っていて、体はもう、ぼろぼろだったらしい。


そばにいたはずの僕は、結局、何も出来なかった。

誰も到達したことのない深みに潜っていくダイバーを、
追いかけられるものは誰もいない。

心はあまりに深すぎて、潜るにはあまりに危険なのに、たとえ、そこで溺れてしまった人を見つけたとしても、他人の心の海に飛び込んでまで助けることが出来る人など、この世界にはいないのだ。

僕は海面に浮かんで、沈んでいこうとする危険な、あまりに小さな、真っ白なお姉さんの手足を見つめていることしか、出来なかった。僕を何度も抱きしめてくれた、あの白くて温かな手が、目の前を沈んでいくのに。


夏の太陽が、一人川辺に佇む僕の皮膚をじりじりと焼いている。
本当に、雨の少ない夏だった。

僕は、空を見上げた。

お姉さんのいない夏の空は、いつ見ても寂しかった。
お姉さんがいなくても、空が青いということが、僕にはどうしようもなく悲しいのだ。

2008年12月5日金曜日

もう、幾度となく過ごしてきたクリスマスの、誰も買ってくれたことのないプレゼントとして、孤独な男が自分自身に買い求めたものは、小さな、少女の横顔の描かれた肖像画だった。

名のある画家のものではなく、無名の画家が40年ほど前に描いた絵であった。当時、これを描いた画家はすでに30代も終わろうとしていたが、描いた絵は全く売れていなかった。

己の才気を信じ、大都会で成功しようと意気込んで田舎を出てきたこの画家も、この絵を描いた頃には自身の才能をすっかりあきらめており、生まれた故郷に引き込んで両親と共に田舎暮らしをしながら、身の回りの何気ない風景を思うままに描く様になっていたのだという。

皮肉なことに、この画家の作品は、こうして己の才能に見切りを付けた後の方が一層瑞々しく、評価も高いのだそうだ。

「若い頃は誰でも、自分の身の丈を間違うものです」
この絵を売ってくれた温厚な画商は、丸くはげ上がった頭を撫でながらそう言った。
「自分の仕事、と言うものが誰にもあるはずなのですが」


この画商によれば、この絵のモデルとなった少女は、画家の姪御らしいと言うことだった。

フランスの田舎の娘であるらしい少女の横顔からは、まだ青いブドウの房の甘酸っぱい匂いが漂ってくるようで、男はそれを落ち着いたベージュ色の壁につり下げながら、微笑んでしまわずにはいられなかった。

絵の中の小さな少女は、その手の中に、もっと小さなティディベアの人形をしっかりと握っていた。その瞳は何を見ているのだろうか。向いている方向には大きな窓があるらしく、少女の青い瞳や表情が、明るい光りを浴びて輝いていた。

こうした少女の表情に、男は何処かで出会った気がしていた。しかし、それがどこであったのか、またいつであったのか、彼はついぞ思い出すことが出来なかった。

この絵を買ってしまったのも、この絵を気に入ったというのももちろんだが、何処か懐かしいような、不思議に引き込まれるようなものを感じたからであった。

「青い瞳の少女なんて、今まで海外旅行にでも行かない限り見たこともなかったのに」
男は独りごちた。
「...どうして、乞うも懐かしいのだろう。」

男は、キッチンの奥の小さな冷蔵庫を開け、冷えたビールの小瓶を取り出してきた。そして、手近にあった栓抜きで栓を抜くと、コップにも注がずに、それを飲み下した。

絵の中の少女は、彼女しか知らない窓の外を食い入るように見つめている。

男が見つめる先で、少女がクマの人形を握る手の力の強さを、男はふと感じた気がした。


男には、子供がいなかった。
子供どころか、彼には家庭というものが未だに無かった。

結婚というものを、考えたことがなかったわけではない。
節目節目で、場合によってはそれからの人生を共にしかねなかった女性には何人も出会ってきた。

それでも、男は結局彼女らと運命を共にすることはなかった。


面倒くさかったからかな。


男は時々、考えることがある。
仕事が思ったより早く、片付いてしまった帰り道に。

つまりは、面倒くさかったからだ。

関係を構築し、お互いのスケジュールをより合わせ、そして好き嫌いを妥協し合って、ふたり間をとりとめもなく割り算していくような、その作業が。


そもそも、それまで培ってきた20年を越える人生を、知らない他人と分かち合おうなどと言うことが、男には気の遠くなるような、無意味な行為に思えていた。

俺には、今が大切なんだ。

彼には解っていた。

何よりも、今が。


しかし、彼にも夢見たことが無かったわけではない。

小さくても、確かな生活。
慎ましい家庭。

むしろ、孤独な時間を人一倍長く過ごしてきた男にとって、こうした夢想は日常生活の一部ですらあった。

朝日を浴びた白い皿を彩る、緑色のレタスや、スクランブルエッグ。
真っ赤なトマト。

コーヒーの香り。
トーストの香ばしい焼き加減。

忙しい朝に、子供の声、そして、その母の声....。


男は、いつもそこまで考えると、自分の愚かさに、思わず笑ってしまうのだった。
そして、それを打ち消すかのように、心の内で自分に言い聞かせた。

俺には今が大切なんだ。

何よりも、今が...。


今を大切にしすぎたために、男は一人になってしまったのか。
果たしてこれが、一つの幸せというものの“かたち”であるのか。

まだ夢を見続けていた男には解らなかった。

しかし、彼が時折思い描くような家庭生活を送っている男達のすべてが、その時男が感じるような、甘い郷愁のようなものを、その生活からいつもを感じているかと言えば、そうではないだろうと思っていた。

苦いビールが、喉の奥を駆け抜けていく。

もしかしたら送っていたかも知れない人生が苦みと共に通り過ぎた。

生きていく、と言うことは、あり得たかも知れない未来の可能性を一つずつ、潰していくことなのだろうか。

男は大きく息を吐いた。そして、目の前に掛けた少女の絵を見ながら考えた。

少女が見ている窓の先には、きっと、いつか画家の夢見た希望の未来があるのだろう。
明るい窓を見つめている少女に、画家は、自分は叶えられなかった未来を見出し、託したのではないか。


そこまで考えると、男はふと何かを思いついたように、手に持った茶色の小瓶を近くの背の低いテーブルに置いた。

そして、書斎に入り、2、3の書類を丁寧にしたためた後、それを、それぞれ適当な大きさの封筒に入れ、しっかり封をして、しかるべき宛先を書き入れた。

その作業がすべてが終わると、彼はもう一度、大きく息を吐いた。

彼は、もはや、自分が、未来を次の世代に託すべき年齢になったのだと感じていた。
あのような絵に引きつけられたこと自体、その何よりの表れではないか。

あの懐かしさは、かつての若かった頃の自分の持っていた可能性への、懐かしさだったのだ。

もういい加減、俺は引き時なのだ。男は思った。

可能性にまぶしさを感じるような年になってしまった。
それは、もう自分自身が、光を失って久しいと言うことだ。

夢は十分、追わせてもらった。
男は愛着のある品々に囲まれたほこり臭い書斎の中で一人密かに笑った。

親父は、今頃どうしているだろう。
彼はふるさとへ向けた長い手紙を書きながら考えていた。