2009年2月21日土曜日

『カタワラ』:18

「ねえ、ちょっと、どこ連れてくの」
車の中でアイマスクをつけられた眞菜がうれしそうに声を上げた。

「また倒れたって知らないよ!」
「心配すんな」運転席の徹さんが言った。「優秀な担当医が二人も付いてる」
「……ぼくは医者じゃないですよ」賢治が言った。
「眞菜の専属医だ」徹さんは眼尻にいっぱいしわを寄せて笑った。
「この間の森での処置は、みごとだったぞ」

あれをやらなきゃ、眞菜はとっくに死んでたかもな。
徹さんはよほど上機嫌なのか、思わず、そんな物騒なことを言ったので、アイマスクの下の眞菜の口元が、風船のように膨れた。
「……医者にあるまじき、デリカシーのなさ」
眞菜はそう言って、見えないはずの窓の向こうを見るように、顔をそむけた。

車はやがて、どこかの場所についた。
賢治は眞菜にあの例のガスマスクをかぶせ、彼女の手を引いて足早に建物の中に駆けこんだ。
玄関先で、彼女の体にわずかについた花粉を念入りに取り除くと、そのまま建物の奥に入った。

「……やっときたあ」
ガラガラと扉を開ける音がして、聞き覚えのある声が眞菜の耳に入った。
「この声、聞き覚えがある……、瀬希?」
瀬希はうれしさに小さな体をいっぱいに伸ばして、ひとみをらんらんと輝かせた。

「マナマナ!ひっさしぶりい!中学校以来だね!」
見えもしないのに、瀬希は眞菜の顔の前で手を振った。
「早く、瀬希の顔が見たいんだけど」眞菜が言った。「……まだ、とっちゃダメ?」

「もう、いいよ」賢治が言った。
眞菜は恐る恐る、アイマスクを取った。
そして、はっと、息をのんだ。

目の前にあったのは、大きな柳のように流れる、枝垂桜だった。
そこは、かつて彼らの学んだ、小学校の理科室だった。窓も大きく、枝垂桜にも近いこの場所は、彼らが“花見”をするにはうってつけの場所だった。土日の連休中で、小学校に他の児童の姿はなかった。彼らは、その日当直だった知り合いの先生に頼んで、少しの間、ここへ入れてもらったのだった。

賢治と瀬希は、あらかじめこの部屋をきれいに清掃し、眞菜の家から持ってきた空気清浄機をかけっぱなしにして、昨日から準備していたのだった。

桜は、理科室の大きな窓いっぱいに、桃色の花をつけた枝を揺らしていた。そよ風が吹くと、その枝先から、零れ落ちる滴のように、花びらが舞い散った。

明かりを消した薄暗い理科室の窓から見えるその光景は、さながら、スクリーンに映る映画のワンシーンように、眩しく彼らの瞳に焼き付けられた。

「……満足した?」
眞菜の隣に立った瀬希が、下の方から、眞菜の顔を覗き込んだ。
「……ええ」
眞菜は涙をいっぱいにためた目で、その光景を見つめていた。
賢治はそれを見て、うれしそうに微笑んだ。

「……なんか、こうしてると、思い出すね」
瀬希が言った。
「小学校の時、みんなで、あの桜の下で、お花見、やったっけね」
「……あの時、一緒にいたのは、瀬希だったっけ」
眞菜が言った。

「もしかして、忘れてたの?」
瀬希があぜんとした顔で眞菜を見つめた。
「……ひどいよ、マナマナ……」

「そういえば、桜に気を取られて、ちゃんと見てなかったけど、」
眞菜がじっと瀬希の顔を見た。
「……ずい分、大人っぽくなって……、“きれい”になったんじゃない?瀬希」
瀬希の顔がみるみる喜びに満ちた。彼女は思わず、眞菜に抱きついた、小柄な彼女が抱きついても、肩ほどまでも頭が届かなかった。……親にじゃれる、子供みたいだな。脇で見ていた賢治は苦笑を浮かべて一人思った。

「……賢治」瀬希に抱きつかれたままの眞菜が、賢治の方を向いた。
「……薫さんは、どうなったの」

薫はそのころすでに、他県の大学に通うため、引っ越してしまっていた。本当は瀬希も賢治も引っ越しは既に済んでいたのだったが、この桜が咲く時期に合わせて、一度帰ってきていたのだった。

「……声かけたんだけど、新しい生活の準備で、いろいろ大変だから、今回は、ごめん、てさ」
賢治はそう、眞菜に伝えた。

「……そう、か」眞菜は残念そうに言った。
「……一度、ちゃんとお話ししてみたかったな、彼女とは」
眞菜は、桜に目をやった。二羽のモンシロチョウが、校庭の隅をじゃれあいながら、過ぎて行くのが見える。
校庭の隅の菜の花が、左手から右手へ流れる風にたなびくように揺れた。

「似てると思うんだよね。彼女」
眞菜は窓を見ながら言った。
「賢治からの話を聞いてるとさ、彼女、あたしに、よく似てるなって、思えた」
「……どういうところが?」
眞菜に抱きついたままの瀬希が、不思議そうに眞菜を見上げて尋ねた。

「なんだか、せっぱつまってるところ」
眞菜は困ったような表情を顔に浮かべて言った。
「せっつかれるように、今日を生きているところ、と言えばいいのかな……。今日を大事に生きてはいるんだけど、未来を見る余裕があまりないって感じが」

「……でも、眞菜の場合は、難しい病気を持ってるって所為もあるだろう」
賢治が言った。
「あいつは何ともないんだけどな」
「……彼女はたぶん、何かをし続けなければいけない人なんだよ」
眞菜が言った。
「ぐらつく足下の上で、彼女は必死にもがいているんだ」

何もしなければ、何も生まれない……。あの日、病院の待合室で聞いた薫の言葉が、ふと彼の頭の中をよぎった。

頼るもののない彼女が、未来を切り開いていくには、今、目の前にあるものと、格闘していくしかなかった。それは、先行きの見えない不安な生き方ではあるだろうが、賢治はひどく、それをたくましいと感じた。

「俺にはできないな、ああいう生き方は」
賢治が言った。
「そうだね」眞菜が言った。「……私も、見習わなくちゃな」

「……なあ、眞菜?」
急に改まったような賢治の語りかけに不意を突かれたのか、眞菜が、えっ、と驚いたような声を上げた。
「まだ、ケーキ屋さんになりたいと思ってるか?」
彼女はおかしそうに、ぷっと吹き出した。

「……そんなこと、まだ覚えてたの?」
恥ずかしそうに笑った。
「……もう私は、忘れてたよ」

「……なって、くれないかな」賢治が言った。
眞菜は、もう一度、えっ?、と小さく声を漏らした。

「……俺の、いつか開く喫茶店で、眞菜の焼くケーキを出すんだ」

それは、眞菜が初めて豆腐入りのケーキを作った日から、賢治がぼんやりと温めていた構想だった。賢治の開く田舎の喫茶店で、彼女がケーキを焼く。彼女の作る、アレルギー患者でも安心して食べられるケーキが店のメニューに並んだら、どれほどいいだろうかと、賢治は思った。アレルギーのある人も、無い人も、同じテーブルを囲んで、同じケーキをつつくことができるのだ。眞菜が夢に見た『あたりまえ』を実現できる小さな貢献ではないかと賢治は思った。

その提案を聞いて、眞菜は照れたように微笑んでいた。
そして、また、桜の方に向き直った。

「……早く帰ってこなきゃだめだよ」
眞菜が言った。
「賢治のお母さんみたいに、私は長くは待てないからね」

……おう。と賢治は小さな声で言った。
眞菜は桜を見たまま、照れくさそうに、しかし嬉しそうに、クス、と笑ったらしかった。

「マナマナが、ケーキ屋さん?」
隣で見ていた瀬希が、驚いたように言った。
「……コーヒーも入れられない、マナマナが……」

「瀬希」眞菜が瀬希をふり返った。
「それ、誰に聞いたの?」
眞菜の気迫に驚いた瀬希は、あわてて賢治の背中に隠れた。

「マナの……、お、お父さんに……」
「お父さん……」苦々しそうに眞菜が呟いた。
理科室の扉の向こう側から、一人の人影が、あわてて逃げ去っていくのを賢治は見た。

「賢治」賢治の背中に抱きついていた瀬希が賢治を見上げた。
「……が、がんばってね、これから。応援、してるから」
瀬希は心配そうに賢治を見上げていた。
ああ、お前もな。
賢治はそう言って、昔、そうしていたように、小柄な瀬希の頭をぐりぐりと撫で回した。

瀬希は頭を洗われる子供のような顔をして、ひい、と言って笑っていた。


賢治はふと気になって、窓から外の景色を見た。理科室の窓から見える春の空は青々と晴れ渡っていた。ところどころに浮かぶ綿菓子のような雲が、上空の強い風の流れを受けてか、いつもより早く流れ去っているように見えた。

それは天候の悪化する前兆だと、かつて父から聞いていた。

どんな天気にも、必ず前触れがある。父は幼い彼にそう言っていた。
それを読み取れるかどうかは、どれだけ毎日、空と向かい合っているかで決まるんだ。

空の機嫌を普段気にしてもいない奴に、快晴や嵐の前触れを自然は決して見せてくれないさ。

賢治、毎日怠るなよ。
父は口癖のように、そう言っていた。

普段何気なく身近にあるものでも、何気なく見ていてはだめなんだ。
父はそういうことを言いたかったのだと、今になって彼は解った。

空を流れる雲は次第に、元の丸い形から、細くたなびくような形に変わっていった。雲の底は上端の純白な、綿菓子のような様相とは打って変わって、雷雲を思わせる暗い色を帯び始めていた。

ひと雨、降るかもな。

賢治はまだ青い空を見ながら、ふと思った。



[終]

2009年2月20日金曜日

『カタワラ』:17

「一体、どうして、お前たちがあそこにいたんだ?」
病院の待合室。もう誰もいなくなった広い玄関ホールに、賢治の怒号が響いた。
薫は椅子にすわり、何も言わず、ただ口の先を幾分とがらせるようにして、じっと黙っていた。

「……まさか、お前が連れ出したのか」
ちがう!とでも言うように、薫は、きっと賢治を睨みつけた。
しかし、彼女はそうして目で訴えるだけで、それ以上何も言おうとはしなかった。

「……黙ってても始まらないだろう」
賢治が諭すように言った。「教えてくれないか」
「……私だって、知らないよ」薫がようやく口を開いた。
「ただ、私が眞菜さんの家に行こうとしたら、ちょうど彼女が玄関から出てきたの。マスクにゴーグルって格好で、どこか危ない所にでも行くのかと思った」
所在無げに、膝を動かしていた。

「どこに行くんだろうって思ったから、そのあと彼女についていったの。そしたら、あの木の下のところで立ち止まって……」
何かを、探してるようだった。薫はそういった。

「……でも、結局それを見つける前に、彼女胸をさえてうずくまりだしたの。だから……」

薫はそういって、賢治から顔をそむけた。泣いているらしかった。
「……ごめんなさい、勝手に、眞菜さんちにまで押しかけて……」
彼女の口から、嗚咽が漏れた。

彼はそれ以上、彼女に何も聞けなくなった。

眞菜が、何を探していたのか、彼には心当たりがなかった。だが、それは真菜が倒れていた場所にあったはずだった。
明日、明るくなったら、もう一度行ってみよう。賢治は思った。


「……ねえ、賢治」
泣いていたはずの薫が、賢治を見つめていた。
まだ涙が目尻に、零れんばかりの大きな雫となって残っていた。
「……眞菜さんのこと、どう思ってるの」

賢治は、すぐには答えられなかった。やや間が開いた後、呟くように、
「……幼馴染、だよ」
と、答えた。

「……それ、だけ?」
薫は言った。そして、涙のたまったひとみで、クスリ、と笑った。
「……最低」

薫が賢治を睨んだ。
その瞳には今までよりずっと強い、怒りに似た感情が込められていた。
「彼女がここまで思い詰めていたのに、あなたはまだ、私の前ですら、彼女との関係をはっきり認められないの?……いつまでも、そんな意気地のないこと、言ってるから……」

そういうと、彼女は、制服のポケットから、一個の錆ついた古い缶を取り出した。
封はすでに開いていた。
「……眞菜さんが倒れた木のそばに、転がってたの」薫は言った。
「彼女が探してたのは、これじゃないかってとっさに思ったから……、拾ってきた」
渡された缶の中には、二枚の紙切れが入っていた。
賢治は、紙きれの一つを缶から取り出し、おもむろに開いた。

手紙にはつたない字で、次のようなことが書かれていた。


おっきくなったら
しょうぼうしゃかきゅうきゅうしゃか
おいしゃさんになりたいです

けんじ

それは、幼いころの賢治の夢が描かれた紙だった。
そう言われてみれば、そう言うこともあったかも知れない。賢治はおぼろげながら、思い出した。眞菜と二人、まだ、小学校に入ったか入らなかったかの頃、あの樹の下まで、よく森を探検して、そうして、その時の二人の夢を、紙に書いて、埋めたと言うことが。

懐かしさに緊張を忘れ、彼はそれまで無意識に強ばらせていた顔が、穏やかさを取り戻していくのを感じながら、箱の中に残った、もう一片の紙切れを開いた。それは、眞菜が書いた手紙だった。


おっきくなったら
けえきやさんになりたいです

あと、けんじのおかあさんか、およめさんになりたいです

まな


「……私も、さっき中身読んじゃったの」
薫が言った。
「そうして、思った。……勝てないな、って」
彼女は誰もいない待合室の椅子の上に、ごろりと横になった。飾り気のない白い天井が、彼女の瞳にさかさまに映った。彼女の表情には先ほどの怒りはもう無かった。ただ、あきらめたような、安堵を伴った安らかな表情をしていた。

「離れているとか、手が届かないとか、あなたたちには正直、もう関係ないんでしょう?」
天井を見詰めたまま、誰に言うでもなく薫が言った。
「そういうの、どうしようもなく憧れるんだよね……。私、小さい時から、引っ越してばかりだったから」
体の向きを変えて、彼女は賢治に儚げな背中を向けた。短く切った後ろ髪越しに、彼女の細い首筋が透けて見えた。

「……幼馴染、か」
薫はぽつりと言った。

「簡単に言うけど、それに恵まれない人間だって、いるんだよ……」
言葉尻は、消え入るようだった。

彼は、その時、ふと、いつか夏の終わりに、薫と交わしたくちづけの味を思い出した。
そして、それに対して、動揺以外の心理が浮かんでこなかった自分を思い返していた。思えば、あれも似ているような気がした。どれだけ近くても、届かない、眞菜の差し出す荒れて硬くなってしまった、小さな手に。

触れあっているからと言って、わかり合ったことにはならない。
皮膚の表面から、身体の奥底までの、どうしようもない距離感を賢治は感じた。


しばらく、無言の時間が続いた。
やがて、彼女は向きを変えて、あおむけになった、そして、右の手を、不安から身を守るかのように、そっと自分の腹の上に乗せた。
彼女は楽しそうに笑った。

「……そんな固い絆に、この1年で挑もうとした私を、笑ってくれる?」
彼女は、おかしがって所々吹き出しながらしゃべったので、その言葉は途切れ途切れに賢治の耳に聞こえた。

「……でも、そうせざるを得なかったの」
彼女の表情に、ふと、悲しみの影が浮かんだ。

私には、自分から進んで作ってきた絆しか、無かったから。
彼女はそう言った。

「何もしなければ、何も生まれない……。もともと存在した関係なんて、血縁以外には、私には無いんだよ。仲良くなりたければ、恥ずかしいのをこらえてでも、相手にアプローチしなくちゃいけない。そうやって、みんなそれなりに苦労して、紡いできた関係なんだ」
薫の瞳はしっかりと天井を見据えていた。
もう、涙に濡れた悲しみも、自虐するような笑いも、その表情には無かった。
「……そして、それは、これからも続いていく」

「でも、真菜さんはそれを見つけて、どうするつもりだったのかな」
薫は賢治の方を向いて言った。
「……今更そんなものを掘り返すまでもなかっただろうに」

賢治には、おおよそ察しが付いていた。
眞菜は、この手紙を破り捨てようとしたのではなかったか。

過去の思い出とともに、賢治ともう縁を切る覚悟で、彼女はいたのではなかっただろうか。
気分のすぐれない中、寝室の見飽きた天井を見つめて、彼女は賢治よりも多くの時間、考え続けてきたに違いなかった。自分のこと、そして、賢治とのこと。その結果下した結論が、彼との別れだったのだ。

「……薫が言うように、おれが恵まれていたんだとすれば」
賢治が言った。
「それはある意味、ハンディキャップでもあるのかもしれない。……人と人のつながりを、あまり意識してこなかった。薫みたいに苦労しなかった分だけ、それを大切にしてこなかった。……なんか、そんな気がする」

賢治は、真菜の手紙を錆びついたクッキー缶にもどし、彼の学生服の上着のポケットにねじ込んだ。

『治療中』の赤い明かりが付いたままだった処置室から、ようやく徹さんが出てきた。
いつも見る、着古したスウェットのシャツではなく、上下真っ白な白衣を着て、しっかりとした造りの医療用のマスクも付けていた

「……ようやく、血圧が落ち着いたよ」
顔の半分ほどもある緑色のマスクを取り外しながら、ほっと安堵したように笑った。
「ただ、今回はちょっと重症だから、2、3日は容体が不安定になるかもしれない。……とりあえず今日のところは大丈夫そうだから、君たちはもう帰った方がいいよ」

賢治と薫は、ご迷惑をおかけしましたと、口々に謝って、病院を出た。


薫を家の前まで送って行ったあと、賢治は自転車をゆっくりとこぎながら、考えていた。
もう時間は夜半近くになっていた。町の中央を走る国道とはいえ、時々運送会社の大型トラックが走り過ぎる以外に、車の通りはなかった。

眞菜とは、確かに離れてしまうかもしれない。
賢治は思った。
でも、それが、何だというのだろう。

どんな遠くの海を目指した船も、いずれ、元の港に帰るのだ。

……幽霊船でもあるまいし。賢治はひとり笑った。
港がしっかりしてなくちゃ、安心して旅にも出られない。

賢治は自転車をこぐ速度を速めた。
開けた場所から見える港の全景が、かなたから聞こえる動力機関のベース音に乗せられ、賢治の耳は一瞬、船の甲板で聞く潮騒の音を聞いた気がした。

『カタワラ』:16

「いま、どこにいるんだよ!」
あわてて靴を履きながら、賢治は受話器に向かって怒鳴った。

「……わからない……、どこ?、なんだか深い森の中」
暗闇の森だ。賢治は真っ先にそう思った。
しかし、なぜ、二人があの場所に行ったのか、彼には全く見当がつかなかった。

「……眞菜の様子は、どうだ?」
賢治は放っておけばどこかへ行ってしまいそうな自分の気持を務めて抑えるようにしながら、彼女の容体を聞いた。
「……なんだか、ひどく苦しそう、ぜえぜえ言ってる」
喘息の発作が起こったのかもしれない。賢治はそう思った。
たとえマスクをしていても、原因物質を完全に防ぐことはできないと徹さんから聞いたことがあった。
ほおっておけば、真菜の呼吸はどんどん苦しくなるだろう。

薫に、少しそこで待っているように連絡して、賢治は一度電話を切った。
「……徹さん?」賢治はすぐに徹さんに電話をかけた。
「おう、賢治、どうした」明るい彼の声が聞こえた。
「……眞菜が……、倒れたらしいんです」
電話の向こうで、眞菜の父が医者の顔になるのが彼には分った。
「いま、友達がすぐそばにいるみたいなんですが……、どうも森の中らしくって、……いったいなんで、あんなところに!」
「……まあ、賢治、落ち着け」
徹さんが低い声で彼をいなした。
「森に行く前に、うちに寄ってくれないか。そこに、眞菜の緊急用の吸入薬がある。……それと、新しいマスクを持って行ってくれ」
徹さんは、そのほか、ニ三の処置を賢治に指示した。
「……いいか、賢治、落ち着いてやれよ。……僕もすぐ家に帰るが、それまでは君が頼りだ。特に森の中のことは、誰も知らないんでね」
そして、ややあって、一言、
「……眞菜を、頼む」祈るように、そう言った。

眞菜の家に立ち寄って、徹さんが指示したマスクと、吸入薬を探した。真菜はすぐに帰るつもりでいたのか、家のかぎは空いたままだった。指示したものは取り出しやすい場所にまとめて透明なビニールの手提げ袋に詰めて置かれていた。賢治はその袋を手に提げて、深い森の中に分け入っていった。


太陽はすでに、沈んでいた。
西の残光が、かろうじて森の中に、一本の道を示していた。紅葉は、紫色の夜の気配のなかで、不気味に闇を増すばかりで、風が吹くごとに、その乾いた葉が、かさかさと音をたてた。

「……賢治……」
再び薫に電話をかけると、不安げに彼女が言った。
「……まだ?……、呼吸が、どんどん荒れてきてる……、」
電話の向こうから、かすかに真菜の、ぜえはあ、ぜえはあ、と喘ぐ苦しげな呼吸音が聞こえてきた。
壊れたふいごのようなその声を聞いて、賢治はさらに道を急いだ。

「何か、目印はないか」
賢治は薫に言った。
「……目印……」賢治に言われて、薫はあたりを見回したようだった。しかしすぐに
「……そんなものないよ。この暗い森で、何を目印にすればいいわけ?」
取り乱したような声が聞こえてきた。
「……何か、些細なものでもいいんだ」
賢治は努めて冷静に言った。「……頼む」

薫は再び気を静めて、あたりを見回したようだった。しかし、彼女には目印になるようなものは見つけられなかった。
「……なんにもない……、なんか、葉っぱのすべすべした、変な木の下にいるってだけ」
「葉っぱの、すべすべした……」
賢治はそれを聞いて、はっと思い当った。遠い記憶をさかのぼった。秋になっても葉を落とさない、すべすべの葉っぱを持つ木。それは森の中に、複数生えていたが、真菜と彼が何度も通ったのは、そのうちたった一本だった。
……あの、タブの木の下だ。

「……待ってろ、薫。わかった」
賢治の口元に思わず笑みが浮かんだ。彼の足は速度を増して、暗がりに沈む森を駆けた。


「賢治!」
暗がりの中から、袋を持った賢治が飛び出してくると、薫は驚きと、喜びがないまぜになった顔をして、思わずそう叫んだ。
眞菜は、薫の膝にもたれかかるようにして、すでにぐったりとしていた。
苦しそうな真菜の息が、マスク越しに聞こえた。

賢治は急いで袋から、吸入薬を取り出すと、眞菜の頭にそっと大きな袋をかぶせて、余計な花粉が入らないようにした。暗くなってきたので、そして、その中で真菜のマスクを外し、吸入薬を彼女の口にあてがって、薬剤を気管にそっと送り込んだ。
しばらくそうした後、彼は彼女に、家から持ってきた新しいマスクをつけた。それは、作業用の防塵マスクのようなもので、口の先に、武骨な円形のフィルターがついたものだった。その形は、映画で見た、ガスマスクによく似ていた。彼女にとって、この世界は、ここまで住みにくいものなのか。賢治はとっさに、そんなことを思った。

「……早く行こう」
一通りの処置を終えると、賢治は真菜を背負って森の道を走り始めた。気を失った眞菜は、賢治の肩にしがみつくこともできず、何度もずれ落ちそうになった。薫がやがて、後ろから眞菜の両肩をそっと支えた。二人はそうして歩調を合わせるようにして、前へ前へと進んだ。

日はすっかり落ちていた。森の外よりも、森の中は、夜が早くやってきた。道はもう、ほとんど見えなかった。かろうじて森の木々の隙間から洩れて来る月の明かりだけが、彼らの頼りだった。森の出口は、太陽の明かりでのみ、彼らに認識された。こう弱い光の中では、すぐそばに出口があったとしても、それが出口と認識されるのは難しかった。正しいはずの道で、彼らは何度となく迷った。そうして、そのたびに、背中の真菜のすっかり冷え切った手脚が、彼の心に重くのしかかってきた。

そのとき、ぽつりと小さな光が、彼の視野に飛び込んできた。星というには明るい光だった。
「……車だ」
賢治が呟いた。

「……徹さん!」森の出口で待ち構えていた、徹の車のヘッドライトだった。

2009年2月18日水曜日

『カタワラ』:15

家に帰っても、賢治の気持ちは、囚われたままだった。
眞菜とのことがいつまでもぐるぐると頭の中を廻っていた。

夢なんて、無いよ。

あのときの眞菜の一言が、気になって仕方がなかった。

本当に、あいつには夢なんて無いんだろうか。
賢治は思った。

いくら、しんどい病気だからといえ、生きていれば、誰だって、小さな夢の一つくらい描くものではないのだろうか。

もし、本当に、今の眞菜に夢がないのだとしたら……。

彼はそれを考えると、背筋がぞっとした。
夢の描けない生活というものの、背後に寄る辺のない、せっぱ詰まった心境を、一端だけでも、かいま見た気がしたからである。

眞菜に、夢を与えなくちゃ行けない。
彼は強くそう思った。今のままでは、いくら何でも、悲しすぎはしないか?今の眞菜は、いったい何のために生きているというのか。ただ、いつか年取って、死んでしまうのを、待っているだけじゃないか。

同じ高校生で。
賢治は思った。
同じ高校生で、それは、あまりにひどすぎる。生きると言うことの価値を、誰よりも知っている人間が、どうして、誰よりも死に近い場所にいなくてはいけないのか。どうして、夢から遠い場所に、居なくてはいけないのか。

眞菜は彼女の言うように、普通の世界の『カタワラ』にいて、どれだけ手を伸ばしても、それに対して何も出来ない存在なのかも知れなかった。それならば、世界の方から、彼女に手を差し伸べることは出来ないのだろうか。彼は思った。

それが、自分が傷つけた眞菜に出来る、最大の罪滅ぼしになると彼は思った。そして、彼の中には、おぼろげながら、すでに、そのあてもあった。

だが、彼と彼女の関係は、今、すっかり冷え切っている。
何を始めるにせよ、まず、これをどうにかしなくてはいけないと考えていた。

「……賢治、いつまで寝てるの」扉の向こうから、母親の声がした。
「……悩み事」賢治は答えた。
「また、眞菜ちゃんのこと?」
扉の向こう側で、母親が溜息を吐くのが聞こえた気がした。
「なんだかんだ言っても、仲良しなのね、あなたたち」

「そうかな」賢治は母の言葉に素直に同意できなかった。
「……お互いを無視できないって言うことは、仲良しって事なの」
母は言った。「離れていても、相手のことを考えてるって事も」

「……でも、心配しているのは俺だけかもしんないよ」賢治は言った。
「あいつはもう、あいつと俺が仲直りしても、意味がないって言ってた」
扉の向こうの母は急に静かになった。
しばらくの間、沈黙が続いた。

「……賢治、一つ質問なんだけど」ややあった後、母が言った。
「あなたはもし、片思いの相手が、別な誰かを好きになりかけていることを知ったとして、」
「その別の誰かと一緒になる方が、その人のためになるって解った場合に、……その人を、諦めたり、する?」
「……わかんないよ、そんなの」
賢治はぶっきらぼうに答えた。

「……眞菜ちゃんは、今、そう言う心境なんじゃないかな」母は言った。
「あなたは、あの子があなたを思う気持ちを、未だに信じられないの?……もう10年以上も、あの子はあなたのすぐ傍で、あなたを見つめていたのに」
「……でも、これからは違うだろ」賢治は言った。
「眞菜の言うように……、これからはおれとあいつの距離はもっと開いてしまうんだ」

「……距離って、そんなに大切なものなのかな」母が言った。
「……あなた、前に、どうしてお母さんとお父さんが一緒になったのかって、聞いたよね」
賢治は思い出していた。随分前に、そんなことを聞いた気がした。しかしその時、母は、何も答えなかったはずだ。
「……お父さんに告白された時ね、実はお母さんには、別に好きな人がいたの」
母は小さな声で言った。
「……片思いだったけどね、結構真剣だった。お父さんはもう船乗りだったし、滅多に帰ってこないことも解ってた。お母さんはすぐにでも、断ろうと思った」

「でね、断りに行こうと思って、お父さんの住所のあった宿舎に行ったら……」
お父さん、もういなかったの。くすくすと笑いながら母はそう言った。
「……次の航海に出た後でね、帰ってくるのは半年先だって言われた。お母さん正直、迷った。お父さんに答えを返さないまま、今好きな人に告白しちゃって良いものかって。通信手段も満足にない時代だったしね。……結局それが気になって、お母さん告白に踏み切れないまま、半年経っちゃったの」

「そうして半年後、お父さんの船が帰ってきたって聞いて、お母さん、港まで出迎えに行った。……気がついたら、他の船乗りの奥さんと、同じことしてたんだよね。お父さんがタラップから下りてきて、きょとんとした顔でお母さんの顔を見たから、すぐ伝えたの『おかえりなさい』って」
お父さん、うれしそうににっこり笑って、ただいま、って言ってくれた。母が言った。

「その時、お母さん思ったんだ。離れるのも、悪くないかなって。……いつも近くで見ていたら、決して気がつかないようなことが、離れてみると、よく見えたりするんだなって」
母は扉の向こうで、しばらく黙りこんだ。何かを思い出したようだった。

「……帰ってくる度に、お父さんも私も、少しずつ変わってる。結婚して最初の航海の後、帰ってきたら、お父さんは6ヶ月の男の子のお父さんになってた」
母が笑っているのが、賢治には分った。

「本当に大切な関係は、離れることで薄まったりするものじゃないんじゃないかな。むしろお互いのことが心配になって、傍にいる時よりずっと近くに、相手を感じたりするものなんじゃない?……お母さんはそう思ってるよ」

シチューが冷めるから、早く来なさい。
そう言って母は扉の向こうから去っていった。


賢治は母の話を聞いたあともしばらく、あおむけにベッドの上に寝転がったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。

眞菜にいくらでも逢える季節と、そうでない季節と、彼女のことを真剣に考えていたのはどっちだったろう。
彼はそんなことを考えていた。

やがて賢治は、むっくりとベッドから起き上がると、母の作ったシチューの香りに誘われるように、茶の間に赴いた。
健介は先に卓について、貪るようにシチューを食べていた。
賢治も炬燵に入って、母のよそってくれた皿と向かい合った。

その時、賢介が手に握りしめていた古い船のおもちゃが、彼の目にとまった。どこかで、そのおもちゃを見たことがあるような気がしていた。だが、それがいつ、どこであったのか、彼は思い出せそうになかった。

それは、随分古い思い出か、あるいは些細な思い出であったようで、なかなか具体的な像となって彼の脳に浮かんでは来なかった。それ以上、そのことを考えても仕方ががないような気がした。彼は気を取り直し、皿によそわれたものを食べようと、添えられた大柄なスプーンを手に取った。

それはちょうど、ラジオで船舶情報が配信される、直前の出来事だった。
ズボンのポケットの中で、唐突に彼の携帯電話が、呻くように振動し始めた。

彼がポケットから取り出すと、携帯の表の小さな液晶画面には、『矢崎薫』の名が表示されていた。こんな時に、どうしたんだろう。何やら得体の知れない、不安なものを感じ、彼は何故か気が急くのを不思議に思いながら、二つ折りの携帯を開いて、その電話を受けた。

「……賢治!」
案の定、と言うべきか、耳元で聞こえた薫の声は、明らかに気が動転していた。


「早く来て!……眞菜ちゃんが、倒れてる!」

『カタワラ』:14

「ねえ、けんすけくん」
歩が賢介に話しかけた。「おっきくなったら、私達、結婚しない?」
「おう!」賢介は、意味もなく胸を張った。結婚すると言うことは、逞しいことだと彼は思っていた。

「じゃあさ、約束しようよ」歩が言った。
「紙に書いて、地面に埋めるの。……大人になったら、開けるのよ」

賢介と歩は、習ったばかりのひらがなで、小さな紙に結婚の約束を書いた。

ぼくたち
わたしたちは

おっきくなったら

けえっこんしまあうす

2年1くみ いとうあゆむ
1ねん1くみ のぐちけんすけ

「……できた」歩がうれしそうに瞳を輝かせた。「どこに埋める?」
「あゆむちゃんちの庭」賢介が言った。
「だめだよ!」少女はが大きな声で否定した。「うちのマリが掘り返しちゃう」
歩の家にはマリという、ちっとも言うことを聞かない大きな犬がいた。朝、学校に行く前に、彼女がマリに引きずられるように散歩させている姿を、賢介はよく見ていた。

「ほかに、ない?」
歩は大きな瞳をくりくりさせて、賢介の顔をのぞき込んだ。
賢介は彼女にじっと見つめられるのがうれしくて、しばらくうんうん唸って考え込む振りをしていたが、やがて、
「……まっくら森」と、さも、ようやく思いついたかのように言った。

「うん!それいいね!」歩も賛成した。
賢介の手を取り、「じゃあ、いこう」と言って、まっくら森に向かって二人は駆けだした。


森の中の道は、歩と賢介の頭の中にすっかり入っていた。
彼と彼女にとって、ここは唯一の遊び場だった。大人の入り込めない、子供だけの庭。見たことのない地味な色の花が、うっそうと茂る林冠から漏れ出た光の中に一輪、花を付けていた。

森の木々は燃えるように色づいていた。
彼らは秋に迷い込んでいた。

いつも知っている道が見知らぬ道のように彼らの前に展開し、そして彼らの背後に消えていった。目の回るような秋の回廊を、彼らはそれでも、子供に備わった本能なのか、臆することなく進んで行った。

大人にはかぶれるから触ってはいけないと言われている、赤い実をびっしり付けたマムシソウが、道を指し示す行灯のように、所々にのっそりと立っている。降り積もった厚い落ち葉が彼らのくるぶしまでをしっかりと覆い尽くし、踏まれる度にかさかさと、乾いた泣き声を上げた。


「……このへんで、いいんじゃない?」
しばらく突き進んだ後で、歩の足がぴたりと止まった。
その背中を追いかけてきた賢介もその隣に立ち止まって、彼女が見つめるものと同じものを、並んで見上げた。

それは大きく古いタブの木だった。
他のほとんどの木々がすっかり色づいていた中で、その常緑の樹は、てらてらと光る、冬でも枯れることのない緑の葉を場違いに身に纏っていた。

賢介は、手近にあった棒きれを拾って、そのタブの木の根元の、出来るだけ土の軟らかい場所を選んで、掘り返し始めた。歩は家からクッキーの空き缶を持ってきていて、その中に先ほどの結婚の約束を書いた手紙と、一番お気に入りの蒼いビーズの髪留めを入れていた。

「……けんすけ君、私が引っ越しても、忘れないでいてくれる?」
歩が、熱心に木の根元を掘り返している健介の背中に心細そうに問いかけた。
彼は聞こえないかのように返事もせず、作業を黙々と続けていた。

「……あたしね、実はちっともさびしくないんだ」
賢介から返事がないことは見通していたかのように、歩は続けた。
「だってさ、賢介君、ここにいるんだもの」
歩ちゃんは自身の胸のところに手をあてた。
「おうちで一人いてもさ、気がつくと、頭の中の賢介君とお話ししていたの。にこにこしてるから、お母さんに笑われちゃうくらい」
歩は、恥ずかしそうに身もだえしていた。
「……けんすけ君は、もう私の心の中にも住んでるんだ。だから、ちっともさみしくないのかも」
賢介はそれでも、歩ちゃんに背中を見せたままだった。
ざり、ざり、という音を立てて、彼は躊躇する様子すら見せなかった。

「……母ちゃんが」
そのとき、彼は歩に後ろを見せたまま、思い出したように、ぼつりとつぶやいた。
「触っても触れないところに、大事な人は住んでるって言ってた」
泣くのをこらえていたのか、彼の声はいつもよりずっと控えめだった。

「……だから、父ちゃんはいつも、母ちゃんや、おれや、にいの、カタタラにいるんだって」
「カタタラ?」少女は思わず首をかしげた。しかし、それは賢介の方からは見えなかった。

「……難しくてわかんないけど」
歩は一人笑った。
「でも、手を伸ばしても届かないけど、もう、いつもつないでいるような、そんな感じだよね」
歩は何かを思い出したのか、再び、恥ずかしそうに俯いた。そうして、
「……一人で歩いていても、お家まで、ゆっくり帰りたくなっちゃうな。……けんすけ君と居る時みたいに」
と、寂しそうにぽつりと呟いた。

「けんすけ君、掘れそう?」
歩は急に声の調子を変えて、賢介の手元をのぞき込んだ。
しかし賢介はすでに掘るのを止めていた。枝を持たない方の手に、何かをしっかりと掴んでいた。

「……なにか、あったの?」
賢介は、歩に、手に持っていたものを差し出した。

小さなクッキーの空き缶だった。
空き缶はすっかり錆びて、泥だらけになり、元の絵柄は解らなくなってしまっていたが、所々、元々塗られていた蒼い色の塗料を鮮やかに残していた。

「……なに、これ」
「埋まってた」賢介が言った。
「……誰かの、落とし物?」
あけてみようよ、と言うのが早いか、賢介はそのクッキーの空き箱を、小さな平たい石でこじ開けた。

「……?あ、お手紙」歩が言った。

箱の中には、小さな紙に書かれた手紙と、船のおもちゃが入っていた。
歩は、箱に入った小さな手紙を読み始めた
「おつきくなつたら……。……字が読みにくい」
賢介も彼女の隣から覗き込んで、その文字を読もうとしたが、だめだった。
色の薄い鉛筆で書かれた文字は、森の底の薄暗い光の中では、よく見えなかった。

「はやくしないと暗くなっちゃうよ」
手紙を読もうと、じっと見つめていた彼女は、ふと我に返り、林冠から見える空を見上げて、不安げに呟いた。太陽はすでに、西に陰り始めていた。森の底には光りの届かない暗がりが、所々にできはじめていた。
森に、夜が生まれつつあった。

賢介は、その古い缶をタブの根元に放り出すと、彼らの持ってきた新しい缶をその場所に埋めて、しっかりと土を覆い被せた。
「……よし」賢介が言った。
「……暗くなってきたから、もう帰ろう」歩が言った。
歩が手を差し出すと、賢介は待っていたかのようにその手を勢いよく掴んだ。


そして二人並んで、2匹の子鼠のように、もと来た道を駆け足で戻って行った。

2009年2月17日火曜日

『カタワラ』:13

「……もう、いいよ」不機嫌そうに眞菜が言った。「……気にしてない」
「ごめん、……眞菜を、傷つけるようなことを言ってしまって……」
玄関先で、賢治は頭を下げた。

賢治は眞菜の家に、謝りに来ていた。
そろそろ夏も終わりになり、秋の草花がぽつりぽつりと見られるようになった。

眞菜も、外出を控えるようになってきていた。秋はブタクサなどのイネの仲間の植物が良く花粉を飛ばす。それは眞菜にとっては、時にスギの花粉以上に、大きな影響を与えていた。中学の時、卒業アルバムの写真にほとんどのらなかったのも、この秋の花粉のためだった。

「……傷つけたって、本当に思ってる?」疑いのありありと籠もった目で眞菜が言った。
「……賢治、いつも本当に口先だけなんだから」
「……ホントに、そう思ってる」賢治は言った。「そうでなかったら、わざわざ出向いてまで謝りに来ないよ」

賢治はまず眞菜に電話をかけてみたのだが、案の定、彼女は電話に出なかった。
こういう時は、彼女が本当に怒っている時なのだと言うことを、賢治はよく知っていた。家から滅多に出られない彼女にとって、電話にすら出ないと言うことは、関係を完全に遮断したに、等しかったからだ。

彼が彼女の家に謝りに出向いたとき、彼女は、すぐには出て来てくれなかった。
インターホン越しのやり取りが、すこし続いた後、彼女もそれでは言い足りないものを感じたためか、ようやく彼の前に姿を現してくれたのだった。

しかし、目の前に現れた彼女は、彼の予想とはやや違っていた。
賢治は彼女が、明らかに怒っていると思っていたのだが、彼女は意外にも冷静だった。むしろ、観察するような疑念を含んだ瞳を彼に向けて、彼女は玄関の上がりのところに突っ立って、彼に向かっていた。


「……賢治」
彼の言葉を受け取って、しばらくの沈黙した後、眞菜が口を開いた。
「……わざわざ来てくれたのはうれしいけど、もう、帰ってくれない?」

「どうして?」
賢治は自分がうろたえているのを真菜に見せているのすら気がつかないほどに動揺した。

「なんか、気分が滅入るんだ」
眞菜が身体を縮めて身を震わせた。
「……それに、なんか今日は花粉が随分飛んでる気がするし」
くしゅん、眞菜は大きなくしゃみをした。眞菜は常に携帯しているポケットティッシュで鼻をかむと、手近なところから大きなマスクを取り出し、顔を覆った。

「……ほらね。それに……」
「それに?」
「……賢治さ、そうまで頭下げて、私と仲直りする意味、あるの?」
眞菜はさらりと言った。
「……どういう意味だ」賢治には理解できなかった。

「……私と賢治は、住む世界が違うんだよ」眞菜が言った。
「賢治はこれから、大学に行って、多くの人と知り合う。社会の一員になって、それを支えていく。……でも、私は、こうして家の中で、春と秋に怯えて生活していくの、……持って生まれた、命が尽きるまで」
眞菜は後ろを向いて、マスクをずらし、もう一度鼻をかんだ。
もう何度もそうしていたためか、鼻の奥の血管が破れたらしく、ポケットティッシュに少し血が滲んでいるのが賢治にも見えた。

「……正直、私ともう仲直りしなくても、あなたの人生には、なんの影響もないとは思わない?もっと、ためになる人と、賢治は知り合っていくべきなんだよ」
……薫のことを言っているのだろうか。賢治には、眞菜の心の内の声が聞こえるようだった。
だが、彼女は単純に薫に嫉妬しているというわけでもなさそうだった。もし彼女が嫉妬しているとすれば、自分を含めたすべての、「普通の」高校生なのかもしれない。そう彼は感じた。

「……もう、今日はいいや、……私だんだん、だるくなってきた。薬飲んで、もう寝るね」
眞菜はそう言って、玄関の内側のガラス戸をぴたりと閉めた。奥の寝室に歩き去っていく、眞菜の小さな素足が見えた。

眞菜が再び現れることはもう期待できなかった。
賢治は仕方が無く、眞菜の家を辞して玄関の戸を閉めた。


彼には、もう彼女と仲直りする当てがなくなっていた。この様なことは、初めてと言っても良かった。今までであれば、電話をするか、会いに行くかすれば、結局仲直りして、2日と立たないうちに、元通りの関係に戻ってしまっていた。だが、今日の眞菜はそのいつもの眞菜ではなかった。

彼と彼女の関係に、二人の持って生まれた、境遇の違いというものが重くのしかかっているのを賢治は始めて意識した。高校の三年生は進路を決める時期とよく言うが、進路を決めると言うことは、過去のものとの決別も意味していると言うことを今頃になって思い知らされた気がして、彼は恐ろしさに身が震えた。

今まで、身体の一部のように身近だった眞菜の存在が、手の届かないほど遠くに行ってしまったような気がしていた。考えてみれば、彼は眞菜との距離をこんなにも意識したことはなかった。逢えない時期であっても、彼にとって眞菜は常に傍にいる存在だったから。それは、眞菜にとっても同じはずだった。その眞菜が、仲直りする必要など無いと、言い切ったのだ。

それは、体の一部を、ほとんど永久的に失ったに等しい喪失感だった。
これからどうしていこうという、らせんを描いて落下するような狂おしい感覚を賢治は感じた。

彼には、彼女の思いは全く理解できなかった。ただただ、彼女が遠くなっていく感覚に怯えていた。

2009年2月14日土曜日

『カタワラ』: 12

「……ひっさしぶりい。薫」
薫が少し遅れて席に着くと、瀬希はカウンターに向かって、水、もう一つお願いします、と叫んだ。
背の高い男性が、彼女らの座るテーブルの傍までやって来て、薫の新しいコップを用意し、慣れた手つきでコップに水をつぎ足した。薫はアイスコーヒーを注文した。

「あつかったでしょう」
向かいに座った瀬希は、すっかりうなだれていた。
「家、エアコン壊れてて、いられないんだよね……。全く、もう9月だって言うのに、この残暑は、何?」
彼女は肩の大きく出た服を着て、下も短いパンツをはいていたが、小柄な彼女が着ると、まるで少年のようだった。とび色の瞳をぐりぐりと動かして久しぶりに会った薫を見つめていた。

「薫、本当に久しぶりだよね、……3年になってクラス代わってから、ほとんど会ってないでしょう?前は、飽きる位会ってたのに」屈託のない笑顔を浮かべて瀬希は言った。
「……ホントに」薫も笑った。
「でも、しばらく会ってなかったから、瀬希の顔見るとなんだかほっとするよ」
「へへ」瀬希はうれしそうだった。「……あたしって癒し系だから」
卓の上のオレンジジュースの氷が、からりと鳴った。

「……薫、もしかして、なんか疲れてない?」
瀬希は机に顎を載せたまま心配そうな顔で薫を見つめた。「……どうかしたのの?」

「……べつに」薫は言った。「……まあ、受験生だからね。お互い様じゃない?」そう言って笑いかけた。
「……だね」瀬希が言った。「私も毎日、もううんざりだ」
結露してすっかりびしょ濡れになったグラスを掴んで、瀬希はストローからオレンジジュースを飲んだ。

「勉強、してる?」瀬希が尋ねた。「結構しんどくない?モチベーション保つのって」
「……まあね」薫が答えた。
「誰か、一緒に勉強してくれるといいんだけど。誰も美術系なんて受けないだろうしな……。」
「実技試験があるんだっけ。それもまた、大変だよね」薫が言った。
「センター受けるのは一緒なんだけどね」瀬希が言った。「……受験生はみんな自分勝手になりがちだから、私のことなんか構ってくれない」めそめそと泣くような素振りを見せた。
「楽しいだろうにね、瀬希がいたら……」薫が慰めると彼女は、
「……そう言う、薫も一緒になかなか勉強してくれないくせに」恨めしそうに薫を見た。
「……ごめん」薫が言った。

瀬希はうなだれた様子の薫を、子供じみた大きな瞳をまん丸に広げて、珍しそうに見つめていた。
「……やっぱり、どうかしたの、薫。……元気ないよ」

薫は何も言わなかった。
これじゃあたしも、賢治と同じだな。心の内でそう思った。

「……まあ、いいや。乙女にひみつは憑き物だもんね」
瀬希は思い出したように、隣に置いたスヌーピーの鞄から、一冊のアルバムを取り出した。

「はい、これだよ。うちの中学のアルバム」
薫はそれを受け取ると、早速ページを開いた。
瀬希は立ち上がって、反対側からそれを眺めた。

幾分緊張した様子の生徒の写真が並んでいた。しかし、その数は決して多くはなかった。たった2クラスしかないんだ。薫は驚いていた。全部併せても、40人ちょっと……。

「少ないでしょう、うちの中学」瀬希が言った。
「今、もっと少ないんだ。一学年1クラスしかないんだよ……。ほおら、これ、あたし!」
瀬希が指さしたところには、制服を着た瀬希の姿があった。

「……今と、あんまりかわらないね」薫が苦笑した。
「ええ!そんなこと無いよ、随分純朴で、素朴な感じじゃない?」瀬希は怒って身体を起こした。
「……そうだね……、変わらず、“かわいい”って事だよ」薫は苦し紛れにそう言った。
「……言われ飽きたな“かわいい”は」瀬希が言った。
「一回でも良いから、“キレイ”って言われたい……」

薫は瀬希の言葉に構うことなく、生徒の顔の並んだページをめくった。
そして、その隅の名前に目がとまった。
「……これ、賢治?」
構ってもらえなかった瀬希は、一人でふてくされていたが、薫の驚いた様子に、首を伸ばしてアルバムをのぞき込んだ。
「そう。賢治も、この頃、かわいかったな……。今はもっとヒゲヒゲしてるけど」
薫は何も言わず、未だあどけなさの残る賢治の写真を見つめていた。

「そう言えば、薫と賢治って、同じクラスだよね」瀬希が言った。「どう?奴」
「……どうって?」薫が顔を上げた。
「惚れた?」いたずらっ子そのものの目で、瀬希が言った。
「……なわけ、無いじゃない」薫は表情も変えず否定した。「ただ、知ってる名前があったから……」
「ふーん」疑うような目で瀬希が言った。「……夜中に、急にアルバム見たいって電話してくる位だから、てっきり、賢治のことでも、詳しく知りたくなったのかと思ったよ」
そうして、彼女はくたびれたように頬杖を突いた。

薫は再び熱に浮かされたように、手元に広げられたアルバムをのぞき込み始めた。

瀬希はそれを退屈そうに見つめていた。そして、やがてそれにも飽きてしまったのか、一言、
「大人って、難しいね……」、
と呟いて、明るい日差しの照りつける、窓の外の何もない往来を、光の消えた琥珀のような瞳でぼんやりと見遣った。


アルバムを見つめる薫の耳には、もうその声すら、入ってはいないようだった。

……賢治と同じクラスの女子は、全部で、やっぱり11人いる。
彼女は思った。アルバムをぱらぱらとめくっていて、彼女は妙な事実に気がつきかけていた。

手渡されたアルバムの後半には、行事ごとに、クラスの集合写真が延々と続いていた。
しかし、その中には、どれも女子が一人だけ、常に足りなかったのだ。

「……あのさ、瀬希」
「ん?」ストローを咥えたまま、瀬希が返事した。
「一人、登校拒否だったの?」

「……?うちで?登校拒否?それは、無いよ。だって、和気あいあいだったもん」
「でもさ、賢治のクラスの女子、いつも一人少ないじゃない?」

窓の外に降り注いでいた強い太陽の光が、はぐれ雲に遮られたのか、一瞬翳った。
いつもは高校生らしくもない、子供のように無邪気な瀬希の表情に、年齢に相応の複雑な悲しみを伴った、影のようなものがしめやかに差したのを、その時、薫は確かに認めた。

「……マナマナ、だね」
「マナマナ?」
瀬希は薫の持っていたアルバムのページを始めの生徒の個人写真のページに戻した。そして、一人の少女を指さした。
「この子が、マナマナ」

彼女の指さした少女の写真は、他とは明らかに違っていた。
卒業を控えた時期の周りの写真に比べ、その表情は不自然なほど幼かった。

なにより、他の生徒の写真がみんな冬服だったのに、彼女だけは、何故か衣替え前の夏服を着ていたのだ。
「どうしてこの子だけ、半袖なの」薫は尋ねた。
「だって、マナマナ、倒れて入院してたから。ちょうど写真取る時、いなかったんだよね。……それ、たぶん、なんか別の時に撮ったやつを、使い回したんじゃないかな」

「この子……、身体弱かったの?」
薫が瀬希に尋ねると、瀬希はとりついた何かを振り払うように首を振った。
「まあね。……小学校に入る前に、東京から、ぜんそくの療養のために来たって聞いてる。都会の粉塵が、どうも身体に合わなかったらしくて……。この子のことに関しては、賢治が一番詳しいよ」
「……どうして?」薫はもう察しがついていた。しかし、確認せずにはいられなかった。
「……だって、仲良かったもん」瀬希が言った。
「……ホントの、幼なじみって、ああいう二人を言うんだろうね」

……やっぱり。
薫は思った。あの日、賢治と別れてから、薫はずっと彼の様子がおかしいことについて考えていた。彼女なんていない、と彼は言っていた。だが、そんなことがあるだろうか。薫にはどうしても、信じられなかった。

彼が彼女と出会う前、中学時代、あるいはもっと前に、誰か付き合っていたひとがいたのではないか。彼女はそう考えた。そしてもしかすると、彼はその人のことを、まだ心の中で強く思っているのかも知れない。彼女の直感は、彼女にそう告げていた。

賢治と小学校からずっと同じだった瀬希なら、きっと事情を知っているに違いない。
そう思うと居ても立っても居られず、昨日の、もう時間は深夜であったのだが、去年までクラスメイトであった瀬希に、咄嗟に電話を掛けてしまったのだった。


「……ありがとう。……これ、ちょっと借りるね」
薫はアルバムを閉じると、瀬希の返事を待つまでもなく、自分の鞄に入れた。
「……薫」瀬希が言った。
「何?」
「……マナマナのことなら……、そっとしておいて上げて」
瀬希は不安そうに言った。
「……なんだか、嫌な予感がする。眞菜は、今、きっと幸せなんだ。でも、その幸せも、賢治が遠くの大学に行っちゃえば、終わってしまうかも知れない……」

薫は、にこりと笑った。
「……解ってるよ、瀬希」
アルバムを入れた鞄を手にとって、椅子から静かに立ち上がった。

「……でも、それは私にとっても、同じ事なんだ」

『カタワラ』:11

……それから、眞菜は彼の前に姿を見せなくなった。

メールしても、返事が返ってこなかった。
電話をしようとも考えたが、もしも受け取ってくれなかったらと思うと、怖くて出来なかった。

賢治は、かろうじて繋がっていた眞菜との一本の細い絆が、ぷっつりと、あまりにあっけなく途切れてしまったのを感じていた。もう何をしても、彼女には届かないという絶望感が、底冷えの夜のように、静かに、彼の体温を奪っていくような気がしていた。


そうして梅雨は明け、季節は夏になった。

「……ねえ、賢治」
薫は心配そうに彼を見つめていた。
邪魔になるからと最近短くした髪を、無意識に掻き上げ、片耳を見せた。

「……ん?」
「どうしたの?」
薫は何も言わず賢治のペンの先を指し示した。
キャップが付いたまま賢治はペンを動かしていた。

「……考え事?」薫は心底心配しているようだった。
「なんか賢治……。時々そうなるよね。大抵、月曜日に。……休日に何かあるの?」

「……なんでもないよ」賢治は笑顔を取り繕って見せたが、薫の表情は晴れなかった。
「なんか心配事があるんなら、私にも相談してよ。……賢治が勉強はかどらないと、私もはかどらないんだから」
「……ごめん」
賢治は素直に頭を下げた。
考えてみれば、彼女が言うように、彼の様子がおかしくなるのはいつも月曜日だった。
それは、眞菜から連絡があるのではないかと期待して、週末を迎え、そしてなんの音沙汰もないままに週末が開けてしまうからに他ならなかった。今週も、何もなかった。そう言う虚脱感を感じながら、ここ数ヶ月の彼の一週間は始まるのだった。

突然、薫は開いていた参考書をばたん、と閉じた。
「……もういい。……今日は、何処か気分転換に行かない?」
「気分転換?」
「そう。賢治がそんな調子じゃ、私まで憂鬱になっちゃうし」
薫は言った。「……責任、取ってもらわないと」

賢治は何とも答えなかった。
薫と学校以外で出歩いたことは今まで無かったし、眞菜との関係がこじれてしまった今、誰かと一緒にいるところを知り合いに見られでもしたら面倒になると思った。
「……それは、勘弁してくれないかな」
恐る恐る賢治は言った。
「……どうして?」薫は不思議そうに尋ねた。
「どうせ、勉強に集中できないんでしょう?」

賢治はそれ以上何も言わなかった。
薫は黙ったまま、賢治の様子をじっと見つめていた。
しかし、いつまで経っても、彼が、彼女の期待した答えを言わないと解ると、やがて、抑えた声で
「……もしかして、賢治、彼女いるの?」
と、彼女の感じていた疑問の本質を突いた。

「……いねえよ」
賢治があまり真面目な顔で否定したので、彼女は思わずぷっと吹き出しそうになって、
「……いるんだ」と、疑うような目でそう言った。
「ねえ、どんな子?この学校の子?」
身を乗り出して彼女は尋ねてきたが、賢治はもう何も言おうとしなかった。

「……つまんない」
言葉とは裏腹に、薫の表情は明るかった。
「……あからさまに口に出して言えないような関係なら、別に良いじゃない。たまには外、行こうよ」

薫は賢治の右の二の腕に手をかけ、立ち上がらせると、そのまま彼のロッカーの前まで連れて行った。
賢治は為す術もなく、薫に促されるままに帰り支度をし、結局、二人連れだって下校した。


高校のある丘を下って少し川沿いを進むと、一軒のクレープ屋があった。
クレープ屋と言っても本業は釣具屋で、その店の一角の釣り客用の食事スペースでクレープのテイクアウトも出来るというだけの店だったが、高校の近くと言うこともあり、学校帰りの生徒がよく立ち寄る店だった。

賢治はそこに着くと咄嗟に、数人見かけた同じ高校の制服を着た生徒を見渡したが、その中に、彼らのことを知っている者はいないようだった。

薫はそこでイチゴの味のクレープを買った。
賢治はクレープの味など、別にどうでも良かったが、とりあえず無難なプレーンを買った。そして、二人は、つかず離れずの微妙な距離を保ちながら、川縁の大きな橋を自転車を押して渡っていった。

まだ溶けきっていない生クリームが、口に含むとアイスシェイクのようにじゃりじゃりと下に触った。クレープ生地はさっきまで凍らせていたのか、冷えすぎていて、硬かった。

橋を渡りきると、二人は、橋のすぐ傍にあった海浜公園の、手入れのあまりされていない、古い木製のベンチに腰掛けた。公園は町の公民館が管理していて、その一角は陸上のトラックになっていた。夏になり、昼間が長くなったこともあって、下校時間はもうとっくに過ぎていたが、太陽はまだ高い位置にあった。

熱せられたトラックがその向こうに見える海を陽炎の中に浮かべていた。


「……でさ、賢治は結局、彼女はいないの?」
ベンチに両脚をぴんと伸ばした姿勢で座って、薫はまだ、その話題を気にしていた。

「……しつこいぞ。……もういい加減にしろよ」
賢治は不機嫌そうに言った。
「……良いじゃない。興味あるんだから」
薫は怒ったように言った。「そうやって聞かれている内が、華だよ」
「ちっとも、うれしくねえ」賢治は言った。
「……彼女なんて、いないんだよ。本当に」

「……まさか、今まで誰とも付き合ったこと無いの?」薫は驚いたように言った。
「……珍しいね、今時。小学生だって、好きな子くらい、いるじゃない?」

賢治は何も言わなかった。暑さでクレープの生地は少しずつ柔らかくなっていた。
開きすぎた花の花弁のように、その縁はだらしなく垂れ下がっていた。

「……また、そうやって、黙っちゃうんだから」
薫が口をとがらせた。「……ずるいよ、賢治は」
手に持ったイチゴ味のクレープの残った端を、大きく開けた口の中にわざとらしく放り込んだ。

「……賢治がその手なら、私にも手段がある」薫は独り言のように言った。
「……何だよ」気になった賢治が彼女の方を向きもせず尋ねた。
「教えない」薫は向こうを向いたまま不敵に笑っていた。「……絶対、はっきりさせてやるんだから」


海浜公園の向かいは徹さんと涼子さんの勤める病院だった。賢治は、彼らにばったり出くわすのではないかと気が気でなかった。

眞菜はどうしているだろうか。
徹さん夫妻のことをを考えていると、自然に考えは彼女の事に飛んだ。

あれから、全然連絡がない。

こんな事は、初めてだった。
一体、彼女ははどうしてしまったのだろう。

彼は先行きの見えない不安を感じていた。


それまで、眞菜の心の内は手に取るように解ると、彼は感じていた。

病気になってからの眞菜の心情には、たしかに彼のの想像を超える部分があった。しかし、彼女の性格の本質的な部分を彼はしっかり理解していると自信を持っていた。それは身体に染みついている、と言っても良いほど確かな感覚だった。自分が何を言えば、彼女は喜び、何を言えば、嫌がるかを彼はほとんど本能的に感じ取ることが出来た。

彼女はある意味で、彼の一部だった。
それは同時に、彼が彼女の一部でもあることを意味していた。彼が落ち込むような出来事なのであれば、当然のように、彼女も同じ理由で落ち込んでいるはずだった。

眞菜も、仲直りする機会を見失っているのかな。
彼はそう思った。

そろそろ、電話、したほうがいいかもな。
残ったクレープを口に入れながら、賢治はそんなことを考えていた。


その時である。
それはまさに不意をつかれた感覚だった。

彼の右腕を、何者かが、ひしと掴んだ。


見れば、薫の白く長い指が、賢治の二の腕をしっかりと捉えていた。
夏の暑さのせいで、彼女の手はしっとりと湿っていた。

突然のことに、賢治は驚いた。
薫は身じろぎもせず、賢治より少し低い位置から見上げるようにして、彼の表情をじっと伺っていた。彼女の顔は、驚くほど近い位置にあった。指に込められた力は、少しずつ強くなっているようだった。

「……なんだよ」
薫が彼を見つめたまま何も言い出さないので、賢治はしびれを切らした。

彼女の口元が、何かを話そうとしているかのように薄く開いた。
しかし、そこから言葉は漏れては来なかった。

ただ言葉を待つように、その口元は僅かに開いたまま、少しずつ彼に近づいてくるように思えた。

何を……。
賢治がそう言おうと口を開いた刹那、目の前は真っ暗になった。

脣と脣が触れあう感覚がした。
メンソールか何かの涼やかな感覚と、先ほど食べたクレープの乳脂に混じった微かなイチゴの香りが、呆然とする彼の口元を通り過ぎた。


二人の身体は、気がつけば、もう離れていた。
薫はすでに半歩離れた位置に立って、驚きに目を丸くしてベンチに転がった賢治を見下ろしていた。

「……遠くに行っちゃ、駄目だからね」薫は独り言のようにそう言った。「……傍にいてくれなきゃ、困るんだから」

薫は、公園の入り口に止めた自分の自転車にまたがると、賢治の方は振り向きもせず走り去り、そして、その姿はあっという間に見えなくなった。


後に残された賢治は、混乱した頭で、その背中を見送ることしかできなかった。

2009年2月13日金曜日

『カタワラ』;10

6月に入り、梅雨が本格化してくると、ようやく眞菜の家からビニールシートの前室が取り払われた。

「受験は夏が勝負」という、大手予備校のキャッチコピーに乗せられて、賢治の受験勉強への意識も次第に高まってきていたが、それでも暇を見つけては、眞菜の所に顔を出すようにしていた。

雨は、空気中から、僅かに残った粉塵のようなものまで洗い流してくれたから、雨が降った日は、体調さえ良ければ、眞菜の方から賢治の家に出向いてくることもあった。


「こんにちは」
薄い赤い色の傘を差した眞菜が、控えめに玄関先に現れると、いつも最初に飛びつくのは賢介だった。
「あ、眞菜ねーちゃんだ!」
眞菜を見つけると、彼はいつも大きな声を出し、母にも、賢治にも大仰に伝えて廻った。
外出していた飼い主がようやく帰ってきた時の子犬のような大げさな歓迎に、眞菜は困ったような笑顔を見せながらも喜んでいるようだった。

「賢介君、少し身長伸びました?」
差し出された座布団に膝を突きながら、珍しいものでも見たような目をして、眞菜が賢治の母に言った。
「……そうかしら、いつも見ていると解らないけど」
「伸びてますよ。ね、賢介君?」
眞菜に優しく笑いかけられて、賢介は恥ずかしそうに身をくねらせた。そして、いたたまれなくなったのか、卓の傍を飛び出して、奥の部屋に引っ込んでしまった。
「あ、逃げられちゃった」
「眞菜ちゃんが来て、うれしくて落ち着かないんでしょ」
賢治の母はおかしそうに笑っていた。
「恥ずかしがり、なんだから」
「誰かさん、そっくりですね」眞菜が、隣に座った賢治に目配せした。
「……なんだよ」賢治はぶっきらぼうに、そう答えた。

「ほら」
「ほんとに」
女二人は向かい合って、おかしそうに笑っていた。
賢治はその様子を不愉快そうに見つめていた。

「……いったい何の用で来たんだ?俺は受験生なんだぞ」
賢治がそう言うと、母は、
「……いくら何でも、そんな態度取ることないでしょう」と眉をつり上げて叱った。

「……眞菜ちゃんごめんなさいね。この子は……。眞菜ちゃんの家に行っている時に、ご迷惑かけてない?」
眞菜は首を振った。
「……迷惑だなんてそんな……。親も賢治が来てくれると、とっても喜ぶんです。賢治は、家にいる時、とっても、“素直”、なんですよ」
ね、賢治。とでも言うように、眞菜は含みのある笑みを浮かべながら賢治の方を向いた。
賢治は明後日の方角を向いたまま、顔を合わせようともしなかった。

「それに今日は賢治じゃなく、陽子さんに会いに来た訳ですから。……受験生は、さぞ忙しいのでしょうし」
「それも、そうね」
女二人は、賢治の方を見た。
そしてまた、顔を見合わせて笑った。

賢治は不機嫌そうに口をゆがめていたが、賢介のようにその場を立ち去ろうとまではしなかった。眞菜を歓迎しているという点では、彼も母と同じだったからである。ただ、母親の前で、眞菜にいつものように接するのはいささか照れくささも感じていた。こういう態度を取っても、彼女なら解ってくれる。そういう、古いつきあいだからこそ生まれる甘えのようなものも、彼の中にはあった。

「……ところで賢治、受験勉強は進んでるの?」
陽子に会いに来た、とは言いながら、眞菜は賢治に問いかけた。
賢治は心の中で安堵を感じた。

「……ああ、まあ」口数少なく、賢治が答えた。
「薫さんとの、勉強会は、まだ続いてる?」
「……ああ」賢治が答えた。

「勉強会?同級生と?」賢治の母が驚いたように声を上げた。「……知らなかったわ」
「賢治、お母さんに言ってなかったの?」あきれたように眞菜が言った。「全く、男子って……」
「その薫ちゃんって、女の子?」興味津々で母が聞いた。
「そうみたいですよ」
賢治が答える素振りがなさそうだったので、眞菜が代わりに答えた。

「……まあ、この子は、眞菜ちゃんって子がありながら……」母もあきれた様子だった。
「……うるさいな、そう言う関係じゃないよ」賢治は煩わしそうに答えた。
「あくまで、あれは勉強会。それ以上でも、以下でも無し」
それから、何か一言、まだ言い足りないような気がして、彼はその後にこう付け加えた。
「……それに、眞菜とだって、別に付き合ってる訳じゃ……」

その時、眞菜の表情が一瞬悲しげに曇ったのを賢治は見過ごさなかった。
「まあ、そうだけどね」賢治から顔を背け、突っぱねるように眞菜は言った。
「……そうだけどね」

眞菜の取った態度に、彼は小さな不安を覚えた。いくら眞菜とはいえ、余計なことを言ってしまったかも知れない。不安はたちまち彼の胸の内に広がり、思わず表情に表れてしまいそうになった。
しかし、今が母の前と言うこともあり、弱気を彼女に見せたくない意地が働いて、彼は相変わらず不機嫌そうな態度をとり続けた。

「……一緒に勉強しようって言うから、してるだけだ」
不安に声が震えそうになるのを必死に抑えて、言い訳のように賢治が言った。
「手の届く距離に、同じ目的の奴がいるのは心強いからって言うから……」
「手の届く距離……」
眞菜は、せっぱ詰まった表情で賢治を見つめた。
賢治は彼女の不安げな瞳を通して、その内に、やるせない切実な気持ちが激しく渦巻いているのを敏感に感じ取っていた。

「確かに、今は、とりあえず目標の大学に入るって言う、共通の夢があるもんね」母が言った。
「そのために、手と手を取り合うっていうのも、解らないでもないかな」
「夢……、そうですよね……」
眞菜は小さく呟くようにそう言った。
明らかに、来た時の元気はなくなっていた。

思うようにいかない事態に、彼は焦っていた。
話題を変えた方がいいな。賢治は咄嗟にそう思った。
「……そういえば、眞菜の夢を、まだ聞いてなかったな」
暗く沈んでしまった彼女の表情を少しでも晴らそうと、彼は努めて明るく言った。
「この間の時は、はぐらかされちゃって、結局聞けなかったから。今日は教えてくれよ。眞菜の、夢」


彼女はしかし、その賢治の問いを聞いても、何も言わなかった。
俯いて、じっとしていただけだった。

やがて、その瞳から、ぽろりと数滴の涙の雫がこぼれ落ちたのを彼ははっきりと認めた。

眞菜は悲しみに、小刻みに身体を震わせていた。
「眞菜……?」泣いているのか?
賢治は思わず身を乗り出した、そして、その手をさしのべようとすると、彼女は、きっ、と賢治を鋭い眼差しで睨み付け、差し出された手をぴしゃりと音が出るほど強く払った。

賢治は驚いて、一度差し出したその手を、思わず引っ込めてしまった。
「……どうしたんだ、一体……」
眞菜の泣いた理由が、彼にはすぐに分からなかった。

「……夢、なんて、無いよ」
消え入るような声で、眞菜が言った。

「明日どうなるかも解らない私に、どうして、未来の夢、を見ろ、と言うの?」
眞菜は先ほど見せた激しい気持ちのこもった眼差しを再び彼に向けた。
涙で濡れたその瞳はあまりに強く、賢治は思わず、身体が竦んでしまった。

「今日を無事に生きれるかも解らない……、もしかすると、明日には、私の意識はないかも知れない……。そう言う気持ちで、毎日を生きたことが、賢治にはある?」
眞菜の手が勢いよく、彼女の座った床を叩いた。
「私は、今を生きるだけで精一杯……。それなのになぜ、健康なあなたたちが描くような明るい未来を描け、と言うの?」

眞菜は突然うつむき、左の手で、両の目を覆った。
「夢を持つなんて……、私には、贅沢、なんだよ……。」
彼女は身を震わせ嗚咽を始めた。手首を伝って、涙が肘からぽたぽたと床の上に流れ落ちた。

それを、当然のことのように、言わないで……

声にもならない声で、彼女はそう訴え続けた。

賢治の母が、泣きやまない眞菜に駆け寄って、彼女を抱きすくめた。
ごめんなさいね。あなたの気持ちを解って上げられなかった。
母はそう言って、眞菜の背中を静かにさすっていた。
始めはそれを拒むように身を縮めていた眞菜も、その言葉に安堵したかのように、彼の母に身を委ねた。

賢治はその様子を、どうすることも出来ず、ただ呆然として見つめていた。
差し伸べようとして、強くはじかれた彼の右手が、熱を持ったように赤くなり、じんじんと痛んだ。


……それから、眞菜は彼の前に姿を見せなくなった。

2009年2月11日水曜日

『カタワラ』;9

薫との勉強会は、それからもほとんど毎日続いた。
前半は賢治が得意な教科を教え、後半は薫がそれに代わった。

薫は、賢治が驚くほど、自分の得意な教科は勉強してきていた。彼女は確かに勉強が出来ない方ではなかったが、それでも学校の掲示に張り出される上位成績者に名前が出る方でもなかったから、明らかにこの勉強会のために勉強してきているようだった。

「人に教えなきゃって思うと、なんだか責任感じるでしょう」薫はそう言って、照れたように笑った。

賢治は始め、自分の解る範囲で彼女に教えればいいと高をくくっていたのだが、彼女の努力に気づいて、自分だけ適当に怠けているのが申し訳なくなってきた。

得意な教科は相手に教えられるほど得意に。苦手なものは、せめて、相手が教えてくれたくらいは理解できるように。二人はいつしか気がつかないうちに、相手が自分に注いでくれた熱意の分だけでも、努力するようになっていた。それを思いやりと呼ぶことまでは意識していなかったが、一月も経つ頃には、当初は面倒な同級生と思っていただけの薫に対して、賢治はある種の信頼を感じるようになっていた。

それは、薫の側でも同じのようだった。特に約束しなくても、彼女はいつも放課後、賢治の席のあたりで、彼が掃除から帰ってくるのを待っているようになった。

「あたし達ってさ」ある時、薫が言った。
「ある意味、受験のための協力関係としては、理想的なかたちじゃない?」
「そうかもな」賢治は否定しなかった。
薫がうれしそうに笑った。
「まさに、“パートナー”って気がする。……私が困っているところを、すぐに助けられる距離に賢治がいるから」
そう言った時の彼女は、少し照れくさそうだった。
「いつも近くにいるって、大切な事だよね」薫が言った。
「いつでも手の届く距離に、賢治みたいに気軽に話せる人がいるってだけで、すごく心を強く持てる気がする」

賢治は薫の言葉を肯定も否定もしなかった。だが、彼は内心、彼女と同じ気持ちだった。目的を同じくするものが、すぐ傍にいて、お互いに切磋琢磨しあえると言うことが、どれだけ自分自身を鼓舞するか。不安を押しやり、払拭してくれるか。彼は彼女との、このたった一ヶ月の間にはっきりと知った気がした。

「……まあ、おれに感謝するのは、受かってからにしろよ」
照れくささに耐えかね、少し戯けた調子で賢治は言った。
「それもそうだね」薫が笑った。
「……じゃあ、数学やろうか、賢治君」


薫は学生鞄の中から使い込まれた数学の参考書を取りだした。
パステルカラーの付箋紙が、短冊飾りのようにあでやかに揺れながら、本の上端から何本も顔を出していた。
参考書の隅は、ページの目印にしたらしく、幾つもの折り跡が重なって見えた。
本を持つ彼女の右の親指に、いつの間にか参考書に引かれた赤いボールペンのアンダーラインのインクが移って、赤く色が付いていた。しかし彼女はそのことすら、気に留めていなかった。

「……どうしたの」
ぼんやりと彼女の様子を見ている賢治に気づいて、参考書に向かっていた薫は不思議そうに彼を見上げた。
「あ、いや……」
お前って、意外にがんばり屋なんだな。
そんな言葉を飲み込んで、彼は自分の鞄から彼女と同じ参考書を取り出した。


白い参考書を出すのが、少し、恥ずかしかった。

『カタワラ』;8

“賢治?今電話しても大丈夫?”

彼女からのメールは、たったそれだけだった。
賢治はアドレスから眞菜の番号を呼び出し、電話をかけた。

「……ぉう」
なんともつかない挨拶をして賢治の電話は眞菜と繋がった。
よく見知った相手に改めて電話するときの、この気まずさは何なんだろう。
そんなことを感じていた。

「……うん」
その感覚は、向こうも同じだったのか、何に対する返事なのかもわからない答えがワンテンポ遅れて帰ってきた。
「……今、どうしてる?」相手との間合いを測るかのように、遠慮がちに眞菜が尋ねた。
「……港で海見てる」賢治は端的にそう答えた。

「夕日、見える?」
「……見えないな。やっぱり、山に隠れちゃうから」
海で夕日が見えないことは、眞菜だってよく知っているはずだった。
あえて答えの分かっている質問でもとりあえず投げかけさせてしまう、今の彼女の孤独な気持ちが賢治にも切実に伝わってきた。

「また、一人なのか?」傷口に触るように、できるだけ優しい口調を心掛けて、賢治は尋ねた。
……うん、と、頷いたついでに漏れてきたという程度の、消え入るような返事が聞こえた。
「やっぱりこの時期になると、仕事をやれるだけ終わらせてから家に帰ろうとするからかな。どっちも帰りが遅くなりがちなんだ」
家の出入りがビニールのカーテンに区切られて不便になるということは、そういうことらしかった。余計な出入りをできるだけ減らそうとすれば、どうしても、忘れ仕事を残したくなくなってしまうのだろう。

「忙しいもんな」
できるだけ、彼女が隔離されているという話題には触れないように賢治は心掛けていた。それが事実であったとしても、わかりきったことをあえて何度も言うのは、単純に残酷なだけのような気がした。
「……ねえ、賢治?」
「うん?」
新しいクラス、楽しい?眞菜はそう訊ねた。
さびしい気持ちを殺して、明るい笑顔を心掛けるときの彼女の、誰かに遠慮するような微笑みが、賢治の脳裏に浮かぶようだった。
「……楽しくなんかないよ」
ひょうきんな調子を取り繕って、彼は答えた。
「今日なんか、めんどくさい同級生に、取りつかれちゃってさ」

賢治は、今日の薫と結ばされた『契約』の話を眞菜に話した。
眞菜はところどころ笑いながら、それを楽しそうに聞いていた。
彼の話を聞いているうちに、彼女の笑い声は、少しずつ元の調子を取り戻してきた様だった。
少し元気になってくれたかな、賢治は彼女に話しながらそう感じていた。

「それは、大変だったね!」
話が一通り終わると、眞菜が言った。
「……でも、みんなと協力して、何か一つのことを目指すって、なんだか憧れるな」
「そうかな」賢治は言った。
「努力って、最終的には自分を高めるもんだろ。他人の協力できることなんて、限られてるんじゃないか?」

彼はそう思っていた。薫の一緒に勉強しようという誘いに乗れなかったのも、そういう考えがあったからだった。
準備段階では誰と協力しても、結局受験するのは自分の身ひとつなのだ。誰かが代わりに受験してくれるわけでもなかった。ならば、始めから自分で、自分を強化した方が早いではないか。
他人との協調は、目標を目指すにはあまりにロスが多いように賢治は感じていた。

「でもね」と眞菜の声が聞こえた。
「たとえ相手のためになっていないかもしれないと思っても、何かしたいと思うものなんじゃない?」
……仲間って。付け加えるように、彼女は最後にそう言った。

「おれは、あいつを仲間とは、思えないけれどなあ」賢治はうんざりしたように言った。
「……取りつく島もないね」と眞菜が笑った。「努力してる薫さんが、かわいそうだよ」
「あいつだって、自分のこと考えているだけじゃないか?」賢治が言った。「そんなにお互いのこと考えている余裕はないよ。受験生って」
「……そうなのかもしれないね」急に、少ししょげ返ったように眞菜が言った。「……私が、のんきなのかな」

眞菜自身は大学を受験する気はない、と以前から言っていた。
たとえ合格しても、高校ですら通えない身体に大学生活は無理だろうということだった。
通信制の大学を受験することも考えたというが、結局その話もあまり乗り気ではなさそうだった。大学を出たところで、それが自分にとって何になるのか眞菜には見えないらしかった。

今日はまた、ずいぶん気持ちが沈んでるな。と賢治は思った。
冬や夏に、彼女の家に遊びに行った時の元気の良さからは想像できないほど、この時期の真菜は、ふさぎ込むことが多かった。物理的に一ヵ所に閉じ込められるということは、心まで封じ込めてしまうのかもしれないと賢治は思っていた。

「そんなに、自分を悲観するなよ」元気づけようとして、賢治は言った。「ケーキだって、作れたじゃないか」
ふふ、そうだったね。と電話の向こうで眞菜が笑った。あれ、陽子さん達も食べてくれた?
「うまいうまいって、誉めてたよ。……賢介なんて、母さんのを取り返して食べてた」
本当に?真菜の声に幾分、元気が出てきた。賢治は思わず笑顔になった。

「ケーキのクリームに、イチゴのつぶしたのをほんの少し入れたのは、眞菜の工夫だったんだって?気がつかなかったよ」賢治は、彼の母が気付いた点をそのまま言った。
「あれは、思いつきでやったんだよね」
眞菜が言った。「……陽子さんのレシピを見てしたがっているだけじゃ、飽き足らなくなって」
「……その意気があれば、なんとかなるさ」少し大げさに事を言っているのは自分でも解っていた。
「眞菜ならやれる。……なんだって」

……ありがとう。電話の向こうの声は言った。そんな浮ついた誉め言葉に喜ぶ彼女ではないことは、彼にはよく解っていた。それでも、そう言ってくれた彼の意図をくみ取って、その気持ちに対して、彼女はありがとうと言ってくれたに違いなかった。

「……じゃあね」彼女が言った。
「……じゃあな」二言三言、言い足りない言葉を心の内に残したまま、彼はそう言って電話を切った。

夕日に照らされた港の景色が、急に眼前によみがえってきたような気がした。
眞菜との電話に夢中になるあまり、今までずっと、港にいたことを忘れていた。
それほど、自分は電話に集中していたということだろうか。……だとすれば、なんて気を遣わせる電話だろう。
たかが電話一つに、それだけ必死になっていた自分が、賢治はなんだかおかしかった。
立ち止まっていた自転車のペダルに再び足をかけて、恥ずかしそうに彼は一人笑った。

しょうがないか。彼は思った。眞菜とおれとは、今、この電話で繋がっているだけだもんな。

彼は止めていた自転車のペダルを踏み込んで、再び前へと進み出した。


群青色の夜空が、背後から静かに広がってきた。

2009年2月10日火曜日

『カタワラ』:7

四月に入り新学期が始まるころになると、当然のように眞菜は外に出られなくなった。彼女の家の玄関の内側にはビニールのシートが貼られた。クリーンルームの前室のように、入室者はそこから先に入るには、まず玄関で花粉をしっかりと落とさなくてはいけなかった。

彼女の両親はつまりそれを毎日繰り返すことになる。
少しでも花粉との接触のリスクを減らすため、賢治ですらも、特に用向きがなければ眞菜の家に行くことは憚られた。

またしばらく、あいつの顔が見れなくなるな。そのことを思うと、賢治は特に寂しいと言うよりも、憤りを感じた。

同じ高校生でありながら、一方はありふれた危機に怯え、家で軟禁のような生活を強いられている。そしてもう一方、自分を含め大多数は、外へ自由に出歩くことを若者に当然に与えられた権利として、疑うことを知らずにいる。

誰も恨むことの出来ないその不条理な、強いて言えば神か仏かの仕打ちに、彼は憤っていた。
なぜ、他の誰でもなく、眞菜であったのか。

春の陽気に包まれ、新しいクラスメイトとの生活が始まって、友人達が浮かれだしても、賢治の気持ちは暗く鬱屈していくだけだった。


「……ちょっと、賢治?」
向かいに座った女生徒が賢治に声を掛けた。
「聞いてるの?ねえ?」

「……わりい」
賢治は自分がぼんやりと机を見たまま、眞菜のことを考えていたことに気がついた。
今は放課後。掃除も終わり、受験を意識し始めた生徒が数人、居残って勉強をしていた。

「そんなことで、大丈夫なの?」怪訝な顔の女生徒は言った。「どこ受けるの?国立?」
「まあ、一応」
賢治は場に合わせて、適当に答えた。まだそれほど自分の志望については考えていなかった。彼の夢はあくまで喫茶店を開くことだった。大学を目指すのは、みんなが入っているから、と言うだけに過ぎなかった。父親の影響か海外の情勢にも興味があったから、何か国際関係を学べるような学部であればいいという程度に考えていた。

「何?“一応”って」女生徒は、賢治の答えが気に入らなかったらしかった。
「そんなんじゃだめだよ、目標はしっかり見すえないと。賢治、何か始めても、いつも、最後はぐだぐだになるんだから」
女生徒はいつの間にか、自分が賢治のお守りでも言いつかったかのような顔をして、そう言った。
「……わかったよ……」
賢治は返事するのも面倒そうに、向こうを向いた。

何で、よりによって、こいつと一緒のクラスになったんだ。
心の底で彼はそう思っていた。

女生徒は名を薫といい、賢治とは高校になってからの同級生だった。
彼女は、彼が2年の時、他のクラスの学級委員だった生徒で、当時、賢治は別なクラスの副委員を勤めていた。

副委員と言っても、どうにかようやく委員が決まったものの副委員を務めるものが見つからず、仕方なく委員の友人であった賢治に話が回ってきたと言うだけのことで、彼は特に積極的にその役割をこなしていたわけではなかった。

一方の彼女は自分から率先して委員になったと聞いていた。実際に学級委員の集まりの時には彼女は自分から進んで発言をする方だったし、時には生徒会長をしのぐ存在感を見せることさえあった。彼女は3年に上がってからも、当然のように学級委員に着くと皆が思っていた。

「なら、いいんだけど」薫は椅子の上で居住まいを正した。
「……でね、話って言うのは、私と『契約』を結んで欲しいわけよ」
「『契約』?」賢治は眉根を寄せた。「何が言いたいんだ?」

「……つまり、だからね、」
薫は借りてきた言葉を話すような口調で言った。
「賢治は英語と現代文が出来るけど、数学と理科が苦手、私は社会と理科と数学なら、何とかなる。でも、英語も国語全般も全くダメ。……私達って、ちょうど正反対でしょう、だから……、教え合いっこ、しない?」
名案でしょ、とでも言うように、薫は瞳を爛々とさせて賢治の反応を待った。
「一人では出来ないことも、二人、力を合わせれば出来るってよく言うじゃない。私達にも、きっと、出来るよ」

「それは、たぶん夫婦に言う言葉だろう」賢治が言った。
「俺たちには、関係ないんじゃ……」
「夫婦……、賢治、そんなこと考えてるの?」彼女が言った。
「これから、仲良くなろうって段階なのに……」
小さな声でそう呟いて、椅子に座った自分の足下を見つめていた。
机の下では、彼女の膝がそわそわと動いていた。

「とにかく、私達は協力した方が良いの。絶対、お互いのためになるよ」
薫は、賢治の顔を見ながらはっきりと言った。
「……ねえ?やろうよ」

「何で、俺が……」賢治は答えを渋った。
「別に、薫に教えてもらわなくても自分でやるよ……」
「そう言う問題じゃないの」怒ったような調子で薫が言った。

「……あなたが私を必要としていなくても……、私は、教えてもらいたいの。……それとも、そこまで、いやなの?」
薫は黒目のはっきりした目で、じっと賢治を見つめていた。
それを正面から受けきれず、賢治は視線を窓の外に逃がした。

「……いいよ。それなら」
薫は下脣を突き出して、すねるようにそう言った。
「賢治があたしを“たぶらかした”って、みんなに言いふらしてやるから」

「おい、何言い出すんだよ」ただごとではない言葉に、賢治は慌てた。
「おれ、そんなことしてないぞ」
「したのよ。……したことに、なるの」薫は意地悪な目を賢治に向けた。
「……さあ、どうする?」
「……お前、悪女だな」吐き捨てるように賢治が言った。
「なんとでも言ったら」薫は平然としていた。
「……態度をはっきりさせない、あなたが悪い」


「……解ったよ」
賢治が折れた。「お前に、国語と英語、教えればいいんだろ。……後は自分でしろよ」
「やった!」
先ほどの悪女ぶりが嘘のように、薫の顔に幼げな喜びが満ちた。
「じゃあ、私は数学と理科を教えてあげるからね」
「いいよ、そんなの自分でやれるから」くだらない、とでも言うように賢治は言った。
「……その代わり、変なこと、周りに広めるなよ」

「もちろん!」素直に薫は答えた。
「あたしも、そこまでは堕ちてない。……大丈夫。そんなに突っ張らなくても。ちゃんと賢治には教えてあげるからね。理科と数学」
「……いらねえって言ってるだろう」
賢治は不機嫌に窓の外を見た。

「でさ、早速、質問なんだけど」
ふてくされた賢治の態度など、あえて気にしないかのように、嬉々とした顔の薫が言った。
「……“たぶらかす”って、具体的に何すること?」



薫との小さな“勉強会”は、それから2時間続いた。賢治はすっかり疲れて学校を後にした。

学校は小高い丘の上にあった。古ぼけたトタン屋根の自転車置き場で使い込んだ自分の自転車にまたがり、坂の上から街の方角を見れば、いつもそこには大きな海があった。

賢治は、この風景が好きだった。海には細い幾何学的な線を持つ防波堤が突き出していて、何隻もの大型漁船が明日か明後日かの出港を待っていた。賢治はいつも海沿いの、港の中を走る道を通って家に帰った。

坂を下りるに従って、街はぐんぐん大きくなった。始めは家の密集に過ぎなかった住宅地が、彼を取り巻く程の大きさになるまでに数分とかからなかった。家々の窓には、すでに灯りが入り始めたものもある。賢治の自転車は最短距離を選び取って、夕焼けに赤く燃える海を目指して走った。

彼の住む街では、夕日は海には沈まなかった。海に沈む夕日というものを、彼はいつか見てみたいと思っていた。夕日が海に沈む時、一瞬緑色の閃光を発すると、彼は父から聞いたことがあった。あれはどういう光の加減なのか、赤い光を発していた太陽が、突然緑に光って見えるのだから、自然というのは不思議だと、長い船旅ですっかり顔が赤い髭に埋もれた父は、塩に灼けた顔をにやにやさせて語っていた。

ただ、彼の街ではそれは見えない。朝焼けなら見えるかも知れないと、それから数日早起きし続けたこともあったが、そう言った閃光は一度も見ることが出来なかった。金色に輝く海を見て、まぶしさに目を窄める朝が彼は昨日のことのように脳裏に蘇って、顔は切なく微笑んだ。

やがて、自転車は港に入った。朝には賑やかに鳴いていたカモメたちも夕暮れには何処かに行ってしまって、静かになった港にはもう人影が見られない。浮かべられた船だけが打ち寄せる波に併せて、眠りにつく頃の心臓の拍動のような穏やかでなまめかしい規則性を伴って上下に揺れているだけだった。

父さん、今頃何処にいるんだろう。並ぶ漁船を左手に見ながら、彼はふと考えた。また、ルソンか。それともフィリピンか。ケガしてなければいいけれど。

夕日にそそのかされて不意に浮かび上がってきた、そんな届く当てもない感傷に浸っていると、突然に彼の携帯が鳴った。眞菜からのメールだった。


“賢治?今電話しても大丈夫?”

2009年2月9日月曜日

『カタワラ』:6

「おまちどうさま!」台所から、大きなケーキを持った眞菜が晴れ晴れとした顔をして飛び出してきた。ケーキはすでにたっぷりの生クリームで分厚くデコレートされていた。まだ時期には少し早い、ハウスもののイチゴが白地のケーキに赤いアクセントを落としていた。

「どう?」眞菜はケーキの載った皿を卓に乗せた。クリームの塗りが不格好なためか、ケーキは真円にはほど遠かったが、その分ボリュームがあった。

「へえ、ホントに、ケーキだ」賢治は言った。「これ、食べれるのか?」
「当たり前じゃない」目を大きく剥いて、眞菜は賢治を睨んだ。
「……さあ、切り分けて、賢治。賢介君と、うちのお母さんと賢治のお母さんの分も忘れずに」
「何で、俺が」今度は賢治が眞菜を睨んだ。

「良いじゃない、私よりもずっと器用なんでしょ」
眞菜はそう言うと、右手に持っていた包丁を一本賢治に手渡した。包丁は先ほどデコレートする際にパテの代わりに使ったらしく、ケーキに使われたクリームがべっとりと付いたままだった。賢治は眞菜から差し出された濡れ布巾でクリームを拭き取ると、静かに包丁をケーキに沈めた。

「ちょっと待った」徹さんが大きな声で止めた。「……写真をとろう」
そう言うと彼は黒い革張りの仕事鞄の中から、小さなデジカメを取りだした。

「ほれ、眞菜、せっかくだ、お前もナイフを握れ」
「え?」賢治と眞菜は一緒に、素っ頓狂な声を出した。

「……いいから、早く!……“練習”だ」目尻に笑い皺を寄せた悪戯小僧のような顔をして、徹さんは彼らにカメラを向けていた。

賢治はどうしたらいいものかと戸惑った。思わず、隣にいた眞菜の表情を伺おうとした。
しかし、その時、彼の手の上に眞菜の手が重ねられる感覚があった。

驚いて眞菜の方を向いた。彼女はしかし、賢治の方は見ようともせず、なぜだかとても、自信に満ちあふれた表情で、にこやかにカメラの方を向いていた。賢治はしょうがなく、カメラに向き直った。

「ほれ、賢治、もっと笑え」カメラを構えた徹さんが言った。
彼はほとんど、やけっぱちになって、満面の笑みを作った。
「お、いいね!これぞ、“初めての共同作業”」
「いいから早く取ってくださいよ」賢治は待ち切れずに言った。
「……はいはい、じゃあ、取るぞー。」

ぱちり。
シャッターが切られた。
「……はい、OK」

その声を聞くと、眞菜は自分の手を賢治の手から、引き下がるように静かに退けた。
賢治は眞菜の気持ちを掴みかねていた。彼女の表情を再びのぞき込んだが、彼女は先ほどとほとんど変わらない顔で、カメラの方向を向いたままだった。

徹さんは液晶画面で写真の出来映えを確認して、一人でにやにやと悦に入っていた。
「いやー、様になってるよ、ご両人」嫌らしい目で賢治の顔をちらり、と見た。
「あとは、ケーキがもうちょっと立派だと良かったな」

「はいはい」うんざりしたような調子で、娘は軽く父をあしらった。
「でも、味は大丈夫だよ。私じゃなくて、陽子さんのレシピだから。……さあ、賢治。ぼさっとしてないで、さっさと切っちゃって」

言い捨てるように眞菜が言った。彼は言われるがままに、黙々とケーキを切り分けた。


眞菜の作ったケーキは、ナイフを入れると、普通のケーキより少し乾いたような、サクサクした感じがした。しかし、その分、断面がきれいに切れた。彼はそれを、かたちを崩さないように苦心しながら、彼女の用意してくれた小さな白い皿に載せた。赤いイチゴがひとつ、その拍子にケーキから落ちて、恥ずかしそうに、ころりと皿の上に転がった。


「いただきます」
人数分を切り分けた後、賢治は銀色の大きなフォークで、ケーキの鋭角をそっと掬い取った。
眞菜が心配そうな顔でその様子を覗き込んでいた。
まるで自分自身がケーキになったような顔をして、切り取られたケーキの行方を目で追っている。

賢治は眞菜の強い視線を意識しながら、フォークの先のケーキを、ぎこちなく口に入れた。


切った時に感じたような、少しサクサクした感じが口の中でもした。しかしそれに、よくホイップされた生クリームが滑らかに絡んで、最後に、イチゴの少し甘酸っぱい味が舌の上を爽やかに駆けていった。

「……へえ、おいしいかも」少し驚いたように言った。
「……ほんとに?」ケーキの行方を追いかけていた彼女の瞳が、うれしさのあまり見開かれた。

「ほんとに。思ってたよりずっと。ねえ、徹さん……」
眞菜があまり喜ぶので、自分の感覚に自信をなくした賢治は、徹さんに意見を求めた。
「……ああ、ほんとに、おいしい」徹さんも同意見だった。
「よく作ったな」

彼女はおもわず、わあ、と言って喜んだ。喜ぶあまり、身体を上下に揺らしたので、後ろにまとめた長い髪が、ギャロップする馬の尾のように跳ねた。

「びっくりした?」
「あ?……ああ、ホントにびっくりしたよ」賢治は参ったというふうに、後ろ手をついた。
「いったいどうやって作ったんだ?卵も使わずに……」

「豆腐、だよ」眞菜は、してやったり、というような笑みを浮かべて言った。
「卵の代わりにね、水を一晩切った豆腐を使ったの。……ただ、それだけだと、生地がしっとりしないから、クリームを少し生地に混ぜたり、多少の工夫をしてみたんだけどね」

賢治はそれで解った気がした。生地がそれでもまだ少し乾いた感じがしていたのは、卵に比べて脂分の少ない豆腐を使っていたからだったのだ。ただ、言われなければ、それと気がつかないほど、ケーキはよくできていた。

「豆腐を使って、ケーキが作れるんだな」
徹さんが感慨深げに腕を組んで、自分によそわれた皿の上の、先の欠けたケーキを見つめた。
「まったく、窮すれば、なんとやらだ」

「ほんとに、最初に考えた人は天才だね」眞菜が言った。
「陽子さんの話だと、他にも小麦を使わないケーキまであるそうだよ」

「それはすごいな」賢治が言った。
「そこまでしても、ケーキが食べたい人が、やっぱりいるってことだろうな」

「ケーキを食べたいって言うか……。みんなと同じことを、したいってだけなんじゃないかな」眞菜が言った。
「……思い通りにいかないものを抱えていても」
エプロンの先から伸びた膝の辺りを、心細そうにさすっていた。

「みんなと同じこと、ね……」
「そう。……勝手だよね。他人と同じ過ぎれば、違うものを求めるのに」彼女は口の端で笑った。「どうしても人と違うと、同じものを求めてしまう」

「……でも、だからこそ、こういう工夫が生まれるんだろうな」
ケーキを見つめていた徹さんが口を開いた。
「あたりまえって、なかなか手間がいるってことだ」

その時、卓の上に置かれた徹さんのケータイが、突然鳴った。病院からのようだった。
「……はい。木下です。……涼子か」
病院から電話をかけてきたのは、奥さんのようだった。

「……堀田さんの体調が……、血圧は?……ちょっと待って」
徹さんは、眞菜を見ながら手振りで、何かを書きつける動作をした。あわてて、眞菜が手近にあった新聞広告の真っ白な裏側と、ボールペンを差し出した。徹さんは、それを受け取ると、賢治には読めない字で、素早く内容を書き留めていった。

「そうか……、じゃあ、瀬谷先生に頼んで、もう200単位くらい多めに点滴してもらっててくれ。あとの処置はそれでいい。……今すぐ行くよ」徹さんの目が、一瞬眞菜を見た。彼女は身じろぎもせずまっすぐに、徹さんが電話をする様子を見つめていた。「眞菜のことは大丈夫だ。今、丁度、賢治が来てる。……ああ、うん、わかった。……じゃあ」

「入院の人の体調が悪くなったの」眞菜が不安げな様子で聞いた
「……ああ、ずっと入院してた、おばあちゃんなんだけど……、すぐに行かなきゃな」

徹さんはそういうと、躊躇いもせず、すっくと立ち上がり、隣の寝室に入った。ぎい、と音を立てて寝室の奥のクローゼットが開いた。ワイシャツの一つをそこから取り出し、パジャマとも普段着ともつかないスウェットのシャツを脱いで素早く袖を通した。枕元に脱ぎ捨ててあったズボンに足を入れると、通したままにしてあったベルトのバックルの金具が揺れて、かちゃかちゃと音をたてた。

「……悪いな眞菜、今、バイトの若い先生しかいないから、ちょっと不安なんだ」医者の顔になった徹さんが言った。「残りのケーキは後で食べる。……取っておいてくれ」
うん、と眞菜が頷いた。不安そうな顔は、まだ消えていなかった。

「……いってらっしゃい」
足早に玄関から出て行った徹さんの後姿に、眞菜は小さく声をかけた。


「忙しそうだね」賢治は、徹さんの車を玄関の中から見送っていた真菜に声をかけた。
彼女は何も言わなかった。

徹さんの車がすっかり見えなくなってしまった後、急に我に返ったように振り返ると、徹さんの食べかけのケーキの乗った皿を持って、台所の奥へ運んだ。皿に載ったままのフォークが揺れて、皿の上でかちかちと金属的な音を立てた。その小さな音が聞こえる度、彼の居る部屋の静けさが一層引き立つように賢治は感じた。

「……あっ、ウグイスが来てる!」台所に行っていた真菜が、突然大きな声を上げた。
賢治が駆け寄ると、流しの奥の大きな窓の向こうを、静かに指差していた。
見れば、窓の外のすっかり立ち枯れた様になっている低い藪の中に、一羽の淡い緑色の丸い印象の小鳥がちんまりと座っていた。

「最近、よく見るんだよね」うれしそうに真菜が言った。「もう、春が近いってことなのかな」

春は、真菜にとっては不幸な季節のはずだった。しかし、そんな彼女でも春はやはり待ち遠しいのだろうか。賢治は疑問に思ったが、今ウグイスが来て素直に喜んでいる彼女の気持ちを、また落ち込ますのも悪い気がして、黙っていた。

「……いま、私みたいな人間でも、春が待ちいどおしいのかって、思ったでしょ」
賢治を見透かしたような眼で見ながら眞菜が言った。
「わかる?」賢治は素直に認めた。

「わかるよ、あなたの考えそうなことくらい」
やれやれ、とうんざりしたような様子で窓の外を見つめた。そして一言、
「……桜が、見たいな」
と、つぶやくように言った。

「サクラ?」彼女の口から突然出た、ありふれた花の名前を彼は聞き直した。
「そう、桜。小学校の校門のわきに、大きな枝垂桜があったでしょう」眞菜は賢治の方を振り返った。

「私、あれがとても好きだったの。花が、空から落ちてきたみたいに大きく垂れ下がってきて……」過去を懐かしむような眼で、真菜は語った。「小学校を出て以来、あの桜も、もう見ていないから……。春に花を見に行くことも、できない身体になっちゃったし」
眞菜は流しに置かれた飲み残しのコーヒーを捨て、水を流してカップを洗い始めた。

「あのときは、賢治も一緒にいなかった?あの枝垂桜の下で、みんなでお弁当食べたとき」突然、真菜が言った。

「何の話?」賢治には、全く心当たりがなかった。
「あ、そうか、あの時クラスが違ったもんね」眞菜が言った。「楽しかったな、あれ。……私の一番の、春の思い出」賢治がその時、その場にいなかったと言うことが解ったためか、眞菜はそれ以上詳しくそのことを語らなかった。

「……そういう花見って、もう何年してない?」賢治は眞菜に尋ねた。
「中学に上がってからは、もう桜は真近に見てない」眞菜は言った。「あの辺から、春には体調が悪くなることが、多くなったから。それからはせいぜい体調の良い日に、車の窓越しに見る位しかできなくなった。マスクとかでね、厳重に武装して出かけるんだよ」

眞菜はスポンジで洗ったカップを水でよくすすいで、流しのわきにあった洗いかごに、静かに立て掛けた。そして、まだ少し洗剤の残った自身の手を、水道の水ですすいだ。

眞菜の手には、所々、うっすらと赤い斑の様なものが浮かんでいた。それは、洗剤中に含まれていた何かの化学物質に対して、ごく弱い反応が起きている証拠だった。同じ年頃の女の子よりもずっと荒れて、少しむくんでしまった眞菜の手。度重なる反応で、彼女の手の皮膚は年齢の割に硬く強ばっていた。普通の生活を送ろうとしている限り、彼女の手は真っ先にその影響を被った。

眞菜の病気は、文字どおり、彼女の身体が世界を「拒絶」する病気だった。行き過ぎた拒絶反応が彼女の意志に関係なく、身の回りのありふれたものを容赦なく否定していた。


しばらくして、徹さんと入れ違いに涼子さんが家に帰ってきた。
「留守番ありがとうね、賢治君」

紫の細身のメガネの奥の、涼子さんの瞳がにっこりと微笑んだ。
「おばあさんは、どうなったの?」眞菜がそう尋ねると、涼子さんは目だけ細めたまま、
「……亡くなったわ」

と言った。隣に立った眞菜がはっと口をつぐむのが賢治には解った。
「徹は、後の仕事があるから、少し遅くなるかも知れない。……残念なことだった」
「徹さんは、落ち込んでいませんでした?」賢治がそう尋ねると、涼子さんはまた元のような微笑みを浮かべて、
「彼は医者だから、こういうのは慣れているだろうけど……。でも、この狭い町で、何となくでも、お互いを知っている人を救えなかったというのは、やっぱり堪えるでしょうね」
と言った。

「知っている人だったの?」眞菜がそう尋ねると、涼子さんは、
「ええ……、まだ、眞菜が小さかった頃かな。……病院に来たついでに、息子が取った、って言って、良く大きな鮭を贈ってくれてたの。私達は、“鮭のおばあちゃん”、て呼んでた。田舎の病院にいると、どうしても患者さんとは、そう言う人間的なつきあいになってしまう。それは、大切なことでもあるんだけど、反面……」

涼子さんは、そこまで言って口をつぐんだ。眞菜もそれ以上、尋ねようとはしなかった。


「……そう言えば、眞菜、ケーキを作ったんだって?」
涼子さんは思い出したように、突然そう言った。
「さあ、お母さんに見せてよ、取ってある?」
「もちろん」眞菜は自信ありげに答えた。
台所の奥から、ラップにくるまれたケーキの一片を持ってきた。

「へえー、上出来じゃない」
ケーキを一口食べるなり、涼子さんが言った。
「……コーヒーも満足に淹れられない私の、娘とは思えないわ」

それを聞いて、眞菜は苦々しく笑うだけだった。
賢治はその様子を脇で見ながら笑いをこらえていた。


やがて、日も落ちてきたので、お邪魔しましたと涼子さんにお礼を言ってから、賢治は母と弟の分のケーキを預かって眞菜の家を出た。

用水路脇の舗装路には、もう所々、ふきのとうが芽を出していた。向こうから散歩してきた犬が、すれ違いざま、賢治の方をふと見上げて、親しげにしっぽを左右に振った。

眞菜に、桜を見せたい。

帰り道、賢治が考えていたのはそのことだった。洗い物を終えた後の、眞菜のくたびれた赤い手を見ながら、賢治は心の奥でそう思っていた。それは、一見して実現不可能なことのようにも思えた。彼女の病気は緩やかに進行するばかりで、回復の見込みはなかった。だが、その一方で、彼は全く諦めるほどのことでもないと考えていた。

「工夫」すれば何とかなるのではないか、と彼は思っていた。
卵を使わないケーキが、実際に可能だったのだから。

遠く視線の先に見えてきた彼の家の窓に、ぽっと明かりが灯るのが見えた。
それに突き動かされたように、彼の足取りは自然と早くなって、家へと急いだ。

『カタワラ』:5

眞菜の病気は、誰に言っても簡単には信じてもらえなかった。
春と秋には家の外に出られなくなる病気なんて、確かにすぐに信じられる方がどうかしているかもしれない。しかし、これは、紛れもない事実だった。

彼女は重度の過敏症(アレルギー)患者だった。春と秋に良く飛んでくる花粉に対して、彼女の体は特に強い反応を示した。それは、アナフィラキシーと呼ばれる、アレルギーの中でも最も重篤な部類に入るもので、吸入量によっては、ぜんそくの発作が起き、さらにはショック症状に陥って昏睡、最悪の場合には発作で死に至ることがあると聞いていた。

花粉症を持つ人はいくらでもいるが、眞菜ほど強い症状の人はそうはいない。彼女の父は、これは遺伝的な原因もあるのかも知れない、と前に言っていたことがあった。おそらくは僕と、それから母親の涼子の中にあった遺伝子が偶然揃って、とくに花粉に弱い眞菜が生まれてきてしまったんだろう、と。

眞菜は他にも卵など、いくつかの食品に対してアレルギーを持っていた。いくつかの工業製品にも反応したから、普通の学校生活は送れなかった。中学の後半から症状が悪化したため、高校は、すでに決めていた賢治と同じ高校をあきらめ、通信制の高校に切り替えていた。

彼女の体が反応する物質は年々、少しずつではあったが増えているようだった。
「いつか、好きな人と手も繋げなくなるかもね」
いつだったか、冗談めかして気丈にそう言った彼女の言葉に、賢治は素直に笑えなかった。


「賢治!」
茶の間から聞こえてきた眞菜の声に彼は、はっとした。「お湯、湧いているよ!」
レンジの方を見れば、ポットから勢いよく湯気が出ていた。賢治はあわてて火を止めた。
「ありがと」
賢治はそう言って眞菜の方を見た。どういたしまして、とでも言うように彼女は僅かに手を上げた。

フィルターの上にたっぷりと盛られた粉の上に、しなやかに伸びたポットの口から、細く細く湯を垂らしていく。始めは遠慮するように。全体に湯が染み渡り、粉が香りを封じ込めた泡を伴って、ふっくりと膨らんできたら、後は渦を描くように注いでいく。
「良い匂いがしてきた」
徹さんの声が賢治の背後から聞こえた。賢治は思わず微笑を浮かべながら、残りの湯を注ぎきった。

「……はい。お待ちどう」
白いソーサーとカップに、深い褐色の香りの良い飲み物。眞菜が深呼吸するようにその香りを嗅いだ。
「やっぱり、ケーキが焼き上がってからにすれば良かったな」少し残念そうに眞菜が言った。
「またその時、淹れてもらえばいいだろ」一口静かに啜った後、徹さんが言った。
「……それにしても、君は本当に上手だな」
賢治は照れくさくなって頭を掻いた。
「将来、店を開きたいんだって?」くしゃっとした笑い顔で賢治を見つめた。
「これならやれるさ。僕がお客の一号になるよ」
「そんな、買いすぎです。……まだまだ、色々勉強しなくちゃ」
「まあ、それはそうだが……、でも、やりたいことを見つけたって言うのは、幸せなことだと思うよ」
徹さんはそう言うと目尻にすっかり皺をよせて、満足そうに二口目を啜った。

「やりたいこと、ねえ」眞菜が、ふと、思い出したように言った。
「眞菜も、何かあるの」徹さんに誉められて上機嫌になっていた賢治は、隣にいた眞菜に尋ねた。
「私?……私は……」眞菜は俯いて黙り込んだ。「……ちょっと、言えないな」
「へえ」賢治さんが驚いたように声を上げた。「お前にも人に言えないことがあるんだな」
「悪かったですね」眞菜は眉をつり上げて徹さんをにらみつけた。「私にだって、人並みに悩みも、あるんだよ」
ケーキの様子を見てくる、そう言い残して眞菜は急に席を立った。

「……賢治」眞菜が台所へ立つと、徹さんが賢治の方を向いて、低い声で言った。
先ほどまでのにやけた表情は、いつのまにか消えていた。
「あいつの、病気のことだが……」
賢治は思わず居住まいを正して、徹さんに身体を向けた。

「今年も、そろそろ花粉が本格的に飛ぶ季節になる。あいつが外に出歩くことも、君がここに来ることも、難しくなるだろう。でも、せめてメールか電話でも良いから、あいつのことを気に掛けていてやってくれないか。……高校生になったと言っても、あいつには君のように新しいクラスメイトが出来るわけでもないんだ」
「ええ、解っています……」賢治は言った。「眞菜は、僕の大切な……、友達、ですから」

「あいつ、ああやって元気の良い振りしているけどな……、ちょっと油断すると、この前みたいに倒れることもあるんだ。でも、僕らはこんな仕事をしているから、四六時中構っているわけにもいかない。……何より、眞菜が、それを望まない。だから、君が頼りなんだ」徹さんは目にうっすらと涙を浮かべていた。賢治は、その瞳を見ながらゆっくりと頷いた。

「この前倒れた時、あいつ、病院のベッドの上で、僕に、こう聞いたんだ」
徹さんは一瞬天井を見上げた。「私は、世界の“傍ら”にいるのかって」
「かたわら、ですか」賢治は聞き返した。徹さんはそれを聞いて、静かに頷いた。

「たぶん、こういう事なんだと思う……。世の中の出来事に、自分はなんにも関与できないのか。……みんなが楽しそうにしているのを、少し外れたところから、見ていることしか自分には出来ないのか。泣いている人に、優しく手を差しのばすことさえ、自分には出来ないのか……」徹さんは腕でごりごりと目をこすった。目の縁が微かに赤くなった。

「疎外感、と言う奴かな……。世の中の本流には関われない、傍流にいる、と言うか……。とにかく、彼女は、今、大きな孤独を感じていると思うんだ」徹さんは泣いている自分に恥ずかしくなったのか、へっ、と言って笑った。「……わりい、辛気くさい話をしてしまって」
「……いえ……」賢治は俯いてそう返事した。「……僕に、出来るだけのことは、します……」


「おまちどうさま!」台所から、大きなケーキを持った眞菜が晴れ晴れとした顔をして飛び出してきた。

2009年2月7日土曜日

『カタワラ』:4

かっ、かっ、かっ、かっ。
翌週の土曜日、賢治が眞菜の家に行くと、彼女は台所に立って、ボウルとかき混ぜ機を手に、何やら熱心にかき回していた。身長の割には少し大きいピンク色のエプロンをして、足を肩幅に広げて、もうすでに腕が疲れていたのか、肩がすっかり上がっていた。エプロンの平たいひもが、小さな背中でたすきがけに交差していた。

「上がってちょっと待ってて」元気の良い声が台所から聞こえた。

普段は両肩まで下げている髪を珍しく高い位置でまとめていた。普段はあまり意識しない眞菜の丸い肩と首筋を見て、賢治は無意識に目をそらした。

「よう、賢治」茶の間に上がると、眞菜の父親が横になってテレビを見ていた。土曜日の昼間の、ゴシップばかりをあつかう討論番組だった。
「徹さん、今日はお休みですか?」

賢治は炬燵に足を入れながら眞菜の父に声を掛けた。
眞菜の父は起き上がる素振りも見せないまま、ああ、と返事した。
「休みって言っても、拘束されてるんだけどね」
彼はそう言って、炬燵の上に置いた携帯の、飾り気のないストラップをつまんで、ゆらゆらと左右に揺らして見せた。携帯の胴には「市民病院」と大きく書かれた白いシールが貼られていた。緊急の時には病院から連絡が来る、専用の電話だった。

「こいつが鳴らないことをいつも祈ってるんだが、そう言う時に限って鳴るんだよね」
苦笑しながら徹さんは言った。
「大変なんですね、お医者さんて」
賢治がそう言うと、眞菜の父は、ああ、全くだ、と言う顔をして、
「……君も、医者にはなるなよ」と言った。

「……なりたくてもなれませんよ、僕なんて」賢治がそう言って謙遜すると、眞菜の父は、彼独特の、顔にくしゅっと皺を寄せた笑い顔を浮かべて、
「眞菜の主治医にだったら、なってもらいたいけれどな」と言った。
賢治は苦笑いを浮かべ、何も言えなくなった。眞菜の父はそれを見ておかしそうに微笑んでいた。

「ところで、眞菜、今何しているんですか?」
話題をそらそうと、眞菜のいる台所の方を見ながら言った。
「……ああ、ケーキを作っているそうだ」
彼女の父は言った。

賢治はそれを聞いて合点がいった。彼女が先ほどからボウルで熱心にかき回していたものは、ケーキの生地だったのだ。
「君のお母さんが水曜に遊びに来て、教えていってくれたらしいぞ。知らなかったか」
徹さんは不思議そうに彼の顔を見た。
「ええ。……そのうち教えてもらうとは、眞菜から聞いていましたけど」
彼はそう答えた。
「あの子がケーキか……」感慨深げに、彼女の父は言った。
「コーヒーも満足に淹れられない娘が、ケーキを作る、なんてな……」
「ちょっと、お父さん!」台所から眞菜の声がした。
「みんな聞こえてるんだからね!」

眞菜の父は首をすくめて、賢治の方を見た。
賢治も同じように首をすくめた。
そして、男二人、顔を見合わせて、声も出さずに笑った。

「……でも徹さん、眞菜、ケーキなんて作って大丈夫なんですか?」賢治が尋ねた。
「……確か、卵もだめでしょう、彼女」

徹さんの顔から、一瞬笑いじわが消えたように賢治は思った。
やっぱり、お医者さんなんだな。賢治はそう思った。が、次の瞬間には、彼はまた、いつものくしゃくしゃの顔に戻っていた。

「……大丈夫大丈夫。あの子のレシピをさっき見せてもらったけど、良く考えられてるよ。卵は一切入ってない。君のお母さんは、よく調べたなあ」
「卵なしで、ケーキなんて作れるんですか?」

「できるんだな。僕も話には聞いていたけれど、食べたことはまだ無いんだ」
「びっくりするよ!」台所から、眞菜の威勢の良い声が聞こえた。
「びっくり、ねえ」徹さんは困ったように言った。
「……良い方にびっくりできると良いけど」

やがて、台所から、ばたん、と戸を閉めるような音がした後、オーブンレンジの設定をいじる甲高い電子音が聞こえた。
そして、オーブンの中のケーキがが静かに回り始めると、エプロンを着けたままの眞菜が台所から出てきた。腕まくりした袖から、日焼けしていない二の腕が見えた。

「さて、後は焼き上がりを待つ」
そう言うとエプロンを外して、自分も炬燵に入ってきた。先に炬燵に入っていた賢治の足にごつりと当たって、賢治はあわてて自分の足を炬燵の端へ退けた。

眞菜は、賢治の方を見て、甘えるようににこりと笑って、
「……コーヒー淹れて」と言った。
「おっ、いいね。賢治、僕も」
炬燵の向こう側に寝転がったままの徹さんが、卓の下から手の先だけを彼に見せて言った。

「……揃いも揃って」
あきれたようにそう言って、賢治はゆっくりと炬燵から出た。


台所へ行き、火にかけたポットで湯が沸く間、彼は必要な他の器具を棚から出していた。
冷蔵庫の上に置かれた、黒いオーブンレンジに目をやると、先ほど眞菜が型に流し込んだ生地が、ターンテーブルの上で、電熱線の赤い光を浴びて、くるくると静かに廻っていた。

……卵なしのケーキって、出来るんだ。

賢治は焼き上がりを待つ生地を見ながら、そう思った。
できあがりの味がどうあれ、そういうものが実際に存在することが驚きだった。

コーヒーを淹れるスペースを確保しようと、台所の狭い台の上に目をやると、先ほど眞菜の使っていたボウルと、生地が付いたままのかき混ぜ機がそのまま放り出されていた。
賢治はあきれたように溜息をついて、それを流しに退けた。


眞菜の病気は、誰に言っても簡単には信じてもらえなかった。

春と秋には家の外に出られなくなる病気なんて、確かにすぐに信じられる方がどうかしているかもしれない。

しかし、これは、紛れもない事実だった。

2009年2月6日金曜日

『カタワラ』:3

柱の時計が6時の鐘を打った。

「賢介、ラジオ付けて」
母がそう言うのが早いか、賢介はテレビの下に置かれた小さな旧式ラジオのスイッチをひねった。ざらざらする雑音の中に、落ち着いた声の男性が淡々と話す声が聞こえてきた。
「……第三光栄丸、ルソン沖にて操業、異常なし。第五龍神丸 スマトラ沖、ワイヤー巻き取り機の故障により休業。……、」

それは遠洋漁業の船からもたらされた定期報告だった。週に数回、地元のラジオ局が船乗りの家族に向けて、報告の内容を放送していた。今ではメールも電話もあるが、それもいつも出来るわけではなかったから、こうした断片的な情報であっても、家族はそれに父の面影を見ていた。

「……ホノルルに寄港。第二新栄丸……」
「第二新栄丸!」賢介が興奮して大きな声をだした。賢治はしっ、と言ってそれを諫めた。
「……ルソン沖にて操業。異常なし」雲母のようにきらきらと光る目で賢介が母の方を振り向いた。母は穏やかな笑顔を浮かべてその表情を見つめていた。父は今日も、無事だった。言葉に出さないまでも、家族がその思いを静かに共有する瞬間だった。

「ルソン沖ってどこ?」賢介が賢治に聞いた。
「……さあ?ハワイの近くだっけ」
「フィリピン」母が言った。「黄色いバナナが一杯採れる笑顔のステキな国って、お父さん言ってた」
「ふいりぴん」賢介が言った。「いいなー。お父さんばっかり」
「お前、泳げないんだろ」賢治が冷やかした。「船乗りは無理だな」
「るせえ!」賢介が大きな声を出した。「お前だって、船酔いするくせに」
賢治は弱いところを突かれて、思わずかちんと来たが、子供相手に起こってもしょうがないと思い直し、こらえた。


母の作ったシチューは気がつけば、いつの間にか空になっていた。
満足げな笑みを浮かべて、母は子供らが食べ散らかした皿と鍋を集め、流しへ立った。
水を溜めた、プラスチックのたらいの中で、ごとごとと低い音を立てて、食器が洗われていた。水の流される音と、栓をひねるきゅっと言う高音とが、互い違いに聞こえてきた。賢治はそれを聞きながら、炬燵の中に足の先だけ入れて、目の前に広げた今朝の朝刊を読むでもなく、うとうとと、微睡んでいた。

「……賢治、コーヒー入れてよ」
洗い物を終えたらしく、母が台所から戻ってきた。

眠りかけていた賢治は、その声で我に返った。うとうととして、心なしか重くなった体をゆっくりと持ち上げ、立ち上がり、奥の小さな茶箪笥から、ひとそろいのペーパードリッパーを取り出してきた。

「……豆は、何がいい?」寝起きのくぐもった声で賢治が尋ねた。
「何でもいい。できれば、」母は少し恥ずかしそうに笑って、
「……お父さんも、飲んでいそうなやつ」
と言った。

「フィリピンの豆は、無いなあ」一著前のカフェのマスターのような顔をして賢治は言った。「もうちょっと南のインドネシアの豆なら、あるけれど」
「トアルコ・トラジャ」母は言った。「じゃ、それ」

賢治は茶箪笥の奥から豆の入った袋を一つ取り出してきた。彼の家の茶箪笥には、父親が遠洋航海で寄港した際に買い求めた様々な国のコーヒー豆が入っていた。英語でもない、知らないアルファベットのような文字が並んだ言葉で、どぎつい色の包装にくるまれてはいたが、どれも豆は至って良質だった。賢治が目的の袋をそっと開けると、ミディアム・ローストの酸のある、やや鼻の奥を突くような香りがつんとした。

賢治はその袋の中から適当量の豆を取り出すと、コーヒーミルの開いた鉢の上に、ばらばらと乗せた。

「……ねえ、母さん?」
小さなミルで豆を挽きながら、彼は新聞の折り込みを見ていた母に問いかけた。
母は広告から目を離し、彼の方を見た。

「何で、父さんと一緒になったの?」

息子の不意の質問に、母は何も答えなかった。
ただ、恥ずかしそうに微笑んだ。

答えを期待していた賢治は母の反応に、やや拍子抜けしてしまった。
そのうちに、そんな質問を急にしてしまった自分自身が、なんだか恥ずかしく思えてきて、それ以上質問する気も、無くなってしまった。彼は気まずそうに口を結んだまま、ミルだけを見つめて黙々と豆を挽いた。

じりじりと豆の潰される音が、静かな食後の居間に響いた。

つい先ほどまで、父親の買ってきたロンドンの客船の模型で遊んでいた賢介は、兄がしていたのと同じように、炬燵に半分足を突っ込んだまま、もう、寝息を立てて眠っていた。

賢治は荒く挽いた豆をドリッパーに載せ、静かに湯を注いで抽出した。ふわりと鼻先に漂ってきた香りに、その様子を静かに見守っていた母は、うっとりとした表情を浮かべた。

「……出来たよ」
小さなカップに注いだコーヒーを、母はまず鼻先に近づけて、その匂いを味わった。そして、一口啜った後、深く身体の奥から漏れ出たようなため息を一つ吐いた。

「上出来」母は言った。「これなら、すぐにお店が開けるかも」
「まだ、まだだよ」彼は言った。「おれ、ローストも自分で出来ないし」
「こういう事だけは、謙虚ね」母は笑っていた。「テスト前の勉強の時は、“絶対大丈夫”を連呼するくせに」
そう言うと、彼女は彼の淹れたコーヒーを、もう一口すすった。満足そうな笑みがこぼれた。

それは、まだ具体的な方策の伴わない、彼の小さな夢だった。
この海の見える田舎の町に、小さな喫茶店を開くという夢。父の買ってきてくれたコーヒーを彼の手で淹れ、はるばる遠くからやって来てくれた旅行客に振る舞いたいと考えていた。彼らの住む街には、幸い、北方へと延びる主要な国道もあったし、そこを行き交う人の休息所として、店は十分成り立つと彼は考えていた。


「ねえ、賢治」母が口を開いた。「眞菜ちゃんのことなんだけど……。」

賢治は眉根を寄せ、不愉快そうに溜息を吐いた。
「またその話?」賢治は言った。「他人の家の娘がそんなに心配?」

「他人って言っても、彼女はあなたの幼なじみでしょう?心配じゃないの?」
賢治はむっつりと黙ったまま、何も言わなかった。
「彼女のお母さん……、涼子さんにも、何かあったら連絡くださいって言われてるし……。彼女、私達に見えるよりずっと、体調悪いんじゃないかな」

賢治は母から目をそらしたまま、何も言わなかった。
眞菜の体調については、彼は母以上に心配していると思っていた。
「何より、これから彼女は満足に外にも出れなくなるでしょう。寂しいんじゃない?」
「……わかってるよ」賢治はぶっきらぼうにそう言うと、やおらに立ち上がって、器具を下げに流しに立った。
白磁のドリッパーは彼に洗われる度、がちゃり、がちゃりと盛大に音を立てた。母はそれを聞きながら不安げな表情を浮かべて、何やら考え込んでいた。

母はそこで、ふと、炬燵でぐっすりと眠ったままの賢介に目をやった。賢介は今日はもう、このまま眠ってしまうように思われた。彼女はゆっくりと腰を上げ、眠った彼をそっと起こすと、彼を連れて寝室に向かった。


先ほどまでのコーヒーの香りは、もう微かな残り香となって、そこに感じられるだけだった。

『カタワラ』:2

彼女の家を出てから、賢治は用水路沿いの舗装路を通って家に帰った。
農繁期に農作業用のコンバインやトラクターが通るための小道だったが、彼女の家に向かうには、この道を使うか、あるいは大きく迂回するしかなかった。

迂回路の途中には、彼らが幼い時「暗闇の森」と呼んだ、うっそうと茂る保安林が拡がっていた。人の手の加えられた痕跡が少なく、自然のままに木々が茂っていた。そうした特徴を持つ森は、この田舎町といえども、もうほとんど残っていなかった。近隣の地区の森は、何十年も昔の国の政治家の策によって、ほとんどすべて杉林に置き換えられてしまっていた。春になるとそうした森から、雲の湧くように黄色いチョークの粉のような花粉が沸き立つのが、もう風物詩のようになってしまっていた。

一方で、人の介入から残された彼らの暗い森は、幼ない子供らの格好の遊び場だった。賢治も、そして眞菜も学校帰りは毎日のようにあの森で遊んだ。小枝を握り、枯れすすきを分け入って、何を目指す出もなく、ひたすらに森の奥へと突き進んだ。特に目的など無かった。強いてあげるとすれば、誰もいない森に、彼らの力だけで分け入ることこそが最大の目的だった。

それは不安で心細い遊びだった。深入りしすぎて、無事帰れるかわからなくなった事も、一度や二度ではなかった。森の中でさんざん迷った挙げ句、ようやく明るい出口を見出した時の、一度死んで生き返ったような安堵感を、彼は昨日のことのように覚えていた。あわてなくても出口は逃げないと知りながら、思わず駆け出したあの頃の気持ちが、気持ちの奥底にしっかりと根を張っているように感じていた。

思えば、あの頃から、眞菜はいつも彼の傍にいた。
彼の前に立って、棒きれを振り回していた日もあれば、片方の靴を野バラに引っかけて壊してしまい、彼に背負われて家に帰った日もあった。

靴を壊した日、家に帰った眞菜を彼女の母はきつく叱った。賢治も隣に立たされて、一緒に叱られた。ところがその時は、眞菜より先に賢治が泣き出してしまった。眞菜の母親はそれ以上叱るに叱れなくなり、語尾もうやむやに、そのまま奥に引っ込んでしまった。涙をボロボロとこぼして、嗚咽しながら泣き続ける賢治を、眞菜は弟をあやす姉のような目をしてなだめてくれた。近所に他に同級生もいなかった彼にとって、彼女は、唯一の幼なじみだった。


「……ただいま」
賢治は自宅の玄関の引き戸を開けた
「お帰り、賢治」奥から、母の声がした。
靴を脱ぎ、茶の間に上がると、母が台所で夕食の支度をしているのが見えた。
「……眞菜ちゃんの所に行ってたんでしょう?」彼に背中を見せたまま、母は言った。
「どうだった?彼女、体調は良さそう?」
「ああ、いつも通り」賢治は言った。「元気すぎて困るよ、あいつ」
……ふふっ、と母が笑う声が聞こえた。
「まあ、いいことじゃないの。一時はどうなることかと」
「毎年のことでしょ。あいつがぶっ倒れるのなんて」
賢治はぶっきらぼうに言った。

それを聞いた母は、ふう、と溜息を吐いた。
「……そんなこと言わないの。あなたあれね、眞菜ちゃんの話になると、急に言葉が乱暴になるのね」
母は、作業していた手を休め、台所から彼の方を向いて見据えた。そして、おかしそうに含み笑いをして、
「本人の前でも、そんな態度なの?」
と言った。

賢治は、母親に自分のことが見透かされているような、薄気味悪さを感じた。
「……んなこと、どうでもいいだろ」
彼は思わず、母から目をそらした。
……ふふっ。また、おかしそうな母の含み笑いが聞こえた。母はまな板に向き直って、止めていた作業を再開した。
「……まあ、大切にしてあげてね。私の大切なお友達なんだから」
小さな声で、独り言のようにそう言った。

母は冷蔵庫から大きなブロッコリーを取り出し、小さく分けた。彼はそれで、今夜の夕食がシチューだとわかった。
母親がブロッコリーを使う時には大抵、シチューと決まっていた。
母は冬になるとシチューを良く作った。あまりに頻度が高いので、彼はいい加減うんざりしていたが、母親はそれに構う様子はなかった。
「またシチューなの?」
彼は言った。
「何でいつも冬はシチューばっかりなの?」
「なんだか雪を見ると、温かいシチューが食べたくならない?」
母は言った。
「……ならないよ、別に」彼は突っぱねた。「だいたい、いつも思うんだけど、シチューってどうやって食べればいいわけ?カレーみたいにご飯にかけれるわけでもないしさ」
「シチューは、シチューとして味わえばいいわけ」火加減を見ながら母は言った。「いつもそうしてるじゃない」
「なんか、中途半端な気がするだけだよ」彼は言った。「……主食にも、おかずにもなりきれない、みたいな」
母はそれを聞いて笑っていた。
「それもそうね」
しかし、静かにシチューを混ぜる手を、休めることはなかった。
賢治は一人で突っぱねるのにも飽きてしまって、畳の上にごろりと横になった。
母のシチューに溶けるバターの香りが、彼の鼻をくすぐった。

「たっだっい、まー!」
玄関の引き戸を壊れんばかりにぴしゃりと開けて、小さな男の子が駆け込んできた。
「ニイ(兄)、ほれ!」
少年は、道ばたで捕まえたテントウムシを彼に差し出した。温かいところで冬眠していたものを、無理に捕まえてきたのだろう。小さな手の中に乗せられても、じっとしていた。
「賢介おまえ、どっからこんなもん捕まえてきた?」
「まっくら森」賢介はあっけらかんとして答えた。
「あそこは今行ったら雪が積もってて危ないだろう。急に深くなったりするんだぞ」
賢治は怖い顔をして賢介を脅したが、
「おれ、怖くねえもん」賢介はびくともしなかった。
掌に載っていたテントウムシを大切そうに人差し指と親指でつまんで、賢介は母親の所に走っていった。

彼は賢治の年の離れた弟だった。彼は現在高校2年生であり、賢介は来年小学1年生だったから、実に10年の差が開いていた。これほど歳が開くと、もう兄弟と言うより、親子のような感覚さえ伴っていた。特に父が不在がちの彼の家庭では、必然的に彼は父としての役回りを果たすことになっていた。

彼らの父は遠洋漁業の船乗りだった。家に帰ってくるのは年に数回。しかも一月と留まることがなかった。こんなに家にいない父と、母はどうして結婚したのか。賢治は、それを不思議に思うことがあった。

「さあ、食べましょう」
母は腰に腕を巻き付けて離れない賢介を伴ったまま、できたてのシチューの鍋を卓の真ん中に持ってきた。先ほどから彼の鼻をくすぐっていたバターの香りに混じって、炒めたタマネギの甘い香りが辺りに拡がった。

文句は言ったものの、母の作るシチューの味は嫌いではなかった。賢治と賢介は取り合って食べた。

母はその様子を見ながらも、一人静かに自分の作ったシチューを食べていた。そう言う時の母を、彼は少し遠く感じた。彼女は食べながら何かを思い出しているらしかった。ここではない何処かの、遠い誰かと、静かに会話しているようにも見えた。

彼はその理由を知らなかった。母に尋ねたところで、素直に彼に答えてくれるとも思えなかった。おそらくは、母の忘れられない、何か大切な思い出とシチューは関係しているのだろうと、彼は高校生になってからようやく気がつくようになった。始めはそれが、父との思い出であると思っていたのだが、成長するにつれて、そう思うだけの自信がなくなってきた。それは疑うという気持ちとは違っていたが、母を見る目が、彼なりに複雑になっていることの表れだった。


柱の時計が6時の鐘を打った。

2009年2月4日水曜日

『カタワラ』: 1

どこにあるか みんなしってる
どこにあるか だれもしらない
まっくら森は うごきつづける
ちかくてとおい まっくらクライクライ
---谷山浩子『まっくら森の歌』より






コーヒーの匂いがする。台所で白い湯気がもうもうと立ち上る。
「本当は、もうちょっとお湯を冷ました方が良かったんだろうけどね」

言い訳のようにそう言ってこちらを振り向き、彼女は、にこりと笑った。黄色い琺瑯の細口のポットから熱湯が注がれ、付けっぱなしのガスがレンジの上で蒼い炎を立てている。彼女の手元では注がれた湯を吸って、フィルターに乗せられたコーヒー豆の破片が、豊かな香りのよい泡を伴いながら、こんもりと膨らんでいることだろう。カリタ式ペーパードリップの三穴からこぼれ落ちる褐色の雫が、サーバーに溜まった液体の表面をリズミカルに打つ。

「……ちょっと、濃くなっちゃうかも。大丈夫?」
湯を注ぎながら、彼女は心配そうに言った。
「濃くてもいいよ」
彼は苦笑いを浮かべて、そう答えた。

1月中旬の小春日和。家々の正月飾りもようやく取り払われた。正月の明るく浮ついた空気はまだ引きずられていたが、早く日常の生活を取り戻そうと、覚束ない足取りで毎日が進んでいるという風だった。庭先では毛を逆立てて、ぷっくりと着ぶくれしたように見える雀たちが、砂地の庭の上に落ちた小さな木の実の欠片のようなものをせわしなくついばんでいた。山茶花の灰色がかった濃緑の葉の上に、今にも落ちそうな溶けかけの雪が乗っていた。

彼女が台所のから、淹れたてのコーヒーを持ってきた。慣れない手つきで不安げに液面を見つめながら、足の裏をするようにして、しずしずと歩いてくる。小降りの盆に、蒼い模様の入った白磁のカップが二つ載せられていた。

……っと。
何とか炬燵の卓の上までたどり着いた彼女の口から、思わず声が出た。
並々とつがれたコーヒーの液面は今にも溢れそうな勢いで端々まで揺れている。
「はい」
盆の上に二つ乗せられたカップのうち、見栄え良く入れられた方のカップを、彼女は彼に差し出した。
「ありがとう」彼はそれを受け取って、自らの前に置いた。

古い民家を改装した彼女の家は掘りごたつだった。彼女は自分の分のカップを盆から取ると、その盆を卓の上からどけて、自身も彼の向かい側に座った。
「通販で、新しい豆を買ってみたんだけど」
彼女は冷えた両手を炬燵に入れたまま、目の動きで彼の手元のコーヒーを指して言った。
「知らない産地だけど、おいしいって書いてあったから買っちゃった。インドネシアか何処かで作った豆だって」
「……もしかして、トアルコ・トラジャ?」
彼は思いついた豆の品種を言った。

「そう!そんな名前!」彼女は驚いて声を上げた。
「さすが、賢治(けんじ)。よく知ってるね。伊達にコーヒーマニアは名乗ってない」
「そりゃ、この豆は結構有名だよ。モカとか、ブルマンほどメジャーではないかも知れないけれど」
「へえー」彼女の感嘆の声。「私は、てっきり、新しい産地を発掘したかと思って、自慢してやろうと思っていたんだけど。……やっぱり敵わなかったな。」
悔しそうにそう言って、自分の手元のコーヒーを静かにすすった。

彼も一口含んだ。インドネシアの火山島からはるばる日本まで、どんな人たちの手を経てそれは彼の口まで届けられてきたのか。一杯のコーヒーを飲む度に彼はそれを想った。いい豆には想像を膨らます力があると、彼は信じていた。口の中に香ばしく拡がっていく香りの中に、南国の強い日差しと、そこで働く人々の褐色の肌と、バナナの葉の茂る森が見えた気がした。そこで駆け回る子供の顔は日本人の顔とどこか似ているようで、我々にはない無垢な強さと厳しさがあった。生と死が私達よりずっと近い国で、彼らはかつて、隷属の象徴であったはずのコーヒー農園を再興させ、それをつてとして、昨日よりも安らかな暮らしを求めて、一つかみの赤い豆を、今日も天日に曝しているのだろう。

彼に遠い南国を夢見させた香りは、口の中に豊かに広がり、立ち上り、溜息となって、静かに消えていった。
「……おいしい」
驚いたように彼は言った。
「上手に淹れられてるよ」
「本当?」彼女の表情が思わずほころんだ。
「ちょっと、お湯を入れるのが早すぎたかなって、心配してたんだけど」
「そんなことはないよ。すごく良く出てる。……随分、上手くなったんじゃないか?」
「まあ、ネットで色々調べて、それなりに勉強したから」
彼女は自慢げに言った。
「マメが、良かったのかも知れないけどね」


彼らのいる部屋は、彼女の家の南側にある日当たりのいい茶の間だった。窓側に座った彼女の背に、長い冬の太陽の光が緩やかに注ぎ込んでいる。彼女はその温もりに甘えるように、背中を丸めた。

「なんか、こうしている時が一番幸せ」満足げに彼女は言った。
「こういう時間が、いつまでも続いてくれればいいのに」
彼女の両親は共働きだった。父は内科の医者で、母は看護師だった。二人はここから1時間ほど離れた町の中心地にある総合病院に、そろって勤務していた。

「父さんも母さんも、最近は帰りが遅くって。私一人、お留守番の日が多いんだよね」
寂しそうに彼女は言った。
「誕生日でも家族がそろわないなんて、今までも日常茶飯事だったけど……」
「病院関係の親を持つと、結構大変なんだな」彼は言った。
「お医者さんは給料がいいって聞くから、もっといい暮らししているものだと思ってた」

「給料は悪くないのかも知れないけど……。もらっているだけの代償は払っているんだよ。家族は」
寂しそうな笑みを浮かべて彼女は言った。
「普通の家族がちょっとうらやましいかな。5時には仕事が終わって、お父さんが帰ってきて、家にはいつも、お母さんがいて……」
「サザエさんみたいだな」
「そう」彼女は笑った。
「あんな家族。……うちは、家族の予定より患者さんの容態が最優先だから。……代わりのお医者さんが、いないってこともあるけどね」

彼女の両親の勤める病院は町でたった一つの総合病院で、人手不足に悩まされていた。一昨年まで医者を斡旋してくれていた大学病院が手を引いてしまい、5つあった診療科のうち、内科、外科だけを残して、閉めてしまった。彼女の父親が勤務する内科も、実際にはたった二人の医師だけで切り盛りしていた。そのため、一方の医師の都合が悪くなれば、彼女の父が無理を押してでも出勤しなくてはいけなかった。

「でも、みんな感謝しているよ。眞菜(マナ)のお父さんが来てくれていなかったら、あの病院、今頃とっくに閉鎖されてただろうって」
「そんな……。もう、10年以上も前の話でしょ」彼女は失笑した。
「そんなこと未だに言っている人なんて、いるの?」
「いる、いる。うちの母親なんかもそう。……田舎の人は良くも悪くも、昔のことを忘れないから」
「そうかもね」彼女が笑った。

「……じゃあ、賢治のお母さんにはやっぱり感謝しなくちゃいけないな。……そうだ!」
彼女が大きな声を出した。
「春になる前に、賢治のお母さんにケーキの作り方を教えてもらわなきゃ」
「ケーキ?」
「そう、ケーキ。約束してたんだ。私でも作れるケーキがあるんだってさ」
彼女はほくほく顔だった。
「……子供っぽいと言われればそれまでだけど、やっぱり憧れるよね、ケーキの作れる女の子って」

「ケーキ、ねえ」彼は、あきれたような口調で言った。
「コーヒーをやっと入れてる人が、ケーキか……」
「何?」彼女は彼を挑むようににらみつけると、不機嫌そうにした脣を突き出した。
「いいよ。賢治には食べさせてあげないから。賢治のお母さんと、うちのお母さんと私で、“女の休日”、するんだもんね」

休日って言っても、お前はまだ働いてもいないじゃないか……。のど元まで出かかった言葉をすんでの所で飲み込んだ。
「でも、ケーキなんか作って本当に大丈夫か?」
ふざけた調子で語っていた彼が、急に真顔になった。「だって、あれは……」
「大丈夫、大丈夫」彼女は気丈に笑った。

「……そのくらい、よく考えてるよ。自分のことだもん」