2009年3月31日火曜日

サマー・バケーション

何もない草むらの上にオレンジ色の縁取りのハンカチが一つぽつりと寂しそうに落ちていた。

誰の物だろう。
少年はいぶかしがりながらもそれを拾って、両手の指につまんで、そのハンカチを広げてみた。右下に、風船をもつくまの絵。

明らかに子供向けの、しかも、おそらくは女の子向けのハンカチだった。

尚ちゃんのだろうか。
少年は咄嗟に、近所に住む少女の名前を思い浮かべた。
でも、その少女は普段ハンカチを持ち歩いているような印象はなかったし、こんな何もない辺鄙なところまで、わざわざ遊びに来ているとも思えなかった。ここは集落から大分離れた、丘の上だった。来るのはせいぜい、山奥から木材を運び降ろす軽トラックか、少年くらいのものだった。

一体、誰のだろう。
少年は、ハンカチを裏返したり、ひっくり返したりしながら、何処かに名前が書かれていないかと調べた。しかし、ハンカチのわきに飛びだした説明に、『Made in Taipei』と本当に小さな文字で書かれている以外、名前らしい名前は見あたらなかった。

ひょっとすると、少年の知らない誰かが、わざわざ、ここまで遊びに来て、そうしてこれを落としていったのかも知れなかった。だとすれば、落とした人は困っているかも知れない。少年はそう思ったが、届けたくても、それを何処に届ければいいのか、見当が付かなかった。落とし物は交番に届けましょう。そう、学校では教えてくれたけれど、交番なんて物は、大人に車に乗せていってもらわなければ行けないほど遠くにあった。こんなハンカチ一枚のために、父親が、わざわざ車を出してくれるようにも思えなかった。

少年は仕方なく、そのハンカチを、もとあった草むらに置いた。
そして、後ろ髪引かれる思いで、その丘の上を後にした。



翌日は雨だった。
少年は家の窓から、白糸のように降りしきる雨を見つめていた。ざあっ、と言う音が、家の中のすべての小さな音をかき消して、そして世界の余計な音までも雨の音に染めていった。雨の降る日は、だから不思議と、雨音の分だけ世の中が急に静まってしまったような寂しさを感じた。

昼なのに薄暗い家の中から見える空には、分厚い雨雲がたれ込めていた。
少年が見ている間にも、雨雲は時々そのずっと上の方で、ぴかりぴかりと閃光を発していた。雲全体が、なんだか薄青い炎を纏っているようで、気味が悪かった。


ふと、目を地面に向けると、母親が取り込み忘れたのか、小さな靴下が一つ、雨ざらしになった庭の上に落ちていた。靴下は泣いているようにも、いじけているようにも見えた。忘れられていることをねちねちとひがんでいるのか、それはじっと雨に打たれたまま、泥を浴びた庭の上で、やけに白く光って見えた。

それを見て、少年は昨日拾いかけた、一枚のオレンジ色の縁取りのハンカチを思い出した。あのハンカチも、今あの靴下のように、雨に打たれて、すねたように昨日の草むらの上で、じっと拡がっているのだろうか。そう思うと、彼は、なぜだか後味の悪い物を感じた。

ハンカチに、実は謝らなくてはならないような、妙な気持ちを抱いて、少年は窓の向こうの一足の靴下に対してさえ、それ以上だまって見つめていることが出来なくなった。母親に見つかったら、むしろ怒られるのではないかと思いながらも、少年はわざわざ彼の青い長靴を履いて、そして、黄色い雨傘を差して、激しく雨の降る雨中に出た。

家の雨樋から垂る大きな水滴が、彼の傘の幕に当たって、ボツボツという張りのない、低い音を立てた。彼は、自分の手を必要以上に汚さないように、人差し指と親指の間に濡れた靴下をつまんで、汚い物でも運ぶような格好で、それを玄関の中まで持ってきた。

靴下からはびちゃびちゃと、汚い泥の雫が絶えず落ちていて、持ってきたのはいいものの、玄関に脱いだままになっていた父親の黒い革靴の上に泥水が随分と垂れてしまった。
そのまま上がってしまったら、母親に大目玉を食らいそうなことくらい、少年は重々承知していたので、迷った挙げ句、彼はその靴下を、玄関の誰も見向きもしない暗い片隅に、そっと寝かしつけるように、広げておいた。


玄関を上がって、元いた場所に戻ってきても、彼には、その靴下が心残りだった。
水を絞ることも考えたが、そうすれば、今度は自分の手が汚れてしまう。そこまでして、靴下を拾ったところで、泥だらけの靴下を、母が何処まで受け入れてくれるのか、解らなかった。それを洗濯機に入れるような母だろうか。それとも、それを汚いと捨ててしまうのだろうか。少年には解らなかった。どっちの結末も、彼には余りいい気がしなかった。

結局、雨中に忘れられた靴下は、いずれにしろ余りいい最後を迎えることはなさそうだった。少年は、靴下に対して、少し申し訳ないような気持ちを抱いた。昨日まで黙って履かれていた靴下を、こんな最後に終わらせてしまうのが悲しかった。


翌日は打って変わって、嘘のような快晴だった。
雨の降った後の空は、同じ空とは思えないほど高く、澄んでいた。
山の緑は生まれ変わったように鮮やかに輝き、草葉の先端には小さな雫が留まって、見る角度によって、女の人が耳に付ける宝石の飾りのように、ちらちらと踊るように光を放った。

少年は、朝ご飯を食べると、すぐにあの丘に登った。
あの日からずっと気がかりだった、一枚のハンカチの無事を、一刻も早く確かめたかった。

草むらにたどり着くと、少年はすぐに、ハンカチのあった場所を丁寧に探し始めた。
雨の乾ききっていない草は、すぐに少年の腕を濡らし、半袖のシャツに幾多の水玉模様を浮かび上がらせた。雫が半ズボンの先から出た腿を濡らして、ひやりと冷たかった。それでも彼は、筋の細い、硬い草をかき分け、その下にあのハンカチが、悲しげに眠っていないかを確認するために、あちこちに草むらを見つけては、そこに飛び込んだ。

しかし、彼がいくら探しても、その場所にはもう、あのハンカチは見つからなかった。昨日の雨の後、少し風が出ていたような気もした。少年は探す場所を少し変えて、近くに生えた高い木の途中まで昇ってみたりして、隈無く辺りを探したが、もうあのハンカチは、何処にもいなかった。

少年の頭の中に、あの風船を持ったくまの絵が寂しく浮かんだ。
風船を持ったくまは、頭の中でも楽しそうに笑っていた。ちょうど遊園地で、大人に風船を買ってもらった時の少年のような、跳ねるような足取りで、オレンジ色に縁取られたハンカチの中でくまは歩いていた。

少年は、一昨日、ハンカチを持って帰らなかった自分を悔やんだ。
あのハンカチが、好きだったわけではないのだけれど、それを持って帰るのを躊躇ったばかりに、永遠に、もう彼の前から失われてしまったことに気づいて、小さな背中が、なぜか、すうっと冷えていくのを感じていた。

2009年3月24日火曜日

メルカトル

ミドリガメが目の前をゆっくりと這っていく。
ナオコに言わせると、それは散歩なんだそうだ。

「だって、カメだって生き物でしょう」
彼女は妙な色のペディキュアを足の指に塗りつけながら言う。
「きっと、狭い水槽じゃ、気が滅入っちゃうよ」

カメに滅入るだけの繊細な神経があるのか、僕はよく知らない。
それを知ってたところで、何になるだろう。ただ、カメを飼うのに、以前よりもこっちが気を遣うようになって、何のために、この手の掛からない生き物を僕らのペットに選んだのか、解らなくなってしまうのが、オチじゃないだろうか。

「ミドリガメは、あんまり陸が得意じゃないみたいだよ」
僕は彼女の足の指先を見つめながら、控えめに言った。妙な色は次第に、足の爪の上で、面積を伸ばしていく。なんだか、気分が悪かった。

「でも、ずっと水に入れてたら、カビが生えてきたでしょう?」
彼女が苛立った調子で言う。
「それじゃいけないって、あなたが言ったんじゃない」
彼女はようやく満足がいく具合になったらしく、爪に色の付いた足を不格好に高く持ち上げて、少し見上げるような姿勢をして見せた。足の指の先を、無意味に曲げている。

「水をちゃんと換えてれば大丈夫だよ」
僕は彼女の高く上げた足を、一緒に見つめながら言った。身体の少し硬い彼女は、足を高く上げようとすると、膝が先に曲がってしまう。そのうち、腿の裏側の筋肉がつってきたらしく、高く足を上げるのを止めて、ごろりと背中を付いてしまった。

頭の後ろに手を組んで、口をへの字に結んで仰向けに天井を見上げている。

「あ、蛾の死体」
彼女が、天井の隅を指さしながら呟いた。

僕も、彼女の指さす方を見上げた。そこには確かに、蛾の死体がくっついたままになっていた。もう、ずいぶん古い物らしく、主のいなくなった蜘蛛の巣に絡まったまま、腐りもせずに残っていた。でも、よく見ると表面は、うっすらと、深緑色の藻のようなカビに覆われていた。

「...モス」
彼女は蛾の死体を指さしたまま、そう言って、おかしそうに笑った。
何がおかしいのか、僕には解らなかった。

「...ああ、つまらない」
彼女は持ち上げていた腕を、ばたりと畳の上に落とした。
そして、また口をへの字に結んで、天井を見つめていた。

「あのさ、」
僕はおそるおそる、彼女に話しかけた。
「何で、僕を呼んだわけ?」
今日は、バイトの日だった。彼女が急に、会いたいというものだから、僕は何かあったのかと思い、友達にわざわざ換わってもらって、ここに駆けつけたのだ。

「...悪かった」
彼女は、目だけを僕に向けて謝った。
「悪気は、無いの」
つまらなそうに、また天井を向いた。僕よりも、天井を見ていた方が、未だ飽きないらしい。

彼女はやがて、静かに目を閉じた。
キスでもしろ、と言うように、口を半開きにして見せている。

僕は戸惑った。
さっきから、気になっていたんだ。

カメが、僕らを見ていた。


「...ねえ」
僕は恐る恐る彼女に呼びかけた。
「...ん?」
半開きの口が答えた。
「...カメが、見てるよ」

彼女は、ふと、目を開くと、身体を半分起こしてカメを転がしておいた方を見つめた。しかしカメは、彼女が見つめる頃にはもう向きを変えていて、そっぽを向いたまま、つまらなそうに歩き始めていた。

「...見てないじゃん」
彼女が、ふてくされたように僕を睨み付けた。
見てたんだよ。
僕は言葉を口の中でかみ殺した。

「まあ、いいけどね」
彼女はごろりと横になると、身体の向きを変え、僕に背中を向けてしまった。
「...なんか、つまんないの」

彼女の背中が、少し小さく見えた。もしかすると、泣いているのかも知れなかった。でも、下手に触ると、彼女のことだから、きっと、ペディキュアの乾いていない足で、僕を足蹴にしてしまうのだろう。

僕はそれが怖かった。だから、あえて彼女には触れないようにしていた。

彼女の向いた先には、安っぽい窓枠の嵌められたガラス戸が僅かに開いたままに放置されていた。その向こうから西日が差し込んできて、部屋は妙に明るかった。

「...ねえ」
彼女が向こうを向いたまま言った。
「...もう、帰ってもいいよ」

彼女の小さな背中は、いつまでも小さなままだった。

気がつけば、カメの姿も、もう無かった。


でも、カメが見つめていてもいなくても、彼女の背中は触れるにはあまりに小さすぎて、僕は何も出来ずに、半分伸ばしかけた右の手を、静かに降ろした。