2009年4月21日火曜日

田舎の生活

たらいに汲んだ井戸水に、ゆっくりと手を浸した。

冷たい感覚が、指先から静かに駆け上がって、腕の中を走る何本もの青白い血管を浮き上がらせ、内蔵の方までゆるゆると冷やして行く。寝ぼけて熱った体温が、それにつられて急速に冷まされて、背中が、きゅっと縮むような感覚があった。

たらいに映る顔は、朝の光を浴びていても、何処か未だ眠たげだ。
昨日、寝る前に鏡で見た時の自分の顔の、半分ほども目は開いていなくて、頬は幾分丸く膨らんでいる。蜂に刺されてふてくされたかのような、その寝起きの顔が、指先からこぼれ落ちる雫に、ゆらゆらと揺れていた。

洗面所。山奥の田舎にある、この古民家を借り切ってもう3年になる。大家のおばあさんは、去年まで、この家の向かいの母屋に住んでいたのだが、今はもう、この住み慣れた田舎町を去って、都会に住む息子夫婦の家に越して行ってしまった。

「...あの母屋も、好きにに使っていいから。家族が増えたら、今のところじゃ手狭でしょうに」
別れ際、僕らにそう言ってくれたおばあさんのしわがれた優しい声が、僕の耳には、未だ昨日のことのように鮮明に残っている。それは、キュウリか、レタスか、白菜か、幾分不格好でしわくちゃだけれども、何処か優しく、瑞々しく、それでいて、青臭い匂いのする、不思議な安らぎを持った声の主だった。都会から田舎のなんたるかも知らずに越してきた僕らが、この土地に根づく事が出来たのも、あのおばあさんがいてくれたからだと、時折、妻と昔話のついでに話すことがある。

この古い家の、薄暗い洗面所の中で、背中側から細く差し込む光が、ようやく僕の手元を照らす。コンクリートを塗った土間に、取って付けたような琺瑯の洗面台。おそらくは、どこかで要らなくなったものを、もらってきてそのまま置いただけなのだろう。立て付けが悪いらしく、全体が少し左手に傾いていて、鏡に映った僕の顔も、たらいに張った水も、どうやら少し、かしいでいる。

「今日は早いのね」
斜めに移った自分の顔を、未だ眠気の覚めない頭でぼんやりと見つめていると、後ろから声がした。ふり返ると、見慣れた顔が、こっちを向いて笑っている。
「……日曜日だからな」
「子供みたい」
そう言って笑うと、彼女は土間にすかすかと入ってきて、僕のわきをするりとすり抜け、洗面台の先にあるトイレに、先に入ってしまった。

がちゃり、と鍵の下りる音。
何処か拒絶されたような、錯誤した感覚が僕を襲う。それに伴う孤独と気まずさが、僕らの間に一瞬の沈黙を生み出した。

この何とも言えない間合いの可笑しさは、彼女も感じたらしく、扉の向こうから、フフ、と含み笑いをする声が聞こえた。

僕も思わず、声に出さずに笑った。
そして、また冷たい水に手を突っ込んで、ざぶざぶといつもより余計に音が出るようにしながら、大仰に顔を洗って、ううっと声に出して、大きく背伸びをした。

「……ねえ」
閉じた扉の向こうから、声がした。
「何?」
閉じた扉の方を向き、問い返す。
「……また、駄目だったんだ、私」
扉の向こうの声が言った。
「昨日、編集者から電話が来てね、今回の受賞はなさそうだって。二次選考までは通ったらしいんだけど、最終候補には残ってないみたい。……また、来年頑張ろうってさ。あの、いつも、ぐちぐち意地悪ばかり言う編集者が」

力のない笑い声が聞こえた。

「……あーあ。あたし、向いてないのかな。やっぱり」
「そんなこと無いよ」
「いや、やっぱり向いてないんだよ。甘かったんだ。OLやめて、自分の好きなやり方で、人生生きてやるって、思ったのはいいけど、それはやっぱり、単なる日常からの逃避だったんだよね。同じ繰り返しの毎日に、うんざりしてて、ちょっと変化が欲しかっただけだったんだ。それなのに、気まぐれに書いた文章が、ちょっと上手く書けたからって調子に乗って……、こんなの所まで、行き着いちゃった」
「こんな所って……」
僕は思わず、そう呟いた。

「……たしかに、こんな所、はないよね」
彼女は再び、笑ったようだった。
「……あたし、やっぱり、だめだ。いろんな人にお世話になって、それをすっぽかして、ふり返りもしないで……。あなたにも、迷惑掛けてばかり。人の人生巻き込んで、こんな田舎まで越してきて……」

扉の向こうの声が、不意に静かになった。
小さな嗚咽が聞こえた。

また、思い出したんだな。僕はそう思った。
最近の彼女は、いつもこうだ。
時期的なものもあるのかも知れない。春が近づき、草木が芽吹く季節になると、相対的に、自分の心の底にあるものが、どうしようもなく避けがたいものとして、はっきりと見えてしまう。浮かれる心の一方で、どうにも動かない、その深く、暗い悲しみ。それが春の、もう一つの側面であることは、僕もよく知っている。何度もこうして、雪解けを待ってきたのだから。

「……ごめん」
彼女は小さな声でそう呟いた。
「やっぱり、思い出しちゃって……。こういう時に限って、……なんで、かな……」
「無理もないよ」
僕は扉の向こうの彼女に慰めを言った。
「僕らのしたことは、そう言うことだ」
「……はは……、そう、だよね……」

僕と彼女の間に、一瞬の沈黙があった。
僕は言葉を躊躇った。
彼女は言葉を選んでいるようだった。

「……ねえ」
沈黙を先に破ったのは、やはり彼女だった。
「……ちゃんと産んでたら、幾つになったかな」

「4つ」
僕はその年齢を忘れていなかった。それは、僕の罪でもあるのだから。
「4つ、か……。私達、若かったよね。たった四年前の出来事だけど……。いま、あの子が生まれるのなら、私、迷わず産んでるのに……」

彼女の声が涙声になった。

「……たった、四年間で、変わってしまうような都合で、私達は、一つの命を捨てたんだ。今更、それを欲しいと願っても、それはわがままに過ぎないよね。……出来ないのも、無理は、無い、か……」
「……君だけが、背負う事じゃない」
扉の向こうの彼女に、僕は語りかけるように言った。
「それは、僕にとっても背負うべき事だ。僕ら、二人の命だろう。そして、二人で決めたことだったろう?」
「……私達、二人で決められることだったのかな」

彼女の声が訴えかけるような調子に変わった。ドアのすぐ向こうまで、彼女はせり出しているようだった。

「一つの命が、産まれるとか産まれないとか、そんな都合は、私達が、自分のスケジュールに合わせて決めていいことだったの?それで、展開していったはずの一つの可能性が、可能性のまま消えてしまっても、私達は、生きていけるだけの権利があるの?」
「……すでに生きているんなら、生きなきゃならない」
僕は、乱れた彼女の心を静めるように、一呼吸置いて続けた。
「消えていった命を背負えるのは、今生きている僕らだけだから」
「……勝手だよ。先に生まれたものの、勝手」
彼女は言い捨てるように言った。

「……今でも時々、子供を産む夢を見るんだ。朝起きると、夢の中では大きかったおなかはすっかりしぼんでしまってる。その喪失感に……、なんだか、涙が出るんだ」
彼女は言った。
「こんな感覚、男の人には、解らないだろうな……。子を宿すってことを、身体で感じられるのは、私達だけだから……」

彼女はその後しばらく、トイレから出てこなかった。
顔を洗って濡れていたはずの僕の両手は、気がつけばすっかり乾いてしまっていた。

僕は先に洗面所を出て、居間に入った。朝食の用意は、もう調っていた。
居間の冬には炬燵として使う机の前に座って、静かに物思いにふけりながら外の明るい景色を見ていると、ようやく彼女が奥から出てきた。

扉の向こうで泣いていたとはつゆとも感じさせない笑みを浮かべて、照れくさそうに僕の向かい側に座ると、古ぼけたしゃもじで、白いご飯をひとすくい、使い古した茶碗によそった。

2009年4月5日日曜日

何も残さなかった

30まで生きるつもりはないと、男は日記に書いていた。

『僕のような人間が、いつまでも長生きしていいとはとても思えないのです。両親は、人の役に立つ人間になれ、と言って、僕を育てました。ですが、どうでしょう。生まれてきた僕は、人の役に立つどころか、人に迷惑を掛けてばかりの、ある種、社会の寄生者のような存在に、なってしまったのですから。両親も、心の底では、嘆き悲しんでいるに違いありません。実家に帰って、優しげに僕を受け入れてくれる老いた笑顔をみるとき、僕は自分の存在していること、そのものの持つ罪の深さに、目が回るようでした』

彼の日記は、所々手垢のような物で黄色い染みが浮かんでいた。彼はそれを一気に書いたのだろうか。乾いていないインクの上を掌が滑るように進んでいったものだから、文字が所々すれて、斜めに線が延びたようになっていた。
わたしはこれを書いた彼の肉体労働を知らない、皮の薄い掌が、きっとこの日記に使われたインクと同じ、ブルーブラックの曖昧な色に汚れていただろうと想像し、思わず苦笑せざるを得なかった。

『多くの人は、わたしを笑うでしょう。それならば何故、人の役に立つ仕事をしようとしてこなかったのか、と。いつまでの親にすがっていないで、自立することも出来たではないかと。幸い僕は健康ですし、肉体的に何の障害もありません。精神的に健康かと問われれば、それは自分では何とも判断の付きにくい部分もありますが、しかし、日常生活に特に支障は感じないので、おそらくは健康なのでしょう。そうなればなおさら、僕のしていることは罪以外の何物でもないような気がします。人を欺いてその金品を奪い、生活をしているのと、今の僕はどう違っていると言えましょうか。実質的には、そこに違いはないのです。ただ、一方が個人や法人と言った具体的なものを欺いているのに対し、僕は社会や世の中のような、とかく漠然としたものを欺いて生きていると言うだけの違いでしかありません。人の役に立っているような、さも一人の立派な人間のような顔をして、僕は人並みに通りを歩いていますが、実は、それだけでも一つの立派な犯罪なのではないかと、心の底ではびくびくと怯えているのです。いつか、僕の心の内を明晰に見抜いてしまうほどの眼力を持った人が、目の前に現れて、僕のどうしようもない本質を看破してしまうのではないかと、そのことばかりを恐れています』

彼の日記はここで、数行の空白を残して、次のページに飛んでいる。
しばらくここで何かを迷っていたのか、あるいは、時間的な間隔が実際に開いたのか、次の行からの文字は、以前のものより線が震えて擦れ、全体的に小さくなっているように見えた。

『全体、僕のような犯罪者ほど、社会において罪をなすものはないように思います。自分の利益のために人を殺す様な人間は、確かに極悪非道かも知れませんが、それはよりよく生きようとする、人類本来の向上心が、悪い方向に発露しただけとみることもできます。しかし、それならば、僕はどうでしょう。僕は何の向上も望んでいません。ただ今があり、そして、今日があれば、それで満足なのです。未来のことなど、考えてみても解りません。それはあまりに複雑すぎて、たとえ予定を立ててみても、土壇場になっていとも簡単に覆ってしまうと言うことに、僕は慣れっこになってしまいました。人間に、未来を予想するだけの知性があるのなら、失敗するものなど、そもそもいるのでしょうか。どれもこれもが、運のような気がしてなりません。努力に結果が付いてくると言うのは、誰も皆、成功者なのですから。彼らの足下に散らばる骸の声を、誰が聞こうとするでしょうか。彼らが努力したと言ったとて、皆口をそろえて、それでは努力が足りなかったのだ、と言いくるめます。そう言われれば、そうかも知れないとしか、答えられません。それは何の証明のしようもないからです。努力を測る物差しなど、誰も持ってはいないのですから。あったとしてもそれは、成功と失敗の2極しかない物差しなのでしょう。成功に至らないものは、すべて失敗なのです。言い換えれば、成功に導かない努力は、努力していなかったに等しい、と言うことも出来るでしょう。僕はつくづく、己の無力を感じています。努力とは時間の経過です。しかし成功は、その途中に構えられた一種の門のようなものに過ぎません。そして、人生もまた、時間の経過なのです』


彼の日記は、ここで一度終わっている。
次ページからは何の変哲もない毎日の記録に戻っていた。

彼のような、人生の敗北者に、耳を貸す必要など無いのかも知れない。
実際彼は、社会において何の役にも立たなかったし、私達家族に、彼が何をしてくれたのかと言えば、思い出すのも難しい。老後、彼がいなくなった後の私達夫婦を、支える羽目になるのは、彼の弟とその家族になるはずだ。彼はしっかりしているから、きっと兄のようなことにはならないと私達は期待している。

しっかりしている人間の話は、わかりやすい。
それはいつも、掴めるものを追うからだ。彼の兄のように、掌に入れられないものを追い掛けた人間は、いつも道に迷ってしまう。雲を掴む努力をしたところで、それが何になるだろう。わたしには正直、彼という人間が未だに理解できないでいる。親として彼を世に生み落としていながら、つくづく無責任なこととは思っているが。

ただ、不幸中の幸いは、彼があの飼われた生き物のような生活に、決して安んじていたわけではないと言うことだ。少しでも罪の意識を持っていたというのなら、それがたとえ、私達に向けた形式上のものであったとしても、親として少しは彼の『努力』を認めてやらないでもない。ただし、彼が言うように、成功に至る努力意外には、人は努力とは認めないものだ。そう言う意味では、彼は、何もしていなかったに等しかった。30年、生きていながら、何も。

2009年4月2日木曜日

揺れる

前の席に座っていた彼女が、髪を少し染めてきた。

その変化に、初め僕は気がつかなかったのだが、仲の良い友人の一人が、冷やかすように、僕にその変化を告げたので、僕はようやくそれに気づいたと言う位、それは染めたと言っても微々たる色の変化に過ぎなかった。

ただし、彼女はそもそも優等生的な性格の生徒で、髪を染めるというような、教師に睨みをきかされる危険をわざわざ冒すような感じでもなかった。目立つことも余りしなさそうな、ごく大人しい、真面目な生徒。僕は最近まで、彼女をそう思っていたし、それはクラスの、他の生徒達も、同じはずだった。

何故、急に彼女が、髪をを染めてきたのか。
クラスの、特に僕の身の回りの男子達は、しきりにそのことを噂しだした。僕の顔をちらりちらりと嫌らしい眼差しで見ながら、へらへらとした笑いを浮かべて、彼らは楽しそうに各自の持論を述べ立てた。

「...やっぱ、彼氏だよ」
ある友人が言った。
「だって、急に髪染める理由なんて、他に考えられるか?ぜってえ、男」
彼はそう言うと、歯をむき出して、僕の方を向いてへへへと笑った。
「あいつが、C組の工藤と一緒に歩いて帰るの、見たって奴いるぜ」
「ああ、ヤスコだろ」
別な男子が言った。
「ヤスコがバイト帰りに、駅前で見たんだってさ。7時位だって言ってたから、結構遅い時間じゃねえ?」
「工藤、電車通学だもんな」
にたにたと笑って聞いていた、最初の友人が言った。
「...どっかで時間潰して、送ってったんだよ、きっと」

僕はその話しを、興味があるような無いような、微妙な表情を浮かべながら聞いていた。正直、その話しを詳しく知りたいとは思わなかった。ただ何か、自分の想像できない場所での、彼女の振る舞いや、見たことのないはずの情感のこもった表情が、ありありと脳裏に浮かんできそうになって、僕は慌てて、その思考を抑えていた。

「お前、いいのか?」
最初の友人が言った。
「工藤に取られちまうぜ」
「...べつに、いいよ」
僕は、薄ら笑いの表情を変えずに、彼に言った。
「付き合っているわけでも、ないし」
「だから、子供なんだよ」
あきれたように彼が言った。
「付き合ってるかどうかじゃないだろ、お前が好きか、どうか、だ」
彼は、また歯を見せて、にたにたと笑った。
「行っちまうぞ、そんなこと言ってると。いずれにしろ、損するのは、お前だ」


放課後、僕と彼女は、一緒の掃除の班だった。
体育館掃除という、何とも漠然とした掃除。運動部が、毎日、念を入れて磨いているアリーナに、僕らがすることなど、何もなかった。とりあえず、薄汚れたモップを持って、広い体育館を、縦横に往復する以外、することはないのだ。

掃除が終わり、班の他のメンバーらは、さっさと教室に戻ってしまった。
班長だった彼女は、掃除が終わったことを体育教官室に伝えに行った。僕はそれを見届けた後、他のメンバーの後を追い掛けて、教室に帰ろうとした。


その時、ふと、体育館のステージの上に、バスケットボールが一つ転がっているのに気がついた。誰かが、体育の時間にでも使って、そのままになっているのかも知れない。僕は余り気に留めなかった。だが、気づいていながら、そのままそこを立ち去るのも、後ろめたいように感じた。仕方なく、ステージの上に上がると、そのボールを拾い上げ、手持ちぶさたにドリブルをしながら、用具室の古びたカゴの中に、そのボールを放り込んだ。

「...まだ、なにかあったの」
後ろから、彼女の声がした。
「...ボール」
僕は振り向くと、彼女に向かって、手短にそう答えた。
僕がふり返るとほとんど同じ位のタイミングで、彼女は丸い目を大きく開けて、何か言いたそうにしながら、くるりと向こうを向いてしまった。そして、僕の先に立つかのように、ゆっくりと出口に向かって歩き始めた。

僕も何か話したいことがあったわけでもないし、彼女の後に付いていくようにして、何もない体育館を縦に歩いた。

先に立った彼女の髪は、言われてみると、少し茶色っぽいような気がした。しかし、それくらいの色であれば、光りの加減で、何とでもなるという程度の色の明るさだった。もしかすると、彼女は元々やや赤毛で、最近になって、ようやく周りがそれに気づいたというだけのことかも知れない。僕はその時、そう思った。

先だって歩く彼女の髪が、深い紺色の学生服の上で、彼女が歩みを進める度、ゆらゆらと迷うように大きく左右に揺れた。それは少々、僕にはわざとらしくも見えた。もしかすると彼女は、変化した髪の色に、気づいてもらいたかったのかも知れなかった。

それでも、正直、僕はもう、彼女に話すことなど無いと思っていた。
いつも通りを装っていても、彼女は本質的には別の人間になってしまったように僕は感じていた。恋愛をしてしまった人と、未だしていない人の間には、大きな差異があるように僕は思う。前者はいつも嘘つきで、可能な限り真実を小出しにしようとし、後者は悲しくなるほどに、自分を表にさらけ出そうとする。

今の彼女は、その嘘つきになってしまったのかも知れなかった。自分の気持ちのよりどころを隠し、いつもと同じ彼女を、装っているだけかも知れなかった。僕にかけてくれるどんな言葉も、それは装うための文句に過ぎず、本当の心のありかは何処か遠い、自分の知らない誰かの所にあるのに、違いなかった。

彼女の揺れる、やや赤い髪は、その内心を早く公にしたいという、相反する彼女の心の表れではないかと、僕は思っていた。僕はだから、彼女に、もう何も話しかけたくなかった。言った言葉のすべては、僕の中で嘘になり、傷つくことだけが、いつも真実になってしまうのだ。

真実など知りたくなかった。
嘘なら嘘で、ずっと優しい嘘をついていて欲しかった。
彼女をこのまま恨んでしまいたかった。もう、何を言っても、出来る限りぶっきらぼうに振る舞って、何も話すことなどしないでいてみようと、目の前で揺れる、やや明るくなった様にも見える彼女の髪を見ながら、僕は硬く、心に誓っていた。

「ねえ、」
前を歩いていた彼女が、少し僕の方を振り向いて言った。
「...あんまり、後ろばっかり、見ないでよ」
彼女はおかしそうに笑った。
「いつもそうなんだから。後ろを歩かないで、横に立ってくれればいいじゃない。話も出来ないよ」

僕はそう言われて、咄嗟に彼女の横に立った。
彼女は柔和な笑みを浮かべて、僕を見ていた。それが何を意味しているのかは、解らなかった。

「お姉ちゃんがね、」
やや唐突とも思える間合いで、彼女が言った。
「...わたしの髪は重いから、少し染めてみたらって言ったんだ。髪なんて、あんまり染めたこと、無かったんだけど、そんなに色は抜かないからって」
彼女は自分の髪を右手の指先に少しつまんで、首を傾げるようにして、それを見つめた。
「なんか、ちょっと赤かったかな」
「...気にならなかったな」
僕は言った。
「そう?」
彼女は、意外そうに僕の方を見つめた。
「結構、鈍感なんだね」
彼女はおかしそうに笑った。
「...ついでに、前髪も切ったの、気づいてた?」
「いや、全然」
僕は答えた。彼女はまた、口に手を当てておかしそうに笑った。
「...今日、教室の後ろの方で、わたしが髪染めたこととか、みんなで話してたでしょ?あの人達、今日わたしが学校来たらすぐ気づいて、何で何でって、その話しばっかりしてたの。わたしが、お姉ちゃんに言われたことを話したら、納得したくなかったみたいで、なんだか残念がってた。...みんな、変化をほしがってるんだね、たぶん。恋愛とか、失恋とか」
彼女は、穏やかな表情を浮かべたまま、静かに溜息をついた。
「そんな、面白いことばっかり続かないのは、お互い様なのに。....私達みんな、カゴの中の鳥みたいだよね。本当はもう飛べるのに、飛べないと思いこんで、大人しく、ご飯をもらったりして。出来ることと言えば....、誰かを思って、歌でも歌うくらい。届かないかな、なんて、思いながら」
彼女がふと、僕の方を見た気がした。しかし、それは気のせいのようだった。
僕が見た時には、彼女は平然とした顔で、前を向いて歩いていたから。

その時、彼女が僕の見つめる目の前で、またもや唐突に口を開いた。
「...コンタクトにしてみたら?」
「え?」
「ううん、部活でも楽になるかなって、思っただけ」
そう言うと、彼女は歩く速度を速めて、再び僕の前に立って歩き始めた。そして、体育館の入り口までたどり着くと、小さくなった身体で僕の方を振り向いて、
「...かぎ、閉めるよ!」
そう言って、本当に向こうから扉を閉めて、鍵を閉める動作をした。

僕が慌てて彼女に追いついて、扉を押し開け、今にも鍵を掛けようとしたその手を押さえてしまうと、僕の眼鏡越しに一瞬、僕の目を彼女が見た。そうして、今度は僕の見つめる前で、少し勿体ぶるように、ゆっくりと、誰もいなくなった体育館の扉に鍵を下ろした。