2009年9月28日月曜日

パルミラ (11)

「……ねえ?」
彼女が僕の方を見た。
僕は視線を彼女の瞳に戻した。

「……あなたのパルミラ、なんか様子が変じゃない?」
彼女はてくてくと僕の所まで歩いてくると、僕の足下にかがみ込んだ。
「……やっぱり変。私を見ても笑ってくれない……。夕べ、ちゃんと休ませてあげた?」
僕の足下の影の中で、彼女は青い瞳で僕を見上げて言った。
「あ……、一応、レストマットの上には載せて置いたけれど……」
僕はしどろもどろに答えた。
「どうしちゃったのかしら……」
彼女は、心配そう僕のパルミラを見つめていた。僕のパルミラの目の前で、何度か手を振ってみたりもしたが、パルミラはその手の動きを追う素振りすら見せなかった。

試しに、僕がその手を引いて歩いてみようとすると、パルミラはちゃんと僕の後に付いて歩く仕草をした。しかし、僕がいくらまじまじと見つめていても、彼女は僕の顔など眼中にないかのように、焦点の定まらない目で、虚空を見つめているだけだった。
「……長旅のせいかしら」
彼女は腕を腰に当てて、すっくと立ち上がった。
「……何処か壊れてしまったのかも。……今日はとにかく、この子を置きに、一度部屋に帰りましょう」
彼女は残念そうにそう言った。

いったん部屋に戻り、パルミラを部屋の隅に立たせたまま、僕はそれまで握っていた彼女の手を離した。すっと、彼女の身体から生気が抜けたように感じた。彼女は、僕が手を離す瞬間、また手を引かれると感じたのか、片足を一歩前に踏み出しかけていた。そのまま、彼女は動きを停止したので、何か不格好な、それだけに余計悲しげな姿勢で、彼女は動きを止めたのだった。僕はそれを見ていて、パルミラはやはり、ロボットなのだと思った。

「……置いてきた?」
ペンションのロビーに戻ると、彼女がにこにこしながら待っていた。彼女の傍らにもパルミラの姿はなかった。
「もう、おばあちゃんを追いかける旅は終わったから」
彼女は恥ずかしそうにそう言った。
「……ここからは、私のための旅行。パルミラちゃんには悪いけど、休んでいてもらうことにしたの」
「うん、その方がいいかもね」
僕がそう言うと
「……そうよね」
彼女は、意地悪く、歯を見せて笑った。


それから残りの3日間は、彼女と共に楽しく過ごした。
本来だったら、僕のパルミラと一緒に巡るはずだった世界遺産の遺跡や、美しい滝、教会などを、僕は、旅先で出会った青い目の少女と共に巡った。思い出深いそれらの場所で撮られた記念写真には、本来予定されていた僕のパルミラの姿は無く、その変わりに、晴れやかに微笑んだ褐色の彼女の姿が写ることになった。

「……きれいに撮れてる?」
中世に建てられた荘厳な教会のステンドグラスの前で彼女の姿を写した後、彼女は僕の傍に駆け寄ってきて、デジタルカメラの小さな画面を僕と一緒に覗き込んだ。
「お、上出来」
冗談めかしてそう言って彼女は僕の鼻先で笑った。

彼女は何かを思い出したように、腰に付けたポーチから自分のカメラを取り出すと、自分が過去に撮った写真を見直し始めた。そして、
「……面白いよね……」と小さな声で呟いた。
「あなたの写真には私が一杯写っているし、私の写真には、あなたがたくさん写ってる。写真を撮った時の私の表情はどこにも残らない。でも、あなたには本来解らないはずの、私がどんな風に、あなたを見ていたか、その眼差しはこれに焼き付いている」
彼女は小さな画面を見つめながら、恥ずかしそうに微笑んだ。
「……後で、写真送るね。アドレス教えて?私だけ持ってても、しょうがない写真、ばっかりだし」
僕らはそこで、お互いのアドレスを交換した。

ちゃんと記録されたことを確認した後、彼女は、何か大きな用事でも済んだかのようにほっと息をついて、
「今日が最終日なんて、信じられない。もっと旅行が続けばいいのに……」そう言って眉尻を下げて笑った。
僕もその時には、彼女と同じ気持ちだった。
もっと旅行が続けばいいのに。彼女との時間が、もっと過ごせたらいいのに。そんな気持ちで一杯だった。

2009年9月20日日曜日

パルミラ (10)

「……おかしい!面白い子ね、あなたのパルミラ」
彼女はそう言って、僕のパルミラの頭を、無造作に撫でた。

パルミラは微笑んだまま、されるがままになっていた。僕は、自分が撫でられているような不思議な恥ずかしさを感じた。
「……もう、中に入りましょ?あなた、まだチェックインも済ましていないみたいだし……。ここのディナー、この辺で捕れた魚介類が一杯使われて、結構豪華らしいよ。……じゃあ、また、あとで!」

彼女はそう言うと、半袖から伸びた細く長い腕を曲げて、僕に挨拶した。僕も同じ仕草で彼女に返した。彼女のパルミラが彼女の後に続いて、笑いながら建物の中に入っていく。その微笑みは、画一的に規格化された笑顔以外の、何物でもないはずなのに、何処かしら彼女の、片方だけはっきりした愛らしいえくぼのある笑顔の面影が感じられ、見なれたはずのパルミラ笑顔に、僕は少し、照れてしまった。



翌日、彼女が街を案内するというので、僕たちも一緒させてもらった。
街を案内する、と言っても、彼女自身、この街に来たのは初めてなのだ。ただ、彼女のお母さんなどから聞いて、僕よりも良く、この街について知っているだけに過ぎない。

「……この街を巡って、空気を吸っているだけでいいの」
彼女は言った。

街全体が見渡せる高台だった。其処は古い城跡のようで、もうしろそのものは残っていなかったが、かつて城の周りを囲っていた城壁がその高台を縁取るようにぐるりと張り巡らされていた。城壁の切れ目には一台だけ、何処の観光地に出もあるようなコイン投入式の望遠鏡が据えられていた。そのクリーム色のメッキは先端部だけはげ落ち、昼前の陽光を浴びて、地の鉛色が鈍く光っていた。

彼女の瞳は、その城壁に囲まれた高い空をじっと見つめていた。はぐれ雲が、僕らの頭上を一つ、二つと流れていく。彼女はその青い空を飲み込もうとでもするように、細い喉を伸ばして、真上の空を見つめていた。

「この街にいるだけで……」
上を向いた彼女の喉から、微かな声が漏れた。
「それだけで、私はおばあちゃんと繋がっていられる気がするから……」

僕は、彼女の言葉に、すごく詩的なものを感じた。

もう存在しない人と、繋がっていられるという感覚が、本当にあるのか、僕には解らなかった。あるいは、そう言った感覚は、本来人間が持っているはずの感覚なのかも知れなかった。でも、僕らはいつしか、そう言った実体のない、しかし感覚だけは伴ったあやふやな絆を、確かな存在感を持って感じることが出来なくなっているのかも知れない。ただ、そうした目に見えない、皮膚で感じられない絆を信じ続けることは、僕には難しそうなことだと感じた。

それはとても不安なことだ。そして、見えないと言うことは、何度となく疑わしく思ってしまうものだ。

「……いま、変なこと言うなって、思ったでしょ」
気がつくと、彼女はもう空を見るのを止め、僕の方を向いて笑っていた。

「いや……」
「いいの。私も、そう思うから。……どうしてなのかなあ。ここに来て、始めてそんな身近におばあちゃんを感じられた気がする。もう死んじゃった人なのに。何年かに一度送られてくる、手紙の中だけの人だったおばあちゃんが、確かにここで産まれて、息をして、毎日……、ご飯を食べて、お出かけして、そして、波の音を聞きながら静かな夕食を取って……。そうして、冷たいシーツに入って、やれやれ、なんて溜息付いて、眠りについたんだろうなって、そんなどうでもいい、ありきたりな日常を感じるの。……それを……、このパルミラは、ずっと見ていたんだろうね。私達が、本来共有すべきだったそうした時間を、変わりに受け止めてくれていた」

彼女はそう言うと、祖母のパルミラの頭をそっと撫でた。
細い髪の毛が、さらさらと微かな音を立てたのが聞こえたような気がした。

「……絆って、なんなんだろう」
パルミラの細い髪の毛を、うっとりと愛おしげな瞳で見つめながら、彼女はぽつりと言った。

「それは、それほど大事な物だとは、今まで思ってこなかった。どちらかと言えば、私をがんじがらめにする……、自由を奪う鎖のように考えていた。でも……」
彼女はそこで、言葉を切った。続く言葉をゆっくりと選んでいるようだった。

「どうしてなんだろう。私がこの街に来てしまったのも、また、絆の力なんだよね……。縁、とでも言うのか……。私は、何処かで、人と繋がっていることを、まだ求めていたのかな……」
彼女はパルミラの頭をやさしく撫でながら、独り、含み笑いをした。
そして、ふと顔を上げ、僕の方を見つめた。

「あなたと出会ったのも、また、縁なのかもね。……おばあちゃんとの繋がりが、私とあなたを偶然引き合わせた。……あ、その前に、この子と私も」
彼女はそう言うと、自分のパルミラの頭を、ぽんぽん、と軽く叩いた。パルミラは、微笑みながら僕の方を見つめている。

「死んだ人は、ある意味、まだ死んでいないのかも。そう考えると不思議だね。その人はいなくなっても、その人の影響は、まだ残るんだ。……絆は、もしかすると、その人そのものとの繋がりでは、無いのかもね。だとすれば……。私が、おばあちゃんをここで感じられるのも、解る気がするな」
彼女はもう一度、青い空を見上げた。先ほどまで頭上にあった雲は、もう、視野の彼方にまで行ってしまっていた。

「私は、私の中のおばあちゃんと繋がっていたんだ。手紙の中のおばあちゃんの頃から、ずっと。そして、この街に来て、その繋がりが、もっと、確実な物になった気がして……。存在を信じられる物になった気がしている。わたしのこの目も、この肌の色も、おばあちゃんから受け継いだものなのだろうけど……、私の中のおばあちゃんは、いまいちはっきりした輪郭を持っていなかったから……」

彼女はそう言って、口をつぐんだ。
我を忘れたように、何もない空をじっと見つめていた。

僕はそんな彼女に、思わず見とれてしまっていた。
彼女の褐色の肌が、青い背景の中に、まるで一枚の絵のように融け込んで見えた。気がつけば、僕は彼女のかたちの良い脣だけを見つめていた。


「……ねえ?」
彼女が僕の方を見た。

2009年9月6日日曜日

パルミラ (9)

僕は向かいの席に座ったパルミラの瞳を、そっと覗きこんでみた。
海からの照り返しがまぶしいためか、パルミラは僕の視線には気付かず、ずっと海を見たままだ。深い黒真珠のような漆黒の瞳に、僕らの見詰めた海がさかさまに映しだされていた。
そのかすかに開いた、幼い口元からは、今しも、何か感嘆の声がこぼれてきそうで、あるいは、こぼれて来ているかのようで、僕はもう一度、彼女が見つめる海を見ながら、こそばゆくこみあげてくる、幸せというものにおそらくとてもよく似た感覚に、ほおを緩めていた。

海辺の小さなペンションに着くと、まだ昼下がりと言ったほどの時間ではあったが、すでに先客が来ていた。見れば、今日の飛行機で、僕のそばに席を取っていた、彼女だった。
「こんにちは!」
麦藁帽子の下で、彼女の青い瞳が驚いたように見開かれていた。
「あなた方も、こちらにいらしたの?」
「ええ!」
僕も、思わず、声が高くなった。
「あなたと、同じ国に旅行して、まさか同じ宿になるなんて!世界って、広いようで、意外と狭いんですね」
彼女はそれを聞くと、楽しそうに目を細めてふふ、と笑った。
「そうね……。あ、この子があなたのパルミラちゃん?何か、名前は付けてる?」
「いえ……。やっぱり、パルミラには、パルミラって名前が、一番似合っている気がして、そのままです。」
「そうよね」
彼女は、そういうと僕のパルミラの前に屈みこんで、その瞳をじっと見つめていた。僕のパルミラは、彼女の視線を受けて、首をかしげて、にこりと笑った。
「愛嬌のいい子ね!」
彼女も思わず笑った。
「他の人のより、ちょっと反応がいい気がするわ。きっと、あなたがちゃんとお世話(メンテナンス)してるのね」
「お世話(メンテナンス)なんて、本当に最低限のことしか」
僕はほめられて恥ずかしくなって、頭をかいた。
「あなたみたいに、ちゃんとパルミラ用の席を用意したり、しませんでしたし」
「私も、普通の旅行なら、パルミラには悪いけど椅子の前に座ってもらうわ」
彼女も恥ずかしそうに歯を見せて笑った。白いきれいな歯が並んでいた。
「……でも、今回の旅行は私にとって特別なの……。私の、オリジンをめぐるたび、だから」
「オリジン?」
僕は聞きなれない言葉に、戸惑い、聞き返した。
彼女は細い眉の下の青い瞳を僕に向けて、無言でまっすぐに頷いた。
「……私のおばあちゃん、そして、お母さんは、この国で生まれたの。で、日本のお父さんとの間に私が生まれて、お母さんは、この国を出た。……おばあちゃんだけ、残してね。で、そのおばあちゃんも、去年亡くなって……。そしたらね、その数日後に、大きな包が届いたの」
彼女はその時の驚きを表すかのように、手を身体の前に大きく広げて、丸く目を見開いた。
「開けてみたら、何ができたと思う……?」
彼女は、そういうと、彼女のうしろに隠れるように立っていたパルミラを、僕の前に引き出した。

「この子よ!」
僕はその時、彼女のパルミラを、初めて間近に見た。それは僕のと変わらない、ごく普通のパルミラだった。でも、どことなくその面影は、隣で微笑む青い瞳の彼女のそれに近いものがあった。
「……君に似ているね、何となく」
僕は感じたままを素直に言った。
「でしょ?」
彼女は目を糸のように細く引いて微笑んだ。笑うと、右側だけえくぼが出来た。
「……おばあちゃん、ずっと、機械の女の子なんて、気持ち悪くて嫌だって言ってたの。だから、きっと一人で暮らしてたんだと思ってた……。でも、私も、お母さん達も知らないところで、実はこの子と出会って、一緒に暮らしていたみたいなんだ。だから、私、これ見たとき思ったの。きっとおばあちゃん、私にずっと会いたかったんだろうなって……。」
彼女はそういうと、長い下まつげに彩られた目の端を、日に焼けた細い褐色の指先でそっとぬぐった。

「……お母さんが出ていく時、好きにしたらいいって言って、結局ここを離れたこと、一度もなかったのよね。それでも、気持ちは、私をいつも気にしていてくれた。そばにいたかった……。だから、その代わりとして、きっとこの子を愛していたんだろうなって思った。……人間って、完全に孤独では生きていけないじゃない?愛されなくてもいいけれど、愛する対象だけは、いつも必要だと思うから。……この子達のような」
彼女は、自分によく似たパルミラの瞳を、じっとのぞきこんだ。彼女のパルミラも、彼女の方を見て、にこやかにほほ笑んだ。
「この子は私より、おばあちゃんをずっと知ってる。本当は私に伝えたかったはずおばあちゃんの優しさだって、一杯見てきている。そして、なにより、おばあちゃんの、誰にも言えなかった寂しさも知ってる……。だから、私、この夏休みの間に、この子とこの街を旅行しようって決めたの。……だって、ここは、“彼女”の街だもの。彼女がいない旅行なんて考えられないわ」
そういうと、少女は、また目を細めて笑った。
少女のパルミラは、そんな彼女の表情を、下から見上げるように、じっと見つめていた。


その時、唐突に僕のパルミラが、僕の手をぐい、と引っ張った気がした。
僕は驚いて、自分のパルミラを見つめた。

僕のパルミラは、僕の視線を感じて、いつものように微笑んでいた。
別段、僕の手を引っ張ったような形跡もなかった。
「……どうしたの?」
青い目の少女が、僕の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
彼女のパルミラも、僕の顔を覗き込んでいる。
「……いや、なんか」
僕は、四つの目に見つめられて、なんだか少し照れくさくなって、下を向いた。
「僕のパルミラが、さっき、僕の手を引っ張ったような気がしたから」
「パルミラが?」
彼女はそう言うと、かがみ込んで、僕のパルミラの目の高さに自分の顔を持って行った。彼女は大きく目を開けて、僕のパルミラの漆黒の瞳の中を覗き込んでいる。僕のパルミラは、その視線を受けて、彼女の方を振り向き、そして、いつもの愛らしい笑顔で、彼女の強い視線に答えた。

……ふふっ。
おかしそうに彼女が笑った。
「パルミラが手を引っ張るなんて、聞いたこと無いけど……。でも、ホントだったらおかしいわね。この子、もしかしたら、焼き餅焼いちゃったのかな」
彼女は立ち上がり、口元に軽く手を当てて微笑みながら僕のパルミラを見下ろしていた。
「……あるいは、しびれを切らしたのかも」
「ママ達が買い物の帰りに、立ち話するような物かな?」
彼女はそう言うと、破顔一笑、声を上げて笑った。

「……おかしい!面白い子ね、あなたのパルミラ」