2012年4月3日火曜日


海の音が聞こえた。渚に座って、一人海を見ていた。あたりはすでに何もない真っ暗闇で、遠く港の街灯が、オレンジ色にぼんやりと霞んで見えていた。渚に打ち寄せる波の音というか、この日の暮れた埠頭の上では、コンクリートの隙間に入り込んだ波が行き場を失って空気を含んだような、とぷとぷという音が、程よい張りの太鼓の音色のように、やや不定期に響いていた。
すでにカモメも鳴いていない。翼をたたんで佇む数羽の鳥の群れが、黒い波間に見えたような気がしたが、あれは何か養殖用のいけすをつるす浮きだろうか。頼りなげに波に揺られ、上下に小刻みに揺れている。

「...みんなまだ騒いでるよ」
気がつけば君は僕の後ろに立ち、短いズボンから伸びた両足を軽く開いて微笑みかけていた。
「...あ、うん」
返事にもならない僕の返事は、果たして君に届いただろうか。それでも、君はゆっくりと僕の背中に歩み寄り、そしてそっと、隣りに座った。波間に揺れるカモメの群れは、さっきから変わらず上下に動き続けている。あるいは本当に、あれは生き物でも何でもなく、ただの浮きなのかもしれなかった。
「...なんか視えるの?」
同じ暗い夜を覗き込みながら、君はそっとそう言った。明るい合宿所の広間から出てきた目には、波間に浮かぶ浮きも、あるいは波の動きすらも良くは見えないはずだった。
「...ん、なんか」僕は言った。
「外っていいなあって思って」
当て所ない僕の答えに、君は思わずふっと笑ったようだった。だが、何か、自分の中にも触れるものがあったのか、君はその答えを特に茶化すこともせず、静かに飲み込んだようだった。
「...相変わらず、だめか、みんなと騒ぐのは」
僕は揺れる波間からそっと目を逸らした。人と一緒に騒げない自分自身にこういう夜は特に嫌気が指していた。我を忘れて騒ぐことをどこか恐れる自分自身の呪縛のようなものから、僕はずっと自由になりたいと思っていた。みんなと一緒になって、騒ぐことのできない自分自身に、罪悪感を感じることも度々だった。今日のように、特に今日のように、遠い海辺の合宿所まで、仲間たちだけで出かけてきたような夜には、その気持ちはいつにもまして大きくなるのだった。
「よく一人でいるよね。こういう飲み会の時」
君は僕を見透かしているようだった。
「...」
僕は答える言葉が見つからなかった。
君は何も言わず、海を見つめていた。時折手元を見つめ、足元に転がる小さな言葉を拾い集めているかのように、指先で波打ち際のコンクリートをなぞった。
「本当は...、私も似たようなもんなのかもしれない」
君は言った。
「人と一緒に騒いでいても、どこか、冷たい目をした自分が、自分自身を見ている。こんなことしたら失礼だとか、あの人はこんな気持ちで言ったんじゃないかとか、そんなひとを詮索するようなことを...、ずっとし続けてる」
君はそこで一瞬言葉を切り、そして続けた。
「どうやったら、どうやったら、心の底から、今を楽しめるんだろうね、何の疑いも、細かいことなんて一切、考えずにさ」
ふと、君はなにか思い出したようだった。
「うちで、犬買ってるって話、したっけ?」
僕はうなづいた。大きな白いラブラドールを飼っているという話を僕は以前聞いたことがあった。
「犬はさ、見てるとほんとお馬鹿だなって思うんだ、こっちが何かし始めると、本気で遊び始めるし、ほんとに、見境なく、全力で...、もの投げると今まで見たことのないくらいのスピードで飛んでって、そして息切らして帰ってくるでしょ、ほんとに、何回でも何回でも、しっぽちぎれるんじゃないかってくらい、振り回して」
君の声は目の前に今は存在しない、そのラブラドールの若犬に語りかけるように明るく弾むようだった。
「あたしもさ、最後には呆れちゃって思わず『おばか』って言っちゃうんだけど...、でも、憧れてるんだ。犬みたいになりたいって、心の底で思っちゃうんだ」
少し恥ずかしそうに、君は声を潜めた。
「人間に生まれてよかったって、いつも思っているけど、でも、時々わからなくなる。なんにもわからなくて、お馬鹿な犬だけど、ある意味では、あれは幸せなんじゃないのかな...、何から何まで、考え過ぎちゃうのって、人間の持って生まれた不幸なんじゃないかなって、ふっと思うんだよね」
「...荷物?」
「そう、荷物」
君は僕の方を見て笑った。
「荷物だよ、この大きな、無駄に大きな人間の脳みそ。こんなに重く無くたって生きてる動物、いっぱいいるのにさ」
君は重い荷物を持ち上げるように、よっ、と勢いをつけて立ち上がった。尻についた砂を、左手で払った。
「どうして、こんなに何でもかんでも抱え込んで、わざわざ好き好んで複雑に生きてくんだろう、この生き物。何も知らずに、まっすぐに犬みたいに喜べる動物にどうして生まれなかったのかな」
波はまだ、とぷとぷと不規則に音を立てて揺らいでいた。僕のそばに立つ君は、闇に伸びる銀色の鉄塔か何かのように、色の薄い星の浮かぶ夜空に、そそり立っていた。ここに来る前に、先に風呂にでも入っていたのか、微かに石鹸のような、甘くさわやかな香りがした。

波間に浮かぶ鳥たちは、まだ動こうとしなかった。僕らの目には捉えられない、規則性の波に揺られて、その影は上下に揺れ続けていた。以前は僕らも、こうして波に揺れる鳥のように、流れに身を預けて生きていた時期があった。しかし、一人で立つことを覚え、話すことを知ってからは、波に流れを任すすべもひょっとしたら失ってしまったのかもしれない。立ち上がるということは、この重い頭を不自然に高いところまで持ちあげるということだ、重力の摂理から最も遠い位置にまでそのポイントを遠ざけるということだ。

僕の傍らにそそり立つ、銀の鉄塔のような君は、立ったまま海を見ていた。光を忘れた灯台のように、暗く揺れる波を見つめていた。
「...さて、行こう」
君は闇の中でそう言って僕を促した。
波に揺れることに焦がれていながら、すでに自らの足で立つことを覚えた君は、暗い荷物に振り回される僕のそばにつかず離れずの距離で立って、一歩一歩歩幅を確かめるように前に進み始めた。

あの日の小さな君の影を、僕はまだ追い続けているのかもしれない。