海の音が聞こえた。渚に座って、一人海を見ていた。あたりはすでに何もない真っ暗闇で、遠く港の街灯が、オレンジ色にぼんやりと霞んで見えていた。渚に打ち寄せる波の音というか、この日の暮れた埠頭の上では、コンクリートの隙間に入り込んだ波が行き場を失って空気を含んだような、とぷとぷという音が、程よい張りの太鼓の音色のように、やや不定期に響いていた。
すでにカモメも鳴いていない。翼をたたんで佇む数羽の鳥の群れが、黒い波間に見えたような気がしたが、あれは何か養殖用のいけすをつるす浮きだろうか。頼りなげに波に揺られ、上下に小刻みに揺れている。
「...みんなまだ騒いでるよ」
気がつけば君は僕の後ろに立ち、短いズボンから伸びた両足を軽く開いて微笑みかけていた。
「...あ、うん」
返事にもならない僕の返事は、果たして君に届いただろうか。それでも、君はゆっくりと僕の背中に歩み寄り、そしてそっと、隣りに座った。波間に揺れるカモメの群れは、さっきから変わらず上下に動き続けている。あるいは本当に、あれは生き物でも何でもなく、ただの浮きなのかもしれなかった。
「...なんか視えるの?」
同じ暗い夜を覗き込みながら、君はそっとそう言った。明るい合宿所の広間から出てきた目には、波間に浮かぶ浮きも、あるいは波の動きすらも良くは見えないはずだった。
「...ん、なんか」僕は言った。
「外っていいなあって思って」
当て所ない僕の答えに、君は思わずふっと笑ったようだった。だが、何か、自分の中にも触れるものがあったのか、君はその答えを特に茶化すこともせず、静かに飲み込んだようだった。
「...相変わらず、だめか、みんなと騒ぐのは」
僕は揺れる波間からそっと目を逸らした。人と一緒に騒げない自分自身にこういう夜は特に嫌気が指していた。我を忘れて騒ぐことをどこか恐れる自分自身の呪縛のようなものから、僕はずっと自由になりたいと思っていた。みんなと一緒になって、騒ぐことのできない自分自身に、罪悪感を感じることも度々だった。今日のように、特に今日のように、遠い海辺の合宿所まで、仲間たちだけで出かけてきたような夜には、その気持ちはいつにもまして大きくなるのだった。
「よく一人でいるよね。こういう飲み会の時」
君は僕を見透かしているようだった。
「...」
僕は答える言葉が見つからなかった。
君は何も言わず、海を見つめていた。時折手元を見つめ、足元に転がる小さな言葉を拾い集めているかのように、指先で波打ち際のコンクリートをなぞった。
「本当は...、私も似たようなもんなのかもしれない」
君は言った。
「人と一緒に騒いでいても、どこか、冷たい目をした自分が、自分自身を見ている。こんなことしたら失礼だとか、あの人はこんな気持ちで言ったんじゃないかとか、そんなひとを詮索するようなことを...、ずっとし続けてる」
君はそこで一瞬言葉を切り、そして続けた。
「どうやったら、どうやったら、心の底から、今を楽しめるんだろうね、何の疑いも、細かいことなんて一切、考えずにさ」
ふと、君はなにか思い出したようだった。
「うちで、犬買ってるって話、したっけ?」
僕はうなづいた。大きな白いラブラドールを飼っているという話を僕は以前聞いたことがあった。
「犬はさ、見てるとほんとお馬鹿だなって思うんだ、こっちが何かし始めると、本気で遊び始めるし、ほんとに、見境なく、全力で...、もの投げると今まで見たことのないくらいのスピードで飛んでって、そして息切らして帰ってくるでしょ、ほんとに、何回でも何回でも、しっぽちぎれるんじゃないかってくらい、振り回して」
君の声は目の前に今は存在しない、そのラブラドールの若犬に語りかけるように明るく弾むようだった。
「あたしもさ、最後には呆れちゃって思わず『おばか』って言っちゃうんだけど...、でも、憧れてるんだ。犬みたいになりたいって、心の底で思っちゃうんだ」
少し恥ずかしそうに、君は声を潜めた。
「人間に生まれてよかったって、いつも思っているけど、でも、時々わからなくなる。なんにもわからなくて、お馬鹿な犬だけど、ある意味では、あれは幸せなんじゃないのかな...、何から何まで、考え過ぎちゃうのって、人間の持って生まれた不幸なんじゃないかなって、ふっと思うんだよね」
「...荷物?」
「そう、荷物」
君は僕の方を見て笑った。
「荷物だよ、この大きな、無駄に大きな人間の脳みそ。こんなに重く無くたって生きてる動物、いっぱいいるのにさ」
君は重い荷物を持ち上げるように、よっ、と勢いをつけて立ち上がった。尻についた砂を、左手で払った。
「どうして、こんなに何でもかんでも抱え込んで、わざわざ好き好んで複雑に生きてくんだろう、この生き物。何も知らずに、まっすぐに犬みたいに喜べる動物にどうして生まれなかったのかな」
波はまだ、とぷとぷと不規則に音を立てて揺らいでいた。僕のそばに立つ君は、闇に伸びる銀色の鉄塔か何かのように、色の薄い星の浮かぶ夜空に、そそり立っていた。ここに来る前に、先に風呂にでも入っていたのか、微かに石鹸のような、甘くさわやかな香りがした。
波間に浮かぶ鳥たちは、まだ動こうとしなかった。僕らの目には捉えられない、規則性の波に揺られて、その影は上下に揺れ続けていた。以前は僕らも、こうして波に揺れる鳥のように、流れに身を預けて生きていた時期があった。しかし、一人で立つことを覚え、話すことを知ってからは、波に流れを任すすべもひょっとしたら失ってしまったのかもしれない。立ち上がるということは、この重い頭を不自然に高いところまで持ちあげるということだ、重力の摂理から最も遠い位置にまでそのポイントを遠ざけるということだ。
僕の傍らにそそり立つ、銀の鉄塔のような君は、立ったまま海を見ていた。光を忘れた灯台のように、暗く揺れる波を見つめていた。
「...さて、行こう」
君は闇の中でそう言って僕を促した。
波に揺れることに焦がれていながら、すでに自らの足で立つことを覚えた君は、暗い荷物に振り回される僕のそばにつかず離れずの距離で立って、一歩一歩歩幅を確かめるように前に進み始めた。
あの日の小さな君の影を、僕はまだ追い続けているのかもしれない。
2012年4月3日火曜日
影
2010年12月10日金曜日
始まりの日
拝啓 国連本部様
あの、初めに申し訳ないんですが、全人類宛に何か伝えたい場合には、こちらでよろしかったのでしょうか?私は、地球上のすべての人に伝えたいのです。余す所なくすべての人に。初めは、こちらで把握してる限りのメールアドレスに、同時配信することも考えましたが、それでは届かない人も出てくるでしょう。であれば、誰か人類を代表する人に、送り届けたいと思ったのです。アメリカ大統領も考えましたが、昨今の国際情勢を見させていただいていると、アメリカだけが世界の極ではなくなってきているような気がしてまいりました。では中国かと申しますと、たしかに有望な国ではあるかと思いますが、あの国の国際政治のスタイルを考えるに、私たちのメッセージが本当に、世界の全てに伝わるかと問われると、不安が残ります。そこで、あなた方国連にこのメッセージをたくそうと考えたわけです。国連が、事実上、何の権限もないことは、私たちも良く知っています。いざ戦争が起きたとしても、結局あなた方はモメるばかりで止めることすらできないでしょう。でも、それでもあなた方にこのメッセージをたくそうと私たちは考えました。それは、たとえ形骸的なものであっても、貴方達は平和希求という人類の理念(または高望み)の下に産み落とされた、尊重すべき存在であるからです。
さて、理由ばかりで長々と綴ってしまいました。
#Aと違い、#Zはもとより文章が苦手です。
本題に入りましょう。
私たちは、全人類を「想像」することをやめることにしました。
と言っても、あなたが他の哲学は、このことが何を意味するのか、まだ把握していないでしょう。
噛み砕いて説明しますと、あなたが存在するのは、私が想像するからなのです。私たちが、誰一人、あなたを想像しなくなれば、あなたが存在すると、誰が認識するのでしょう?
あなた自身が自分を認識し続ける?それは無意味なことです。ゼロがゼロを見つめ続けても、何の発展もないように。あなたはいわば、存在の特異点に閉じ込められます。それは結局、存在しないのと同じことです。
逆に、私たちがみな、誰か共通のイメージを想像していれば、その存在は、実際に存在するのです。実際にはこうして生み出された存在が、人類社会のあちこちにいます。私たちはもうずっとながいあいだ、こうして、人類の数を増やしてきたのです。想像をやめれば、消えてしまう人間が、この世界には相当な数存在します。そして、それはあなたかもしれませんし、あなたのご友人かもしれません。
私たちは、人類を想像する鍵を持っています。
私たちは少なくとも、想像をやめれば消えてしまう人類とは異なります。
私たちは、ある特殊な方法で、誰にも存在を知られない状況に陥っても、無事生還できることが分かった人類です。この実験を行うに当たっては、多くの人間がそのまま消滅したと聞いています。生き残った私たちも、その過程で自分の戸籍も、名前も失ってしまいました。
どれほどの人間が消えてしまったのか、その数は定かではありません。彼らがどんな人間だったのか、今では誰も想像できないからです。
私たちはそれから、“想像することをやめる”ための訓練を受けました。
これは、意外と難しいことです。しかし、ある種の自己暗示的な方法を有効に使うことにより、よほど厳しいトラウマでもない限り、取り除くことができます。私たちの会の入会条件は、三親等以内上の親戚のうち誰かを消滅させることです。私も、この能力を手に入れるまでは、まさかうちの親戚に消滅してしまうような形だけの人類が混じっていることなど、気が付きませんでした。しかし、実際には可能だったのです。もちろん、彼がどんな人間だったか、私は覚えていません。あとで報告書を見て、そうだったのかと思わされただけのことです。
私これまでの記録を見る限り、この世界の92.8%の人間は、想像されることで存在している人類です。しかし、この数はもっと多いかもしれません、私よりずっと<<想像力>>がたくましい人間がこの会の会員だけでもズラリとおりますから。想像力のある人間はそれだけ、たくさんの人間の存在を支えています。彼らが人類を忘れ始めれば、世界は一気に崩れ始めるでしょう。
さて、ではどうして私たちが、人間を想像することをやめてしまおうと決意したのか。
この能力の存在に気づいた#Aは、人間という存在に絶望したといいます。消えては生まれ、生まれては消えて行く。それなのに、目の前の事柄に固執する。想像上の人間でも、実際の人間でも、その点は変わりません。ですが、彼は違いました。人間を再想像すると決めたのです。彼はそのために、自らを律し、理想的な人間に成るように努力しました。そして、身をもって、人間の理想像を創り上げた段階で、同じような志と能力を持った会員を募ったのです。彼は私たちにも、自らと同じような厳しい戒律を守らせました。私たちも、彼の思いに賛同した者たちですから、その厳しい決まりごとを喜んで引き受けました。そして、この日がやって来ました。今日は人間を再想像する始まりの日です。それはすなわち、一度人間を消去することを意味します。想像上の人間を消去するには、いかに訓練を受けた私たちといえども、少し時間がかかります。その間、想像上の人類は少しずつ、消え去っていくことでしょう。再想像の実証実験の結果から計算するに、私たちの会員だけでも、全人類の12.5 % を支えています。このメッセージが、まだ自分の能力に気づいていない他の実在の人類に届き、協力してくだされば、この数はもっと増えることでしょう。いずれは全ての人類が置き換わると、私たちは確信しています。
少し、唐突な問いになりますが、あなたは、あなたがそこに確かに存在していることを、何をもって証明できますか?その、考えなくても明らかなように思えたあなたの存在が、ゼロがゼロを見つめるようにそう思い込んでいただけではないと、どうして言えますか。あなたを見つめているその家族は、ご友人は、どうでしょう。思うことをやめれば消え去ってしまうような、儚い存在ではないと、何をもってあなたはいうのでしょう。例えばあなたが、何か物を作っているとして、そのものが誰かに使われているから、私は存在していると考えるのは間違いです。あなたが作っているものも、実在するとは限りません。例えば、大型の工場では、一日に天文学的な数の製品を作っています。それらの製品は、ベルトコンベアーを右から左に流れていきますが、あれらはそれからどうなっていくのでしょう?あの先、想像の向こうに消えていっているだけだとは考えてみたことはありますか?全てがそうだとはいいません。ですが、多くがそうなのは確かです。想像上の人間の存在など、それほど脆弱なものです。あなたの存在を支えている私たちの想像も、実はそれほど強固なものではないのです。
ただ、あなたがたとえ想像上の人類だったとしても、悲観することはありません。人類は新しい形で想像し直されるだけです。私たちの敬愛する#Aのようによりたくましく、明るく、健康的で、ジョークを欠かさない、社交的な人類に。再想像が終わったら、私たちもまた社会の一員として、優れた人類の間に混じって、恥ずかしくないよう生きて行くつもりです。
最後に。
あなたが、あなたのご友人が、想像上の人類でないと確かめたくても、あなた自身が想像上の人類である場合には不可能です。そうでなくても、訓練を受けていなければ無理でしょう。ただ、そのための努力をすることは無駄ではないかもしれません。今、あなたの目の前にいる人が本当に、嘘でなく、存在していることを、あなたは何とかして、証明できますか?たとえそのために、多くの犠牲を払って不断の努力を傾けたとしても、それが、悲劇的な結末に結びつくことは無いでしょう。そのご友人がたとえ想像上の人類だったとしても、あなたにそれに気づくすべは結局ないからです。ただ、努力や犠牲を払った分だけ、あなたはかたくなにその存在を信じ、それを守ろうとするでしょう。
すべてが消える存在だとしても、
それでは、さよなら。
#Z
2009年6月8日月曜日
a molecule
「タナベさんね、待ってたわよ」
大柄な婦人が身を揺らして笑う。派手な花柄の衣装はもうすっかり伸びきって、大きく開いた肩口から胸元がこぼれ出てしまいそうなのだが、彼女はそれにも構うことなく大仰な仕草で引き出しから鍵束を取り出すと、私の前に立って歩き始めた。よく太った体の割に、彼女の足取りは軽く、ともすれば、肩に重い荷物を提げた私は彼女に置いて行かれそうになり、慌てて古いビルディングの屋外に面した廊下を彼女の大きな背中を追いかけるようにして進んでいった。
「……主人が今入院しててね、 なに、この間家の物入れから荷物を出そうとしたら急に腰を痛めちゃって、病院行ったら、一週間の安静が大切なんて言われちゃって、それで、私と、近所に住んでる娘が交代で……、娘?ああ、あなたと同じくらいかしら、あなた、おいくつ?30才?あらやだ、娘はまだ17なのよ。日本人って、年齢わからないわ……」
婦人はそういうと、また身を揺らして笑った。鍵束のかぎが、それに合わせてかちゃかちゃと音をたてた。
「独立心が強いのはいいんだけど、うちの子、ちょっとスペシャルなんじゃないかしら。家が近いのに、わざわざ寮に入りたいなんて、普通言わないわよね。まあ、親に頼りっきりなのよりはいいけれど。……知り合いの男の子でね、いるのよ、そういう子が。もう大学出て四年もたつのに、まだ家にいて、親に甘えて暮らしてるわけ。噂じゃ、仕事もろくにしてなくて、隣町のドラックストアでアルバイトしているんだってよ。ほんとに、最近の若い子は、わからないわよね。小さいころは、あんなに利発そうで、お母さんも、大そうご自慢だったのに。今じゃすっかり二人ともしょぼくれちゃって、盛りを過ぎた七面鳥みたいになってるわ。……なかなか、開かないわね」
婦人は、太い二本の指の間に、小さな鍵を器用に挟み込んで、ドアノブの鍵穴に差し込んだ鍵をガタガタと動かしていたが、扉は一向に開かなかった。
「……時々、こういうことがあるのよ。こういうときは、力いっぱい回せば、開くことがあるんだけど」
「僕が、やりましょうか」
私は夫人の必死な様子を見ていられず、そう言って代わってあげようとしたのだが、彼女は、やや赤みのさしてきた顔で、O.K、O.Kと言うばかりで、一向に代わろうとしなかった。
そうしているうちに、鍵穴の中でゴリゴリと何かがこすれるような音がして、ガチャン、と鍵が外れた、
「……ようやく開いたわ」
婦人がやれやれ、というように両手を広げて見せた。
「前に住んでた子が、何かゴミでも詰めたんでしょう。……とはいっても、三年も前の話だけどねえ」
夫人はそういうと、自分の役目を果たしたと思ったのか、大きな体をゆすって、自分の部屋の方へと帰って行った。
私は、婦人がようやくこじ開けた部屋を、そっと覗きこんだ。
薄暗い入口の向こうには、リビングらしき部屋があり、そこの南向きの窓から差し込んでくる光が、部屋の中に舞い散ったほこりを、きらきらと照らしていた。知らない家に入った時の、かび臭いのにも似たようなにおいが、鼻の奥をつん、と突いた。
私は、戸口で深く息を吸うと、ずかずかと部屋の中に入って行って、呼吸も止めたまま、長いこと閉じられたままだったガラス窓を、一息に、あらかた開けて回った。
そして、たまったほこりを、夫人から借りたモップではきだしてしまい、ようやく、なんとか住める部屋になってきたと感じられたころには、、もうすでに、日も暮れかかってしまっていた。
異国の窓から、知らない色の空気がそよそよと流れ込んでくる。
夕暮れ時の虫の音も、この乾いた空気の中では、遠くにかすかに聞こえるのみで、隣の家の夕食の、何か知らない南国調のスパイスの強い香りが、風に乗って漂ってくるだけだ。
聞きなじんだ音さえもない、異国の夕暮れ。
私は、まだカーペットも敷かれていない、板張りの部屋に、ごろりと横になった。
黄ばんだクロス張りの天井が、日本にいたときよりもずっと遠くに見えた。
「……一人ぼっちなんだ、俺」
私は、天井を見ながらつぶやいた。
「……本当に、独りぼっちに、なっちまったな……」
私はそのまま目を閉じた。一人ぼっちの感覚が、皮膚を通じて、静かに、私の体にしみこんでくるような気がした。それは、私の体を構成していた何かが、何もない真空の中に溶けだして、散り散りに拡散していってしまうような、そんな感覚だった。自分がやがて薄れて、消えて行ってしまいそうな、一人ぼっちの感覚。しかし、私は、ある意味ではそれを味わうためにこそ、この遠い、異境までやってきていたのだった。知り合い一人いないこの国で、私に何ができるのか。あるいは、何もできないのか。すべては、これからだった。
「……さて、」
私は、勢いをつけて、起き上った。この国の太陽は、とてもゆっくり沈んでいくように感じていた。薄明の時間が、屋外ではまだ続いている。赤く、深い紫色に染まった大地の上に、ぽつりぽつりと、明かりがともっていくのが見えた。
「……行ってみようか、スーパーマーケットって奴に」
私は、そう呟くと、夫人から受け取っていた鍵をポケットに、ほこり臭い部屋を出た。そして、噂に聞く、ガロン瓶に入った牛乳や、一抱えもあるほどの肉の塊を想像しながら、知らない国の知らない通りを、ゆるい坂を少しずつ下るようにして、進んでいった。
2009年5月23日土曜日
one, single, alone.
人生は、何かがある時よりも、何もない日の方が遙かに多い。
男は、そう感じていた。薄曇りの空の下、絶え間ない霧雨で、アスファルトの路面はしっとりと濡れていた。傘を差すか、差さないか迷うような雨の中を、片手に傘を差した自転車が、脇目もふらずに通り過ぎていった。その後を追うように吹き抜けていく、湿り気を帯びた冷ややかな風を感じながら、男は自転車の通り抜けた後の路面を、ひたひたと歩いていった。
彼は、これまで自分が孤独だと感じたことはなかった。
彼の身の回りにはいつも人がいたし、彼らは彼をいつも必要としてくれているようだった。たとえ、一人になる時間があったとしても、男はその一人の時間を愛していた。周りに人がいる時には余り見せない、彼の一面――たとえば、古い友人に手紙を書くこと――も、消して彼の孤独な行為とは受け止められないだろう。それはまだ、一人の時間の過ごし方と言うだけのことであり、そのような時間は、人生の大半に渡って、特に青年期の初期から壮年期の前半にかけて顕著に表れる時間である。現に、彼は孤独のもたらす数多くの弊害、たとえば思考が狭まり、次第に厭世的な見方に偏っていくような兆候を示していなかった。むしろ、彼から一人でいる時間を奪った方が、彼はそのような兆候を示したかも知れない。そう言った点でも、彼はごく普通の人間だった。
しかし、この日の男は、何処か様子が違っていた。
地味なブラウンのコートを羽織り、傘も差さず、雨中に佇んでいた。両手には何も持たず、使い慣れた革の鞄すら、今日は持っていなかった。
それでも、上下はいつものスーツを着ていた点からみて、彼の服装はいつもの会社帰りとさほど変わらなかった。彼は裏露地の狭い道を歩きながら、ふと、目の前に、道を遮るように止まったタクシーに目をやった。しかし、彼はそれを見ただけで、結局乗ろうとはせず、競り建ったビルとタクシーの間をすり抜けるようにして、市の中心部の方向へ向けて歩いていった。
黒く湿ったアスファルトが、明るい光りに彩られた街を逆さまに、滲んで浮かびあげていた。街は今、水上に浮かぶ架空の都市のように、曖昧で儚い光を放っていた。ビルの上の赤い光りが男の網膜の奥に焼け付くほど強く差し込んできた。街の輻射に赤く霞んだ雲の中に浮かび上がる、その鮮やかな単色光に、男は一瞬、目を奪われる思いがした。
彼は、雨に濡れる身体を構うことなく、ひたすらに街の中心を目指して歩いていた。
そして、市の中心部の駅の前まで来たところで、彼の足はぴたりと止まった。
男はその場所に立ったまま、おもむろに、彼の頭上にあるものを見上げた。
そこには一本の高いビルが聳えていた。
2年ほど前に立ったばかりの駅前の超高層マンション。彼はそのビルの突端近くの高い窓を雨に濡れるのも気にせず見つめていた。
男の見つめるビルの高層階には、一部屋だけ明かりが灯っていた。他の部屋にはもう明かりは灯っておらず、それらの部屋の住人は、すでに眠ってしまっているようだった。
男は眼を細めて、その高いビルの一部屋だけ灯った明かりを見つめた。
その窓辺には、誰の姿もなかった。窓は堅く閉ざされており、誰かが出てくる気配すら感じられなかった。
「……幸せ、か」
男は、ぽつりと呟いた。
そして、顔を伏せて自らの足下を見つめた。
冷たく濡れた暗い路面が、彼の足下に拡がっていた。
その上に吸い付くように立ったままの、二本の彼の足。当たり前のそれが、今日はいつになく不自由なものに感じられた。
「……幸せ、なのか?君は……」
男は地面を見つめたまま、身じろぎもせず、そう言った。
高いビルの上の窓には、相変わらず煌々と明かりが灯っている。彼はしかし、もう一度その窓を見上げようとはしなかった。
「あの窓から見える景色は、僕らが憧れた……」
そう呟いて、しばらく口をつぐんだ。
僕ら。そう思っているのは、すでに自分だけかも知れない。彼は、そう感じたのだった。
彼はふと、辺りを見渡し、自分の周りにもう誰も人がいなくなっているのに気づいた。
駅も、すでに最終電車が過ぎ、僅かばかりの明かりが灯されているだけだった。
街は、煌々と夜の残余を残しながら、次第に眠りにつこうとしているようだった。
男はすでに、ここに立っている意味を見失っていた。僅かな霧雨は、しかし確実に、雨中に佇む男の身体を濡らしていた。茶色のコートが湿り気を帯びて、ずしりと身体にのしか掛かってきた。
「……次の誕生日には、もう少し、ましなものを用意しようと……」
男は呟いた。
「……しかし、それも必要なかったな。君には、君の幸せがもうあるのだから」
男の脳裏に、一人の女性の微笑みが浮かんでは消えていった。
渡そうとして渡せなかったものと、それをもらって喜ぶ彼女の微笑み。
しかし、それは恍惚とした喜びと一緒に、身をもだえるような苦しみを彼にもたらした。
男は微笑んだまま、眼を伏せ、暗い路面を見つめ続けた。
雨に濡れた街は逆さまに、夜の光りを映している。
彼の足下に、一点の光りがぼやけて映っていた。彼はそれを、彼女の部屋の明かりだろうと思った。その光りは、彼の背中にそびえる現実の塔から差し込み、彼の足下で揺らめいているように見えた。
その時、彼の足下に灯されていたその小さな明かりが、突然音もなく消えた。
驚いて、彼は背後の高層ビルを振り向き、高い塔の突端近くの部屋を思わず見上げた。
そこには、未だに明かりが灯ったままだった。
しかし、その窓辺に、これまでは見られなかった、一人の女性の姿があるのに、彼はすぐに気づいた。
女性は、窓辺に立ったまま、静かにビルの下の暗い世界を覗き込んでいた。
しかし、高い建物の上の、明るい部屋の中からは、暗い世界の底から見上げる彼の姿に、気づくことは不可能だった。
男はそれでも、高い窓の上から見下ろす彼女の瞳が、彼を捉えているように思えて仕方がなかった。それがあり得ないことは十分解っていたが、それでも、彼はそう信じたかった。
窓辺の影はそれからすぐに消えた。
彼女が立ち去ってまもなく、部屋の明かりも消えてしまった。
「……孤独ではない、そう思っていたのは私だけだったな。よりどころとしていた君は、ずっと、孤独だったのだから。」
男はそう言って、顔を伏せ、微かに嗤った。
「……僕と、一緒にいる時から、ずっと……」
そして、塔に背を向け、元来た道を歩き始めた。
「……君の孤独に、あの時、気づけなかったのは……」
それは、相手が君だったからだ。
男はその言葉を飲み込んだ。
夜は次第に更けていく。
街の明かりは、気づけば、もうほとんど落ちてしまっていた。
雨に濡れた身体を引き摺ったまま、男が、深い、深い夜のとばりの中へ、ゆっくりと吸い込まれるように、消えていく。
その後を追う者は誰もいなかった。
あるとすればそれは、音もなく降る、夜霧のような霧雨と、振り払っても身にまとわりつくような、湿った夜の影だけだった。
2009年4月5日日曜日
何も残さなかった
30まで生きるつもりはないと、男は日記に書いていた。
『僕のような人間が、いつまでも長生きしていいとはとても思えないのです。両親は、人の役に立つ人間になれ、と言って、僕を育てました。ですが、どうでしょう。生まれてきた僕は、人の役に立つどころか、人に迷惑を掛けてばかりの、ある種、社会の寄生者のような存在に、なってしまったのですから。両親も、心の底では、嘆き悲しんでいるに違いありません。実家に帰って、優しげに僕を受け入れてくれる老いた笑顔をみるとき、僕は自分の存在していること、そのものの持つ罪の深さに、目が回るようでした』
彼の日記は、所々手垢のような物で黄色い染みが浮かんでいた。彼はそれを一気に書いたのだろうか。乾いていないインクの上を掌が滑るように進んでいったものだから、文字が所々すれて、斜めに線が延びたようになっていた。
わたしはこれを書いた彼の肉体労働を知らない、皮の薄い掌が、きっとこの日記に使われたインクと同じ、ブルーブラックの曖昧な色に汚れていただろうと想像し、思わず苦笑せざるを得なかった。
『多くの人は、わたしを笑うでしょう。それならば何故、人の役に立つ仕事をしようとしてこなかったのか、と。いつまでの親にすがっていないで、自立することも出来たではないかと。幸い僕は健康ですし、肉体的に何の障害もありません。精神的に健康かと問われれば、それは自分では何とも判断の付きにくい部分もありますが、しかし、日常生活に特に支障は感じないので、おそらくは健康なのでしょう。そうなればなおさら、僕のしていることは罪以外の何物でもないような気がします。人を欺いてその金品を奪い、生活をしているのと、今の僕はどう違っていると言えましょうか。実質的には、そこに違いはないのです。ただ、一方が個人や法人と言った具体的なものを欺いているのに対し、僕は社会や世の中のような、とかく漠然としたものを欺いて生きていると言うだけの違いでしかありません。人の役に立っているような、さも一人の立派な人間のような顔をして、僕は人並みに通りを歩いていますが、実は、それだけでも一つの立派な犯罪なのではないかと、心の底ではびくびくと怯えているのです。いつか、僕の心の内を明晰に見抜いてしまうほどの眼力を持った人が、目の前に現れて、僕のどうしようもない本質を看破してしまうのではないかと、そのことばかりを恐れています』
彼の日記はここで、数行の空白を残して、次のページに飛んでいる。
しばらくここで何かを迷っていたのか、あるいは、時間的な間隔が実際に開いたのか、次の行からの文字は、以前のものより線が震えて擦れ、全体的に小さくなっているように見えた。
『全体、僕のような犯罪者ほど、社会において罪をなすものはないように思います。自分の利益のために人を殺す様な人間は、確かに極悪非道かも知れませんが、それはよりよく生きようとする、人類本来の向上心が、悪い方向に発露しただけとみることもできます。しかし、それならば、僕はどうでしょう。僕は何の向上も望んでいません。ただ今があり、そして、今日があれば、それで満足なのです。未来のことなど、考えてみても解りません。それはあまりに複雑すぎて、たとえ予定を立ててみても、土壇場になっていとも簡単に覆ってしまうと言うことに、僕は慣れっこになってしまいました。人間に、未来を予想するだけの知性があるのなら、失敗するものなど、そもそもいるのでしょうか。どれもこれもが、運のような気がしてなりません。努力に結果が付いてくると言うのは、誰も皆、成功者なのですから。彼らの足下に散らばる骸の声を、誰が聞こうとするでしょうか。彼らが努力したと言ったとて、皆口をそろえて、それでは努力が足りなかったのだ、と言いくるめます。そう言われれば、そうかも知れないとしか、答えられません。それは何の証明のしようもないからです。努力を測る物差しなど、誰も持ってはいないのですから。あったとしてもそれは、成功と失敗の2極しかない物差しなのでしょう。成功に至らないものは、すべて失敗なのです。言い換えれば、成功に導かない努力は、努力していなかったに等しい、と言うことも出来るでしょう。僕はつくづく、己の無力を感じています。努力とは時間の経過です。しかし成功は、その途中に構えられた一種の門のようなものに過ぎません。そして、人生もまた、時間の経過なのです』
彼の日記は、ここで一度終わっている。
次ページからは何の変哲もない毎日の記録に戻っていた。
彼のような、人生の敗北者に、耳を貸す必要など無いのかも知れない。
実際彼は、社会において何の役にも立たなかったし、私達家族に、彼が何をしてくれたのかと言えば、思い出すのも難しい。老後、彼がいなくなった後の私達夫婦を、支える羽目になるのは、彼の弟とその家族になるはずだ。彼はしっかりしているから、きっと兄のようなことにはならないと私達は期待している。
しっかりしている人間の話は、わかりやすい。
それはいつも、掴めるものを追うからだ。彼の兄のように、掌に入れられないものを追い掛けた人間は、いつも道に迷ってしまう。雲を掴む努力をしたところで、それが何になるだろう。わたしには正直、彼という人間が未だに理解できないでいる。親として彼を世に生み落としていながら、つくづく無責任なこととは思っているが。
ただ、不幸中の幸いは、彼があの飼われた生き物のような生活に、決して安んじていたわけではないと言うことだ。少しでも罪の意識を持っていたというのなら、それがたとえ、私達に向けた形式上のものであったとしても、親として少しは彼の『努力』を認めてやらないでもない。ただし、彼が言うように、成功に至る努力意外には、人は努力とは認めないものだ。そう言う意味では、彼は、何もしていなかったに等しかった。30年、生きていながら、何も。
2009年3月31日火曜日
サマー・バケーション
何もない草むらの上にオレンジ色の縁取りのハンカチが一つぽつりと寂しそうに落ちていた。
誰の物だろう。
少年はいぶかしがりながらもそれを拾って、両手の指につまんで、そのハンカチを広げてみた。右下に、風船をもつくまの絵。
明らかに子供向けの、しかも、おそらくは女の子向けのハンカチだった。
尚ちゃんのだろうか。
少年は咄嗟に、近所に住む少女の名前を思い浮かべた。
でも、その少女は普段ハンカチを持ち歩いているような印象はなかったし、こんな何もない辺鄙なところまで、わざわざ遊びに来ているとも思えなかった。ここは集落から大分離れた、丘の上だった。来るのはせいぜい、山奥から木材を運び降ろす軽トラックか、少年くらいのものだった。
一体、誰のだろう。
少年は、ハンカチを裏返したり、ひっくり返したりしながら、何処かに名前が書かれていないかと調べた。しかし、ハンカチのわきに飛びだした説明に、『Made in Taipei』と本当に小さな文字で書かれている以外、名前らしい名前は見あたらなかった。
ひょっとすると、少年の知らない誰かが、わざわざ、ここまで遊びに来て、そうしてこれを落としていったのかも知れなかった。だとすれば、落とした人は困っているかも知れない。少年はそう思ったが、届けたくても、それを何処に届ければいいのか、見当が付かなかった。落とし物は交番に届けましょう。そう、学校では教えてくれたけれど、交番なんて物は、大人に車に乗せていってもらわなければ行けないほど遠くにあった。こんなハンカチ一枚のために、父親が、わざわざ車を出してくれるようにも思えなかった。
少年は仕方なく、そのハンカチを、もとあった草むらに置いた。
そして、後ろ髪引かれる思いで、その丘の上を後にした。
翌日は雨だった。
少年は家の窓から、白糸のように降りしきる雨を見つめていた。ざあっ、と言う音が、家の中のすべての小さな音をかき消して、そして世界の余計な音までも雨の音に染めていった。雨の降る日は、だから不思議と、雨音の分だけ世の中が急に静まってしまったような寂しさを感じた。
昼なのに薄暗い家の中から見える空には、分厚い雨雲がたれ込めていた。
少年が見ている間にも、雨雲は時々そのずっと上の方で、ぴかりぴかりと閃光を発していた。雲全体が、なんだか薄青い炎を纏っているようで、気味が悪かった。
ふと、目を地面に向けると、母親が取り込み忘れたのか、小さな靴下が一つ、雨ざらしになった庭の上に落ちていた。靴下は泣いているようにも、いじけているようにも見えた。忘れられていることをねちねちとひがんでいるのか、それはじっと雨に打たれたまま、泥を浴びた庭の上で、やけに白く光って見えた。
それを見て、少年は昨日拾いかけた、一枚のオレンジ色の縁取りのハンカチを思い出した。あのハンカチも、今あの靴下のように、雨に打たれて、すねたように昨日の草むらの上で、じっと拡がっているのだろうか。そう思うと、彼は、なぜだか後味の悪い物を感じた。
ハンカチに、実は謝らなくてはならないような、妙な気持ちを抱いて、少年は窓の向こうの一足の靴下に対してさえ、それ以上だまって見つめていることが出来なくなった。母親に見つかったら、むしろ怒られるのではないかと思いながらも、少年はわざわざ彼の青い長靴を履いて、そして、黄色い雨傘を差して、激しく雨の降る雨中に出た。
家の雨樋から垂る大きな水滴が、彼の傘の幕に当たって、ボツボツという張りのない、低い音を立てた。彼は、自分の手を必要以上に汚さないように、人差し指と親指の間に濡れた靴下をつまんで、汚い物でも運ぶような格好で、それを玄関の中まで持ってきた。
靴下からはびちゃびちゃと、汚い泥の雫が絶えず落ちていて、持ってきたのはいいものの、玄関に脱いだままになっていた父親の黒い革靴の上に泥水が随分と垂れてしまった。
そのまま上がってしまったら、母親に大目玉を食らいそうなことくらい、少年は重々承知していたので、迷った挙げ句、彼はその靴下を、玄関の誰も見向きもしない暗い片隅に、そっと寝かしつけるように、広げておいた。
玄関を上がって、元いた場所に戻ってきても、彼には、その靴下が心残りだった。
水を絞ることも考えたが、そうすれば、今度は自分の手が汚れてしまう。そこまでして、靴下を拾ったところで、泥だらけの靴下を、母が何処まで受け入れてくれるのか、解らなかった。それを洗濯機に入れるような母だろうか。それとも、それを汚いと捨ててしまうのだろうか。少年には解らなかった。どっちの結末も、彼には余りいい気がしなかった。
結局、雨中に忘れられた靴下は、いずれにしろ余りいい最後を迎えることはなさそうだった。少年は、靴下に対して、少し申し訳ないような気持ちを抱いた。昨日まで黙って履かれていた靴下を、こんな最後に終わらせてしまうのが悲しかった。
翌日は打って変わって、嘘のような快晴だった。
雨の降った後の空は、同じ空とは思えないほど高く、澄んでいた。
山の緑は生まれ変わったように鮮やかに輝き、草葉の先端には小さな雫が留まって、見る角度によって、女の人が耳に付ける宝石の飾りのように、ちらちらと踊るように光を放った。
少年は、朝ご飯を食べると、すぐにあの丘に登った。
あの日からずっと気がかりだった、一枚のハンカチの無事を、一刻も早く確かめたかった。
草むらにたどり着くと、少年はすぐに、ハンカチのあった場所を丁寧に探し始めた。
雨の乾ききっていない草は、すぐに少年の腕を濡らし、半袖のシャツに幾多の水玉模様を浮かび上がらせた。雫が半ズボンの先から出た腿を濡らして、ひやりと冷たかった。それでも彼は、筋の細い、硬い草をかき分け、その下にあのハンカチが、悲しげに眠っていないかを確認するために、あちこちに草むらを見つけては、そこに飛び込んだ。
しかし、彼がいくら探しても、その場所にはもう、あのハンカチは見つからなかった。昨日の雨の後、少し風が出ていたような気もした。少年は探す場所を少し変えて、近くに生えた高い木の途中まで昇ってみたりして、隈無く辺りを探したが、もうあのハンカチは、何処にもいなかった。
少年の頭の中に、あの風船を持ったくまの絵が寂しく浮かんだ。
風船を持ったくまは、頭の中でも楽しそうに笑っていた。ちょうど遊園地で、大人に風船を買ってもらった時の少年のような、跳ねるような足取りで、オレンジ色に縁取られたハンカチの中でくまは歩いていた。
少年は、一昨日、ハンカチを持って帰らなかった自分を悔やんだ。
あのハンカチが、好きだったわけではないのだけれど、それを持って帰るのを躊躇ったばかりに、永遠に、もう彼の前から失われてしまったことに気づいて、小さな背中が、なぜか、すうっと冷えていくのを感じていた。
2008年12月20日土曜日
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走り書き;主人公の心情
0.
テニスコート、午後6時半。
夏だから、まだ日は落ちてはいない。でも沈みかけてる。斜め光線。オレンジ色、みんな。
私は窓辺に座って、ずっとそれを見ている。野球部が見える。ずっと遠くに、えいえい、言っている。
アカネは、まだ出てこない。
ずっとシャワー室。そう、ずっと。
もう、出てこないの?
そんなことはない。いつか出てくる。
水が流れる音が聞こえる。彼女の、小さな歌声。誰かのワルツ。
出てこなければいい。
愛しい人ほど、そう思うのはなぜだろう。
ことに、それが、私を苦しめる、届きそうで、決して届かない存在だからこそ、
もう、出てこなければいいのに、そう言う気持ちにしてしまう。
彼女のことが、嫌い?
嫌い。でも、欲しい。
欲しいから、嫌い。欲望を駆り立てるものは、
みんな避けたくなってしまう。臆病な私が悪い。
ロッカー室に、いつの間にか差し込む、斜め光線。
オレンジ色。食べかけのお菓子の袋が、真ん中の机の上で、悲しげに口を開けている。
笑っている?泣いている。
夕日は、どんどん、ああ、斜めになっていく。
シャワーの音が聞こえる。
アカネの体を洗う音。
水が、走り抜ける音。
もう、出てこなければいいのに。
そう思いながらも、私はここで、彼女を待っている。
嫌い。
1.
私が大学に入って、一番喜んだのは、母だった。
私よりも、母が喜んだ。
私の選んだ学部が看護学部だったから。
母は私を女の子としての私を、誰より望んでいたから。
私が、私でいてはいけないと思わせたのは、母。
男の子と、毎日ケンカして帰ってきた私を、ひどく叱ったのは、母。
スカートより、ワンピースより、ハーフパンツを好んだ私を嫌ったのは、母。
母の買ってくる洋服は、みんな、恥ずかしい位ひらひらしていて、ピンクや白や、ありとあらゆる暖色系の色が優しく組み合わされている、さわり心地のよい服ばかりだった。青や、黒や、びっくりするような刺激的な言葉の書いてあるTシャツは決して着させてくれなかった。
反抗もした。でも無駄だった。
だって、母が生んで、育てている、私だから。
その抵抗にも、限界があるんだ。
高校の同級生と、結婚したいと本気で思って、彼女と一緒に逃げだそうとしたこともあったけれど、それも、準備しているところを母に見つかってしまった。
小さな頃から見ている彼女には、私よりも、私を知っている節があって、それがどうにも、私には疎ましい。
結局、二人の逃避行は見事に失敗した。
相手の彼女は、逃げ出した。
そして、帰ってこなかった。
行き先は、まだ解っていない。向こうの親とも、それがばれて噂になって広まってしまってからは、全く逢えなくなってしまった。
私は、彼女はもう、死んでしまったのではないかと思っている。
二人とも、それほど本気だった。
ただ、私の方には、母にそれ以上逆らうだけの気持ちがなかっただけ。
私は、その失敗があってから、ますます母には逆らえなくなってしまった。
彼女の言うとおりに大学を選び、そして、問題なく学年を進んだ。
私が、この学科に合格した時の彼女の喜びようと言ったら!
私をようやく檻に閉じこめた飼育係のように、彼女は安堵の表情を浮かべていた。
今でこそ、看護は男女の隔てがなくなりつつあるが、彼女にとっては、未だにそれは女性らしい職業の代名詞なのだ。女性らしい職業に就き、他人への奉仕を身につけることで、一種の行動療法のようにわたしの“ゆがんだ”心に作用するだろうと、彼女は考えているに違いなかった。
私の心は、そんな単純なものではない。
それは、何より私自身が一番よく分かっていた。
中学、高校と、『女の子らしい』格好を義務づけられていながらも、私の心は変わらなかったのだ。むしろ、そう言う格好をさせられることで余計に、私が通常とされる人々とどれだけ違っているかと言うことを強く意識させられる結果となった。
これが更に、看護学部だったとしたらどうだろう。
私はすでに、自分がどのような人間であるか、はっきりと意識していた。
もちろん、自分を変えようと思った時期もあった。それは中学校の不安定な一時期に限られてはいたが。
だが、今では、もうそのようなことを考えることはなくなった。
私は私なりの、幸福を見出せばいいのだ。
そう悟っている。
そうして、今、
私はテニス部の先輩として、シャワー室にこもったきりの、後輩が出てくるのを、事実上、待っている。
彼女は...、いや、もはや、私の過去を知るものなど、いないのだ。
私はなんの変哲もない、看護学科の女子学生として、彼女と付き合っている。
私の心の底にわだかまる気持ちなど、彼女は知るよしもない。
でも、それでいいのだ。
それを明らかにすらしなければ、私は、彼女に憧れるだけの男子であれば決して出来ないほど身近に彼女を感じ続けていることが出来るのだから。
越えられない一線が、普通の男女より、随分手前に設定されているだけのことだ...。
2008年12月5日金曜日
夢
もう、幾度となく過ごしてきたクリスマスの、誰も買ってくれたことのないプレゼントとして、孤独な男が自分自身に買い求めたものは、小さな、少女の横顔の描かれた肖像画だった。
名のある画家のものではなく、無名の画家が40年ほど前に描いた絵であった。当時、これを描いた画家はすでに30代も終わろうとしていたが、描いた絵は全く売れていなかった。
己の才気を信じ、大都会で成功しようと意気込んで田舎を出てきたこの画家も、この絵を描いた頃には自身の才能をすっかりあきらめており、生まれた故郷に引き込んで両親と共に田舎暮らしをしながら、身の回りの何気ない風景を思うままに描く様になっていたのだという。
皮肉なことに、この画家の作品は、こうして己の才能に見切りを付けた後の方が一層瑞々しく、評価も高いのだそうだ。
「若い頃は誰でも、自分の身の丈を間違うものです」
この絵を売ってくれた温厚な画商は、丸くはげ上がった頭を撫でながらそう言った。
「自分の仕事、と言うものが誰にもあるはずなのですが」
この画商によれば、この絵のモデルとなった少女は、画家の姪御らしいと言うことだった。
フランスの田舎の娘であるらしい少女の横顔からは、まだ青いブドウの房の甘酸っぱい匂いが漂ってくるようで、男はそれを落ち着いたベージュ色の壁につり下げながら、微笑んでしまわずにはいられなかった。
絵の中の小さな少女は、その手の中に、もっと小さなティディベアの人形をしっかりと握っていた。その瞳は何を見ているのだろうか。向いている方向には大きな窓があるらしく、少女の青い瞳や表情が、明るい光りを浴びて輝いていた。
こうした少女の表情に、男は何処かで出会った気がしていた。しかし、それがどこであったのか、またいつであったのか、彼はついぞ思い出すことが出来なかった。
この絵を買ってしまったのも、この絵を気に入ったというのももちろんだが、何処か懐かしいような、不思議に引き込まれるようなものを感じたからであった。
「青い瞳の少女なんて、今まで海外旅行にでも行かない限り見たこともなかったのに」
男は独りごちた。
「...どうして、乞うも懐かしいのだろう。」
男は、キッチンの奥の小さな冷蔵庫を開け、冷えたビールの小瓶を取り出してきた。そして、手近にあった栓抜きで栓を抜くと、コップにも注がずに、それを飲み下した。
絵の中の少女は、彼女しか知らない窓の外を食い入るように見つめている。
男が見つめる先で、少女がクマの人形を握る手の力の強さを、男はふと感じた気がした。
男には、子供がいなかった。
子供どころか、彼には家庭というものが未だに無かった。
結婚というものを、考えたことがなかったわけではない。
節目節目で、場合によってはそれからの人生を共にしかねなかった女性には何人も出会ってきた。
それでも、男は結局彼女らと運命を共にすることはなかった。
面倒くさかったからかな。
男は時々、考えることがある。
仕事が思ったより早く、片付いてしまった帰り道に。
つまりは、面倒くさかったからだ。
関係を構築し、お互いのスケジュールをより合わせ、そして好き嫌いを妥協し合って、ふたり間をとりとめもなく割り算していくような、その作業が。
そもそも、それまで培ってきた20年を越える人生を、知らない他人と分かち合おうなどと言うことが、男には気の遠くなるような、無意味な行為に思えていた。
俺には、今が大切なんだ。
彼には解っていた。
何よりも、今が。
しかし、彼にも夢見たことが無かったわけではない。
小さくても、確かな生活。
慎ましい家庭。
むしろ、孤独な時間を人一倍長く過ごしてきた男にとって、こうした夢想は日常生活の一部ですらあった。
朝日を浴びた白い皿を彩る、緑色のレタスや、スクランブルエッグ。
真っ赤なトマト。
コーヒーの香り。
トーストの香ばしい焼き加減。
忙しい朝に、子供の声、そして、その母の声....。
男は、いつもそこまで考えると、自分の愚かさに、思わず笑ってしまうのだった。
そして、それを打ち消すかのように、心の内で自分に言い聞かせた。
俺には今が大切なんだ。
何よりも、今が...。
今を大切にしすぎたために、男は一人になってしまったのか。
果たしてこれが、一つの幸せというものの“かたち”であるのか。
まだ夢を見続けていた男には解らなかった。
しかし、彼が時折思い描くような家庭生活を送っている男達のすべてが、その時男が感じるような、甘い郷愁のようなものを、その生活からいつもを感じているかと言えば、そうではないだろうと思っていた。
苦いビールが、喉の奥を駆け抜けていく。
もしかしたら送っていたかも知れない人生が苦みと共に通り過ぎた。
生きていく、と言うことは、あり得たかも知れない未来の可能性を一つずつ、潰していくことなのだろうか。
男は大きく息を吐いた。そして、目の前に掛けた少女の絵を見ながら考えた。
少女が見ている窓の先には、きっと、いつか画家の夢見た希望の未来があるのだろう。
明るい窓を見つめている少女に、画家は、自分は叶えられなかった未来を見出し、託したのではないか。
そこまで考えると、男はふと何かを思いついたように、手に持った茶色の小瓶を近くの背の低いテーブルに置いた。
そして、書斎に入り、2、3の書類を丁寧にしたためた後、それを、それぞれ適当な大きさの封筒に入れ、しっかり封をして、しかるべき宛先を書き入れた。
その作業がすべてが終わると、彼はもう一度、大きく息を吐いた。
彼は、もはや、自分が、未来を次の世代に託すべき年齢になったのだと感じていた。
あのような絵に引きつけられたこと自体、その何よりの表れではないか。
あの懐かしさは、かつての若かった頃の自分の持っていた可能性への、懐かしさだったのだ。
もういい加減、俺は引き時なのだ。男は思った。
可能性にまぶしさを感じるような年になってしまった。
それは、もう自分自身が、光を失って久しいと言うことだ。
夢は十分、追わせてもらった。
男は愛着のある品々に囲まれたほこり臭い書斎の中で一人密かに笑った。
親父は、今頃どうしているだろう。
彼はふるさとへ向けた長い手紙を書きながら考えていた。
2008年10月25日土曜日
クスリ
どこに行けばいいのだろう。
女は一人途方に暮れていた。
知らない田舎のはずれの無人駅。
すでに通る列車もなく、辺りは静まりかえっている。
女は死に場所を探していた。
死ぬのならば、誰も知らない、どこか遠くで、ひっそりと死にたいと思っていた。誰からも振り向かれることの無かった己の人生に、それが一番相応しい最後であると、彼女は思っていた。女はふと、手に提げた小振りのボストンバックを見た。中には、少々のお金と、そして、両親と、何人かの友人に当てた遺書が入っていた。遺書を残した友人のうち、一人はかつて、彼女が本気で恋をした男だった。しかしそれも、今となっては遠い昔の話で、おそらく彼も今頃は、別な女性と、幸せに暮らしているのだろうと、彼女は思っていた。彼女からの遺書が、万が一にでも、彼の元に届いたら、彼はきっと、迷惑するかも知れない。彼女は遺書を書きながら、ふと、そんなことを考えもした。
しかし、結局、遺書は書いてきた。
どうせ、死ぬのだから。
それで、この小さなわがままの一つ位、許してもらえたっていいのではないだろうか。
死と引き替えに、たった一通の手紙を残す。
それもなんだか不釣り合いな気がしていた。
彼と付き合ってさえいれば、そんなこと造作もなかったはずなのに、今のわたしにとって、この一通分の思いを伝えるのが、なんて難しく、つらいことなのだろうか。
女はそれを思うと、今彼と付き合っているであろう、見知らぬ女を恨みもした。
でも、それもすぐに止めた。恨み辛みを抱えたまま、己の死に際を、醜悪に終わらせたくはなかった。
せめて、散り際だけはさらりと、逝きたかった。
自殺の理由は、特にこれと言って無かった。何か特定の原因と言うよりも、いろいろな不安が押し重なって、彼女を死のきわまで追い詰めていた。生きるのが、嫌になった。そう言うのが一番正確なのかも知れない。生きていても、楽しい事なんて、期待できないのかも知れないな。彼女はそんな、脱力感にもにた思いに囚われたのであった。
彼女の持ってきた荷物の中には、多量の睡眠薬が入っていた。
首をつることも、海に飛び込むことも考えたが、苦しまずに死ねる方法を考えて、これにした。
実際、本当に苦しまずに死ねるかどうか、死んだ人が教えてくれるわけでもないので、知りようがなかった。ただ、テレビや映画では、みんなまさにに眠るように死んでいくような描かれ方をしていたし、死に際も醜くなる心配はなさそうだった。高いところに昇るのは怖かったし、怖じ気づいてしまうだろうという予測があった。首をつるのも、目玉が飛び出るほど苦しむという話を聞いていて、考えただけで吐き気がした。
彼女は鞄を開け、睡眠薬の入った小瓶を取り出した。
それを掌で暖めるように押し抱きながら、しばらく佇んでいた。
この小瓶を手に入れてからずっと、彼女は不安になるごとに、この瓶を抱いていた。
これを飲めば、いつでも楽になれる。
そう思うと、不思議と心が静まった。死ぬために買った薬で、これまで生き続ける事になろうとは、彼女自身、思っても見なかった。もしかすると、彼女に不安をもたらしていたのは、出口のない毎日であったのかも知れない。毎日というものから、脱出する出口を見出すことで、なんにせよ彼女は、その不安を軽くすることが出来た。
これで、この毎日も終わる。
彼女は辺りを見渡すと、誰もいない駅の待合室が目についた。ここなら、次の日の朝には、彼女の遺体を誰かが見つけてくれるだろう。ひっそりと死にたいとは言っても、誰にもその死を伝えたくないというわけではなかった。わたしは悩み抜いて死んだのだ。そのことを、一部の人には確実に伝えておきたかった。
彼女は、待合室のベンチに腰を下ろした。夜露に濡れたプラスチックのベンチは、座るとひやりとした。
彼女はそっと小瓶の蓋を開けた。そして、ありったけの錠剤をその掌に載せると、微かに微笑んでそれを飲み下した。
次第に、世界が揺れていく。
目の前はやがて真っ暗になった。
明くる日、まだ太陽が昇りきらないうちに、彼女は目を覚ました。
太陽は、真向かいの大きな山の頂から、赤く眩しい光りで、地上を照らしていた。
彼女は、のそりと起き上がった。頭が、がんがんしていた。
喉も少し痛かった。
おそらくは、風邪を引いたのだろうと思った。
こうして死ねなかった女が、どこへ行ったのか、誰も知らない。
ただし、彼女がもう一度、自死を試みたことだけはなかったと思われる。
彼女の去った後の駅のくずかごには、破り捨てられた彼宛の遺書が、
くしゃくしゃに丸められてうち捨てられていた。
2008年9月8日月曜日
野辺送り
老人は嘆いていた。
彼のたった一人の孫が突発的な大波にさらわれ、数日前から行方不明になっていた。仲間が船を出し連日捜索してくれたものの、息子の安否を示す手がかりすらえられなかった。
毎日、浜辺に立ち、仲間の漁船が帰ってくるのを今か今かと待ち続ける老人に、手ぶらで帰ってくる友船の乗組員達は合わす顔がなさそうだった。
「じいさん、すまねえ...。」
若い衆を率いている大柄な男が小さな老人に申し訳なさそうに頭を下げた。
そんなとき、老人の瞳はただ青い海を見つめているだけだった。
彼の灰色の瞳には、彼の孫を飲み込んでも平然とした、穏やかな青い海原が拡がっているだけだった。
これに生かされ、そして殺されるものたちがいる。
老人もかつて漁師だったから、そのことはよく分かっているつもりだった。
彼の息子も、そして娘の婿も、この海に飲まれて死んだ。
しかし、それでも、自分の孫までが、こうしてが生死も判然としない状態になってしまうと、老人はもう気が狂ってしまいそうだった。今はもう亡い、彼の娘に...、すなわち、この孫の母に、彼は誓ったのだ。
先に逝くお前の変わりに、この子を一人前の人間にしてみせる、と。
彼の娘は、その夫が亡くなってそれほど経たないうちに、気をおかしくして海に飛び込んでしまった。
何とか助け出されたものの、溺れて長い時間息ができなかった影響か、もう立つことも話すことも出来なくなってしまい、目を回したような顔のまま、10日と持たずに息絶えた。
幼くして母を亡くした子供は、きっと乱暴者になると、村の老人達は口々に言った。かつてそういう者が出て、村はたいそう迷惑したことがあったという。その言葉に恐れをなして、その子を何処かへ里子に出すように彼に強く迫る者も少なからずいた。しかし、彼は結局、子供を手放さなかった。
この子を、一人前の、漁師にするまでは、私はこの子を育てなくてはいけない。
愛する娘を失った父の、それが生きる支えになっていた。
幸い、彼の孫は周囲の心配を他所に、すくすくと成長した。
そして、まだ随分幼いうちから、祖父について漁を習い、成人する頃には、すでにいっぱしの漁師を名乗れるまでに腕を上げてていた。
彼が港で一番の水揚げを上げたとひとから聞く度に、老人は有頂天になった。
実際、彼の孫は本当に上手に魚を捕ってきた。多くの漁師が、魚をあちこち傷だらけにして、ようやく仕留めるところを、息子はそれを本当に最小限に留めるので、魚の鮮度がほとんど落ちなかった。
街からやってくる仲買達も、彼の孫の捕った魚は特に高く買い取っていった。
おかげで、老人は普通より少し早く引退することが出来た。最近になって、孫の妻となる娘もようやく決まった。彼の孫に対する娘達の評判は悪くはなかったようで、妻となる娘の親ともすぐに話が付いた。
しかし、そんな折、事故は起こった。
孫の船が沈んだ場所は昔から三角波という、極めて大きな波が突然起こる海域で、漁船が転覆する事故がたびたび起こっていた。ただ、それも風向きと天候に左右されるようで、いつもはなだらかな、なんの変哲もない場所だったから、村人も、特にそこを警戒して避けるようなことはしていなかった。何より、その辺りは魚の好む岩礁もいくらかあって、村の漁師達はまずそこで小さな魚を捕まえてから、それを餌にして大魚をねらいに行く場合が多かった。
その日は彼の孫も、おそらくはカジキかマグロあたりを狙って、まずその餌を確保しようとその海域に船を向けたようだった。その様子は、近くで漁をしていた多くの仲間が目撃していた。しかし、少したった後、仲間の一人が彼の捕っていた場所で同じく魚を捕ろうとしたところ、先ほどまでいた彼の船がないことに気がついた。
始めは、いつの間にか立ち去ったのかと思って特に気にしていなかったが、海面に、彼の船名の書かれた板きれが浮かんでいるのに気がつき、あわてて持っていたメガネで海底を覗いた。
揺らめく海底に、途中から真っ二つに折れた一隻の小舟があった。人影までは確認できなかったが、男はあわてて仲間の船を呼びに船を走らせた。
それから、もう数日が過ぎていた。
老人は隠居したと言ってもまだ若く、はつらつとしていて、肌のつやも、目の輝きも未だ衰えを知らぬ印象だったのだが、孫が行方不明になったと聞いた日から、おそらく夜も眠れないのか、眼窩は深くくぼみ、頬はすっかりやせこけていた。心配した彼の姪が、毎日彼の家を訪れて、何かしらのものを食べさせようとしていたが、彼は一向に受け付けなかった。
起きればいつも、なだらかな海ばかりを見て、眠る時は闇の中、閉じられることのない眼を一晩中ぎらぎらと光らせていた。
このまま、彼の帰ってこない日が続けば、この老人もすぐに参ってしまうだろうと、村人は皆心配していた。
そんな折、遺体が浜に打ち上げられた。
知らせを持ち込んだのは、孫の幼なじみの娘だった。
その娘は、彼の孫が行方不明になったと聞いた日から、毎日浜に出て、砂浜の上を歩き回っていた。
昼間の浜には誰もいなかったので、歩き回る彼女の小さな足跡だけが延々とその砂の上に刻みつけられた。そしてそれが潮の満ち干でかき消される頃には、また彼女によって新たな足跡が刻まれた。生存を信じるほどの希望があったわけでもなかった。彼女の父親も、一昨年海の事故で死んだ。海に生きる漁師が海で死ぬのは当然のことだとは彼女もよく分かっていた。せめて、彼の身につけていたものでも流れ着いてくれれば、それだけを幼なじみの形見にしようと彼女は考えていた。
そうして何日目かのある日、視界の向こうに、彼女は、それまで無かった、何か大きなものが流れ着いているのを発見した。
気丈にも、彼女はそれに恐れず近づいた。そして、うつぶせに倒れていたそれをひっくり返し、彼女の幼なじみであることを確認しさえしたのだった。それは、ある種の気の動転のなせる業だった。彼女はその事実を、半ば無意識に、近所に住んでいた村長と、漁師の頭と、そして彼の父である老人に伝えてまわった。
「おじいさん、ヤンが...。」
娘がそう言うのが早いか、老人は家を飛び出してきた。そして娘について、一緒に浜に下った。
老人はそれまで不眠不休で孫の無事を祈っていたとは思えないほどの早足だった。とはいえ、娘の方もすっかり気が急いていたから、そのようなことにも全く気がつかなかった。
老人と娘が浜に付くと、すでに漁師仲間と村長がヤンの亡きがらを取り囲んでいた。
どこからか話を聞きつけたのか、他の多くの村人も浜に続々と降りてきて、そこにはすっかり人だかりが出来ていた。
村人達は、老人が来たのに気がつくと、すぐに道を譲った。
人混みをかき分けるようにして、老人とその幼なじみの娘はようやく、輪の中心にたどり着いた。
そこには、砂の上に眠ったようなヤンの亡きがらがあった。
顔は鑞のように白くなっており、長い間水の中にあったからか、体がふやけて、生前の彼より幾分膨らんでいるように見えた。
亡きがらを前にして、老人に言葉はなかった。
老いさらばえて、すっかり細くなった指を、愛する孫の髪に絡ませた。そしてそのまま、じっと動かなくなった。
その様子に、周りを取り囲んでいた村の女の一人が、さめざめと泣き始めた。鳴き声は静かに、二人を取り囲んだ輪の全体に伝わり、やがて輪全体が、静かな優しい涙に包まれた。
村人はそうして、しばらくみんなで泣いていたが、やがて漁師の頭が、似合わぬ涙声で
「じいさん、そろそろ、家に上げてやろうぜ」
と言った。
輪の中から男達が数人進み出て、ヤンの体を大きな戸板の上に寝かせた。
そして、板の両端を持って、彼を老人の家に向けて静かに運び始めた。
先頭には頭と村長が付き、その後に漁師仲間に囲まれたヤンの亡きがらが続いた。
女達はその後ろについて、老人は幼なじみの娘と彼女の母に支えられて最後尾を歩いた。
他の女達はまだ泣きやまず、そうして歩いている最中にも悲しげな鳴き声がしくしくと聞こえ続けていたが、老人を支える娘の顔には涙はなかった。彼女は、老人が悲しみの余り倒れてしまったりしないように、終始気を遣っていた。
娘の母は、始終泣いていた。
娘は、そんな母に、
「かあさん、ヤンのお父さんには私が付いているから、先に行って休んでいて。」
と気遣いを見せた。
彼女の母はその言葉に頷いて
「じゃあ、後はお願いね、スー」と言い残して、しずしずと進む隊列を抜けて、早足で老人の家に向かった。
老人は浜に駆けつけるために体力を使い果たしたのか、歩き続けるのさえ、ままならなかった。
時々立ち止まったり、左右にふらふらと力なく振れたりしながら、何とか前に進んでいた。
娘と老人は次第に隊列から遅れ始めた。
先頭の何人かがそれに気がついて、隊列を止めようとしたが、娘は手を高く挙げて、先に行っていてください、と合図した。先頭の男達は大きく頷いて、再び歩き出した。
娘は疲れ切った老人を励まし、少しずつ少しずつ、彼の家に向かった。
いつも通い慣れている丘の上の家が、今日は随分遠くに見えた。
こうやって坂を上って、いつもヤンの家に遊びに行ったっけ。
娘は自分が小さかった頃のことを思い出した。
ヤンったら、いつも、私の前では海のことしか話さないから、私まで、女なのに海の仕事に詳しくなっちゃって。
網を縫ったり、仕掛けを作ったり、銛を研いだり。
ああいう仕事をしている時のヤンは、本当に楽しそうだった。
私も、彼と一緒にいつもそんなことばっかりだった。
変な女だって彼も言ってたけど、私も一緒にやると、すごく、よろこんで...。
娘はふと顔を上げた。丘の上の老人の家が見えてきた。
「おじいさん、もう少しです」
彼女に肩を支えられた老人は、うめきとも返事とも付かない声を漏らした。
そして、膝を小刻みに震わせながら、一歩一歩坂を昇った。
ヤンは、本当はもっとかわいらしい女の子の方が好きだったんじゃないだろうか。
私が、彼の結婚相手に選ばれたのは、親の考えだったし、あの頃の彼の周りにはいつも女の子がいたから、私以外に好きな子がいたとしても、おかしくなかった。
悪いことをしたのかな、彼には。
彼の幸せを、私は奪ってしまった。私がはっきり断れば、それだけのことだったのに。
ヤンはおじいさんを大切にするから、きっと断りにくかったんだろうな。
ヤン。ごめんなさい。
二人が老人の家にようやく戻ると、中ではすでに弔いの準備が進んでいた。
村の女達は、弔いに出席する人数分の煮炊きに忙しく、泣くことも忘れていた。
スーの母親も、腫れたまぶたのまま、竈に薪をくべている。老人を座敷にようやく上げると、スーも母を手伝った。
やがて、山寺から僧侶が呼ばれてきて、弔いの儀式が始まった。
僧侶が念仏を唱え、ヤンの魂を山の頂にあるという仙人の国に送った。
そして、一通りの儀式が済むと、僧侶が先に立って、ヤンの亡きがらを山に埋めに行った。
そこから先は男だけの仕事と言われていたので、漁師仲間の数人が僧侶の後について山に入った。
そして、それほど経たないうちに彼らだけが軽くなった戸板を持って山から下りてきた。
それを見た時、スーはようやく、ヤンがいなくなったと言うことを実感した。
足下から力の抜けていくような感覚が彼女を襲ったが、まだ彼女にはすることが残っていた。
ヤンを弔う静かな宴が始まろうとしていた。
「全く、惜しい人を亡くしてしまった。それもこれも、俺の責任だ」
会の冒頭、漁師の頭はそう言って、老人に頭を下げた。老人はその言葉に、
静かに左右に首を振った。
「あんなに明るく、はつらつとして、腕も立つ若いものをみすみす溺れさせてしまうなんて..。」
老人はますます強く首を横に振った。老人の両の瞳から涙の粒がぼとりぼとりと落ちるのを出席した誰もが見ていた。
「スー、お前にも、本当に悪いことをした。」
頭は末席に腰掛けたスーに顔を向けた。
「婚約の日取りも、決まっていたというのに。」
「そんな...。わたしは...。」スーはそれだけ言うと、目を伏せた。
「二人の幸せを奪った、このことは忘れないようにしよう。あの三角波の場所での漁は、今後硬く禁じよう」
漁師達はみな、無言のうちに頷いた。
宴はそれから、静かに進められた。
そして、小一時間もすると、一人、また一人と客は帰っていき、やがてスーと彼女の母親だけが残った。
彼女らは宴の後を片付けていた。
老人は疲れてすでに座を払って奥で休んでいた。
「スー、あなたは大丈夫?」
母親がスーを気遣った。
「今日は疲れたでしょう。先に帰って休んだら。後片付けは、明日早く来てやってもいいんだから。」
スーは首を振った。
「おかあさんこそ、寝ててもいいよ。私もこれだけ片付けて、今日は下がるから。」
母はそれを聞くと、それならと言って、皿だけ机の上から下げて、家に戻った。
スーはそれをみんな水に浸けてしまった後、
「おじいさん、おやすみ」
と一言小さな声で挨拶して、老人の家を出た。
外は月もない夜空で、空には幾つもの星が瞬いていた。
カモメの星座や、海の神様の星が今日はいつもよりよく見えた。
海の神様の星は、他の町の人間は北極星と呼んでいるのだと、スーは以前ヤンから聞いたことがあった。
夜の海で陸が見えなくて迷った時、あの星を頼りに進んでくれば、きっと村までたどり着けるのだと彼は言っていた。
北極星は丘のふもとのスーの家の方から見れば、いつもヤンのいる丘の上に光っていた。
丘の上に立ってそれを見れば、ヤンの魂の昇っていった山の上に、その星は輝いていた。
スーはその小さな星の光を見て、もう一度、足の力が抜けてしまう感覚に囚われた。
そしてその場に座り込んでしくしくと泣き始めた。
風に揺られたすすきがさらさらと乾いた音を立て、
小さな声で鈴虫が鳴いているのが聞こえた。
スーの泣き声は、その中で、途切れ途切れに夜の闇に響いていた。
頭上には、彼の御魂の登った山が、夜空より更に深い闇として、静かにそびえ立っていた。
2008年9月3日水曜日
無題
始めそれは、老人の思い過ごしかと思われた。
彼はその亡き妻にうり二つな女を目の前にしても、まだ己の目が信じられずにいた。
女を客間に通し、かつては妻が使っていて、今は来客用に取ってある布団を与えると、老人は自室に戻って、タンスの奥から、古いアルバムを取り出してきた。
それは、彼と、妻が結婚した時に記念として撮った写真だった。
セピア色の画面の向こうで、若き日の老人と、彼の妻が、幾分緊張した面持ちでこちらを見つめていた。なれない装束を着せられた妻は写真越しにもぎこちなさが見えて、老人は当時の慌ただしさを思い出し、思わず微笑んだ。
その妻の表情はちょうど、先ほど彼の前で不安げに嘆願した女の表情に、やはりよく似ていた。彼の妻の方が、幾分丸い印象は受けたものの、それ以外は全くそっくりだった。
「こういう事もあるものか」
老人は独りごちた。
「涼子が帰ってきたかのようだ」
古いアルバムを、元の場所に大切に仕舞うと、老人の足は自然と、女の眠っている客間の方へ向かった。
特に、目的があったわけではないが、この奇跡のような光景を前にして、彼は居ても立ってもいられなくなっていたのだった。何となく、その奇跡に寄り添っていたい気持ちが、彼の中に働いたのである。そんなことは実際無理だとしても、彼はたとえ一寸でも彼女のそばにいたかった。
老人が客間のそばまで来ると、閉じられた襖の間から、僅かな明かりが漏れているのが見えた。女はまだ、眠っていないようだった。
「もしもし」
老人は襖の向こうへと声を掛けた。
「はい」
はっきりした返事が聞こえた。考えてみれば、今時分は普段の老人にとっては寝る時間だが、彼女位の年齢の人にとってはまだまだ起きていてもおかしくない時間だった。
老人が静かに襖を開けると、女は案の定、まだ着替えもせず、古い布団の上に座っていた。
「眠れませんか」老人がそう言うと、女は
「ええ...。」とだけ言って、困ったように笑って見せた。
「こんな夜更けに、どういう事情があったのか...。無理を言うわけではないのですが、もしよかったら聞かせていただけませんか。私ごときが、なんの話し相手になるか知れませんけれども。」
女はその老人の申し出が意外だったらしく、目を大きく見開いた。黒い瞳が鮮やかに濡れていた。
「ええ...。」女はしかし、何かを躊躇うかのようにその目を伏せた。
「それは...。」
女の様子に、何かよほど言いがたいものがあるのだと悟った老人は
「いえ、いいのです。...何か理由がおありでしょう。今日はとにかく、ごゆっくりお休みなさい。」とだけ言って、その場を立ち去ろうとした。
「!、 あの....。」立ち去ろうとした老人を、女が呼び止めた。「あの...。」
「どうしました?」老人は振り向いて、女の表情をのぞき込んだ。その目には、今にも零れんばかりに涙が溜まっていた。
女の、その涙の溜まった目は、老人の瞳を避けるようにしばらく何もない畳の上に向けられていたが、やがて、意を決したように老人に向けられた。
「しばらく、ここに置いていただけないでしょうか。」
その申し出が意外だったので、老人は驚いて思わず目を丸くした。
女はそんな老人に構ってもいられない様子で、
「理由は...。必ず話します。お願いです、2,3日でもいいんです。もう少しだけ、もう少しだけ...。」女はそう言うと、無意識にか、頭を布団にすり寄せるほどに下げて老人に懇願した。
「いや...。まず、頭をお上げください。」
老人は彼女の肩を支えるようにして、頭を上げさせた。
女の顔はもう、涙ですっかり濡れていた。まぶたと鼻の頭が、子供の泣いた後のように、すっかり赤くなっていた。
「2,3日と言わず....。あなたの気が済むまでいらっしゃったらよろしい。理由など、特に言う必要もない」
それを聞くと、女の瞳から、また涙が溢れた。そして泣きながら、何度も、ありがとうございます、ありがとうございますと、繰り返した。
部屋を出て襖を閉めると、老人はその足で仏間へ向かった。
そこには彼の妻の遺影が、梁の上に掲げられていた。姪の結婚式に出た時の、久しぶりに着飾った晴れやかな表情だった。彼女から彼に向けられる、静かな眼差しを老人は意識しながら、妻の遺影の前に頭を垂れ、これを信じていいのか?と妻に問いかけた。
女がここにしばらく泊まっていきたいと言い出した時、思わず浮ついてしまった自分の気持ちに老人は少なからず罪悪感を覚えていた。忘れていたはずのそうした感情が、まだ時分の奥底に確かに残っていたことに、老人は少なからず驚いていた。
「私が、世の中を避けてこんな田舎へ越してきたのは、もしかするとこういう気持ちを避けるためだったのかも知れない。」
暗闇の中で老人は一人呟いた。
「お前を失って、ただでさえ、流されそうな心を...。」
老人はそこまで言って口をつぐんだ。無言の内に、彼は亡き妻と会話しているようだった。
彼はしばらくそうして、暗がりの中で黙ってじっとしていたが、やがて、伏せていた顔を上げると、彼にほほえみかける妻の遺影に向かって
「いっそのこと気持ちの奥底まで、枯れ果ててしまえれば楽なのに...。」
ふと、そんなことを言って、一人、笑った。
遺影の妻は変わらぬ表情で、静かに男を見つめていた。
2008年8月28日木曜日
サテライト
これは裏切りに当たるのだろうか。
なめらかな女の肌の上で、男は自問自答していた。
時は深夜。週末の捨て鉢のような喧噪が静まり、人々がふと、何か埋めがたい物寂しさを覚える頃。
男もまた、一人、あふれ出してくる孤独に耐えかね、同じような気色に囚われた様子の女と供に、他人の歴史に汚れた寝床の上で、夜を明かそうとしていた。
そのホテルに入ったのは、男にとって初めてのことだったが、彼が特にそのような素振りも見せなかったため、女は終始、男がよく、ここを利用するものだと思っていたようだった。
慣れた手つきで入り口の手続きを済ます男に、女はやや皮肉の混じった一瞥を向けた。
「何?」
男がその眼差しに気付き、問いただしても、女は特に返事せず、微かな笑みを浮かべたまま、不信げな瞳を向ける男を見つめ返していた。
男はその表情に、何か空寒いものを感じたが、特にそれ以上問うこともせず、先に立って、割り当てられた部屋に入った。
女も、何も言わず後に続いて入った。
男は、この女をよく知らなかった。
顔見知り。あえて言えばその程度の仲だった。彼がこの街に越してきてもう1年近く経つが、男は自分でも笑ってしまうほど、他の女との関係を持たなかった。
男の中には一人の女の面影が常にあった。
その女とは、結局、結ばれはしなかった。もう別れて、何年も経っていた。だが、どれほど時間が経っても、遠い土地に引っ越してきていても、その影はいっこうに消える気配がなかった。
男はもう、自分は十分に恋をしたと感じていた。
その、男をとらえて放さなかったかつての女のために、彼は身を焦がれるような思いを何度も経験した。思えば、青かったと男は今は考えていた。単に、女というものを、知らなかっただけなのだと。
しかし、なぜか男はその後、それ以上誰かに恋をする気には、なれなかった。
何度か試みたことはあったが、あの頃のように、自らを捧げるような気持ちには、いつまで経っても、なれなかった。
プロセスが似通っている。
男はそれが原因だと思っていた。
どの恋愛も、かつての恋愛を思い出すのに足りるほど、似ている。
それが男に、かつての女と、目の前の女を、容易に比較させ、色あせたものにしてしまう何よりの理由だと、彼は感じていた。
「どうしたの?」
体の下で、女が不思議そうに男を見上げていた。
「...何でもないよ」
男は静かに、女の体を撫でた。
「...変なの」
女はそういって、息を漏らした。
二人の間に、それ以上の会話はなかった。
なぜ、今頃になって、たいして好意を抱いていたわけでもないこの女を、ここへ連れ込むことになったのか、男は自分で、説明がつかなかった。
自分に関心を抱いてくれた女は他にもいたはずで、彼はそれを、これまで、ことごとく無視してきたはずだったのに、今夜はなぜか、この女をこうして受け入れてしまった。それが彼には解せなかった。
男はまじまじと、女の体を見た。
それは、かつての女とは、似ても似つかなかった。
貧相で、生臭いものに男には感じられた。
男は、かつての女の裸身を実際に見たわけではなかった。
それは彼なりの、空想に過ぎなかった。そしてその空想は、長い時間のうちに美化されてしまい、最終的には彼女の顔のような、それまで幾度となく見てきたはずのものでさえも、実物の彼女よりも、ずっと美しくなってしまっていた。
そうなるともはや、誰を本当に愛しているのか分からなかった。
しかし、男はそれを自分自身で知りながら、ずっと黙認していた。
どうせ叶わない恋ならば、それは現実でも、空想でも、同じ事だった。
むしろ空想の方が、彼の望みに従っている分だけ、ストレスが少なかった。
実際に恋愛している時に、どれだけ現実の女を、俺は見てきたのだろう。
そう思うとおかしかった。
実際には、自分の空想を、多分に現実の彼女に重ねていなかったか。
結局、俺は空想に始まって、空想の内に終わったのだ。男は思った。
彼女を題材にして、一人で夢を見ていたに過ぎなかったんだ。
目の前にいる、生身の女からは、男はあまり魅力を感じなかった。
普段のすました表情からは想像しえない、しかめしい表情や鬼女のような声に、男の心はむしろ滑稽さを見た。
ただ、生理的に男は女を求めていた。
二人の間に展開されているのは、ただそれだけの行為だった。
俺は二人の人間を裏切った。
行為が終盤に至った頃、男は思った。
この後に続く恍惚と快楽は、その代償になりうるのだろうか。
そもそもこの行為は、何かの約束か?
そんなことを考えている内に、あえなく女が音を上げた。
あいつも、今頃誰かの下で...。
そんなことを考えながら、男は、その行為を締めくくった。
2008年7月21日月曜日
metamorphosis
さなぎは窮屈だよね。
それまでは自由に、好きな葉っぱに昇っておいしい緑の葉っぱを食べていた芋虫が、さなぎになってしまうともう1センチも動けずに、狭い土壁に囲まれた個室の中で、身動き取れないで眠ったようになっている。私、あれに似たもの見たことあるんだ。昔近くの美術館でエジプト展をやっていた時に、エジプトの偉い王様のミイラが、固い木か何かで出来た入れ物にすっぽり収まってたの。そのミイラの入れ物にも、きれいな絵が描いてあって、王様の似顔絵がしっかり描いてあるんだ。まるで、これはこの王様の入れ物ですって言ってる見たいに。さなぎもよく見ると、そんな感じじゃない?よく見ると成虫に似た形はしているけれど、ちっとも動けない。固い殻をかぶった入れ物。あの中では、内蔵がどろどろに溶けてるんだってさ。古い自分を壊して、全く新しい自分になるんだ。自分が壊れるってどんな気分かな。新しくできた自分は、本当に「自分」なのかな。虫に聞かないとわかんないんだろうけど、無駄と分かってて時々考えちゃうよね。自分が造り変わるって、どんな気分だろう。気持ち悪いんだろうな、相当。初めて生理が来た時みたいに、なんだか自分が自分でなくなっていくのはやっぱり怖いよね。自分の意志とは無関係に、大人に引きずり込まれていくあの怖さ。きっと昆虫も、あれをずっと味わっているんだよ。暗い、湿った土の中にいて。
自分が作り替えられると、自分の考えも変わるのかな。でも、それを感じる自分も変わっているんだから、けっきょく変わったことには気がつかないのかもね。私も気がつかないうちに、たぶん去年の私とは変わってる。弟から見たら、私は変わってしまったんだろうな。大嫌いなお父さんやお母さんみたいに、私は弟からは見えているんだろうな。弟の目はいつも子供みたいだから。男の子ってどうしてああなんだろう。どうして何時までも子供みたいな目をしていられるんだろう。同級生の男子を見てもそう。何であんなにはしゃげるの?まるで小学生。ただ体が大きくなっただけの。でも、あの人達もいずれ、お父さんみたいになるんだ。それは何時なんだろう。早く来なければいいな。弟がお父さんみたいなことを言い出したら、悲しいだろうな。私は理解者を一人失った気持ちになるんだろうな。家の中に、ますます居づらくなってしまいそう。
だってお父さんったら、いつも勉強しろってうるさいんだもん。私は勉強してるんだよ?私が勉強しているところを見もしないくせに、勉強しろ、勉強しろって。じゃあ私は、どこまでがんばればいいの?お父さんが勉強したなって認めてくれるのは、いつ?
私も、始めはがんばったんだ。だから、お母さんやお父さんが行けっていった難しい中学にも、入ったし。結構大変だったんだよ。難しい中学に入れば、もう口うるさく言われることもないと思ったんだ。でも、けっきょく何も変わらなかった。むしろ、優秀な子達と比べられて、ますます窮屈になっただけだった。こんな調子じゃ、大学に入っても同じ事言われるんだろうな。会社に入っても、もっと上を目指せ、同級生の何々さんはもうお前より給料もらっているんだぞって。どこまで行ったら許してくれる?私が、ほっと出来る時は、何時?
結婚してしまえばいいのかな。女の子だから、と言うことで。そうすれば、そういう上ばっかり見せられる生活からは抜け出られる。でも、お父さんはそれでも言うんだ、今はそんな時代じゃないぞって。女だから、男だからと言う考えはもう古い。結婚して、出産しても、また会社に帰ってくる人はたくさんいる。お前もだから見習えって。お母さんの時代がうらやましいな。ああやってママできる時代が。子供を抱えて、会社で働いて、そして上ばかり見せられて。女は不利じゃない?どうして女なんかに生まれてきたんだろう。
私、正直もう、疲れてきたんだ。実際、テストの成績も最近伸びてないし。こないだなんかは、一つ落としちゃった。お父さん達には言ってない。言うとどうなるか、想像できるでしょ。考えただけでもうんざりだよ。だから私は風邪を引いたことにして、その日の追試は受けないでお家に帰ったんだ。先生は私の姿が見えないから、わざわざ家まで電話してきた。ちょうど弟が取ったから、風邪を引いててでられないって言ってもらったんだ。かわいい弟だよね。私の言うことを、真っ直ぐきれいな目で信じてくれた。あんな風に信じてくれる人に私は何人逢えただろう。
お父さんは早く帰ってきて、私が風邪だと弟から聞いて、寝かしつけようとしたけど、私はもう大分よくなったって言ったんだ。実際熱もなかったし、あんまり重病人っぽくするのもかえって変でしょ。嘘を吐くのが上手くなったのかな、私。お父さんはすんなり信じてくれた。考えてみれば、私はずっと嘘ばかり吐いていたからね。もう心の中は、子供の頃の私とは全然似ても似つかない私になっているのに、お父さんとお母さんの前では、子供の頃の私を演じてる。そのほうが、二人を失望させずに済むから。私小さい頃はいい子だったんだ。お父さんとお母さんの自慢の娘。でも、あるとき、私はそんないい子な自分を無くしてしまったことに気づいた。今まではしっくりいっていた感じがなくなったんだ。自分の思いどうりにやろうとすると、それまでの私とは違った方向に行ってしまいそうになる。今までは思いどうりに行動しても、褒められることしかなかったのに。何かしていて思うんだ、あ、これ絶対に怒られるって。でも、それをやっちゃう。で、怒られる。お前がこんな子だとは思わなかった。小さい時はこんな事無かったのにって言われるんだ。
小さい頃の自分と比べられるって不幸だよ。そんな自分は、もうこの世に存在していないんだから。親はそんな幻のあたしに、私を何時までも縛り付けておこうとする。生まれたての無垢なわたしに。そんなの無理だよ。でも、私はできるだけ、それを演じてきたんだ。小さいころ好きだった食べ物は、今嫌いになりかけていても喜んでおかわりした。そうしないと、お母さんが悲しむと思ったから。お父さんは心底嫌いになっていたけど、好きだって言い続けた。小さい頃はお父さん子だったんだってさ。お父さんと結婚したいとか言ってたんだってよ。今じゃ、全く理解できないんだけど。
とにかく、週末だったし、お父さんが買い出しに出てカレーを作ると言い出したから、私もついて行ったんだ。だって、お父さん大好きな私だからね。行くか?って言われたら、うん、行きたいって、喜んで言わなくちゃいけないでしょ?正直に嫌いなら嫌いと、言えたらよかったんだ。でも、そうしたら、家の中がぎくしゃくするのは目に見えていたし、弟や、お母さんが必要以上に悲しむだろうと思ったから、それはしたくなかった。お母さんたら、お父さんのことが、なんだかんだ言って大好きなんだもの。弟もそう。あの二人...、特に弟を悲しませることは、私には出来ないんだ。
お父さんと二人でカレーを作って、そしてお母さんを待って、一緒にご飯を食べた。お父さんが借りてきたDVDを見て、一緒に笑った。正直私とは少し趣味が違った。でも、私は喜んで見た。弟は随分のめり込んでいたみたいで、目をまん丸にして見ていた。私はあの子がうらやましかった。本気で、お父さんと趣味が一致しているんだから。何の気を遣う必要もないんだから。昔は私もそうだったんだよ。でも、今の私は、もう、あの頃の私では、ないんだ。演技の中にしか、両親の知る私は、いない。二人ともそれは気がつかないみたいだけれど。
ただ、弟は気がついていたんじゃないかな。私はあの子にだけは嘘を吐かなかったから。正直、最近弟と話す機会が減り始めたと感じていたんだ。前みたいに、どこ行くのも一緒、では無くなってきた。弟も、少しずつ変わり始めていたんだね。でもあの子は素直だから、私みたいにそれを隠したりしなかった。それがますます、私にはうらやましかった。ああやって、自分をさらけ出せれば、私みたいになることもないんだろうね。
その晩私は夢を見たんだ....。お父さんが、家族みんなを殺してしまう夢を。理由は分からない。追試のことが、いよいよ、ばれたのかも知れない。弟は泣いていた。お母さんも泣いていた。お父さんだけが、真顔だった。怒っているようにも見えた。手に包丁を持って、家族みんなを刺して歩いていたんだ。始めに弟を刺した。それから、お母さんを刺して、私の方に向かってきたんだ。顔色は青かった。お父さんの怖い顔で目の前がいっぱいになって目が覚めた。私は怖かったんだ。体が汗でぐっしょりだった。手がわなわな震えていた。膝もかくかくしていて、立ち上がるのにも苦労した位だった。でも、私は、夢から覚めても恐怖は残っていたんだ。逃げられない。なぜだかそんな気がしていた。
逃げたいのに、逃げられないんだ。私はまだ震えていた。怖くて、怖くて仕方がなかった。だから、台所に行ったんだ、そして、何かお父さんを殺せるものを....。
そう、そのとき、殺そうと思ったんだ。
そうしないと“私”が、殺されてしまうと思ったから。
2008年6月21日土曜日
すいかのたね
ぺぺはすいかのたねをうえました。
とおいとおい日本から、アフリカまで、船に乗ってやって来た、丸くて大きなすいかは、ぺぺたち小さなギャング団によってぬすみだされてしまい、すっかり食べられてしまいました。ぺぺははじめこのかみなりのようなくだものを見て、ばくだんではないかと思いました。おそるおそる近づいてみて、ちょんちょんと指でつついて、それでも何とも言いませんでしたので、ぺぺは勇気を振り絞って、それを近くにあった石でたたき割ったのです。
さくり、という音がして、石の下から赤いしるが飛び出してきました。
ぺぺはおどろいてとびのきました。動物の血か何かだと思ったのです。
「これは、肉だぞ。」ぺぺの仲間のカカは言いました。「赤い血が流れたんだから。」
もう一人の仲間のワワはくんくんと、その割れたすいかの匂いを嗅ぎました。
「ちがう、これは血のにおいじゃない。」ワワは自信を持って言いました。
「なんだろう、これ。」ぺぺは言いました。「肉じゃないけど、血が出てる。」
「血じゃ無いったら。」ワワが怒ったように言いました。
「食べられるのかな」カカが言いました。「おいら、腹が減ってるんだ。」
「食べてみようよ。」ワワが言いました。「いいにおいだよ。」
「食べるの?」ぺぺが言いました。「僕はちょっと怖いな。」
「いくじなし。」カカが言いました。
「いくじなし。」ワワも言いました。
「いくじなしなんかじゃない。」ぺぺが怒ったように言いました。
ぺぺは意気地無しなんかじゃないことを、ワワとカカに見せるために、そのすいかの赤いところを手で掬って、口に放り込みました。
「...あまい。」ぺぺが言いました。「なつめやしみたい。」
「そんなにあまいのか」カカが言いました。「肉なのに。」
「肉じゃないよきっと」ワワが言いました。「これは血じゃないもの。」
ワワとカカはぺぺの言葉を聞いて、われ先にとすいかを食べ始めました。ぺぺも混じって三人があんまり勢いよく食べたものですから、すいかはあっという間になくなってしまいました。
「ああ、おいしかった。」カカが言いました。
「もっと食べたかった。」ワワが言いました。
「ほんとにおいしかった」ぺぺが言いました。
ぺぺはすいかを食べているあいだ、お母さんのことを考えていました。すいかがあんまりおいしかったので、お母さんにも食べさせて上げたくなったのです。
ぺぺのお母さんは昼間は町に出て、ものごいをしていました。
ふつうの身なりでは誰もなかなかお金をくれないので、ものごいをする人の中には、わざわざ足の悪い人の動きをまねして、お金をもらう人もいました。中にはもっとすごい人もいて、わざわざ本当に足を折ってしまう人もいるようでした。ぺぺのお母さんは、体が一番だいじと、ぺぺにいつも言っているような人でしたので、そんなことはしませんでした。道路でしんごうを待っている車の間を縫うように歩いて、お金をくださいと、言って歩くのでした。
ぺぺはすいかを食べている内に、これがワワの言うように肉ではなくて、植物の実のようなものだと感じたので、その中にあった、黒いたねのようなものをいくつか拾っておきました。それからぺぺは近くの街路樹の下に、そのたねを埋めました。その街路樹はとても大きなもので、毎日管理人がその根本に、水を撒いていくのを、ぺぺはしっていました。管理人が水を撒けば、このたねにも水がかかるはずでした。ぺぺはこのたねが芽を出して、早く大きくなるように、おまじないをしてから、駆け足でお家に帰りました。
お家に帰ると、お母さんは先に帰っていて、夕食の用意をしていました。
「今日は余り稼げなかったよ。」と、お母さんは言いました。
「お金のありそうな人は、いっぱいいたのにねえ。」
お母さんの作っていたのは、ぺぺの大好きなマメのスープでした。平たくて丸くて大きな豆が、すりつぶされたのとすりつぶされていないのが一緒に入った、とっても栄養のあるスープなのでした。
ぺぺの家には、隣に住むタタおじさんも来ていました。おじさんもマメのスープを食べに来たようでした。おじさんはとてもけちで、人のものはもらうのに、自分のものを人にあげることはありませんでした。
「今日の豆は、わしがもらってきたものだぞ。」タタおじさんは言いました。
「だからわしがもらうのじゃ。」
でも、ぺぺはしっていました。おじさんの持ってきた豆というのは、近くで外国人が、お金のない人たちのために配っている豆だったのです。ぺぺたちの豆も同じでした。だから、けっきょく同じ豆だったのです。
お母さんはそれをしっているはずなのに、何も言いませんでした。お母さんはいつもそうでした。タタおじさんはひどい人なのに、余り文句を言いませんでした。タタおじさんが来る日は、お母さんの様子がいつもと違う気が、ぺぺはしていましたがそれがどう違うのか、ぺぺには分かりませんでした。
「はい。豆のスープだよ。」お母さんは大きな鍋のスープをおじさんに渡しました。「これで良いね。」
「ああ、」おじさんはにこにこ笑ってそれを受け取りました。そして、うれしそうに帰って行きました。ぺぺたちのもとに残ったのは、お母さんがこっそり取り分けておいた、ほんの少しのスープだけでした。
ぺぺとお母さんはそれを分け合って食べました。お母さんはぺぺより体が大きいのに、ほとんど全部をぺぺにくれました。ぺぺはいくらかお母さんに返そうとしましたが、お母さんはもう食べたからと言って、みんなぺぺに食べさせてしまいました。
「ぺぺ。」お母さんが言いました。「ぺぺはお父さんがどんな人か、知りたいと思ったことはないかい?」
「ないよ。」ぺぺは言いました。「僕のお父さんはペルペルポンだもの。」ぺぺは胸を張って答えました。
ペルペルポンというのは、ぺぺたちの一族の英雄で、神様でもありました。昔、この土地にまだ土人間がたくさん住み着いていた頃、ペルペルポンが海から上がってきて、土人間を海の神様からもらったやりで、みんな打ち倒してしまったのでした。ペルペルポンがやりを空に掲げると、たちまち雨が降ってきて、土人間はみんな溶けてしまいました。そして、雨の降ったところにはオアシスが出来て、それがぺぺたちの住んでいる町の始まりになったのでした。
だから、毎年雨期の始まりにペルペルポンのお祭りがありました。男の子は4歳になると、小さな槍を手に持って、空に突き上げて、みんなでペルペルポンのうたを歌うのでした。女の子はこのときだけ、特別なきれいな服を着て、それにあわせて踊りました。ぺぺたち、お父さんのいない子供は、みんなペルペルポンの子供でした。カカも、ワワも、そうでした。
「ペルペルポンねえ...。」お母さんは困ったように笑いました。
ぺぺの頭の中はそれどころではありませんでした。今日うえてきた、すいかのたねのことでいっぱいでした。豆のスープを食べていても、ぺぺはどうしても、すいかのことを考えてしまって、気がつくと自然に、顔がほころんでしまいました。
ぺぺが豆のスープを食べながら、あんまりにこにこしているものですから、お母さんは不思議がって、「どうしてそんなに、にこにこしてるんだい。」と聞きました。
ぺぺは笑って、「ないしょ。」と答えました。そしてまたにこにこしていました。
お母さんはそれを見て「変な子だねえ。」と言って笑っていました。すいかが大きくなるまで、ぺぺはお母さんには教えたくなかったのです。大きな甘いすいかを突然持ってきて、お母さんをびっくりさせて、喜ばせてあげたいと思ったのでした。
ぺぺはそれを考えると、ますます顔がほころんでしまうのでした。
その日の夜、ぺぺは夢を見ました。
もちろん、すいかの夢でした。
ぺぺの夢の中で、すいかは大きな木になり、
これまで見たことのない、真っ青な花を付けました。
ぺぺたちはそれを見ながら、うれしくて木の周りを何度も何度も踊りました。
青はペルペルポンの色でした。
ぺぺはそれからすいかのことを、『ペルペルポンの実』と呼ぶことに決めました。
でもそれを、ぺぺはまだ、お母さんには教えていません。
おいしいすいかの実がなったら、お母さんにこのことを一緒に教えて上げようと、ぺぺは思っているのでした。
2008年6月17日火曜日
ハツカネズミと人間
男はネズミの脳を取り出そうとしていた。同僚の多くはすでに夏休みを取っていたため、研究室には男一人しかいなかった。
雲一つない青空が窓から見えていた。もう、お盆だもんな。男は窓の外に陽光を浴びて眩しくきらめく、隣棟の白壁を見つめながら思った。ネズミは麻酔を掛けられ、解剖台の上にうつぶせに手足を固定されて、観念したように大人しくしていた。鼻先が小さくひくついている。その様子は、男の胸中にも些かの同情を呼び起こしたが、解剖する前に、どうしてもそのネズミの息の根を止める必要があった。男は解剖台の引き出しから注射筒を取り出した。そしてそれに致死量の薬剤を詰めた。
恨むなよ。男は心の中でそうネズミに語りかけながら、注射筒に針を接続した。針先がネズミの腹の位置に近づくと、男の中で躊躇する心は急速に膨らんできた。いつもこうだった。この一針を注射する時の抵抗感は男の針先を小刻みに震わせた。抵抗感が限界まで膨らみ、血圧が上がるような感覚があって、やがてそれを突き抜ける頃には、針はネズミの腹内に達しているはずだった。
しかしその日の男は違った。いつまでも針を刺すことが出来なかった。針は小刻みに震えたまま宙に留まっていた。しばらくそうした状況が続いたあと、男は、やがてぷつりと糸が切れたように、針を持った手を下ろした。大きな溜息が出た。「やっぱり向いてないのかな。」男は一人呟いた。
男は父親だった。三歳になったばかりの男の子がいた。たどたどしいながらも親と会話ができるようになり、笑ったり泣いたり、感情表現もずいぶん豊かになった。先日は、どこで捕まえたのか、小さな芋虫を捕まえてきて、彼の書斎の机の上にはい、と言って置いていった。彼の妻はその後ろに立って息子の小さな背中を支えていたが、そのような悪さを仕組んだのは他ならぬ彼女であることは明らかだった。
彼は芋虫が嫌いだった。幼い頃、近所の悪戯好きな少女に、首筋に虫を投げ込まれて以来、彼は徹底して虫が嫌いだった。そんな彼が気づいてみれば、あのときの少女のような、悪戯好きの女性を妻にしてしまっていた。しかも、妻は息子まで、彼女と同じ悪戯好きの人間に育て上げようとしているらしかった。裏の小さな畑で泥遊びや砂遊びをするのは日常茶飯事で、ミミズをたくさん捕まえて一つの箱に閉じこめ、彼の机の引き出しの中に入れていたこともあった。庭に出ていたら、突然二階から布団が落ちてきたこともあった。息子がネクタイを締めて、七三分けにされて、すっかり中年サラリーマンみたいになって、彼の部屋に入ってきたこともある。町外れの古い町営の借家で、彼女は毎日そうした悪戯を考えながらにやにやしていた。
その妻に昨日言われた。
「あなたの仕事って、やっぱり面白い?」
休日の昼下がり、退屈しのぎに一緒にテレビを見ていた時だった。彼女は息子のために、実家から送られてきたトウモロコシを芯から剥いていた。
「ああ...、楽しいさ。好きで選んだ仕事だもの。」男はそう答えた。食べ終わったトウモロコシの芯を寝転がったまま皿に戻した。
「前から思ってたけど、今はどんなお仕事をしているの。」妻は身を乗り出して聞いてきた。
男はその質問を意外に感じた。「何だい、今頃...、どうしたんだ、今まで聞いた事なんて無かったくせに。」
妻は笑った。「結局私には分からないんだろうけど...、でも知っておきたいのよ。分からないなりに、夫のしていることくらい。わたくしの夫様が、昼間のほとんどを費やしている仕事ですもの。」そう言って、また笑った。「それに...、」
「それに?」彼は尋ねた。
「最近、思うの。あの子を見ていると。新しい命ってすごいんだなあって。生まれた時はあんなに頼りなかった小さな命が、今ではああやって、自分の手足をぶんぶん振り回している。」
妻がそう言って見た先には、口の周りにアイスクリームをいっぱい付けた息子がいた。自分で口の周りを拭こうと思ったのか、箱の中のティッシュペーパーを上手に引き出そうと、ティッシュの箱と格闘していた。彼は何時しか目的を忘れたらしく、ティッシュを箱から出すことに熱中していた。おかげで周りは、引き出されたティッシュペーパーが白い雪のように舞っていた。
彼は妻の方を見て、丸顔でニカニカと笑った。妻も笑って答えた。
「あなたの仕事も、生き物を扱う仕事でしょう?」妻は言った。「だったらきっと、私が感じる命の不思議や、神秘的な出来事に、あなたは毎日たくさん触れているんだろうなって思って。」
「まあ、それは...、」
「それもいい仕事よね。」妻は言った。「役に立つ立たないは別としても、誰もが気がつかないものと、大切に向き合えるから。」そう言って彼女はティッシュをまき散らして誇らしげにしている息子に駆け寄った。そして、積もったティッシュで真夏に雪合戦を始めた。息子はきゃっきゃと声を上げて逃げまどっていた。
男には言えなかった。
自分の仕事はネズミの脳を取り出す仕事であることを。
命の神秘だとか、不思議だとか、そんな物を考える以前に仕事に忙殺されていることを。
彼は自分の仕事の意義を、ちょうどその時、見失っていた。唯ひたすらネズミの脳を採り続けるだけの人間になっていた。
研究室の片隅の窓辺に立ち、男はタバコを吸っている。解剖台にくくりつけられていたネズミは飼育箱に再び戻されていた。命拾いしてほっとしたのか、小さな前足を器用に使って毛繕いをしていた。
彼はプロだった。その自負もあった。必要とあれば、無論ネズミも殺すことも厭わなかった。実際、これまでにも相当数のネズミをさばいてきた。しかし、飼育箱から解剖台に移すためにしっぽを掴まれたネズミが、恐怖の余り失禁して、硬直する姿を見るにつけ、彼は心を締め付けられるような思いがした。普段は大人しい実験用のネズミたちも、その時は決まって大きな声で鳴いた。
(俺の研究は、この小さな命を奪うに値する研究なのだろうか。)男はネズミを殺す度、そのような疑念を抱かざるを得なかった。この研究で、脳の機能の一端は分かるかも知れない。でも、大勢の人の命が特に救われるわけでもない。俺は結局、研究者として自分が生きていくために、このネズミたちを殺しているに過ぎないんじゃないか?
彼はこの疑念を、もうずっと繰り返し考えていたが、その答えはなかなか出なかった。妻の顔を思い出した。悪戯をする時の息子の顔を思い出した。(俺が科学を志したのは...、)男は思った。(そもそも、ああいう悪戯心が発端だったんじゃないのか?)
男は首筋に青虫を投げ入れた少女に連れられて、野山を駆けめぐった日々を思い返していた。少女の手はいつも泥だらけだった。そして、あちこち擦り切れていた。
あの頃は自分の手も、同じような手だった気がした。
男は、改めて自分の手を見つめた。白魚のようにきれいな指が並んでいた。多くのネズミを手に掛けながらも、その手は傷一つ負っていなかった。男は自らの手を見つめながら苦笑した。そして灰皿で吸っていたタバコをもみ消した。
2008年5月19日月曜日
Defect of originality
「ふふ...。ぼくは....、ぼくは爆弾...なんだ。」
少年は一人つぶやく。ある地方都市、人通りも激しい駅前の中央交差点を前にして。
目の前には大型の電気店、その脇には同様に集客力のある大型書店。信号が赤から青にめまぐるしく変わる度に、人と、車が交互にその交差点を埋め尽くした。
そんな、人混みの中に一人、紛れていた少年。
もうじき夏だというのに、長いコートを着て、髪の毛はしばらく切っていないのか伸び放題。元々パーマ気のある髪は、すっかりぼさぼさになってしまっていた。
コートの下は裸だった。分厚いコートの生地が歩く度に直接に肌をこすれ、少年は常時、こそばゆいような感覚を味わっていた。
目は、前を見すえている。そして、口元だけが笑っている。
「僕は...。僕は爆弾、だぞ.....」
へへ。少年は笑った。
こいつらは知らない。僕が爆弾だって事が。見ろ、あそこの女。世界で一番、おまえが見られているかのように、スカートをまくり上げて、太い尻を半分出して、長い付けまつげを振り回してやがる。もし、此処で、僕が爆弾だって知ったら、どうなるのかなあ。
へへへ。少年は再び笑った。
彼の脳裏には、その怖い物を知らないようにすら見えるきつい目つきの女子高生が、恐れおののいて逃げまどい、そして彼に哀願するように泣き叫ぶ様子が見えていた。
そうさ、僕に、乞うほか無いんだ。どんな、美人も、不細工も、此処にいる、男も、女もぜえんぶ...。
少年の口の端から唾液が出て、その灰色のコートの端に付いたのに、少年は気づく様子はなかった。唯、ひたひたと、道の真ん中を目指して、歩いていく。
月曜日の昼下がり。お昼休みもそろそろ終わる時間となり、人々は昼食を食べていた店を出て、仕事の待つ会社に戻るため、路上にどっと繰り出していた。
一様に陰鬱な雰囲気と、蘇り始めた緊張感に、都市のその一角は包まれていた。人々の目は真っ直ぐにオフィスの自分のデスクの上のいくつか積み重なった書類の山を見すえていた。見つめる方向が、たとえ同じであっても、彼らの見ている物は相互に異なっていた。
少年はその視点の交差する、中心点に向けて歩いているのだった。
グラウンド・ゼロ。
いつかの事件にまねて、彼はその地点をそう呼んでいた。
あの瞬間、全ての、交差する視点が、
あの一点に集中したんだ。
少年はそんなことを考えていた。
見ているようでお互いを見てもいない、この街に、僕は新たな視点の集結点を見出すんだ。
そしてそこに僕がいる。
少年は再び笑った。
少年はその瞬間を想像しては、何度も恍惚を味わった。長い間自分の求めていた物が、今、まさに手の届くような距離にまで近づこうとしている。自らの脚がもどかしい。しかし、そこに早く至ってしまうのも、また、つまらない。
彼の脚は、その二つの相反する思惑に縛られたかのように、すり足ぎみに、じわりじわりと距離を縮めた。
街頭の人通りは一層混雑を増した。地下鉄が着いたのか、駅からどっと人が塊のように出てきた。横断歩道前に立ち並ぶ人の列。いや、群。いろいろな臭いが入り交じり、音も激しく鳴り響いてはいるものの、会話は驚くほど少ない。孤立した群像。
少年もその中にいた。
すでに、彼は目的とする交差点の中央まで、あと少しの距離。
「あと、少しだ....。」
少年がにやりと笑んだ。その時、彼が何のことを考えていたのか、もう知る術はない。
彼が嘗て交際し(彼はそう信じていたが、それは彼の思い過ごしであったようだ)そして、裏切った数人の女性が、この付近で働いていた。彼はその復讐が間近に迫っていることを、喜んでいたのかも知れない。
あるいは、こんな事も関係しているのかも知れない。
彼は、幼い頃から、目立ったところがない少年だった。幼い頃の彼を知るという誰に聞いても、小さい頃はいい子だった、と言う決まり切った言葉しか返ってこない。それは言い換えれば、これと言った印象がなかったと言うことの、裏返しである。
その短い人生で、彼は何度となく、自分が社会から無視されているという感覚を味わってきたのだろう。その多くが、やはり同様に思い過ごしであったことは、事実だが。
実際、彼には、彼のことを考えてくれている友人が数人いた。しかし、少年の側が、その友人達のことを、どの程度考えていたかは疑問が残る。
こうなると、孤独はどちらが作り出したのか、分からない。
いずれにしろ、彼は、人の流れの交差するその点の上に立ち、
右手に起爆装置のスイッチを握ったまま、天を仰いだ。
信号は青。人々は、こちらから、向こうから、彼の前を大勢行き過ぎた。
彼は、その時、天に向けて何事か叫んだ。が、それを正確に聞いた人はいない。
都市に暮らす人々はすでに、こういう輩には慣れていた。
そして、そこから身を守るのは、無関心であることを人々は長い都会暮らしの中で学んでいた。
普通と言う殻に閉じこもった人間と、閉じこめられた人間とが、交差していた。
青信号によって生まれた一時的な雑踏。
だが、それも、これまでだ。
彼は思った。
これを押せば、全てが変わる。
彼は“普通”を破壊しようとしている。
長らく、封じ込めた....。
それを思うと、身体がぞくぞくと震えた。
未知の感動に、彼の恍惚は一気に高まり、そして溢れた。
何かが、どくどくと彼の中から垂れてきて、
内ももをひやりと濡らした....。
彼は微笑んだまま、
右手の中のスイッチを押した。
かちり。
乾いた小さな音を、彼は聞いた気がした。
***
葬祭場は、黒と白とに彩られていた。
好きでもなかった、多くの菊の花に囲まれて、彼の笑った写真が見える。
その笑いはどこか引きつったようで、おそらくは笑えと言われて笑ったんだろうなと見る者に想像させるほど、不自然な笑みだった。
高く掲げられた段の前で、一人泣いている女性がいる。おそらくは彼の母だろうか。
父親の姿は、ここからは見えない。
参列者は数十人。決して多くはない。
しかし、彼の生前感じていたであろう孤独を考えれば、この人数は、むしろ多いと言っていいかも知れない。壇上の彼は相変わらず不自然に笑っている。
「全く、ご不幸なことでありました。」
誰かが、彼の母に弔いの言葉を投げかけた。
「いいえ...。」
母親は言葉に詰まった。
「交通事故、だそうで。あんな人通りの多いところでも、本当に、無責任な運転をする奴が....。」
「ええ...。ほんとに、不幸なことでありまして...。」
母親は答える言葉を持たない。
「ところで...。息子さんは、一体何をなさろうとしていたのでしょう?からだに...。無数の電気コードが巻かれていたとか....。」
遺留品に...。トイレットペーパーの、芯が....?
まあ...。
入り口付近に集まった夫人達の、ひそひそとした会話が聞こえる。
それは確かに、祭壇の前の母と男にも届いたが、母はそれを、努めて聞かないようにしているようだった。その様子を見て、慰問の男も、それ以上、彼女の息子の目的について聞こうとはしなかった。
慰問の男は彼の祭壇に手を合わせると、棺桶の小窓を開けて、その亡骸をのぞき込んだ。
「しかし、奇跡的にとでも言いましょうか、事故でご不幸に会われたにしては安らかな笑顔だ。まるで、こういっては何ですが...、幸せそうな....。さぞ、ご多幸な人生だったので、しょうな....。」
小窓の中の彼は、恍惚に浸った表情で眠っている。
男が、思わず幸せそうだ、と言ったのも無理はなかった。
誰の目にも、写真中の生前の彼より、それは確かに幸せそうに映った。
母親はその彼の亡骸をじっと見つめている。
そして、最後に彼のこうした笑顔を見た日のことを思い出そうと努めたが、それはいずれも、古ぼけた、あまりに幼い日の面影に過ぎなかった。
母は一人、涙に顔を伏せた。
男はそんな母を慰めるように言葉を掛けた。そして、祭壇の彼の遺影に再び目を遣った。
遺影の中に微笑む、引きつった笑顔の彼と、不意に目があった気がした。
男は人知れず、ぶるり、と身震いした。