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2009年4月2日木曜日

揺れる

前の席に座っていた彼女が、髪を少し染めてきた。

その変化に、初め僕は気がつかなかったのだが、仲の良い友人の一人が、冷やかすように、僕にその変化を告げたので、僕はようやくそれに気づいたと言う位、それは染めたと言っても微々たる色の変化に過ぎなかった。

ただし、彼女はそもそも優等生的な性格の生徒で、髪を染めるというような、教師に睨みをきかされる危険をわざわざ冒すような感じでもなかった。目立つことも余りしなさそうな、ごく大人しい、真面目な生徒。僕は最近まで、彼女をそう思っていたし、それはクラスの、他の生徒達も、同じはずだった。

何故、急に彼女が、髪をを染めてきたのか。
クラスの、特に僕の身の回りの男子達は、しきりにそのことを噂しだした。僕の顔をちらりちらりと嫌らしい眼差しで見ながら、へらへらとした笑いを浮かべて、彼らは楽しそうに各自の持論を述べ立てた。

「...やっぱ、彼氏だよ」
ある友人が言った。
「だって、急に髪染める理由なんて、他に考えられるか?ぜってえ、男」
彼はそう言うと、歯をむき出して、僕の方を向いてへへへと笑った。
「あいつが、C組の工藤と一緒に歩いて帰るの、見たって奴いるぜ」
「ああ、ヤスコだろ」
別な男子が言った。
「ヤスコがバイト帰りに、駅前で見たんだってさ。7時位だって言ってたから、結構遅い時間じゃねえ?」
「工藤、電車通学だもんな」
にたにたと笑って聞いていた、最初の友人が言った。
「...どっかで時間潰して、送ってったんだよ、きっと」

僕はその話しを、興味があるような無いような、微妙な表情を浮かべながら聞いていた。正直、その話しを詳しく知りたいとは思わなかった。ただ何か、自分の想像できない場所での、彼女の振る舞いや、見たことのないはずの情感のこもった表情が、ありありと脳裏に浮かんできそうになって、僕は慌てて、その思考を抑えていた。

「お前、いいのか?」
最初の友人が言った。
「工藤に取られちまうぜ」
「...べつに、いいよ」
僕は、薄ら笑いの表情を変えずに、彼に言った。
「付き合っているわけでも、ないし」
「だから、子供なんだよ」
あきれたように彼が言った。
「付き合ってるかどうかじゃないだろ、お前が好きか、どうか、だ」
彼は、また歯を見せて、にたにたと笑った。
「行っちまうぞ、そんなこと言ってると。いずれにしろ、損するのは、お前だ」


放課後、僕と彼女は、一緒の掃除の班だった。
体育館掃除という、何とも漠然とした掃除。運動部が、毎日、念を入れて磨いているアリーナに、僕らがすることなど、何もなかった。とりあえず、薄汚れたモップを持って、広い体育館を、縦横に往復する以外、することはないのだ。

掃除が終わり、班の他のメンバーらは、さっさと教室に戻ってしまった。
班長だった彼女は、掃除が終わったことを体育教官室に伝えに行った。僕はそれを見届けた後、他のメンバーの後を追い掛けて、教室に帰ろうとした。


その時、ふと、体育館のステージの上に、バスケットボールが一つ転がっているのに気がついた。誰かが、体育の時間にでも使って、そのままになっているのかも知れない。僕は余り気に留めなかった。だが、気づいていながら、そのままそこを立ち去るのも、後ろめたいように感じた。仕方なく、ステージの上に上がると、そのボールを拾い上げ、手持ちぶさたにドリブルをしながら、用具室の古びたカゴの中に、そのボールを放り込んだ。

「...まだ、なにかあったの」
後ろから、彼女の声がした。
「...ボール」
僕は振り向くと、彼女に向かって、手短にそう答えた。
僕がふり返るとほとんど同じ位のタイミングで、彼女は丸い目を大きく開けて、何か言いたそうにしながら、くるりと向こうを向いてしまった。そして、僕の先に立つかのように、ゆっくりと出口に向かって歩き始めた。

僕も何か話したいことがあったわけでもないし、彼女の後に付いていくようにして、何もない体育館を縦に歩いた。

先に立った彼女の髪は、言われてみると、少し茶色っぽいような気がした。しかし、それくらいの色であれば、光りの加減で、何とでもなるという程度の色の明るさだった。もしかすると、彼女は元々やや赤毛で、最近になって、ようやく周りがそれに気づいたというだけのことかも知れない。僕はその時、そう思った。

先だって歩く彼女の髪が、深い紺色の学生服の上で、彼女が歩みを進める度、ゆらゆらと迷うように大きく左右に揺れた。それは少々、僕にはわざとらしくも見えた。もしかすると彼女は、変化した髪の色に、気づいてもらいたかったのかも知れなかった。

それでも、正直、僕はもう、彼女に話すことなど無いと思っていた。
いつも通りを装っていても、彼女は本質的には別の人間になってしまったように僕は感じていた。恋愛をしてしまった人と、未だしていない人の間には、大きな差異があるように僕は思う。前者はいつも嘘つきで、可能な限り真実を小出しにしようとし、後者は悲しくなるほどに、自分を表にさらけ出そうとする。

今の彼女は、その嘘つきになってしまったのかも知れなかった。自分の気持ちのよりどころを隠し、いつもと同じ彼女を、装っているだけかも知れなかった。僕にかけてくれるどんな言葉も、それは装うための文句に過ぎず、本当の心のありかは何処か遠い、自分の知らない誰かの所にあるのに、違いなかった。

彼女の揺れる、やや赤い髪は、その内心を早く公にしたいという、相反する彼女の心の表れではないかと、僕は思っていた。僕はだから、彼女に、もう何も話しかけたくなかった。言った言葉のすべては、僕の中で嘘になり、傷つくことだけが、いつも真実になってしまうのだ。

真実など知りたくなかった。
嘘なら嘘で、ずっと優しい嘘をついていて欲しかった。
彼女をこのまま恨んでしまいたかった。もう、何を言っても、出来る限りぶっきらぼうに振る舞って、何も話すことなどしないでいてみようと、目の前で揺れる、やや明るくなった様にも見える彼女の髪を見ながら、僕は硬く、心に誓っていた。

「ねえ、」
前を歩いていた彼女が、少し僕の方を振り向いて言った。
「...あんまり、後ろばっかり、見ないでよ」
彼女はおかしそうに笑った。
「いつもそうなんだから。後ろを歩かないで、横に立ってくれればいいじゃない。話も出来ないよ」

僕はそう言われて、咄嗟に彼女の横に立った。
彼女は柔和な笑みを浮かべて、僕を見ていた。それが何を意味しているのかは、解らなかった。

「お姉ちゃんがね、」
やや唐突とも思える間合いで、彼女が言った。
「...わたしの髪は重いから、少し染めてみたらって言ったんだ。髪なんて、あんまり染めたこと、無かったんだけど、そんなに色は抜かないからって」
彼女は自分の髪を右手の指先に少しつまんで、首を傾げるようにして、それを見つめた。
「なんか、ちょっと赤かったかな」
「...気にならなかったな」
僕は言った。
「そう?」
彼女は、意外そうに僕の方を見つめた。
「結構、鈍感なんだね」
彼女はおかしそうに笑った。
「...ついでに、前髪も切ったの、気づいてた?」
「いや、全然」
僕は答えた。彼女はまた、口に手を当てておかしそうに笑った。
「...今日、教室の後ろの方で、わたしが髪染めたこととか、みんなで話してたでしょ?あの人達、今日わたしが学校来たらすぐ気づいて、何で何でって、その話しばっかりしてたの。わたしが、お姉ちゃんに言われたことを話したら、納得したくなかったみたいで、なんだか残念がってた。...みんな、変化をほしがってるんだね、たぶん。恋愛とか、失恋とか」
彼女は、穏やかな表情を浮かべたまま、静かに溜息をついた。
「そんな、面白いことばっかり続かないのは、お互い様なのに。....私達みんな、カゴの中の鳥みたいだよね。本当はもう飛べるのに、飛べないと思いこんで、大人しく、ご飯をもらったりして。出来ることと言えば....、誰かを思って、歌でも歌うくらい。届かないかな、なんて、思いながら」
彼女がふと、僕の方を見た気がした。しかし、それは気のせいのようだった。
僕が見た時には、彼女は平然とした顔で、前を向いて歩いていたから。

その時、彼女が僕の見つめる目の前で、またもや唐突に口を開いた。
「...コンタクトにしてみたら?」
「え?」
「ううん、部活でも楽になるかなって、思っただけ」
そう言うと、彼女は歩く速度を速めて、再び僕の前に立って歩き始めた。そして、体育館の入り口までたどり着くと、小さくなった身体で僕の方を振り向いて、
「...かぎ、閉めるよ!」
そう言って、本当に向こうから扉を閉めて、鍵を閉める動作をした。

僕が慌てて彼女に追いついて、扉を押し開け、今にも鍵を掛けようとしたその手を押さえてしまうと、僕の眼鏡越しに一瞬、僕の目を彼女が見た。そうして、今度は僕の見つめる前で、少し勿体ぶるように、ゆっくりと、誰もいなくなった体育館の扉に鍵を下ろした。

2008年9月29日月曜日

夏の記憶

祖父は幼い私を、いつも抱きたがっていた。私がご飯を食べている時も私を膝の上に載せたがって、甘い声で、

「こっちへこねえが?」
と呼び寄せたりする。

私も、優しい祖父は大好きだったから、祖父がそう言ってくれればすぐにでも立ち上がって、彼のあぐらの上に喜んで腰を下ろした。でも、そう言う時は決まって、
「これ!」
と、傍らから檄が飛んできた。目尻をつり上げた祖母が、恐ろしい形相で、祖父を睨んでいる。その表情を見て、私は自分自身が怒られているような気がして、怖くて泣きそうになった。

なぜ、祖母が祖父をことある事に怒るのか、私には分からなかった。

祖父は庭仕事が好きで、天気のよい日にはよく庭に出て、花壇の土を掘り返しては、新しい花の苗を植えたり、植木の剪定をしたりしていた。

祖父が特に好きだったのは朝顔とチューリップで、中でも朝顔は殊更、力を入れていた。大きなおなかを窮屈そうに丸めてしゃがみ込み、せん定ばさみをくわえて、朝顔の蔓が巻き付きやすいように、細い竹の格子を作ったりしていた。祖父の太い指は驚くほど器用で、そうした物をあっという間にくみ上げてしまった。

私は、祖父の指が竹の格子の上を行ったり来たりしながら、見たこともない結び方で、どんどん格子が組上げられていくのを、まるで魔法のわざでも目撃したかのように、目を輝かせてみていたそうだ。

しかし、そうして、祖父と私が気分よく庭仕事をしていると、決まって後ろから聞こえてくるのは祖母の声であった。

「これ!」

私はいつも、その声を聞くと、驚いて立ちすくんでしまった。
祖父を見れば、彼も同じように立ちすくんでいた。まるで悪戯をとがめられた少年のように、すごく申し訳なさそうな顔をして、縁側から顔を出して怒る祖母を見ていた。

私は、祖母が嫌いであった。

こんなに、子供のような心を持つ祖父をガミガミ言う祖母が嫌いであった。
祖父が、自分の布団で私と一緒に寝ようとしている時に、それを取り返してしまう祖母が嫌いだった。
祖父と縁側に出れば怒り、庭に出れば怒り、散歩をしても怒る祖母が、嫌いだった。

祖母はきっと、祖父が嫌いなんだろう。
子供心に、それが分かった。

おじいちゃんは、いつもかわいそうだ。

私は祖父と一緒にいる時には、必ず祖母が居ないのを見計らうようになった。
そうすれば、私も、祖父も怒られずに一緒にいることが出来るからである。

私は、祖父と一緒にいたかった。
もっと、何時までも、一緒に。

なのに。


祖父が死んだのは、突然だった。

正確には、突然と思っていたのは、幼かった私だけだった。
祖父は、末期の脳腫瘍を患っており、実はかなり長い期間、入院していたのである。幼い私には何も知らされず、祖父は、遠い大きな街に住んでいるとしか、理解していなかった。

この退院そのものが、もう手の施しようのない祖父への、病院側の、せめてもの計らいだったのだ。

しかし、それは、おそらく祖父自身も知らなかった。
知っていたのは祖母と、私の両親だけだった。


私は覚えている。

朝食を食べている祖父の、白米の盛られた椀に、鮮血の雫が、ぽたり、と落ちるのを。

見れば、祖父の鼻から、血が滴り出ていた。数時間経っても祖父の出血は止まらず、そのまま病院に担ぎ込まれた。

私はその日から、祖父を見ていない。


大輪の朝顔が、華々しく裏庭に咲き誇った、夏の初めの出来事だった。
前日まで、祖父はそれを見ながら、満足げに笑っていたはずだった。

この世界の青を全部集めたような、色とりどりの朝顔が、祖父の用意した、大きな竹の格子を埋め尽くさんばかりに咲いていた、7月。

祖父の笑顔と、朝顔の青と、白米の赤い鮮血。


私の、最初の夏の記憶。




そらから程なく、家の前に、大きな提灯が飾られた。
白黒の幕が、周囲を取り囲んだ。

祖父の遺影が、先祖の遺影の列に、新しく加えられた。


祖母はその日から、誰も怒らなくなった。
もう、顔を真っ赤にして
「これ!」
と叱ることも、なくなってしまった。

2008年8月30日土曜日

無題

東京から神奈川に入り、海の見える海岸線沿いの道をずっと南下していった先に、小さな一軒家があった。

「早々庵」

その家の入り口には、古い木材に、筆字でそう書かれた表札がかかっていた。
その家に住む老人は、齢67に過ぎなかったが、頭はほとんどはげ上がり、見た目にはもっと年取って見えた。
先年妻が亡くなったため、彼は一人だった。それでも、家の庭に小さな畑を構え、そこでピーマンや白菜など日常使う野菜を育てては、自らの食事に供するという生活をしていた。幸い病気もなく、街に通うのも、数時間に一本走るバスに乗って、週1,2度出れば十分という生活をしていた。

早々庵、と言う名前は、彼の妻がまだ元気だった頃、せっかちな彼をよくからかっていたことに由来している。しかし、若い頃はせっかちだった老人も、今ではすっかり大人しくなった。

「お前ののんきさが、移ったのかな」
老人は姿のない妻に、時々、そう語りかける。

妻が亡くなり、家族は彼と、一匹の猫だけになった。
子供は結局授からなかった。妻は、それを気に病んで、死ぬ間際まで、度々それを口にした。
夫はそれを聞く度、
「そればかりは、運命みたいなものだ」
と言って妻を慰めてはいたが、何かしら後味の悪いものが残った。
彼も子供が欲しかったのは山々だったからだ。
結婚する前、子供は何人欲しい、などと喜色ばって二人で話していた頃を思い出す度に、夫は溜息をついた。

しかし、その妻もなくなった今では、その夫は、これはこれで、良い人生だったと思っていた。二人の間に、子供という存在がなかった分、彼らは何時までも、夫婦でいられた。他の同僚達が、何時しか夫婦から、父母へと移り変わっていったのとは対照的に、彼らは彼らを大切にして時間を過ごすことが出来た。それだけ、彼らの間には濃密な時間が流れていたし、おそらくは、子供のいた夫婦よりも、その絆は強かったのではないかと、老人は思っていた。

一匹の猫は、その時間を、特に後半の数年間を見てきた猫だった。
子供がいなかったので、夫妻は猫を数匹飼っていた。始めは、近所の数匹の野良猫に、妻がえさを与え始めたのがきっかけで、それから人なつこい赤い虎模様の一匹が、すっかり飼い猫のようになついてしまったのだった。飼ってみると、その猫は雌だったようで、ある日、縁側の下に捨てられた段ボールのなかで、かわいらしい子猫を数匹産んだ。その子猫のうちのほとんどは猫同士の力関係に破れたのか、家を去ってしまったが、一匹の斑の猫だけが家に残った。長い夫婦生活のなかで、猫は何度も子供を産み、そして世代が代わっていった。
今いる猫は、始めに飼った猫の、7代目か8代目くらいに当たっていた。心なしか、その頃の猫の面影が、ここにいたって再び蘇ったような気がするほど、その猫の毛並みはかつての猫に似ていた。名前は、初代の猫にあやかって妻が「とら」と名付けた。8歳の雌の猫だった。

老人は晴れた日には、縁側から道路越しに静かな海を見ながら、とらの頭を撫でているのが好きだった。とらも、もう長いことそうされてきたためか、老人の細い足の上で、大人しく丸くなっていた。

神奈川沖を通る船は昔老人が見た時よりも大きく代わっていた。
かつては小型の釣り船や、漁船が行き来していた頃もあったが、今では大きなレーダーを積んだモーターボートのような船が縦横無尽に駆け回ることが多くなった。遙か沖の方では、大型フェリーかあるいはタンカーや貨物船の様な巨大な船が、海に浮かぶ要塞のようにじっとして、そしてじりじりと前進しているのが見えた。
有機的に打ち寄せる波間に、そうした無機的な構造物が、浮かび上がっている様を見るのはなんだか不思議な光景だった。

それでも、老人は総じて海が好きだったし、それはかつての妻も同じだった。この家はそもそも、彼と彼女が老後に住まうために購入した家だったからだ。その妻は、この家にまもなく越すという段になって死んだ。

老人は計画を一年延期し、ここに住まうことを半ばあきらめた時期もあったが、結局ここに引っ越して来た。

妻の亡くなった家に何時までもいるのはつらかったし、彼女も夢見ていた生活であったから、老人は彼女の魂と暮らすつもりで、この家を彼の最後の住居にすると決めた。

越してきてすぐに、声を掛けてきたのは隣の家の夫人だった。
長川、と言うその家は代々その土地で漁師をしており、彼の夫もまた漁師だった。ゴム長に防水のカッパ姿で現れた長川の夫人は、老人が一人暮らしであることを知ると、幾分不安そうにしていたが、「何かあったらいつでも声を掛けてください」と気さくに受け入れてくれた。

田舎住まいの経験に乏しかった老人としては、そのような隣人の好意というものにほとんど触れずに過ごしてきたので、たったこれだけの心配りにも、大いに感激したものだった。

長川の夫妻は、実際本当に老人を気に掛けていた様子で、時々彼を食事に招いてくれた。
彼らには中学生になる男の子と、今年小学校を出る女の子がおり、家は常に騒々しかった。中学の男の子の方は、思春期と言うこともあって、見知らぬ老人にうち解けるのに随分時間がかかったが、この夫妻の子供だけあって元来素直らしく、半年もすると老人にぼそりぼそりとではあるが口をきくようになった。
女の子の方は早いもので、あっという間に老人と親しくなり、退屈な時は彼女の側から老人の家に遊びに来るほどだった。

長川の家で出される料理はどれも取れたての魚介で、一人暮らしでそういうものをなかなか食べる機会のない老人には大変ありがたかった。お礼に彼の方でも、季節事に、家で取れた野菜を持って邪魔することにしていた。

素人の作った、形の悪いものも多かったが、長川の夫人は喜んで、それをその日の夕食に早速使ってくれた。老人にとってそれは自分の努力の報われる、何とも言えず楽しいひとときだった。

2008年7月4日金曜日

One for Helen

少年にとって18回目の誕生日を祝ってくれたのは、幼げな顔の少女だった。
「高校生最後の誕生日だね。」彼女は言った。
「私達にとっては始まりだけど。」そう言って彼女は目を細めて笑った。

少年も併せて笑ったが、その裏で、彼は付き合いの不思議を考えていた。数ヶ月前まで、誰が、彼女と一緒に誕生日を祝うなどと考えていただろう。彼女は彼にとって、無数にいる友人の一人に過ぎなかった。それが今や特別な存在になり、彼にほほえみかけている。彼は彼女の微笑みを見ながら、何やら空恐ろしいものを感じた。今こうして目の前にある幸せも、あるいは同じように急速な時間の内に失われてしまうような気がした。水のように形のない、彼と彼女の幸福。

「どうしたの?」差し出されたプレゼントに、おどろいた反応を見せない彼に、彼女は不思議そうな目をして問いかけた。
「...ああ、なんでもないよ。ありがとう。」少年は大人しい笑顔を浮かべた。
「どういたしまして。いつもお世話になっています。」少女は口先だけ改まったが、顔つきは親しげに笑ったままだった。
「中身は何?」少年は差し出された緑色の柄の小包を掌に載せて言った。
「開けてみて。」少女がそう言うので、少年は包みを開けた。

中には小さな犬のマスコットが付いた、携帯ストラップが入っていた。
「あんまりバイトも出来ないから、こんなので精一杯なんだけど、」彼女が言った。
「でも、ほら。」
少女が差し出した、彼女の携帯には同じマスコットの色違いのストラップが取り付けられていた。
「おそろいを買ったんだ。...何かいつも身近にあるものを、プレゼントしたくてさ。」そう言うと少女は少し恥ずかしそうに俯いた。
「...ありがとう。」少年は微笑んだ。「大切にするよ。」そう言うと彼は早速それを包みからだし、自分の携帯に取り付けた。はにかんでいた少女もそれを注意深く見守っていた。
「..ほら。」少年が少女の前に自らの携帯を差し出すと、少女も自分の携帯をもう一度見せた。
そして、また、さきほどのように、目を細めて笑うのだった。

そこは位夕暮れの公園だったので、少女は少年の手元まではよく見えていなかった。少年の手の中には、それまで付けられていたストラップが、むしり取られるようにして握られていた。
少年は、そのストラップを嘗て送ってくれたいつかの少女に、申し訳ないと思いながらも、それをむしり取ったのだった。
少女はそれに気づいていたかも知れなかった。むしろ気づいていたからこそ、似たような犬のストラップを送ったのかも知れなかった。
少年は彼女がそこまで自分を試すようなことをしたがっているとは信じたくなかったが、それでもそう考えざるを得なかった。彼女は嘗て彼の付き合った少女の、同じクラスの同級生だったからだ。二人は性格も正反対で、仲も余りよくなかった。

しかし少年はそのいずれをも好きになってしまった。

始め付き合った少女は今の彼女よりもずっと積極的で、むしろ彼の方が彼女からアプローチされたほどだった。彼はそれまで恋というものを余り知らなかったし、せっかくなので恋愛した。

付き合ってみると、恋愛はとても面白いものだった。彼女と居るのはとても楽しく、話が尽きても時間は十分に埋められた。彼がそれまで感じていた、話し尽きて沈黙することの恐怖は、恋人同士の場合には存在しなかった。逆に、沈黙は二人の間に関係の充足をもたらしてくれるということを、彼は恋をして初めて知った。

彼は彼女ともっと一緒にいたいと思い始めたが、しかしその恋は長くは続かなかった。メールのやりとりにつきまとう、小さな誤解が発端となり、彼と彼女の恋はあっけなく潰えてしまった。彼女に送るはずのメールが、別の女子生徒に送られてしまったのである。運の悪いことに、その女子生徒は彼の幼なじみだったため、誤解はより大きくなった。彼が弁解すればするほど、彼女の中で疑惑は大きく膨らんだ。そして、取り返しの付かない言葉まで言ってしまって、彼女はへたりとその場に座り込むと、
「...もう疲れた。」と言い残し、彼の前から去った。

その終わり方は、あまりに唐突だったためか、
彼の中でなかなか、彼女との恋愛に終止符は打たれなかった。彼の携帯の待ち受け画面は彼女が、近くの公園で見かけた犬と戯れている写真だったが、彼がそれを変更したのは、彼女と別れて数ヶ月も経った後だった。

実際それまで、彼の部屋には彼女からもらった手紙が目に付く範囲に置かれていたし、一緒に行ったゲームセンターの景品のカエルの人形が、にっこり笑って彼のベッドサイドに座っていた。

彼女と別れると、身の回りのものを急速に整理する人がいると言うが、彼はなかなかそのような感覚になれなかった。元々物に無頓着なこともあるのかも知れないが、それでも、物を見れば思い出すのは彼女であることに違いはなかった。

実に意外なところにまで、彼女の影響が及んでいることを知って、彼が驚きを感じたことも、一度や二度ではなかった。それでも彼は、気がついたところから、徐々に彼女の思い出を整理し始めた。そしてその年の冬が終わり、春になる頃には彼は彼女と廊下で擦れ違っても、何とか普通に挨拶できる程度には関係を作り直した。

その矢先である。彼が、今の彼女と付き合うようになったのは。

彼女のことは彼は以前から知っていた。1年の頃は同じクラスだったし、外見がかわいいと、ちょっと評判の子でもあった。彼も彼女のことは気にはなっていたが、ただ、それだけのことだった。そう言うこと付き合うと言うことが、自分のように平凡な人間にはあり得ないと決めつけていることもあったし、なにより、彼の最初の彼女が、あからさまにその少女を嫌っていたからである。

彼女に言わせれば、少女は「かわいい子」を気取ってるそうなのだ。

そう言うみんなからかわいがられようとする態度は、彼女の神経を逆なでするようだった。
「怒って脣を突き出すような高校生、どこが良いの?」彼女は時々彼に言った。
「男子の感覚って分からない。」

その言葉は決して、彼に向けられた物でないことは彼にも分かっていたが、彼は自分も怒られているような気がしてならなかった。案の定、彼もその後こうして、その少女を本格的に好きになり、つきあい始めるまでになってしまった。

人間関係は、つくづく不思議な物だと彼は思う。どうして、性格も正反対で、お互い仲の悪い二人の人間に、彼はいずれも恋することが出来たのか、自分の心の内をのぞき込もうとしてみても、答えはなかった。

今の彼女とつきあい始めてから、せっかく立ち直りかけた元の彼女との関係は見事に砕けた。彼女はもう、彼と廊下で擦れ違っても、笑顔一つ浮かべてはくれなかった。

「...あの子って、愛想悪いよね。」今の彼女はよく言う。「廊下であっても、なかなか挨拶してくれないでしょ。...よくないよね、ああいうのって。」
彼はそう言われても、ああそうだねと、肯定する気にもなれず、困ったように笑うだけだった。

そう言う無愛想な少女を愛したのも、また彼だったから。

今の彼女は時々、彼の前の彼女から言われたという、いろいろな皮肉や冗談半分の苦言を彼の前に披露することもあったが、彼は本気で以前の彼女を憎む気にはなれなかった。彼女をそうさせている一端は自分にもあると感じていたから、彼はその責任の一部は自分にあると考えていた。

「ねえ、どうしてあの子を好きになったの?」今の彼女は、元の彼女に皮肉を言われた言う時は決まってそう聞いた。
「さあ、なんでかな?もう俺にも分からなくなったよ。あんな奴のこと。」彼はそう言って空虚に笑った。大きな罪悪感が心の内で渦巻いていた。「あなたが振って正解だったよ。」彼女は言った。「あの子とずっと居たら、きっと幸せにはなれないよ。」彼女は、彼の方が彼女を振ったのだと信じ切っていた。彼は何も言わず笑うほか無かった。
「あの子があなたとうまくいくはずないんだから....。」


「そのストラップ気に入ってくれた?」彼はその声にはっとした。
「...ああ、ありがとう。」努めて穏やかに彼は笑った。気づかれないように手の中の古いストラップをポケットに仕舞った。
「よかった。」彼女はありきたりな笑みを見せた。彼は心の中で失笑した。
「これからも、仲良くいようね。」彼女は彼にそう言った。
そして、決して力強いとは言えない彼の肩にその身を預けた。

彼は、彼女の暖かさを感じながら、この恋はもう長く続かないと感じていた。

いずれ来るべき時が来て、彼のもとから、この水物のような幸せは奪い去られてしまうような気がしてしょうがなかった。

彼は彼女を強く抱いた。そして激しく脣を奪った。そう言う乱暴な手段に及んだのは彼にとって初めてのことだった。しかし、後先の知れた関係の末路に、気兼ねする理由もなかった。

煌々と照らす月明かりの下、見ている者はいなかった。


彼が彼女と別れたのは、その日から数日後の、ある晴れた朝のことだった。
幼なじみへ送るメールを、何も知らない彼女のアドレスに送信した。

彼の携帯にはその時のメールはもう無い。

物に頓着しない彼だったが、その時のメールから、彼女にもらった物もすべて、その日の内にみんな処分してしまっていた。

2008年6月28日土曜日

お姉さんになる日

「ねえ、先生。」
放課後、教室に残って先日の課題の添削をしていた私のもとへ、クラスの女子児童の一人がやってきた。
「なんだい?」
私は答案から目を外し、少女の顔を見ていった。少女はまん丸い目を更に円くして言った。

「お母さんが妊娠したの。」
私はどきりとした。少女の口から妊娠という言葉が飛び出すとは予測していなかった。
「ほんとかい。」努めて冷静に私は言った。「じゃあ、お姉さんになるんだね。」
「お姉さん?私が?」少女の円い瞳が喜々と輝いた。「私、お姉さんって呼ばれるの?」
「そうだよ。」私は微笑んで答えた。「もっと、お姉さんらしくしないと、赤ちゃんに笑われるぞ。」
「お姉さん、お姉さん。」少女はうれしそうに何度も繰り返した。
「お姉さんなんだ、ちいさい私が。」
「小さくても、お姉さんはお姉さんさ。」私は笑った。
「そうだよね。」少女は言った。「赤ちゃんは私よりきっと小さいもの。」
少女はその場で意味もなく、くるくると回った。うれしさが彼女をそうさせるようだった。
「先生は、赤ちゃん見たことある?」
「そりゃあるよ。」
「小さいよねえ。」少女は両の手を、赤ちゃんくらいの大きさに開いた。「おててなんかも、こんなに小さい」彼女の指をすぼめるようにして表した。「私見たことあるんだ、ケン君が家に来た時。」
「ケン君?」
「ケン君。お母さんのお兄さんの子供。」
「それはいとこって言うんだよ。」
「そう、いとこ。」少女は真面目な顔で言った。「ケン君とっても小さいの。」そう言うとまた両手でケン君の大きさを表した。「もうすぐケン君みたいな赤ちゃんが生まれるんだもんね。...先生、名前はどうしよう。」
「それは、お父さんお母さんが考えてくれるさ。」私は笑った。「君が心配しなくても、良いことだよ。」
少女は真っ直ぐに私を見ていった。「でも、家、お父さんいないよ。」不思議そうに首をかしげた。「じゃあ、お母さんが考えるのかな。」

私ははっとした。
少女の家庭は母子家庭だった。父親は存在しなかったのだ。
私は言葉を失った。
「先生、先生。」少女は不思議そうな顔で私を見ている。
「どうしたの先生。」
「ああ...、なんでもないよ。」私は努めて微笑んだ。「お母さん、うれしそうだった?」
少女は頷いた。
「うん。笑ってた。...でも。」
「でも?」私は聞き返した。
「でも、お母さん私に聞いたんだ。妹か、弟ほしくない?って。」
「なんて答えたの?」
「もちろんほしいって。」少女は自身の胸の内を表すように、体をきゅっと縮めた。「いもうとがいいなって。男の子って、すぐに散らかすでしょ。私、ご飯作って上げるんだ、サヤちゃんに。」
「サヤちゃん?それって、妹の名前?」
「そう。お名前。」少女はにかりと歯を見せて笑った。「私のサヤちゃん。」
「なんだ、もう勝手に決めてるんじゃないか。」私も笑った。
えへへ。少女は少し恥ずかしそうに身をくねらせた。

「おかあさん、結婚するの?」
私は努めて柔和な表情で彼女に問いかけた。

少女はきょとんとしていた。
「何で?」
「なら、いいんだ。」私は苦笑いした。「なんでもないんだよ。」
「変な先生。」少女は首をかしげた。「先生、お母さんと結婚したいんでしょ。」
「ち、違うよ!」私は今考えると不自然なほど慌てて否定した。
「だって、じゃあ何でお母さんが結婚するかどうかなんて聞くの?」少女が意地悪そうに笑った。「好きなんだ。ミワちゃんが、たっくんと結婚する時も、そうだったもん。」
私は苦笑した。
「先生は、お母さんが、もっと幸せになったらいいなと、思っただけだよ。」私はそう弁解した。
「ふーん。」少女は不思議そうに言った。「お父さんになくても、幸せだけどな。わたし。」そう言って首をかしげていた。

少女はしばらく話した後、生まれたら私にサヤちゃんを見せてくれる約束をして、手を振って帰って行った。

私は少女が帰ってからも、なかなか仕事に手が着かなかった。
そうしているうちに、上級生の担任をしている2つ上の彼女が来たので、その話しをすると、彼女は笑っていた。
「保護者の家庭の事情を詮索しなくても良いじゃない。」
「でも、担任としては、子供の家庭の様子くらい把握してないと...。」
「言わなくても、向こうからやってくるわ。」彼女はあきれていた。「知らせる必要のあることなら。」
私は返す言葉がなかったので、そのまま黙っていた。
彼女も私の脇に突っ立って、しばらく黙っていたが、やがて、
「サヤちゃんって、名前もいいかもね。」そう言って、教室を出て行った。

私は答案の丸付けを再開しようと赤ペンを持ったが、彼女の置いていった言葉の真意にそこでようやく気がついて、廊下の向こうに小さくみえる後ろ姿を慌てて追いかけた。

2008年6月26日木曜日

吠える犬

「俺、鹿児島に両親がいるんだ。」男は言った。
両軍の衝突から3日続いた戦闘は、彼の表情から少年じみたふくよかな頬をすっかり奪い去っていた。落ちくぼんだ眼下の奥から、緊張と恐怖の渦巻いた目が、ぎらぎらと光っていた。
「それでも戦わなくちゃ行けないのかな」
「まだ迷っているのか。」年上の男があきれたように言った。
「君は志願して、この隊に入ったはずじゃないか。それでもまだ...。」
「確かに、志願はしたさ。」若い男は声を荒げた。
「でもそれは、名目上だ。実際には...。」
「周りが、一斉に志願したから。」
部屋の奥で聞いていた、細身の女性兵士がぼそりと呟いた。黒い大きなライフル銃を丁寧に磨いている。
「あなたらしいわね。何時までも子供なんだから。」男の方を見もせずに女は言った。
「...お前はどうなんだよ。」子供と言われた若い兵士は不平そうに問い返した。
「あたし?あたしは...。」女性兵士はふと、微笑んだ。
「どこでもよかったわ。この子と一緒にいられれば。」そう言って、ライフル銃の銃身に軽く口付けた。
「気が狂ってる。」若い兵士はいぶかしがるように女を見た。
「お互い様。」女性兵士はまだうっとりと、黒い銃身を見つめていた。
「じゃあお前は、」二人のやりとりを黙って聞いていた、年上の兵士が口を開いた。
「その銃とさえいられれば、敵方にでも付いた、と言うことか。」
女はその言葉に、きょとんとして、男の方を見た。黒い大きな瞳だった。
「ええ。もちろん。」女は質問されたことすら意外と言った様子だった。
「考えられない。もう、この子と離ればなれになるなんて。向こうの軍じゃ、正規兵しか、こんな立派なスナイピング銃、使わせてくれないでしょう?流れ者は何時までも流れ者扱いよ。能力があってもなくても。」そう言うと、愛おしげに銃身を撫でた。
「だからこっちの軍に入ったの。」
「恐ろしい。こいつには政治の欠片もないのか。」若い男がうんざりした様子で言った。
「イデオロギーだの正義だの、正当性だの大儀だの、この女には一切関係ない。」
「はは、くだらない。」女は軽くあしらった。「だから何時までも坊やなのよ。」
「なにを!」若い兵士は立ち上がった。挑みかかろうとする彼を止めたのは年上の兵士だった。
「まあ、待て。」彼は言った。「勝てる相手じゃない。」
「こんな女ごときに!」若い兵士は言った。「俺が負けるとでも言うのか。」
「ばか!」年上の兵士は、叱責した。
「あの女の銃をよく見ろ。」
女は依然として何食わぬ顔で銃身を磨いていたが、その銃の安全装置はすでに外されていた。
「この距離からなら、あいつは確実にお前の脳天を打ち抜くぞ。」
「クソ!」若い兵士は、足下の椅子を蹴り倒した。部屋に大きな音が鳴り響いて、奥の方で壊れた通信機械を直していた老兵が思わず顔を上げた。
「静かにせんかいガキが。」老兵は大声で言った。「気が散って修理どころでないわい。」
「直りそうかい?じいさん。」年上の兵士は老兵に語りかけた。
「は?」老兵は問い返した。彼は耳が少し遠いようだった。
「直りそうかい?」兵士は大きな声で聞き直した。
「わからん。」老兵は首を振った。「何せ老眼で、細かいところまでは見えんからな。」
「役立たず。」若い兵士が、すねたように小声で言った。
「だまらっしゃい!こわっぱ。」老兵は大声で怒鳴った。
「まあ、じいさんも、あんなガキの言葉に一々腹立てなくても。」
「じじいでも、ガキでも、悔しいものは悔しいわい。」老兵は顔を真っ赤にしていた。薄くなった頭の皮膚まで、茹で上がったかのように赤くなっていた。
「わしはこう見えてかつては第92連隊で、くろがねの泰蔵と...。」
「また、昔の話しか。」若い兵士は皮肉に笑った。「昔のことしか語るべき事がないんだろうな。」
「お前はいい加減黙ってろ。」年上の兵士は低い声で叱った。「これ以上、隊の和を乱すと、それなりの罰を受けることになるぞ。」
そのとき、それまで無関心のように振る舞っていた女兵士が、安全装置を外したライフルを真っ直ぐに若い兵士の頭部に向けた。そして片目を照準に当てたまま、美しい歯を見せてにこりと笑った。
「ばん。」
そう言って女兵士は引き金を引いたのだが、それは銃の轟音にかき消されて誰の耳にも届くことはなかった。轟音が微かな響きを残して、部屋の中から消えていくと、あとには床に転がった若い兵士が残された。
「撃ったのか。」年上の兵士は女の方を見た。女はもう一度にこりと笑った。彼女は美しかったが些か色が白すぎた。青白いほどの笑顔だった。

撃たれた若い兵は、床に転がったまま動かない。目が天井の一点を見つめて凝り固まっていた。
老兵と、年上の兵が彼のもとに駆け寄ったが、女はそれに見向きもしなかった。
「おい!」「しっかりしろ!」
体を揺すっても彼は動かなかった。
「貴様!」年上の兵は女の方を見て怒鳴った。
「見方を撃つこと無いだろう!そもそもなぜ、安全装置を無断で外している?」
「かわいそう。」女は言った。「大好きな子の首を、首輪で縛っちゃうなんて。」女はそう言うと銃身をその身に抱いた。「噛みついてもくれない犬には、何の魅力もないわ...。あなたも、そう思わない?」
「たわけ!」老兵は言った。「まだ生きておるわい。」
若い兵士は天井を見上げたまま、硬直していた。恐怖のためか、体が小刻みに震えていた。彼は失禁したようだった。
「馬鹿め。」老兵は言った。
彼女の弾丸は、若い兵士の耳元をかすめ、板張りの壁に穴を開けていた。おそらくはこの兵士の耳には、銃弾の空気を切り裂く音が、しっかりと刻み込まれたことだろう。
「意気地無し。」女は笑った。
そして銃を大切そうに、革のケースにしまった。

2008年6月16日月曜日

捨て子の話

つい、先日の話だ。早朝、まだ薄明かりの時間だった。私は、いつものようにバイト先の店の前を掃除していた。辺りに人通りはなく、車もほとんど通らなかった。ふと、向かいの建物の角に立つ人影に気がついた。そこは個人病院だったが、開業までには、まだ時間があるはずだった。それは女のようだった。しきりに辺りを気にしていた。女はやがて、病院の入り口の前に手に持っていた荷物を下ろすと、振り返りもせず、その場を立ち去ろうとした。

「ちょっと待って!」私は店の前から、大きな声で呼び止めた。影はびくりとして、その場に立ち止まった。慌てて駆け寄ると、女が置いていこうとしたものは案の定、小さな赤児だった。二重にバスタオルのようなものを巻かれて、すやすやと眠っていた。女は怯えた様子で私の方を振り返った。まだ相当に若い女だった。おそらくは10代前後ではないかと思われた。

「君の子かい。」私は尋ねた。「どうするんだ、こんなとこに…」
「お願いします」私の言葉を遮るように、女は言った。「その子を育ててやってください。」
「ちょっと待ちなさい。」私は言った。女の幼さに苛立っていた。「産んでおいて、こんな所に捨てて、どうするつもりだ。」
「捨てるつもりはなかったんです。」女は言った。「でも、難しくって、結局...」
「結局捨てるのか。」私はあきれて言った。
私の語気が無意識に荒くなっていたためか、女はすっかり怯えてしまっていた。半べそを掻いていた。私は呼び止めたことを後悔し始めていた。この様な娘の取り扱いにはあまり詳しくなかった。出来るなら早くこの場をうっちゃって自分の持ち場に戻りたかったが、今更この状況を放って置くわけにも行かなかった。私がすっかり困り果てていると、ちょうどそのとき、病院の婦長が出勤してきた。
「どうしたの?」婦長は私の顔を見るなり言った。
そして今にも泣き出しそうな少女と、私の抱えた赤児を見て状況を察したらしく、少女を促して「まあ、入りましょう」と言った。女は大人しくそれに従った。私は赤児を抱えて、彼女らの後について行った。

それから20分ほど、少女は休むことなく泣き続けた。私は彼女の話をじっとして聞いていられなくて、応接室の中をうろうろしていた。17歳で、親の気がつかないところで妊娠し、ネットを見ながら自力で何とか出産まではしたようだった。でも、その後の扱いにほとほと疲れ果て、捨てることにしたのだという。
「赤ちゃんって」少女は言った。「こんなに泣くものだとは知らなくて。」
婦長は少女の手を握って、背中をさすりながらそれを聞いていたが、相槌を打つ程度で、特に諭すようなこともしなかった。少女は涙に咽せ、その話は後半ほとんど聞き取れなかったが、それでも婦長は辛抱強く黙ってそれを聞いていた。そして、やがて話があらかた出尽くして、少女の気持ちが落ち着いてくると
「じゃあ、またいらっしゃい。」と言って、彼女を送り出した。
その手には、身ぎれいに整えられた赤児と、婦長の連絡先などが書かれたメモが握られていた。少女は両まぶたをすっかり腫らしていた。それでも婦長と私に涙声でお礼を言って、来た道を帰って行った。
「あの子、大丈夫ですかね。」私は尋ねた。10代の母というものが信用できなかった。
「何度も泣くでしょうね。」婦長は言った。「でも、泣かずに親になった人なんて、きっといないわ。」婦長はそう言って私の肩をとんとんと叩いて、にこりと笑った。そして忙しそうに病院の奥へと消えていった。私は婦長の言った言葉の意味を計りかね、しばらくそこに突っ立っていたが、仕事を放り出していたことに気付き、慌てて持ち場に戻った。

2008年6月15日日曜日

家族

「あんたあたしを、アル中だと思ってなめてんだろ。」
女は言った。時間はまだ、夜の八時にしかならないが、彼女はすでに相当酔っていた。キッチンの床には空けられたワインの瓶が2本転がっている。小学4年生の娘がその空き瓶を片付けようとしていた。その表情には、また始まるんだ、という大きな不安が張り付いていた。
「なめてなんかいないさ。」男は努めて冷静に言った。「ただ、君を思ってのことだ。」
「あたしを、『思って』!?」女は突如高い声で笑い出した。その背後に、不安げにこちらを見る娘の姿があった。男は娘に向かって、上に上がっていなさい、と手で合図した。女はそれに気がつき後ろを振り向いた。
「美和子。」名前を呼ばれた娘は一瞬びくりと震えたように見えた。しかし、逃げ出すわけにも行かず、わなわなと震えたまま、母親の顔を見つめていた。女は娘の方に片腕を伸ばした。しかし相当に距離があるため、その手は半分も届かなかった。それでも女は身体を伸ばして、娘を抱き取ろうとしているようだった。
「もう上に上がっていなさい。」男は言った。「美和子、美和子。」女は娘を求めた。娘は理性を失った母親にすっかり怯えてしまって、そこから動くことが出来ない。不安な顔で、父親を見た。「美和子、美和子...、そんな顔しないで。美和子も、お母さんが、好きだよねえ。」女は猫のように優しい声で娘に呼びかけた。
「嫌い。」
娘は怯えながら言った。
「嫌い?」ふと、女の動きが止まった。そしてまた、甲高い声で笑い始めた。その笑い声に部屋の壁が共鳴してきんきんという金属的な音が聞こえた。「嫌い?嫌いだったの。」女は言った。「嫌いだったの、美和ちゃん。嫌いだったの?」
「そうね、お母さんアル中だもんね。またお酒、飲んじゃったもんね。」女の声が急に勢いをなくした。「お母さんも嫌いよ。美和ちゃんなんて。お母さんを嫌いって言う、美和ちゃんなんて。」女は底に座り込んだまま、俯いてぼそぼそと言った。「お酒なんて嫌い。お母さんを不幸にするもの。」女はそう言うと、まだ手元に残っていたワインを瓶からぐいとあおった。「お父さん、離婚するの?」娘が父親の顔を見ていった。「お父さんとお母さん、離婚するの?」
「離婚?離婚?そうよ、離婚するのよ。」女が言った。「お父さんとお母さんは離婚するの。また楽しい女の子に戻るの。」
彼女は若い頃重度のアルコール依存症だった。それでも、結婚し娘が生まれてしばらくするまでは酒を断っていた。周りはすっかり直ったと安心していた。しかし、娘が大きくなり、しだいに手がかからなくなって、彼女一人の時間が増えるにつれて、彼女は少しずつまた酒に手を出すようになっていた。男が買ってきていた数本のワインを勝手に開けて飲んでいたこともあった。男はその兆候が現れだしてから、また家には酒を置かないようにしていたが、彼女は自分で買ってきて飲んでしまうようだった。
「お母さん達は、離婚するの、こんなお家を出て行くの。」女の声は歌うようだった。
なかなか飲酒を止めない女に、男は、今度飲んだら、離婚すると言っていた。女はそれから、3ヶ月は辛抱した。しかし、彼が会社から帰ろうとすると、先に帰っていた娘から電話があった。震える声で娘は言った。「お父さん...お母さんが、また飲んでるの...。」男は急いで家に帰り、リビングの扉を開けると、この様に泥酔した妻がいた、
「おっかあさんたちはね、好きだったのよ。」女は言った。「でもね、すきだったのはどっかいったの。だから離婚しちゃうの。バイバイしちゃうの」女は突然泣き始めた。小さな声で何か言っているようだったが、その声は聞き取れなかった。娘は心配そうな顔で母親を見つめていた。娘はこれまで真っ直ぐに育った。この子の将来のためにも、離婚した方が良いかもしれない。男はそう考えていた。
「お父さん」娘は父親の顔を見て、言った。「お母さんと離婚しないで。」娘は不安げな顔で切実に訴えた。
「お母さんのことを嫌いなんだろう。」男は言った。妻の耳にはいるのを承知しながら。「じゃあ、離婚した方が良いじゃないか。」
「かわいそう。」娘は言った。「お母さん、かわいそう。」娘はそう言うと、うなだれた母の背中を支えた。母親はそれを認識できていないようだった。「あたし達が、一人ぼっちにしたのよ。知らない町で、友達も上手く作れないのに。」娘は、泣き続ける母親の背中をさすった。「これで、離婚しちゃったら、お母さんもっとひとりぼっちになっちゃう。」娘はそう言って、母親の顔をのぞき込んでいた。泣いている妹を心配する姉のような仕草だった。特に教えていなくても、彼女はすでに思いやることを覚えたようだった。
男はその様子を見ながら、しばらくリビングの入り口に突っ立っていた。そして、まだ帰宅したままの格好であることに気がつくと、慌ただしく書斎に戻り服を着替えた。着替えて、再びリビングに戻ると、娘と母親がいなかった。どこに行ったかと、男が家の中をうろうろしていると、二階から、娘だけが下りてきた。
「お母さんは?」男は尋ねた。
「もう寝た。」娘は微笑んだ。
男は娘の小さな身体を抱きしめた。娘は父親に抱かれながら、泣いているようだった。ずっと我慢していたものが、一気にわき上がってきた様だった。
男は娘の一つに結われた頭を撫でながら、この子とこの家庭の将来について、考えていた。その娘の髪の結い方は、彼女の母が教えたものだった。

2008年5月16日金曜日

Kid

少女の手を握った時、男はその小さな指先に、人間の感覚を覚えた。

ああ、俺は、ずいぶん長いこと、この感覚を忘れていた。
男は思った。

最後に触れた手は誰の手だったか。

今のように、必要に迫られて触れた幼い少女の手だったか、それとも、単に、コンビニの店員がおつりを渡す時、多すぎる小銭を落とさないように、そっと添えてくれた左手だったかも知れない。

いずれにしろ、俺は、この人の手の感覚という物を、もうずいぶんと長いこと感じていなかったようだ。
男は少女の小さな手を握りながら、そう感じていた。


思えば、彼は孤独な男だった。

数年前に、付き合った女性と別れたきり、彼は恋愛という物に愛想を尽かした。
それまで抱いていたその希望的な側面を正視できなくなり、その背後につきまとう利害関係と、別れ際の醜さから、彼は恋愛という塊が成長を始めるそばから、それをたたきつぶすように無関心を装い続けて生きてきた。

彼は、人と人が、精神的にある一定以上の距離に近づくことにすら、恐怖を感じていた。
ある一定の距離に近づいた時、人はそれまで見せなかった異なる一面を、彼に見せつけるかのように思われた。生真面目だと思っていた人の、面倒くさがりの側面。寡黙だと思っていた人の饒舌な笑顔。優しさの中の利己的な思惑。全てが、彼を幻滅させた。

人は、距離によって色が変わる。
彼はそう思っていた。

近づけば近づくほど、醜い細部が見えるような気がして、彼は何時しか、人という物に、出来るだけ近づかないようにしている自分に気づいた。いつも一定の距離を開け、そして遠くから人々を眺めた。たとえ話しかけられても、自らの内をさらけ出すことはせず、一歩引いて、その話しにさも関心があるような振りをしていた。

俺は一生、孤独なのかも知れない。
彼はある時からそう考え始めた。

誰にも頼らず、誰にも必要とされないまま、俺は世界の平行線上を生き続けるのだろう。

歴史に残る軸を中心とするなら、それとは一生混じり合うことはないと思っていた。世界のどんな流れも、人生の一般則も、彼に直接関係があるとは思えなかった。
幾つになったら家庭を持ち、子を産み育てる。そんなセオリーですら、彼には無縁だった。
唯、彼だけがいて、彼だけが死ぬ。
それだけのことだと、覚悟、していた。

だからこそ彼は、人に気兼ねなく、自分の好きなスタイルで生きようと決めていた。
週末には歓楽街に出入りし、その場限りの快楽を貪ることもあった。
しかし、将来に対し何を残すこともない彼には、そう言う一時限りの喜びこそ全てであった。
見たこともない未来のために今を捧げるより、今の瞬間を生きることこそが彼の生き方だと信じていた。

しかし、今、彼の連れている、この小さな少女は明らかに彼の力を必要としていた。

少女は涙ぐんだ目で、辺りの、原色もけばけばしい、ネオンを見つめている。

彼はそのいたいけな瞳から、出来るだけこの毒を帯びた陳列物を引き離そうと、その手を強く引いて歩いた。無数の裸婦像が、男を品定めするような女の瞳が、あるいは着飾った男の肖像が、彼と彼女を凝視していた。彼らはその中を、どこか目的地でもあるかのようにせかせかと歩いた。

この場所は彼にとって喜びを得るための場所のはずだった。
しかし、彼が少女の手を握っている今は、息苦しいほどに場違いに感じられた。

「お母さん...。」
少女は時折、思い出したかのようにつぶやく。
立ち並ぶ原色に縁取られた写真の中に、母の面影を見出したようだった。

「違うよ」
男は冷たくも取れるほどさめた声で、その子の言葉を断ち切った。
これが現実であるとは、現実であっても見せたくはなかった。

お母さんは、もっとちゃんとした格好をして、ちゃんとして、君を迎えてくれる。
迎えたがっている。

そう信じたかった。


彼が少女に会ったのは、とある性風俗店の狭い入り組んだ入り口から、外の通りへ出た時だった。

彼はいつもそう言う時、それまでのまやかしの幸福感から、現実の重苦しさと平凡な空気の中にたたき落とされる気持ちがした。全ては用意された夢なのだという、自分の行為の無益な結末を自嘲するような寒々とした心持ちがして、彼の高揚はいつも一気にさめてしまった。

少女はその店の入り口の電飾の派手にきらめく看板をじっと見つめていた。

どこにでもいそうな普通の、年はおそらく小学校の1,2年生だろうか。小さな少女が、目を大きく見開いて、看板に書かれた卑猥な漢字交じりの文言を必死に読もうとしていた。

「どうかしたの」
彼はその不釣り合いな光景にあっけにとられたままに、その少女に声をかけた。

「お母さんがいないの」
少女は言った。
「あたしを置いて、いなくなったの」

彼女の目は、何かを訴えかけるような物でもなければ、哀願することもない目だった。
しかし、その真っ直ぐに彼を見た丸い目は、現実を理解できないながらも必死に考えようとする、少女の駆けめぐるような思考がありありと浮かんでくるほどに切実だった。

「おかあさんが...。」
彼は今し方、自らの一部を差し込んだ、年かさの女をふと思い浮かべた。
そして、この場所と、この子の置かれた状況から、彼の脳裏にはこの子の出生と母に関する、ある一つの仮説が浮かんだ。しかし、それを認めるには、彼にはあまりに情報が少なすぎた。

「お母さん、もし、ひとりになったら、“ありす”って言うところのおじさんに頼りなさいって言ったの」

アリス。その名前には彼も覚えがあった。
この近所にある、バーの名前である。入ったことはなかったが、その前を何度か通りかかったことはあった。この様な歓楽街の中で、そこは比較的静かな場所で、大げさな飲酒に疲れた人々が救いを求めて立ち寄るような枯れた一角だった。

「そうかい」
男は言った。
「おじさんで良かったら、そのお店、知っているけど、連れて行ってあげようか」
男はそう言って、そう言ったことに、すぐに後悔した。
知らないおじさんについて行っていけないと言うことは、どこの親でもまず子に教えることではないか。何より、どうして自分がそんな面倒なことに首を突っ込もうとしているのか分からなかった。余計なことをしてしまった。男は言ってしまってから、そう思った。

少女は案の定、男の顔を見極めるかのようにじっと見ていた。
が、すぐに、その大きな丸い頭をこくりと縦に振った。そして、彼の左手に、その何も知らない小さな右手を預けた。

彼はこうも簡単に、見ず知らずの男に己を託してしまう少女の無知に悲しくなった。出会ったのが俺で良かったという、的外れな自尊心と、どういう教育をしているんだという、知らない親への怒りが同時にこみ上げてきた。
知らない人間に、己を預けてしまう、少女の無知な勇気。こういう場合に特有な、戦慄を帯びた使命感に、男は目が覚める思いがした。とにかく、俺がやらねばならない。男はそう感じた。

浅黒い男の左手に繋がれた、丸い小さな手。
男は、自らの汚らわしさを、急に感じる思いがした。
先ほどの行為の蒸れた匂いが、あるいは体液の香りが、まだ自分の周りに漂っている気がして、少女に対して、申し訳ないような気持ちになった。

何よりこの手はさっきまで....。
男はそこまで考えて、回想するのを止めた。


目的とする、“アリス”は、すぐ見つかった。
5階建ての古いビルの2階の奥に、その店はあった。

見かけ倒しの重厚な扉を開くと、そこはカウンターとテーブル一つしかない、小さなバーだった。カウンターの奥のひな壇に並んだボトルが、一斉に彼の方を見たような気がした。

「いらっしゃい」
髭の生えたマスターは、初老、と形容した方がいいような男に見えた。
髭の中に白いものが見えた。

マスターはグラスを丁寧に拭きながら、確かに、彼の連れた少女を見た。

「あの...。」
威厳のあるマスターに気圧される思いもしたが、男は左手の中の少女に勇気づけられるように言った。
「この子の母親を捜しているんですが...。」

「この子の?母親?」
マスターはグラスを拭く手を止め、額に皺を寄せて、彼を見た。そして少女をいぶかしがるように見た。

「君、名前は?」
「えんどうひかり」
少女は、はきはきと答えた。

「遠藤...。」
マスターは少し考え込むように宙を見上げたが、やがて彼女に視線を戻し、その顔をまじまじと見た。そして、それで何かの合点がいったかのように、頷いて、
「わかったよ。少し、此処で待っていなさい。お母さんはもうじき来るから。」
と言った。

そして男の方を見て、
「お客さんも、申し訳ないが一緒にいてやってくれませんか。この子のために。」
そう言うのだった。

男は、正直、もう自分の役割は済んだと思っていたので、このマスターの言葉は期待していなかった。少女と別れるのは少し寂しかったが、面倒とはそろそろお別れしたかった。

少女を見ると、彼の腰ほどの位置から、真っ直ぐに彼の瞳を見上げていた。
そして、彼の中指を、しっかりと掴んで話そうとしなかった。
自らの身体をぴったりと、彼の脚に沿わせるようにして立っていた。

「わかりましたよ」
男は観念したように、そう言った。

カウンターの一番奥まった位置に腰掛けた。
背の高い椅子には少女を持ち上げて座らせた。

マスターは彼女のために、グラス一杯のオレンジジュースを出した。
そして、彼の所には、柑橘系の香りのするカクテルを出した。
その小さな一杯を少しずつ舐めながら、男と少女は母の帰ってくるのを待った。

始め、店にいた客は彼らだけだったが、時間が経つにつれて、
店には数組の男女が来るようになった。

あら、かわいい。
女達は決まってそう言った。

男達は怪訝そうな顔をしていた。
こんな所に子供を連れてくるなんて。
大方、そう思っているのだろう。男には予想が付いた。普段なら自分が、向こうの立場なのだから。

だれだい、あの子。

一人で来た客の中にはそうマスターに尋ねる者もいた。
おそらくは常連なのだろう。木製ステッキを壁に預け、古い酒を飲んでいた、老紳士風の男だった。マスターが老紳士になにやら耳打ちすると、紳士は、ほう、と感嘆の声を漏らした。しかし、それきり、彼女を一瞥したまま何も言わなくなった。

更に時間が経つと、その老紳士も帰ってしまい、店には彼らの他、誰もいなくなった。
マスターは店の表に出て、表札を『Closed』に換えた。

少女はすでに眠っていた。椅子には背もたれがなかったため、こくりこくりと首をゆらし始めた少女を彼は抱き取って、自分の膝の上に座らせていた。子供の重みと、その暖かさに、子を抱いたことのない彼であったが、なぜか優しい笑みが漏れるのを感じた。あるいは、子供に対する優しさは、全ての人間の奥底にあらかじめ、すり込まれているのかも知れない。男はそんなことを考えながら、すやすやと寝息を立てる少女を支えていた。


女が現れたのはそれから更に数時間ほどした頃だった。すでに夜は明け始めていた。

がらがらとドアのベルが鳴り、駆け込んできた女には、男が予想していたほどの派手さはなかった。むしろ着ている物は質素に感じる程だった。しかし、彼に近づくと、女からは、強い香水の匂いがした。

「ありがとうございます」
慌てて駆けつけたのか、女の息は上がっていた。いつの間にかマスターが、連絡を入れていたのかも知れない。女は、母と言うには、まだ若い年頃のような気がした。男はすっかり眠ってしまった少女を、女に預けた。女は慣れた手つきで、その子を抱き上げた。

「本当にありがとうございます、このお礼は何と言ったらいいか...。」
「いいえ、いいんです」
男は言った。
「私も、滅多にない経験をさせてもらいました」
「お邪魔だったでしょう」
女は言った。美しい眉間にしわを寄せた。

「いいえ、この子はずっといい子でしたよ。」
男は言った。
「ずっと、お母さんのことを待っていました。」

女はそれを聞くと、先ほど男が、抱きかかえていた少女に対して浮かべたのと同じような笑みを浮かべた。そして、

「そうですか...。」
とだけ言って。抱き上げた我が子の背を優しく撫でた。

彼女はその後、二言三言話して、店を出た。
もう二度と、会うこともないんだろうな。彼はそう思った。

彼女の出て行った扉から、明け始めた朝の光が差し込んできた。

「もうこんな時間ですけど」
マスターが言った。
「よろしかったら、もう一杯、どうですか」

ええ、と言って、彼は受けた。名前も知らない、柑橘系のカクテルだった。
さわやかな酸味は、先ほどまで彼女の飲んでいたものと同じ、
オレンジジュースが使われているからかも知れない。

マスターは自分のグラスにも少しばかり、何かの酒を青いボトルから注いだ。
そして宝石色のマドラーで、静かにそれをかき混ぜた。

気がつくと彼もまた、あの母親と同じ笑みをうっすらと浮かべている。
この人は今、誰のことを想っているのだろう。
男は思った。

あの子だろうか。
それとも、彼しか知り得ない、誰かのエピソード。

いずれにしろそれは、幸せな思い出の一つではないかと男には想像できた。
あえてそれを聞く気にはなれなかった。
個人的な幸せは言葉にしても、大して面白く無くなってしまうことは、
痛いほど知っているつもりだったから。

男は先ほどまで彼の膝の上にあった、幼子の暖かさと重さを思い返しながら、
喉に下りていくシトラスイエローの冷たい感覚に酔いしれていた。

ドアの外では、朝を告げる雀の歯切れ良い鳴き声が、
アスファルトの裏通りに響いているのが聞こえる。

2008年4月30日水曜日

A personal memory of bubbles

「だれか!」
慌てふためく男性の声。

指さす先には、溺れる人の影。

高い見張り台の上で、それを見つけた男は、すぐさま無線で応援を呼び、
近くにいた数人の仲間とともに現場へ走り出す。

人数分のライフジャケットと、
救助用の予備を脇に抱え、

男達は人混みをかき分け、砂浜を駆け抜ける。

後に残る砂しぶき、長く伸びた足跡。

男達の慌てた様子に、
次第に群衆も気がついたらしく、
道を空け、彼らの通る道を確保し始めたが、

好奇心には理性は叶わず、
本当に現場近くまで来ると、
溺れる人を見ようと、
群衆は二重三重の輪になって、
彼らの進行を阻んだ。

「どいてください!」
彼が大きな声を出す。

目の前の数人の人々が道を譲る。
その先に、また人混み。

「どいて!、どいて!」
力ずくで道をこじ開け、
突然開けた視界の先に、先ほど台の上で見た溺れる少女の姿。

先ほどより確実に沖へと流されており、水を掻く力も、ずいぶんと弱っている。

事は急を争う。

あたりに船の姿はない。
水上バイクも、まだしばらくかかる。

仲間の一人が一枚のボディーボードを抱えてきた。

ボードの男は、ちらりと彼の方を見ると、
一人何かにうなずいて、水面へとこぎ出した。

男の影がみるみる離れていく。

なすすべのない時間。

男は次第に小さくなる。

残された者達には、それを見守るしかできない。

救急車は呼びました。
無線が曇った声で叫んでいる。

「了解」
男は答える。

今からでは、20分はかかるだろう。
彼は咄嗟に考えている。

病院は気が遠くなるほど遠い。
今の彼にとって20分は生命線の彼方の数字だった。

それでは、みすみす殺してしまう。

彼を含め、陸に取り残された3人のライフセーバーは、
周りの人を退け、
彼女の救命措置を行えるだけのスペースを確保した。


「...ミチ!」

群衆の一人が、沖の一点を見つめ、
思わず声を上げる。

ミチとは少女の名だろう。
叫んでいたのは、中学生位の若者。

飛び出そうとしている身体を、仲間の一人が必死に抑えている。

「...ミチ!」
彼はなおも叫び続ける。
意識があるかも、はっきりしない、遠い沖の、少女に向かって。

この付近はこの時間になると、
沖へと流れ去る海流が良く発生する。

少女はそれに飲み込まれたらしかった。

この流れに乗ってしまうと、
泳ぎ慣れた人間でも、
そのまま岸に流れ着くのは難しい。


沖へこぎ出した彼は、早くも、
溺れる少女と同じ位に小さな影になっている。

彼は、しきりに少女に声をかけ、その反応を伺っている。
少しの間、それを続けた後、
彼は少女に、手に持ったライフジャケットを結わえ、

沖への流れから逃れるように、
海岸線と平行にしばらく泳いだ後、
こちらへ向かって真っ直ぐに泳いできた。


「...ミチぃ!」
少女の姿が近づけば近づくほど、少年の声は大きくなり、
身体は前へ前へと押し出された。
抑える方の彼も、顔を真っ赤にして、必死だ。

「あぶないから!落ち着いて!」
黒いゴーグルの向こうで、彼は弟を叱る兄のような眼差しを
少年に向けている。



ゆき!
ゆき!

少年の声が聞こえる。あたりに人影はない。
僕らだけの砂浜。

ゆき!

遠くで、少女が溺れている。
少女の小さな影はみるみる小さくなり、
波間に消え、
そして現れた。

少年は、
手元に残された、浮き袋を抱え、
彼女のもとに泳ぎだした。

泳ぎには自身があった。
水泳部の副主将。

彼は、彼女を押し流しているものと、同じ流れに乗り、
みるみる彼女に追いついた。

彼女はもはや、水面に顔を出していることすら覚束ない。
手だけを高く掲げようとしているが、
それも、時折波間に沈んだ。

彼女の手が、彼の浮き輪に触れた、
彼は咄嗟に、彼女の手を掴もうとした。

ぐらり。

浮き輪は、水を飲んで重くなった彼女の重力に絶えきれず、
傾いてしまう。

彼の知っている、彼女の重さではなかった。
彼女はもはや、海に魅入られてしまったかのように、
彼を道連れに、深く、海の底まで引きずり込もうとしているようだった。

彼は彼女の腕を掴み直そうとした。
しかし、濡れた腕は、彼の掌を滑り、

彼女は為す術もなく、暗い海面に吸い込まれていった。

これまで、何度も、握ったはずのその手が、
彼を拒むかのように、

冷たい、青い色をして、
波にのまれた。

彼女の掌の滑らかな感触。
命を失いつつある者の、無慈悲な冷たさ。

彼女の沈んだ後から後から湧いてきた、
無数の小さな気泡の列。

それは彼女から立ち上る、彼女の命の欠片、そのものにも思えた。

水面に至った気泡は、彼の目の前で、
小さな音を立てて、
次々と、はじけた。


ゆき!ゆき!

叫べども、叫べども、
彼女は遠く、

彼は浮き輪にしがみついたまま、
天も地も見失った意識で
闇へ向けて彼女の名を呼んだ。

誰もいないビーチ。
僕らだけの砂浜。

数時間前までの、少女の笑顔。
日に焼けた、肌の温度。

太陽の光。

始めて見た、少女の、水着姿に、
高揚した、少年の瞳。

ねえ、海、行かない?
誘ったのは彼の方だった。
いい場所、知ってるんだ。僕だけの、砂浜。
他に、誰もいないんだよ。

彼女が海が好きなのを、聞いていたから。

嫌われるかな。
そんなおそれを抱いて、彼がかけた言葉を、
彼女は、何も言わず、とびきりの笑顔で応じた。

じゃあ、日曜日に!


高揚した気持ちを、抑えきれずにいたのは、
おそらくは、彼女も同じ。

恥ずかしげに、はにかんだ笑みを浮かべながら、
高鳴る心臓の鼓動を、隠そうともせずに、
太陽の子は、
水着から伸びた、褐色の手足を惜しげもなく彼へ差し出して、
銀の砂浜へと踊り出す。

彼の手を取って、
波打ち際へと導いた、
その手が、


今、

僕の、

目の、前で、

沈んだ。



彼は、彼女の名前を叫び続けている。


僕ら、だけの。

僕の...、




「早く!」

仲間の声がする。
泳いでいった彼が、少女を抱えて戻ってきた。

待ち受けた男の瞳に、再び冷静な光が宿る。

意識は?
怪我は?
呼吸は?
脈は?

決められた手順に従って
状況を一つ一つ確認すると、

彼は心肺蘇生を開始した。

救急車が来るまで、
あと10分。

それまで、可能性を繋ぐのだ。

彼が、彼女の胸を圧迫する度、
少女の口元はゆがみ、
中から少量の水が零れ出る。

命を塞いだその水と、
彼は今戦っている。

彼の背後では、
少年が、まるで、自分も胸部圧迫を受けているように
不安にゆがんだ顔をして、
少女の力のない表情を見つめている。


おれは、あのときから、
少しは前に進んだだろうか。

彼は考える。

大切なものを、
為す術無く失った無力な少年は、
できる限りの手法を覚え、知識を蓄え、再び
浜辺に戻ってきて、

実際に何人かの、命を救い、
実績も付けたけれど。

どれだけやっても、自信だけは付かなかった。

次第に微かになっていく、心臓の鼓動の、
名残惜しそうに消えゆく、微かな歌声が、
彼の身体には、今尚、染みついて離れない。

ありもしない、可能性を掴むように、水面から、
彼のいる空へ差し出された彼女の、
日に焼けた細い指が

滑り落ちた、濡れた肌の感触が、

彼の脳裏に、しつこくフラッシュバックする。

その度に、萎える指先に、二の腕に、
彼は再び力を込めて、
少女の心肺蘇生を続けた。

おれは、
ゆきをすくう、力を
身につけただろうか

いまなら。

彼は、永遠に失われた彼女の心臓のリズムを
思い起こすように打ち続けた。

早まる気持ちを抑えながら、
自分にできる限りの処置を、

冷静になれ、
冷静になれ、

ビートは刻まれる。
回復に向かって。
祈りを込めて。


ゆき...。




「ミチ!」

彼の背後で少年の声がした。
彼女の口から、大量の水があふれ出した。

けほっ。

彼女は苦しそうにむせ込んでいる。
彼が背中をさすると、
咳は続き、
やがて苦しげな表情の隙間から、
彼女の瞳が薄く覗いて、彼と、その背後の少年を見た。

薄くひらいた瞳は、たちまち
涙に溺れた。

こぼれ落ちた滴を受け止めたのは、
駆け寄ってきた少年だった。


群衆に笑顔が戻る。
気がつくと、男達も微笑んでいる。

一人、また一人、群衆は離れていく。
一つの劇が終わったように、
彼らは三々五々、
自分の生活を取り戻していく。



遠く、近づいてくる救急車のサイレンを聞きながら、
彼は、少女の沈んだ砂浜の、名もない岩礁を見ていた。

岩礁を背に浮かぶ、一羽のカモメ。

カモメは、彼らの姿を遠くからじっと見ていたが、
やがて何かに首を振るような仕草をすると、
やにわに羽ばたき、水面を蹴り、

宙へ踊った。

カモメの飛び立った跡には
いくつかの水泡がわき出して、
しばらく波間に漂っていたが、

そのうち、静かにはじけて、
みんな消えてしまった。


男はそれでも、依然として、
なにもなくなってしまった静かな水面を、

身じろぎもせず、見つめている。

その眼差しの先には、
溺れる少女と、
届かない手をさしのべる少年との姿が
二重写しに見えていた。

2008年4月24日木曜日

Dagger, in the Jack's pocket

「なんで?」
彼女が言った
「何で、そう言うことになるの?」

街の郊外のファミレス。
あたりにあるのは原色の寂れたネオンばかり。

飲むだけ飲んで、語り疲れた男女が、
言葉のむなしさを抱えたまま、
言葉のいらない交流を欲して
集蛾灯に群がる虫たちのように引き寄せられる。
そうした街の当然の一角。

理性の生き物と言われる人間が、理性の限界を易々と認め、
言葉を放棄し、ため息と喘ぎに飽和したいくつもの城の建ち並ぶ
不条理の巣窟。

その片隅にある、小さな、ありふれたファミレス。
そこだけがぽっかり空いた日常のように、
決められた格好をしたウェイトレスが、マニュアル通りのお辞儀を繰り返す、
秩序と法の砦。
蛍光灯も、此処だけは外から見えるほど明るい。

そこで彼女は大きな声を上げている。
僕らの空気が凍る。

厨房で、何か金物を落とす音がした。

「もうしわけありません」
孝史が言う。
「健二がどうしても無理だと言うもので」

孝史は、結局“いい奴”なのだ。
そう言って、いつも僕の所為にして、話を終わらせようとする。

「え?、また健二なの」
美佐子は言う、その目は僕を明らかにさげすんでいる。
「いい加減にしてよね、私をいくら待たせたら気が済むの」
彼女は、その切れ長の目で僕に迫る。
それは見方によっては狐のように鋭く、
一方で猫のように妖艶だった。

「すみません」
僕は謝った。彼女の前では、下手な口をきくだけ無駄だ。
自分のプライドなど捨てて、一匹の虫けらになったつもりで、侍るほかない。
それが、いかに僕にとって屈辱だとしても、それが僕らの礼儀であり、最大の愛情表現だ。

「意地のない男」
彼女が鼻で笑った。
僕は卑屈に笑った。
心の中では、くそったれ、と思いつつも。

この女の、度を外れた虚勢には、
僕はある種蔑みに似た感情を持っていた。

男を知らない女ほど、
自分がサディスティックか、マゾヒスティックか気にするものだ。

それは男の本質を知らないが故、意気がれる、
ガラスのような虚勢に見えた。

それだけに、僕らには、それは儚く、
哀れですらあり、そして美しかった。

「ふん。斉藤」
彼女は僕の名を名字で呼んだ。まるで、
僕を足下でも及ばない存在にまで見下したと言わんばかりに。

「あんた、私にそんなことを言う権限があるの?」
僕は心の中で、爆笑した。

世間知らずの童女め。

男のなんたるかも、
満足に知らないくせに、女王気取りだ。

「ごめんなさい、美佐子さん」
僕は言った。あくまで申し訳ない表情を取り繕ったまま、諂うように。

「僕はその日予定があるんです」
僕は言った。

「あたしより優先する予定ってなに?」
美佐子は言った。僕のどこまでも下に出る態度に、
確かに彼女は一種の快楽を感じていた。
彼女とは、そう言う人間なのだ。

整った顔。容姿。

それが彼女だった。
彼女とは、形だった。

その表情は、いつも自信に溢れていた。

あばた顔の僕など、
虫けら程度にも思っていない様子だった。

「ごめんなさい、その日は、友達と約束があるので」
虫けらの僕は言った。

「友達?」
美佐子は鼻で笑った。
僕の言う友達が、彼女はおおよそ察しが付いているようだった。
おそらく、孝史か誰かが僕のその“友達”というものについて
彼女に告げ口したに違いない。

「あの田舎くさい女に、あなたは私を優先するというの?」
美佐子は再び笑った。
「ばかばかしい」

全くです。
孝史が言う。
ばかだな、おまえ。
下僕どもが笑う。

どいつも、卑屈な顔をしている。
僕も卑屈に笑う。

「斉藤」
彼女はなおも僕に絡んだ。
実際には、たいした興味もないくせに、自分から目の前に転がり込んできた、
この痩せたネズミが、おもしろくてしょうがないのだ。

「あなた、その子の約束の前に、私への服従があるでしょう?」
彼女は蔑むように言った。

僕は、そうです、と答えた。

「それに、背いたのだから、それなりの罰は受けてくれないと、ねえ」
その目は、ネズミをいたぶる猫ほどの慈愛もなかった。

彼女は、自分の細く美しい脚を、僕の前に突きつけた。
そして、その黒く鋭いヒールの靴をひざまずく僕の鼻面に突きつけ

「お舐め」

と言った。

僕は拒んだ。

彼女はそのことを見越したように高圧的に言った。

「あたしへの報恩が足りないようね。」

そして、あきれたように孝史を振り向くと、

「こいつの女の名前、なんて言ったっけ」
と尋ねた。

「光、です。」
孝史は答えた。

僕は、こんな奴らに簡単に名前を扱わせてしまった光に、申し訳なさを感じていた。
そして同時に、煮えたぎるような怒りも。

「光、ふうん」
彼女は鼻にかかったような息を漏らした。

そしてもう一度孝史を振り向くと

「じゃあ、その子を、あなた達のえさにしてしまいなさい」
と言った。

ぷっ
と孝史が思わず吹き出すのが聞こえた。

そして、笑いをこらえきれず、わなわなと小刻みに身体を震わせたまま、
「美佐子様の言う通りに。」
と、やっとのように言った。

「前にそうしたように、金を与えて、不特定多数の男を、捕まえておきます。」
孝史は努めて笑いをこらえながら続ける。

「後は、彼らを押し込めた、窓のない密室に、その餌を投げ込みます。
...僕らは、それを外から、監視カメラででも、のぞき込んでいればいいでしょう」

「それでいいわ」
美佐子は満足そうに言った。
すでにその中で起きる惨劇が、ありありと彼女の目には見えるようだった。

「一人の男では」
美佐子は僕の方を見ると、さもうれしそうに、
言った。
「満足できない身体にしてあげて。」


ファミレスの運営は粛々と進む。
先ほど帰ったお客の皿を、
厨房から出てきたボーイが
手際よく片付けていく。

少し遅れて、ウェイトレスも出てきた。
彼女は先に働いていたボーイの仕事を無言で手伝い始めた。

それはどこまでも、規定と契約に基づいた一連の動作ではあったが、
そのウェイトレスの細く白い首筋に見える、真新しいキスマークまでは、
ここからは見えない。


「ばかばかしい」
僕は言ってやった。陵辱もついに僕の度を超えた。

「とんだ、おままごとだ。」

世界が凍った。
孝史は、笑顔のまま固まっていた。

「何を言うの?」
美佐子は言った。つとめ提言を保とうとしているように、僕には見えた。
彼女は、自分に諂う男の顔は覚えていても、
刃向かう男の顔は知らないはずだった。

「ばか、ね」
彼女はそう言っただけだった。

ガラスは、いつの時代も美しい。

傷一つない一枚板のガラスよりも、
砕け散って散乱したガラスは尚のこと。

それには、血の跡すら、美しく見せる、
怪しげな力がある。

「此処に、二度といられなくなるわよ」
それでもかまわない、と僕は思った。

彼女と一緒に、この呪われた街を出て、
どこか広い海と、空の下で、
カモメのように笑って暮らしたいと、僕は夢を描いた。

光は、確かに美佐子の美しさには及ばないのは知っている。

しかし、僕は彼女こそ、僕が最優先すべき女性だと思いつつあった。
何を捨ててでも、守るべきものはまず、あの女性だ。

孝史は狼狽えていた。
彼にとっては美佐子が全てなのだ。
彼女が全ての美意識の基本であり、彼女の基準に合わない者は全て、愚であった。
それは言わば、美佐子以外の女を知らないことの裏返しだった。

「へっ」
僕はいつものクールな印象に似合わず、
慌てふためく彼を見て、僕は思わず鼻で笑った。

孝史の顔色はずいぶん青かった。
彼の頭の中は、美佐子の機嫌をいかにして修復するか、
その一点で凝り固まっているように見えた。

彼女の機嫌をこれ以上損ねれば、
側に仕える彼もただでは済まない。

元々その屈辱を味わうことを欲している彼とはいえ、
必要以上の被害を追うことは避けたいのだ。


美佐子は以前、
この上なく不機嫌だったとき、

5人の男に一人の反逆者を捕まえさせ、
よってたかって、女をもはや愛せない男に変えてしまったことがある。

初めは抗っていた男の表情が、
おそらく彼のこれまで感じたことのない快楽にゆがみ
次第にだらしなく、唾液などを滴らせて、
ひくひくと痙攣しながら、
自我を失っていく様子を、

彼女は一段高いところから、
足を組んで楽しそうに、見下ろしていた。


彼女は“いじめ”の天才だった。

彼女のいじめは誰にも怪我はさせない。

むしろ、閾値を超える快楽のなかで、
その人間を蝕み、精神をゆがめ、
廃人同様の人間にすることを得意としていた。

巧妙に法の抜け穴を利用するので、
誰も彼女を裁くことはできなかった。

僕らも、彼女の巧妙な手法によって、
もはや彼女以外の女を愛せなくさせられた人間だった。

僕らは毎夜、
群がる虫のように、
彼女の身体を貪った。

彼女無しには生きていけないほど、
性的な面において完全に依存していた。

だが、時折何かの拍子に、その魔法が解ける人間もある。
今日の僕のように。


「孝史。」
僕は言った。
「哀れだな。おめえは虫だ。」
僕はなおも言った。
「よく見てみな、この女を。
50過ぎたら、どこを見て過ごすつもりだ?」

美佐子は、依然として威厳を保っていた。
軽い笑顔すら浮かべて。
刃向かわないネズミを相手にしても、いじめ甲斐がない、とでも言うように。

孝史は依然おろおろしている。
彼は、美佐子の価値観に従う意外の何物をも、発達させてはいなかった。
あるいはそれら、通常の価値観を全て、退化させてしまった、哀れな男だった。


「ばか、ね」
美佐子は言った。

「あたしのもとから去った男を、幸せにはさせない。」
彼女の脅しには、現実味があった。
なまじ、口先だけの輩とは違う。確かに僕らは、無事では済まないのかもしれない。
しかし、あらがう価値をすでに、僕は見いだしていた。

「やってみやがれ」
僕はそう言うと、手元の机をひっくり返した。
そして出口近くの消化器をひったくると、
それを店内にばらまいた。

もうもうとした消化剤の煙の中、
僕は一目散に逃げた。

逃げながら、彼女に電話し、すぐに此処を逃げ出せるように
準備するように伝えた。

遙か後方で、
消防車の音が聞こえる。

パトカーが数台、僕の脇を慌てふためいて通り過ぎていった。

僕は自分の心を取り戻した痛快さに、
ネオンサインのきらめく街で一人苦笑せざるを得なかった。

夜の街の空気はつめたく
冷え切って、また澄んでいる。

僕はその闇の中を疾走した。

あの女のためか。
僕は再び苦笑した。
笑いが止まらなかった。

僕の脳裏には、さっきから、決して美人とは言えない光の笑顔が、
ちらちらしている。

しかし、世界で唯一、後先見えない自分をそうと知りながら、
好きだと言ってくれた、その優しく、また愚かな笑顔を、

むざむざと見捨てるわけにはいかない気がして、
僕は全速力で夜の街を駆け抜けた。