あるホテルのホール。昨日から行われている学会の懇親会が開かれていた。ひとりの男が、会場の参加者に囲まれている。この学会は環境科学の学会だった。男は、この学会の会員ではなかったが、ゲストとして招かれ、今日の午前中に彼の研究している新しい半導体素子と、それによって産まれる新しい太陽電池の発電効率について講演したのだった。講演の盛況は、この懇親会における、参加者達からの取り囲まれ方からも容易に想像できた。新しい技術のもたらす未来について、誰もが目を輝かし、遠い10年も先の未来を既に見てきたかのように、聴衆は一様に興奮していた。
そんな中で、男だけはひとり、何処か浮かない顔で、彼を囲む聴衆の問いに答えていた。
その顔は、聴衆の期待を壊さぬ程度に微笑んでいた。しかし、彼の心が、その表情ほども晴れやかでないことは、熱が冷めて、冷静に彼を見つめるものからすれば明らかだった。しかし、彼を囲む人間は誰ひとり、そのことに気がつくことがなかった。それだけに、彼は一層孤独だった。人に囲まれ、熱を持った瞳に囲まれるほど、疲労がたまるようで、彼は口をついて出て来そうな溜息を、笑い顔の下で必死に堪えていた。やがて小一時間もしたころ、聴衆の質問が一段落したのを見計らって、彼は右手に持っていたワインのグラスを、周りの人々に気づかれないようにそっと、近くの白いテーブルクロスの上に置いた。
「……あれ、先生は?」
彼の学生の1人が、自分の教官の姿が見えなくなったことに気がついたのは、それからすぐのことだった。
「知らない」
オードブルの盛られた小皿を持ち上げながら、もうひとりの学生が答えた。
「もう部屋に帰られたんじゃないかな。……先生、少しお疲れのご様子に見えなかった?」
「そう?」
「……そんな、気がしたんだけど」
彼女は手にグラスを持ったまま、辺りをきょろきょろと見渡した。
群れる人混みの中に、彼女の知る教官の姿はなかった。彼女は不安げに溜息をつき、一度は電話を入れようかとも考えたが、先生には先生のご用時があるのだろうと考え、一度は取り出した携帯電話を、折りたたんで小さなバッグの中にしまった。
その頃、男は既にホテルの外にいた。
月明かりの晩だった。ホテルの外には、小振りだが良く整えられたブリテン風の庭園があり、まだ咲ききらないバラの匂いが辺り一面に漂っていた。夜露に濡れた花の香りは、まるで香水を振りまいたかのように強く薫るものだが、彼はそのことを知らなかった。ただ、その香りに彼は、彼を疲れさせるものが肺の奥から抜けていくような気持ちがして、大きく深い息をついた。
こうして、月の晩にゆっくり外を歩くのは幾日ぶりだろう。
彼はそんなことを考えていた。整えられた遊歩道の上をゆっくりと歩きながら。
学会から学会と、最近立て続けに仕事が入り、それ自体は嬉しくないことはないのだが、こうして外を歩く貴重な時間をすっかり失ってしまっていた。……昔はもっと、夜に散歩したものだった。星を見たり、月を見たり、人の少ない通りを、静かに、夜に融け込むように、そっと……。
彼の歩調が、急に静かになった。
両手を灰色のポケットにねじ込み、そしてその場に立ち止まって、微かに呟いた。
「彼女は、元気だろうか……」
“ねえ、私ね、感じるんだ。”
何が?
“私達の関係って……、今日明日の関係じゃなく、一生もののような気がする”
……どういう意味だ?
“……別に結婚とか、そう言う事じゃなくて……、なんて言うのかな、強いて言えば『縁』って言うものなのかも知れない”
……曖昧な理屈だな。
“曖昧だよ。でも、だから、確かなんだ。あなたとは何故か、考えて付き合わなくても、上手くやってきたもの。私にも、理由は分からないけれど、こんな気持ちになったのは初めてだった”
……。
“そうして、こういう関係は、もう他にないような気がする……”
それでも、僕はやりたいことがある……。なりたい自分があったんだ……。
“ねえ、よろしくね、これからも……、傍にいることは、もう出来なくなるけれど……”
……なりたい、自分……。
「よかったのかな、これで……」
月明かりの下、彼は独りごちた。
「あれから随分の時間がすぎて……、僕たちはもう学生じゃなくなった……。別々の人生を歩んで……。たぶん、彼女なら幸せに……」
彼は、微かに笑った。
俺は、放棄しただけなのだろうか。自分の夢のために、誰かと共に歩み、その人を、他の誰よりも幸せにすることを。
俺は、臆病なだけだったのかも知れない……。
彼は思った。
彼は、まだ妻を持っていなかった。
彼女のことを、まだ期待していたというわけではない。その証拠に、彼はこれまで、幾人かの女生と交際していた。しかし、結局、彼はまだ妻帯していなかった。その間に時間は静かに彼のもとを流れていった。気がつけば彼は、既に妻を持つと言うことをすっかり考えなくなった自分を見出していた。斯うしてポケットに手を入れたまま、俺は俺の人生を夜路のように静かに歩いていくんだろう。彼はそう考えていた。
ふと、涼しい風が彼の首筋を通りすぎた。
辺りに漂っていたバラの香りは、一瞬行く場所を失って彷徨ったが、気がつけば消えて無くなってしまっていた。
「……もう、入ろうか」
彼は皮肉に微笑んだ。入ればまた、いつもの見知った顔に合うのだろう。
その人達の前で俺はまた、先生の顔をするわけだ。憧れた、「なりたい自分」の顔を……。
「……祐介?」
その時、俯いた彼の前方から声がした。
「祐介、でしょ?」
彼は驚いて顔を上げた。暗闇で、相手の顔は殆ど見えなかった。
しかし、彼は既に気づいていた。その影が、彼女であることを。
「……どうしたんだ、諒子……」
彼はその時、驚きのあまり、子供のように目を大きくあけて、暗闇に良く光る瞳で、彼女を見つめていたが、彼自身それを意識することはなかった。
彼女はその、年甲斐もなく幼い彼の反応を見て、ただ、懐かしそうに微笑んでいた。
「……今日、あなたの講演がこの街に来るって聴いたから……、後ろの方で聴いてたの。もう、余りよく解らなかったけれど……」
「そんな、あらかじめ言ってくれれば……」
彼は擦れて声が出なかった。振り絞るようにして彼女に届くように声を出した。
彼女は、何も言わなかった。
だが、彼にはそれで十分だった。
おそらく彼女は、彼の前に、もう姿は現さないつもりでいたに違いなかった。
しかし、思わず、もしくは偶然に、彼の前に出てしまったのだ。
「ねえ、言ったでしょう?」
彼女は言った。あどけない笑みを浮かべて。
彼は微笑んだ。
ああ、言ったとおりだ。あの日、彼女が言ったように……。
暗闇の中で、彼女がそっと彼の手を握った。
その手には指輪をしていなかった。
しかし、彼女の物腰は明らかに、子を持ち、家庭を持つ女性のものだった。
その笑顔はあの日のままだったが、開け広げて熱を放つような、若さは彼女にはもうなくなっていた。
「……あなたは、随分偉くなった」
彼女は言った。
「私からどんどん離れていって……。そして、私たちは別れてしまった」
そうかもな。
彼は思った。彼女の手の熱を感じながら。
俺は気がつけば、随分遠くまで行ってしまっていた。
夢を追うことが、初めは二人の間に、これほどまでの距離を生み出すとは、少しも思わなかったのに……。
「……でも、今だから思うの」
彼女は、前を見つめて言った。
「……これが、私達の幸せの形、だったんじゃない?」
自分と共にいることが、相手にとって必ずしも幸せに繋がらないと悟った時、人は、どうするべきだろう。
彼は思った。
全てを手に入れようとする者もいるだろう。だが……。
臆病と言われることを覚悟しても、引き下がることもまた、選択なのではないか?
「おれは、これで良かったのかな……」
彼は呟くように言った。
「……良かったのよ、これで……」
彼女は言った。
「恥ずかしくない、生き方をしているわ。あなたは」
ホテルの喧噪が、微かに聞こえる。
彼を捜す、学生の声がした。
その声を聴き、彼女は彼にも悟られずに、暗闇の中でひとり、俯いて静かに微笑むと、引きつけられるように握りしめていたはずの彼の手を、指輪の無い左手からそっと離した。
2009年12月6日日曜日
After
2009年6月15日月曜日
ある責務のかたち
「……これ、落ちましたよ」
小さな細い手が、男の落とした一枚のハンカチを拾い上げた。
振り向くと、女はそれを右手に提げたまま、小首を傾げて微笑んでいた。
「……やあ、ありがとう」
男はそう言うと、女がつまんでいた緋色のハンカチを、照れくさそうに奪い取った。
「珍しいですね、男の人でそんな色のハンカチ」
女は犯しそうにそう言って、口元に手を当てた。
「……ああ、妻のでね、間違えて、持ってきてしまったんだ」
男はよほど照れくさいらしく、女の顔を見ずに言う。
「そうなんですか」
女はそう言うと、おかしそうにくすくすと笑った。
女が小さくお辞儀して通り過ぎてしまった後、男は一人受け取ったハンカチを右手に広げて、まじまじと其処に書かれた文字を見つめていた。
「……“妻の”、か」
男はそう言うと、ハンカチに書かれた小さなイニシャルを、親指で軽く撫でた。其処にはイタリックの書体で"N.S."と刺繍されていた。
「……この名字も、もうすぐ変わってしまうな」
ひと月ぶりにあった妻は、今までと変わらず一言もしゃべらなかった。
行きつけだった喫茶店の奥の机に互い違いに腰掛け、彼自身の目の前には、彼女の代理人である弁護士がその大柄な体躯をぴしりと決まったスーツで包んで座っていた。
「……こちらの条件はこうなっております」
弁護士は落ち着いた声でそう言って、黒塗りの革製の鞄から数枚の紙がクリップで束ねられたA4大の書類を差し出した。
「……端的に申しまして、依頼人、つまりあなたの奥様は、息子、信人君の親権と、あなたの現在の収入の20%の養育費、そしてここに描かれておりますような額の慰謝料を望んでおります」
弁護士が“奥様”と呼んだ時、彼の妻では無くなるその女は、その言葉を聞くのも忌々しそうに、一瞬目をそらし、顔をしかめた。組み替えた足の先に、未だ真新しい、見知らぬ色のヒールが見えた。
「……養育費は払います。親権も譲りましょう。確かに、僕は家庭を顧みた父とは言えないのだから。ですが……」
彼は一瞬言葉を躊躇った後、続けた。
「……しかし本当に、これは僕が慰謝すべき離婚なのでしょうか。彼女は……、」
「……奥様を一人にしたのは何方ですか?」
弁護士は妻の代理となって口を挟んだ。
「そのことは、すでに前回のお話し合いでも十分話されたはずです。あなたは自分の仕事に夢中になる余り、家庭を顧みてこなかった。その結果、奥様が他の何方に救いを求めようと、あなたにそれを責める権利はないのではありませんか?むしろ被害者は我々の方なのです。あなたのために待ち続けた奥様の心情を鑑みれば、慰謝料をお支払いになるのが当然と言うことになるでしょう」
弁護士が、勢いに乗って彼と妻を「我々」と呼んだ時、彼は何か苦い物を感じていた。それは斯うして向かい合った彼女の側と、彼の側とが、もはや永遠に隔てられていることを決定づける言葉のような気がしていた。以前なら、彼が我々と呼べば、それは妻も含めていたのであり、本来は他人である弁護士はそれには含まれなかったはずなのだ。
契約によって繋がった他人が、自分よりも、妻の側にある事実。それが男に突きつけられた、あまりに残酷な事実だった。
「……我々の側も、これでも譲歩しているのです。本来なら養育費をもう少しお支払いになることも出来たはずだ。ですが、奥様がそれを断られたのです。このくらいの額でよいからと」
それは、彼女がすでに、彼女の息子を養育してくれるような男を得ているからに過ぎないじゃないか。彼はそう思ったが、押して堪えていた。それでも、息子が幸せに成長できるなら、未だ良いのかも知れない。男はそう思った。彼女の男を彼は知っていたが、彼が思うに、その男が彼以上に、彼女を慕っているのは紛れもない事実のようだった。彼ならば考えつかないような愛情の示し方を、その男は彼女に向かって示していた。不器用な、仕事しかできない男には到底及ばないその愛情表現に、彼は、何か勝負事に負けたような失意を感じていた。
「……なあ」
彼はうなだれた頭を上げ、そっぽを向いたままの、妻を見つめた。
「お前達は、今、幸せか?」
妻は男の方を見なかった。いらいらとした気持ちを顔に表したまま、薄汚れた花の絵が飾られた茶色い壁の方を、ただじっと見つめているだけだった。
「以前は愛していた男を、金を払うだけの人間におとしめておきながら……、お前はそれでも、幸せになれるのか?」
女の眉間がぴくりと動いた。しかし彼女はそれでも、男の方を見ようとはしなかった。おそらくは、一切口を出さないように、弁護士から堅く口止めされているようだった。
「……志田さん」
弁護士は男の名を呼んだ。
「金を払うだけの人間、とはたとえが悪い。例え法律上の夫婦ではなくなっても、息子さんは実質、あなたの子供なのです。彼の幸せを祈っているのなら、養育費を払うのは、親として当然の責務だと思いますが?」
男はそれを聞いて、押し黙った。
責務。そんなことは解っていた。
しかし、親としての責務は、果たして、子供が成長するのに見合うだけの金を払い続けることなのだろうか。男はそう考えていた。親として、子供に道筋を付けて上げられるような、そのような働きかけをし続けることこそ、親の果たすべき、責務という奴なのではないだろうか。
男はそう思い当たった。
しかし、次の瞬間、男の表情に浮かんだのは、妻に対する荒々しい怒りではなく、うすく湿った失笑だった。
「……ええ、それが僕の責務ですね」
あきらめたように男はそう言った。
「……思えばこれまでも、家庭に金をもたらすようなことしかしてこなかったんだ。息子と一緒にキャッチボールをする時間すら、僕には取れなかったのだから」
「……解っていただけたのなら、幸いです」
弁護士は、そう言って口元だけで笑った。
「それでは、手続きを前に進めましょう。この場所に判とサインを。奥様のものはすでにいただいてありますので……」
弁護士の太い指が指さす何もないアンダーラインの上に、彼は書き慣れた自分の名前を書き込みながら、ふと、妻の名前の傍に書かれた息子の名前が、彼の書いた字によく似ていることに気がついた。
おそらくそれは、息子が自分で書いたもののようだった。
手続き上、訳も分からず書かされたのだろうが、その字は癖の付き方まで、彼の字と余りによく似ていた。
彼はその字を見つめながら、しばらく、ペンを持つ手を休めていた。
そして、再びそのペンが走り出した時、彼の心の中には大きな喪失感が渦巻いていた。
弁護士が彼から書類を受け取り、そこに書かれた彼のサインを一つ一つ念入りに確認して、つややかな革製の鞄にしまい込むと、彼の心の内に、何か大切な物が今しも、自分の手から遠く離れて行ってしまうのだという自覚が生じてきた。
彼は自分の心が、何か得体の知れない、冷たく、ひんやりするものに蝕まれていくのを感じた。そして、見知らぬヒールの音を響かせて去っていく、身体の大きな弁護士と小柄な妻の背中を、もはや、単なる一点の黒点に過ぎなくなった目で見送っていた。
2009年5月10日日曜日
Potato Salad, a cup of,
隣の机に座る少女が机に伏せるようにして眠っている。
私は彼女を気に掛けながらも、目の前のパソコンに向かい、仕事を続ける。
彼女は昨日も遅かったのだろう。
仕事が立て込むと、眠れなくなることも多いのだそうだ。
私がそのことを尋ねると、
「……昨日は、ちゃんと寝ましたけど」
そう言って、頼りなげに笑った。
「……でも、ねむいんです。……なんか」
彼女はそう言って、また机の上に突っ伏してしまった。
私は声も出さずに笑って、お疲れ、と小さく呟いた。
彼女の向こうの窓に見える景色は、もうすっかり暗くなっている。
遠く、駅前の高層マンションの明かりが、はっきりと夜空に浮かんで見える。その先端の赤い明滅する光りが、星のない虚空に、受け取る者の無い信号を放ちながら、ただひたすらに、無事にこの夜が明けるのを待ちづつけている。
ふと、視線を感じて、隣を見れば、彼女が机に伏せたまま、顔を横に向けて、私をじっと見つめていた。
私の視線を感じると、彼女は咄嗟に私から目をそらして、向こうを向いてしまった。
私は再び、声のない笑いを漏らした。
「……昔、そう言う眼で、こっちを見てた人がいたよ」
私は、小さな声で、独り言のように呟いた。
「……その人とは、どうなったんですか」
彼女は向こうを向いたまま、独り言のように言った。
「……さあね。……忘れてしまったよ」
「……なんだ」
彼女の溜息が聞こえた。
「……つまんない」
私が彼女に言ったことは、言うまでもなく事実だった。私は確かに、昔あのような瞳で私を見つめていてくれた人が傍らにいたことを覚えている。彼女もいつも疲れた顔をして、同じ研究室でもなかったはずの私の机の隣に、いつも突っ伏していた。
逃げるようにやってきて、一眠りして、帰って行く彼女。
その背中に掛ける言葉を知らず、私はいつも、見守ることしかできなかった。
「……先輩」
向こうを向いたまま、彼女が呟いた。
「……その人とは、本当に何も、なかったんですか」
私はしばらく、黙り込んだ。
彼女との思い出を一つ一つたどってみた。
しかし、思い出すのはどれも、眠っている彼女だった。
笑顔でも、泣き顔でもなく、何故か疲れ果てて傍らでうずくまるように眠っていた、彼女の姿だけだった。
「……何も。……ただ、」
「……ただ?」
「……ポテトサラダ」
「え?」
私は彼女とのほとんどたった一つの思い出を思い出そうとしていた。
いつか彼女の作ってきてくれた、小さなカップのポテトサラダ。ほとんど料理など出来ないと、はっきり言っていた彼女が、どうしてそんなものを作る気になったのか私には解らなかった。
「……その子が、ポテトサラダを作ってきてくれたことがあったんだ。たった一回だけどね」
「……それ、」
彼女がこちらを向いた。
「……おいしかった、ですか」
私はその味を思い出していた。
ポテトとマカロニと、細く切ったキュウリとタマネギのようなものが顔を出していたのを、おぼろげに覚えていた。だが、その味付けは本当に薄味で、塩気が全くないのだった。彼女の父は塩分を控えるように医者から言われていたらしく、それで彼女の家庭では塩を控えるようにしていたのだと、私は聞いたことがあった。
それにしても、あの味の薄さは、それとはまた違っていた。
おそらくは、過剰な塩分はいけないという彼女の考えが先走って、おいしい味付けと言うものよりも優先してしまったのだろうと私は思った。
行動的に人前で振る舞う割には、肝心な時には一転して、ものを考えすぎてしまう彼女の性格が、そうした味の薄いポテトサラダを作らせてしまったのだろう。わたしはそう思っていた。
「……まあ、まあだったかな」
私は答えた。
「……優しい、味付けだったよ」
「……ふうん」
彼女は不思議そうな顔をして言った。
「……優しい味付け、ですか」
あのような薄味のポテトサラダには、今後も会うことはないだろう。わたしは思った。
彼女も今頃は上達し、もっとおいしいサラダを作れるようになっているのかも知れない。振り向いてほしい、何処かの、知らない誰かのために。
だが、もう誰も知らないのだ。
あのときの薄味のポテトサラダを愛していた人間も、この夜空の下に、いないわけではなかったことを。そして、その儚い味の中に、小さな幸福を噛みしめていた人間が、僅かにでもいたのだということを。
2009年5月7日木曜日
ある男の生涯
……まだ、終われないのか。
男は雨の中、一人呟いた。
早朝。雨降りしきる、抜かるんだグラウンド。校庭に子供らの姿はない。
すでに引率の手により、校舎の奥に避難している。
窓の向こうから、子供の不安げな瞳がこちらをじっと見ている。
男はそれに気づき、その瞳に笑いかけようとしたが、それだけの気力はもはや残っていなかった。
子供の影は、彼の引きつった笑顔を恐れたのか、不意に窓辺から消えてしまった。
男は力なく笑い、彼の敵の方を、ゆっくりとふり向いた。
「……何もこんな雨の中、襲ってくること無いだろうがよ……」
男は独りごちた。
「……悪戯が過ぎるぜ、全く……」
大小無数の水たまりが、疲れ果てた彼の表情を、砕けたガラスのように、あらゆる角度から散り散りに映し出す。
薄い雲の向こうに、おぼろげな太陽が見える。
しかし、それは、今日はあまりにも遠い。
太陽がこんなに、遠く感じるのは初めてだ。
男は雨雲に覆われた空を見つめ、そう思った。
身体は冷たい雨に濡れ、顔からは無数の雫がしたたり落ちている。
これは、汗か、それとも涙か。
男は地を向いて一人嗤った。
俺は、他人のためだけに尽くしてきた。
それなのにまだ、お前らは俺を喰らうというか?
一体何処まで、この身を捧げればよいのだ?
どれだけ苦痛を味わい、命を張っても、彼らは、彼女らは満足することを知らない。
初めはうれしがって、感謝の言葉を述べもするが、いずれはそれも当然のこととなって、礼の言葉すら、無くなってしまう。
俺は、何処に見出せばいいのだ。この犠牲の結果を。
救った人々の笑顔を、守った、ありふれた日常を糧に、この苦行のような戦いを、明日も続けろと言うのか?
ほら、見ろ。
霞の向こうで、奴が微笑んでいる。
大きな機銃を手にして、俺に照準を合わせたまま。何が楽しいのか……。
結局は奴だけが、俺の行為の無益さを、誰よりも良く、理解していたと言うことか。
痛みに耐え、苦しみに耐え、己を滅して、生きてきて、その果てが、これか?
何が残ったというのだ。俺の戦いの果てに。
日常の価値も忘れた、人々の当たり前の生活だけが、俺の消えた後も、延々と続いていくのか……。
男は黄色いグラブの下で、拳を握りかためた。
その手中には、何もなかった。汗に汚れ、血豆も破れ、むごたらしく傷ついた指だけが、彼の戦いのすべてを物語っていた。
しかし、その壊れた手は、今だ何も掴んではいなかった。
愛する人の賛辞も、賞賛も、栄誉も、幸福も……。
男は忘れていたのだ。
他人に尽くすことを美学とする余り、自身を省みることを。自身の心の内の、人間じみた人並みな欲求を受け止めることを。
男は再び、力のない笑みを浮かべた。
降りしきる雨の向こうで、黒衣の彼が、機銃の弾倉をゆっくりと付け替えているのが見えた。
逃げぬ獲物と解っているのだ。あとは、照準を外さず、一撃で仕留めることこそが、男と数限りなく死闘を演じてきた彼なりの、最後の餞だった。
……ばいばいきん。
彼が、雨の中でそう呟いたように見えた。
水に濡れた頭が重い。
足に力が入らない。いやにふらついて、立っているのがやっとだった。
「……膝が笑っていやがる」
男は独りごちた。
これは、疲労のためか?それとも……、
「……怖いのか?俺は……」
男は天を見上げた。
白い雲の中から、雨だれは灰色の影となって降り注ぐ。
水に濡れた男は嗤った。
このまま腹が裂け、胸板が砕け散るかと思うほどに、嗤い続けた。
英雄が何だ。
最後が、これか。
……俺は、ちっぽけな男だ。
あいつがまた、見かけに似合わず、豹のような周到さで、俺の命を狙っているかと思うと、いつも怖くて、怖くて、仕方がなかった。
出来ることなら戦いたくない。
このまま、逃げおおせてしまいたい……。
着古したマントを羽織り、グラブを嵌めながら、そう思ったことが、いままで何度あったか。
そんなどうしようもない俺を、励ましてくれる奴なんていなかった。
みんな、ケガを知らない、きれいな手を胸の前に組んで、固唾をのんで、神妙な顔して見守っているだけだ。
リングの上に上がるのは、いつも俺一人。
傷つくのも、苦しみを味わうのも、俺一人……。
俺を、恐怖から救ってくれたのは、他人の優しい言葉なんかじゃ、決してない。
それでも他人を裏切れない、俺の心の底のどうしようもない甘さと、がむしゃらな勇気だけだった。
だが……。
勇気≪とも≫の姿は、もう、見えない……。
ははっ。
腰が砕けそうだ。
お天道さんよ、
俺は最後まで、惨めなまねはしたくねえんだよ。
なあ、頼むよ……。
もう少し、この俺を、支えてくれよ……。
男は嗤ったまま、天を抱くように、くたびれた両手を大の字に広げた。
雨の向こうの彼の、漆黒の右手が、引き金を静かに引いた。
怒濤のように銃声は辺りに響き渡り、たちまち、無数の閃光が彼の身体を貫いた。
男の身体がぐらりと傾き、泥に濡れた大地に、うつぶせに倒れた。
水を吸った頭が身体から離れて、浅い水たまりの上に、ごろりと転がった。
仰向けになった頭が、泥に濡れた彼の、最後の引きつった笑みを、雨雲たれ込む白い空に向けていた。
“彼”は、左手に銃を提げたまま死体に近づき、喜びとも悲しみとも付かない引きつった表情を浮かべて、しばらく男の死顔を見つめていた。が、やがて、何を思ったのか、その命を奪った身の丈ほどの黒塗りの重機銃を、ぬかるんだ大地にずぶりと突き刺した。
彼は、泣いていたのだった。
声も枯れよ、とばかりに。
やがて、彼は大地に刺した機銃を引き抜くと、おもむろにその銃口を自身の方に向け、その先端に彼の額の中心を据えた。
……ばいばいきん。
彼は再び、そう呟いたように見えた。
雨に濡れた大地に、無数の雫が流れ落ちる……。
昼が過ぎ、雨は上がった。
太陽は白い雲の向こうから、溢れんばかりの日差しを、彼と彼の身体に投げかけた。
泥まみれの身体が、互いに頭を向けて大地に横たわっている。
降り注ぐ雨が、涙も、血しぶきも、きれいに洗い流してしまった。
駆け寄ってきた村人達は、しかし、それ以上近づくことが憚れ、遠巻きにその二つの遺体を見つめていた。
一人の老人が、村人達の輪から一歩踏み出て、彼らの身体にそっと手を触れた。
そして、嗤ったまま強ばってしまった二人の死相をまじまじと見つめて、その目尻を濡らしたものを、老いさらばえた細い指で、そっとぬぐった。
母に手を引かれたまま、老人の背中をじっと見つめていた、一人の幼い、やや知恵の遅れた少年が、その時、誰に言うでもなく、小さな声で呟いた。
「……勇気のすずは、もう鳴らない」
その声を聞いた母は驚いたように、思わず我が子の顔を覗き込んだ。
幼子はあどけない眼差しを、陰惨とした現場にじっと向けたまま、抑揚も付けずに、もう一度その言葉を呟いた。
「……勇気のすずは、もう、鳴らない」
2009年4月21日火曜日
田舎の生活
たらいに汲んだ井戸水に、ゆっくりと手を浸した。
冷たい感覚が、指先から静かに駆け上がって、腕の中を走る何本もの青白い血管を浮き上がらせ、内蔵の方までゆるゆると冷やして行く。寝ぼけて熱った体温が、それにつられて急速に冷まされて、背中が、きゅっと縮むような感覚があった。
たらいに映る顔は、朝の光を浴びていても、何処か未だ眠たげだ。
昨日、寝る前に鏡で見た時の自分の顔の、半分ほども目は開いていなくて、頬は幾分丸く膨らんでいる。蜂に刺されてふてくされたかのような、その寝起きの顔が、指先からこぼれ落ちる雫に、ゆらゆらと揺れていた。
洗面所。山奥の田舎にある、この古民家を借り切ってもう3年になる。大家のおばあさんは、去年まで、この家の向かいの母屋に住んでいたのだが、今はもう、この住み慣れた田舎町を去って、都会に住む息子夫婦の家に越して行ってしまった。
「...あの母屋も、好きにに使っていいから。家族が増えたら、今のところじゃ手狭でしょうに」
別れ際、僕らにそう言ってくれたおばあさんのしわがれた優しい声が、僕の耳には、未だ昨日のことのように鮮明に残っている。それは、キュウリか、レタスか、白菜か、幾分不格好でしわくちゃだけれども、何処か優しく、瑞々しく、それでいて、青臭い匂いのする、不思議な安らぎを持った声の主だった。都会から田舎のなんたるかも知らずに越してきた僕らが、この土地に根づく事が出来たのも、あのおばあさんがいてくれたからだと、時折、妻と昔話のついでに話すことがある。
この古い家の、薄暗い洗面所の中で、背中側から細く差し込む光が、ようやく僕の手元を照らす。コンクリートを塗った土間に、取って付けたような琺瑯の洗面台。おそらくは、どこかで要らなくなったものを、もらってきてそのまま置いただけなのだろう。立て付けが悪いらしく、全体が少し左手に傾いていて、鏡に映った僕の顔も、たらいに張った水も、どうやら少し、かしいでいる。
「今日は早いのね」
斜めに移った自分の顔を、未だ眠気の覚めない頭でぼんやりと見つめていると、後ろから声がした。ふり返ると、見慣れた顔が、こっちを向いて笑っている。
「……日曜日だからな」
「子供みたい」
そう言って笑うと、彼女は土間にすかすかと入ってきて、僕のわきをするりとすり抜け、洗面台の先にあるトイレに、先に入ってしまった。
がちゃり、と鍵の下りる音。
何処か拒絶されたような、錯誤した感覚が僕を襲う。それに伴う孤独と気まずさが、僕らの間に一瞬の沈黙を生み出した。
この何とも言えない間合いの可笑しさは、彼女も感じたらしく、扉の向こうから、フフ、と含み笑いをする声が聞こえた。
僕も思わず、声に出さずに笑った。
そして、また冷たい水に手を突っ込んで、ざぶざぶといつもより余計に音が出るようにしながら、大仰に顔を洗って、ううっと声に出して、大きく背伸びをした。
「……ねえ」
閉じた扉の向こうから、声がした。
「何?」
閉じた扉の方を向き、問い返す。
「……また、駄目だったんだ、私」
扉の向こうの声が言った。
「昨日、編集者から電話が来てね、今回の受賞はなさそうだって。二次選考までは通ったらしいんだけど、最終候補には残ってないみたい。……また、来年頑張ろうってさ。あの、いつも、ぐちぐち意地悪ばかり言う編集者が」
力のない笑い声が聞こえた。
「……あーあ。あたし、向いてないのかな。やっぱり」
「そんなこと無いよ」
「いや、やっぱり向いてないんだよ。甘かったんだ。OLやめて、自分の好きなやり方で、人生生きてやるって、思ったのはいいけど、それはやっぱり、単なる日常からの逃避だったんだよね。同じ繰り返しの毎日に、うんざりしてて、ちょっと変化が欲しかっただけだったんだ。それなのに、気まぐれに書いた文章が、ちょっと上手く書けたからって調子に乗って……、こんなの所まで、行き着いちゃった」
「こんな所って……」
僕は思わず、そう呟いた。
「……たしかに、こんな所、はないよね」
彼女は再び、笑ったようだった。
「……あたし、やっぱり、だめだ。いろんな人にお世話になって、それをすっぽかして、ふり返りもしないで……。あなたにも、迷惑掛けてばかり。人の人生巻き込んで、こんな田舎まで越してきて……」
扉の向こうの声が、不意に静かになった。
小さな嗚咽が聞こえた。
また、思い出したんだな。僕はそう思った。
最近の彼女は、いつもこうだ。
時期的なものもあるのかも知れない。春が近づき、草木が芽吹く季節になると、相対的に、自分の心の底にあるものが、どうしようもなく避けがたいものとして、はっきりと見えてしまう。浮かれる心の一方で、どうにも動かない、その深く、暗い悲しみ。それが春の、もう一つの側面であることは、僕もよく知っている。何度もこうして、雪解けを待ってきたのだから。
「……ごめん」
彼女は小さな声でそう呟いた。
「やっぱり、思い出しちゃって……。こういう時に限って、……なんで、かな……」
「無理もないよ」
僕は扉の向こうの彼女に慰めを言った。
「僕らのしたことは、そう言うことだ」
「……はは……、そう、だよね……」
僕と彼女の間に、一瞬の沈黙があった。
僕は言葉を躊躇った。
彼女は言葉を選んでいるようだった。
「……ねえ」
沈黙を先に破ったのは、やはり彼女だった。
「……ちゃんと産んでたら、幾つになったかな」
「4つ」
僕はその年齢を忘れていなかった。それは、僕の罪でもあるのだから。
「4つ、か……。私達、若かったよね。たった四年前の出来事だけど……。いま、あの子が生まれるのなら、私、迷わず産んでるのに……」
彼女の声が涙声になった。
「……たった、四年間で、変わってしまうような都合で、私達は、一つの命を捨てたんだ。今更、それを欲しいと願っても、それはわがままに過ぎないよね。……出来ないのも、無理は、無い、か……」
「……君だけが、背負う事じゃない」
扉の向こうの彼女に、僕は語りかけるように言った。
「それは、僕にとっても背負うべき事だ。僕ら、二人の命だろう。そして、二人で決めたことだったろう?」
「……私達、二人で決められることだったのかな」
彼女の声が訴えかけるような調子に変わった。ドアのすぐ向こうまで、彼女はせり出しているようだった。
「一つの命が、産まれるとか産まれないとか、そんな都合は、私達が、自分のスケジュールに合わせて決めていいことだったの?それで、展開していったはずの一つの可能性が、可能性のまま消えてしまっても、私達は、生きていけるだけの権利があるの?」
「……すでに生きているんなら、生きなきゃならない」
僕は、乱れた彼女の心を静めるように、一呼吸置いて続けた。
「消えていった命を背負えるのは、今生きている僕らだけだから」
「……勝手だよ。先に生まれたものの、勝手」
彼女は言い捨てるように言った。
「……今でも時々、子供を産む夢を見るんだ。朝起きると、夢の中では大きかったおなかはすっかりしぼんでしまってる。その喪失感に……、なんだか、涙が出るんだ」
彼女は言った。
「こんな感覚、男の人には、解らないだろうな……。子を宿すってことを、身体で感じられるのは、私達だけだから……」
彼女はその後しばらく、トイレから出てこなかった。
顔を洗って濡れていたはずの僕の両手は、気がつけばすっかり乾いてしまっていた。
僕は先に洗面所を出て、居間に入った。朝食の用意は、もう調っていた。
居間の冬には炬燵として使う机の前に座って、静かに物思いにふけりながら外の明るい景色を見ていると、ようやく彼女が奥から出てきた。
扉の向こうで泣いていたとはつゆとも感じさせない笑みを浮かべて、照れくさそうに僕の向かい側に座ると、古ぼけたしゃもじで、白いご飯をひとすくい、使い古した茶碗によそった。
2009年3月24日火曜日
メルカトル
ミドリガメが目の前をゆっくりと這っていく。
ナオコに言わせると、それは散歩なんだそうだ。
「だって、カメだって生き物でしょう」
彼女は妙な色のペディキュアを足の指に塗りつけながら言う。
「きっと、狭い水槽じゃ、気が滅入っちゃうよ」
カメに滅入るだけの繊細な神経があるのか、僕はよく知らない。
それを知ってたところで、何になるだろう。ただ、カメを飼うのに、以前よりもこっちが気を遣うようになって、何のために、この手の掛からない生き物を僕らのペットに選んだのか、解らなくなってしまうのが、オチじゃないだろうか。
「ミドリガメは、あんまり陸が得意じゃないみたいだよ」
僕は彼女の足の指先を見つめながら、控えめに言った。妙な色は次第に、足の爪の上で、面積を伸ばしていく。なんだか、気分が悪かった。
「でも、ずっと水に入れてたら、カビが生えてきたでしょう?」
彼女が苛立った調子で言う。
「それじゃいけないって、あなたが言ったんじゃない」
彼女はようやく満足がいく具合になったらしく、爪に色の付いた足を不格好に高く持ち上げて、少し見上げるような姿勢をして見せた。足の指の先を、無意味に曲げている。
「水をちゃんと換えてれば大丈夫だよ」
僕は彼女の高く上げた足を、一緒に見つめながら言った。身体の少し硬い彼女は、足を高く上げようとすると、膝が先に曲がってしまう。そのうち、腿の裏側の筋肉がつってきたらしく、高く足を上げるのを止めて、ごろりと背中を付いてしまった。
頭の後ろに手を組んで、口をへの字に結んで仰向けに天井を見上げている。
「あ、蛾の死体」
彼女が、天井の隅を指さしながら呟いた。
僕も、彼女の指さす方を見上げた。そこには確かに、蛾の死体がくっついたままになっていた。もう、ずいぶん古い物らしく、主のいなくなった蜘蛛の巣に絡まったまま、腐りもせずに残っていた。でも、よく見ると表面は、うっすらと、深緑色の藻のようなカビに覆われていた。
「...モス」
彼女は蛾の死体を指さしたまま、そう言って、おかしそうに笑った。
何がおかしいのか、僕には解らなかった。
「...ああ、つまらない」
彼女は持ち上げていた腕を、ばたりと畳の上に落とした。
そして、また口をへの字に結んで、天井を見つめていた。
「あのさ、」
僕はおそるおそる、彼女に話しかけた。
「何で、僕を呼んだわけ?」
今日は、バイトの日だった。彼女が急に、会いたいというものだから、僕は何かあったのかと思い、友達にわざわざ換わってもらって、ここに駆けつけたのだ。
「...悪かった」
彼女は、目だけを僕に向けて謝った。
「悪気は、無いの」
つまらなそうに、また天井を向いた。僕よりも、天井を見ていた方が、未だ飽きないらしい。
彼女はやがて、静かに目を閉じた。
キスでもしろ、と言うように、口を半開きにして見せている。
僕は戸惑った。
さっきから、気になっていたんだ。
カメが、僕らを見ていた。
「...ねえ」
僕は恐る恐る彼女に呼びかけた。
「...ん?」
半開きの口が答えた。
「...カメが、見てるよ」
彼女は、ふと、目を開くと、身体を半分起こしてカメを転がしておいた方を見つめた。しかしカメは、彼女が見つめる頃にはもう向きを変えていて、そっぽを向いたまま、つまらなそうに歩き始めていた。
「...見てないじゃん」
彼女が、ふてくされたように僕を睨み付けた。
見てたんだよ。
僕は言葉を口の中でかみ殺した。
「まあ、いいけどね」
彼女はごろりと横になると、身体の向きを変え、僕に背中を向けてしまった。
「...なんか、つまんないの」
彼女の背中が、少し小さく見えた。もしかすると、泣いているのかも知れなかった。でも、下手に触ると、彼女のことだから、きっと、ペディキュアの乾いていない足で、僕を足蹴にしてしまうのだろう。
僕はそれが怖かった。だから、あえて彼女には触れないようにしていた。
彼女の向いた先には、安っぽい窓枠の嵌められたガラス戸が僅かに開いたままに放置されていた。その向こうから西日が差し込んできて、部屋は妙に明るかった。
「...ねえ」
彼女が向こうを向いたまま言った。
「...もう、帰ってもいいよ」
彼女の小さな背中は、いつまでも小さなままだった。
気がつけば、カメの姿も、もう無かった。
でも、カメが見つめていてもいなくても、彼女の背中は触れるにはあまりに小さすぎて、僕は何も出来ずに、半分伸ばしかけた右の手を、静かに降ろした。
2008年12月13日土曜日
a-cross
もしも、君に出会えていなかったなら。
そんな陳腐な言葉は使いたくなかった。
嫌みできざったらしい言葉ばかりが、頭の中を駆けめぐっていて、この瞬間、目の前の彼女の心に残るような、確実で、またとを得た言葉が、浮かんでこない。
『搭乗手続中』
プノンペン行き202便には、さっきからそう表示されている。
もうそろそろ、ゲートをくぐらなくてはいけない時間。しかし、彼女はまだ席を立とうとはしない。
飛行場の滑走路のよく見える細長い造りのカフェに二人で入って、もう1時間近く経つだろうか。普段落ち着きのない君の割に、長く持った方だ。
君はさっきから、手元の紅茶が冷めていくのも気にせずに、着陸しては離陸していく何機もの飛行機の後ろ姿を、ずっと目で追い続けている。
紅茶の中に沈んだ小さな茶葉が、口の広いカップの底に不安げに漂っている。
君がここに座って以来、見送ってきた何機ものボーイングの背中には、幾人もの僕と君が、散り散りになって機乗している。幾つもの似たような運命の中に、物珍しくもない僕らのラブストーリーも存在している。
カフェの店員には、見慣れた光景だろう。
彼女の水をつぎ足す所作には、一瞬の乱れすら感じられない。
恭しく頭を下げ、水差しを傾けて、楚々と去っていく。
その一連の動作を、僕は目で追っていたが、君はそんなことなど、全く構っていないようだった。
「ねえ、」
僕が、無愛想な君に話しかけた。
「プノンペンには、何時間かかるの。」
「3時間。」
彼女はぶっきらぼうに答えた。
「3時間...。なんだか、中途半端だね。寝るにも足りない時間だ。」
僕は努めて、彼女に笑いかけた。
「そうね。」
彼女は僕の方を見ようともしなかった。
「ねえ...、気持ちは分かるけど、もう少し、ポジティブに考えてもいいんじゃない?会社はきっと、君の将来を見込んでいるんだよ。」
「...そう、かしら?」
彼女は突き刺すような眼光のまま、それでもようやく僕の方を向いた。
「あなた、本当にそう思う?これが、ニューヨークとか、せめて上海ならともかく、プノンペンよ。なんの仕事があるって言うの?明らかに、左遷じゃない?」
「それは...。」
「向こうでの事業は確かに、まだ始まったばかりだけど...、私が回されるのは、前回失敗した事業の尻ぬぐいよ。他人の失敗の後片付けに、どうして私が、わざわざ本社から回されなくちゃいけないわけ?」
僕には、返す言葉もなかった。
「いい加減なこと言わないで...。」
彼女は少し俯いて、それからぷいと、再び滑走路の見える窓の方を向いてしまった。
その目には、微かに光るものが浮かんでいた。
彼女のような、自分の仕事に誇りを持っている女性にとって、会社の今回の措置は、嫌がらせ以外の何物にも映らなかっただろう。
決して、何か間違いを犯したわけでもなく、彼女の仕事の成績はいつも人並み以上だった。
むしろ、彼女に仇なしたのは、この彼女の優秀さにあったのかも知れない。
彼女のこの性格のためもあって、社内のやっかみは相当あるようだった。
「...わたしが、何をしたって言うの...。」
彼女は大きな窓に目を向けながら、小さな声で、そう呟いた。
彼女は、プライドが高かったが、芯が強いわけでは無かった。そう振る舞っていただけで、内心は繊細で、傷つきやすい人間なのだ。
むしろ、だからこそ、彼女は周りの人間に対して、時に威圧的にも見える態度を取っていたのだと、僕は思っていた。
正直、耐えられないだろうな。
口惜しそうな表情で、窓を見つめる彼女の横顔を見ながら、僕はそう感じた。
だが、ついて行くわけにも行かなかった。
僕には僕で、やらなければいけない仕事があるのだから。
「...ねえ。」
消え入りそうな声で、彼女が言った。
「別れ、ましょ」
彼女は、体は向き直っていたが、うつむき加減で、僕の目も見ていなかった。
「もう、そのほうが、いいとおもうの。...お互い、歯車は、別方向に、動き、出したのよ」
言葉を絞り出すように、彼女は小さな声で僕に語りかけた。
長い髪が、顔の両側に黒い幕を下ろしたように垂れ下がって、表情を覆い隠した。
「....こんな、急な話で、ごめんね...。ありがとう、いままで。さよぅ...」
「あの、さ。」
僕は、おそるおそる、切り出した。
「結婚、しちゃわない。」
今まで俯いていた彼女が、驚いたように顔を上げた。
先ほどの泣き顔が、まだその顔には張り付いている。
「なんか...、僕の方こそ、こんな飛行機の待ち時間みたいな時で、悪いんだけど。」
「でも、」
「...いい考えだと思うんだ。僕には君の支えになれるか解らないけれど、だからと言って、放っても、おけないんだよね...。プノンペン行きは、君にとっては、そりゃあ....、不安だろうと思うけれど、僕にとっても不安なんだよ。だから...、ね。君にこれだけ振り回されても、ずっとここまで、くっついてきた僕なんだから、少しは....、考えてくれないかな。...この不安の、解消」
彼女は黙ったままだった。
ベージュのチノの膝の辺りをくしゃくしゃに握りしめて、彼女の体は微かに震えていた。
「式とか、手続きとか、そう言うかたちの上のことは、正月に帰ってきてから、またゆっくり話せばいいことだしさ」
彼女に僕の気持ちを言ってしまっても、僕の中にはまだ、少し後悔があった。
本当なら、もっときれいなところで、落ち着いた時間にきっちりとしたかたちでプロポーズするべきだったと思っていた。
彼女の転地が決まってから、お互い、ここ数ヶ月は忙しくて、ゆっくり会う暇もなかった。
それは、言い訳にしかならないのではないか。“男の勝手”な...。
彼女の、口癖だ。
膝を握りしめた彼女は、動こうとしない。
そうこうしているうちに、いよいよ飛行機の出発時間は近づいてきた。
「もう、行かない?」
彼女の手を取って、促した。
彼女は俯いたまま、ゆっくりと立ち上がった。
ベージュ色の生地に、雫に濡れた跡があった。
やはり、泣いていたらしかった。
彼女の黒いキャリーバックを引いて、手荷物検査場の手前まで歩いてきた。
ここから先は、彼女だけが行くことの出来る領域。
僕の手は、いよいよ、もう、届かなくなる。
彼女は、無言のまま、僕の手から、彼女の荷物を受け取った。
そして、俯いた顔をあげて、ようやく僕の顔を見た。
「...行ってくる。」
頬は涙に濡れたまま、にこりと微笑んでみせた。
2008年12月7日日曜日
潜る
それはまだ、赤い太陽が僕らの頭の上にぎらぎらと照っていた、夏の盛りのできごと。
僕とお姉さんは、二人して、近くの川辺に出かけていた。
その日のお姉さんは普段着たことのないワンピースなんかを着ていて、それは小さな水玉がいっぱい入っていて、お姉さんが動くと、模様のの水玉がはじけるようにはね回るのだった。
「ユウキ、泳がないの?」
お姉さんは僕に向かって笑いかけた。僕は思わず目をそらした。お姉さんの笑顔を、僕は真っ直ぐに見ることが出来ない。
「泳がないよ」
そのつもりはなくても、ぶっきらぼうな返事。お姉さんを怒らせたんじゃないかと不安になって、僕は目の端で、その表情を伺う。
「泳げばいいのに。ユウキ学校の水泳大会で、2等になったんでしょう。見たいな、ユウキの泳ぐとこ」
お姉さんは、僕の連れない返事なんかちっとも気にしていない様子で、相変わらずにこにこしていた。僕が水泳大会で賞を取ったのを、母さん当たりからどうも聞いたらしかった。
「母さんに聞いたの?...言わないでって言ったのに」
僕はむすっとして言った。
「いいじゃない。姉弟なんだから」
お姉さんは笑っている。
「姉弟って言っても...。」
僕は小さな声でそう言い欠けて、口をつぐんだ。これ以上言ったら、僕らの間に何か冷たい風が吹き抜けてしまいそうな気がしたから。
お姉さんは、僕のお姉さんなんだ。たとえ、何があったとしても。
お姉さんは当時、もう三十は少し超えていたように思う。でもずっと家にいて、昼間はお家で眠っていることが多かった。お仕事は夜で、明け方になるまで帰ってこなかった。帰ってきた時のお姉さんからは、いつも香水とお酒の匂いと、あとちょっと、タバコの匂いもしていた。
僕は知っていた。
お姉さんは、いつもお仕事から帰ってくると、眠っている僕を、そっと抱きしめてくれるのだ。僕の小さかった頃から、そうしていたようで、僕が中学生になっても、相変わらず帰ってくると抱きしめてくれた。僕は、実は起きていることもあったのだけれど、お姉さんにされるままにしていた。なぜだか、そうしている時のお姉さんは、いつもひどく、疲れているようだったから。
昼間の、水玉模様のお姉さんと斯うして外に出かけたのは、だから本当に稀なことだった。次の日のお仕事が、きっとお休みだったからだろう。
斯うしている時のお姉さんは、年齢よりもずっと若く見えた。まだ、少女のような、そんな微笑みを、お姉さんはときどき見せてくれた。それは、夜に疲れて僕を抱きしめるお姉さんとは、まるで別人のようだった。
「ユウキって、けちね。泳いでみせる位、何でも無いじゃない」
お姉さんは言った。ぼくはそっぽを向いたままだった。お姉さんの前で、何かをすると言うことが、全体的に恥ずかしかった。何をやっても、お姉さんの前では不自然になってしまうだろうと僕には解っていた。
ここ数日雨が降っていなかったので、川は川底がはっきり見える位澄んでいた。僕らの見つめる先を、鮎の魚影が流れに逆らうようにして鋭く横切っていく。
「おさかなって、いいわよね」
お姉さんが、突然そんなことを言った。
「こんなきれいな、冷たい水の中にいて。誰に構わず自分の好きなところに泳いでいける」
「でも、水の外には出られないよ」
僕はそんな意地悪を言った。
「ぼくは、いやだな。鳥の方がいい。鳥の方が自由だ」
お姉さんはそれを聞いて笑っていた。
そして、ふと空を見上げて、
「確かに、鳥になれるものなら、鳥になりたいけど。...みんな、羽を持っているわけでは、無いから」
と言って、ちょっと悲しそうな顔をした。
お姉さんは、もちろん、僕の本当のお姉さんではなかった。
それどころか、どこからやって来たのかも、誰も知らなかった。
僕の母さんが貸していた部屋にずっと前から住んでいて、僕はお姉さんを、本当のお姉さんのようにして、育った。
お姉さんのことを、悪くいう人もいた。
夜の仕事というものが大人達には印象が悪いようだった。
でも、母さんは、昔から住んでいるお姉さんの本当の人の良さを知っていて、そんな大人達とは見方が全く違っていた。
お姉さんと僕ら母子は一緒にご飯も食べたし、よく一緒に旅行にも行った。
お姉さんにはすごく借金があって、お姉さんがあんまりいい人だから、母さんはそれも、少し手伝おうとしたようだったけれど、お姉さんは決してそれには手を出させなかったそうだ。
それどころか、家賃も最初に決めた額を毎月きっちり払っていた。
そんな事情を知ったのは、もっと後のことだ。
僕にとって、物心ついた時からそばにいるお姉さんは本当のお姉さんと変わりがなかった。
「ユウキ、」
空を見上げていたお姉さんは、僕の方に目を向けて話しかけた。
「将来、なりたいものって、もう決めてる?」
「海上保安官」
僕は映画を見て、その職業に憧れていた。泳ぎが得意だと言うことも生かせそうな気がしていた。
でも、お姉さんはその答えを聞いても、あまりうれしそうではなかった。
「確かに、かっこいいけど...。人を守る人は、人に縛られるのよ。ユウキはそれに憧れる?私は、ユウキにはもっと違った職業が向いているような気がするけどな」
「じゃあ、何?」
気に入っていた考えを否定された気がして、僕は少し機嫌が悪かった。
「フリーダイバー」
お姉さんは、真面目な顔で言った。
「酸素ボンベも背負わずに、体一つで深い海に潜っていくの。光りの届かない、世界で最も静かで、透き通った蒼い闇の底。海は敵ではなくて、他人も関係ない。地球や、自分自身との会話を続けながら、潜っていくの。誰も到達したことのない、深い深いところへ」
「それって、職業といえるの?」
僕は気になって聞いた。
お姉さんは、少し困った顔をしていた。
「職業といえるか解らないけれど、一つの生き方ではあると思う。自分の可能性を、追い求める仕事ね。...ユウキにはそう言う仕事についてもらいたいな」
僕は、それでも、フリーダイバーを目指そうという気にはならなかったけれど、お姉さんが僕に求めていることは何となく解った。
蒼い静かな闇の冷たさを身に感じながら深い海の底へ一人潜っていく自分の姿を僕は想像した。
そのそばには、真っ白な長い手足を持ったお姉さんが連れ添って潜ってくれていた。
いつも、何をするにも、見守ってくれる人を当たり前のように想定していた。
孤独と言うことが、当時の僕には、まだ想像できなかったのかも知れない。
...でも、その孤独は期待していなかったかたちで、全く無慈悲に訪れた。
お姉さんは、首を吊って死んでしまった。
川辺で二人並んで話してから、そう幾日も経たないうちに。
二人で話した時にはお姉さん自身もまだ知らなかったのかも知れないが、おなかには、誰かの赤ちゃんがいたと言うことだった。あの頃のお姉さんはいろいろ、他に病気も持っていて、体はもう、ぼろぼろだったらしい。
そばにいたはずの僕は、結局、何も出来なかった。
誰も到達したことのない深みに潜っていくダイバーを、
追いかけられるものは誰もいない。
心はあまりに深すぎて、潜るにはあまりに危険なのに、たとえ、そこで溺れてしまった人を見つけたとしても、他人の心の海に飛び込んでまで助けることが出来る人など、この世界にはいないのだ。
僕は海面に浮かんで、沈んでいこうとする危険な、あまりに小さな、真っ白なお姉さんの手足を見つめていることしか、出来なかった。僕を何度も抱きしめてくれた、あの白くて温かな手が、目の前を沈んでいくのに。
夏の太陽が、一人川辺に佇む僕の皮膚をじりじりと焼いている。
本当に、雨の少ない夏だった。
僕は、空を見上げた。
お姉さんのいない夏の空は、いつ見ても寂しかった。
お姉さんがいなくても、空が青いということが、僕にはどうしようもなく悲しいのだ。
2008年11月24日月曜日
あと5分、まって
彼女が、化粧をしている。
僕の家の狭いユニットバスの、湿ったフロアの上に裸足で立って、所々、端っこからさび付いて、茶色い斑点が浮かび上がった鏡の前で、薄い青色のアイシャドーを、まぶたの下端に塗っている。
彼女は鏡に映った自分の顔を斜めからのぞき込むようにしてその青い塗料を、すっかり目尻の所まで、念入りに塗りつけている。
僕は玄関先に立って、その様子を見ている。
僕の方はもう、外出する準備は整っている。
彼女に比べて、僕はいつも軽装。
彼女は、近所のマックにちょっと出かける時でさえも、どうしてこれだけ荷物がいるのだろうと思うほど、いろいろなものを小さな手提げに入れて、そうしてそれを大事そうに左手の手首の上の方にぶら下げている。
化粧もそうだ。
できあがった彼女の顔は、決して厚化粧の方ではないのだけれど、その準備には、なぜだかとても時間がかかる。
シンプルな絵が、決して短時間で完成するとは限らないように、
彼女のメイクもそれだけ念の入ったものだと言うことなのだろうか。
はやくしろよ。
そんな言葉が、さっきから僕の頭の中に聞こえている。
でも、僕は口に出さない。
ありきたりな、お父さんのようなキャラクターには、染まりたくないから。
優しい彼、でいたいから。
でもそれは、僕の本当の姿なのだろうか。
僕はいつも自問自答している。
偽った僕の優しさを、彼女が僕の本来の優しさだと勘違いしているとしたら、そのまま、この関係が発展してしまうのは、危険じゃないだろうか。
どうせなら、偽らざる、醜い僕を、
彼女には好きになって欲しいけれど。
偽る、と言えば、彼女は、今、僕の前で、化粧しているが、
あれは、誰のための化粧なのだろう。
僕は、彼女の、ちょっと素朴な感じのする、素顔を知ってしまっている。
現代的なメイクの下の、そんな愛らしい素顔を知っている僕の前で、ああして念入りにメイクする彼女の行為の理由を、僕は知らない。
もしかするとあれは、僕以外の、他の誰かのために、メイクしているのだろうか。
そう考えると、軽い嫉妬を覚えてしまう。
大切な素顔は、あなたのために、取っておいているのよ
昔、そんな映画の台詞があったけれど、それならば、もっと適当でもいいだろう。
何が、彼女をあそこまで、念入りにメイクさせるのだろう。
ごめん、ちょっと待っててね。
斜めから鏡をのぞき込む、彼女の瞳が一瞬僕の方を向いた。
僕の贈った耳元の白いイヤリングがそれに併せてちらりと揺れた。
昔、幼かった頃、
母が何処かに出かけるために、化粧を始めると、
僕はなんだか不安になった。
化粧はそれ以来、僕にとって、
そばにいて欲しい大切な人が、自分から離れてしまうような
切ない幻想を抱かせる。
化粧をした母に、僕は泣いたものだった。
そうして未来に、怯えたものだった。
「お待たせ。」
すっかり準備の整った彼女が、美しい睫毛を交差させて、にこりと笑った。
そのまぶたには薄く引かれた青い影。
彼女が遠くに行ってしまうような、そんな幼いおののきを覚えて、
僕は差し出された彼女の手を、待ちくたびれた手で、しっかりと握った。
2008年11月22日土曜日
笑顔
しんしんと降り続く雪の中、男と少女は、雪深く沈んだ原野の上を、ただひたすらに、北を目指して歩いていた。
すでに、民家の建ち並ぶ住宅街を越え、未だ開発も行われていない裏山に、二人は入り込んでいた。2月を過ぎ、雪は二人の膝下位まで積もっていた。誰も歩いた形跡のない、ふわふわとした新雪の上を、赤い上着を着た少女に手を引かれるようにして、暗い灰色のコートに身を包んだ男が進んでいった。
「どこまで行くつもりなんだ。」
雪の中、腕を引かれた男が少女にたずねた。その声は少し、苛立っているようだった。
「....もっと上の方まで。」
少女はそう言うと、目を細めてにこりと笑った。
白い雪の中に融けるような笑顔であった。
少女は男の実の娘ではなかった。
亡くなった妻の連れ子だった。結婚した当時で、すでに小学校5年生になっており、性格的にすっかりませていたこともあって、それから5年もたった今になっても、彼のことを一度も「お父さん」と呼んだことがなかった。
彼女自身、元の、本当の父親によほどの愛着を感じていたらしかった。
実の父と母が離婚し、男と再婚するために、母と、遠く離れたこの街に引っ越してきた後になっても、男がいない時には、事あるごとに、そのことで母を詰っていたようだった。
しかし少女は、男の前では決して、そのような素振りを見せなかった。
普通の娘として振る舞い、男に対しても屈託のない笑みを振りまいた。
そんな少女に、男は、何処か掴み所のない不気味さを感じながらも、自分の愛する妻の娘として、惜しみなく愛情を注いできたつもりだった。
そんな折、つい先日、彼が愛してきた妻が、突然の病で亡くなってしまった。
少女の嘆き様は、痛々しいほどだった。
この世の終わりでも来たかのように、少女は母の棺にしがみついて大声を上げて泣いた。多くの参列者が、それを見て、思わずもらい泣きをしたほどであったが、妻を失った当の男一人は、少女のその様子を見ても、泣くことができなかった。
俺が死んだ時、この娘は、これほど悲しんでくれるだろうか。
式の間中、男の脳裏にはそんな疑問がずっとわだかまっていた。
実の母ほど、泣いてくれなくても構わない。
でも、娘となった少女に、これまで惜しみなく注いできた愛情の分だけでも、せめて、この子を置いて去った元の父親よりは、大切な存在であって欲しい。
心の内で男はそう、切に願っていた。
男のこの願いは、しかし実際には、確かめようのないことだった。
式が終わると、少女は、いつものように屈託のない笑みを、男に返してくれた。だが、そうなってしまうと、その笑顔の奥にある少女の本来の気持ちなど、男にはもう計りようがなくなってしまうのだった。
笑顔ほど、空恐ろしい表情はないな。
男は時々、思うことがあった。
どんな感情も、覆い隠してしまうことが出来る。
わざと泣くことは難しいが、わざと笑うことはたやすい。
男は、年を増すごとに美しくなっていく少女の微笑みを見ながら、つかみ所のない彼女の本心をどうにかして聞き出したい欲求に、いつもに駆られていた。
「裏山に行こうよ」
大雪の降った朝、少女が、突然そう言いだした。
それを聞いて、男は始め、何かの冗談かと思った。
しかし、彼女はとぼけた様子もなく、もう一度強く、そうせがんだ。男にはこれと言った理由も分からなかったが、彼女に気圧されるようにとりあえず身支度をして、同じように厚く重ね着した少女と共に、深く雪の積もった裏山に出かけて行った。
二人連れだって裏山に行く理由を、少女はなかなか教えてくれなかった。
何度たずねても、はぐらかすように笑うだけで、
その足がついぞ止まることはなかった。
少女の足取りは、明らかに、散歩のたぐいではなく、何か明確な目的を持っていることを感じさせるものだった。
そうして、もう小一時間も歩いただろうか。
男の言葉に耳も貸さず、ひたすらに斜面を登っていた少女が、もうじき山頂というところの
南を向いた斜面の上で、突如ぴたりと歩みを止めた。
「柳瀬さん」
少女は言った。
「なんだい。」
男は答えた。
「柳瀬さんは、どうしてお母さんと結婚したの。」
歩き疲れてうつむき加減だった男の顔が、不意の質問に驚いたように少女に向けられた。
雪の中に一層白い少女の頬が、生真面目に引き締まって、黒い瞳が野ウサギのように、じっと男を見すえていた。
その強い眼差しに耐えきれず、男の瞳は思わず一瞬、宙を泳いだが、
「...君のお母さんが好きだったからだよ」
俯いて、男はようやく、呟くようにそう答えた。
「それだけじゃ解らない。」
怒りを込めた口調で少女は言った。
「みんな、ありきたりの答えばっかり言う。誰も本当のことは話してくれない。...お母さんに言っても、おじいさんに聞いても、答えるのはそればっかり。柳瀬さんは、お母さんを好きだったんじゃないか...。...私は、そこまで子供じゃない。本当の理由は、何?」
町を離れた裏山に、他に人の気配はなかった。苛立ちと怒りに満ちた少女の声は、周りの深い雪に吸い込まれ、消えていった。
少女は、ずっと、この時を待っていたらしかった。
他人の目を気にせず、この男に、自分の中に長年わだかまっていた感情をぶつけられる、この大雪の降った日を。
それは、普段娘を演じてきた少女がみせた、初めてのあからさまな反抗だった。
観客のいない舞台に響く、役者の生々しい肉声であった。
男は、少女のその、強い口調で言い放たれた言葉を受けても、ただ小さく、悲しげに笑うのみであった。
それは少女の幼さに笑っているのではなかった。
なんの理由も答えられない自分に、ただ笑っていたのだった。
男は、本当に彼女の母が好きで結婚しただけだった。
それまで、積み上げてきたもの、ほとんどすべてを捨てて、男は彼女の母と結婚した。しかし、彼にそれほどの行動を取らせたのは、単に彼女に対する情熱にも似た感情だけであって、何らかの、明快な理由など、そもそも始めから存在していなかった。
彼女に、それをどう説明したらいいのだろう。
男には解らなかった。
大人の方が、時に子供よりも、理由のつかない行動に身を任せてしまうと言うことを、この時期の少女に教えることは、少し酷なような気がしていた。
「...何か、おかしいの?」
少女が気味悪そうに聞いた。
「...いや。...なんでもない。」
男は答えた。
「...君は、僕のことを嫌いか?」
「...そんなこと。」
少女は答えに詰まった。
「いや、それなら、それでいいんだ。...考えてみれば、父親とは、そう言う役目なのだから。」
男は手近なところから掌いっぱいに雪を取ると、それをさらさらと零して見せた。
「雪というのは何かに似ていると、ずっと思っていた...。それが、ようやく解った様な気がするよ。」
そう言って、男は笑った。
「表面に出して醜いことは、みんな笑顔の下に眠ってる。でも、それでいいんだ。笑顔の下など、本来、どう知りたいと願っても見れるものではないのだから。」
男はそう言うと、南の斜面から、彼らの住む町を見下ろした。
深い雪に沈んで、町は一時、沈黙しているように見えた。
普段の喧噪も、諍いも、その風景からは些かも感じられなかった。
「...きれいなものだ。雪が降っただけで。」
男はぽつりと呟いた。
少女は未だ、硬い表情を崩してはいなかった。
男はそれに気がつくと、自身の表情を和らげて、言った。
「俺に対して、どんな感情を抱いていても構わない。...ただ、見せかけだけでもいいから、今までのように笑っていてくれないか。娘、として。...俺は、それ以上は求めないから。」
少女は困惑しているように見えた。
まだ、難しいことなのかも知れないな。男は思った。
男と少女は、それからすぐに山を下りた。
彼らの歩いた後には、来た時と同じように、何もない雪原に、大きさの違う二列の足跡が、長く長く、残されていた。
しかし、それは少なくともたった一つの点で、彼らが山に登ってきた時とは異なっていた。
男の大きな足跡から、少し離れるようにして、少女の小さな足跡が、転々と続いていたからである。
2008年10月15日水曜日
ゴンドラ
この恋の先に、一体、何があるって言うんだろう。
わたしには、それが見えずにいた。
彼との時間は楽しかった。どんな些細なことでも笑いあえたし、二人の間にはなんの問題もなかった。
彼は優しく、頼りがいがあり、仕事もきっちり出来る人で、申し分のない男だった。
わたし達は、言うまでもなく「順調」だった。
でも、「順調」という言葉は、そもそも何が「順調」だというのだろう。
まるで二人の関係が、すでに行き先が決まっている旅のようで、そうしていずれ、決まり切った過程を経て、行き着くところへ行き着くとでも言うような...。その道すがら、わたし達は「順調」だというのだ。
まるで、わたしが、彼の運命を縛っているようにすら感じてしまうその「順調」と言う言葉。
進めるべき所に、進めているのは彼?それとも、やはりわたしなのだろうか。
ときどき、わたしは思うのだ。
彼は、この、私達の関係を、どのように考えているのだろう、と。
彼は、わたしの前ではいつも饒舌に、そして時々冗談を交えながら、陽気に振る舞ってはくれているけれど、その笑顔の下の本心には、何か、全く違うものが隠れているのではないだろうか。
それを考え始めると、怖くなる。
彼が笑えば笑うほど、その表情の下にもっと暗い何かが立ちこめているのが見えてしまいそうで、わたしの笑顔は硬くなる。
実際には、それは心配のしすぎなのかも知れない。
彼はいい人だし、これまで、そんな暗い兆候なんか、わたしの前では一度だって、見せたことはなかったのだ。
ただ、どうしてなのだろう。
彼が笑うと、わたしは不安になる。
幸せにならなければいけない場面で、わたしは思わず、尻込みしてしまうのだ。
いま、彼が朝のトーストを用意してくれている、ほんの僅かな時間に、
わたしはこの文章を書いている。
昨日も大分遅くまで仕事をしてしまったから、明るい窓から差し込む朝の光が、目に灼けるように眩しい。
カーテンは彼の好み。うすく、透き通るようなブルー。
庭のコスモスの淡い赤が、その色によく映えるように、彼は計算していたらしい。
わたしにはもったいないぐらい、出来る人だ。
昔、わたしが彼に、今のような不安をぶつけた時、彼はわたしをじっと見て、
僕は君を必要としている。
と、はっきり言ってくれた。
わたしは、その言葉を信じている。
なんの根拠もない言葉かも知れないけれど、他の誰でもない、
彼の言葉だし、わたしは信じてみたい。
でも、同時にわたしには分からないのだ。
一体、彼のどこに、わたしが必要だと、いうのだろう。
彼はあまりに、よくできた人なのだ。
わたしなどがいなくても、おそらく彼は十分にやっていけるだろう。
それなのに、「わたしが必要」とは?
たぶんわたしが恐れているのは、その不可解さなのだ。
かれが、わたしの何を必要としているかが分からないから、わたしは始終、彼を恐れている。
もしかして、彼の意に沿わない何かを、わたしはしてしまうんじゃないか。
あるいは、わたしの唯一、彼が必要としている「よい点」を、わたしは何時しか、失ってしまうのではないか。
そうなってしまうことを、わたしは恐れている。
彼が、帰ってくる。
今日も、優しく笑っている。
わたしも笑い返そうと思う。
今日も、綱渡りの
甘い一日
2008年10月4日土曜日
カスク
こいつは、何時か俺を裏切るに違いない。
男と並んで隣を歩いていた女が、親しげに腕を組んできても、男の心の中からそうした思いが消えることはなかった。手を握ること、腕を組むこと、口づけをかわすこと、夜を供にすること。そうした、物理的な二人の交差は、決して二人の行く末の安泰を保証するものではないことは、男は長い経験のうちから知っているつもりだった。むしろ、そうした事実の積み重ねを急ぐような恋愛は、得てして、短命に終わる。男はそう考えていた。
決して、恋愛経験に乏しい男ではないにもかかわらず、未だに、うち解けたつきあいの出来る女を得られずにいることが、彼のすべてを物語っていた。それは、これまでの彼の恋愛が、仮に物理的な経験は十分にあったとしても、最後は心理的な行き違いで、後味の悪い感情だけを残して終わっていたことに、そもそも起因していた。
どの恋愛も、最後は裏切りで終わる。
それが、男がこれまでの経験から得た結論だった。
友達で終わるとか、きれいに別れる、などというのは、建前もいいところだ。
それは、そもそも始めから恋愛関係ではなかったのだ。
憎しみの伴わない愛が、どこにあるというのだろう。
相手に、自分の理想を抱けば抱くほど、その理想と現実とのズレが、いずれ憎しみとなって吹き出してくる。
それがない愛など、相手に理想を抱いていないも同然ではないか?
傍らの女は、男の腕にしがみついたまま、ひたと身をすり寄せてきた。
男は、感情のこもらない目で、女の顔を見た。女の目は彼を見ていなかった。
ただ前だけを見ていた。しかし、男から見られていると言うことは明らかに意識しているようだった。
男は何も言わず、ただ溜息をついた。
用事があるから、と適当な理由を付けて女と別れた後、男は一人街を歩いた。
何か当てがあるわけではなかった。ただ、女と歩くのにうんざりしただけのことだった。
俺にはそもそも、こういうのは向いていない。
男はそう感じていた。
街は次第に暮れ始めており、西の空深く太陽はは沈んで、薄赤い残光が夜の縁を照らすのみだった。
男はその太陽の残り火を求めるように歩きながら、ネオンの明るく灯り始めた街の中を一人歩いた。
「いらっしゃい」
手近な一軒の店の入り口をくぐると奥から声がした。金属の呼び子が、からからと音を立てた。まだ店は開いたばかりのようで、男の他に先客は客は誰もいなさそうだった。
「お一人様ですか」奥の方から、店の主らしい女の声がした。太く、枯れた女の声だった。
「ええ」
男は端的に答えた。
「では、どうぞお好きなところへ」
男は足の赴くまま、店の一番奥のカウンターテーブルの端に腰を下ろした。
よく磨かれた質朴なその机は、店の穏やかな白熱灯の間接照明を受けて、鈍い輝きを放っている。
「何にいたしますか」
店の主の女が、カウンターの奥から男にたずねた。女はこちらを真っ直ぐに見ていたが、暗さに目が慣れないため、表情までは読み取れなかった。
「タリスカーは、ある?」
男はなじみの酒の名を呼んだ。
「ええ。水割りでよろしいですか?」
「ダブルで」
男はそう簡単に答えると、差し出された手ぬぐいをそっと目に押し当てた。
どうしようもなく、疲れた気がしていた。
あの女と歩いた2時間は、彼に徒労以外の何物をも残さなかったと思うと、自分の人生のほとんどは、疲れるために生きているような気さえしてきて、彼は自分の32年間を無駄多いものとして実感するほか無かった。
もっと効率よく、生きる道もあったはずだった。
それが、どうしてこう、徒労の多い生き方を選んでしまったのだろう。
男は目に厚い手ぬぐいを押し当てながら、ふと笑った。
そして、何事もなかったかのようにそれを傍らへ退けると、差し出された冷たい酒を喉に流した。
男は通しとして差し出された小鉢の和え物を竹の箸でつまんだ。
何処か懐かしい味のする、牛蒡と人参の和え物だった。
「うまいな」
男はふと、独りごちた。
人気のない店内に、男の声は静かに響いた。
「気に入っていただけました?」
女は控えめに男にたずねた。ようやく目が慣れて来た様子で、男はその女の表情を灯るような薄明かりの中、はっきりと見ることが出来た。そして、はっと息をのんだ。
「気に入っていただけた?もう、10年にもなるものね。」
女はそう言うと、恥ずかしそうに目をそらした。
紛れもなくそれは彼がかつて恋した女だった。
よく見れば、見間違うはずもなかった。顔つきも、表情も昔のままだった。
しかし、10年の間に彼女の雰囲気はすっかり変わっていた。
和服を着て、しっかりと化粧をした彼女を彼は見たことがなかった。それに、声も昔よりは幾分低くかすれているように感じた。
「私は、変わってしまったでしょう」
女は眉を下げて困ったように笑った。見覚えのある表情だった。
「十年は、長いものね。でも、あなたは全然変わらない」
「こんなところで働いていたのか。」男はようやく声を出した。
「大学を出てから、君だけ連絡がつかなくなっていたと聞いたが...。」
「わたしは、私を捨てたのよ。」女は困ったような笑顔のままで言った。
「大学時代に見聞きしたものも、それまでに培ったものも、あなたとの思いでもすべて...。そうしないことには生きられなかったから。」
女は、手元の水割りを、マドラーで静かにかき回した。
乾いた氷の音が心地よく耳に届いた。
「あれから、何があったんだ?」男がたずねた。
「俺と別れてから、何が?」
「...何もなかったわ。何も。取り立てて、言うようなことなんか」
女は静かに言った。かすれ気味の声が、言葉じりを匂うように煙らせた。
男も、聞く言葉を失った。
そして、手元の酒をもう一度あおった。
二人は無言のままそれから半時ばかりを過ごした。
男の脳裏には、女の過去に対する疑念が次々に浮かんできたが、男はそのつど、浮かんでくる言葉を酒とともに飲み込んでいた。
男は、自分には彼女の別れて後の人生について、質問する権利を持たない気がしていた。傷を負い、傷を負わせた者の、それが最低限の慈しみのように、彼は思っていた。
女は男が酒を飲み干すと、無言のうちに同じものを差し出した。
それが、彼の無言の質問への彼女の答えなのかも知れなかった。女は慣れた手つきで、その行為を何度となく繰り返した。
二人の視線はその間、度々交差した。
しかし、その手が触れあうことすら、ついぞ無かった。
それは、男が幾杯目かのグラスを開けた時だった。
「....あと、30分もすると、別なお客が入ってくるわ。」
それまで黙っていた女が突如、口を開いた。
「...その前に、帰った方がいい...。...あなたは、見ない方がいいと思うわ...。」
男はなおも無言であった。
が、女の言葉に答えるかのように、最後のグラスを干してしまうと、席を立ち、
勘定を済まして店を出た。
「ちょっと待って」
男が店の前から立ち去ろうとした時、女が呼び止めた。
「これを」
女は一枚のハンカチを男に差し出した。
「昔、私が、他人に言われたことが悔しくて泣いた時、あなたがくれたの。私の...、お守りのようなものだった。すべてを捨てようとして、結局何も捨てられずにいる私の象徴だった...。私は、これを見ていて、私を許せたの。何も、変わっていないような気がする時、何かが、変わってしまったような気がする時、このハンカチが、私を元の私に、引き合わしてくれた。」
女は目を細めて微笑んだ。
「でも、もういいの。私は、私の道を見つけた。私はこれからも変わっていく。でも、私を失うことは、もう無いと思うわ。変わり続けても、変わりきれないものだと気づいたの。どうしても動かせない部分が、人にはあるのよ。...他人はそれを、不器用と言うけれど。」
男は、その言葉に、何かを言おうとした。
しかし、女はそれを遮るように続けた。
「あなたとは結局けんか別れしちゃったけれど、私にとっては最後の恋らしい恋だった。あなたのおかげで、いっぱいいっぱい、いろんな事を知った。...ありがとう。それだけは、言いたかった。」
そう言うと、女は昔のように、片手を上げて、小さく遠慮がちに手を振った。
男は無愛想な表情のまま、それでも軽く頭を下げた。
角を曲がって、女の姿が見えなくなってから、男は女のくれたハンカチを、まじまじと見た。
飾り気のない、暗いトーンの格子柄の、男物のハンカチだった。それは確かに、彼のものだった。女はそれを、肌身離さず持っていたのか、裾はすっかり擦り切れて、ぼろぼろになってしまっていた。布地からは、先ほどの女と同じ香水の匂いがした。彼の知らない彼女の香りだった。
彼の背後から、先ほどとは違う調子の女の声が、微かに男の耳に触った。
男はその声を聞きたくなかった。早足で逃げるように、ビルを出て、ほの暗い通りに出た。
通りでは幾組もの男女が、腕を組み、あるいは手を繋いで、親しげに通りを行き来していた。
男はその中を、両の手をポケットに突っ込んだまま、やや前かがみに、足早に通り抜けた。
男は行き交う群衆の中で、寂しい、と感じた。
裏切りのリスクを背負ってでも、誰かと繋がろうとする寂しさを、
彼は初めて、理解したような気がした。
2008年9月27日土曜日
避行
冷えた夜風が吹き抜ける夜道に、少年は片膝を立てるようにして座り込んでいた。辺りからはもうすっかり人影は消え失せ、季節に置いて行かれた秋の虫が、悲しげに、今にも消え入りそうな細々とした声を立てるばかりであった。
少年の前には、赤々と燃える炎があった。
拾ってきたライターで、落ちていた新聞紙をたき付けに、ようやく起こした火だった。
少年はその炎を切らさないよう、十分な量の薪を用意したつもりでいたが、それもどうやら足りなくなりそうだった。外気は先ほど降った小雨で、かすかに湿り気を帯びていた。どうやら、新しい薪を得ることは難しそうだった。
少年は、長く寒い夜になることを覚悟して、炎照らす闇の中、身を縮めた。
彼の前には、一人の少女が横たわっていた。
少女は彼らの持っていた唯一の毛布にくるまって眠っていた。今日一日の移動ですっかり疲れてしまったのか、少女は微かに寝息を立てていた。先ほどまで履いていたミュールは片方のかかとがすっかり外れて、革一枚で繋がっているような状態だった。
少年は、彼女がそれを、不安定に揺らしながら歩いている昼間の様子を思い出し、微かに微笑んだ。少年がいくら脱ぎ捨てろと言っても、少女はそれを捨てようとしなかった。思い出の品だからと言うだけの存在理由で、その折れたミュールは、彼女の足にくっついたまま、結局夜になってしまった。
それを考えると少年は、このミュールが自分自身のようにも思えてきた。
そもそも彼女を、彼の家出に誘ってしまったのは間違いだったような気がしていた。家を出るなら、彼一人、出ればよかったのだ。彼女を誘ってしまったのは、自分の弱さの表れにも他なら無かったように思えた。家に居続けるだけの気持ちのゆとりもなく、かといって、一人で出て行くほどの勇気もない。家を出て、僅か数時間で、彼女にメールをしてしまったことを、彼は今、悔やんでいた。
彼が呼び出すと、彼女はすぐに現れた。
いつもと代わらない軽装で、足下には彼の贈ったミュールが見えた。
彼に出会った時、彼女は始め、家に帰るように説得した。彼の母親が随分心配していたこと、父が落ち込んで、朝から黙り込んだままであることなどを彼女は彼に伝えたが、彼は今更、父母の居る我が家に帰ることは出来なかった。これだけの騒動を起こした後で、何事もなかったかのように家に帰るだけの図々しさを、彼は持ち合わせていなかった。一体家に帰ったところで、どんな顔で、それほど心を痛めた両親に会えばいいのか、彼には見当も付かなかった。
彼女は、彼の話を、大きく目を見開いて熱心に聞いていたが、やがてうん、と頷くと、
じゃあ、私も連れてって、と言いだした。
「いいでしょう?私がついて行っても」
彼女の半ば強引な要求を、彼は拒否することが出来なかった。彼一人になって心細さを感じ始めていた矢先でもあったし、彼女がそばにいるのは心強かった。とはいえ、彼女を巻き込んで、騒動をこれ以上大きくしてしまうことには抵抗があった。それでも、このときは、弱り切っていた自分の気持ちを補正することの方が、彼にとって差し迫った優先事項だった。
彼と彼女は、何も言わず連れだって歩いた。
彼らにこれといった目的地があるわけではなかった。ただ、一時的でも心の安まる場所を求めて、街のあちこちを歩き回った。その多くは、彼らの一度行ったことのある場所であり、知らない場所には滅多に行かなかった。どうやら気持ちの萎えている状況では、新しい場所に行く緊張と不安を、自然と避けてしまうようだった。彼らは彼らの思い出を、一つ一つたどるようにして、何時か来た場所を一つ一つ巡り歩いた。そうして歩いていると、彼は時々、まるで彼女と、いつものようにデートでもしているような錯覚に囚われることがあった。町並みも、そこを行き交う人々も、彼女の格好も、自分の服装も、いつものそうした状景と、何ら変わりはなかった。ただ一つ違うのは、彼らに帰る意志がないと言うことだけだった。これは日常からの別れの旅だった。
夜になり、辺りが暗くなってくると、彼は夜をどこで明かすかと言うことが心配になり始めた。何処かに泊まろうにも、彼らに、二人で宿泊するだけのお金はなかった。困った挙げ句、彼は幼い頃何度か隠れたことのあった、学校の裏手の小さな洞窟を思い出した。そこは洞窟と言っても、深さが1, 2メートルほどしかない、崖のくぼみ程度の物で、雨露をかろうじて防げる程度の物だったが、外からは見つけにくい場所にあり、今の彼らにとっては格好の隠れ家になってくれそうだった。
彼がそこに彼女を案内するのは初めてだった。
その洞窟を見た時に、彼女は何も言わなかったが、予想とは大分違っていたようで、思わず目を大きく見開いた。それを見て、彼は幼い頃の自分の恥部を見せたようで、なんだか恥ずかしくなった。
彼らは空腹を抱えながら、それでも暖だけは取ろうとたき火を起こした。
そして、近くに捨ててあったまだそれほど古くはなさそうな毛布を彼女に与えて、先に眠らせた。彼女は嫌がりもせず、その毛布に身をくるめると、横になって、後はすっかり、眠ってしまった。
彼は今夜は眠らない覚悟をしていた。体も、心も彼女同様にくたくただった。しかし、彼自身のわがままで家を飛び出し、そして彼女まで巻き込んでしまった以上、彼は何としても彼女を無事に送り返す必要があると感じていた。
彼女はおそらく、この様な汚い毛布にくるまって眠ったことはないだろうし、壊れたミュールを引きずってこれほど長い距離歩いたこともないはずだった。それでも何も言わず、彼に付いてきてくれた彼女を、これ以上、不幸な目に遭わせるわけにはいかないような気がしていた。
本当の幸せとはなんだろう。彼はふと、そんなことを考えた。
目の前に燃えるたき火の炎の中に、答えはなかった。彼にとっては今は幸福ではなかった。しかし、また、不幸でもないと感じていた。かつての日々は不幸だった。彼は少なくとも、不幸から逃避は出来ていると思った。
しかし、彼女にとってはどうだろう。彼は再び、彼女の方を見た。
赤い炎に照らされたその横顔は、あどけない少女のように、深い深い夢を見ていた。
彼はその横顔を見て、思わず微笑んだ。
彼女を好きだった。何時までも、この横顔を眺め、一緒にいたいと思った。でも、その彼女と一緒にいることが、彼女自身をかつてより不幸にしてしまうとするならば、それは本当に、彼女を好きな人間が取るべき態度なのだろうか?
彼には答えられなかった。
だが、彼女を明日、家に送り返すことで、実は自分は、また一つ逃避をしようとしているような気がして、彼の決意は右に左に、揺れ動いていた。
2008年9月23日火曜日
猪狩り鉄忠
江戸市中から大分離れた山奥の村に、たいそうな強力で知られた大男が居を構えていた。
この男、いつからここに住み着いたのか村のものですら正確には知らなかった。年は40とも、50とも言うが、時折見せる笑い顔は、童のそれのようで、実はもっと若い男なのかも知れなかった。
いずれにしろ、村の片隅にいるこの大男に、村人は、畏怖と好奇の両方が混じり合った気持ちで接していた。男は普段、家の周りにこしらえた畑にでて、他の村人と同様に鍬を振るい、自らが日頃食う分だけの菜物を育てていた。どうやらその畑で取れるものだけで腹は満たされているようで、村人の世話になることは滅多に無かった。
それどころか、男は月に数度、大きな大刀を一本下げて近所の山に分け入り、二、三日も帰ってこないかと思うと、大きなイノシシを抱えて降りてくることがあった。捕ってきたイノシシは当然のように村人にも振る舞われたから、村人は皆、イノシシが捕れる時期になると、内心、男が山に入るのを心待ちにしていた程であった。
村人はその猪肉の礼として、僅かばかりの米を男に分けた。
男はその米を日々の糧としていたのはもちろんだが、食べきれないと思った時には、町の市に持って行って売りさばき、必要なものを買ってきているようだった。
ただ男の家はいつ見ても薄汚いあばら屋のままだったし、何かが新しく買い足されたようでもなかったので、男が得た金を何に使っていたかというのは何時までも謎のままであった。
立派な大刀を持っていることから見て、男の出自は武士のようだった。
しかし、着ているのものは村人ですら驚くほど薄汚い身なりだったし、髷も十分に結っていなかった。刀の鞘もすっかりぼろぼろで、おそらくは中の刀はすでに刃が落ち、鉄の棍棒に等しくなっているものと思われた。
実際、男が捕ってきたイノシシには全く刀の傷がなかった。
ただ頭蓋だけが激しく陥没していて、これが致命傷になったと察せられた。
村人は男の名を知らなかったから、とりあえずの通称として、
「奥山の鉄柱殿」と彼のことを呼んでいた。
そんな折、一人の若い侍が村をたずねてきた。
「佐田雷哲様という御仁を捜しておるのですが」若い侍は村の長にたずねた。
「佐田雷哲様、ですと?....うちにはそのような立派な名前のものはおりませぬが...。見ての通りの寒村でして。」
しかし、若い侍は村長の言葉を聞いていないのか、
「いえ、佐田様はここにいらっしゃるはずなのです。この村の何処かに...。」
そう言って聞かなかった。
村長はすっかり困ってしまって、とりあえず村の中を案内することにした。
そうしてこの村のことを知れば、こんな村にそのような名前のものが居ないことなどじきに察せられると思ったからである。
村長が、若い侍を連れて村の中を歩いていると、山の奥から例の鉄柱が、イノシシの死体を引きずって歩いてきた。
彼の連れているイノシシはこれまでの中でも3本の指にはいるかという大猪で、運ぶだけでも常人ではひと苦労であるはずなのだが、この男にとってはそれもなんでもないらしく、平然とした顔で村の真ん中の道を歩いてきた。
すると突然、それを見た若い侍が
「もし、あの方は?」
と村長にたずねた。
村長は突然のことに驚いていたが、
「へえ...。私らも本当の名前は知らないんですが...。奥山の鉄柱殿と呼んでおります。」
と正直に話した。
「奥山鉄忠殿...。」
若い侍は突如、つととしてその大男の前に立った。
「もし、鉄忠殿」
呼び止められた大男は、ぼやりとした顔をして、目の前に立った細身の若い侍を見下ろしていた。
「わたくしは太田三朗ともうすもの。さる用向きにより、佐田雷哲様というお方を捜しておる。そなた、何かご存じないか。」
大男は、それまで、右手に猪を引きずり、左手に鞘に入った大太刀をかつぎ上げていたが、
佐田雷哲という名前を聞くやいなや、右手から猪を放した。そして、おもむろに太刀の束に手を掛けた。
若い侍もあわてて身構えた。
大男は太刀を引き抜くと、素早くそれを横になぎ払った。
刀を引き抜こうとしていた若い侍はその動きに全くついて行けなかった。
刀を半分抜いたまま、後ろに飛び退いて、かろうじて一太刀目をかわすと、ようやく鞘を払った。どっと全身の毛穴から汗が噴き出た。
男は間合いを一気に詰め、再び振り回すように太刀を振るった。
ぶうん、と風を薙ぐ音がして、若い侍のすぐ目の前を、大太刀の切っ先が通り過ぎていった。
若い侍は完全に劣勢だった。刀をよけるのに精一杯で、この大男に立ち向かう術はなさそうだった。
大男は青眼の構えから、咄嗟に切っ先を揺らし、相手を袈裟に切り上げる素振りを見せた。
若い侍は不意の動きによけきれず、思わず目をつぶった。
斬られる。
がちん、と耳をつんざくような大きな音がして、
無意識に突き出した彼の太刀が、ものすごい力で持って行かれるのを感じた。
太刀は彼の腕をすっぽ抜け、遠くの屋敷の軒へぶすりと突き刺さった。
恐怖に腰が砕けて、若い侍は尻餅をついた。おそるおそる顔を上げると、そこには大男が、先ほどと代わらぬ静かな瞳で若い侍を見下ろすように立っていた。だらりと下げられた右腕には大太刀が、指の太い手の中にしっかりと握られていた。
大男はしばらくそうして若い侍の顔を不思議そうに見ていたが、やがてくるりと向きを変えると、のそのそと、うち捨てられた猪のもとに戻り、そしてそれを再び引きずって、もとのように歩いて去った。
「大丈夫でございますか!」
遠くから見ていた村長があわてて若い侍に駆け寄ってきた。
「あの方はどういう...。」
若い侍はまだ放心した気持ちが戻らないまま、村長にたずねた。
「さあ、私どもも素性は存じないのです。...ただ、普段は優しい大男で、村人にもあの猪の肉を分け与えてくれるほどなのですが...。よもや、人様に剣を抜くとは...。」
「いや...。これは私の方に責任があるのでしょう。」若い侍は言った。「あの大男、私を斬ろうとしなかった...。追い返すだけが目的だったのか....。」
2008年9月22日月曜日
ナイフの世代
「届かないものを追いかけていると言うことぐらいは自分でも分かっていたんだ」
ユウキはコウイチを見ようともせずに、そう言った。
「でも、しばらく...。もうしばらくと思っているうちに....。」
ユウキの目はうつろだった。その瞳は、もう遠くなってしまった過去を...、静かにふり返っているようだった。
コウイチとユウキは同級生だった。いつも、何をするにも一緒で、なんにも面白いことがない時でも、二人して何やらごにょごにょと話しては、ひひ、と笑い会うような仲のよい男児の典型のような二人だった。
その二人の関係も、彼らが中学3年生を迎えた頃から、微妙な変化を示し始めた。
コウイチは一人の女性を恋したのである。
女性と言っても、同じ学年の女子生徒なのだが、それでも彼にとっては立派な初恋だった。彼女と過ごす時間は何をするのも楽しく、些細なことでも笑いあえた。彼は時々、人生でこんなに笑ったことがあっただろうかと思ってみることもあった。それほどに彼女と過ごす時間は幸福だったし、彼女も同じ幸福を味わっていると言うことを確認する度に、その幸福は更に倍加するようだった。
一方でユウキも、誰か女性を好きになったという噂は聞いていた。
それはコウイチのように、同じ学年の女子生徒ということでは、どうやらないらしかったが、彼らが話す中で、そのことを話題にすることはなかった。いつも一緒にやってきた二人の関係に、二人の違いが入り込むのが、怖かった。
彼らは何時までも、以前の彼らのままで、そういう時は無邪気に笑い転げた。
ある日の夕方、コウイチが部活の帰りで遅くなり、帰宅を急いでいる時のことだった。
春先のことで、日は次第に長くなってきてはいたものの、6時を過ぎるとだいぶ薄暗くなって、学校の周辺は人通りもまばらになった。紺色の空の下に聳える白亜の校舎は、1階の職員室を煌々と明るく照らしたのみで、普段明るい声の響く幾つもの教室のいずれもが、真っ暗な闇に飲まれていた。コウイチは薄闇に沈み逝く校舎に別れを告げて、校門を出た。
校門を出てしばらく歩くと交差点があり、底がコウイチとユウキが、いつも別れる場所だった。ユウキの家はそこを右に曲がった先にあり、コウイチの家は左に曲がった先にあった。今日は一人で家に帰るコウイチはいつもはユウキが曲がっていく右の通りを無意識に眺めながら自身は左に曲がった。
薄暗い左の通りは、彼の前に不穏に立ち上がっていた。点々と続く街路灯の明かりが断続的な平和をもたらす以外には、暗い不安が立ちこめていた。おそらく、女性一人では縮み上がってしまうだろうというような、不気味な通りだった。
コウイチはそのほの暗い道を転々と連なる明るい場所を突き抜けるようにして進んで行った。彼を覗いて通る人はなく、通る車さえない静かな道だった。
ふと、その時コウイチは目の前を見つめ、そして思わず立ち止まった。
二軒ほど先の、知らない民家から、ユウキが一人の女性に付き添われるようにして出てきた。
暗くてはっきりと分からなかったが、女性は、少なくともユウキの母親ではないようだった。ユウキが女性と親しげに言葉を交わすと、彼女は喜んでいるようだった。ユウキはやがて彼女に手を降って別れた。女性も、門の前に立って、同じように手を振りながら彼の背中を何時までも見送っていた。
コウイチはその様子を、通りの角からずっと見ていた。
自分の知らないユウキがそこにはいた。
彼は彼のことを、幼い時から、何一つ余すことなく、知っているつもりだった。
しかし、目の前にいる、ユウキの殻をかぶったような...、それは紛れもなくユウキ自身なのだが...、ユウキは、彼の全く知らない女性と、全く知らない親しみでもって会話していた。
それは、思わずコウイチを通りの角に隠れさせてしまうほどに、見てはいけない光景のように思われた。
ユウキはそんなコウイチには気がつかない様子で、彼のすぐ目の前を、少し早歩きで通り過ぎていった。そうして歩いていくユウキの姿は、いつものユウキと何ら変わることがないようだった。コウイチは嫌な夢でも見たような顔つきで、しばらくそこにいたが、やがて静かに歩き出すと、ふらふらと自分の家に帰っていった。
次の日、彼はユウキと話すのを躊躇っていた。
いつものように話しかけようにも、どのように話しかければいいか分からなくなってしまったのだ。いつも見慣れたユウキは、まるで赤の他人のように、今日は感じられた。だからコウイチは、ユウキがいつものように親しげに話しかけてくるまで、結局こちらから話しかけることが出来なかった。
話してみると、ユウキはいつものユウキだった。
そんな様子に、コウイチも次第にいつもの感覚を取り戻した。昨日のことは、悪い夢だったのだと思うようにした。彼の様子には、何も代わったところはなかったのだ。彼の見たものを裏付ける変化は、何も。
しかし、何時までも、夢のままでは終わらなかった。
事実は、いくら本人が思い違いをしようとも、事実として冷たいほどそこに居座り続けるものだ。コウイチにも、それを思い知らされる時が来た。
ある時ユウキが、全身あざだらけの無惨な姿でコウイチの前に現れた。
それは昼間の出来事だった。日曜の午後、いくら電話しても電話に出ないユウキに見切りを付けて、コウイチが公園脇の道を歩いている時だった。
向こうから、よろよろと歩いてくる人影があった。
始めはそれがユウキであるとはコウイチも気がつかなかった。
それほどまでに彼の姿は痛々しかった。
コウイチがそれがユウキであると気が付いて駆け寄ると、こちらに向かって居歩いてきたユウキの足取りが、ぴたりと止まった。彼は腫れた目を上げて、コウイチを見た。そして、悲しそうに切れた口元だけで笑った。
ユウキが洗いざらい、すべてを話してくれたのは、その日の夕暮れ、もはや遊ぶものの誰もいなくなった、小さな公園だった。
その話は、同級生どうしの無邪気な恋愛しか知らないコウイチにとってあまりに衝撃的なものだった。
静かに、その話しをしている時のユウキは、彼の知るユウキではないように思った。
またあのときの、遠い存在に、ユウキはなってしまったように思われた。
まるで、夜の闇と会話しているかのように、コウイチとは一度も目を合わせずに、ユウキは小さな声で一人語り続けた。
「当然なんだ。考えてみれば。」彼はそう言うと、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「僕は、いけないことをしたんだから」そうして、一つ、大きな溜息をした。
「好きになるって事は、どうしてこうも、自由にならないものなんだろう。それがいいことなのか、悪いことなのかも分からないのに、どんどん前にだけは進んでいく。...それは、彼女も同じだったと思うんだ。僕らは、ふたりとも、同じ気持ちだったのだから。」
ユウキはもはや、コウイチの存在を意識していないかのように、切々と話し続けた。
コウイチは彼が話し切ってしまうまで、質問を挟むことは憚られるように感じていた。
「彼女、泣いてたよ。僕が殴られている間、ずっと。」
コウイチはそう言うと、俯いたまま身を小刻みに震わせた。
口の間から、微かな嗚咽が漏れた。
「もう、こんな恋は嫌だな」
一言、ぽつりと言った。
その声さえも、夜の闇に吸い込まれていくようにコウイチには感じられた。
「僕らは結局、こうするしかないんだ」
ユウキの言葉をコウイチはよく理解できなかったが、それでもなぜか、胸の奥に迫るものを感じていた。
それは彼に突きつけられた、一本のナイフのようでもあった。
2008年9月7日日曜日
無題
翌朝老人はいつもよりやや遅く目が覚めた。
昨夜眠りにつく時間が遅かったためかもしれない。
目が覚めるとすでに太陽はすっかり昇っていた。
女もまだ起きていなかった。
彼女も、なかなか寝付けなかったのだろう。
知らない他人の家に泊まり込むほどの事情があった女なのだ。
おそらく、とても疲れているにちがいないと老人は察した。
彼女が起きるまで、そっと眠らせておくことにした。
顔を洗い、手早く着替えをすませると、外に出て、菜園からピーマンを数本取ってきた。
そして、それらをあらかじめ買っておいた他の葉野菜と合わせてサラダを作った。
老人は余り料理には詳しくなかった。せいぜい作れるものは、こういったサラダのような単純なものばかりだった。それでも、自分で野菜を作るようになって、実はこういうシンプルな料理の方が、素材が十分に新鮮な場合にはよっぽどおいしいと言うことがよく分かった。
料理をすれば、品質にややに劣る野菜であっても、ある程度のおいしさにまではすることが出来る。
でもそれは、結局醤油や砂糖などの調味料の味でごまかしているだけで、野菜の本来の味はだいぶ霞んでしまっている事が多い。野菜を作るようになって、老人はそのことをもったいないと感じるようになった。
生のピーマンの苦み、ニンジンの持つ香草のような爽やかな香り。そう言った生の食材の味を老人はこの年になってようやく意識するようになった。
台所で朝食を支度していると、後ろから誰かが歩いてくる音がした。
「...おはようござます」
老人が振り向くと所在なげに女が立っていた。
他人の家と言うことを意識してか、ある程度身は整えてあったが、疲れた表情は隠せていなかった。
「...あの、何か手伝えることは...」
女が老人に気を遣う素振りを見せたので、老人は笑って首を振り、
「あなたはお客さんなのだから。底に座って、新聞でも読んでいてください」
と言った。
「でもそれでは...、せめて何かさせていただかないと...」
女は何もせずに見ていることなど出来ない様子だった。
落ち着かないまま女をほうって置くわけにも行かないので、老人は
「じゃあ、うちのとらにえさをやってはもらえませんか」
と言った。女は老人が指し示したところにあった大きなえさの袋から、一鉢分のえさを取り出すと、その音に気がついてしっぽを立てて近寄ってきたとらを縁側に連れ出した。そしてそこで彼女にえさを与えながら、おそるおそる頭を撫でた。
老人はその様子をほほえましく思いながら、二人分の食事の用意を調えた。
「さあ、出来ましたよ」
二人はそれから、小さなテーブルに向かい合わせに座って静かに食事を取った。
お互いが、どんな人間かも知らないので、会話は僅かだった。
ただ、老人の作ったサラダと、味噌汁を口にした時女は思わず
「おいしい」
と小さな声を漏らした。
「昔から、お料理は得意だったのですか」
女がそんなことを聞くので、老人は首を振った。
「いえ...。元々は、料理なんてちっとも。ただ、妻が死んでからは、自分で作らなくてはいけませんから、何とか、覚えました」
「奥様は亡くなられたのですか...」
「ええ、もう2年になりました」老人は無意識に仏間の方へ目をやった。
「それは...」女は申し訳ないことを聞いたというように目を伏せた。
「いえいえ、気になさらんで下さい」老人は沈み込んだ女に笑いかけた。
「もう、すっかり立ち直りました。今では料理は大切な趣味になりかけていますよ」
「このサラダのお野菜は、ご自身が作られたものですか?」
「分かりますか?」老人は喜々として答えた。
「ええ...。先ほど猫ちゃんにえさをあげていた時に、お庭の畑が見えたものですから...。結構いろいろなものをお作りになられているようですね。」
「ピーマンになすにカボチャに...、季節に応じていろいろ作っています。今年はすいかも始めたのですが、どうもうまくいかなくて。なかなか、ああいう甘いものは難しい。」
「なんだか、とても楽しそうですね」老人が急に饒舌になったので、女が思わずそう言った。
「ええ...。すっかりはまってまして。他にやることがないからでしょうな」
「いえ、素敵なご趣味だと思います。」女は初めて微笑んだ。「なんだか、うらやましい。」
「余り、こういう事はやられませんか?」
「ええ...。うちはマンション住まいで、庭もありませんから...。」女は伏し目がちに答えた。
「庭など無くっても、プランターでも十分です。」家庭菜園のこととなると、老人の言葉は熱を帯びた。「それほど難しいことでもないですよ。」
女は老人の語気に、些か気圧されたようだったが、はにかむように微笑んで「今度挑戦してみます」とだけ、答えた。
食事が終わると、女は再び縁側に出た。
そこでは同じく食事を済ませたとらが、夏の陽光を避けて日陰で涼んでいた。
女は縁側に座って、眠る猫の頭を優しく撫でながら、そこから見える白い雲の浮かぶ広い空と、青い海を見つめていた。庭には青い野菜がたわわに実っており、食べ頃のトマトも、なすも、夏らしいすがすがしい彩りをその風景に添えていた。蝉が強い声で鳴いている。
海から涼やかな風が吹いてくる。
女は一つ深い呼吸をした。
先ほどよりも随分、くつろいだ様子に見えた。
老人はようやく穏やかさを取り戻しつつある女の後ろ姿を見守りながら、冷たい麦茶をグラスに注いだ。
「麦茶でもどうですか」
老人が冷たいグラスを差し出すと、女は
「何から何まで...本当にすいません」と言いながら素直にそれを受け取った。
二人静かに海を見ながらその香ばしい飲み物を味わった。
「...いつも、この海を見ながら過ごしておられるのですか。」
女は遠くを見つめながら言った。
「ええ。これが見たくて、この家に決めたのです。」
老人も女と同じ海を見つめた。
「私の憧れでした。海を見ながら、老後を過ごすのは」
「わたしも、そうありありたい。」女が言った。「こういう、のどかな暮らしを私もしてみたい。」
「したらよろしい。」老人は言った。女が老人の方を見た。
「遠慮などすることもない。独り身の老人が住んでいるだけなのだし。疲れたら、いつでもいらっしゃい。海は、そもそも私だけのものでは無いのだから」
女は老人のその言葉に、みるみる涙ぐんだ。そして、手に持った麦茶のグラスを握りしめるようにして、かろうじて涙をこらえていた。
老人は、女を、静かな瞳で見つめていた。
やがて、女は顔を上げると、絞り出すような声で、
「...ありがとうございます」と言った。そうして、ぼろぼろと涙をこぼした。
老人が差し出したタオルに、女は顔を埋めるようにして泣いた。
老人は女に連れ添って、彼女が泣きやむまでずっと見守っていた。
その日の夕方、彼女は帰った。
帰り際、女は名前と電話番号の書かれた紙を残していった。
樋口と言うのが女の名だった。
「また、お邪魔してもよろしいでしょうか」
遠慮がちに女がそう聞いた。
老人は微笑みながら無言で頷いた。
真っ青な自動車が、夕焼けに輝く海沿いの道を、しだいに小さく遠ざかっていく。
その様子を、老人は家の前まで出て車がすっかり見えなくなるまで見送った。
2008年9月1日月曜日
無題
ある晩のことだった。
季節はすでに秋で、7時にもなると辺りは暗くなった。老人にとって、特に遅くまで起きている理由もなく、その日も早くに寝るつもりだった。老人は自分一人の寝床を整え、そうして眠気が訪れるまで、布団の中で静かに横になっていた。
その辺りは、都市に近い海辺がみんなそうであるように、夜遅くになると暴走族がひっきりなしに通り過ぎた。当然警察もそれを警戒して、網を張っているので、毎晩彼の家の前の道路では、激しいカーチェイスが行われていた。老人にとっては、轟音を立ててバイクを乗り回す若者も、それを大声上げて追いかけ回す警察も、どちらも眠りを邪魔する騒音の主には違いなかった。故に、老人が早くに寝床に着くのは、そうした夜の喧噪が始まる前に寝入ってしまうためでもあった。
それは、柱時計の鐘が8つを打った時だった。
どんどんと、玄関の戸を叩く音がした。ちょうど寝入りばなだったので、始めは夢かと思っていたが、いつまで経っても、戸を叩く音は鳴りやまなかった。何事かといぶかしがりながらも、老人はゆっくりと立ち上がり、玄関の方へと歩いていった。
老人の動きが、あまりに遅かったので、扉を叩いていた主は、どうやらすでにあきらめていたようだった。老人が玄関へたどり着く頃には、もう扉を叩く音はすっかり止んでいた。それでも老人は念のため、鍵を外すと、戸をがらりと開けた。
そこには、薄暗い玄関の明かりに照らされて、不安げな女の顔があった。
老人は、その顔を見て一瞬はっとしたように目を開いたが、それは女には気がつかなかった。
「すいません、」女は不安げな表情のまま、老人に言った。肩まで伸びた髪は所々乱れていた。
「お宅の前で車が動かなくなってしまって...。この辺りに、ガソリンスタンドか何か、ありませんでしょうか。」女の声は押し殺したような小さな声だったので、老人には上手く聞き取れなかった。ただ、その女の様子から、随分困っているようには察せられたので、
「こんな夜分遅くに...。まあ、とにかく、中へお上がりなさい」
女にはとんちんかんな回答と思われるだろうと思いながらも、老人は彼女をとりあえず中へ招き入れた。女は、老人の目の前に現れた時からすでに、理由は分からなかったが、しきりに辺りを気にしていた。老人にはそれがずっと引っかかっていた。
「でも、車が...。」
女は、後ろを振り向いた。明かりの消えた車が、国道の真ん中で、老人の家の出口を塞ぐように止まっていた。
「車...。」老人はそれを見て、ようやく状況を察したらしく、
「あそこに置いておくと、夜中に騒がしい連中が来て、悪戯されることがあるから、私の家の庭に、とりあえず入れなさい。」そう言って、足下にあった草履を突っかけて、彼女に先立って歩き出した。女はどうして良いのかすっかり困っているらしく、その後ろから何も言わずにおずおずとした様子で付いてきた。老人が運転席のドアを開け、サイドブレーキを外して、ハンドルを取ると、女はようやく後ろからそれを押し始めた。車は、幸い軽自動車だったので、二人の非力な人間の力でも、それほど労無く動かすことが出来た。
車をすっかり庭の中に入れてしまっても、女の顔から不安げな表情は消えなかった。
「お電話、お借りしても良いですか。」
女は、老人の瞳をのぞき込むように言った。
「携帯をおいてきてしまったもので..。」
「ああ、どうぞ、どうぞ。」老人はそう言って、女を内に上げ、電話の前まで案内して、自分は居間に入っていた。
「...。」
電話を前にして、女は受話器は取ったものの、一向に何処かへ掛ける様子はなかった、じっと、受話器の無くなった電話機を見つめるようにしながら、女は何かを思い詰めているように見えた。
ややしばらくして、女は結局、どこへも電話した様子のないまま、受話器を置いた。
そして、老人の前に座り込むと、
「すいません、今日一晩だけ...、今日一晩だけ、泊めていただけないでしょうか」と言って頭を下げた。
「...ええ、それは構いませんが...」老人は女の何か必死な様子に、頷かないわけには行かなかった。
「ありがとうございます」
女がそう言って、一度顔を上げて老人を真正面から見た。その表情を見て、老人は再び、何かが胸の中に激しく渦を巻くのを感じた。この女を放って置いてはいけない。彼の奥底にそのような理由のない、熱い意志のようなものがわき上がるのに、彼自身驚いていた。
女は、年は30も後半だろうか。確かに美しい女ではあったが、どこにでもいる程度の美しさであることは、老人は十分認識していた。彼の年を経た精神は、もはやそのようなものに、闇雲に感情を乱されるほど素直ではなかった。むしろ、頭の一方で冷静にその場を見つめる余裕すら、彼にはあった。だからこそ、自分の心理の一方に、そうした理由のない感情がわき上がってきても、彼はそれはそれで受け入れながら、そんな様子はおくびにも出さずに、目の前の女を観察することが出来た。
それでも、老人は少なからず動揺はしていた。
その女は、若き日の、彼の妻の姿に、あまりにも似ていたからである。
2008年7月17日木曜日
シンボリック
君が美術館に行きたいというので、僕は対して興味もないのに、君が行きたいというその近代美術館とやらへ、ひょこひょことついて行った。
君はどこで学んだのか、絵画や、芸術に並々ならぬ興味を見せて、時折熱っぽく語ることがあるが、僕は君が実際に油絵だとか、水彩画だとか、スケッチですら、実際に絵筆を取って描いている姿を、これまでとんと見たことがない。
音楽鑑賞を趣味と公言するひとのほとんどが、実際には楽器を扱えなかったりするように、君もまた、受け手側の観衆の一人に過ぎないのかも知れない。長い髪を伸ばして、なんだか文系の女の子のようにその日の君は落ち着き払っていたけれど、数日前までは真夏の渚で、波しぶきを上げながらはしゃいでいたのだ。あの日の君の名残は、本当は肩口の水着のひもの当たっていた辺りにくっきりと残っていたのだけれど、その日の君は文系の女の子で、きっちりとダークグレーの衣服を身に纏って、ちょっと膝上位のスカートまではいていた。僕とのはしたない、ひとときの夏の思い出は、硬い衣装の下にしっかりと隠されてしまっていた。
波打ち際ではじけた君の姿など、そこに居合わせた、上品な紳士淑女の皆様方には、きっと知るよしもなかっただろう。彼らはきっと、ちょっと地黒の女の子程度にしか、その日の君を見てはいなかった。UVカットローションのSPFを間違えて低いものを買ってしまった君の勘違いなんて、彼らは想像だにしなかった。
君が見たいと言いだしたそれは、戦前にパリに行ったある日本人画家の展覧会だったっけ。その人は白の使い方の上手なひとで、女性の肌を透き通るようなパールホワイトで表現したことで有名なそうなのだ。けれど、それは僕があくまで、その日、実際に展覧会に行った時に仕入れた情報で、なんの予備知識もなく言ったわけだから、居並ぶ名画も、ただ女の人の裸だけがたくさん並んでいる程度にしか、僕には印象を残さなかった。
必然的に僕が見ていたのは、古い額縁の中の絵を真っ正面から真面目に見ている君の横顔と、立ち姿だった。でも、それは君も、その日はしっかりと意識していたのだろう?そうでもなかったら、あんなにまじまじと、絵なんて見るもんだろうか。目をいつもより大きく開けて、ほのかな微笑をたたえ、胸を張ってまっすぐに立った君は、テレビカメラの前に立つ女優のようで、自然体を『繕って』いるようにしか僕には見えなかった。
絵の中のパールホワイトの裸婦像が、ベッドの上で、何をしているのか、ぐったりと力なげに横たわっている絵を見ながら、君は美術館の落とされた照明の中、鼻と瞳の陰影をくっきりと際だたせていた。
まあ、その日の君は文系の少女だったのだ。そのくらいのことはするだろう。読みもしないドストエフスキーの本を抱えて、街を歩いてみる眼鏡の男のように、今日の君は文系の少女なのだ。裸婦像の前で、目をしばたかせることもなく。その価値を知るもののように、静かに見入っていた。
「いい絵だね。」君は言った。その裸婦像の前で。
芸術家の書いた裸婦像だから、その輪郭はおぼろげで、表情は簡素化されていて、なぜかみんな太り気味に見えた。パンフレットには『官能的』と表されていたけれど、どの辺に官能を見出せばいいのか、僕には全く分からなかった。
「そうだね。」僕は言った。
今日の僕は文系の君の彼なのだ。コーラよりも、ストレートの紅茶が似合う顔をしていなければいけない。スポーツドリンクなんて、汗臭い話は無しだ。
「なんだか表情が物憂げで。」
「そうだね。」
君はあっさりと同意した。そしてまじまじと、その絵を見返した。
僕の口から出任せを、こうも簡単に受け入れてくれたのは、この芸術を解しない僕へのせめてもの慰めか。それとも、君も、実際なんだか分かっていないから、知ったかぶってみただけだったのかも知れない。いずれにしろ、僕らのしていることは茶番だ。おかしな茶番を1200円の入場料を払ってしている、おかしな男女の二人連れ。
こんな二人の時間の過ごし方は、
楽しいに決まってる。
「ほら、見て。」君はその絵の脇の小さな説明の書かれたパネルを指さした。
「...この女性は、この画家の後に妻になった。だって。」そうして、何を思ったのか脣の辺りにそっと手を添えてかすかに笑った。
「言われてみるとどことなく、画家の愛情を感じるかな。」僕はまた、心にもないことを言った。「表現が軟らかくて。」
「そうだね。」彼女はまた、僕の言葉を受け入れた。穏やかな白熱灯の明かりの中で、君の影が揺れた。「...優しさって、絵に現れるものなんだね。」
君はそう言うと、静かに僕の手を取って、先に歩き始めた。僕はようやく先に進めるのでほっとしていた。行けども行けども続く、白い裸婦像よりも、幾つもの影を従えて暗がりを歩く君の後ろ姿の方が、僕には印象的だった。握った手の肉の感じや、皮膚の感覚までは、彼女の言うように、優しさまでを描いてしまうような、優れた画家でも、描くことは出来ないだろう。
握られた手の中にしか、その感覚はない。表現して、他人と分かち合うまでもなく。そしてそれは今、僕の手の内にある。文系の君も、渚の君も、僕の手の中では同じようにしか感じられない。
そんなのは極めて些細な違いだ。夜の眠るまでの、極めて、些細な。
美術館を出て、外に出ると、太陽はすでに傾き、辺りはトワイライトのうす紫色に染まっていた。君はまた、新たな色彩演出を得て、涼しい夕暮れの風の吹く中で静かに笑った。
2008年7月12日土曜日
失われた指
久しぶりにあった彼女は、何もかもが変わってしまっていた。
以前には見られた、はじけるような快活さは身を潜め、沈鬱で、どこか世を捨てたような諦めに似た空気を背負った彼女がそこにいた。
「幻滅したでしょう。」
男に出会った時、開口一番、彼女はそう言った。
「だから、会いたくなかったのよ。」
そう言うと女は皮肉に笑った。彼の知っている彼女なら、決して見せなかった笑顔だった。彼は驚きの内に、しばらく言葉を失っていたが、ようやく絞り出すように、
「そんなことはないよ...、」と的外れなことを言うのがやっとだった。
女はそれを聞いても何も言わなかった。彼と目も会わそうとせず、斜め前方の何もない薄緑色の床のタイルを、ただじっと眺めているだけだった。
彼女が、不慮の交通事故に巻き込まれたと言う話を、彼は数ヶ月前に知った。しかし、彼はその時海外にいて仕事の都合上すぐに帰国するのは難しい状況だった。彼女とは3年前、国を出る前に一度関係を清算していたつもりだったし、彼の知らないところで、幸せな生活を営んでいるのだろうと、勝手に考えていた。事故の一報の後、彼女が依然として結婚もせず、これと言った恋愛もせずにいたことを知って、彼はまずおどろいた。
ようやく彼女の見舞いに訪れる事が出来たのは、事故が起こってから1ヶ月以上が過ぎた後だった。
「アンバランスなものね。」車いすの彼女は言った。
「これじゃ、畑のカカシにも劣るわ。」彼女の顔からは化粧気がすっかり無くなっていた。
彼女は、利き腕と、右足を失っていた。交差点に無理矢理突っ込んできた車と側面から衝突し、彼女の車は運転席を中心に大破していた。事故の写真を見せてもらった時、彼は彼女が一命を取り留めたことすら、奇跡と思えたほどだった。それでも、彼女は事故後2週間は生死の境をさまよったと聞いていた。久しぶりに見た彼女の顔には、何か死相にも似た暗い影がまだ、はっきりと見て取れた。
髪はぼさぼさと乱れ、たった3年の間に10も余計に年を取ったようだった。
「もう、用は済んだでしょう。」彼女は言った。「帰って。あなたを見ていると、私の気持ちがざわつくの。」
「そんな...。」彼は何事か言おうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。「せっかく助かった命じゃないか...、どうしてそんな諦めた目をして....。」
「助かった命?」
はっ、と彼女はせせら笑った。
「これが?死んだも同然じゃない。」彼女は膝から下の無くなった自分の右足をこれ見よがしに持ち上げた。「....私は死んだのよ。あなたの知ってる女は死んだの。」
「君は生きている。」男は諭すように言った。「まだそうして、息をして、声を上げて...、」
「あなたの知ってる女はこの程度の女だったの?」彼女は目を見開いて彼をにらみつけた。
「こんな欠損だらけの女だった?そもそも?あなたはかつての私をそんな風に見ていたの?」
「そう言う意味じゃ...。」男は予想外の反応を見せた女にたじろいでいた。「今の君でも十分に素敵じゃないか...。」
「十分に?」女の語気は荒くなった。
「なにそれ?必要は満たしているって事?」女は車いすから立ち上がると、松葉杖をつきながら、男の胸ぐらに迫った。
「私はあなたの道具じゃないわ。『十分に』なんて評価を受けるような代物じゃない。」
「そう言う意味じゃ...。」女がことごとく男の予想を裏切り続けるので、男はすっかりおじけづいていた。
「じゃあどういう意味?あなたにとって十分でも、私にとってはちっとも十分じゃない。欠けているところ、だらけなのよ、この体は。」彼女は残された右腕の付け根を振り回した。怒りの余り、無くなってしまった右腕で思わず彼の頬を打った様だった。女は自らの咄嗟の行為に気がつくと、自身を嘲笑うように笑った。
「ほら見なさい。」女は言った。「私は、何も出来ない女よ。欠損だらけの不良品。もう死んだのよ。」
女の残された片膝が力を失ってがくりと折れた。たちまち落下しようとした胴体を、男が腕を伸ばして支えた。ずしりとした体の重みが、男の腕にかかった。手放された松葉杖が、がらん、と音を立てて、床に転がった。
「...殺して。」女は言った。
「こんな体じゃ、自分一人で死ぬことも満足に出来ない...。いっそのこと、殺してよ。」
女は左手で、男の胸ぐらを掴んだ。女の目は真剣だった。涙の浮かんだ大きな瞳が、彼の頼りのない目をのぞき込んでいた。
「そんなこと...。」
「...出来ないって言うの?」女は掴んだ襟元を力一杯揺すった。
「出来るでしょう?あたしを愛していたなら?あの女は死んだのよ?ここにいる私は、その面影を崩す、ただの滅びかけの残骸に過ぎないわ!」
女は男の腕の中で激しく暴れた。男は女をなだめようと、それを必死に抱きすくめるのに精一杯だった。しばらくそうした状況が続いた後、やがて暴れ疲れたのか、女が大人しくなった。男はその体を、そっと車いすに戻した。女は始終、そっぽを向いたままだった。暇があれば、男の瞳をのぞき込んで微笑んでいた、かつての女の面影を男はふと思い出して、底抜けに悲しい気持ちになった。
「...いつでも良いわ。」女は言った。
「いつでも良いから、ここに来て。私を殺しに。」
「...分かった。」男は言った。「そう遠くないうちに、また来るよ。」
帰りがけ、病室の出口で、男に手招きするものが居た。女の母親だった。
母親もまた、この3年の歳月の内にすっかり老け込んでしまっていた。髪型はきちんと整えられていたが、数本の毛がほつれて、あらぬ方向へ突き出していた。娘と並ぶと、仲のよい姉妹のようにすら見えた以前の若々しい面影は、彼女からもすでに失われていた。
「ありがとう。」彼女は言った。「これを...。」
彼女はそう言うと、小さな銀色の指輪を差し出した。
「これは...。」
「あなたが、昔、娘に贈ったものです。」母親は言った。「返すようにと、娘が。」
母親の掌の上に、小さな飾り気のない、銀の指輪は静かに光っていた。彼はそれをはめていた、彼女の、今は失われた愛おしい右手の姿を、その母親の手の中にありありと見た。
「もう、はめる指もないから、と言うことでした...。これは吹き飛ばされた娘の腕から拾い上げたもので...、恐縮なのですが...。」そう言うと母親は、指輪を捧げた腕だけは彼に指し出したまま、俯いて泣き始めた。彼は嗚咽する母親に、そっと手をさしのべた。そして、彼女の差し出していた指輪を、再び彼女の元に返した。
「いただけません。」彼は言った。「一度あげたものですから。」
「でも...。」母親は言った。「受け取ってください..。娘も過去を清算したいのだと思います。新たな人間として、生きようとしているのではないでしょうか。」
彼はその言葉を聞くと、一瞬言葉に詰まったようだった。
しかし、母親の差し出す指輪をしばらく見つめた後、
「彼女に伝えて下さい。...君の指は、すべて失われた訳じゃない、と。」
と言い残すと、現在の自分の連絡先の書かれた小さなメモを残して、足早に病院を出て行った。
女は病室の明るい窓から、男が病院を背に去っていく様子を、冷たい目で見送っていた。
その目はどこか怒っているようでもあり、悲しんでいるかのようでもあり、いずれの感情も深く内に湛えた、押さえられた瞳だった。
私の失った物はなんだったのだろう。
女は男の背中がもう見えなくなってからも、じっと窓の外を見つめたまま、考え込んでいた。
ベランダの縁に止まって鳴いていた二羽の鳩が、何かに怯えたようにあわてて窓辺から飛び立った。
2008年7月9日水曜日
二人の酔いどれ
「体を意識しない恋愛は恋愛ではないのさ。」
Tは言った。長く片思いと失恋を繰り返していた私に。
「そうなのか?」私は彼の言説には懐疑的だった。「君は純愛というものを否定するのか?」
「そもそも、どこにそんなものが存在する?」彼は声を張り上げた。早い時間から飲み始めたためか、彼は少し酔っていた。飲み始めた時はビールだったが、今彼の前にあるのは冷えた芋焼酎だった。私は先ほどから冷や酒を飲んでいた。彼は、そんな水みたいな、癖の足りない酒は飲まないと言って、私の酒には見向きもしなかった。
「清純派女優の何人が実際に清純だと言うんだ?そんなのまやかしだ。」彼は卑屈に笑った。「君もとっとと夢から覚めることだな。」
「君に言われたくはないね。」私は手元の猪口をあおった。「大体、君は私にそれだけのことを言うだけの権利があるのか?」
「君よりはあるさ。」彼は一向に尊大な態度を改めない。「少なくともまだ、純情を捨てきれない君よりはね。」
「君には彼女が居たっけか。」私は言った。彼に言われ続けるのがいい加減、しゃくに障り始めた。
「現状は、たいした問題じゃない。」彼は鼻先で私の言葉を笑った。「ようは経験だ。」
「経験、経験と、それがそんなに偉いものかね。」私はこれまで私に対して使われた経験という言葉すべてを憎んでいた。「昨日女と別れた男が、次の日には別な女と寝ている...。そりゃ、経験豊富だわな。」
「生来、雄とはそう言うものだ。」彼は言った。「そのためにこそ彼の精細胞は永年分裂を続けている。」
「ここまで進化しておいて、精細胞の理屈に従うこともあるまいに。」私は笑った。「理性の足りないことの裏返しだよ。」
「理性を保った君は、けっきょく恋に破れたんじゃないか?」彼はしてやったり、という風に笑った。「理性を保った合理的な君は幸せだったか。」
「少なくとも、自分に従った部分に於いては満足しているよ。」私は虚勢を張った。「誰かのように、節操のない振る舞いはせずに済んだからね。」
「それは、女に困らない男の言う台詞だな。」彼は言った。「君のような男が言うことではない。」
「はいはい。」私はあきれた素振りを見せた。「浮気性がたたって、知り合いの女すべてから距離を置かれる君には敵わないよ。」
「大体女どもは、」彼が手を挙げると、近くを通りかかったウェイトレスが駆け寄ってきた。彼はおかわりを注文した。「大体女どもは、自分の浮気性を棚に上げて、男の浮気を責める。これは大いなる不条理だ。」
「浮気性と、浮気は違うと思うけどな。」私は彼を冷やかした。
「第一、恋愛などと言う感情は永続するものか?」彼の声は一段と高まった。「あれはあくまで刹那的な...、少なくとも、太陽が昇るまでの命しかない感情なのではないか?夜に恋していた女を、朝に恋しているとは限らない。そうは思わないか?」
「思わないね。」私は言った。「経験の少ない身分で恐縮だが。」
「まあ、君ならそう言うだろうな。」彼は笑った。歯並びのよい歯が見えた。「だから逃げられるんだよ....、あ、逃げられたわけでもなかったか。君の一方的な勘違いに過ぎなかったんだっけな。」彼は肩を小刻みに震わして笑った。「まったく、今時の中学生もおどろく失態だ。」
「今の時代には不足した純真さ。」私は開き直った。「中学生も是非見習うべきだね。」
「絶滅危惧の天然記念物として。」彼が言った。「性教育の時間にでもな。」
ウェイトレスが、銀の盆に酒を持ってきた。澄み切った色の焼酎だった。二人の酔いどれの目にその銀盆の彼女は美しく見えた。
「ここの大学の人?」彼は聞いた。「学部はどこ?」
「人文です。」彼女はおくびれることなく答えた。
「Xを、知ってる?」彼は言った。「僕の友人なんだけど。」
「X...。」彼女は目を浮つかせ、何人かの顔を思い浮かべているようだった。
「君、何年生?」彼は待ちきれなかったのか、問いを重ねた。
「2年です。」
それを聞くと、彼は微かに笑った。そして、「ありがとう、じゃあ分からなくても当然だ。」
そう言って、手を振った。彼女は何かすっきりしない表情で、空の盆を抱えて立ち去った。
「人文に知り合いが居たのか。」私は彼女の立ち去った後、彼に聞いた。「意外だな。」
彼はふん、と笑った。「馬鹿だな、お前、嘘に決まってるだろう?」彼は言った。「人文に知り合いなんか、いないよ。」
彼は、ウェイトレスが持ってきたばかりの冷えた酒をあおった。
「用は話の種だ。嘘だろうと、真実だろうとな。俺は彼女の年を聞きたかっただけだ。」
「年下は好みじゃないのか。」私は笑うほか無かった。「汚い男だな。」
「どうとでも言え。」彼は全く気にしなかった。「潔癖なまま、何も得られず生きるのは趣味じゃない。」
「汚い生き方は趣味じゃない。」私も言った。「どこまでも合わないな、俺たち。」
ふん、と彼がまた鼻で笑った。そして、もう一度片腕をあげて、近くを通りかかった別のウェイトレスを呼び止めた。
「こいつ、今日失恋したんだ。」彼は私を指さしていった。「猪口を二つと、何か一番辛い日本酒を2合。」
「日本酒は飲まないんじゃなかったのか?」私は彼に尋ねた。
「いいんだよ。」彼は笑った。「今日はお前の記念日だ。」
彼はそう言うと、グラスの焼酎を一気に飲み干し、ウェイトレスの銀盆に帰した。