朱音さんはその質問を意外と受け止めた様子だった。目を大きく見開いて、明らかに驚いた様子だった。
「行かれるんですか?」
「...せめて、謝りたいんだ。」僕は言った。
「彼女のことを勝手に眺めて、勝手に舞い上がってた。知らないところで話を進めてしまっていて...。」
「それについては、….私も反省してます。」
「だから、…謝っておきたいんだ。」
それは、彼女に会うための口実というつもりでもなかった。話したこともない彼女を僕は既に知り合いのように感じていた。これきり出会うことは無いだろう、という考えは、このとき想定の外にあった。また会うつもりでいる人間を、人はなかなか裏切れないものだ。
「でも、それでしたら、私から先輩に言っておけばいいことじゃないですか」
朱音さんが言った。
「そもそも、私がしたことですし….。そんなにお気になさらなくても、先輩なら、大丈夫ですよ」
「まあ、そうなんだけど…、僕の方も、その気になってたから。朱音さんだけに謝らせるのも、なんか、悪いよ」
「そんな…、私のことでしたら….。」
「あくまで、このままじゃ僕の気が晴れないってだけのことなんだけど」僕は言った。
「うまく会えなかったからといって、このまま、何事もなかったような顔して生きているのもなんか、ね。」
「…やさしいんですね。祐介さん」朱音さんが微笑んだ。「そんなに…、気になりますか?….先輩のこと」
僕は否定しなかった。
「わかりました。...じゃあ、ちょっと待ってください、いま住所を書きますので...。」
朱音さんは、手に持ったバックから小さなノートを取り出し、細々と書き入れ始めた。ついて来てくれないんだ、と僕はその時思ったが、これは彼女なりの配慮なのかも知れないと思った。癖があるが読みやすい字で、彼女の通うキャンパスのおおよその所在地と、練習場所の位置を書き入れた。それはここからそう遠くない距離にあった。「はい。これでいいはずです」
朱音さんは、所在地を書いたメモを手渡した。
「駅に着いたら、3番の出口から出て、大きな道路を渡った先にあります。入口に守衛さんがいると思うので、わからなかったら聞いてください」
「ありがとう、何からなにまで」
僕はお礼を言った。
「朱音さんには、本当に感謝しているよ」
「いえ、そんな…」朱音さんははにかむように笑った。
「私は、祐介さんに幸せになってもらいたいだけです。もちろん、先輩も」
じゃあ、これで。彼女はそう言って、僕に軽くお辞儀をすませると、愛嬌のある笑顔を残して去っていった。彼女の小さな後ろ姿は、週末の秋葉原に繰り出した人々の群衆に埋もれて、すぐに見えなくなった。
彼女の姿を見送ると僕の眼は、すぐに彼女の渡してくれたメモに向けられた。おおよその行程を把握すると、僕は彼女の先輩が練習しているという大学のキャンパスを目指して歩き出した。
彼女の先輩は、名を村瀬真樹といった。
2009年1月16日金曜日
『ロール・プレイ』 10
2009年1月15日木曜日
『ロール・プレイ』 9
僕はもう1時間も前からスタバの入り口の脇のテーブルに座って、朱音さんと、彼女の先輩がやってくるのを待っていた。本当はもう少し後から店に入ろうと思っていたのだが、ゆっくり時間を潰す場所が見つからず、随分早めに店に来てしまっていた。
本来、秋葉原の街は、僕のテリトリーではないのだ。日比野がいたから、時間がつぶせたけれど、僕一人では、彼とよく行っていた店に入る気さえ、とてもなれなかった。朱音さんの働くメイド喫茶を出てから、あちこちさまよった挙げ句、僕は結局無難に全国チェーンの書店に入り、適当な文庫本を立ち読みしていた。本屋なんて、どの店に入っても置いてある本はほとんど同じなわけだし、僕の興味も限られているから、その立ち読みにもまもなく飽きてしまった。
だんだん、立っているのに足も疲れてきたので、僕は立ち読みしていた本を買い、時間よりまだ大分早かったが、待ち合わせの店に入って待っていることにしたのだった。
気配を感じて、ふと、目を上げると、通りの向こう側の露地の入り口から、私服に着替えた朱音さんが出てくるところだった。店の入り口近くに座った僕に気がついたらしく、片手をあげて小さく手を振った。通りを真っ直ぐ、こちらに横断してきた。
しかし、彼女の後にはだれも付いてくる様子がなかった。
「ごめんなさい、祐介さん。」朱音さんは僕の所まで来ると、残念そうにそう言った。「...先輩ったら、今日はテニスの練習しようと思っていたから、ごめん、なんて言うんです。」眉根を寄せて、朱音さんは溜息を吐いた。
「いつも、こうなんだから。…人が、せっかく心配しているのに...。祐介さんも言ったように、先輩、こういう事に関しては、とっても不器用な人なんです。だから...。」
「...そう、ちょっと残念かな」
僕は彼女と知り合えることを期待していただけに、言葉以上に内心は落ち込んでいた。
「...ちょっと、予定が狂っちゃったね」
朱音さんは困ったように微笑んだ。僕より、さらに落ち込んだ様子に見えた。
「...そうですね。私も、時間が余っちゃいました。」朱音さんは言った。「何処か、買い物でもしてこようかな...。」
そう言って、午後になっても人通りの絶えない秋葉原の通りを何気なく見渡した。
僕にはその時、朱音さんが何か言いたげな様子に見えたが、彼女は特に何も言わなかった。
僕は正直、もうこのまま、帰ってしまってもいいかと思っていた。そもそもが、棚から牡丹餅のような話なのだし、それが思い通りに行かなかったからといって、どうということでもないのだ。自分の中で何もかも、始めからなかったことにすればいいだけのことだった。そもそも、この話は、はじめ、断ろうと思っていた話ではなかったか。今の僕の生活に恋愛が特に必要である理由などなかった。昨日と同じ、いつも通りの、それなりに充足した僕の生活が、また明日もまた始まる、というだけのことだった。この日比野の妹さんと、知り合いになれたというだけでも、収穫ではないだろうか。
しかし、その一方で、朱音さんの先輩だという彼女をもう単なる他人とは割り切れなく生っていることに僕は気がついた。それは、一種の親近感のようなものだった。一度できかけた彼女とのかすかなつながりを簡単には失いたく無くなっていた。もう一度、もっと傍で彼女を見たかった。単なる興味本位な関心だったと言われれば、そうだったのかもしれない。彼女に対する純粋な好意では無かったのかも知れない。
でも、必要以上の人付き合いを避ける傾向にあった僕としては、このような気持ちを抱くこと自体が、これまでなかったことだった。自分から進んで、他人と新たな関係を築くなど、大学に入ってすぐに、勢いにのまれるように日比野と親しくなってしまったあのときを除いて僕には経験の無いことだった。
なぜそのような気持ちが急に湧き出してきたのか分らなかった。目の前にいる朱音さんは確かに素敵な女性だった。だが、彼女に対して働く興味とはまた少し違った興味が、一目見ただけの彼女に対しては働いているように思った。まだ、出会ったばかりであるというのに、その身体に触れた感覚が、未来の記憶のように鮮明に僕の体に蘇ってきて、しようがなかったのだ。
僕はその感覚に突き動かされるように、アカネさんに尋ねた。
「…彼女の練習場所って、どこ?」
『ロール・プレイ』 8
黄色い声で出迎えてくれた猫耳メイドの中に、朱音さんの姿もあった。
「良く戻られました、ご主人様。」
朱音さんは愛嬌たっぷりに、僕の所に駆け寄ってきた。相手のことを知っているだけに、僕はなんだか気恥しくなってしまった。
「お席にご案内しますね」
彼女は僕の腕を取って、席へと案内した。
前回座った窓際の席よりもずっと奥の、店の全体が見渡せる席だった。朱音さんは僕を座らせた後、奥から水を持ってきた。
「ほら、あの人です」
朱音さんは目配せして、早速店の入り口近くにいる、一人の女性を指さした。
その瞬間、僕は、はっと息をのんだ。
確かに、先週は見ていない人だった。朱音さんより背が高くて、やや華奢な印象だった。だが、ずっとテニスをしていた人らしく、引き締まった体つきをしているのが遠目で見ても解った。短めに切った髪は、女の子にしては無造作で、整えられていないような気もしたが、彼女の顔つきが、女性らしいと言うより、少女か、少年のようだったので、特に気にならなかった。
「どうです?かわいいでしょう?」
「...え?ええ。本当に」
僕はいつの間にか、ぽおっとなって彼女を見つめていた自分に気づいた。
「先輩、すごくシャイな方なので、あなたのことは、あえてまだ言っていません。バイトが終わったら、また後で、改めてご紹介しますね。」「え、ええ。」
僕は早くも緊張していた。着古したジーンズと、先日ドアの取っ手に引っ掛けて、背中側の裾に穴のあいたワイシャツで、ここにつらつら来たことを、僕は後悔していた。
前回来た時のようにコーヒーを頼むと、奥から、先ほど朱音さんが紹介してくれた女性がコーヒーを運んできた。どうやら、彼女の差し金らしい。
「...ご注文の....、ぷ、“ぷんぷんぶれんど”、です。...ご主人様...。」
この女性は、どうもこういう接客が苦手らしく、勤め始めて数週間になる割にはあまりに不慣れだった。もしかすると、今までできるだけ、店の奥の方にいて、お客さんと接することを避けていたのかもしれない。他の女の子が、鼻の奥を振るわせるような、いわゆる『アニメ声』を出しているのに対して、この女性はやはりスポーツ系らしく、おなかから声を出している印象だった。見た目の印象より、ずっと低く、楽器でたとえれば、木管のような響きをかすかにもった声だった。
「…ご注文は、以上でしょうか」
女性はおそるおそる、僕の顔を覗き込んでいる。いちいちこんなに真剣にお客さんに接していたら、きりがないだろうな。僕はそう思って、思わず笑いだしてしまいそうになるのを、必死にこらえていた。
「ええ。ありがとう。」
それでも女性の必死さは十分に伝わってきた。僕は心を落ち着けて、静かに笑顔で応じた。女性も出来る限りの愛想笑いでそれに答え、思ったより厚みのある背中を見せながら、店の奥へと去って行った。
彼女があまりに接客に不慣れな点からみて、この店でバイトをするのは彼女の本意ではなく、朱音さんに無理矢理付き合わされたのだろう、と僕は察した。
「...どうです?」彼女と入れ替わりに朱音さんが僕の席にやってきた。
「彼女を、このバイトに引き入れたのは、君だね」僕は率直に彼女に言った。
朱音さんは、申し訳なさそうに笑って、
「だって、先輩があんまり...、なんというか、女の子らしくないから、ちょっとこういうところで、すこし矯正してあげなくちゃって思ったんです。」
「すごい後輩だ。」僕は苦笑した。
「でも、それだけ、君にとって大切な先輩って、事だね。」
「...ええ。」朱音さんの目は、真剣だった。
「先輩には、女の子がみんな一度はするような、幸せな恋愛をしてもらいたいんです...。で、どうです、先輩のこと好きになっていただけました?」
「...君に、言われたからって訳じゃないけれど」僕は正直、口に出すのが恥ずかしかった。「...かわいいね、彼女。その、不器用なところも含めて、さ」
朱音さんはにっこりと微笑んだ。本当に慕われている先輩なんだな、と思った。
「正直、女の子の紹介してくれる“かわいい女の子”なんて、当てにしない方だったんだけれど、...今回は違ったな。人柄的にも、本当にいい人そうだし。」
「“人柄的にも”って、人柄から見てくれたんじゃなかったんですか?」
朱音さんはちょっと意地悪に、僕にそう聞いた。僕は、笑うしかなかった。始めに、体つきを見た、なんて、男の性だとしたとしても、とても言えるものじゃない。
「でも、まあ、いいです。じゃあ、先輩に話しておきます。5時に、また例のスタバで会いましょう。」
朱音さんはそう言うと、僕に深々とお辞儀して、下がっていった。
約束の時間になった。
2009年1月14日水曜日
『ロール・プレイ』 7
翌週の土曜日は、先週の週末ほどの快晴ではなかったが、それでも良く晴れていた。白い雲が、黒みがかった腹を見せて、僕らの上を通り過ぎる。山手線から見える都市の緑は、先日降った雨に洗われて、生まれ変わったように輝いていた。緑色が都市計画の端数を埋めていく5月。
秋葉原の駅で降り、先週、日比野と行った店に僕一人で向かった。先週同様、彼も誘ったのだけれど、彼は、色々と理由を付けてそれを断った。そもそも、遠慮や、雰囲気を察するという感覚に乏しい人間なのだ。僕と朱音さんが紹介してくれる女性との現場に自分がいたら、きっとお邪魔だろうという配慮が働いたとは、とても思えなかった。むしろ普段の彼ならば、女の子に興味など無いような顔をして、ひょうひょうと付いてきたに違いなかった。彼は単純に、妹とあの店で再び会うのが、嫌だったに違いない。
あの後、僕は朱音さんと何通かメールをやりとりしていた。彼女が紹介すると言っていた女性は、彼女の大学の先輩で、去年までテニス部の主将をやっていたそうだ。朱音さんも、高校からテニスをしていたから、この先輩には大学に入学してからずっとお世話になっていたのだという。
“じゃあ、祐介さんと同い年ですね。
先輩ももう四年生になるので今年で
卒業です。私はそうなる前に、先輩
に少しでも恩返ししたいのです”
彼女はメールでそう書いていた。僕なんかが、恩返しになるのかな。
正直にそう書くと、
“なれます!私の見込んだ男なんで
すから!”
と返事が返ってきた。それなら僕は君が....、とでも、せっかくだから書いてみようかとも思ったが、真剣そのものの彼女の姿勢に対して、ちょっとふざけ過ぎのような気もしたので、やめておいた。あんなにかわいい子なのだから、大切な人は、きっともういるに違いないとも思った。
それにしても、僕にはどうして、彼女があの時、その女性を他ならぬ彼の兄にも紹介しようとしなかったのか、ずっと気になっていた。僕の前では仲たがいしているように見せていたが、兄妹なんて、人前ではああしていても、実際には意外に仲がよかったりすることがよくあるものだ。言い古された表現だが、喧嘩をするということは、お互いを心配していることの裏返しであったりする。もしかすると、彼女はあらかじめ、兄にその女性についての話をしていたのかもしれないと思った。物のついでに、僕はそのことも訊ねてみた。時間が少し空いて、彼女から返事が返ってきた。
“兄には彼女がいますよ。知らな
かったのですか?”
僕は驚愕した。
日比野には彼女などいないと思っていた。失礼ながら、未来永劫、彼はそう言う話題とは無縁だと思っていた。大体、彼は慣れないうちは普段の会話を成立させるのすら困難な人間なのだ。そんな人間が、一体どうやって女性を口説くのだろう。彼の恋愛の始まりを想像することすら、僕には困難だった。
“兄には口止めされているのです
が、私は一度彼女と兄が並んで歩
いている様子を見かけたことがあ
ります。くらくらするほどグラマ
ラスな女性でした。”
女の子をくらくらさせるほどの女性が、どれほどの女性なのか。そして、その隣に、他の誰でもなく、あのオタクの日比野が並んで立っているというのだ。彼は、その時、どんな顔をしているのだろう。何を話しているのだろう。恋人たちに特有の、あの周りの人間の姿など目に入っていない、ささやくような内向きの会話が、彼と、そのグラマラスな女性の間にもとりとめもなく繰り返されていたりするのだろうか。
“兄の話によると重度のコスプレ
イヤーなんだそうです。キューテ
ィーハニーの格好をさせたら、観
客に死人が出たと聞いています。”
僕にはもう、日比野が日比野に見えなくなりそうだった。長く付き合ってみても、人間の本性というものは分からないもののようだ。僕のいないところで、彼は何をしていたのか。オタクの日比野は、僕の中でグネグネと姿を変えつつあった。ヘミングウェイも青ざめるマッチョでタフなワイルドターキーの似合う男を僕は思わず想像した。その幾多の修羅場をくぐりぬけてきたような、冷たく鋭い一重の視線の先には周囲に死を振りまき、コスプレするグラマラスな女の姿。目の前の女の皮を一枚一枚剥いでいく、冷たく疑り深い彼の視線。響くウッドベース。気だるいピアノ、ささやくようなスネアドラム。ぼうや、だからさ。彼は僕を思い出し、冷笑を浮かべて、ふとつぶやく。
“あ、私の言ったこと、兄には内
緒にしていて下さいね!”
朱音さんからの、にわかには信じがたいメールを受けて、思わずそんな、根も葉もない空想をしながら通りを歩いているうちに、いつしか朱音さんのバイトしている店の前までやって来ていた。僕はビルの二階の古ぼけた木彫の扉を開けた。
「おかえりなさいませ~」
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
2009年1月13日火曜日
『ロール・プレイ』 (intermission)
ほんのつい先ほどまで、断ろうとまで考えていた話で、すっかり頭の中がいっぱいになってしまうなど、思えば僕もずいぶん軽薄な人間だ。意志が弱い、というのはまさに僕のような人間を言うのだろう。しかし、僕だって、それまでずっと彼女が欲しくなかった訳ではなかった。本当に嫌だったのは、彼女を得るまでの気の遠くなるようなプロセスだったのだ。それを得るためには、僕は自分の生活の一部を少なからず変えなくてはいけなかったから。
当時の僕にとって、恋愛は優先第一位の事項ではなかった。もっとやりたいことはたくさんあった。特にあのころは、小説を書くことに熱中していて、色々な本を読みあさっては研究していた。そうした時間をつぶしてまで、うまくいくかもわからない恋愛に踏み出す気には、どうしてもなれなかったのだ。だが、その煩雑さが、可能な限りショートカットされるのであれば、僕はそれほど、恋愛することそのものには抵抗は感じなかったということだ。
もしかすると、このころの僕が求めていたのは、可能な限り手軽でリスクの少ない、スイッチ一つの恋愛だったのかもしれない。夢や、目標が飽和した世界で、恋愛は多くの趣味や習い事の間に、すっかり埋もれてしまった。それ以上の手間や時間をかけるゆとりは、もう僕の24時間の中に、残されてはいなかったのだ。
『ロール・プレイ』 6
質問の持つ意味は、僕にも瞬時に分かった。話に無関心を装っていた日比野でさえも、さすがに驚いた様子で、思わず妹の方を振り向いた。
「え、あ、あの...」
妹は、自分の言ったことよりも、むしろ二人の男の驚きようにすっかり狼狽えた様子だった。「あの、そういう、わけじゃ、...わっ、わたしはぁ、ただ…」
彼女は思わずうつむいた。両の耳が赤くなった。「...違うんです...」
「何が違うんだ?」日比野までが少なからず興奮しているようだった。興奮する理由が僕とは違っていたが。
「何が違うんだよ」「いえ、あたし、じゃないの!」
妹は赤くなった顔をあげた。
「あたしじゃなくって...、あっ、あたしの、....先輩の話!」妹は、迫ってきた兄の顔から逃れるように横へ飛びのいた。
「せっ、先輩のこと...、私、本気で心配しているんです。とってもかわいい人なのに、男の人と付き合ったこと、全然、無いらしくって」
「お前は、あるというのか?」
「お兄ちゃんは黙ってて!」
妹は赤くなった顔で、兄をにらみつけた。
「...祐介さん、あの、一度、先輩と会っていただけます?きっと….、好きなっていただけると思います。本当に、本当にかわいい、方、ですから」
「はあ...」
悪い話ではないが、急なことでもあり、はっきりした返事は出来なかった。僕は、そういうものからずいぶん長いこと遠ざかっていた。こうやって気ままに一人で生きていくのも悪くないかな、などと考えていた時期だった。朱音さんの申し出はうれしかったが、僕はあまり乗り気ではなかった。
「それは、その...、あなたの先輩という方が、僕をどう思うか、ですよね…。僕がここで決めて、どうなるものでも、無いんじゃないでしょうか」
僕は、そのときの生活が正直、気に入っていたのだった。だから、これを変えるような面倒は避けたいと思っていた。このまま、この話をやんわりと断る方法を心の内で模索していた。
「それは、心配ないと思います...。だから、私もお願いしてるんです。」
彼女は僕の言葉の真意に気がついていない様子だった。まっすぐな瞳で僕を見て訴えかけるように言った。
「実は、先輩、あのお店で、今、私と一緒にバイトしているんです。今日、見ませんでした?」
僕には、これと言って思い当たる店員はいなかった。
いや、気がつきませんでした。そう答えた。
「そうですか...。それなら、もし、よろしければ、後でもう一回お店に来ていただけますか?...こっそり、お教えします。」
「何もそこまでしていただかなくても...、」
彼女の積極性に、僕は気持が引いてしまうのを感じていた。
「...祐介さん」消極的な僕を前にしても、彼女はうろたえる様子がなかった。僕は思わず、そのまっすぐな瞳に吸い込まれそうになるのを感じた。
「...せっかく、ここで、出会えたんですから...、もう一度だけでも、お店に来て….、いただけませんか?」
僕は彼女に、すっかり気圧されてしまった。はあ、と生半可な返事を返してしまった。
「...本当ですか!」彼女の表情が、ぱっと明るくなった。
「じゃあ、また、来週にでも!」彼女は、そう言うと、すぐに僕にメールアドレスを教えてくれた。そして、もう一度、ありがとうございますと満面の笑顔でお辞儀した後、跳ねるような足取りで僕らの前から立ち去った。
僕と日比野は、その場に突っ立ったまま、彼女の後姿を見送った。
「活発そうな子だね。誰かさんとは違って」
「...まいった」日比野は、すっかり意気消沈していた。
「今日は、人生最悪の日だ」
「そうかな」
「君は、いいさ。新しい出会いの段取りを、つけてもらったもんな。...あからさまに、にこにこしてくれてるね」
「...ごめん」
自分でも気がつかないうちに僕は微笑んでいたらしい。
「でも、あんなにかわいい妹さんがいるんだから、君はいつも幸せだろう?」
「そうでもない」日比野はぼそっと言った。
「...一緒にいると、いろいろ大変だ」彼はこれ見よがしに、大きな溜息を吐いた。
それから、彼はとうとうと、朱音さんがどれだけ扱いに困る妹であるかを語った。彼の部屋に勝手に入ってきて、大切なフィギュアをみんな売りに出してしまった話や、ことごとく彼の振る舞いに文句をつけ、挙句の果てに、向かい合ってご飯を食べているだけで、気持ち悪いと言われた話など、彼はこれまでの彼女の悪行の数々を述べ立てた。
だが、彼がどれだけ彼女の欠点を述べ立てても、その時の僕の耳にはほとんど入ってこなかった。彼女が紹介してくれるという女性が、どんな女性なのか、だんだんに興味が出てきた。また、にやけたところを彼に指摘されないように自分の表情に気を払いながら、それからしばらく、彼の愚痴に付き合っていた。
『ロール・プレイ』 5
彼の携帯はその日の夕方に鳴った。妹からだった。
その現場には、なぜか僕も立ち会わされた。
「君だって、同罪じゃないか」それがその理由だった。
指定された場所は妹の働いていたメイド喫茶の向かいにあったスタバだった。
僕らがそこへ行くと、野外のパラソルの下にしかめつらで、不機嫌そうにせわしなく携帯をいじる一人の女性が座っていた。
こちらに気がつくと、女性はすっくと立ち上がって、つかつかと僕らのところへ歩いてきた。
「おにいちゃん...。一体、何してたの、あんなところで」
彼女は開口一番、あきれたように言った。
「おまえこそ...、何してたんだ」日比野は、ばつが悪そうに妹から目をそらしていた。
「バイトよ、バイト...。まさか、あんなところでお兄ちゃんに会っちゃうとは..。いくらオタクの兄とは知っていても、...なんかショックだよ」
「お前こそ、あんな店で働くのが間違ってるんだ」
すかさず兄は言った。それでも、居心地が悪そうに、妹には見えない体の後ろで、指をいじっていた。
「そんなこと言われても...。誰も、あんなところでお兄ちゃん会うとは思うわけ無いじゃない。私は恥ずかしかったよ。客に兄がいたなんて、他の店の子には、とても言えない」
苛立って頭を揺らすたび、長く伸ばした彼女の髪が大きく振られた。
「あんな格好の店員に、ご主人サマー、なんて持ち上げられて、にゃンにゃンだの、るんるんだの、そんな甘ったれたお店でいい気分に浸れるなんて、どういう神経してるの?私には解らないな」
そう言う店で働いている割に、妹は辛辣だった。
「なら、辞めればいいだろ...」
「割良いのよ、あのお店」
悪びれもせず妹は言った。
「店の他の子も、みんな同じ考えだと思う。あんな恥ずかしい格好させられて、店長に変な台詞を強制されても、そう言う動機がなくちゃ働いてられないに、きまってるじゃない」
妹はきっと兄をにらみあげた。口をへの字に結んでいた。兄は妹に返す言葉もないらしく、黙り込んでいた。顔をしかめて、口をむっつりとつぐんでいた。全く似ていないようでも、怒った時の表情は意外に似ているな、と僕は思った。
「それに、あのフロアのチーフ...、たぶん、お兄ちゃん達も席に案内されたと思うけど…、あの人、相当きついんだよ。あの人のせいで、バイトが何人やめたことか。店長の前でばっかり、いい子ぶって...」
兄が何かに苛立ったように、一瞬、ちらと妹をにらんだ。思えば、僕らを席に案内してくれた店員を彼は気に入っていたのだった。
「見るからにきつそうでしょ、あの人。あれで、自分が人気あると思ってるから、最悪なんだよね....。あんなのに付いているお客さんは、みんな見る目ないよ」
何かを思い出したのか、妹はそこで、ぷっと吹き出しそうになった。
「...まあ、」努めて笑いをこらえるようにしながら、妹が言葉を継いだ。
「今回のバイトは、お金が目当てってわけでもないから。まだ我慢もできるんだけれど」
妹はその時、一瞬、僕の方を見た。
「...まだ何か、理由があるのか」
兄はそっぽを向いたまま、あきれたように言った。これが、この兄妹の会話らしかった。
「うん...。まあ...、」妹は、先ほどまでの威勢が嘘のようにおとなしくなった。しばらくまごまごと戸惑った後、僕の方をもう一度見た。
「ねえ、あなた...、あの...、兄の友達の方ですか?私、日比野朱音(あかね)って、いいます。この兄の妹で。...いつも兄が、お世話になってます」彼女は僕の前で深々とお辞儀した。
「あ、いや、そんな。僕は、伊勢祐介といいます。僕こそ、お兄さんに、お世話になりっぱなしで...」
僕が自己紹介している間中、妹さんは僕の表情を、じっと見つめていた。彼女の大きな瞳に見つめられて、僕は少し緊張してきた。これがあの、変わり者の日比野の妹とは、とても信じたくなかった。
「伊勢...、祐介、さん」彼女は僕の名前をゆっくりと反復した。
「実は、ちょっと、お伺いしたいことが...」彼女の目はとても真剣だった。僕はつばを飲み込んだ。
「実は、...あのね....、あ、初対面で、男の人に、こんな事、聞いて、いいのかな...。私、やっぱり、へん、かもしれません….」
「はは...、そんな...、なんでも、どうぞ」
僕はもう、気が気でなかった。
「じゃあ、あの…、」
彼女は躊躇いがちに大きく息を吸った。「...好き、...な人っています?今?」
2009年1月12日月曜日
『ロール・プレイ』 4
注文から十分もしないうちに、僕らのメニューが運ばれてきた。
「お待たせしました、ご主人さま!」
運んできた女の子は、先ほどとは違い、随分小柄な子だった。
まだ、店の仕事に慣れていないようで、メイド役が板に付いているとはとても言えなかった。
「ご注文の...、あまあま...、るんるんブレンドと....」
「“あまあまるんるんここあ”」
彼女の方を一向に見ようとせず、窓の向こうを向いたままの日比野が、すかさず彼女の誤りを指摘した。
店員は、彼の不意の横やりに驚いて目を丸くしていたが、
「え?ああ、...あまあまるんるんココアですね...」と、素直に言い間違いを直した。
彼女は盆の上のコーヒーを狭いテーブルの上に乗せようとした。ところが、先に置いてあった水の入ったコップに手が触れ、危うくひっくり返しそうになった。
「ごめんなさい!」そう言ってあわてて、今度は銀盆の上に載せていたふきんでテーブルを拭こうとすると、今度は力が入りすぎて、テーブル全体が、がたりと傾きかける。はっと驚いて、彼女は思わず両の手をひっこめた。
慣れない仕事で彼女は明らかに舞い上がっていた。その上、日比野に不意打ちのように指摘されて、ただでさえ、上手にいかない仕事がますますぎこちなくなっているようだった。
何とかテーブルの上を拭き終ると、彼女はおそらく無意識に、ふうと大息をついた。それから日比野の方を見た。客である日比野が気を害したのではないかと、気になっていたらしかった。窓の向こうを向いたきりの彼の表情をのぞき込もうと、彼女は何度も首を伸ばしていた。しかし頑なにも、彼は一向に彼女の方を振り向こうとはしないまま、窓の外を見ているだけだった。
僕は彼が恥ずかしがっているのかもしれないと察した。それに気づかず、気をすり減らしている彼女が申し訳なく思えてきた。
「...ごめんなさい、大丈夫ですから」
僕は小さな声で、彼女にそう言った。
彼女は、いえ…、と小さな声で答えたが、それでも、しばらくその場所にとどまっていた。しかし、やがて諦めたのか、僕に小さくお辞儀して下がっていった。
「…今の子、ちょっとかわいいね」
僕は窓の外を向いたままの日比野に話しかけた。
「...そう」
彼は気乗りしない、ぼんやりした表情のまま、頬杖をついていた。
「そうやって窓ばかり見てても、わかんないんじゃない?」
僕は彼を茶化すつもりで、そう言った。
彼は突然、立ち上がった。「...もう、帰ろう」
僕は驚いて彼を止めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうしたんだよ、急に。まだ、メニューが来たばかりなのに。」
日比野は立ち上がったまま、ちら、と僕の目を見た。
相当困った顔だった。
「まずいんだよ」彼は言った。
「何が?」
「今の...。」
「今の?」
彼は、先ほどメニューを持ってきた女の子を指しているらしかった。
「今の子が、どうかしたの?...君、まさか…、タイプ?」
「そんなんじゃない」思いの外、彼は真剣だった。
「あれは...。」
「あれは?」
「…あれは、僕の妹だ」
『ロールプレイ』 3
彼と一緒に秋葉原へ出ても、僕は何かを買うわけではなかった。
駅前を行き交うコスプレの女性達には、萌えと言うか、恥ずかしい場所にできた痛々しい吹き出物を覗き見せられたような気分になることのほうが多く、それを取り巻き、写真を撮ろうと群がる男たちには思わず冷笑を浮かべずにはいられなかった。ただ、ここに来ると、日比野の目の色が明らかに変わるのが僕にはとても興味深かった。
大学で授業を受けている時や、同級生と話している時の彼は、寡黙で口数も少なく、落ち着いた印象を受けるのだが、ここへ来ると、内なる力に目覚め、自身が20代前半の若者であるということを思い出すようだった。秋葉原に来ると、彼のメガネの下の一重の小さな瞳は、生き生きと輝きを取り戻した。
「おお...、おお...!」
聞き様によってはきわどい、感嘆の声を発しながら、店から店へと、彼はストリートを渡るチョウのように飛びまわった。彼の目には魅力的に映るアイテムを見つけては、花に蜜を吸うごとく、ショーウインドウの前に立ち止まり、見入った。
僕はもっぱら彼の後をついて周り、何かにとりつかれたかのように彼が呟き始める解説を、手短に相槌を打ちながら、聞いている役だった。彼の説明というのは、いわば彼の中から湧水のように噴き出してくる関連知識が行き場所を失って、漏れ出てきた情報に過ぎず、合いの手を入れる必要などないのかもしれない。それでも、一応僕を想定して話されている言葉を無視して聞き流すのも悪い気がして、いわば自分の良心の呵責を静めるために、相槌を打っていたにすぎなかった。
約束の地にめぐりついた巡礼者が感激に胸震え、常態ではない、トランスの境地に達するように、秋葉原の日比野は体力を急速に消耗した。そうして、いい加減歩き疲れると、僕らは良く秋葉原あたりに多い、メイド喫茶に入った。
どうしてこういうときの選択がメイド喫茶だったのか、僕にはわからない。秋葉原だって普通の喫茶店はいくらでもある。表向きの理由として考えられたのは、どちらかというとそういうちょっと変わったお店のほうが、席が空いていることが多いということくらいだった。
その日入ったのは、まだ開店して間もない、ちょっと露地を入ったところにある一件の小さなお店だった。日比野によれば、この店の、ネット上での評判は悪くない、とのことだった。
「どういう評判なの?」
僕は日比野に聞いてみた。メイド喫茶の評判とは、何で決まるのか。見当もつかなかった。
彼は少し答え難そうにしていた。僕から視線をそらすと、何を見るわけでもなくあたりを見渡した。そして、小さな声で呟くように、
「...女の子が、みんなかわいいそうだ」と、言った。
「ああいう店の評価って、ほかに見るべきところがあるか?」彼は開き直ったように言った。
「いや、対応がいいとか、店内の雰囲気がいい、とかさ」
「...そうか。でもそれは、普通の喫茶店でもいいことじゃないか」
「...」
「別に、コーヒーが飲みたいから、メイド喫茶に行くわけじゃない」
僕には、返す言葉もなかった。
彼の言っていた店は、古びたビルの二階にあった。
「おかえりなさいませ!」
「おかえりなさいませ!」
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
入り口のドアを開けると、たちまち甘ったるい黄色い声で僕らは歓迎された。戸のそばには、案内係らしい女の子がかしこまって控えている。
「おかえりなさいませ、ご主人様。お二人様ですか?お席へご案内いたします。」
女性はメイド服に、猫の耳を付けていた。彼女に案内されて僕らは窓に面した席に腰掛けた。先ほどまで歩いた通りが、眼下に見える。通りを歩く女性の、固く結われた緑色の二つお下げの頭頂の分かれ目から、地の頭皮の人間じみた薄い色が透けて見えた。
テーブルのわきに立った猫耳の女性は、過剰なレースに縁取られた実用性のない小さな前掛けのポケットから伝票を取り出すと、
「ご注文はいかがいたしましょう?」
と、大きな瞳をくりくりさせて答えた。取ってつけたような長いまつげで、そのふちは華々しく彩られていた。
僕はそれほどおなかも空いていなかった。コーヒーを頼んだ。向かいに座った日比野は手元のメニューをまじまじと眺めて、なかなか決められずにいた。
ややあって、一言、
「...“あまあま、るんるんここあ”、ひとつ」消え入りそうな声で言った。
「はい!、かしこまりました。ご主人さま、しばらくお待ち下さいませ、にゃん!」
女性は招き猫のように手頸を肩口でかしげて、満面の笑顔を見せた後、僕らを後に店の奥に去っていった。少し疲れていたのか、後ろの毛がほつれて、摺り足気味な歩みだった。
「...どう思う?」
日比野は鼻眼鏡の上からのぞき込むようにして僕の方を見ていた。
「どこにでも、いそうな感じじゃない?」
僕は言った。すでに日比野に何軒か連れて来られていたので、こういう雰囲気には慣れてしまっていた。本来の“鑑賞”の仕方とは違っているかもしれないが、コスプレをしていても、それを通り越して、一人の女性として相手を見るぐらいのことはできるようになっていた。
「そう」
日比野は見上げていた目を再びメニューに向けた。眠り猫のような半睡の瞳はそれを見るようで見ていないらしかった。
「...僕は、好きだな」
2009年1月10日土曜日
『ロールプレイ』 2
この日比野と僕が出会ったのは、大学に入ってすぐのことだ。あれは確か、専門科目の時間だったと思う。植物生理学の分厚い教科書にうんざりした4月の話だ。彼は元来、とても真面目な学生なので、授業はいつも、一番前の席に座って聞いていた。狭い教室の一番前は、講義する先生の机とほとんど密着していて、そこに座ると、ほとんど先生の腹と、背中ぐらいしか見えないはずなのだが、そこに座ることで、彼は安心を覚えるようだった。
本格的な授業開始の初日から僕は悪癖の時間に無頓着なところが出て、授業に遅れそうになってしまった。自分の性格を呪いながら家から大学まで走って来た。教室に駆け込むと、もう席は後ろの方から埋まってしまっていた。
開いているのは日比野の隣だけだった。
「ここ、座っていいですか。」
遠慮がちに聞くと、彼はなぜだか少し驚いたような顔をして、
「...ああ。」
という、何とも曖昧な返事を返してよこした。僕はその返事を聞いてもなお、彼が座ることを許してくれたことがわかりかねて、そこに立ったまま、しばらく座ることを躊躇していた。
その日の授業は、まだ大学生活の第一歩ということで、これから行う講義の説明で終わった。単位、講義、シラバス、レジュメ。聞きなれない単語の羅列で、僕らをひとしきり戸惑わせた後、担当教授は、目の前の視界をさえぎる灰色の前髪を掻き上げて、
「...じゃあ」
と言い残し部屋を去った。
礼も起立もない始まりと終わりに、右も左もわからぬ新入学生たちは戸惑い、しばらく授業が終わったのさえ分からずにいたが、やがて好奇心が騒ぎ出したのか、隣に座った他の学生と積極的に会話を始めた。僕は普段、それほど社交的な方ではなかった。だが、せっかくだから隣に座った日比野と少し話してみようと思った。大学の一年目には、それまでの不可能を可能にする恥ずかしいまでの世間知らずなエネルギーがある。
「あのさ、君はここ、地元なの?」
僕は大学に入るために、他県から出てきていた。
「..え?」
彼は、またも、きょとんとした顔で僕を見た。
「あ、いや…、何でも、無いんだ...。」
僕の最初の挑戦は、それっきり、だった。そもそも、出会ったばかりの彼の出生にそれほどの興味があったわけではない。話すきっかけが欲しくてした質問が相手に意外と受け止められてしまったら、それまでのことだった。
正直、僕のそれまでの人生で、こんなに会話の合わない人間と出会ったのは生まれて初めてのことだった。このとき僕は、彼とはずっと話す機会はないだろうと強く思ったのだが、それでも不思議と縁というものがあったのだろうか。選択する講義も、実習でのグループも一緒になることが多く、少しずつ話をしているうちに、ずい分仲良くなった。
日比野は、それでも言うまでもなく変りものだった。仲間からも多少際物扱いされていたところがあった。だが、僕はあまり構わなかった。僕もそれほど友人を多く作る方でもなかったし、彼はものの考え方が他人とは違っていて、見ているだけで新鮮で興味がわいた、と言うこともある。
そうして僕らは、週末になると、彼の聖地である秋葉原にフラリと出かけるようになった。秋葉原はオタクの街だというくらいはもちろん知っていた。だが、だからこそ、僕はこの街があまり好きではなかった。僕は外見上オタクに間違えられることが多かった。あまり格好にかまうほうでもなかったこともあるのかもしれない。実際にはアウトドアも嫌いじゃないのだが、どうもインドアに見られてしまうようなのだ。その所為もあって、僕はそれまでオタクというものを心の底で嫌っていた。不健全なものとして。
『ロール・プレイ』 1
「脳みそを、ふっとばしてやるわ」
―ヘンリー・ダーガー『非現実の王国で』
彼はそのロボットフィギュアを、エヴァ、と呼んだ。
「エヴァ初号機は….、使徒を撃墜するために….、都市全体の電力を集めて….、」
店内に陳列された紫色のカマキリのように線の細いロボットのフィギュア。いくつかの色やポーズのものがあり、僕らには見えないが、彼らには見えている未知の存在に敵対するように、虚空をにらんでいる。僕の隣で食い入るようにこのフィギュアを見つめ、ぶつぶつと意味深な単語の並んだ解説を唱える彼にも、このフィギュアと同じ敵が見えているらしかった。
僕は彼の解説に始め、うんうんと手短に相槌を打っていたが、それにもやがて疲れてしまって、ショーウィンドーを覗き込むため、彼と目線を合わせるようにかがめていた腰を起して、ぼんやりとあたりを見渡した。
薄暗い店内に、広く構えられた入り口のガラス戸を通じて、外の通りのアスファルトに反射した陽光がまぶしく差し込んでいる。
久しぶりに良く晴れた日曜日だった。
僕はいつものように親友の日比野とつるんで、『街』に出ていた。
僕らの言う、『街』というのは、もちろん秋葉原のことだ。
僕は自分が日比野のようにオタクだとは思っていない。彼のように美少女フィギュアを眺めて悦に入るタイプではないし、ガンダムだって、子供の頃遊んだプラモデルくらいでしか知らない。主人公の恋人が誰で、誰に憧れていたかなんて、僕は日比野と出会うまで、全く知らなかった。
ロボットアニメ、と言うとガンダムぐらいしか僕には連想できなかったが、彼に言わせると、それはとうに古典らしい。彼の凝っていたエヴァというロボットを僕は彼と付き合い始めるまで知らなかった。
「...これだって、もう古典と言っていい位だが」
さも当たり前という顔をして、平然と彼はそう言っていたが、一度行った彼の部屋は同様のカマキリのようなフィギュアで一杯だった。登場人物の女の子のフィギュアも数多く陳列されていた。埃っぽく薄暗い室内には、物が多く座るところがないほどだった。
机の上にもDVDのケースや、アニメ雑誌がうずたかく積まれており、棚の片隅に、彼の大学の専門分野であるはずの、植物生理学の教科書が追いやられていた。部屋の中はそれほど物が無秩序にあふれていたのに、フィギュアの並べてある棚だけは、不思議にきれいに整えられ、向きやポーズまできっちりと決められて、ディスプレイされていた。
それは僕に、かつて田舎の祖母の家で見た、神棚を連想させた。
エヴァ、すなわちエヴァンゲリオンを、僕ははじめ彼の口頭で知ったので、エバンゲリオンという表記だと勘違いしていた。僕がエバンゲリオン、と発音する度に逐一、彼がエヴァンゲリオン、と発音を強調して、訂正しようとしていたのが記憶に残っている。こういう小さな間違いさえ、彼にとって許し難いことらしかった。僕が彼にとって魅力的な諸々のオブジェクトの発音を誤るたびに、彼は逐一、几帳面な英語教師のように、その発音を正してくれた。
そのうち、彼は仲の良くなった僕を、彼と同じ世界に引きずり込もうと思ったらしい。部屋の棚に飾られたフィギュアの一つ一つを詳細に解説し始めた。普段の寡黙さが嘘のように、こういう時の彼はブレスを挟むことさえ忘れて、せきを切ったように説明を始めた。
だが、そうした説明の多くは、相手の耳に届くことを目的としていないらしかった。あまりに早すぎて、また、情報量も多すぎ、僕は途中からついていけなくなった。彼のような人間の、ああいう場面での説明が、果して何を目的としているのか、僕には未だにわからない。おそらくは、知っていることを、よどみなく言い切ることに、何らかの快感を得ているとしか、思われない。
彼の熱意もむなしく、僕はいまだに、なぜエヴァンゲリオンのパイロットが女子高生で、全身タイツみたいなぴちぴちの“戦闘服”を着て、宇宙人と闘わなくてはいけないのか全く理解できていない。昔のドラマであった“セーラー服と機関銃”のようなモチーフをその背後に感じなくはないけれども、それが確かに同種類のものだと、言い切るだけの確信もない。
これはずっと後になって、オタク文化を論評した新聞の解説から知ったのだが、“萌え”という彼ら独特の嗜好を解くカギとして『ペニスを持つ少女』という言葉があるらしい。それは、一種の両性具有だ。本来なら男性に象徴されるはずの“破壊力”を持った美少女、と言うモチーフが、オタクの“萌え”とどうも密接に関係しているという。
それは確か、コミック原作の映画の評論に書いてあった話だった。世界を守るため、少女を全身兵器のサイボーグに改造し、戦う、という物語だった記憶がある。その評論家は、破壊力を失ってしまった男性が、それをアニメの中の美少女に見出し、あがめているのではないか、とまとめていた。
その評論家の言うとおりだとすると、日比野の大切にしている美少女パイロットのフィギュアが、新たに生まれてきた日本の土着信仰の女神のようにも見えてくるから不思議だ。縄文時代の遺跡から、豊穣の女神を模した、豊満な女性の土偶がたくさん出てくるそうだが、日本人はそれから何千年も経っても、大して遠くには来ていないらしい。
ただ、素材がプラスチックになって、女性のスタイルがちょっと変わってしまっただけだ。胸が大きいことにかけては、今も、変わっていない。
無論、僕は、まだ日比野に洗脳されるには至っていない。どうやら、日頃粘り強い彼も、ついに僕を見放したようだった。そうした強行的な布教活動はしだいに行われなくなった。
2008年12月20日土曜日
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走り書き;主人公の心情
0.
テニスコート、午後6時半。
夏だから、まだ日は落ちてはいない。でも沈みかけてる。斜め光線。オレンジ色、みんな。
私は窓辺に座って、ずっとそれを見ている。野球部が見える。ずっと遠くに、えいえい、言っている。
アカネは、まだ出てこない。
ずっとシャワー室。そう、ずっと。
もう、出てこないの?
そんなことはない。いつか出てくる。
水が流れる音が聞こえる。彼女の、小さな歌声。誰かのワルツ。
出てこなければいい。
愛しい人ほど、そう思うのはなぜだろう。
ことに、それが、私を苦しめる、届きそうで、決して届かない存在だからこそ、
もう、出てこなければいいのに、そう言う気持ちにしてしまう。
彼女のことが、嫌い?
嫌い。でも、欲しい。
欲しいから、嫌い。欲望を駆り立てるものは、
みんな避けたくなってしまう。臆病な私が悪い。
ロッカー室に、いつの間にか差し込む、斜め光線。
オレンジ色。食べかけのお菓子の袋が、真ん中の机の上で、悲しげに口を開けている。
笑っている?泣いている。
夕日は、どんどん、ああ、斜めになっていく。
シャワーの音が聞こえる。
アカネの体を洗う音。
水が、走り抜ける音。
もう、出てこなければいいのに。
そう思いながらも、私はここで、彼女を待っている。
嫌い。
1.
私が大学に入って、一番喜んだのは、母だった。
私よりも、母が喜んだ。
私の選んだ学部が看護学部だったから。
母は私を女の子としての私を、誰より望んでいたから。
私が、私でいてはいけないと思わせたのは、母。
男の子と、毎日ケンカして帰ってきた私を、ひどく叱ったのは、母。
スカートより、ワンピースより、ハーフパンツを好んだ私を嫌ったのは、母。
母の買ってくる洋服は、みんな、恥ずかしい位ひらひらしていて、ピンクや白や、ありとあらゆる暖色系の色が優しく組み合わされている、さわり心地のよい服ばかりだった。青や、黒や、びっくりするような刺激的な言葉の書いてあるTシャツは決して着させてくれなかった。
反抗もした。でも無駄だった。
だって、母が生んで、育てている、私だから。
その抵抗にも、限界があるんだ。
高校の同級生と、結婚したいと本気で思って、彼女と一緒に逃げだそうとしたこともあったけれど、それも、準備しているところを母に見つかってしまった。
小さな頃から見ている彼女には、私よりも、私を知っている節があって、それがどうにも、私には疎ましい。
結局、二人の逃避行は見事に失敗した。
相手の彼女は、逃げ出した。
そして、帰ってこなかった。
行き先は、まだ解っていない。向こうの親とも、それがばれて噂になって広まってしまってからは、全く逢えなくなってしまった。
私は、彼女はもう、死んでしまったのではないかと思っている。
二人とも、それほど本気だった。
ただ、私の方には、母にそれ以上逆らうだけの気持ちがなかっただけ。
私は、その失敗があってから、ますます母には逆らえなくなってしまった。
彼女の言うとおりに大学を選び、そして、問題なく学年を進んだ。
私が、この学科に合格した時の彼女の喜びようと言ったら!
私をようやく檻に閉じこめた飼育係のように、彼女は安堵の表情を浮かべていた。
今でこそ、看護は男女の隔てがなくなりつつあるが、彼女にとっては、未だにそれは女性らしい職業の代名詞なのだ。女性らしい職業に就き、他人への奉仕を身につけることで、一種の行動療法のようにわたしの“ゆがんだ”心に作用するだろうと、彼女は考えているに違いなかった。
私の心は、そんな単純なものではない。
それは、何より私自身が一番よく分かっていた。
中学、高校と、『女の子らしい』格好を義務づけられていながらも、私の心は変わらなかったのだ。むしろ、そう言う格好をさせられることで余計に、私が通常とされる人々とどれだけ違っているかと言うことを強く意識させられる結果となった。
これが更に、看護学部だったとしたらどうだろう。
私はすでに、自分がどのような人間であるか、はっきりと意識していた。
もちろん、自分を変えようと思った時期もあった。それは中学校の不安定な一時期に限られてはいたが。
だが、今では、もうそのようなことを考えることはなくなった。
私は私なりの、幸福を見出せばいいのだ。
そう悟っている。
そうして、今、
私はテニス部の先輩として、シャワー室にこもったきりの、後輩が出てくるのを、事実上、待っている。
彼女は...、いや、もはや、私の過去を知るものなど、いないのだ。
私はなんの変哲もない、看護学科の女子学生として、彼女と付き合っている。
私の心の底にわだかまる気持ちなど、彼女は知るよしもない。
でも、それでいいのだ。
それを明らかにすらしなければ、私は、彼女に憧れるだけの男子であれば決して出来ないほど身近に彼女を感じ続けていることが出来るのだから。
越えられない一線が、普通の男女より、随分手前に設定されているだけのことだ...。
2008年12月13日土曜日
a-cross
もしも、君に出会えていなかったなら。
そんな陳腐な言葉は使いたくなかった。
嫌みできざったらしい言葉ばかりが、頭の中を駆けめぐっていて、この瞬間、目の前の彼女の心に残るような、確実で、またとを得た言葉が、浮かんでこない。
『搭乗手続中』
プノンペン行き202便には、さっきからそう表示されている。
もうそろそろ、ゲートをくぐらなくてはいけない時間。しかし、彼女はまだ席を立とうとはしない。
飛行場の滑走路のよく見える細長い造りのカフェに二人で入って、もう1時間近く経つだろうか。普段落ち着きのない君の割に、長く持った方だ。
君はさっきから、手元の紅茶が冷めていくのも気にせずに、着陸しては離陸していく何機もの飛行機の後ろ姿を、ずっと目で追い続けている。
紅茶の中に沈んだ小さな茶葉が、口の広いカップの底に不安げに漂っている。
君がここに座って以来、見送ってきた何機ものボーイングの背中には、幾人もの僕と君が、散り散りになって機乗している。幾つもの似たような運命の中に、物珍しくもない僕らのラブストーリーも存在している。
カフェの店員には、見慣れた光景だろう。
彼女の水をつぎ足す所作には、一瞬の乱れすら感じられない。
恭しく頭を下げ、水差しを傾けて、楚々と去っていく。
その一連の動作を、僕は目で追っていたが、君はそんなことなど、全く構っていないようだった。
「ねえ、」
僕が、無愛想な君に話しかけた。
「プノンペンには、何時間かかるの。」
「3時間。」
彼女はぶっきらぼうに答えた。
「3時間...。なんだか、中途半端だね。寝るにも足りない時間だ。」
僕は努めて、彼女に笑いかけた。
「そうね。」
彼女は僕の方を見ようともしなかった。
「ねえ...、気持ちは分かるけど、もう少し、ポジティブに考えてもいいんじゃない?会社はきっと、君の将来を見込んでいるんだよ。」
「...そう、かしら?」
彼女は突き刺すような眼光のまま、それでもようやく僕の方を向いた。
「あなた、本当にそう思う?これが、ニューヨークとか、せめて上海ならともかく、プノンペンよ。なんの仕事があるって言うの?明らかに、左遷じゃない?」
「それは...。」
「向こうでの事業は確かに、まだ始まったばかりだけど...、私が回されるのは、前回失敗した事業の尻ぬぐいよ。他人の失敗の後片付けに、どうして私が、わざわざ本社から回されなくちゃいけないわけ?」
僕には、返す言葉もなかった。
「いい加減なこと言わないで...。」
彼女は少し俯いて、それからぷいと、再び滑走路の見える窓の方を向いてしまった。
その目には、微かに光るものが浮かんでいた。
彼女のような、自分の仕事に誇りを持っている女性にとって、会社の今回の措置は、嫌がらせ以外の何物にも映らなかっただろう。
決して、何か間違いを犯したわけでもなく、彼女の仕事の成績はいつも人並み以上だった。
むしろ、彼女に仇なしたのは、この彼女の優秀さにあったのかも知れない。
彼女のこの性格のためもあって、社内のやっかみは相当あるようだった。
「...わたしが、何をしたって言うの...。」
彼女は大きな窓に目を向けながら、小さな声で、そう呟いた。
彼女は、プライドが高かったが、芯が強いわけでは無かった。そう振る舞っていただけで、内心は繊細で、傷つきやすい人間なのだ。
むしろ、だからこそ、彼女は周りの人間に対して、時に威圧的にも見える態度を取っていたのだと、僕は思っていた。
正直、耐えられないだろうな。
口惜しそうな表情で、窓を見つめる彼女の横顔を見ながら、僕はそう感じた。
だが、ついて行くわけにも行かなかった。
僕には僕で、やらなければいけない仕事があるのだから。
「...ねえ。」
消え入りそうな声で、彼女が言った。
「別れ、ましょ」
彼女は、体は向き直っていたが、うつむき加減で、僕の目も見ていなかった。
「もう、そのほうが、いいとおもうの。...お互い、歯車は、別方向に、動き、出したのよ」
言葉を絞り出すように、彼女は小さな声で僕に語りかけた。
長い髪が、顔の両側に黒い幕を下ろしたように垂れ下がって、表情を覆い隠した。
「....こんな、急な話で、ごめんね...。ありがとう、いままで。さよぅ...」
「あの、さ。」
僕は、おそるおそる、切り出した。
「結婚、しちゃわない。」
今まで俯いていた彼女が、驚いたように顔を上げた。
先ほどの泣き顔が、まだその顔には張り付いている。
「なんか...、僕の方こそ、こんな飛行機の待ち時間みたいな時で、悪いんだけど。」
「でも、」
「...いい考えだと思うんだ。僕には君の支えになれるか解らないけれど、だからと言って、放っても、おけないんだよね...。プノンペン行きは、君にとっては、そりゃあ....、不安だろうと思うけれど、僕にとっても不安なんだよ。だから...、ね。君にこれだけ振り回されても、ずっとここまで、くっついてきた僕なんだから、少しは....、考えてくれないかな。...この不安の、解消」
彼女は黙ったままだった。
ベージュのチノの膝の辺りをくしゃくしゃに握りしめて、彼女の体は微かに震えていた。
「式とか、手続きとか、そう言うかたちの上のことは、正月に帰ってきてから、またゆっくり話せばいいことだしさ」
彼女に僕の気持ちを言ってしまっても、僕の中にはまだ、少し後悔があった。
本当なら、もっときれいなところで、落ち着いた時間にきっちりとしたかたちでプロポーズするべきだったと思っていた。
彼女の転地が決まってから、お互い、ここ数ヶ月は忙しくて、ゆっくり会う暇もなかった。
それは、言い訳にしかならないのではないか。“男の勝手”な...。
彼女の、口癖だ。
膝を握りしめた彼女は、動こうとしない。
そうこうしているうちに、いよいよ飛行機の出発時間は近づいてきた。
「もう、行かない?」
彼女の手を取って、促した。
彼女は俯いたまま、ゆっくりと立ち上がった。
ベージュ色の生地に、雫に濡れた跡があった。
やはり、泣いていたらしかった。
彼女の黒いキャリーバックを引いて、手荷物検査場の手前まで歩いてきた。
ここから先は、彼女だけが行くことの出来る領域。
僕の手は、いよいよ、もう、届かなくなる。
彼女は、無言のまま、僕の手から、彼女の荷物を受け取った。
そして、俯いた顔をあげて、ようやく僕の顔を見た。
「...行ってくる。」
頬は涙に濡れたまま、にこりと微笑んでみせた。
2008年12月7日日曜日
潜る
それはまだ、赤い太陽が僕らの頭の上にぎらぎらと照っていた、夏の盛りのできごと。
僕とお姉さんは、二人して、近くの川辺に出かけていた。
その日のお姉さんは普段着たことのないワンピースなんかを着ていて、それは小さな水玉がいっぱい入っていて、お姉さんが動くと、模様のの水玉がはじけるようにはね回るのだった。
「ユウキ、泳がないの?」
お姉さんは僕に向かって笑いかけた。僕は思わず目をそらした。お姉さんの笑顔を、僕は真っ直ぐに見ることが出来ない。
「泳がないよ」
そのつもりはなくても、ぶっきらぼうな返事。お姉さんを怒らせたんじゃないかと不安になって、僕は目の端で、その表情を伺う。
「泳げばいいのに。ユウキ学校の水泳大会で、2等になったんでしょう。見たいな、ユウキの泳ぐとこ」
お姉さんは、僕の連れない返事なんかちっとも気にしていない様子で、相変わらずにこにこしていた。僕が水泳大会で賞を取ったのを、母さん当たりからどうも聞いたらしかった。
「母さんに聞いたの?...言わないでって言ったのに」
僕はむすっとして言った。
「いいじゃない。姉弟なんだから」
お姉さんは笑っている。
「姉弟って言っても...。」
僕は小さな声でそう言い欠けて、口をつぐんだ。これ以上言ったら、僕らの間に何か冷たい風が吹き抜けてしまいそうな気がしたから。
お姉さんは、僕のお姉さんなんだ。たとえ、何があったとしても。
お姉さんは当時、もう三十は少し超えていたように思う。でもずっと家にいて、昼間はお家で眠っていることが多かった。お仕事は夜で、明け方になるまで帰ってこなかった。帰ってきた時のお姉さんからは、いつも香水とお酒の匂いと、あとちょっと、タバコの匂いもしていた。
僕は知っていた。
お姉さんは、いつもお仕事から帰ってくると、眠っている僕を、そっと抱きしめてくれるのだ。僕の小さかった頃から、そうしていたようで、僕が中学生になっても、相変わらず帰ってくると抱きしめてくれた。僕は、実は起きていることもあったのだけれど、お姉さんにされるままにしていた。なぜだか、そうしている時のお姉さんは、いつもひどく、疲れているようだったから。
昼間の、水玉模様のお姉さんと斯うして外に出かけたのは、だから本当に稀なことだった。次の日のお仕事が、きっとお休みだったからだろう。
斯うしている時のお姉さんは、年齢よりもずっと若く見えた。まだ、少女のような、そんな微笑みを、お姉さんはときどき見せてくれた。それは、夜に疲れて僕を抱きしめるお姉さんとは、まるで別人のようだった。
「ユウキって、けちね。泳いでみせる位、何でも無いじゃない」
お姉さんは言った。ぼくはそっぽを向いたままだった。お姉さんの前で、何かをすると言うことが、全体的に恥ずかしかった。何をやっても、お姉さんの前では不自然になってしまうだろうと僕には解っていた。
ここ数日雨が降っていなかったので、川は川底がはっきり見える位澄んでいた。僕らの見つめる先を、鮎の魚影が流れに逆らうようにして鋭く横切っていく。
「おさかなって、いいわよね」
お姉さんが、突然そんなことを言った。
「こんなきれいな、冷たい水の中にいて。誰に構わず自分の好きなところに泳いでいける」
「でも、水の外には出られないよ」
僕はそんな意地悪を言った。
「ぼくは、いやだな。鳥の方がいい。鳥の方が自由だ」
お姉さんはそれを聞いて笑っていた。
そして、ふと空を見上げて、
「確かに、鳥になれるものなら、鳥になりたいけど。...みんな、羽を持っているわけでは、無いから」
と言って、ちょっと悲しそうな顔をした。
お姉さんは、もちろん、僕の本当のお姉さんではなかった。
それどころか、どこからやって来たのかも、誰も知らなかった。
僕の母さんが貸していた部屋にずっと前から住んでいて、僕はお姉さんを、本当のお姉さんのようにして、育った。
お姉さんのことを、悪くいう人もいた。
夜の仕事というものが大人達には印象が悪いようだった。
でも、母さんは、昔から住んでいるお姉さんの本当の人の良さを知っていて、そんな大人達とは見方が全く違っていた。
お姉さんと僕ら母子は一緒にご飯も食べたし、よく一緒に旅行にも行った。
お姉さんにはすごく借金があって、お姉さんがあんまりいい人だから、母さんはそれも、少し手伝おうとしたようだったけれど、お姉さんは決してそれには手を出させなかったそうだ。
それどころか、家賃も最初に決めた額を毎月きっちり払っていた。
そんな事情を知ったのは、もっと後のことだ。
僕にとって、物心ついた時からそばにいるお姉さんは本当のお姉さんと変わりがなかった。
「ユウキ、」
空を見上げていたお姉さんは、僕の方に目を向けて話しかけた。
「将来、なりたいものって、もう決めてる?」
「海上保安官」
僕は映画を見て、その職業に憧れていた。泳ぎが得意だと言うことも生かせそうな気がしていた。
でも、お姉さんはその答えを聞いても、あまりうれしそうではなかった。
「確かに、かっこいいけど...。人を守る人は、人に縛られるのよ。ユウキはそれに憧れる?私は、ユウキにはもっと違った職業が向いているような気がするけどな」
「じゃあ、何?」
気に入っていた考えを否定された気がして、僕は少し機嫌が悪かった。
「フリーダイバー」
お姉さんは、真面目な顔で言った。
「酸素ボンベも背負わずに、体一つで深い海に潜っていくの。光りの届かない、世界で最も静かで、透き通った蒼い闇の底。海は敵ではなくて、他人も関係ない。地球や、自分自身との会話を続けながら、潜っていくの。誰も到達したことのない、深い深いところへ」
「それって、職業といえるの?」
僕は気になって聞いた。
お姉さんは、少し困った顔をしていた。
「職業といえるか解らないけれど、一つの生き方ではあると思う。自分の可能性を、追い求める仕事ね。...ユウキにはそう言う仕事についてもらいたいな」
僕は、それでも、フリーダイバーを目指そうという気にはならなかったけれど、お姉さんが僕に求めていることは何となく解った。
蒼い静かな闇の冷たさを身に感じながら深い海の底へ一人潜っていく自分の姿を僕は想像した。
そのそばには、真っ白な長い手足を持ったお姉さんが連れ添って潜ってくれていた。
いつも、何をするにも、見守ってくれる人を当たり前のように想定していた。
孤独と言うことが、当時の僕には、まだ想像できなかったのかも知れない。
...でも、その孤独は期待していなかったかたちで、全く無慈悲に訪れた。
お姉さんは、首を吊って死んでしまった。
川辺で二人並んで話してから、そう幾日も経たないうちに。
二人で話した時にはお姉さん自身もまだ知らなかったのかも知れないが、おなかには、誰かの赤ちゃんがいたと言うことだった。あの頃のお姉さんはいろいろ、他に病気も持っていて、体はもう、ぼろぼろだったらしい。
そばにいたはずの僕は、結局、何も出来なかった。
誰も到達したことのない深みに潜っていくダイバーを、
追いかけられるものは誰もいない。
心はあまりに深すぎて、潜るにはあまりに危険なのに、たとえ、そこで溺れてしまった人を見つけたとしても、他人の心の海に飛び込んでまで助けることが出来る人など、この世界にはいないのだ。
僕は海面に浮かんで、沈んでいこうとする危険な、あまりに小さな、真っ白なお姉さんの手足を見つめていることしか、出来なかった。僕を何度も抱きしめてくれた、あの白くて温かな手が、目の前を沈んでいくのに。
夏の太陽が、一人川辺に佇む僕の皮膚をじりじりと焼いている。
本当に、雨の少ない夏だった。
僕は、空を見上げた。
お姉さんのいない夏の空は、いつ見ても寂しかった。
お姉さんがいなくても、空が青いということが、僕にはどうしようもなく悲しいのだ。
2008年12月5日金曜日
夢
もう、幾度となく過ごしてきたクリスマスの、誰も買ってくれたことのないプレゼントとして、孤独な男が自分自身に買い求めたものは、小さな、少女の横顔の描かれた肖像画だった。
名のある画家のものではなく、無名の画家が40年ほど前に描いた絵であった。当時、これを描いた画家はすでに30代も終わろうとしていたが、描いた絵は全く売れていなかった。
己の才気を信じ、大都会で成功しようと意気込んで田舎を出てきたこの画家も、この絵を描いた頃には自身の才能をすっかりあきらめており、生まれた故郷に引き込んで両親と共に田舎暮らしをしながら、身の回りの何気ない風景を思うままに描く様になっていたのだという。
皮肉なことに、この画家の作品は、こうして己の才能に見切りを付けた後の方が一層瑞々しく、評価も高いのだそうだ。
「若い頃は誰でも、自分の身の丈を間違うものです」
この絵を売ってくれた温厚な画商は、丸くはげ上がった頭を撫でながらそう言った。
「自分の仕事、と言うものが誰にもあるはずなのですが」
この画商によれば、この絵のモデルとなった少女は、画家の姪御らしいと言うことだった。
フランスの田舎の娘であるらしい少女の横顔からは、まだ青いブドウの房の甘酸っぱい匂いが漂ってくるようで、男はそれを落ち着いたベージュ色の壁につり下げながら、微笑んでしまわずにはいられなかった。
絵の中の小さな少女は、その手の中に、もっと小さなティディベアの人形をしっかりと握っていた。その瞳は何を見ているのだろうか。向いている方向には大きな窓があるらしく、少女の青い瞳や表情が、明るい光りを浴びて輝いていた。
こうした少女の表情に、男は何処かで出会った気がしていた。しかし、それがどこであったのか、またいつであったのか、彼はついぞ思い出すことが出来なかった。
この絵を買ってしまったのも、この絵を気に入ったというのももちろんだが、何処か懐かしいような、不思議に引き込まれるようなものを感じたからであった。
「青い瞳の少女なんて、今まで海外旅行にでも行かない限り見たこともなかったのに」
男は独りごちた。
「...どうして、乞うも懐かしいのだろう。」
男は、キッチンの奥の小さな冷蔵庫を開け、冷えたビールの小瓶を取り出してきた。そして、手近にあった栓抜きで栓を抜くと、コップにも注がずに、それを飲み下した。
絵の中の少女は、彼女しか知らない窓の外を食い入るように見つめている。
男が見つめる先で、少女がクマの人形を握る手の力の強さを、男はふと感じた気がした。
男には、子供がいなかった。
子供どころか、彼には家庭というものが未だに無かった。
結婚というものを、考えたことがなかったわけではない。
節目節目で、場合によってはそれからの人生を共にしかねなかった女性には何人も出会ってきた。
それでも、男は結局彼女らと運命を共にすることはなかった。
面倒くさかったからかな。
男は時々、考えることがある。
仕事が思ったより早く、片付いてしまった帰り道に。
つまりは、面倒くさかったからだ。
関係を構築し、お互いのスケジュールをより合わせ、そして好き嫌いを妥協し合って、ふたり間をとりとめもなく割り算していくような、その作業が。
そもそも、それまで培ってきた20年を越える人生を、知らない他人と分かち合おうなどと言うことが、男には気の遠くなるような、無意味な行為に思えていた。
俺には、今が大切なんだ。
彼には解っていた。
何よりも、今が。
しかし、彼にも夢見たことが無かったわけではない。
小さくても、確かな生活。
慎ましい家庭。
むしろ、孤独な時間を人一倍長く過ごしてきた男にとって、こうした夢想は日常生活の一部ですらあった。
朝日を浴びた白い皿を彩る、緑色のレタスや、スクランブルエッグ。
真っ赤なトマト。
コーヒーの香り。
トーストの香ばしい焼き加減。
忙しい朝に、子供の声、そして、その母の声....。
男は、いつもそこまで考えると、自分の愚かさに、思わず笑ってしまうのだった。
そして、それを打ち消すかのように、心の内で自分に言い聞かせた。
俺には今が大切なんだ。
何よりも、今が...。
今を大切にしすぎたために、男は一人になってしまったのか。
果たしてこれが、一つの幸せというものの“かたち”であるのか。
まだ夢を見続けていた男には解らなかった。
しかし、彼が時折思い描くような家庭生活を送っている男達のすべてが、その時男が感じるような、甘い郷愁のようなものを、その生活からいつもを感じているかと言えば、そうではないだろうと思っていた。
苦いビールが、喉の奥を駆け抜けていく。
もしかしたら送っていたかも知れない人生が苦みと共に通り過ぎた。
生きていく、と言うことは、あり得たかも知れない未来の可能性を一つずつ、潰していくことなのだろうか。
男は大きく息を吐いた。そして、目の前に掛けた少女の絵を見ながら考えた。
少女が見ている窓の先には、きっと、いつか画家の夢見た希望の未来があるのだろう。
明るい窓を見つめている少女に、画家は、自分は叶えられなかった未来を見出し、託したのではないか。
そこまで考えると、男はふと何かを思いついたように、手に持った茶色の小瓶を近くの背の低いテーブルに置いた。
そして、書斎に入り、2、3の書類を丁寧にしたためた後、それを、それぞれ適当な大きさの封筒に入れ、しっかり封をして、しかるべき宛先を書き入れた。
その作業がすべてが終わると、彼はもう一度、大きく息を吐いた。
彼は、もはや、自分が、未来を次の世代に託すべき年齢になったのだと感じていた。
あのような絵に引きつけられたこと自体、その何よりの表れではないか。
あの懐かしさは、かつての若かった頃の自分の持っていた可能性への、懐かしさだったのだ。
もういい加減、俺は引き時なのだ。男は思った。
可能性にまぶしさを感じるような年になってしまった。
それは、もう自分自身が、光を失って久しいと言うことだ。
夢は十分、追わせてもらった。
男は愛着のある品々に囲まれたほこり臭い書斎の中で一人密かに笑った。
親父は、今頃どうしているだろう。
彼はふるさとへ向けた長い手紙を書きながら考えていた。
2008年11月24日月曜日
あと5分、まって
彼女が、化粧をしている。
僕の家の狭いユニットバスの、湿ったフロアの上に裸足で立って、所々、端っこからさび付いて、茶色い斑点が浮かび上がった鏡の前で、薄い青色のアイシャドーを、まぶたの下端に塗っている。
彼女は鏡に映った自分の顔を斜めからのぞき込むようにしてその青い塗料を、すっかり目尻の所まで、念入りに塗りつけている。
僕は玄関先に立って、その様子を見ている。
僕の方はもう、外出する準備は整っている。
彼女に比べて、僕はいつも軽装。
彼女は、近所のマックにちょっと出かける時でさえも、どうしてこれだけ荷物がいるのだろうと思うほど、いろいろなものを小さな手提げに入れて、そうしてそれを大事そうに左手の手首の上の方にぶら下げている。
化粧もそうだ。
できあがった彼女の顔は、決して厚化粧の方ではないのだけれど、その準備には、なぜだかとても時間がかかる。
シンプルな絵が、決して短時間で完成するとは限らないように、
彼女のメイクもそれだけ念の入ったものだと言うことなのだろうか。
はやくしろよ。
そんな言葉が、さっきから僕の頭の中に聞こえている。
でも、僕は口に出さない。
ありきたりな、お父さんのようなキャラクターには、染まりたくないから。
優しい彼、でいたいから。
でもそれは、僕の本当の姿なのだろうか。
僕はいつも自問自答している。
偽った僕の優しさを、彼女が僕の本来の優しさだと勘違いしているとしたら、そのまま、この関係が発展してしまうのは、危険じゃないだろうか。
どうせなら、偽らざる、醜い僕を、
彼女には好きになって欲しいけれど。
偽る、と言えば、彼女は、今、僕の前で、化粧しているが、
あれは、誰のための化粧なのだろう。
僕は、彼女の、ちょっと素朴な感じのする、素顔を知ってしまっている。
現代的なメイクの下の、そんな愛らしい素顔を知っている僕の前で、ああして念入りにメイクする彼女の行為の理由を、僕は知らない。
もしかするとあれは、僕以外の、他の誰かのために、メイクしているのだろうか。
そう考えると、軽い嫉妬を覚えてしまう。
大切な素顔は、あなたのために、取っておいているのよ
昔、そんな映画の台詞があったけれど、それならば、もっと適当でもいいだろう。
何が、彼女をあそこまで、念入りにメイクさせるのだろう。
ごめん、ちょっと待っててね。
斜めから鏡をのぞき込む、彼女の瞳が一瞬僕の方を向いた。
僕の贈った耳元の白いイヤリングがそれに併せてちらりと揺れた。
昔、幼かった頃、
母が何処かに出かけるために、化粧を始めると、
僕はなんだか不安になった。
化粧はそれ以来、僕にとって、
そばにいて欲しい大切な人が、自分から離れてしまうような
切ない幻想を抱かせる。
化粧をした母に、僕は泣いたものだった。
そうして未来に、怯えたものだった。
「お待たせ。」
すっかり準備の整った彼女が、美しい睫毛を交差させて、にこりと笑った。
そのまぶたには薄く引かれた青い影。
彼女が遠くに行ってしまうような、そんな幼いおののきを覚えて、
僕は差し出された彼女の手を、待ちくたびれた手で、しっかりと握った。
2008年11月22日土曜日
笑顔
しんしんと降り続く雪の中、男と少女は、雪深く沈んだ原野の上を、ただひたすらに、北を目指して歩いていた。
すでに、民家の建ち並ぶ住宅街を越え、未だ開発も行われていない裏山に、二人は入り込んでいた。2月を過ぎ、雪は二人の膝下位まで積もっていた。誰も歩いた形跡のない、ふわふわとした新雪の上を、赤い上着を着た少女に手を引かれるようにして、暗い灰色のコートに身を包んだ男が進んでいった。
「どこまで行くつもりなんだ。」
雪の中、腕を引かれた男が少女にたずねた。その声は少し、苛立っているようだった。
「....もっと上の方まで。」
少女はそう言うと、目を細めてにこりと笑った。
白い雪の中に融けるような笑顔であった。
少女は男の実の娘ではなかった。
亡くなった妻の連れ子だった。結婚した当時で、すでに小学校5年生になっており、性格的にすっかりませていたこともあって、それから5年もたった今になっても、彼のことを一度も「お父さん」と呼んだことがなかった。
彼女自身、元の、本当の父親によほどの愛着を感じていたらしかった。
実の父と母が離婚し、男と再婚するために、母と、遠く離れたこの街に引っ越してきた後になっても、男がいない時には、事あるごとに、そのことで母を詰っていたようだった。
しかし少女は、男の前では決して、そのような素振りを見せなかった。
普通の娘として振る舞い、男に対しても屈託のない笑みを振りまいた。
そんな少女に、男は、何処か掴み所のない不気味さを感じながらも、自分の愛する妻の娘として、惜しみなく愛情を注いできたつもりだった。
そんな折、つい先日、彼が愛してきた妻が、突然の病で亡くなってしまった。
少女の嘆き様は、痛々しいほどだった。
この世の終わりでも来たかのように、少女は母の棺にしがみついて大声を上げて泣いた。多くの参列者が、それを見て、思わずもらい泣きをしたほどであったが、妻を失った当の男一人は、少女のその様子を見ても、泣くことができなかった。
俺が死んだ時、この娘は、これほど悲しんでくれるだろうか。
式の間中、男の脳裏にはそんな疑問がずっとわだかまっていた。
実の母ほど、泣いてくれなくても構わない。
でも、娘となった少女に、これまで惜しみなく注いできた愛情の分だけでも、せめて、この子を置いて去った元の父親よりは、大切な存在であって欲しい。
心の内で男はそう、切に願っていた。
男のこの願いは、しかし実際には、確かめようのないことだった。
式が終わると、少女は、いつものように屈託のない笑みを、男に返してくれた。だが、そうなってしまうと、その笑顔の奥にある少女の本来の気持ちなど、男にはもう計りようがなくなってしまうのだった。
笑顔ほど、空恐ろしい表情はないな。
男は時々、思うことがあった。
どんな感情も、覆い隠してしまうことが出来る。
わざと泣くことは難しいが、わざと笑うことはたやすい。
男は、年を増すごとに美しくなっていく少女の微笑みを見ながら、つかみ所のない彼女の本心をどうにかして聞き出したい欲求に、いつもに駆られていた。
「裏山に行こうよ」
大雪の降った朝、少女が、突然そう言いだした。
それを聞いて、男は始め、何かの冗談かと思った。
しかし、彼女はとぼけた様子もなく、もう一度強く、そうせがんだ。男にはこれと言った理由も分からなかったが、彼女に気圧されるようにとりあえず身支度をして、同じように厚く重ね着した少女と共に、深く雪の積もった裏山に出かけて行った。
二人連れだって裏山に行く理由を、少女はなかなか教えてくれなかった。
何度たずねても、はぐらかすように笑うだけで、
その足がついぞ止まることはなかった。
少女の足取りは、明らかに、散歩のたぐいではなく、何か明確な目的を持っていることを感じさせるものだった。
そうして、もう小一時間も歩いただろうか。
男の言葉に耳も貸さず、ひたすらに斜面を登っていた少女が、もうじき山頂というところの
南を向いた斜面の上で、突如ぴたりと歩みを止めた。
「柳瀬さん」
少女は言った。
「なんだい。」
男は答えた。
「柳瀬さんは、どうしてお母さんと結婚したの。」
歩き疲れてうつむき加減だった男の顔が、不意の質問に驚いたように少女に向けられた。
雪の中に一層白い少女の頬が、生真面目に引き締まって、黒い瞳が野ウサギのように、じっと男を見すえていた。
その強い眼差しに耐えきれず、男の瞳は思わず一瞬、宙を泳いだが、
「...君のお母さんが好きだったからだよ」
俯いて、男はようやく、呟くようにそう答えた。
「それだけじゃ解らない。」
怒りを込めた口調で少女は言った。
「みんな、ありきたりの答えばっかり言う。誰も本当のことは話してくれない。...お母さんに言っても、おじいさんに聞いても、答えるのはそればっかり。柳瀬さんは、お母さんを好きだったんじゃないか...。...私は、そこまで子供じゃない。本当の理由は、何?」
町を離れた裏山に、他に人の気配はなかった。苛立ちと怒りに満ちた少女の声は、周りの深い雪に吸い込まれ、消えていった。
少女は、ずっと、この時を待っていたらしかった。
他人の目を気にせず、この男に、自分の中に長年わだかまっていた感情をぶつけられる、この大雪の降った日を。
それは、普段娘を演じてきた少女がみせた、初めてのあからさまな反抗だった。
観客のいない舞台に響く、役者の生々しい肉声であった。
男は、少女のその、強い口調で言い放たれた言葉を受けても、ただ小さく、悲しげに笑うのみであった。
それは少女の幼さに笑っているのではなかった。
なんの理由も答えられない自分に、ただ笑っていたのだった。
男は、本当に彼女の母が好きで結婚しただけだった。
それまで、積み上げてきたもの、ほとんどすべてを捨てて、男は彼女の母と結婚した。しかし、彼にそれほどの行動を取らせたのは、単に彼女に対する情熱にも似た感情だけであって、何らかの、明快な理由など、そもそも始めから存在していなかった。
彼女に、それをどう説明したらいいのだろう。
男には解らなかった。
大人の方が、時に子供よりも、理由のつかない行動に身を任せてしまうと言うことを、この時期の少女に教えることは、少し酷なような気がしていた。
「...何か、おかしいの?」
少女が気味悪そうに聞いた。
「...いや。...なんでもない。」
男は答えた。
「...君は、僕のことを嫌いか?」
「...そんなこと。」
少女は答えに詰まった。
「いや、それなら、それでいいんだ。...考えてみれば、父親とは、そう言う役目なのだから。」
男は手近なところから掌いっぱいに雪を取ると、それをさらさらと零して見せた。
「雪というのは何かに似ていると、ずっと思っていた...。それが、ようやく解った様な気がするよ。」
そう言って、男は笑った。
「表面に出して醜いことは、みんな笑顔の下に眠ってる。でも、それでいいんだ。笑顔の下など、本来、どう知りたいと願っても見れるものではないのだから。」
男はそう言うと、南の斜面から、彼らの住む町を見下ろした。
深い雪に沈んで、町は一時、沈黙しているように見えた。
普段の喧噪も、諍いも、その風景からは些かも感じられなかった。
「...きれいなものだ。雪が降っただけで。」
男はぽつりと呟いた。
少女は未だ、硬い表情を崩してはいなかった。
男はそれに気がつくと、自身の表情を和らげて、言った。
「俺に対して、どんな感情を抱いていても構わない。...ただ、見せかけだけでもいいから、今までのように笑っていてくれないか。娘、として。...俺は、それ以上は求めないから。」
少女は困惑しているように見えた。
まだ、難しいことなのかも知れないな。男は思った。
男と少女は、それからすぐに山を下りた。
彼らの歩いた後には、来た時と同じように、何もない雪原に、大きさの違う二列の足跡が、長く長く、残されていた。
しかし、それは少なくともたった一つの点で、彼らが山に登ってきた時とは異なっていた。
男の大きな足跡から、少し離れるようにして、少女の小さな足跡が、転々と続いていたからである。
2008年10月25日土曜日
クスリ
どこに行けばいいのだろう。
女は一人途方に暮れていた。
知らない田舎のはずれの無人駅。
すでに通る列車もなく、辺りは静まりかえっている。
女は死に場所を探していた。
死ぬのならば、誰も知らない、どこか遠くで、ひっそりと死にたいと思っていた。誰からも振り向かれることの無かった己の人生に、それが一番相応しい最後であると、彼女は思っていた。女はふと、手に提げた小振りのボストンバックを見た。中には、少々のお金と、そして、両親と、何人かの友人に当てた遺書が入っていた。遺書を残した友人のうち、一人はかつて、彼女が本気で恋をした男だった。しかしそれも、今となっては遠い昔の話で、おそらく彼も今頃は、別な女性と、幸せに暮らしているのだろうと、彼女は思っていた。彼女からの遺書が、万が一にでも、彼の元に届いたら、彼はきっと、迷惑するかも知れない。彼女は遺書を書きながら、ふと、そんなことを考えもした。
しかし、結局、遺書は書いてきた。
どうせ、死ぬのだから。
それで、この小さなわがままの一つ位、許してもらえたっていいのではないだろうか。
死と引き替えに、たった一通の手紙を残す。
それもなんだか不釣り合いな気がしていた。
彼と付き合ってさえいれば、そんなこと造作もなかったはずなのに、今のわたしにとって、この一通分の思いを伝えるのが、なんて難しく、つらいことなのだろうか。
女はそれを思うと、今彼と付き合っているであろう、見知らぬ女を恨みもした。
でも、それもすぐに止めた。恨み辛みを抱えたまま、己の死に際を、醜悪に終わらせたくはなかった。
せめて、散り際だけはさらりと、逝きたかった。
自殺の理由は、特にこれと言って無かった。何か特定の原因と言うよりも、いろいろな不安が押し重なって、彼女を死のきわまで追い詰めていた。生きるのが、嫌になった。そう言うのが一番正確なのかも知れない。生きていても、楽しい事なんて、期待できないのかも知れないな。彼女はそんな、脱力感にもにた思いに囚われたのであった。
彼女の持ってきた荷物の中には、多量の睡眠薬が入っていた。
首をつることも、海に飛び込むことも考えたが、苦しまずに死ねる方法を考えて、これにした。
実際、本当に苦しまずに死ねるかどうか、死んだ人が教えてくれるわけでもないので、知りようがなかった。ただ、テレビや映画では、みんなまさにに眠るように死んでいくような描かれ方をしていたし、死に際も醜くなる心配はなさそうだった。高いところに昇るのは怖かったし、怖じ気づいてしまうだろうという予測があった。首をつるのも、目玉が飛び出るほど苦しむという話を聞いていて、考えただけで吐き気がした。
彼女は鞄を開け、睡眠薬の入った小瓶を取り出した。
それを掌で暖めるように押し抱きながら、しばらく佇んでいた。
この小瓶を手に入れてからずっと、彼女は不安になるごとに、この瓶を抱いていた。
これを飲めば、いつでも楽になれる。
そう思うと、不思議と心が静まった。死ぬために買った薬で、これまで生き続ける事になろうとは、彼女自身、思っても見なかった。もしかすると、彼女に不安をもたらしていたのは、出口のない毎日であったのかも知れない。毎日というものから、脱出する出口を見出すことで、なんにせよ彼女は、その不安を軽くすることが出来た。
これで、この毎日も終わる。
彼女は辺りを見渡すと、誰もいない駅の待合室が目についた。ここなら、次の日の朝には、彼女の遺体を誰かが見つけてくれるだろう。ひっそりと死にたいとは言っても、誰にもその死を伝えたくないというわけではなかった。わたしは悩み抜いて死んだのだ。そのことを、一部の人には確実に伝えておきたかった。
彼女は、待合室のベンチに腰を下ろした。夜露に濡れたプラスチックのベンチは、座るとひやりとした。
彼女はそっと小瓶の蓋を開けた。そして、ありったけの錠剤をその掌に載せると、微かに微笑んでそれを飲み下した。
次第に、世界が揺れていく。
目の前はやがて真っ暗になった。
明くる日、まだ太陽が昇りきらないうちに、彼女は目を覚ました。
太陽は、真向かいの大きな山の頂から、赤く眩しい光りで、地上を照らしていた。
彼女は、のそりと起き上がった。頭が、がんがんしていた。
喉も少し痛かった。
おそらくは、風邪を引いたのだろうと思った。
こうして死ねなかった女が、どこへ行ったのか、誰も知らない。
ただし、彼女がもう一度、自死を試みたことだけはなかったと思われる。
彼女の去った後の駅のくずかごには、破り捨てられた彼宛の遺書が、
くしゃくしゃに丸められてうち捨てられていた。
2008年10月15日水曜日
ゴンドラ
この恋の先に、一体、何があるって言うんだろう。
わたしには、それが見えずにいた。
彼との時間は楽しかった。どんな些細なことでも笑いあえたし、二人の間にはなんの問題もなかった。
彼は優しく、頼りがいがあり、仕事もきっちり出来る人で、申し分のない男だった。
わたし達は、言うまでもなく「順調」だった。
でも、「順調」という言葉は、そもそも何が「順調」だというのだろう。
まるで二人の関係が、すでに行き先が決まっている旅のようで、そうしていずれ、決まり切った過程を経て、行き着くところへ行き着くとでも言うような...。その道すがら、わたし達は「順調」だというのだ。
まるで、わたしが、彼の運命を縛っているようにすら感じてしまうその「順調」と言う言葉。
進めるべき所に、進めているのは彼?それとも、やはりわたしなのだろうか。
ときどき、わたしは思うのだ。
彼は、この、私達の関係を、どのように考えているのだろう、と。
彼は、わたしの前ではいつも饒舌に、そして時々冗談を交えながら、陽気に振る舞ってはくれているけれど、その笑顔の下の本心には、何か、全く違うものが隠れているのではないだろうか。
それを考え始めると、怖くなる。
彼が笑えば笑うほど、その表情の下にもっと暗い何かが立ちこめているのが見えてしまいそうで、わたしの笑顔は硬くなる。
実際には、それは心配のしすぎなのかも知れない。
彼はいい人だし、これまで、そんな暗い兆候なんか、わたしの前では一度だって、見せたことはなかったのだ。
ただ、どうしてなのだろう。
彼が笑うと、わたしは不安になる。
幸せにならなければいけない場面で、わたしは思わず、尻込みしてしまうのだ。
いま、彼が朝のトーストを用意してくれている、ほんの僅かな時間に、
わたしはこの文章を書いている。
昨日も大分遅くまで仕事をしてしまったから、明るい窓から差し込む朝の光が、目に灼けるように眩しい。
カーテンは彼の好み。うすく、透き通るようなブルー。
庭のコスモスの淡い赤が、その色によく映えるように、彼は計算していたらしい。
わたしにはもったいないぐらい、出来る人だ。
昔、わたしが彼に、今のような不安をぶつけた時、彼はわたしをじっと見て、
僕は君を必要としている。
と、はっきり言ってくれた。
わたしは、その言葉を信じている。
なんの根拠もない言葉かも知れないけれど、他の誰でもない、
彼の言葉だし、わたしは信じてみたい。
でも、同時にわたしには分からないのだ。
一体、彼のどこに、わたしが必要だと、いうのだろう。
彼はあまりに、よくできた人なのだ。
わたしなどがいなくても、おそらく彼は十分にやっていけるだろう。
それなのに、「わたしが必要」とは?
たぶんわたしが恐れているのは、その不可解さなのだ。
かれが、わたしの何を必要としているかが分からないから、わたしは始終、彼を恐れている。
もしかして、彼の意に沿わない何かを、わたしはしてしまうんじゃないか。
あるいは、わたしの唯一、彼が必要としている「よい点」を、わたしは何時しか、失ってしまうのではないか。
そうなってしまうことを、わたしは恐れている。
彼が、帰ってくる。
今日も、優しく笑っている。
わたしも笑い返そうと思う。
今日も、綱渡りの
甘い一日
2008年10月4日土曜日
カスク
こいつは、何時か俺を裏切るに違いない。
男と並んで隣を歩いていた女が、親しげに腕を組んできても、男の心の中からそうした思いが消えることはなかった。手を握ること、腕を組むこと、口づけをかわすこと、夜を供にすること。そうした、物理的な二人の交差は、決して二人の行く末の安泰を保証するものではないことは、男は長い経験のうちから知っているつもりだった。むしろ、そうした事実の積み重ねを急ぐような恋愛は、得てして、短命に終わる。男はそう考えていた。
決して、恋愛経験に乏しい男ではないにもかかわらず、未だに、うち解けたつきあいの出来る女を得られずにいることが、彼のすべてを物語っていた。それは、これまでの彼の恋愛が、仮に物理的な経験は十分にあったとしても、最後は心理的な行き違いで、後味の悪い感情だけを残して終わっていたことに、そもそも起因していた。
どの恋愛も、最後は裏切りで終わる。
それが、男がこれまでの経験から得た結論だった。
友達で終わるとか、きれいに別れる、などというのは、建前もいいところだ。
それは、そもそも始めから恋愛関係ではなかったのだ。
憎しみの伴わない愛が、どこにあるというのだろう。
相手に、自分の理想を抱けば抱くほど、その理想と現実とのズレが、いずれ憎しみとなって吹き出してくる。
それがない愛など、相手に理想を抱いていないも同然ではないか?
傍らの女は、男の腕にしがみついたまま、ひたと身をすり寄せてきた。
男は、感情のこもらない目で、女の顔を見た。女の目は彼を見ていなかった。
ただ前だけを見ていた。しかし、男から見られていると言うことは明らかに意識しているようだった。
男は何も言わず、ただ溜息をついた。
用事があるから、と適当な理由を付けて女と別れた後、男は一人街を歩いた。
何か当てがあるわけではなかった。ただ、女と歩くのにうんざりしただけのことだった。
俺にはそもそも、こういうのは向いていない。
男はそう感じていた。
街は次第に暮れ始めており、西の空深く太陽はは沈んで、薄赤い残光が夜の縁を照らすのみだった。
男はその太陽の残り火を求めるように歩きながら、ネオンの明るく灯り始めた街の中を一人歩いた。
「いらっしゃい」
手近な一軒の店の入り口をくぐると奥から声がした。金属の呼び子が、からからと音を立てた。まだ店は開いたばかりのようで、男の他に先客は客は誰もいなさそうだった。
「お一人様ですか」奥の方から、店の主らしい女の声がした。太く、枯れた女の声だった。
「ええ」
男は端的に答えた。
「では、どうぞお好きなところへ」
男は足の赴くまま、店の一番奥のカウンターテーブルの端に腰を下ろした。
よく磨かれた質朴なその机は、店の穏やかな白熱灯の間接照明を受けて、鈍い輝きを放っている。
「何にいたしますか」
店の主の女が、カウンターの奥から男にたずねた。女はこちらを真っ直ぐに見ていたが、暗さに目が慣れないため、表情までは読み取れなかった。
「タリスカーは、ある?」
男はなじみの酒の名を呼んだ。
「ええ。水割りでよろしいですか?」
「ダブルで」
男はそう簡単に答えると、差し出された手ぬぐいをそっと目に押し当てた。
どうしようもなく、疲れた気がしていた。
あの女と歩いた2時間は、彼に徒労以外の何物をも残さなかったと思うと、自分の人生のほとんどは、疲れるために生きているような気さえしてきて、彼は自分の32年間を無駄多いものとして実感するほか無かった。
もっと効率よく、生きる道もあったはずだった。
それが、どうしてこう、徒労の多い生き方を選んでしまったのだろう。
男は目に厚い手ぬぐいを押し当てながら、ふと笑った。
そして、何事もなかったかのようにそれを傍らへ退けると、差し出された冷たい酒を喉に流した。
男は通しとして差し出された小鉢の和え物を竹の箸でつまんだ。
何処か懐かしい味のする、牛蒡と人参の和え物だった。
「うまいな」
男はふと、独りごちた。
人気のない店内に、男の声は静かに響いた。
「気に入っていただけました?」
女は控えめに男にたずねた。ようやく目が慣れて来た様子で、男はその女の表情を灯るような薄明かりの中、はっきりと見ることが出来た。そして、はっと息をのんだ。
「気に入っていただけた?もう、10年にもなるものね。」
女はそう言うと、恥ずかしそうに目をそらした。
紛れもなくそれは彼がかつて恋した女だった。
よく見れば、見間違うはずもなかった。顔つきも、表情も昔のままだった。
しかし、10年の間に彼女の雰囲気はすっかり変わっていた。
和服を着て、しっかりと化粧をした彼女を彼は見たことがなかった。それに、声も昔よりは幾分低くかすれているように感じた。
「私は、変わってしまったでしょう」
女は眉を下げて困ったように笑った。見覚えのある表情だった。
「十年は、長いものね。でも、あなたは全然変わらない」
「こんなところで働いていたのか。」男はようやく声を出した。
「大学を出てから、君だけ連絡がつかなくなっていたと聞いたが...。」
「わたしは、私を捨てたのよ。」女は困ったような笑顔のままで言った。
「大学時代に見聞きしたものも、それまでに培ったものも、あなたとの思いでもすべて...。そうしないことには生きられなかったから。」
女は、手元の水割りを、マドラーで静かにかき回した。
乾いた氷の音が心地よく耳に届いた。
「あれから、何があったんだ?」男がたずねた。
「俺と別れてから、何が?」
「...何もなかったわ。何も。取り立てて、言うようなことなんか」
女は静かに言った。かすれ気味の声が、言葉じりを匂うように煙らせた。
男も、聞く言葉を失った。
そして、手元の酒をもう一度あおった。
二人は無言のままそれから半時ばかりを過ごした。
男の脳裏には、女の過去に対する疑念が次々に浮かんできたが、男はそのつど、浮かんでくる言葉を酒とともに飲み込んでいた。
男は、自分には彼女の別れて後の人生について、質問する権利を持たない気がしていた。傷を負い、傷を負わせた者の、それが最低限の慈しみのように、彼は思っていた。
女は男が酒を飲み干すと、無言のうちに同じものを差し出した。
それが、彼の無言の質問への彼女の答えなのかも知れなかった。女は慣れた手つきで、その行為を何度となく繰り返した。
二人の視線はその間、度々交差した。
しかし、その手が触れあうことすら、ついぞ無かった。
それは、男が幾杯目かのグラスを開けた時だった。
「....あと、30分もすると、別なお客が入ってくるわ。」
それまで黙っていた女が突如、口を開いた。
「...その前に、帰った方がいい...。...あなたは、見ない方がいいと思うわ...。」
男はなおも無言であった。
が、女の言葉に答えるかのように、最後のグラスを干してしまうと、席を立ち、
勘定を済まして店を出た。
「ちょっと待って」
男が店の前から立ち去ろうとした時、女が呼び止めた。
「これを」
女は一枚のハンカチを男に差し出した。
「昔、私が、他人に言われたことが悔しくて泣いた時、あなたがくれたの。私の...、お守りのようなものだった。すべてを捨てようとして、結局何も捨てられずにいる私の象徴だった...。私は、これを見ていて、私を許せたの。何も、変わっていないような気がする時、何かが、変わってしまったような気がする時、このハンカチが、私を元の私に、引き合わしてくれた。」
女は目を細めて微笑んだ。
「でも、もういいの。私は、私の道を見つけた。私はこれからも変わっていく。でも、私を失うことは、もう無いと思うわ。変わり続けても、変わりきれないものだと気づいたの。どうしても動かせない部分が、人にはあるのよ。...他人はそれを、不器用と言うけれど。」
男は、その言葉に、何かを言おうとした。
しかし、女はそれを遮るように続けた。
「あなたとは結局けんか別れしちゃったけれど、私にとっては最後の恋らしい恋だった。あなたのおかげで、いっぱいいっぱい、いろんな事を知った。...ありがとう。それだけは、言いたかった。」
そう言うと、女は昔のように、片手を上げて、小さく遠慮がちに手を振った。
男は無愛想な表情のまま、それでも軽く頭を下げた。
角を曲がって、女の姿が見えなくなってから、男は女のくれたハンカチを、まじまじと見た。
飾り気のない、暗いトーンの格子柄の、男物のハンカチだった。それは確かに、彼のものだった。女はそれを、肌身離さず持っていたのか、裾はすっかり擦り切れて、ぼろぼろになってしまっていた。布地からは、先ほどの女と同じ香水の匂いがした。彼の知らない彼女の香りだった。
彼の背後から、先ほどとは違う調子の女の声が、微かに男の耳に触った。
男はその声を聞きたくなかった。早足で逃げるように、ビルを出て、ほの暗い通りに出た。
通りでは幾組もの男女が、腕を組み、あるいは手を繋いで、親しげに通りを行き来していた。
男はその中を、両の手をポケットに突っ込んだまま、やや前かがみに、足早に通り抜けた。
男は行き交う群衆の中で、寂しい、と感じた。
裏切りのリスクを背負ってでも、誰かと繋がろうとする寂しさを、
彼は初めて、理解したような気がした。