……それから、眞菜は彼の前に姿を見せなくなった。
メールしても、返事が返ってこなかった。
電話をしようとも考えたが、もしも受け取ってくれなかったらと思うと、怖くて出来なかった。
賢治は、かろうじて繋がっていた眞菜との一本の細い絆が、ぷっつりと、あまりにあっけなく途切れてしまったのを感じていた。もう何をしても、彼女には届かないという絶望感が、底冷えの夜のように、静かに、彼の体温を奪っていくような気がしていた。
そうして梅雨は明け、季節は夏になった。
「……ねえ、賢治」
薫は心配そうに彼を見つめていた。
邪魔になるからと最近短くした髪を、無意識に掻き上げ、片耳を見せた。
「……ん?」
「どうしたの?」
薫は何も言わず賢治のペンの先を指し示した。
キャップが付いたまま賢治はペンを動かしていた。
「……考え事?」薫は心底心配しているようだった。
「なんか賢治……。時々そうなるよね。大抵、月曜日に。……休日に何かあるの?」
「……なんでもないよ」賢治は笑顔を取り繕って見せたが、薫の表情は晴れなかった。
「なんか心配事があるんなら、私にも相談してよ。……賢治が勉強はかどらないと、私もはかどらないんだから」
「……ごめん」
賢治は素直に頭を下げた。
考えてみれば、彼女が言うように、彼の様子がおかしくなるのはいつも月曜日だった。
それは、眞菜から連絡があるのではないかと期待して、週末を迎え、そしてなんの音沙汰もないままに週末が開けてしまうからに他ならなかった。今週も、何もなかった。そう言う虚脱感を感じながら、ここ数ヶ月の彼の一週間は始まるのだった。
突然、薫は開いていた参考書をばたん、と閉じた。
「……もういい。……今日は、何処か気分転換に行かない?」
「気分転換?」
「そう。賢治がそんな調子じゃ、私まで憂鬱になっちゃうし」
薫は言った。「……責任、取ってもらわないと」
賢治は何とも答えなかった。
薫と学校以外で出歩いたことは今まで無かったし、眞菜との関係がこじれてしまった今、誰かと一緒にいるところを知り合いに見られでもしたら面倒になると思った。
「……それは、勘弁してくれないかな」
恐る恐る賢治は言った。
「……どうして?」薫は不思議そうに尋ねた。
「どうせ、勉強に集中できないんでしょう?」
賢治はそれ以上何も言わなかった。
薫は黙ったまま、賢治の様子をじっと見つめていた。
しかし、いつまで経っても、彼が、彼女の期待した答えを言わないと解ると、やがて、抑えた声で
「……もしかして、賢治、彼女いるの?」
と、彼女の感じていた疑問の本質を突いた。
「……いねえよ」
賢治があまり真面目な顔で否定したので、彼女は思わずぷっと吹き出しそうになって、
「……いるんだ」と、疑うような目でそう言った。
「ねえ、どんな子?この学校の子?」
身を乗り出して彼女は尋ねてきたが、賢治はもう何も言おうとしなかった。
「……つまんない」
言葉とは裏腹に、薫の表情は明るかった。
「……あからさまに口に出して言えないような関係なら、別に良いじゃない。たまには外、行こうよ」
薫は賢治の右の二の腕に手をかけ、立ち上がらせると、そのまま彼のロッカーの前まで連れて行った。
賢治は為す術もなく、薫に促されるままに帰り支度をし、結局、二人連れだって下校した。
高校のある丘を下って少し川沿いを進むと、一軒のクレープ屋があった。
クレープ屋と言っても本業は釣具屋で、その店の一角の釣り客用の食事スペースでクレープのテイクアウトも出来るというだけの店だったが、高校の近くと言うこともあり、学校帰りの生徒がよく立ち寄る店だった。
賢治はそこに着くと咄嗟に、数人見かけた同じ高校の制服を着た生徒を見渡したが、その中に、彼らのことを知っている者はいないようだった。
薫はそこでイチゴの味のクレープを買った。
賢治はクレープの味など、別にどうでも良かったが、とりあえず無難なプレーンを買った。そして、二人は、つかず離れずの微妙な距離を保ちながら、川縁の大きな橋を自転車を押して渡っていった。
まだ溶けきっていない生クリームが、口に含むとアイスシェイクのようにじゃりじゃりと下に触った。クレープ生地はさっきまで凍らせていたのか、冷えすぎていて、硬かった。
橋を渡りきると、二人は、橋のすぐ傍にあった海浜公園の、手入れのあまりされていない、古い木製のベンチに腰掛けた。公園は町の公民館が管理していて、その一角は陸上のトラックになっていた。夏になり、昼間が長くなったこともあって、下校時間はもうとっくに過ぎていたが、太陽はまだ高い位置にあった。
熱せられたトラックがその向こうに見える海を陽炎の中に浮かべていた。
「……でさ、賢治は結局、彼女はいないの?」
ベンチに両脚をぴんと伸ばした姿勢で座って、薫はまだ、その話題を気にしていた。
「……しつこいぞ。……もういい加減にしろよ」
賢治は不機嫌そうに言った。
「……良いじゃない。興味あるんだから」
薫は怒ったように言った。「そうやって聞かれている内が、華だよ」
「ちっとも、うれしくねえ」賢治は言った。
「……彼女なんて、いないんだよ。本当に」
「……まさか、今まで誰とも付き合ったこと無いの?」薫は驚いたように言った。
「……珍しいね、今時。小学生だって、好きな子くらい、いるじゃない?」
賢治は何も言わなかった。暑さでクレープの生地は少しずつ柔らかくなっていた。
開きすぎた花の花弁のように、その縁はだらしなく垂れ下がっていた。
「……また、そうやって、黙っちゃうんだから」
薫が口をとがらせた。「……ずるいよ、賢治は」
手に持ったイチゴ味のクレープの残った端を、大きく開けた口の中にわざとらしく放り込んだ。
「……賢治がその手なら、私にも手段がある」薫は独り言のように言った。
「……何だよ」気になった賢治が彼女の方を向きもせず尋ねた。
「教えない」薫は向こうを向いたまま不敵に笑っていた。「……絶対、はっきりさせてやるんだから」
海浜公園の向かいは徹さんと涼子さんの勤める病院だった。賢治は、彼らにばったり出くわすのではないかと気が気でなかった。
眞菜はどうしているだろうか。
徹さん夫妻のことをを考えていると、自然に考えは彼女の事に飛んだ。
あれから、全然連絡がない。
こんな事は、初めてだった。
一体、彼女ははどうしてしまったのだろう。
彼は先行きの見えない不安を感じていた。
それまで、眞菜の心の内は手に取るように解ると、彼は感じていた。
病気になってからの眞菜の心情には、たしかに彼のの想像を超える部分があった。しかし、彼女の性格の本質的な部分を彼はしっかり理解していると自信を持っていた。それは身体に染みついている、と言っても良いほど確かな感覚だった。自分が何を言えば、彼女は喜び、何を言えば、嫌がるかを彼はほとんど本能的に感じ取ることが出来た。
彼女はある意味で、彼の一部だった。
それは同時に、彼が彼女の一部でもあることを意味していた。彼が落ち込むような出来事なのであれば、当然のように、彼女も同じ理由で落ち込んでいるはずだった。
眞菜も、仲直りする機会を見失っているのかな。
彼はそう思った。
そろそろ、電話、したほうがいいかもな。
残ったクレープを口に入れながら、賢治はそんなことを考えていた。
その時である。
それはまさに不意をつかれた感覚だった。
彼の右腕を、何者かが、ひしと掴んだ。
見れば、薫の白く長い指が、賢治の二の腕をしっかりと捉えていた。
夏の暑さのせいで、彼女の手はしっとりと湿っていた。
突然のことに、賢治は驚いた。
薫は身じろぎもせず、賢治より少し低い位置から見上げるようにして、彼の表情をじっと伺っていた。彼女の顔は、驚くほど近い位置にあった。指に込められた力は、少しずつ強くなっているようだった。
「……なんだよ」
薫が彼を見つめたまま何も言い出さないので、賢治はしびれを切らした。
彼女の口元が、何かを話そうとしているかのように薄く開いた。
しかし、そこから言葉は漏れては来なかった。
ただ言葉を待つように、その口元は僅かに開いたまま、少しずつ彼に近づいてくるように思えた。
何を……。
賢治がそう言おうと口を開いた刹那、目の前は真っ暗になった。
脣と脣が触れあう感覚がした。
メンソールか何かの涼やかな感覚と、先ほど食べたクレープの乳脂に混じった微かなイチゴの香りが、呆然とする彼の口元を通り過ぎた。
二人の身体は、気がつけば、もう離れていた。
薫はすでに半歩離れた位置に立って、驚きに目を丸くしてベンチに転がった賢治を見下ろしていた。
「……遠くに行っちゃ、駄目だからね」薫は独り言のようにそう言った。「……傍にいてくれなきゃ、困るんだから」
薫は、公園の入り口に止めた自分の自転車にまたがると、賢治の方は振り向きもせず走り去り、そして、その姿はあっという間に見えなくなった。
後に残された賢治は、混乱した頭で、その背中を見送ることしかできなかった。
2009年2月14日土曜日
『カタワラ』:11
2009年2月13日金曜日
『カタワラ』;10
6月に入り、梅雨が本格化してくると、ようやく眞菜の家からビニールシートの前室が取り払われた。
「受験は夏が勝負」という、大手予備校のキャッチコピーに乗せられて、賢治の受験勉強への意識も次第に高まってきていたが、それでも暇を見つけては、眞菜の所に顔を出すようにしていた。
雨は、空気中から、僅かに残った粉塵のようなものまで洗い流してくれたから、雨が降った日は、体調さえ良ければ、眞菜の方から賢治の家に出向いてくることもあった。
「こんにちは」
薄い赤い色の傘を差した眞菜が、控えめに玄関先に現れると、いつも最初に飛びつくのは賢介だった。
「あ、眞菜ねーちゃんだ!」
眞菜を見つけると、彼はいつも大きな声を出し、母にも、賢治にも大仰に伝えて廻った。
外出していた飼い主がようやく帰ってきた時の子犬のような大げさな歓迎に、眞菜は困ったような笑顔を見せながらも喜んでいるようだった。
「賢介君、少し身長伸びました?」
差し出された座布団に膝を突きながら、珍しいものでも見たような目をして、眞菜が賢治の母に言った。
「……そうかしら、いつも見ていると解らないけど」
「伸びてますよ。ね、賢介君?」
眞菜に優しく笑いかけられて、賢介は恥ずかしそうに身をくねらせた。そして、いたたまれなくなったのか、卓の傍を飛び出して、奥の部屋に引っ込んでしまった。
「あ、逃げられちゃった」
「眞菜ちゃんが来て、うれしくて落ち着かないんでしょ」
賢治の母はおかしそうに笑っていた。
「恥ずかしがり、なんだから」
「誰かさん、そっくりですね」眞菜が、隣に座った賢治に目配せした。
「……なんだよ」賢治はぶっきらぼうに、そう答えた。
「ほら」
「ほんとに」
女二人は向かい合って、おかしそうに笑っていた。
賢治はその様子を不愉快そうに見つめていた。
「……いったい何の用で来たんだ?俺は受験生なんだぞ」
賢治がそう言うと、母は、
「……いくら何でも、そんな態度取ることないでしょう」と眉をつり上げて叱った。
「……眞菜ちゃんごめんなさいね。この子は……。眞菜ちゃんの家に行っている時に、ご迷惑かけてない?」
眞菜は首を振った。
「……迷惑だなんてそんな……。親も賢治が来てくれると、とっても喜ぶんです。賢治は、家にいる時、とっても、“素直”、なんですよ」
ね、賢治。とでも言うように、眞菜は含みのある笑みを浮かべながら賢治の方を向いた。
賢治は明後日の方角を向いたまま、顔を合わせようともしなかった。
「それに今日は賢治じゃなく、陽子さんに会いに来た訳ですから。……受験生は、さぞ忙しいのでしょうし」
「それも、そうね」
女二人は、賢治の方を見た。
そしてまた、顔を見合わせて笑った。
賢治は不機嫌そうに口をゆがめていたが、賢介のようにその場を立ち去ろうとまではしなかった。眞菜を歓迎しているという点では、彼も母と同じだったからである。ただ、母親の前で、眞菜にいつものように接するのはいささか照れくささも感じていた。こういう態度を取っても、彼女なら解ってくれる。そういう、古いつきあいだからこそ生まれる甘えのようなものも、彼の中にはあった。
「……ところで賢治、受験勉強は進んでるの?」
陽子に会いに来た、とは言いながら、眞菜は賢治に問いかけた。
賢治は心の中で安堵を感じた。
「……ああ、まあ」口数少なく、賢治が答えた。
「薫さんとの、勉強会は、まだ続いてる?」
「……ああ」賢治が答えた。
「勉強会?同級生と?」賢治の母が驚いたように声を上げた。「……知らなかったわ」
「賢治、お母さんに言ってなかったの?」あきれたように眞菜が言った。「全く、男子って……」
「その薫ちゃんって、女の子?」興味津々で母が聞いた。
「そうみたいですよ」
賢治が答える素振りがなさそうだったので、眞菜が代わりに答えた。
「……まあ、この子は、眞菜ちゃんって子がありながら……」母もあきれた様子だった。
「……うるさいな、そう言う関係じゃないよ」賢治は煩わしそうに答えた。
「あくまで、あれは勉強会。それ以上でも、以下でも無し」
それから、何か一言、まだ言い足りないような気がして、彼はその後にこう付け加えた。
「……それに、眞菜とだって、別に付き合ってる訳じゃ……」
その時、眞菜の表情が一瞬悲しげに曇ったのを賢治は見過ごさなかった。
「まあ、そうだけどね」賢治から顔を背け、突っぱねるように眞菜は言った。
「……そうだけどね」
眞菜の取った態度に、彼は小さな不安を覚えた。いくら眞菜とはいえ、余計なことを言ってしまったかも知れない。不安はたちまち彼の胸の内に広がり、思わず表情に表れてしまいそうになった。
しかし、今が母の前と言うこともあり、弱気を彼女に見せたくない意地が働いて、彼は相変わらず不機嫌そうな態度をとり続けた。
「……一緒に勉強しようって言うから、してるだけだ」
不安に声が震えそうになるのを必死に抑えて、言い訳のように賢治が言った。
「手の届く距離に、同じ目的の奴がいるのは心強いからって言うから……」
「手の届く距離……」
眞菜は、せっぱ詰まった表情で賢治を見つめた。
賢治は彼女の不安げな瞳を通して、その内に、やるせない切実な気持ちが激しく渦巻いているのを敏感に感じ取っていた。
「確かに、今は、とりあえず目標の大学に入るって言う、共通の夢があるもんね」母が言った。
「そのために、手と手を取り合うっていうのも、解らないでもないかな」
「夢……、そうですよね……」
眞菜は小さく呟くようにそう言った。
明らかに、来た時の元気はなくなっていた。
思うようにいかない事態に、彼は焦っていた。
話題を変えた方がいいな。賢治は咄嗟にそう思った。
「……そういえば、眞菜の夢を、まだ聞いてなかったな」
暗く沈んでしまった彼女の表情を少しでも晴らそうと、彼は努めて明るく言った。
「この間の時は、はぐらかされちゃって、結局聞けなかったから。今日は教えてくれよ。眞菜の、夢」
彼女はしかし、その賢治の問いを聞いても、何も言わなかった。
俯いて、じっとしていただけだった。
やがて、その瞳から、ぽろりと数滴の涙の雫がこぼれ落ちたのを彼ははっきりと認めた。
眞菜は悲しみに、小刻みに身体を震わせていた。
「眞菜……?」泣いているのか?
賢治は思わず身を乗り出した、そして、その手をさしのべようとすると、彼女は、きっ、と賢治を鋭い眼差しで睨み付け、差し出された手をぴしゃりと音が出るほど強く払った。
賢治は驚いて、一度差し出したその手を、思わず引っ込めてしまった。
「……どうしたんだ、一体……」
眞菜の泣いた理由が、彼にはすぐに分からなかった。
「……夢、なんて、無いよ」
消え入るような声で、眞菜が言った。
「明日どうなるかも解らない私に、どうして、未来の夢、を見ろ、と言うの?」
眞菜は先ほど見せた激しい気持ちのこもった眼差しを再び彼に向けた。
涙で濡れたその瞳はあまりに強く、賢治は思わず、身体が竦んでしまった。
「今日を無事に生きれるかも解らない……、もしかすると、明日には、私の意識はないかも知れない……。そう言う気持ちで、毎日を生きたことが、賢治にはある?」
眞菜の手が勢いよく、彼女の座った床を叩いた。
「私は、今を生きるだけで精一杯……。それなのになぜ、健康なあなたたちが描くような明るい未来を描け、と言うの?」
眞菜は突然うつむき、左の手で、両の目を覆った。
「夢を持つなんて……、私には、贅沢、なんだよ……。」
彼女は身を震わせ嗚咽を始めた。手首を伝って、涙が肘からぽたぽたと床の上に流れ落ちた。
それを、当然のことのように、言わないで……
声にもならない声で、彼女はそう訴え続けた。
賢治の母が、泣きやまない眞菜に駆け寄って、彼女を抱きすくめた。
ごめんなさいね。あなたの気持ちを解って上げられなかった。
母はそう言って、眞菜の背中を静かにさすっていた。
始めはそれを拒むように身を縮めていた眞菜も、その言葉に安堵したかのように、彼の母に身を委ねた。
賢治はその様子を、どうすることも出来ず、ただ呆然として見つめていた。
差し伸べようとして、強くはじかれた彼の右手が、熱を持ったように赤くなり、じんじんと痛んだ。
……それから、眞菜は彼の前に姿を見せなくなった。
2009年2月11日水曜日
『カタワラ』;9
薫との勉強会は、それからもほとんど毎日続いた。
前半は賢治が得意な教科を教え、後半は薫がそれに代わった。
薫は、賢治が驚くほど、自分の得意な教科は勉強してきていた。彼女は確かに勉強が出来ない方ではなかったが、それでも学校の掲示に張り出される上位成績者に名前が出る方でもなかったから、明らかにこの勉強会のために勉強してきているようだった。
「人に教えなきゃって思うと、なんだか責任感じるでしょう」薫はそう言って、照れたように笑った。
賢治は始め、自分の解る範囲で彼女に教えればいいと高をくくっていたのだが、彼女の努力に気づいて、自分だけ適当に怠けているのが申し訳なくなってきた。
得意な教科は相手に教えられるほど得意に。苦手なものは、せめて、相手が教えてくれたくらいは理解できるように。二人はいつしか気がつかないうちに、相手が自分に注いでくれた熱意の分だけでも、努力するようになっていた。それを思いやりと呼ぶことまでは意識していなかったが、一月も経つ頃には、当初は面倒な同級生と思っていただけの薫に対して、賢治はある種の信頼を感じるようになっていた。
それは、薫の側でも同じのようだった。特に約束しなくても、彼女はいつも放課後、賢治の席のあたりで、彼が掃除から帰ってくるのを待っているようになった。
「あたし達ってさ」ある時、薫が言った。
「ある意味、受験のための協力関係としては、理想的なかたちじゃない?」
「そうかもな」賢治は否定しなかった。
薫がうれしそうに笑った。
「まさに、“パートナー”って気がする。……私が困っているところを、すぐに助けられる距離に賢治がいるから」
そう言った時の彼女は、少し照れくさそうだった。
「いつも近くにいるって、大切な事だよね」薫が言った。
「いつでも手の届く距離に、賢治みたいに気軽に話せる人がいるってだけで、すごく心を強く持てる気がする」
賢治は薫の言葉を肯定も否定もしなかった。だが、彼は内心、彼女と同じ気持ちだった。目的を同じくするものが、すぐ傍にいて、お互いに切磋琢磨しあえると言うことが、どれだけ自分自身を鼓舞するか。不安を押しやり、払拭してくれるか。彼は彼女との、このたった一ヶ月の間にはっきりと知った気がした。
「……まあ、おれに感謝するのは、受かってからにしろよ」
照れくささに耐えかね、少し戯けた調子で賢治は言った。
「それもそうだね」薫が笑った。
「……じゃあ、数学やろうか、賢治君」
薫は学生鞄の中から使い込まれた数学の参考書を取りだした。
パステルカラーの付箋紙が、短冊飾りのようにあでやかに揺れながら、本の上端から何本も顔を出していた。
参考書の隅は、ページの目印にしたらしく、幾つもの折り跡が重なって見えた。
本を持つ彼女の右の親指に、いつの間にか参考書に引かれた赤いボールペンのアンダーラインのインクが移って、赤く色が付いていた。しかし彼女はそのことすら、気に留めていなかった。
「……どうしたの」
ぼんやりと彼女の様子を見ている賢治に気づいて、参考書に向かっていた薫は不思議そうに彼を見上げた。
「あ、いや……」
お前って、意外にがんばり屋なんだな。
そんな言葉を飲み込んで、彼は自分の鞄から彼女と同じ参考書を取り出した。
白い参考書を出すのが、少し、恥ずかしかった。
『カタワラ』;8
“賢治?今電話しても大丈夫?”
彼女からのメールは、たったそれだけだった。
賢治はアドレスから眞菜の番号を呼び出し、電話をかけた。
「……ぉう」
なんともつかない挨拶をして賢治の電話は眞菜と繋がった。
よく見知った相手に改めて電話するときの、この気まずさは何なんだろう。
そんなことを感じていた。
「……うん」
その感覚は、向こうも同じだったのか、何に対する返事なのかもわからない答えがワンテンポ遅れて帰ってきた。
「……今、どうしてる?」相手との間合いを測るかのように、遠慮がちに眞菜が尋ねた。
「……港で海見てる」賢治は端的にそう答えた。
「夕日、見える?」
「……見えないな。やっぱり、山に隠れちゃうから」
海で夕日が見えないことは、眞菜だってよく知っているはずだった。
あえて答えの分かっている質問でもとりあえず投げかけさせてしまう、今の彼女の孤独な気持ちが賢治にも切実に伝わってきた。
「また、一人なのか?」傷口に触るように、できるだけ優しい口調を心掛けて、賢治は尋ねた。
……うん、と、頷いたついでに漏れてきたという程度の、消え入るような返事が聞こえた。
「やっぱりこの時期になると、仕事をやれるだけ終わらせてから家に帰ろうとするからかな。どっちも帰りが遅くなりがちなんだ」
家の出入りがビニールのカーテンに区切られて不便になるということは、そういうことらしかった。余計な出入りをできるだけ減らそうとすれば、どうしても、忘れ仕事を残したくなくなってしまうのだろう。
「忙しいもんな」
できるだけ、彼女が隔離されているという話題には触れないように賢治は心掛けていた。それが事実であったとしても、わかりきったことをあえて何度も言うのは、単純に残酷なだけのような気がした。
「……ねえ、賢治?」
「うん?」
新しいクラス、楽しい?眞菜はそう訊ねた。
さびしい気持ちを殺して、明るい笑顔を心掛けるときの彼女の、誰かに遠慮するような微笑みが、賢治の脳裏に浮かぶようだった。
「……楽しくなんかないよ」
ひょうきんな調子を取り繕って、彼は答えた。
「今日なんか、めんどくさい同級生に、取りつかれちゃってさ」
賢治は、今日の薫と結ばされた『契約』の話を眞菜に話した。
眞菜はところどころ笑いながら、それを楽しそうに聞いていた。
彼の話を聞いているうちに、彼女の笑い声は、少しずつ元の調子を取り戻してきた様だった。
少し元気になってくれたかな、賢治は彼女に話しながらそう感じていた。
「それは、大変だったね!」
話が一通り終わると、眞菜が言った。
「……でも、みんなと協力して、何か一つのことを目指すって、なんだか憧れるな」
「そうかな」賢治は言った。
「努力って、最終的には自分を高めるもんだろ。他人の協力できることなんて、限られてるんじゃないか?」
彼はそう思っていた。薫の一緒に勉強しようという誘いに乗れなかったのも、そういう考えがあったからだった。
準備段階では誰と協力しても、結局受験するのは自分の身ひとつなのだ。誰かが代わりに受験してくれるわけでもなかった。ならば、始めから自分で、自分を強化した方が早いではないか。
他人との協調は、目標を目指すにはあまりにロスが多いように賢治は感じていた。
「でもね」と眞菜の声が聞こえた。
「たとえ相手のためになっていないかもしれないと思っても、何かしたいと思うものなんじゃない?」
……仲間って。付け加えるように、彼女は最後にそう言った。
「おれは、あいつを仲間とは、思えないけれどなあ」賢治はうんざりしたように言った。
「……取りつく島もないね」と眞菜が笑った。「努力してる薫さんが、かわいそうだよ」
「あいつだって、自分のこと考えているだけじゃないか?」賢治が言った。「そんなにお互いのこと考えている余裕はないよ。受験生って」
「……そうなのかもしれないね」急に、少ししょげ返ったように眞菜が言った。「……私が、のんきなのかな」
眞菜自身は大学を受験する気はない、と以前から言っていた。
たとえ合格しても、高校ですら通えない身体に大学生活は無理だろうということだった。
通信制の大学を受験することも考えたというが、結局その話もあまり乗り気ではなさそうだった。大学を出たところで、それが自分にとって何になるのか眞菜には見えないらしかった。
今日はまた、ずいぶん気持ちが沈んでるな。と賢治は思った。
冬や夏に、彼女の家に遊びに行った時の元気の良さからは想像できないほど、この時期の真菜は、ふさぎ込むことが多かった。物理的に一ヵ所に閉じ込められるということは、心まで封じ込めてしまうのかもしれないと賢治は思っていた。
「そんなに、自分を悲観するなよ」元気づけようとして、賢治は言った。「ケーキだって、作れたじゃないか」
ふふ、そうだったね。と電話の向こうで眞菜が笑った。あれ、陽子さん達も食べてくれた?
「うまいうまいって、誉めてたよ。……賢介なんて、母さんのを取り返して食べてた」
本当に?真菜の声に幾分、元気が出てきた。賢治は思わず笑顔になった。
「ケーキのクリームに、イチゴのつぶしたのをほんの少し入れたのは、眞菜の工夫だったんだって?気がつかなかったよ」賢治は、彼の母が気付いた点をそのまま言った。
「あれは、思いつきでやったんだよね」
眞菜が言った。「……陽子さんのレシピを見てしたがっているだけじゃ、飽き足らなくなって」
「……その意気があれば、なんとかなるさ」少し大げさに事を言っているのは自分でも解っていた。
「眞菜ならやれる。……なんだって」
……ありがとう。電話の向こうの声は言った。そんな浮ついた誉め言葉に喜ぶ彼女ではないことは、彼にはよく解っていた。それでも、そう言ってくれた彼の意図をくみ取って、その気持ちに対して、彼女はありがとうと言ってくれたに違いなかった。
「……じゃあね」彼女が言った。
「……じゃあな」二言三言、言い足りない言葉を心の内に残したまま、彼はそう言って電話を切った。
夕日に照らされた港の景色が、急に眼前によみがえってきたような気がした。
眞菜との電話に夢中になるあまり、今までずっと、港にいたことを忘れていた。
それほど、自分は電話に集中していたということだろうか。……だとすれば、なんて気を遣わせる電話だろう。
たかが電話一つに、それだけ必死になっていた自分が、賢治はなんだかおかしかった。
立ち止まっていた自転車のペダルに再び足をかけて、恥ずかしそうに彼は一人笑った。
しょうがないか。彼は思った。眞菜とおれとは、今、この電話で繋がっているだけだもんな。
彼は止めていた自転車のペダルを踏み込んで、再び前へと進み出した。
群青色の夜空が、背後から静かに広がってきた。
2009年2月10日火曜日
『カタワラ』:7
四月に入り新学期が始まるころになると、当然のように眞菜は外に出られなくなった。彼女の家の玄関の内側にはビニールのシートが貼られた。クリーンルームの前室のように、入室者はそこから先に入るには、まず玄関で花粉をしっかりと落とさなくてはいけなかった。
彼女の両親はつまりそれを毎日繰り返すことになる。
少しでも花粉との接触のリスクを減らすため、賢治ですらも、特に用向きがなければ眞菜の家に行くことは憚られた。
またしばらく、あいつの顔が見れなくなるな。そのことを思うと、賢治は特に寂しいと言うよりも、憤りを感じた。
同じ高校生でありながら、一方はありふれた危機に怯え、家で軟禁のような生活を強いられている。そしてもう一方、自分を含め大多数は、外へ自由に出歩くことを若者に当然に与えられた権利として、疑うことを知らずにいる。
誰も恨むことの出来ないその不条理な、強いて言えば神か仏かの仕打ちに、彼は憤っていた。
なぜ、他の誰でもなく、眞菜であったのか。
春の陽気に包まれ、新しいクラスメイトとの生活が始まって、友人達が浮かれだしても、賢治の気持ちは暗く鬱屈していくだけだった。
「……ちょっと、賢治?」
向かいに座った女生徒が賢治に声を掛けた。
「聞いてるの?ねえ?」
「……わりい」
賢治は自分がぼんやりと机を見たまま、眞菜のことを考えていたことに気がついた。
今は放課後。掃除も終わり、受験を意識し始めた生徒が数人、居残って勉強をしていた。
「そんなことで、大丈夫なの?」怪訝な顔の女生徒は言った。「どこ受けるの?国立?」
「まあ、一応」
賢治は場に合わせて、適当に答えた。まだそれほど自分の志望については考えていなかった。彼の夢はあくまで喫茶店を開くことだった。大学を目指すのは、みんなが入っているから、と言うだけに過ぎなかった。父親の影響か海外の情勢にも興味があったから、何か国際関係を学べるような学部であればいいという程度に考えていた。
「何?“一応”って」女生徒は、賢治の答えが気に入らなかったらしかった。
「そんなんじゃだめだよ、目標はしっかり見すえないと。賢治、何か始めても、いつも、最後はぐだぐだになるんだから」
女生徒はいつの間にか、自分が賢治のお守りでも言いつかったかのような顔をして、そう言った。
「……わかったよ……」
賢治は返事するのも面倒そうに、向こうを向いた。
何で、よりによって、こいつと一緒のクラスになったんだ。
心の底で彼はそう思っていた。
女生徒は名を薫といい、賢治とは高校になってからの同級生だった。
彼女は、彼が2年の時、他のクラスの学級委員だった生徒で、当時、賢治は別なクラスの副委員を勤めていた。
副委員と言っても、どうにかようやく委員が決まったものの副委員を務めるものが見つからず、仕方なく委員の友人であった賢治に話が回ってきたと言うだけのことで、彼は特に積極的にその役割をこなしていたわけではなかった。
一方の彼女は自分から率先して委員になったと聞いていた。実際に学級委員の集まりの時には彼女は自分から進んで発言をする方だったし、時には生徒会長をしのぐ存在感を見せることさえあった。彼女は3年に上がってからも、当然のように学級委員に着くと皆が思っていた。
「なら、いいんだけど」薫は椅子の上で居住まいを正した。
「……でね、話って言うのは、私と『契約』を結んで欲しいわけよ」
「『契約』?」賢治は眉根を寄せた。「何が言いたいんだ?」
「……つまり、だからね、」
薫は借りてきた言葉を話すような口調で言った。
「賢治は英語と現代文が出来るけど、数学と理科が苦手、私は社会と理科と数学なら、何とかなる。でも、英語も国語全般も全くダメ。……私達って、ちょうど正反対でしょう、だから……、教え合いっこ、しない?」
名案でしょ、とでも言うように、薫は瞳を爛々とさせて賢治の反応を待った。
「一人では出来ないことも、二人、力を合わせれば出来るってよく言うじゃない。私達にも、きっと、出来るよ」
「それは、たぶん夫婦に言う言葉だろう」賢治が言った。
「俺たちには、関係ないんじゃ……」
「夫婦……、賢治、そんなこと考えてるの?」彼女が言った。
「これから、仲良くなろうって段階なのに……」
小さな声でそう呟いて、椅子に座った自分の足下を見つめていた。
机の下では、彼女の膝がそわそわと動いていた。
「とにかく、私達は協力した方が良いの。絶対、お互いのためになるよ」
薫は、賢治の顔を見ながらはっきりと言った。
「……ねえ?やろうよ」
「何で、俺が……」賢治は答えを渋った。
「別に、薫に教えてもらわなくても自分でやるよ……」
「そう言う問題じゃないの」怒ったような調子で薫が言った。
「……あなたが私を必要としていなくても……、私は、教えてもらいたいの。……それとも、そこまで、いやなの?」
薫は黒目のはっきりした目で、じっと賢治を見つめていた。
それを正面から受けきれず、賢治は視線を窓の外に逃がした。
「……いいよ。それなら」
薫は下脣を突き出して、すねるようにそう言った。
「賢治があたしを“たぶらかした”って、みんなに言いふらしてやるから」
「おい、何言い出すんだよ」ただごとではない言葉に、賢治は慌てた。
「おれ、そんなことしてないぞ」
「したのよ。……したことに、なるの」薫は意地悪な目を賢治に向けた。
「……さあ、どうする?」
「……お前、悪女だな」吐き捨てるように賢治が言った。
「なんとでも言ったら」薫は平然としていた。
「……態度をはっきりさせない、あなたが悪い」
「……解ったよ」
賢治が折れた。「お前に、国語と英語、教えればいいんだろ。……後は自分でしろよ」
「やった!」
先ほどの悪女ぶりが嘘のように、薫の顔に幼げな喜びが満ちた。
「じゃあ、私は数学と理科を教えてあげるからね」
「いいよ、そんなの自分でやれるから」くだらない、とでも言うように賢治は言った。
「……その代わり、変なこと、周りに広めるなよ」
「もちろん!」素直に薫は答えた。
「あたしも、そこまでは堕ちてない。……大丈夫。そんなに突っ張らなくても。ちゃんと賢治には教えてあげるからね。理科と数学」
「……いらねえって言ってるだろう」
賢治は不機嫌に窓の外を見た。
「でさ、早速、質問なんだけど」
ふてくされた賢治の態度など、あえて気にしないかのように、嬉々とした顔の薫が言った。
「……“たぶらかす”って、具体的に何すること?」
薫との小さな“勉強会”は、それから2時間続いた。賢治はすっかり疲れて学校を後にした。
学校は小高い丘の上にあった。古ぼけたトタン屋根の自転車置き場で使い込んだ自分の自転車にまたがり、坂の上から街の方角を見れば、いつもそこには大きな海があった。
賢治は、この風景が好きだった。海には細い幾何学的な線を持つ防波堤が突き出していて、何隻もの大型漁船が明日か明後日かの出港を待っていた。賢治はいつも海沿いの、港の中を走る道を通って家に帰った。
坂を下りるに従って、街はぐんぐん大きくなった。始めは家の密集に過ぎなかった住宅地が、彼を取り巻く程の大きさになるまでに数分とかからなかった。家々の窓には、すでに灯りが入り始めたものもある。賢治の自転車は最短距離を選び取って、夕焼けに赤く燃える海を目指して走った。
彼の住む街では、夕日は海には沈まなかった。海に沈む夕日というものを、彼はいつか見てみたいと思っていた。夕日が海に沈む時、一瞬緑色の閃光を発すると、彼は父から聞いたことがあった。あれはどういう光の加減なのか、赤い光を発していた太陽が、突然緑に光って見えるのだから、自然というのは不思議だと、長い船旅ですっかり顔が赤い髭に埋もれた父は、塩に灼けた顔をにやにやさせて語っていた。
ただ、彼の街ではそれは見えない。朝焼けなら見えるかも知れないと、それから数日早起きし続けたこともあったが、そう言った閃光は一度も見ることが出来なかった。金色に輝く海を見て、まぶしさに目を窄める朝が彼は昨日のことのように脳裏に蘇って、顔は切なく微笑んだ。
やがて、自転車は港に入った。朝には賑やかに鳴いていたカモメたちも夕暮れには何処かに行ってしまって、静かになった港にはもう人影が見られない。浮かべられた船だけが打ち寄せる波に併せて、眠りにつく頃の心臓の拍動のような穏やかでなまめかしい規則性を伴って上下に揺れているだけだった。
父さん、今頃何処にいるんだろう。並ぶ漁船を左手に見ながら、彼はふと考えた。また、ルソンか。それともフィリピンか。ケガしてなければいいけれど。
夕日にそそのかされて不意に浮かび上がってきた、そんな届く当てもない感傷に浸っていると、突然に彼の携帯が鳴った。眞菜からのメールだった。
“賢治?今電話しても大丈夫?”
2009年2月9日月曜日
『カタワラ』:6
「おまちどうさま!」台所から、大きなケーキを持った眞菜が晴れ晴れとした顔をして飛び出してきた。ケーキはすでにたっぷりの生クリームで分厚くデコレートされていた。まだ時期には少し早い、ハウスもののイチゴが白地のケーキに赤いアクセントを落としていた。
「どう?」眞菜はケーキの載った皿を卓に乗せた。クリームの塗りが不格好なためか、ケーキは真円にはほど遠かったが、その分ボリュームがあった。
「へえ、ホントに、ケーキだ」賢治は言った。「これ、食べれるのか?」
「当たり前じゃない」目を大きく剥いて、眞菜は賢治を睨んだ。
「……さあ、切り分けて、賢治。賢介君と、うちのお母さんと賢治のお母さんの分も忘れずに」
「何で、俺が」今度は賢治が眞菜を睨んだ。
「良いじゃない、私よりもずっと器用なんでしょ」
眞菜はそう言うと、右手に持っていた包丁を一本賢治に手渡した。包丁は先ほどデコレートする際にパテの代わりに使ったらしく、ケーキに使われたクリームがべっとりと付いたままだった。賢治は眞菜から差し出された濡れ布巾でクリームを拭き取ると、静かに包丁をケーキに沈めた。
「ちょっと待った」徹さんが大きな声で止めた。「……写真をとろう」
そう言うと彼は黒い革張りの仕事鞄の中から、小さなデジカメを取りだした。
「ほれ、眞菜、せっかくだ、お前もナイフを握れ」
「え?」賢治と眞菜は一緒に、素っ頓狂な声を出した。
「……いいから、早く!……“練習”だ」目尻に笑い皺を寄せた悪戯小僧のような顔をして、徹さんは彼らにカメラを向けていた。
賢治はどうしたらいいものかと戸惑った。思わず、隣にいた眞菜の表情を伺おうとした。
しかし、その時、彼の手の上に眞菜の手が重ねられる感覚があった。
驚いて眞菜の方を向いた。彼女はしかし、賢治の方は見ようともせず、なぜだかとても、自信に満ちあふれた表情で、にこやかにカメラの方を向いていた。賢治はしょうがなく、カメラに向き直った。
「ほれ、賢治、もっと笑え」カメラを構えた徹さんが言った。
彼はほとんど、やけっぱちになって、満面の笑みを作った。
「お、いいね!これぞ、“初めての共同作業”」
「いいから早く取ってくださいよ」賢治は待ち切れずに言った。
「……はいはい、じゃあ、取るぞー。」
ぱちり。
シャッターが切られた。
「……はい、OK」
その声を聞くと、眞菜は自分の手を賢治の手から、引き下がるように静かに退けた。
賢治は眞菜の気持ちを掴みかねていた。彼女の表情を再びのぞき込んだが、彼女は先ほどとほとんど変わらない顔で、カメラの方向を向いたままだった。
徹さんは液晶画面で写真の出来映えを確認して、一人でにやにやと悦に入っていた。
「いやー、様になってるよ、ご両人」嫌らしい目で賢治の顔をちらり、と見た。
「あとは、ケーキがもうちょっと立派だと良かったな」
「はいはい」うんざりしたような調子で、娘は軽く父をあしらった。
「でも、味は大丈夫だよ。私じゃなくて、陽子さんのレシピだから。……さあ、賢治。ぼさっとしてないで、さっさと切っちゃって」
言い捨てるように眞菜が言った。彼は言われるがままに、黙々とケーキを切り分けた。
眞菜の作ったケーキは、ナイフを入れると、普通のケーキより少し乾いたような、サクサクした感じがした。しかし、その分、断面がきれいに切れた。彼はそれを、かたちを崩さないように苦心しながら、彼女の用意してくれた小さな白い皿に載せた。赤いイチゴがひとつ、その拍子にケーキから落ちて、恥ずかしそうに、ころりと皿の上に転がった。
「いただきます」
人数分を切り分けた後、賢治は銀色の大きなフォークで、ケーキの鋭角をそっと掬い取った。
眞菜が心配そうな顔でその様子を覗き込んでいた。
まるで自分自身がケーキになったような顔をして、切り取られたケーキの行方を目で追っている。
賢治は眞菜の強い視線を意識しながら、フォークの先のケーキを、ぎこちなく口に入れた。
切った時に感じたような、少しサクサクした感じが口の中でもした。しかしそれに、よくホイップされた生クリームが滑らかに絡んで、最後に、イチゴの少し甘酸っぱい味が舌の上を爽やかに駆けていった。
「……へえ、おいしいかも」少し驚いたように言った。
「……ほんとに?」ケーキの行方を追いかけていた彼女の瞳が、うれしさのあまり見開かれた。
「ほんとに。思ってたよりずっと。ねえ、徹さん……」
眞菜があまり喜ぶので、自分の感覚に自信をなくした賢治は、徹さんに意見を求めた。
「……ああ、ほんとに、おいしい」徹さんも同意見だった。
「よく作ったな」
彼女はおもわず、わあ、と言って喜んだ。喜ぶあまり、身体を上下に揺らしたので、後ろにまとめた長い髪が、ギャロップする馬の尾のように跳ねた。
「びっくりした?」
「あ?……ああ、ホントにびっくりしたよ」賢治は参ったというふうに、後ろ手をついた。
「いったいどうやって作ったんだ?卵も使わずに……」
「豆腐、だよ」眞菜は、してやったり、というような笑みを浮かべて言った。
「卵の代わりにね、水を一晩切った豆腐を使ったの。……ただ、それだけだと、生地がしっとりしないから、クリームを少し生地に混ぜたり、多少の工夫をしてみたんだけどね」
賢治はそれで解った気がした。生地がそれでもまだ少し乾いた感じがしていたのは、卵に比べて脂分の少ない豆腐を使っていたからだったのだ。ただ、言われなければ、それと気がつかないほど、ケーキはよくできていた。
「豆腐を使って、ケーキが作れるんだな」
徹さんが感慨深げに腕を組んで、自分によそわれた皿の上の、先の欠けたケーキを見つめた。
「まったく、窮すれば、なんとやらだ」
「ほんとに、最初に考えた人は天才だね」眞菜が言った。
「陽子さんの話だと、他にも小麦を使わないケーキまであるそうだよ」
「それはすごいな」賢治が言った。
「そこまでしても、ケーキが食べたい人が、やっぱりいるってことだろうな」
「ケーキを食べたいって言うか……。みんなと同じことを、したいってだけなんじゃないかな」眞菜が言った。
「……思い通りにいかないものを抱えていても」
エプロンの先から伸びた膝の辺りを、心細そうにさすっていた。
「みんなと同じこと、ね……」
「そう。……勝手だよね。他人と同じ過ぎれば、違うものを求めるのに」彼女は口の端で笑った。「どうしても人と違うと、同じものを求めてしまう」
「……でも、だからこそ、こういう工夫が生まれるんだろうな」
ケーキを見つめていた徹さんが口を開いた。
「あたりまえって、なかなか手間がいるってことだ」
その時、卓の上に置かれた徹さんのケータイが、突然鳴った。病院からのようだった。
「……はい。木下です。……涼子か」
病院から電話をかけてきたのは、奥さんのようだった。
「……堀田さんの体調が……、血圧は?……ちょっと待って」
徹さんは、眞菜を見ながら手振りで、何かを書きつける動作をした。あわてて、眞菜が手近にあった新聞広告の真っ白な裏側と、ボールペンを差し出した。徹さんは、それを受け取ると、賢治には読めない字で、素早く内容を書き留めていった。
「そうか……、じゃあ、瀬谷先生に頼んで、もう200単位くらい多めに点滴してもらっててくれ。あとの処置はそれでいい。……今すぐ行くよ」徹さんの目が、一瞬眞菜を見た。彼女は身じろぎもせずまっすぐに、徹さんが電話をする様子を見つめていた。「眞菜のことは大丈夫だ。今、丁度、賢治が来てる。……ああ、うん、わかった。……じゃあ」
「入院の人の体調が悪くなったの」眞菜が不安げな様子で聞いた
「……ああ、ずっと入院してた、おばあちゃんなんだけど……、すぐに行かなきゃな」
徹さんはそういうと、躊躇いもせず、すっくと立ち上がり、隣の寝室に入った。ぎい、と音を立てて寝室の奥のクローゼットが開いた。ワイシャツの一つをそこから取り出し、パジャマとも普段着ともつかないスウェットのシャツを脱いで素早く袖を通した。枕元に脱ぎ捨ててあったズボンに足を入れると、通したままにしてあったベルトのバックルの金具が揺れて、かちゃかちゃと音をたてた。
「……悪いな眞菜、今、バイトの若い先生しかいないから、ちょっと不安なんだ」医者の顔になった徹さんが言った。「残りのケーキは後で食べる。……取っておいてくれ」
うん、と眞菜が頷いた。不安そうな顔は、まだ消えていなかった。
「……いってらっしゃい」
足早に玄関から出て行った徹さんの後姿に、眞菜は小さく声をかけた。
「忙しそうだね」賢治は、徹さんの車を玄関の中から見送っていた真菜に声をかけた。
彼女は何も言わなかった。
徹さんの車がすっかり見えなくなってしまった後、急に我に返ったように振り返ると、徹さんの食べかけのケーキの乗った皿を持って、台所の奥へ運んだ。皿に載ったままのフォークが揺れて、皿の上でかちかちと金属的な音を立てた。その小さな音が聞こえる度、彼の居る部屋の静けさが一層引き立つように賢治は感じた。
「……あっ、ウグイスが来てる!」台所に行っていた真菜が、突然大きな声を上げた。
賢治が駆け寄ると、流しの奥の大きな窓の向こうを、静かに指差していた。
見れば、窓の外のすっかり立ち枯れた様になっている低い藪の中に、一羽の淡い緑色の丸い印象の小鳥がちんまりと座っていた。
「最近、よく見るんだよね」うれしそうに真菜が言った。「もう、春が近いってことなのかな」
春は、真菜にとっては不幸な季節のはずだった。しかし、そんな彼女でも春はやはり待ち遠しいのだろうか。賢治は疑問に思ったが、今ウグイスが来て素直に喜んでいる彼女の気持ちを、また落ち込ますのも悪い気がして、黙っていた。
「……いま、私みたいな人間でも、春が待ちいどおしいのかって、思ったでしょ」
賢治を見透かしたような眼で見ながら眞菜が言った。
「わかる?」賢治は素直に認めた。
「わかるよ、あなたの考えそうなことくらい」
やれやれ、とうんざりしたような様子で窓の外を見つめた。そして一言、
「……桜が、見たいな」
と、つぶやくように言った。
「サクラ?」彼女の口から突然出た、ありふれた花の名前を彼は聞き直した。
「そう、桜。小学校の校門のわきに、大きな枝垂桜があったでしょう」眞菜は賢治の方を振り返った。
「私、あれがとても好きだったの。花が、空から落ちてきたみたいに大きく垂れ下がってきて……」過去を懐かしむような眼で、真菜は語った。「小学校を出て以来、あの桜も、もう見ていないから……。春に花を見に行くことも、できない身体になっちゃったし」
眞菜は流しに置かれた飲み残しのコーヒーを捨て、水を流してカップを洗い始めた。
「あのときは、賢治も一緒にいなかった?あの枝垂桜の下で、みんなでお弁当食べたとき」突然、真菜が言った。
「何の話?」賢治には、全く心当たりがなかった。
「あ、そうか、あの時クラスが違ったもんね」眞菜が言った。「楽しかったな、あれ。……私の一番の、春の思い出」賢治がその時、その場にいなかったと言うことが解ったためか、眞菜はそれ以上詳しくそのことを語らなかった。
「……そういう花見って、もう何年してない?」賢治は眞菜に尋ねた。
「中学に上がってからは、もう桜は真近に見てない」眞菜は言った。「あの辺から、春には体調が悪くなることが、多くなったから。それからはせいぜい体調の良い日に、車の窓越しに見る位しかできなくなった。マスクとかでね、厳重に武装して出かけるんだよ」
眞菜はスポンジで洗ったカップを水でよくすすいで、流しのわきにあった洗いかごに、静かに立て掛けた。そして、まだ少し洗剤の残った自身の手を、水道の水ですすいだ。
眞菜の手には、所々、うっすらと赤い斑の様なものが浮かんでいた。それは、洗剤中に含まれていた何かの化学物質に対して、ごく弱い反応が起きている証拠だった。同じ年頃の女の子よりもずっと荒れて、少しむくんでしまった眞菜の手。度重なる反応で、彼女の手の皮膚は年齢の割に硬く強ばっていた。普通の生活を送ろうとしている限り、彼女の手は真っ先にその影響を被った。
眞菜の病気は、文字どおり、彼女の身体が世界を「拒絶」する病気だった。行き過ぎた拒絶反応が彼女の意志に関係なく、身の回りのありふれたものを容赦なく否定していた。
しばらくして、徹さんと入れ違いに涼子さんが家に帰ってきた。
「留守番ありがとうね、賢治君」
紫の細身のメガネの奥の、涼子さんの瞳がにっこりと微笑んだ。
「おばあさんは、どうなったの?」眞菜がそう尋ねると、涼子さんは目だけ細めたまま、
「……亡くなったわ」
と言った。隣に立った眞菜がはっと口をつぐむのが賢治には解った。
「徹は、後の仕事があるから、少し遅くなるかも知れない。……残念なことだった」
「徹さんは、落ち込んでいませんでした?」賢治がそう尋ねると、涼子さんはまた元のような微笑みを浮かべて、
「彼は医者だから、こういうのは慣れているだろうけど……。でも、この狭い町で、何となくでも、お互いを知っている人を救えなかったというのは、やっぱり堪えるでしょうね」
と言った。
「知っている人だったの?」眞菜がそう尋ねると、涼子さんは、
「ええ……、まだ、眞菜が小さかった頃かな。……病院に来たついでに、息子が取った、って言って、良く大きな鮭を贈ってくれてたの。私達は、“鮭のおばあちゃん”、て呼んでた。田舎の病院にいると、どうしても患者さんとは、そう言う人間的なつきあいになってしまう。それは、大切なことでもあるんだけど、反面……」
涼子さんは、そこまで言って口をつぐんだ。眞菜もそれ以上、尋ねようとはしなかった。
「……そう言えば、眞菜、ケーキを作ったんだって?」
涼子さんは思い出したように、突然そう言った。
「さあ、お母さんに見せてよ、取ってある?」
「もちろん」眞菜は自信ありげに答えた。
台所の奥から、ラップにくるまれたケーキの一片を持ってきた。
「へえー、上出来じゃない」
ケーキを一口食べるなり、涼子さんが言った。
「……コーヒーも満足に淹れられない私の、娘とは思えないわ」
それを聞いて、眞菜は苦々しく笑うだけだった。
賢治はその様子を脇で見ながら笑いをこらえていた。
やがて、日も落ちてきたので、お邪魔しましたと涼子さんにお礼を言ってから、賢治は母と弟の分のケーキを預かって眞菜の家を出た。
用水路脇の舗装路には、もう所々、ふきのとうが芽を出していた。向こうから散歩してきた犬が、すれ違いざま、賢治の方をふと見上げて、親しげにしっぽを左右に振った。
眞菜に、桜を見せたい。
帰り道、賢治が考えていたのはそのことだった。洗い物を終えた後の、眞菜のくたびれた赤い手を見ながら、賢治は心の奥でそう思っていた。それは、一見して実現不可能なことのようにも思えた。彼女の病気は緩やかに進行するばかりで、回復の見込みはなかった。だが、その一方で、彼は全く諦めるほどのことでもないと考えていた。
「工夫」すれば何とかなるのではないか、と彼は思っていた。
卵を使わないケーキが、実際に可能だったのだから。
遠く視線の先に見えてきた彼の家の窓に、ぽっと明かりが灯るのが見えた。
それに突き動かされたように、彼の足取りは自然と早くなって、家へと急いだ。
『カタワラ』:5
眞菜の病気は、誰に言っても簡単には信じてもらえなかった。
春と秋には家の外に出られなくなる病気なんて、確かにすぐに信じられる方がどうかしているかもしれない。しかし、これは、紛れもない事実だった。
彼女は重度の過敏症(アレルギー)患者だった。春と秋に良く飛んでくる花粉に対して、彼女の体は特に強い反応を示した。それは、アナフィラキシーと呼ばれる、アレルギーの中でも最も重篤な部類に入るもので、吸入量によっては、ぜんそくの発作が起き、さらにはショック症状に陥って昏睡、最悪の場合には発作で死に至ることがあると聞いていた。
花粉症を持つ人はいくらでもいるが、眞菜ほど強い症状の人はそうはいない。彼女の父は、これは遺伝的な原因もあるのかも知れない、と前に言っていたことがあった。おそらくは僕と、それから母親の涼子の中にあった遺伝子が偶然揃って、とくに花粉に弱い眞菜が生まれてきてしまったんだろう、と。
眞菜は他にも卵など、いくつかの食品に対してアレルギーを持っていた。いくつかの工業製品にも反応したから、普通の学校生活は送れなかった。中学の後半から症状が悪化したため、高校は、すでに決めていた賢治と同じ高校をあきらめ、通信制の高校に切り替えていた。
彼女の体が反応する物質は年々、少しずつではあったが増えているようだった。
「いつか、好きな人と手も繋げなくなるかもね」
いつだったか、冗談めかして気丈にそう言った彼女の言葉に、賢治は素直に笑えなかった。
「賢治!」
茶の間から聞こえてきた眞菜の声に彼は、はっとした。「お湯、湧いているよ!」
レンジの方を見れば、ポットから勢いよく湯気が出ていた。賢治はあわてて火を止めた。
「ありがと」
賢治はそう言って眞菜の方を見た。どういたしまして、とでも言うように彼女は僅かに手を上げた。
フィルターの上にたっぷりと盛られた粉の上に、しなやかに伸びたポットの口から、細く細く湯を垂らしていく。始めは遠慮するように。全体に湯が染み渡り、粉が香りを封じ込めた泡を伴って、ふっくりと膨らんできたら、後は渦を描くように注いでいく。
「良い匂いがしてきた」
徹さんの声が賢治の背後から聞こえた。賢治は思わず微笑を浮かべながら、残りの湯を注ぎきった。
「……はい。お待ちどう」
白いソーサーとカップに、深い褐色の香りの良い飲み物。眞菜が深呼吸するようにその香りを嗅いだ。
「やっぱり、ケーキが焼き上がってからにすれば良かったな」少し残念そうに眞菜が言った。
「またその時、淹れてもらえばいいだろ」一口静かに啜った後、徹さんが言った。
「……それにしても、君は本当に上手だな」
賢治は照れくさくなって頭を掻いた。
「将来、店を開きたいんだって?」くしゃっとした笑い顔で賢治を見つめた。
「これならやれるさ。僕がお客の一号になるよ」
「そんな、買いすぎです。……まだまだ、色々勉強しなくちゃ」
「まあ、それはそうだが……、でも、やりたいことを見つけたって言うのは、幸せなことだと思うよ」
徹さんはそう言うと目尻にすっかり皺をよせて、満足そうに二口目を啜った。
「やりたいこと、ねえ」眞菜が、ふと、思い出したように言った。
「眞菜も、何かあるの」徹さんに誉められて上機嫌になっていた賢治は、隣にいた眞菜に尋ねた。
「私?……私は……」眞菜は俯いて黙り込んだ。「……ちょっと、言えないな」
「へえ」賢治さんが驚いたように声を上げた。「お前にも人に言えないことがあるんだな」
「悪かったですね」眞菜は眉をつり上げて徹さんをにらみつけた。「私にだって、人並みに悩みも、あるんだよ」
ケーキの様子を見てくる、そう言い残して眞菜は急に席を立った。
「……賢治」眞菜が台所へ立つと、徹さんが賢治の方を向いて、低い声で言った。
先ほどまでのにやけた表情は、いつのまにか消えていた。
「あいつの、病気のことだが……」
賢治は思わず居住まいを正して、徹さんに身体を向けた。
「今年も、そろそろ花粉が本格的に飛ぶ季節になる。あいつが外に出歩くことも、君がここに来ることも、難しくなるだろう。でも、せめてメールか電話でも良いから、あいつのことを気に掛けていてやってくれないか。……高校生になったと言っても、あいつには君のように新しいクラスメイトが出来るわけでもないんだ」
「ええ、解っています……」賢治は言った。「眞菜は、僕の大切な……、友達、ですから」
「あいつ、ああやって元気の良い振りしているけどな……、ちょっと油断すると、この前みたいに倒れることもあるんだ。でも、僕らはこんな仕事をしているから、四六時中構っているわけにもいかない。……何より、眞菜が、それを望まない。だから、君が頼りなんだ」徹さんは目にうっすらと涙を浮かべていた。賢治は、その瞳を見ながらゆっくりと頷いた。
「この前倒れた時、あいつ、病院のベッドの上で、僕に、こう聞いたんだ」
徹さんは一瞬天井を見上げた。「私は、世界の“傍ら”にいるのかって」
「かたわら、ですか」賢治は聞き返した。徹さんはそれを聞いて、静かに頷いた。
「たぶん、こういう事なんだと思う……。世の中の出来事に、自分はなんにも関与できないのか。……みんなが楽しそうにしているのを、少し外れたところから、見ていることしか自分には出来ないのか。泣いている人に、優しく手を差しのばすことさえ、自分には出来ないのか……」徹さんは腕でごりごりと目をこすった。目の縁が微かに赤くなった。
「疎外感、と言う奴かな……。世の中の本流には関われない、傍流にいる、と言うか……。とにかく、彼女は、今、大きな孤独を感じていると思うんだ」徹さんは泣いている自分に恥ずかしくなったのか、へっ、と言って笑った。「……わりい、辛気くさい話をしてしまって」
「……いえ……」賢治は俯いてそう返事した。「……僕に、出来るだけのことは、します……」
「おまちどうさま!」台所から、大きなケーキを持った眞菜が晴れ晴れとした顔をして飛び出してきた。
2009年2月7日土曜日
『カタワラ』:4
かっ、かっ、かっ、かっ。
翌週の土曜日、賢治が眞菜の家に行くと、彼女は台所に立って、ボウルとかき混ぜ機を手に、何やら熱心にかき回していた。身長の割には少し大きいピンク色のエプロンをして、足を肩幅に広げて、もうすでに腕が疲れていたのか、肩がすっかり上がっていた。エプロンの平たいひもが、小さな背中でたすきがけに交差していた。
「上がってちょっと待ってて」元気の良い声が台所から聞こえた。
普段は両肩まで下げている髪を珍しく高い位置でまとめていた。普段はあまり意識しない眞菜の丸い肩と首筋を見て、賢治は無意識に目をそらした。
「よう、賢治」茶の間に上がると、眞菜の父親が横になってテレビを見ていた。土曜日の昼間の、ゴシップばかりをあつかう討論番組だった。
「徹さん、今日はお休みですか?」
賢治は炬燵に足を入れながら眞菜の父に声を掛けた。
眞菜の父は起き上がる素振りも見せないまま、ああ、と返事した。
「休みって言っても、拘束されてるんだけどね」
彼はそう言って、炬燵の上に置いた携帯の、飾り気のないストラップをつまんで、ゆらゆらと左右に揺らして見せた。携帯の胴には「市民病院」と大きく書かれた白いシールが貼られていた。緊急の時には病院から連絡が来る、専用の電話だった。
「こいつが鳴らないことをいつも祈ってるんだが、そう言う時に限って鳴るんだよね」
苦笑しながら徹さんは言った。
「大変なんですね、お医者さんて」
賢治がそう言うと、眞菜の父は、ああ、全くだ、と言う顔をして、
「……君も、医者にはなるなよ」と言った。
「……なりたくてもなれませんよ、僕なんて」賢治がそう言って謙遜すると、眞菜の父は、彼独特の、顔にくしゅっと皺を寄せた笑い顔を浮かべて、
「眞菜の主治医にだったら、なってもらいたいけれどな」と言った。
賢治は苦笑いを浮かべ、何も言えなくなった。眞菜の父はそれを見ておかしそうに微笑んでいた。
「ところで、眞菜、今何しているんですか?」
話題をそらそうと、眞菜のいる台所の方を見ながら言った。
「……ああ、ケーキを作っているそうだ」
彼女の父は言った。
賢治はそれを聞いて合点がいった。彼女が先ほどからボウルで熱心にかき回していたものは、ケーキの生地だったのだ。
「君のお母さんが水曜に遊びに来て、教えていってくれたらしいぞ。知らなかったか」
徹さんは不思議そうに彼の顔を見た。
「ええ。……そのうち教えてもらうとは、眞菜から聞いていましたけど」
彼はそう答えた。
「あの子がケーキか……」感慨深げに、彼女の父は言った。
「コーヒーも満足に淹れられない娘が、ケーキを作る、なんてな……」
「ちょっと、お父さん!」台所から眞菜の声がした。
「みんな聞こえてるんだからね!」
眞菜の父は首をすくめて、賢治の方を見た。
賢治も同じように首をすくめた。
そして、男二人、顔を見合わせて、声も出さずに笑った。
「……でも徹さん、眞菜、ケーキなんて作って大丈夫なんですか?」賢治が尋ねた。
「……確か、卵もだめでしょう、彼女」
徹さんの顔から、一瞬笑いじわが消えたように賢治は思った。
やっぱり、お医者さんなんだな。賢治はそう思った。が、次の瞬間には、彼はまた、いつものくしゃくしゃの顔に戻っていた。
「……大丈夫大丈夫。あの子のレシピをさっき見せてもらったけど、良く考えられてるよ。卵は一切入ってない。君のお母さんは、よく調べたなあ」
「卵なしで、ケーキなんて作れるんですか?」
「できるんだな。僕も話には聞いていたけれど、食べたことはまだ無いんだ」
「びっくりするよ!」台所から、眞菜の威勢の良い声が聞こえた。
「びっくり、ねえ」徹さんは困ったように言った。
「……良い方にびっくりできると良いけど」
やがて、台所から、ばたん、と戸を閉めるような音がした後、オーブンレンジの設定をいじる甲高い電子音が聞こえた。
そして、オーブンの中のケーキがが静かに回り始めると、エプロンを着けたままの眞菜が台所から出てきた。腕まくりした袖から、日焼けしていない二の腕が見えた。
「さて、後は焼き上がりを待つ」
そう言うとエプロンを外して、自分も炬燵に入ってきた。先に炬燵に入っていた賢治の足にごつりと当たって、賢治はあわてて自分の足を炬燵の端へ退けた。
眞菜は、賢治の方を見て、甘えるようににこりと笑って、
「……コーヒー淹れて」と言った。
「おっ、いいね。賢治、僕も」
炬燵の向こう側に寝転がったままの徹さんが、卓の下から手の先だけを彼に見せて言った。
「……揃いも揃って」
あきれたようにそう言って、賢治はゆっくりと炬燵から出た。
台所へ行き、火にかけたポットで湯が沸く間、彼は必要な他の器具を棚から出していた。
冷蔵庫の上に置かれた、黒いオーブンレンジに目をやると、先ほど眞菜が型に流し込んだ生地が、ターンテーブルの上で、電熱線の赤い光を浴びて、くるくると静かに廻っていた。
……卵なしのケーキって、出来るんだ。
賢治は焼き上がりを待つ生地を見ながら、そう思った。
できあがりの味がどうあれ、そういうものが実際に存在することが驚きだった。
コーヒーを淹れるスペースを確保しようと、台所の狭い台の上に目をやると、先ほど眞菜の使っていたボウルと、生地が付いたままのかき混ぜ機がそのまま放り出されていた。
賢治はあきれたように溜息をついて、それを流しに退けた。
眞菜の病気は、誰に言っても簡単には信じてもらえなかった。
春と秋には家の外に出られなくなる病気なんて、確かにすぐに信じられる方がどうかしているかもしれない。
しかし、これは、紛れもない事実だった。
2009年2月6日金曜日
『カタワラ』:3
柱の時計が6時の鐘を打った。
「賢介、ラジオ付けて」
母がそう言うのが早いか、賢介はテレビの下に置かれた小さな旧式ラジオのスイッチをひねった。ざらざらする雑音の中に、落ち着いた声の男性が淡々と話す声が聞こえてきた。
「……第三光栄丸、ルソン沖にて操業、異常なし。第五龍神丸 スマトラ沖、ワイヤー巻き取り機の故障により休業。……、」
それは遠洋漁業の船からもたらされた定期報告だった。週に数回、地元のラジオ局が船乗りの家族に向けて、報告の内容を放送していた。今ではメールも電話もあるが、それもいつも出来るわけではなかったから、こうした断片的な情報であっても、家族はそれに父の面影を見ていた。
「……ホノルルに寄港。第二新栄丸……」
「第二新栄丸!」賢介が興奮して大きな声をだした。賢治はしっ、と言ってそれを諫めた。
「……ルソン沖にて操業。異常なし」雲母のようにきらきらと光る目で賢介が母の方を振り向いた。母は穏やかな笑顔を浮かべてその表情を見つめていた。父は今日も、無事だった。言葉に出さないまでも、家族がその思いを静かに共有する瞬間だった。
「ルソン沖ってどこ?」賢介が賢治に聞いた。
「……さあ?ハワイの近くだっけ」
「フィリピン」母が言った。「黄色いバナナが一杯採れる笑顔のステキな国って、お父さん言ってた」
「ふいりぴん」賢介が言った。「いいなー。お父さんばっかり」
「お前、泳げないんだろ」賢治が冷やかした。「船乗りは無理だな」
「るせえ!」賢介が大きな声を出した。「お前だって、船酔いするくせに」
賢治は弱いところを突かれて、思わずかちんと来たが、子供相手に起こってもしょうがないと思い直し、こらえた。
母の作ったシチューは気がつけば、いつの間にか空になっていた。
満足げな笑みを浮かべて、母は子供らが食べ散らかした皿と鍋を集め、流しへ立った。
水を溜めた、プラスチックのたらいの中で、ごとごとと低い音を立てて、食器が洗われていた。水の流される音と、栓をひねるきゅっと言う高音とが、互い違いに聞こえてきた。賢治はそれを聞きながら、炬燵の中に足の先だけ入れて、目の前に広げた今朝の朝刊を読むでもなく、うとうとと、微睡んでいた。
「……賢治、コーヒー入れてよ」
洗い物を終えたらしく、母が台所から戻ってきた。
眠りかけていた賢治は、その声で我に返った。うとうととして、心なしか重くなった体をゆっくりと持ち上げ、立ち上がり、奥の小さな茶箪笥から、ひとそろいのペーパードリッパーを取り出してきた。
「……豆は、何がいい?」寝起きのくぐもった声で賢治が尋ねた。
「何でもいい。できれば、」母は少し恥ずかしそうに笑って、
「……お父さんも、飲んでいそうなやつ」
と言った。
「フィリピンの豆は、無いなあ」一著前のカフェのマスターのような顔をして賢治は言った。「もうちょっと南のインドネシアの豆なら、あるけれど」
「トアルコ・トラジャ」母は言った。「じゃ、それ」
賢治は茶箪笥の奥から豆の入った袋を一つ取り出してきた。彼の家の茶箪笥には、父親が遠洋航海で寄港した際に買い求めた様々な国のコーヒー豆が入っていた。英語でもない、知らないアルファベットのような文字が並んだ言葉で、どぎつい色の包装にくるまれてはいたが、どれも豆は至って良質だった。賢治が目的の袋をそっと開けると、ミディアム・ローストの酸のある、やや鼻の奥を突くような香りがつんとした。
賢治はその袋の中から適当量の豆を取り出すと、コーヒーミルの開いた鉢の上に、ばらばらと乗せた。
「……ねえ、母さん?」
小さなミルで豆を挽きながら、彼は新聞の折り込みを見ていた母に問いかけた。
母は広告から目を離し、彼の方を見た。
「何で、父さんと一緒になったの?」
息子の不意の質問に、母は何も答えなかった。
ただ、恥ずかしそうに微笑んだ。
答えを期待していた賢治は母の反応に、やや拍子抜けしてしまった。
そのうちに、そんな質問を急にしてしまった自分自身が、なんだか恥ずかしく思えてきて、それ以上質問する気も、無くなってしまった。彼は気まずそうに口を結んだまま、ミルだけを見つめて黙々と豆を挽いた。
じりじりと豆の潰される音が、静かな食後の居間に響いた。
つい先ほどまで、父親の買ってきたロンドンの客船の模型で遊んでいた賢介は、兄がしていたのと同じように、炬燵に半分足を突っ込んだまま、もう、寝息を立てて眠っていた。
賢治は荒く挽いた豆をドリッパーに載せ、静かに湯を注いで抽出した。ふわりと鼻先に漂ってきた香りに、その様子を静かに見守っていた母は、うっとりとした表情を浮かべた。
「……出来たよ」
小さなカップに注いだコーヒーを、母はまず鼻先に近づけて、その匂いを味わった。そして、一口啜った後、深く身体の奥から漏れ出たようなため息を一つ吐いた。
「上出来」母は言った。「これなら、すぐにお店が開けるかも」
「まだ、まだだよ」彼は言った。「おれ、ローストも自分で出来ないし」
「こういう事だけは、謙虚ね」母は笑っていた。「テスト前の勉強の時は、“絶対大丈夫”を連呼するくせに」
そう言うと、彼女は彼の淹れたコーヒーを、もう一口すすった。満足そうな笑みがこぼれた。
それは、まだ具体的な方策の伴わない、彼の小さな夢だった。
この海の見える田舎の町に、小さな喫茶店を開くという夢。父の買ってきてくれたコーヒーを彼の手で淹れ、はるばる遠くからやって来てくれた旅行客に振る舞いたいと考えていた。彼らの住む街には、幸い、北方へと延びる主要な国道もあったし、そこを行き交う人の休息所として、店は十分成り立つと彼は考えていた。
「ねえ、賢治」母が口を開いた。「眞菜ちゃんのことなんだけど……。」
賢治は眉根を寄せ、不愉快そうに溜息を吐いた。
「またその話?」賢治は言った。「他人の家の娘がそんなに心配?」
「他人って言っても、彼女はあなたの幼なじみでしょう?心配じゃないの?」
賢治はむっつりと黙ったまま、何も言わなかった。
「彼女のお母さん……、涼子さんにも、何かあったら連絡くださいって言われてるし……。彼女、私達に見えるよりずっと、体調悪いんじゃないかな」
賢治は母から目をそらしたまま、何も言わなかった。
眞菜の体調については、彼は母以上に心配していると思っていた。
「何より、これから彼女は満足に外にも出れなくなるでしょう。寂しいんじゃない?」
「……わかってるよ」賢治はぶっきらぼうにそう言うと、やおらに立ち上がって、器具を下げに流しに立った。
白磁のドリッパーは彼に洗われる度、がちゃり、がちゃりと盛大に音を立てた。母はそれを聞きながら不安げな表情を浮かべて、何やら考え込んでいた。
母はそこで、ふと、炬燵でぐっすりと眠ったままの賢介に目をやった。賢介は今日はもう、このまま眠ってしまうように思われた。彼女はゆっくりと腰を上げ、眠った彼をそっと起こすと、彼を連れて寝室に向かった。
先ほどまでのコーヒーの香りは、もう微かな残り香となって、そこに感じられるだけだった。
『カタワラ』:2
彼女の家を出てから、賢治は用水路沿いの舗装路を通って家に帰った。
農繁期に農作業用のコンバインやトラクターが通るための小道だったが、彼女の家に向かうには、この道を使うか、あるいは大きく迂回するしかなかった。
迂回路の途中には、彼らが幼い時「暗闇の森」と呼んだ、うっそうと茂る保安林が拡がっていた。人の手の加えられた痕跡が少なく、自然のままに木々が茂っていた。そうした特徴を持つ森は、この田舎町といえども、もうほとんど残っていなかった。近隣の地区の森は、何十年も昔の国の政治家の策によって、ほとんどすべて杉林に置き換えられてしまっていた。春になるとそうした森から、雲の湧くように黄色いチョークの粉のような花粉が沸き立つのが、もう風物詩のようになってしまっていた。
一方で、人の介入から残された彼らの暗い森は、幼ない子供らの格好の遊び場だった。賢治も、そして眞菜も学校帰りは毎日のようにあの森で遊んだ。小枝を握り、枯れすすきを分け入って、何を目指す出もなく、ひたすらに森の奥へと突き進んだ。特に目的など無かった。強いてあげるとすれば、誰もいない森に、彼らの力だけで分け入ることこそが最大の目的だった。
それは不安で心細い遊びだった。深入りしすぎて、無事帰れるかわからなくなった事も、一度や二度ではなかった。森の中でさんざん迷った挙げ句、ようやく明るい出口を見出した時の、一度死んで生き返ったような安堵感を、彼は昨日のことのように覚えていた。あわてなくても出口は逃げないと知りながら、思わず駆け出したあの頃の気持ちが、気持ちの奥底にしっかりと根を張っているように感じていた。
思えば、あの頃から、眞菜はいつも彼の傍にいた。
彼の前に立って、棒きれを振り回していた日もあれば、片方の靴を野バラに引っかけて壊してしまい、彼に背負われて家に帰った日もあった。
靴を壊した日、家に帰った眞菜を彼女の母はきつく叱った。賢治も隣に立たされて、一緒に叱られた。ところがその時は、眞菜より先に賢治が泣き出してしまった。眞菜の母親はそれ以上叱るに叱れなくなり、語尾もうやむやに、そのまま奥に引っ込んでしまった。涙をボロボロとこぼして、嗚咽しながら泣き続ける賢治を、眞菜は弟をあやす姉のような目をしてなだめてくれた。近所に他に同級生もいなかった彼にとって、彼女は、唯一の幼なじみだった。
「……ただいま」
賢治は自宅の玄関の引き戸を開けた
「お帰り、賢治」奥から、母の声がした。
靴を脱ぎ、茶の間に上がると、母が台所で夕食の支度をしているのが見えた。
「……眞菜ちゃんの所に行ってたんでしょう?」彼に背中を見せたまま、母は言った。
「どうだった?彼女、体調は良さそう?」
「ああ、いつも通り」賢治は言った。「元気すぎて困るよ、あいつ」
……ふふっ、と母が笑う声が聞こえた。
「まあ、いいことじゃないの。一時はどうなることかと」
「毎年のことでしょ。あいつがぶっ倒れるのなんて」
賢治はぶっきらぼうに言った。
それを聞いた母は、ふう、と溜息を吐いた。
「……そんなこと言わないの。あなたあれね、眞菜ちゃんの話になると、急に言葉が乱暴になるのね」
母は、作業していた手を休め、台所から彼の方を向いて見据えた。そして、おかしそうに含み笑いをして、
「本人の前でも、そんな態度なの?」
と言った。
賢治は、母親に自分のことが見透かされているような、薄気味悪さを感じた。
「……んなこと、どうでもいいだろ」
彼は思わず、母から目をそらした。
……ふふっ。また、おかしそうな母の含み笑いが聞こえた。母はまな板に向き直って、止めていた作業を再開した。
「……まあ、大切にしてあげてね。私の大切なお友達なんだから」
小さな声で、独り言のようにそう言った。
母は冷蔵庫から大きなブロッコリーを取り出し、小さく分けた。彼はそれで、今夜の夕食がシチューだとわかった。
母親がブロッコリーを使う時には大抵、シチューと決まっていた。
母は冬になるとシチューを良く作った。あまりに頻度が高いので、彼はいい加減うんざりしていたが、母親はそれに構う様子はなかった。
「またシチューなの?」
彼は言った。
「何でいつも冬はシチューばっかりなの?」
「なんだか雪を見ると、温かいシチューが食べたくならない?」
母は言った。
「……ならないよ、別に」彼は突っぱねた。「だいたい、いつも思うんだけど、シチューってどうやって食べればいいわけ?カレーみたいにご飯にかけれるわけでもないしさ」
「シチューは、シチューとして味わえばいいわけ」火加減を見ながら母は言った。「いつもそうしてるじゃない」
「なんか、中途半端な気がするだけだよ」彼は言った。「……主食にも、おかずにもなりきれない、みたいな」
母はそれを聞いて笑っていた。
「それもそうね」
しかし、静かにシチューを混ぜる手を、休めることはなかった。
賢治は一人で突っぱねるのにも飽きてしまって、畳の上にごろりと横になった。
母のシチューに溶けるバターの香りが、彼の鼻をくすぐった。
「たっだっい、まー!」
玄関の引き戸を壊れんばかりにぴしゃりと開けて、小さな男の子が駆け込んできた。
「ニイ(兄)、ほれ!」
少年は、道ばたで捕まえたテントウムシを彼に差し出した。温かいところで冬眠していたものを、無理に捕まえてきたのだろう。小さな手の中に乗せられても、じっとしていた。
「賢介おまえ、どっからこんなもん捕まえてきた?」
「まっくら森」賢介はあっけらかんとして答えた。
「あそこは今行ったら雪が積もってて危ないだろう。急に深くなったりするんだぞ」
賢治は怖い顔をして賢介を脅したが、
「おれ、怖くねえもん」賢介はびくともしなかった。
掌に載っていたテントウムシを大切そうに人差し指と親指でつまんで、賢介は母親の所に走っていった。
彼は賢治の年の離れた弟だった。彼は現在高校2年生であり、賢介は来年小学1年生だったから、実に10年の差が開いていた。これほど歳が開くと、もう兄弟と言うより、親子のような感覚さえ伴っていた。特に父が不在がちの彼の家庭では、必然的に彼は父としての役回りを果たすことになっていた。
彼らの父は遠洋漁業の船乗りだった。家に帰ってくるのは年に数回。しかも一月と留まることがなかった。こんなに家にいない父と、母はどうして結婚したのか。賢治は、それを不思議に思うことがあった。
「さあ、食べましょう」
母は腰に腕を巻き付けて離れない賢介を伴ったまま、できたてのシチューの鍋を卓の真ん中に持ってきた。先ほどから彼の鼻をくすぐっていたバターの香りに混じって、炒めたタマネギの甘い香りが辺りに拡がった。
文句は言ったものの、母の作るシチューの味は嫌いではなかった。賢治と賢介は取り合って食べた。
母はその様子を見ながらも、一人静かに自分の作ったシチューを食べていた。そう言う時の母を、彼は少し遠く感じた。彼女は食べながら何かを思い出しているらしかった。ここではない何処かの、遠い誰かと、静かに会話しているようにも見えた。
彼はその理由を知らなかった。母に尋ねたところで、素直に彼に答えてくれるとも思えなかった。おそらくは、母の忘れられない、何か大切な思い出とシチューは関係しているのだろうと、彼は高校生になってからようやく気がつくようになった。始めはそれが、父との思い出であると思っていたのだが、成長するにつれて、そう思うだけの自信がなくなってきた。それは疑うという気持ちとは違っていたが、母を見る目が、彼なりに複雑になっていることの表れだった。
柱の時計が6時の鐘を打った。
2009年2月4日水曜日
『カタワラ』: 1
どこにあるか みんなしってる
どこにあるか だれもしらない
まっくら森は うごきつづける
ちかくてとおい まっくらクライクライ
---谷山浩子『まっくら森の歌』より
コーヒーの匂いがする。台所で白い湯気がもうもうと立ち上る。
「本当は、もうちょっとお湯を冷ました方が良かったんだろうけどね」
言い訳のようにそう言ってこちらを振り向き、彼女は、にこりと笑った。黄色い琺瑯の細口のポットから熱湯が注がれ、付けっぱなしのガスがレンジの上で蒼い炎を立てている。彼女の手元では注がれた湯を吸って、フィルターに乗せられたコーヒー豆の破片が、豊かな香りのよい泡を伴いながら、こんもりと膨らんでいることだろう。カリタ式ペーパードリップの三穴からこぼれ落ちる褐色の雫が、サーバーに溜まった液体の表面をリズミカルに打つ。
「……ちょっと、濃くなっちゃうかも。大丈夫?」
湯を注ぎながら、彼女は心配そうに言った。
「濃くてもいいよ」
彼は苦笑いを浮かべて、そう答えた。
1月中旬の小春日和。家々の正月飾りもようやく取り払われた。正月の明るく浮ついた空気はまだ引きずられていたが、早く日常の生活を取り戻そうと、覚束ない足取りで毎日が進んでいるという風だった。庭先では毛を逆立てて、ぷっくりと着ぶくれしたように見える雀たちが、砂地の庭の上に落ちた小さな木の実の欠片のようなものをせわしなくついばんでいた。山茶花の灰色がかった濃緑の葉の上に、今にも落ちそうな溶けかけの雪が乗っていた。
彼女が台所のから、淹れたてのコーヒーを持ってきた。慣れない手つきで不安げに液面を見つめながら、足の裏をするようにして、しずしずと歩いてくる。小降りの盆に、蒼い模様の入った白磁のカップが二つ載せられていた。
……っと。
何とか炬燵の卓の上までたどり着いた彼女の口から、思わず声が出た。
並々とつがれたコーヒーの液面は今にも溢れそうな勢いで端々まで揺れている。
「はい」
盆の上に二つ乗せられたカップのうち、見栄え良く入れられた方のカップを、彼女は彼に差し出した。
「ありがとう」彼はそれを受け取って、自らの前に置いた。
古い民家を改装した彼女の家は掘りごたつだった。彼女は自分の分のカップを盆から取ると、その盆を卓の上からどけて、自身も彼の向かい側に座った。
「通販で、新しい豆を買ってみたんだけど」
彼女は冷えた両手を炬燵に入れたまま、目の動きで彼の手元のコーヒーを指して言った。
「知らない産地だけど、おいしいって書いてあったから買っちゃった。インドネシアか何処かで作った豆だって」
「……もしかして、トアルコ・トラジャ?」
彼は思いついた豆の品種を言った。
「そう!そんな名前!」彼女は驚いて声を上げた。
「さすが、賢治(けんじ)。よく知ってるね。伊達にコーヒーマニアは名乗ってない」
「そりゃ、この豆は結構有名だよ。モカとか、ブルマンほどメジャーではないかも知れないけれど」
「へえー」彼女の感嘆の声。「私は、てっきり、新しい産地を発掘したかと思って、自慢してやろうと思っていたんだけど。……やっぱり敵わなかったな。」
悔しそうにそう言って、自分の手元のコーヒーを静かにすすった。
彼も一口含んだ。インドネシアの火山島からはるばる日本まで、どんな人たちの手を経てそれは彼の口まで届けられてきたのか。一杯のコーヒーを飲む度に彼はそれを想った。いい豆には想像を膨らます力があると、彼は信じていた。口の中に香ばしく拡がっていく香りの中に、南国の強い日差しと、そこで働く人々の褐色の肌と、バナナの葉の茂る森が見えた気がした。そこで駆け回る子供の顔は日本人の顔とどこか似ているようで、我々にはない無垢な強さと厳しさがあった。生と死が私達よりずっと近い国で、彼らはかつて、隷属の象徴であったはずのコーヒー農園を再興させ、それをつてとして、昨日よりも安らかな暮らしを求めて、一つかみの赤い豆を、今日も天日に曝しているのだろう。
彼に遠い南国を夢見させた香りは、口の中に豊かに広がり、立ち上り、溜息となって、静かに消えていった。
「……おいしい」
驚いたように彼は言った。
「上手に淹れられてるよ」
「本当?」彼女の表情が思わずほころんだ。
「ちょっと、お湯を入れるのが早すぎたかなって、心配してたんだけど」
「そんなことはないよ。すごく良く出てる。……随分、上手くなったんじゃないか?」
「まあ、ネットで色々調べて、それなりに勉強したから」
彼女は自慢げに言った。
「マメが、良かったのかも知れないけどね」
彼らのいる部屋は、彼女の家の南側にある日当たりのいい茶の間だった。窓側に座った彼女の背に、長い冬の太陽の光が緩やかに注ぎ込んでいる。彼女はその温もりに甘えるように、背中を丸めた。
「なんか、こうしている時が一番幸せ」満足げに彼女は言った。
「こういう時間が、いつまでも続いてくれればいいのに」
彼女の両親は共働きだった。父は内科の医者で、母は看護師だった。二人はここから1時間ほど離れた町の中心地にある総合病院に、そろって勤務していた。
「父さんも母さんも、最近は帰りが遅くって。私一人、お留守番の日が多いんだよね」
寂しそうに彼女は言った。
「誕生日でも家族がそろわないなんて、今までも日常茶飯事だったけど……」
「病院関係の親を持つと、結構大変なんだな」彼は言った。
「お医者さんは給料がいいって聞くから、もっといい暮らししているものだと思ってた」
「給料は悪くないのかも知れないけど……。もらっているだけの代償は払っているんだよ。家族は」
寂しそうな笑みを浮かべて彼女は言った。
「普通の家族がちょっとうらやましいかな。5時には仕事が終わって、お父さんが帰ってきて、家にはいつも、お母さんがいて……」
「サザエさんみたいだな」
「そう」彼女は笑った。
「あんな家族。……うちは、家族の予定より患者さんの容態が最優先だから。……代わりのお医者さんが、いないってこともあるけどね」
彼女の両親の勤める病院は町でたった一つの総合病院で、人手不足に悩まされていた。一昨年まで医者を斡旋してくれていた大学病院が手を引いてしまい、5つあった診療科のうち、内科、外科だけを残して、閉めてしまった。彼女の父親が勤務する内科も、実際にはたった二人の医師だけで切り盛りしていた。そのため、一方の医師の都合が悪くなれば、彼女の父が無理を押してでも出勤しなくてはいけなかった。
「でも、みんな感謝しているよ。眞菜(マナ)のお父さんが来てくれていなかったら、あの病院、今頃とっくに閉鎖されてただろうって」
「そんな……。もう、10年以上も前の話でしょ」彼女は失笑した。
「そんなこと未だに言っている人なんて、いるの?」
「いる、いる。うちの母親なんかもそう。……田舎の人は良くも悪くも、昔のことを忘れないから」
「そうかもね」彼女が笑った。
「……じゃあ、賢治のお母さんにはやっぱり感謝しなくちゃいけないな。……そうだ!」
彼女が大きな声を出した。
「春になる前に、賢治のお母さんにケーキの作り方を教えてもらわなきゃ」
「ケーキ?」
「そう、ケーキ。約束してたんだ。私でも作れるケーキがあるんだってさ」
彼女はほくほく顔だった。
「……子供っぽいと言われればそれまでだけど、やっぱり憧れるよね、ケーキの作れる女の子って」
「ケーキ、ねえ」彼は、あきれたような口調で言った。
「コーヒーをやっと入れてる人が、ケーキか……」
「何?」彼女は彼を挑むようににらみつけると、不機嫌そうにした脣を突き出した。
「いいよ。賢治には食べさせてあげないから。賢治のお母さんと、うちのお母さんと私で、“女の休日”、するんだもんね」
休日って言っても、お前はまだ働いてもいないじゃないか……。のど元まで出かかった言葉をすんでの所で飲み込んだ。
「でも、ケーキなんか作って本当に大丈夫か?」
ふざけた調子で語っていた彼が、急に真顔になった。「だって、あれは……」
「大丈夫、大丈夫」彼女は気丈に笑った。
「……そのくらい、よく考えてるよ。自分のことだもん」
2009年1月21日水曜日
『ロール・プレイ』 19
冬の気も緩んだ三月。冷たい外気に、暖かい光が場違いに差し込んでいた。春に切り替わるその直前のないまぜの大気に、僕と日比野の吐く息ももう白くはない。年中変わらない格好に、着古した暗い色のオーバーコートを羽織っただけの日比野と並んで、冬の通りを歩いた。
年度末で、電気店には多くの客が入っていた。皆、引っ越しや転居を控えているのだろう。多くの生活が再生する季節を迎えていた。
「...うちの妹が、悪いことをした」彼は事情をおおよそ知っているようだった。
「君に連絡しようとしても、つながらない、と言っていたよ。あいつなりに、心配はしているらしい。...まあ、自業自得なんだが」
「ごめん。僕の方もなかなか...、まだ気持ちの整理がついていないんだ」
僕は正直に打ち明けた。気持を誰かに打ち明けるのは、ずいぶん久しぶりだったから、口に出した途端から、気持ちが少しずつ軽くなるのがわかった。
「だろうな。僕だってショックだったよ。まさか自分の妹が、他人の“彼女を横取りするとは。恐ろしくて、両親には、とても言えない」
「朱音さんは、君だけに相談したのか」
「…僕が止めたんだ。」日比野は小さな声で言った。
「あいつは、始め、親にきちっと言うって言ってたんだ。まあ、あいつの考えそうなことなんだが….。だが、こればかりは、親は簡単には受け入れられないだろう?時間をかけて、すこしずつ伝えていった方がいいって言ったのさ」
「彼女らなりに、苦しんでいたようだったからな...。社会から、なかなか受け入れられない関係だということは、痛いくらいにわかっていたようだったし...」
日比野はそっぽを向いた。
「それとこれとは、話が別だ」
「でも...。」彼は、僕の方を向き直った。
「いいかい、もし、うちの妹が、男だったとしたら...、君は何の疑いもなく、あいつを恨めると思うんだ。変な事情を持ち出したところで、やってることは同じだろう」
彼の眼鏡の下の瞳は、いつになく鋭く、しっかりと現実を見ているものの強い眼をしていた。彼のこのような眼差しを、僕は初めて見たように思った。
「恨むだなんて、そんな...、朱音さんにはいろいろ世話になったし....」
朱音さんが、僕のことを好きでいてくれたようだ、と言う真樹から聞いた話は彼には伏せておいた。こんな時に、彼の前で、とても出来る話ではないと思った。
「ともかく、来週の土曜には出発するらしいぞ」
「…もう、行くのか」
彼女は手術を受けるかどうか決心する前に、卒業と同時に、この国よりも性に寛容な国に移住すると聞いていた。それにはアカネさんも同行することになっていた。もっとも、朱音さんはまだ大学二年生だったから、とりあえず今回は一時的に付いていくだけになるようだった。だがいずれは、どこかで二人の生活を作ることを目標としているのだろう。
「君にここまで迷惑掛けたんだ。あいつらなりに追い込まれているんだろう。…見送りには、行くのか?」
「行きたいとは思っているけど」
「無理するな...、どうせだったら、また二人で、メイド喫茶にでも行って、気を紛らわそう。もっと、女の子の可愛い、店を見つけたんだ…」
だが、彼は途中で気が変わったようだった。
「...かえって、いやなことを思い出しそうだけれどな」
ため息をついて冬晴れの空を見上げた。
†
夜の空港は閑散としていた。
青色ダイオードに縁取られた看板が、照明が部分的に落ちて薄暗くなった空港内に強い光を放っていた。
彼女らの飛行機はほとんどその日の最終便と言っていいほど遅い出発だった。
「...来てくれたんだ」
「朱音さん、は?」
「もう出発ロビーに入ってる。先に行ってますって」
僕らは、飛行機の発着の見えるテラスに歩いた。
エスカレーターが僕らを吹き抜けの宙に浮かべて、そぞろに高い所へ運んでくれた。
「向こうに着いたら、すぐ手術するの?」
彼女は首を振った。
「朱音の方も、私が男性化するのを求めているわけではないし、しばらくは二人で暮して様子を見るつもり。...向こうはそういう関係には寛容らしいから」
「僕は君のことを知るまで、同一性障害って、もっとわかりやすいものかと思ってたよ。」
「自分のことを、僕って言うとか?」
彼女は笑った。
「…正直、大人になってから、女に生まれたことを、後悔しない日はなかった。でも、初めてかな。ほんのひと時...、あなたの子供がほしいって、本気で思えた。もちろん、私が何者なのか、余計、迷いもしたんだけれど...、」
彼女は困ったように首をかしげて微笑んだ。その表情は切なく僕の胸に迫った。
「…ねえ」
彼女が言った。
「今日までの私とあなたの関係は、なんて呼んだらいいんだろう」
僕は考えた。僕にとっては、これは恋愛以外の何物でもなかった。彼女の中にたとえ男性の心が眠っていたとして、それが、どうして僕に解るだろう。僕の目に映る彼女は、どう見ても、一人の愛らしい女性に、他ならないのだから。
「君なら、なんて呼ぶ?」
僕は自分の回答を避けて、彼女に尋ねた。
彼女は下唇を少し咥えたような顔をして、じっと、真剣に考えていた。そしてやがて、はっきりと僕の方を見て、言った。
「わからない。私とあなたの関係は、私とあなたの関係。...世の中には、まだ名前の付いていない関係が、あんまり、多すぎるよ」
困ったようにそう言って、笑った。
「恋愛という言葉では、片付けられないか」
僕は言った。
「もちろん」彼女が言った。「...もしかして、あなたはそれを、望んでいるの?」
「正直、ちょっとね」僕は少し照れくさくなってしまった。
「なあんだ」彼女は笑った。「それなら、それでもいい。...あなたを愛していることには、変わりなかったから」
滑走路を示すランプが、一列に並んで、その先に続く航空路の見えない路線の入り口を指示している。その中へしずしずと舞い降りる一機の飛行機が見える。
暗闇で、僕らの影がひと時、重なった。
「...もう、行こうかな」
彼女が言った。
「ありがとう。...また、どこかで会えるかな」
「…顎に髭の生えた私とでも、また会いたい?」
彼女は悪戯をするような目をしてそう言った。
僕は答えた。
「会いたいよ。…君が男の人になってしまっても。...いずれにしろ、僕らのすることは、変わらないじゃないか」
「...結局、会うのはお酒の席、なんだろうね。私達」
彼女はあきれたように言った。
「...ホントに、あなたが私の最初で、最後の“彼”で、良かった」
そう言って、自分の荷物を手にとると、ゲートに向かって歩き始めた。
ゲートをくぐる直前、彼女は、くるりと後ろをふり返ると、みるみる愛らしい笑顔になって、僕の方を向いて手を振った。そして、いずれは切られてしまうのであろう、伸び始めた黒い後ろ髪をなびかせながら、空港の検査場の奥に消えた。
[終]
『ロール・プレイ』 18
「….でも、私…やっぱり気持ち悪いよね。」
横断歩道の手前から一歩も動かないまま、彼女は笑っていた。頬を伝う一筋の涙が陽光のさす笑顔の中に光って見えた。
「結局私は、オトコオンナなんだ。誰かを愛そうにも、その誰かに、私は適した心と体をもっていない。いつも、どちらかが、私の足かせになって、前に進むのを阻む…。」
彼女は顔を覆った。薄い皮膚に鮮やかな赤みが透けて見えた。
ぼくは、その場所に立ちつくしたまま、その様子を何も言わずに見つめていた。
「ねえ、祐介?」
「ん?」
「...もう、これで最後にしない?」
泣きぬれた顔を上げて、彼女は言った。溜まっていた涙が、その瞬間、大きな滴となって、ぼろぼろとこぼれた。
僕はもう、驚かなかった。
ここまでの話で、彼女がそのつもりで、今日ぼくを連れ出したことが、ある程度予想できていた。
「それがいいと思うの。…祐介だって、もう元のように、私を愛することは、できなくなったでしょう?」
「手術は、もう受けると決まったの?」僕は尋ねた。
彼女は首を振った。「あくまで、私の中で…、必要なら受ける覚悟を決めただけ」
「もしかしてそれは….。」
「そう、朱音、のために。おかしいでしょう…。.付き合ってたんだ、私たち。もう二年前になるけど。」
真樹は、僕の前に立って、横断歩道を歩き始めた。鉢の開いたスカートと、それを彩るレースが、彼女が歩くたびに左右に揺れた。
「周りに何を言われても気にしないで、付き合っている人たちも、いるにはいるんだ。でも…、私は小さいころから、女の子らしく生きるように、強く親に言われてきたせいもあって….、やっぱり後ろめたかった。私も彼女も、それが普通でないっていう意識に、いつも潰されそうだった。それでお互い決めた。別れて、みんながやっているような、普通の…、幸せな恋愛しようって」
真樹の場合、そうして出会ったのが、僕だった。
「...今になって思うと、私があなたに出会ったとき、朱音は私に、気を使ってくれたんじゃないかなって思ってる。別れた時も、言い出したのは私だった。そのときも、あの子は何も言わずに受け入れてくれた。それに...、」
「それに?」
「気づいてた?そもそも朱音は、あなたのことが好きだったんだよ。それを...、結果的に、私が奪った格好になった。もう少し早く、そのことに気がついてあげるべきだった」
「それは,,,,」
「私は...、罪悪感を感じてるんだ。少なくとも私が...、もう少し自分をしっかり受け入れらていれば、誰も不幸にすることはなかったのに....、」
「自分を受け入れるって...、」
「つまり、だから…」
真樹と僕は、歩いているうちに秋葉原の人通りの多い通りを抜け、狭い道に入って行った。まとわりつくようなかび臭い配管の匂いが、風に乗って通り抜けた。向こうには、また日当たりのよい広い道が見える。蝶のように朗らかに、メガネをかけたワイシャツたちが語り合い、通り過ぎていくのが見える。
「前にも一度、考えたことがあって、その時、自分なりにいろいろ調べたけど...、でも、あれはすごく大変な手術なんだって...、いろいろ、程度があるみたいでは、あるけれど...、いろいろなところから、筋肉を取って、より合わせたりして...。でも、私は恐れるべきじゃなかった。自分を受け入れるために、そのくらいの代償は払ってそれで...、」
「男として、朱音を愛する?」
「ええ...、せめて、形式的にでも、彼女と普通の恋を...。」
「ごめんね、祐介は何も悪くない」彼女は言った。
「悪いのは、すべて私。朱音を苦しめたのも、祐介に...、迷惑掛けたのも。そもそもが...、私たちは、知り合うべきじゃ、なかったのかも。」
すべてを諦めたような声だった。
「私の迷いが...、すべて悪かった。最初から、私が自分を受け入れられていれば、だれも必要以上に苦しめることは、なかった。」
真樹は静かに言った。
「…ごめんなさい。」
僕は放したままだった真紀の手を取った。そしてそれをしっかりと強く握った。
「そんなこと、言うなよ」
彼女は驚いたように目を大きく開いて、僕を見ていた。
「…ごめんなさいなんて、言うなよ。どんな経緯があったにせよ、今の君は、僕の彼女なんだ。朱音さんの、幸せを考えるのはもっともだけど….、もっと僕のことも考えてくれないか?」
「….」
「僕は今まで、君を女性として以外、見たことがなかった。人の内面なんて、そもそも、本人にだって、よく見えないものだろ。だったら、僕が君を女性として疑わない限り…、君は、僕の彼女、だよ。…そうやすやすと、手放したくはないんだ。」
僕は彼女を引き寄せた。
暗いビルの谷間。湿った風が通り過ぎる。
「…ありがとう」真樹は言った。
「ありがとう、祐介。でも、もういい。私には、これで十分」
彼女は、僕の胸からからそっと体を離した。彼女を抱きしめた時の感覚が、僕の胸元から少しずつ乾くように消えていくのを感じた。
「あなたの気持ちは、とてもうれしい。でも、朱音には…、私しか、いない」
彼女の気持ちは動かないようだった。
「でも…おかげで.最後に、幸せな恋愛ができた。これで、私は女としての自分に、思い残すことは、ない。」自分自身に言い聞かせるように彼女は呟いた。
「…さあ!」
再び顔をあげた。そして、矢庭に僕の手を取った。
「辛気臭いのは、もうこれで終わり。この先に、いいお店があるの。…もう少し、彼女で居させてね。」
「いいお店って?また、居酒屋?」
彼女はうなずいた。
「たこわさが、本当においしいの」
満面の笑みを浮かべた。
「今日は、日本酒といきましょうか。…悪い?」
「いえ、いえ」
僕は言った。
「…どこまでもついていきますよ、君の行くところなら」
彼女は笑った。
「ほんと、いい返事!」
僕は今まで、誰に恋していたんだろう?
彼女と別れてから、僕は考え続けていた。僕の愛した『彼女』は、あくまで真樹の一面であって、すべてではなかったはずだった。真樹は普通の恋愛をするために、それを隠そうと努力してきた。その努力も含めて、僕は真紀を愛せなかった。その努力を知っていたのは、僕ではなく、朱音さんだけだった。
女性という存在の中に本来ならば相容れない、男という現象を内在してしまった彼女。それを一時的にせよ否定するために、しつらえられた、『彼女』というロール。それは、猫の耳を持つメイドのような、キャラクターという照れ隠しと同等の存在なのかもしれなかった。じゃあその表面ばかりを見ていた僕は、彼らと変わらないわけだ。秋葉原でコスプレの少女を追いかける無数のワイシャツたち...。
僕にはもう言葉が出なかった。何も考えられえなかった。
これで最後にしない?、と切り出された時にはそれほどのショックもなく、この苦痛を意外と乗り切れるのではないかという楽観すら抱いていた。しかし、こうした悲しみは、死に至る疼痛のように、じわじわと僕の精神を蝕むようなのだ。
彼女と別れて一週間もたつころには、僕は何もしたくないという無気力な感情に取りつかれた。
自分の生活や、思考の中に、彼女のことを考える癖ができていた。
テレビを見ていても、これ教えてあげようとか、思う自分がいた。
自分の将来を考えても、彼女との生活を前提に作られた未来があって、その未来から彼女の姿を消してしまうと、そこには暗い虫食いだらけの、原型を想像できないほど朽ち果てた『夢』が転がっているだけだった。
とにかく、今は休みたかった。何か深い眠りか...、陶酔できるものに出会って...、頭の回転を抑えて...、このぐるぐる回る思考の輪廻を、一度どこかでリセットする必要を感じていた。
†
僕が絶望のどん底にいた頃、日比野からまた、『街』に出ないかと誘われた。
真樹と付き合い始めて以来、彼と会うことは少なくなっていた。正直、外出したい気持でもなかったが、誰にも話さず、葛藤を続けることにも、いい加減疲れていたので、彼の誘いに乗ることにした。
2009年1月20日火曜日
『ロール・プレイ』 17 (『僕の彼女が転換します』改題)
「真樹?」
「…祐介」
電話の向こうの真樹は元気がなかった
「これから、そっちに行っていい?…ていうか、もう部屋に着きそうなんだけど」
こんこん、と扉をたたく音がした。
僕は立ち上がって、玄関の扉を開けた。
「こんばんは」
真樹は僕に微笑んで見せた。なんだかひどく、疲れているようだった。
「ねえ、...今夜は、ここで眠らせて」
真樹は理由も言わずにそう言った。
僕はもちろん、構わないと言った。
ありがとう。彼女はそういうと僕の部屋にあがり、服を着たまま、僕のベッドに横になってしまった。そうして、間もなく、すやすやと寝息を立て始めた。
彼女の眠りを妨げないよう、僕は余っていた毛布にくるまって、ベッドにもたれかかるようにして眠った。心配をして疲れていた。朱音さんのことは気になっていたが、ともかくも、真樹が無事に帰ってきたことで、一安心した。無理な姿勢ではあったが、僕もまた、すぐに眠りに落ちてしまった。
目が覚めた時、すでに太陽は高く昇っていた。
ベッドに眠っていたはずの真樹の姿はもう無かった。彼女の眠った跡はベットの上に確かに残っていたが、その温もりは消えかけていた。
彼女の眠った跡を直そうとして、彼女の使った毛布を手に取った時、僕は指先にひやりとした感覚を感じ取って、はっとした。真樹の使っていた毛布の、ちょうど、彼女の首に掛かっていたあたりが、かすかに濡れていたのだ。
彼女は昨夜、ベッドの中で、一人で泣いていたらしかった。
真樹、どこ行ったんだろう。そんな思いでいると、再び僕の携帯が鳴った。
「祐介!起きた?」
真樹だった。昨夜よりは随分、元気そうだった。
「ねえ、外に出てこない?」
「今どこにいるんだ?」
「アキハバラ」
「秋葉原?なんで、そんなところに...」
「いいじゃない。あなた達の『街』なんでしょ」
「それは、僕の友達の、街であって....、」
「気にしない気にしない。いいから早く来なさい!」
ガチャっ、と音がして一方的に電話は切れた。
僕は手早く身支度をして家を出た。
秋葉原の駅前には30分余りで着いた。
彼女の携帯に電話を入れた。
「祐介のすぐ後ろにいるよ」
真樹は電話口でそう言っていた。僕は後ろを振り向いた。そこには、恥ずかしそうに手を振る真樹がいた。その姿に、僕は思わず、吹き出しそうになった。
真樹は、あの、以前辞めた店のものとよく似た、メイド服を着ていた。
「へへ...、似合う?」
「どうしたんだその格好?嫌だったんじゃなかったのか?」
「また、着てみてもいいかなって思って」
真樹は目を細めて微笑んだ。
「ちょっと、萌えた?」
「...僕はオタクじゃない。」そっぽを向いた。
「でも、似合ってないことも、ない」
「正直に言えばいいのに」
真樹はあきれたように言った。
「私が自ら進んでこんな恰好をするのは、ほとんど奇跡だよ」
「いったい、どういう風の吹きまわしなんだ」僕は真紀の方を向き直った。
「朱音さんは、どうなったんだ?昨日は急に夜中に打ちに来たりして、...心配、したんだぞ...」
真樹は、みるみる僕を愛おしむような表情になった。
それは、はっとするほど美しかった。
「...ありがとう。心配してくれて」
「そんな...」
僕は彼女を見つめ続けることが出来なかった。思わず目をそらした。
「あのね、祐介、」
真樹は僕の方をまっすぐに見て言った。
「実は、わたし…、今、考えてるんだ、性、転換手術」
「へ?」
唐突なことで、僕には彼女の言っている意味がよく飲み込めなかった。「君は一体何を...、」
「簡単に言えば、私、男になりたいの」
真樹の表情は努めて明るかった。
「あの、『性同一性障害』ってあるでしょう?私、あれなの。部類としては軽い方なんだけどね」
「冗談だろう、そんな....」
「冗談なんかじゃない。...ほら、これ、診断書」
彼女は、一枚のA4大の紙を見せた。そこには確かに、医者の読みにくい癖字で、彼女の名前と、その病名が描かれていた。日付は3年ほど前のものだった。僕は、目が回りそうだった。
「でも、あれって、体は女でも、心は男、みたいな病気だろう?」
ぼくはすっかり取り乱して、自分の声が大きくなっていることにさえ、気がつかなかった。
「君は、確かに男勝りなところはあるけれど、僕と、付き合ってたじゃないか...、あれは、全部、嘘、だったのか...?」
「...嘘、なわけないじゃない」
彼女は言った。
「私は、今でもあなたを愛してる。あなた以外の“彼氏”なんて、私にはこれまでも、...これからも、考えられない」
僕は頭が混乱していた。
「この病気はね、いろいろな型のある病気なの。みんながみんな、完全な男性の心を持っているわけじゃない。...ただ、共通しているのは、女の人であれば、女性としての自分の体が、自分のものでないような違和感を持っている、という点。私にはそれがあった。ずっと、幼い時から」
「...」
「そして、私は、軽度だったから、心の状態が、完全に男性というわけでもなかった。違和感を感じながらも、女性としての感覚も持っていた…。そんな珍しいことじゃないんだよ。この障害を持つ人の中には、普通に結婚して、家族を作る人も大勢いるそうだから…」
彼女は彼の手を取った。ひやりとする感覚が、彼の手の皮膚を通じて伝わってきた。テニスをやめてから、その手はずいぶん白くなり、指もしなやかさを取り戻しつつあった。「...ねえ、ちょっと歩こうよ」
彼女は、彼の顔を見上げてそう言った。そして手を引いて、僕が日比野と歩きなれた道に繰り出した。
†
沿道では、彼女のようにコスプレした女性たちを何人か見かけた。メイド姿の女性と歩く僕を、取り分けて注目する人間はいないようだった。日比野が何度も立ち止まった、ロボットアニメのフィギュアの飾られたショーウィンドウが通りに沿っていくつか並んでいた。
僕らは、手をつないだまま歩き続け、少し開けた交差点に出た。右から左へ、左から奥へ。人々が行き交い、視線も合わせずにすれ違う。まだ見ぬ人生が永遠に知ることのない人生と交差する場所。横断歩道の信号は、まだ赤だった。
僕と彼女は、そのラインの手前に立ち止まる。
「私の女性としての自覚は、あなたという人間と出会うことで、だんだん強くなってくるように思えた。私は、あなたと付き合い始めてから、自分の中の女性を再発見したの」
真樹の握った手が、しっとりと汗ばんで来るのを感じていた。彼女の中で、感情が激しく起伏しているようだった。
「私の中の女性としての違和感は、消えることがない。でも、一人の女性として、もっとずっと、あなたと一緒にいたい...。たとえ、それが女性として、演技しているだけだったとしても...。今は正直、そう思ってる」
彼女は、握った手に力を入れた。彼女の右耳に、僕のプレゼントしたピアスが小さく揺れているのに、僕はその時になってようやく気がついた。
僕らの前の信号が、赤から青になった。僕は一歩前に足を踏み出そうとした。
しかし、その時、しっかりと握っていたはずの彼女の手は、僕の手の中から、するりと抜けて離れてしまった。
「...でも、私....、やっぱり、気持ち悪いよね」
『ロール・プレイ』 16
真樹と付き合いだして、5カ月が過ぎたころだった。
ある日の夕方、朱音さんから突然に、そして久々にメールがあった。
“祐介さん、こんにちは。
先輩とはうまくやっていますか?”
久しぶりのメールにしては要領を得ないメールだった。一体どうしたんだろう。そう思いながら、僕はメールを返信した。
“うまくやってるよ。ありがとう。
それもこれも朱音さんのおかげ”
ややあって、朱音さんからメールが来た。
“今どこにいます?”
“自分の部屋でテレビ見てる”
その日は大学の残っていた最後のテストがちょうど終わった日で、僕は早く家に帰ってきていた。真樹のほうは、看護師の国家試験が近づいていたから、自分の部屋で勉強すると言っていた。
朱音さんから、しばらくして返信が来た。
“遊びに行っちゃおうかな。場所
って、大学のそばですよね”
不意のことだったので驚いた。
どうして彼女が急に僕の部屋に来たいと思ったのか、全く見当がつかなかった。
理由の無い不安を感じた僕は、朱音さんに直接、電話してみた。
「...もしもし」少しためらいがちに、朱音さんの声がした。
「朱音さん?」できるだけ優しく彼女に語りかけた。
「どうした?」
「...へへ」はにかむような彼女の笑い声が聞こえた。「...ご迷惑、でした?」
「いや、いいんだけど、突然のことだからびっくりして...」
「今、先輩っていらっしゃいます?」
「いや、真樹、最近、国家試験の勉強が忙しそうで。今も、家で勉強してるはず」
ああ、そうですよね。
朱音さんが言った。
「いきなりで、すいませんでした、何だか....、少し祐介さんとお話ししたい気持ちになったもので」
「…何か、あったの」
いえ、何かあったというわけでも....。
電話の向こうの朱音さんは、何事か、言うのをためらっているようだった。
ええ、あの、なんというか….。電話の向こうで、彼女はそんな言葉を繰り返していたが、
「…祐介さんは、先輩のどういうところが好きですか」
唐突に、僕にそう質問してきた。
「どういうところって...、前にも言ったと思うけど、…少し不器用で、でも、いろいろ周りのことは考えていて...、女の子らしいところもあって…、そういうところかな。...なんで急に、そんなこと聞くの」
僕は恥ずかしくなって、照れてしまった。
「...幸せそう」朱音さんは言った。
「先輩も、今きっと、幸せですよね。最近、どんどんきれいになってる」
「そう?...だと、いいね」
真樹が、会うたびに少しずつ女の子らしくなってきているのは、僕の目にも分った。朱音さんに買ってもらった化粧品のほかに、いくつか自分に合いそうなものを買い足しているようだった。服装も、はじめはジーンズばかりだったのだが、先日は線の柔らかいワンピースを着て僕の前に現れた。髪も、僕と出会った時にはうなじがすっかり見えるほどに短く刈っていたのを、今では軽く肩に掛かる位まで伸ばしていた。
彼女の誕生日に僕が贈った安物のちいさなピアスは、まだ付けずに大事に仕舞っておく、と言った。
もう少し待って。これが似合うような女性になったら、私、これを付けて祐介の前に現れるから。
そう言って、楽しそうに笑う彼女を見ながら、僕はその日がそう遠からず来るような気がしていた。
朱音さんは、電話の向こうでふっと口をつぐんだようだった。
少しの間沈黙があった。
「...なら、いいんです」
「どうしたの!朱音さん、らしくないよ」
ふふっ、と朱音さんが小さく笑った声がした。
「...らしくない、ですか」
「うん。ずい分、らしくない」
「...らしくない、かあ」
吐き出すように朱音さんは言った。
「...私がやっぱり変なのかな」
「どうしたの、一体。何か、悩んでるの?僕でよければ、相談に乗るよ。朱音さんは、僕らの恩人なんだから」
「...ありがとうございます。もう、いいんです」
電話の向こうで、朱音さんは言った。
「ごめんなさい、急に、電話しちゃって。本当に...。じゃあ...」
朱音さんはそう言って、一方的に電話を切ってしまった。
電話が切れてからも、僕はしばらく真っ暗になった液晶画面を見つめていた。
付き合い始めた当初、僕はできるだけ早くに朱音さんのもとを再び訪れて、お礼をしなくてはいけないと思っていた。しかし、目の前のことにかまけているうちに、それは遅れに遅れ、結局あれから一度も朱音さんに合わないまま、月日が過ぎていた。
一方で真樹の方は、時々彼女と会っていたようだった。
真樹の話にはちょくちょく朱音さんの名前が出てきていたので、僕も彼女とずっとあっていないということを特に意識していなかったということもあった。
それでも、ここ一か月ほどは、彼女でさえも朱音さんとは会えずにいた。電話をしてもつながらないことが多く、メールの返事も遅れがちで、やり取りも途切れがちだったそうだ。心配になって部活に顔を出したこともあったが、後輩の部員には、最近彼女は顔を出していないと言われたという。
僕はどうしようかしばらく迷っていたが、やっぱり不安に思ったので、そのまま真樹に電話をかけた。
「どうしたの?祐介」
僕は朱音さんから電話があったことを真樹に話した。僕と彼女の間に、重い空白の時間が流れた。
「…そう」
長い沈黙を割くように真樹が口を開いた。
「….どうする?彼女、何かあったんじゃないかな」
「…」
真樹は何も言わなかった。ひょっとすると彼女はうすうす事情を知っているのかもしれない。そんな気がした。
「君は何か心当たりがない?朱音さんが元気がない理由に。」
「….ねえ、祐介」
電話の向こうから、真樹の抑えた声がした。
「何?」
「少し、時間をくれない?これから、朱音に会って、ちょっと話してくるから…。」
「それがいいと思う。僕よりきっと君の方が、相談に乗れると思うよ」
「…だと、いいね」
彼女は、あまり自信がなさそうだった。
「いずれにしろ、事情は必ず教えるから、心配かもしれないけど、待ってて」
「うん。…頑張って」
…へへっ、まかせて。真樹の返事が、受話器ごしに聞こえた。
それから僕は彼女からの返事を部屋で待っていた。返事は、夜半を過ぎても来なかった。明日になるのかな。そうは思いながらも、気になって眠れそうになかった。僕は気持ちを落ち着かせるため、CDラックから気に入っていた一枚を取り出し、ボリュームを絞ってかけた。
ワルツ・フォー・デビーいうピアノ曲だった。
作曲者の姪ために作られたというその軽快なメロディーは、川辺を跳ねる少女をの姿を連想させ、沈んだ心をいつも浮き上がらせてくれた。物音ひとつない、深夜の静かなアパートの一室で、追いすがる不安をかき消すには、破滅的な人生を送った作曲者が残した、かすかな未来への希望を歌ったこの曲が打って付けのように思えた。
時計が午前2時を回ろうとしていた頃、夜の静寂を引き裂いて、携帯が鳴った。
「真樹?」
2009年1月18日日曜日
『ロール・プレイ』 15 (袖のない舞台の上で)
後に、僕はまた日比野と久しぶりに秋葉原に出た時に、偶然その話題になったことがあった。
「それは違うな。愛情は必要だよ。」
彼は意外な答えを返してよこした。
「なんで、また。」
僕は常々の日比野を思い返して、その回答とのギャップに、思わず笑ってしまった。
「笑うなよ。...そう思って悪いかい」
「いや、あんまり意外だったから....。」
僕にそう言われると、日比野まで思わず苦笑してしまっていたが、
「君は、『偶像』に恋をしたことがあるかい」
ふと真面目になってそんなことを言った。
「『偶像』?」僕はその言葉に心当たりがなかった。
「そう。要するに、理想の女性を模したものだ。僕にとっては、フィギュアやアニメのキャラみたいなのが、それに当たるのかもしれないな。テレビのアイドルだって立派な偶像だと思うけれど」
「それに“恋”をするのかい?」
「...できなかったな、僕には」
彼は言った。
「...やっぱり、飽きるんだよね。できあがったものは、一つのパターンから抜け出せないから」
「オタクの君でもか」
「オタク、か」
彼は冷笑を浮かべた。
「そんなもの、本当に存在するのかな」
『街』は朝からじめじめとしていた。夏を迎えて、沿道を歩く人々はテレビアニメさながらの露出の多い格好をして現実的なアスファルトの道を行き過ぎる。細く鋭いシルエットのヒールのつま先では、虐げられた彼女らの親指が悲鳴を上げている。彼女らのモデルとなった、ハイヒールの美少女戦士達も、外反母趾に悩んだことが、あったのだろうか。そんなエピソードが物語中に挿入されていない限り、コスプレする彼女らは、そのことでうかつには泣けない。
「その瞬間に快楽が生じることにはそれでも変わりがないんだ。でもどうしてその後であんなに虚しい気持ちになるのか...。僕なりに考えたこともあったな」
日比野は話を続けた。行き交う人々を見つめながら。
「ある時、ふと気がついたんだ。ようするに、それは、相手に受け入れられているっていう、確信が得られなかったからだって。」
彼の手は、目の前に置かれた大ぶりのコーヒーカップの取っ手に掛けられていた。それを飲むでもなく、彼は深い褐色の液面をじっと見つめていた。
「『偶像』相手に恋をして、それをいつまでも追っかけていたって、そんなのは完全に一方的だ。そんな確信...、安心のようなものが得られることは、いつまで経っても無かった。僕が、恋愛や、セックスに求めていたのは性的な快楽もあるけれど、それよりむしろ、そういう安心感だったんだ。相手に、一番恥ずかしくて、大切で、繊細な部分まで、受け入れてもらっている、っていう」
彼はマグカップのコーヒーを口に含んだ。白い湯気が彼の小さな瞳の前で揺れた。
「だから...、相手がロボットだったら、いずれつまらなくなると思う。人間相手だって、あんまりワンパターンだと、倦怠期ってものがあるくらいだろ」
日比野の真剣な表情を見ていて、僕はふと、あることを思い出し、思わず含み笑いをしてしまった。アカネさんから聞いた日比野のグラマラスな彼女のことを思い出したのだった。じゃあ、恋人がコスプレしてくれてたら、文句がないってことか?真面目に話してくれた日比野には悪いと思ったが、そう思うと、笑いが抑えられなくなった。
「どうしたんだ」
突然笑い出した僕に、怪訝な顔をして彼が尋ねた。
「...いや...、実はこれ、ほんとは内緒にしてくれって言われてたんだけど...、」
僕は黙って隠し通せる気がしなくて、朱音さんから聞いた話を、正直に彼に話した。
「...あいつ、ほんとおしゃべりだな」
「怒らないでやってくれよ、僕まで、嫌われちゃうよ」
「僕まで、は余計だ」
日比野はコーヒーを口に運んだ。
「...彼女とは確かに付き合ってるよ。でも...、」
「でも?」
「あれは、彼女の、『ロール』だからな」
「...『ロール』?」
聞き慣れない言葉に僕は戸惑った。
「ほら、ゲームであるだろ、ロール・プレイング・ゲームってやつ。」
「ああ、ドラクエとかかい?」
「そう。あれは、自分が勇者っていう、一つの『役』を演じるゲームなんだな」
それは僕も知っていた。幼い頃からそう言うゲームは好きで、良くやっていたから。
「で、それが君の彼女と、どう関係があるの?」
僕には解らなかった。いくら秋葉原がそうした空想と現実が入り交じった街だったとしても、それが、実在する彼と彼女の関係にまで関わってくると言うのはどうにも理解できなかった。
「彼女は…」
彼は言葉を選ぶようにゆっくりと説明を始めた。
「聞いたと思うけど、相当にコスプレに凝ってるんだ。それは、ちょっと凝りすぎてるくらいでさ。コスプレそのものが、ゲームやマンガの登場人物になりきって、それを演じている訳だけれど….。彼女はいわば、『オタクに恋されたコスプレ少女』っていうロールの中にいるんだな」
「まさか、そんな...」
「それは、そんな不思議なことじゃない。恋なんて、大なり小なり、そういうものだろ。映画のワンシーンを再現したような凝ったデートの演出を、俳優に似ても似つかない二人が恥ずかしげもなく、やっていたりするだろう。横浜辺りで」
「まあ、それは...、」
真樹とつきあい始めたばかりの僕にも多少、心当たりがあった。
「僕は最近、それを強く意識しているよ。彼女にとって僕は、演出の装置のひとつに過ぎないんだ」
「そんなことは...」
「彼女が本当に愛しているのは、究極的には、たぶん自分だけだ。もし、僕よりオタクらしいオタクが現れたら...、そんなの、いっぱいいると思うけれど...、彼女はそれと僕を取り換えても、そんなに気にしないだろうな。…要するに、僕、という人間でなくてもいいわけだよ。僕と同じ、『ロール』の人間であれば」一息に言った後、彼はいつか見せたような、覇気のないぼんやりとした表情を浮かべて、窓の外の往来を眺めていた。
「君は自分に自信が無さすぎじゃないか?…もっと、考えてみたらどうだい。彼女には、僕が必要だ、とかさ」落ち込んだ様子の彼を励まそうとして僕は言った。
「...君は幸せなんだな。」日比野は冷笑を浮かべた。僕の励ましの言葉は、彼には届かなかったようだった。何かを思い出すように、手元のコーヒーカップを見つめた。そして、そのカップを両の手で、静かに包んだ。
†
真樹と付き合いだして、5カ月が過ぎたころだった。
ある日の夕方、朱音さんから突然に、そして久々にメールがあった。
『ロール・プレイ』 14
こんなことがあった。
あれは付き合い始めてどれくらいたった頃のことだろう。
彼女と、初めてセックスした時のことだ。
僕の体が彼女の体に近づき、覆いかぶさろうとした刹那、彼女は不思議なものを見るような眼で、僕の顔を見つめていた。女の人が、こういうとき男の顔を見つめることはあることだと思うけれど、僕には何だか、その時の彼女の、新しい発見にでも出くわしたような表情が気になった。
一通りのことが終わった後、僕はそのことを思い出した。隣の彼女に、あの時、一体何を考えていたのか聞いてみた。
「『会話』だなって、思った」彼女は言った。
「会話?」彼女の口から意外な答えが返ってきたので、僕は驚いた。
「そう。セックスってね、たとえば男の人がちょっかいを出し始めるでしょ?」
彼女は暗闇の中で、僕の目をまっすぐ見て話し始めた。薄暗がりの部屋の中で、残光のようなグローランプの光を反射して、彼女の瞳はほのかに、火を灯したような輝きを宿している。
「すると女の人が反応するよね。今日の私は、なんだか恥ずかしがってしまったけど。….でね、それを見ると、男の人はまた次の対応をとる。...あなたは、私の背中をくすぐったっけ」
自分の欲求に突き動かされた、あまり意識的ではない行動を、詳しく彼女に再現されて、僕はずいぶん恥ずかしい思いをした。女の人が意外と冷静なのに驚いた。
「こうやって、二人の間のやり取りがあって、セックスってキャッチボールみたいに進んで行くんだなって、ふと思った。….まるで、お互いの身体で会話しているみたいに。」
それは僕に、彼女と一緒に見た動物番組に出ていた、南国の鳥に住む鳥の果敢で複雑な求愛ダンスを思い出させた。オス鳥の真剣な表情とその最中の自分の表情とを重ね合わせ、僕は思わず苦笑せずにはいられなかった。
「でも、」彼女は続けた。
「...今、あなたに話しながら思ったんだけど、じゃあ、もし、女の人の反応を、完全に再現できるロボットがあったら...、男の人はそれだけで、やっぱり十分なのかな」
「それは...。」
僕は答えに詰まった。それはつまり、セックスに愛情は必要かってことなのだなと僕は理解した。
「それは、そうかもしれないな...。」
僕は自分の行動を思い返してみて、否定する自信がなかった。
「そうだよね」彼女は意外にあっさり僕の答えを受け入れた。
「いくら話しても、届かない言葉はあるものね。会話は成立しているように見えても」彼女は微笑んでいた。
「回りくどい言い方だな」僕は言ってやった。
「...確かに」
ふふ、と声に出して笑った。
「ねえ、」彼女は身体を僕に向けて、急に真面目になって尋ねた。
「あなたは、私の身体のどこが好き?」
「身体の?」
「そう、私の、身体の」
僕らの体にかかっていた毛布を手で持ち上げるようにして、彼女は自分の身体が僕によく見えるようにした。そうして、自分自身でも、自分の身体を覗き込んだ。
「教えてくれない?私にはよく、わからない。この身体の何が、あなたを興奮させるのか。…言い換えれば、ロボットには、何が必要?」
僕は再び、答えに詰まった。
「胸とか、おしりとか、そんなところが男の人にとっては魅力的なんだろうなって、思ってはいるけど、男の人と、女の人の感覚って、違うみたいでしょう?…自分の感覚とは、違うのかなって。」
「全体が、必要なんじゃないかな…」
「全体?」
「…でも、人によって違うみたいだよ。胸だけとか、足だけとか、そういう部分だけで、興奮する人もいるみたい」
「…祐介は?」
彼女はまっすぐに、僕の目を見ていた。
「祐介は、どうなの?」
僕は答えに困ってしまった。
「祐介は、私に何があるから、私を女として、興奮してくれるの?」
彼女の目は真剣だった。
「何がなくなったら、私はあなたにとっての女性ではなくなってしまうの?」
『ロール・プレイ』 13
「村瀬、真樹さん、か」
僕は独りごちた。今日の彼女の仕草一つ一つを思い起こしていた。
正直、彼女の性格は、外見から予想していたものとは大きく違っていた。僕はもっと穏やかで、朱音さんが言っていたようにシャイな性格なのだろうと思っていたが、実際に話してみると正反対で、むしろ自分よりずっと頼りがいのある性格のように感じた。
でも、そうした男勝りな性格の一方で、時々見せる女性的なしぐさや感覚が僕が、僕には余計に魅力的に映った。
「…そうだ」
僕は、そこで、ふと今日の日を生み出してくれた朱音さんのことを思い出した。ポケットから携帯を取り出して、彼女にメールを送った。
“朱音さん、もう寝ちゃったかな
?今日は、ありがとう”
そう言う書き出しだった。
“始めはどうなるかと思ったけど
、予想外に彼女とうち解けてしま
いました。”
朱音さんからはすぐに返事が来た。
“こんばんは☆祐介さん。
まだ眠っていませんよ。ちょうど
ベットに入ったところ。
良かったですね。私は先輩が、知
らないところでお店を辞めていた
ことを、さっき友達から聞いて、
明日、不平を言って上げようと思
っていました。”
僕はそれを聞いて明日の二人のやりとりを想像し、一人でにやけてしまった。
彼女はそれから、メールの末尾に
“もう、祐介さんがお店に来なく
なっちゃうだろうなと思うと、少
し寂しいです”
そう書いていた。
僕は、少なくとも日比野と秋葉原に行くことは今後もあるだろうし、メールだけではなく実際に朱音さんに会って今日のことを報告したいと思っていた。そのことをメールに書いて返信した。
“また、行きますよ。朱音さんの
ネコミミメイドは特別です”
彼女から返事が来た。
絵文字で、怒りを表すマークが入っていた。
“もう!
でも、いいです。
また来てください☆”
僕は携帯を折りたたんでポケットにしまった。
幸せな笑みはいつまでも引かなかった。
†
さて、僕はこうして真樹と知り合ってから、順調に交際を重ねていた。
そのほとんどは初めの時と同じようにお酒を介した付き合いだった。
真樹は、朱音さんの説明から受けた印象よりずっとオープンで、誰とでも仲良くできそうな印象の女性だった。あまり女の人と合わせるのが得意でないと感じていた僕にとって、彼女のこの性格は救いだった。僕と彼女は、始め飲み屋で頻繁に合うようになり、あちこち出歩くようにもなり、やがて彼女の部屋に上がり込んで飲むことも多くなった。
女の子の部屋に入ったのは、それが初めてではなかった。僕の印象では、女の子は誰も、自分の世界のようなものを部屋に持っていることが多くて、物もちがよすぎるのか、学生用の狭い部屋の中に過剰なほど多種多様なものが詰め込まれている印象があった。
しかし、真樹の部屋はまったく違っていた。
彼女の部屋は、物がほとんどなかった。テニス用品や、生活に使う雑貨類が、小さなケースに収まってぽつんと部屋の隅に置かれているくらいで、女の子の部屋でよく見たクッションやぬいぐるみや、化粧品類は、まったくなかった。
「殺風景だね」
初めて彼女の部屋に上がった時、思わずそう言ってしまったほどだった。
「普通、女の子の部屋って、もうちょっと化粧品とか、あるものだと思ってたけど」
「…一応、あるにはあるんだけど」
彼女はそう言って部屋の隅を指差した。
「朱音に、この前買ってもらったのが、そのまんま」
「...やっぱり、朱音さん頼み?」
「頼みというか、向こうが勝手に買いましょうって言い出して」
真樹は笑っていた。
「化粧って、それこそ成人式の日にやられたくらいで、普段しないから」
「女の人にも、そういう人がいるんだね」
冷やかすつもりで言うと、彼女は、
「現に、ここに」そう言って自分を指差した。
「...やっぱり、変わってるよね、私って。女として生まれたんなら、もうちょっと自分をきれいに見せることも、考えたほうがいいんだろうけど」
「必ずしもそうでもないんじゃない?女の人だからって、みんなお洒落なわけでもないでしょう」
それは慰めでも何でもなく、普段から僕が思っていたことだった。僕は、化粧の匂いというものがあまり好きになれなかったから、多少地味でも小ざっぱりした人の方がむしろ好ましいとさえ思っていた。
「でも、どうなんだろう。そういう意識が全くないっていうのも、ちょっと変なんじゃない」
彼女は、そのことが意外に気なっていたらしかった。
「そんなに気にするなら、お洒落したらいいのに」
「まあ、それはそうなんだけど」
彼女は困ったように笑っていた。
「なんというか...」
彼女は、自分の中で、何か適切な言葉を探しているようだった。
そして、やがて僕の顔を不安げな目で見上げて、
「…祐介はさ、鏡に映った自分は、自分だと思える?」
そんなことを聞いた。
思わず笑ってしまった。
「そりゃあ、そうでしょう」
「そうだよね。」言った彼女も笑っていた。
「私もそれが普通なんだろうなって、思う。...でも、時々わからなくなるんだよね」
「なにが?」
「私、本当にこういう顔してるのかなって」
彼女は部屋の隅に置かれた小さな鏡を見ながらいった。
その鏡には、表面に薄くほこりが積もっていた。
「自分の顔って、自分の目では見えないでしょう。鏡で映るのは自分の顔だって教わってはいるけれど...。」
「まあ、それが事実だからね」
「事実とは分かっていても...。なんていうのかな、受け入れられないんだよね」
「受け入れられないって、自分の顔でしょ?生まれたときからの」
「そのはずなんだけけどね...。なんて言ったら伝わるんだろう。あれかな、初めて、録音された自分の声を聞いたときみたいな違和感」
「ああ、あれ!」僕はようやく合点が言った感じがした。
「あれ、変な感じだよね。え、これ、僕の声?って、誰でもなる」
「そうそう。その感じ」彼女は笑った。
「まさにあれ。鏡を見るたびに、自分の中でイメージしている自分と、鏡に映る自分とに、なんかギャップを感じる」
「でも、さすがに慣れない?一年や二年の付き合いでもないんだし。自分の顔とは」
「…そういうもんなのかな。なんだか、根本的に違うんだよね。イメージと。どうしても、受け入れられなくって….」
「それは大変だ。魔法で豚にでも変えられた?」
「豚はないでしょう!」彼女は怒ったように眉を吊り上げて見せた。
「でも、この違和感がずうっと続いてる。私の場合には。...まあ、些細なことなのかもしれないけど」
†
こんなことがあった。
『ロール・プレイ』 12
彼女の連れて行ってくれた店は、大学のそばの居酒屋風の飲み屋だった。
「男の人と入る店としては、ダメダメな選択なんでしょうけれど、」
彼女は屈託無く笑った。「私は、こういうところの方が、落ち着くもので」
二人して座敷に上がると、店の人が注文を取りに来た。
二人とも迷わず、「生」と注文した。
渡された熱いおしぼりで手を拭いていると、さっきまでの緊張がとけ、気持ちが次第に楽になるのを感じた。
「なんだか、初対面のような気がしなくなりますよね、こうして居酒屋で向かい合っていると」彼女も僕と同じ気分なのか、そんなことを言った。
「ええ、不思議と。バーや、おしゃれなお店だったら、こうはいかないかなあ」
「初対面の女の子と、二人でお酒飲んでるって構図ですもんね。こういう時、男の人が頼むのは大抵、ウィスキーのロックみたいな強めのお酒で…、」
「女の人なら、ワインか、カクテル」
「普段あんまり飲まないようなお酒を、いつも飲んでいるような顔をして飲むんでしょう?…そんなの、どうかしてる」彼女はあきれたような表情をした。
「むしろそう言うところでも、ちゃんと変わらず、ビールを頼めるくらいの方が、立派だと思うけど」
「ビールって、実はおしゃれなお酒だと思うんですけどね」
僕がそう言うと、彼女は、そうそう、と相槌を入れた。
「細身のグラスに注ぐと、実は結構、エレガントですよね。...祐介さんも、実は、結構、お酒のみ?」
彼女は、にやりと笑った。
「...え?ええ、人並みには」
はは、と声を上げて笑った。「安心した」
彼女は座を崩した。
「今、さっきの大学の看護学科にいるんですけど、女の子が多いせいか、お酒をこういう、砕けた雰囲気で飲めることがなかなか少なくて…」
「そうなんですか。...真樹さんって、結構豪快な人なんですね。なんて言うか、僕なんかより、よっぽど男気がありますよ」
彼女はそれを聞いて笑った。
「よく、言われます。特に朱音に。そこがだめだって。でも、もちろん、みんなに見せるわけでは無いですよ」
真樹さんははずかしそうに笑った。
「祐介さんには、もう私の一番恥ずかしいところを見られてしまったから、怖いものは無いですから」
運ばれてきた中ジョッキを持って乾杯した。
「乾杯!...出会わせてくれた、朱音に」
「乾杯!」
真樹さんは、並々とつがれたビールをおいしそうに、喉を鳴らして飲んだ。
相当喉が渇いていたらしく、一度に半分ほどを飲んでしまった。
僕もさすがに、女の人に負けるわけにも行かず、普段はあまり威勢良く飲む方ではないのだけれど、真樹さんと同じ位の量を飲んだ。
そうしているうちに僕らは次第にうち解けてきた。
正直、女の人と、こういうかたちでうち解けたのは初めてだった。
「祐介は、朱音とどういう知り合いなの?」
ほどよく酔いが回ってきた頃、彼女は僕にそう聞いた。
「大学の同級生の、妹。最近まで会ったことはなかったんだけど...」
僕は日比野と、あのメイドカフェを訪れた時の経緯を話した。
彼女はそれを聞いておなかを抱えて笑っていた。
「ははっ!、それはびっくりしたでしょ。あなたもだけど、そのお兄さんの方が」
「すっかり、へこんじゃってた。おかげで彼の妹の愚痴を、さんざん聞かされて」僕は思い出して笑ってしまった。
「でも、朱音を見た時、正直どう思った?」
いたずらっ子のように、愛くるしい瞳を爛々と輝かせて、彼女は僕の表情をのぞき込んでいた。ポロシャツの外れたボタンの間から、偶然、彼女の胸元が見えた。僕は彼女の女性を意識してしまって、どきりとした。
「...かわいいと思った?」彼女はまだ、同じ姿勢で僕の顔を覗き込んでいる。
僕は何も言えず、頷いた。
「….あの日比野の妹でなかったら、すぐに告ってたかも」
気持ちを落ち着けて、どうにか、そう答えた。
「だよね。やっぱりかわいいよね、あの子」
彼女は、姿勢を元に戻して言った。「何で、あんなにかわいいんだろう」
「女の人から見ても、やっぱりそう思う?」「もちろん!」
彼女はさも当然、と言うように答えた。
「かわいい。あの子は。あの子のメイド姿を見た時は、私まで萌え萌えしちゃったくらい。…なんか、抱きしめたくなっちゃうよね」
彼女は切ない表情を浮かべて、自分の胸を抱くようなしぐさをした。
「あの子と一緒にずっと、ずっと過ごせたら、きっと幸せ…、だろうなって思うもの」そう言いながら、彼女は笑みを浮かべてジョッキを傾けた。
彼女と僕は結局、軽く飲んでご飯を食べる予定が、夜中までそのまま飲み続けてしまった。ビールが焼酎になり、水割りがロックになるまで、それほど時間はかからなかった。
「じゃあ、これで。」店の勘定を割り勘で済ませた後、彼女が言った。
「また、飲みましょう。祐介とはまた、飲みたい」
「僕も!」
お互いにもう、相当酔っていたが、何とかアドレスを交換した。
彼女の家はそこから近いと言うことで、送る必要はない、と言うことだった。
僕は店の前から、彼女の後姿を見送った。
彼女の姿が、大学前のアパート群の方向に消えていったのを見届けた後、すっかり暗くなった道を、僕は一人で帰った。
心の中で、今日の予想以上に上首尾な展開に驚きながらも、憧れた子と仲良くなれたという単純な喜びの味を噛みしめていた。
「村瀬、真樹さん、か」
2009年1月16日金曜日
『ロール・プレイ』 11
“先輩は、看護学科なんですが、
正直、看護が好きなようではなさ
そうです。うち大学の看護ではそ
ういう人は少数派だから、ちょっ
と居心地が悪そうです。”
先日のメールで、朱音さんは書いていた。
“お母さんの強い意見があって、
看護に入ってしまった、と言って
いました。本当はもっとテニスの
出来る環境に進みたかった、と言
っていました。”
僕は朱音さんが教えてくれた彼女についての断片的な情報を、大学に向かうバスの中で無意識に何度も反芻していた。次第に、彼女についてのイメージが固まりつつあった。だが、ある程度イメージが固まってしまうと、これは少々、危険なことのような気がしてきた。
僕はまだ、彼女と“会った”とも言えない状況なのだ。それなのにイメージをかためてしまうのは付き合いの妨げになるばかりで、初対面の人と会う際に、あまりいい心構えであるとは言えなさそうだった。
僕は頭をからっぽにして、朱音さんから教えられた情報をすべて忘れてしまおうとした。窓の外の景色を眺め、車の動く音を聞いていた。相手が実際どんな人であれ、それをまずは受け入れてみよう。多少不安もあったが、僕はそう考えていた。
練習場は、大学の正門のすぐ右手にあった。
四方を高いフェンスに囲まれたテニスコートは二面あったが、手前のコートは使われていなかった。奥のコートには、ボールを自動で打ち出す機械が据えられており、そこで誰かが練習していた。
「すいません」
ちょっと失礼かな、と思いながら、僕は声を張り上げて、その人に声を掛けた。練習していた人は僕の声に気がつかなかったようだった。
「すいません」僕はもう一度大きな声を出した。ようやくこちらに気がついた様子で、装置のスイッチを止めると、フェンスの近くまで駆け寄ってきた。
「村瀬さんを...、」僕はそこまで言って、はっと口をつぐんだ。
目の前に経っていたのは間違いなく、あの彼女だった。
その時彼女は、白いサンバイザーにショートパンツ、ポロシャツ、と言った格好だった。あのメイド喫茶で、ネコミミを付けて給仕していた彼女と同一人物であるとは、遠くから見た分には全く解らなかった。
フェンスの向こうの彼女は、突然現れた見知らぬ人物が自分の名前を知っていたことに驚いたのか、きょとんとしていた。先ほどまで練習をしていたので、息が切れたと見え、わずかに肩で息をしていた。
「はい、村瀬は私ですが.....」
「あの、僕、実は...、」
日比野朱音さんから話があったと思いますが...、そう切り出して、僕は自分が何者であるかを説明した。
「ごめんなさい。...あなたに嫌な思いをさせたんじゃないかと心配になりまして...。あなたの知らないところから、観察するようなことをしてしまって...、本当に申し訳ない。」そう言って頭を下げた。
それを聞いて、彼女はただ苦笑するのみだった。フェンスの向こうから、いえ、いえ、と手を振って僕の頭を上げさせようとした。
「そんな、いいんです….。こちらこそ、朱音がご迷惑をおかけしました。でも、私は正直、そんなことは全く知りませんでした。お店を出る時、あの子はただ、『今日は友達に会う予定があるから』とだけ言って、先に店を出て行ったので」
「...あなたを僕に会わせるって事、朱音さん、言ってなかったんですか?」
「ええ。」彼女はおかしなことを聞いた、とでもいうように笑っていた。
「...そうだったんですか」
変だな、とは思いつつも、そのことは、もはや僕にとって重要な問題ではなくなっていた。
「それにしても...、よりによって、あんな格好の所を見られちゃうとは...。」
彼女は恥ずかしそうに頭を掻いた。「私がいつもジャージばっかり着ているものだから、朱音に、『先輩はこのままじゃだめです、もっとカワイイに、目覚めなきゃ』って強く言われて...、連れて行かれたのが、よりによってあの店だったんです。」彼女は苦笑いした。
「でも、さすがに、私にはあの雰囲気は向いてません。朱音に内緒で、今日付で辞めさせてもらいました。」
「そうだったんですか」思わず僕も笑った。
柔道部と思われる集団が列を組んで雑木林の前を走りぬけた。歯切れのいい掛け声がつかの間のオレンジ色の静寂に響く。気が付けば、日はすっかり傾いていた。夕焼けの群青色が厳かに空を夜に沈めていく。テニスコートに置かれた装置が長い影を引いていた。ツィー、ツィーという、名も知らぬ鳥の声が奥の林からこだました。
彼女は夕闇にとらえられつつあるキャンパスにしばし目を奪われていたが、やがて僕の方を向き直ると、
「こんなところで、フェンス越しに話しているのも変ですよね。...祐介さんって、言いましたっけ?...おなか空いてないですか?」と言った。
僕は、昼間ほとんど食べていなかったことを思い出した。すっかりお腹が空いていた。「そう言えば、コーヒーぐらいしか飲んでなかった」
「じゃあ、何処か、食べに行きましょうか。...お酒は?」
彼女は人なつこそうに微笑んだ。
「朱音に振り回された者どうし、今日は飲みません?わたし、もう喉が渇いちゃって。」
思いもよらない展開に、内心、少なからず戸惑ってはいたが、僕は二つ返事で賛成した。