2008年9月29日月曜日

夏の記憶

祖父は幼い私を、いつも抱きたがっていた。私がご飯を食べている時も私を膝の上に載せたがって、甘い声で、

「こっちへこねえが?」
と呼び寄せたりする。

私も、優しい祖父は大好きだったから、祖父がそう言ってくれればすぐにでも立ち上がって、彼のあぐらの上に喜んで腰を下ろした。でも、そう言う時は決まって、
「これ!」
と、傍らから檄が飛んできた。目尻をつり上げた祖母が、恐ろしい形相で、祖父を睨んでいる。その表情を見て、私は自分自身が怒られているような気がして、怖くて泣きそうになった。

なぜ、祖母が祖父をことある事に怒るのか、私には分からなかった。

祖父は庭仕事が好きで、天気のよい日にはよく庭に出て、花壇の土を掘り返しては、新しい花の苗を植えたり、植木の剪定をしたりしていた。

祖父が特に好きだったのは朝顔とチューリップで、中でも朝顔は殊更、力を入れていた。大きなおなかを窮屈そうに丸めてしゃがみ込み、せん定ばさみをくわえて、朝顔の蔓が巻き付きやすいように、細い竹の格子を作ったりしていた。祖父の太い指は驚くほど器用で、そうした物をあっという間にくみ上げてしまった。

私は、祖父の指が竹の格子の上を行ったり来たりしながら、見たこともない結び方で、どんどん格子が組上げられていくのを、まるで魔法のわざでも目撃したかのように、目を輝かせてみていたそうだ。

しかし、そうして、祖父と私が気分よく庭仕事をしていると、決まって後ろから聞こえてくるのは祖母の声であった。

「これ!」

私はいつも、その声を聞くと、驚いて立ちすくんでしまった。
祖父を見れば、彼も同じように立ちすくんでいた。まるで悪戯をとがめられた少年のように、すごく申し訳なさそうな顔をして、縁側から顔を出して怒る祖母を見ていた。

私は、祖母が嫌いであった。

こんなに、子供のような心を持つ祖父をガミガミ言う祖母が嫌いであった。
祖父が、自分の布団で私と一緒に寝ようとしている時に、それを取り返してしまう祖母が嫌いだった。
祖父と縁側に出れば怒り、庭に出れば怒り、散歩をしても怒る祖母が、嫌いだった。

祖母はきっと、祖父が嫌いなんだろう。
子供心に、それが分かった。

おじいちゃんは、いつもかわいそうだ。

私は祖父と一緒にいる時には、必ず祖母が居ないのを見計らうようになった。
そうすれば、私も、祖父も怒られずに一緒にいることが出来るからである。

私は、祖父と一緒にいたかった。
もっと、何時までも、一緒に。

なのに。


祖父が死んだのは、突然だった。

正確には、突然と思っていたのは、幼かった私だけだった。
祖父は、末期の脳腫瘍を患っており、実はかなり長い期間、入院していたのである。幼い私には何も知らされず、祖父は、遠い大きな街に住んでいるとしか、理解していなかった。

この退院そのものが、もう手の施しようのない祖父への、病院側の、せめてもの計らいだったのだ。

しかし、それは、おそらく祖父自身も知らなかった。
知っていたのは祖母と、私の両親だけだった。


私は覚えている。

朝食を食べている祖父の、白米の盛られた椀に、鮮血の雫が、ぽたり、と落ちるのを。

見れば、祖父の鼻から、血が滴り出ていた。数時間経っても祖父の出血は止まらず、そのまま病院に担ぎ込まれた。

私はその日から、祖父を見ていない。


大輪の朝顔が、華々しく裏庭に咲き誇った、夏の初めの出来事だった。
前日まで、祖父はそれを見ながら、満足げに笑っていたはずだった。

この世界の青を全部集めたような、色とりどりの朝顔が、祖父の用意した、大きな竹の格子を埋め尽くさんばかりに咲いていた、7月。

祖父の笑顔と、朝顔の青と、白米の赤い鮮血。


私の、最初の夏の記憶。




そらから程なく、家の前に、大きな提灯が飾られた。
白黒の幕が、周囲を取り囲んだ。

祖父の遺影が、先祖の遺影の列に、新しく加えられた。


祖母はその日から、誰も怒らなくなった。
もう、顔を真っ赤にして
「これ!」
と叱ることも、なくなってしまった。

2008年9月27日土曜日

避行

冷えた夜風が吹き抜ける夜道に、少年は片膝を立てるようにして座り込んでいた。辺りからはもうすっかり人影は消え失せ、季節に置いて行かれた秋の虫が、悲しげに、今にも消え入りそうな細々とした声を立てるばかりであった。

少年の前には、赤々と燃える炎があった。

拾ってきたライターで、落ちていた新聞紙をたき付けに、ようやく起こした火だった。
少年はその炎を切らさないよう、十分な量の薪を用意したつもりでいたが、それもどうやら足りなくなりそうだった。外気は先ほど降った小雨で、かすかに湿り気を帯びていた。どうやら、新しい薪を得ることは難しそうだった。

少年は、長く寒い夜になることを覚悟して、炎照らす闇の中、身を縮めた。

彼の前には、一人の少女が横たわっていた。
少女は彼らの持っていた唯一の毛布にくるまって眠っていた。今日一日の移動ですっかり疲れてしまったのか、少女は微かに寝息を立てていた。先ほどまで履いていたミュールは片方のかかとがすっかり外れて、革一枚で繋がっているような状態だった。

少年は、彼女がそれを、不安定に揺らしながら歩いている昼間の様子を思い出し、微かに微笑んだ。少年がいくら脱ぎ捨てろと言っても、少女はそれを捨てようとしなかった。思い出の品だからと言うだけの存在理由で、その折れたミュールは、彼女の足にくっついたまま、結局夜になってしまった。

それを考えると少年は、このミュールが自分自身のようにも思えてきた。
そもそも彼女を、彼の家出に誘ってしまったのは間違いだったような気がしていた。家を出るなら、彼一人、出ればよかったのだ。彼女を誘ってしまったのは、自分の弱さの表れにも他なら無かったように思えた。家に居続けるだけの気持ちのゆとりもなく、かといって、一人で出て行くほどの勇気もない。家を出て、僅か数時間で、彼女にメールをしてしまったことを、彼は今、悔やんでいた。

彼が呼び出すと、彼女はすぐに現れた。

いつもと代わらない軽装で、足下には彼の贈ったミュールが見えた。
彼に出会った時、彼女は始め、家に帰るように説得した。彼の母親が随分心配していたこと、父が落ち込んで、朝から黙り込んだままであることなどを彼女は彼に伝えたが、彼は今更、父母の居る我が家に帰ることは出来なかった。これだけの騒動を起こした後で、何事もなかったかのように家に帰るだけの図々しさを、彼は持ち合わせていなかった。一体家に帰ったところで、どんな顔で、それほど心を痛めた両親に会えばいいのか、彼には見当も付かなかった。

彼女は、彼の話を、大きく目を見開いて熱心に聞いていたが、やがてうん、と頷くと、
じゃあ、私も連れてって、と言いだした。

「いいでしょう?私がついて行っても」
彼女の半ば強引な要求を、彼は拒否することが出来なかった。彼一人になって心細さを感じ始めていた矢先でもあったし、彼女がそばにいるのは心強かった。とはいえ、彼女を巻き込んで、騒動をこれ以上大きくしてしまうことには抵抗があった。それでも、このときは、弱り切っていた自分の気持ちを補正することの方が、彼にとって差し迫った優先事項だった。

彼と彼女は、何も言わず連れだって歩いた。
彼らにこれといった目的地があるわけではなかった。ただ、一時的でも心の安まる場所を求めて、街のあちこちを歩き回った。その多くは、彼らの一度行ったことのある場所であり、知らない場所には滅多に行かなかった。どうやら気持ちの萎えている状況では、新しい場所に行く緊張と不安を、自然と避けてしまうようだった。彼らは彼らの思い出を、一つ一つたどるようにして、何時か来た場所を一つ一つ巡り歩いた。そうして歩いていると、彼は時々、まるで彼女と、いつものようにデートでもしているような錯覚に囚われることがあった。町並みも、そこを行き交う人々も、彼女の格好も、自分の服装も、いつものそうした状景と、何ら変わりはなかった。ただ一つ違うのは、彼らに帰る意志がないと言うことだけだった。これは日常からの別れの旅だった。

夜になり、辺りが暗くなってくると、彼は夜をどこで明かすかと言うことが心配になり始めた。何処かに泊まろうにも、彼らに、二人で宿泊するだけのお金はなかった。困った挙げ句、彼は幼い頃何度か隠れたことのあった、学校の裏手の小さな洞窟を思い出した。そこは洞窟と言っても、深さが1, 2メートルほどしかない、崖のくぼみ程度の物で、雨露をかろうじて防げる程度の物だったが、外からは見つけにくい場所にあり、今の彼らにとっては格好の隠れ家になってくれそうだった。

彼がそこに彼女を案内するのは初めてだった。
その洞窟を見た時に、彼女は何も言わなかったが、予想とは大分違っていたようで、思わず目を大きく見開いた。それを見て、彼は幼い頃の自分の恥部を見せたようで、なんだか恥ずかしくなった。

彼らは空腹を抱えながら、それでも暖だけは取ろうとたき火を起こした。
そして、近くに捨ててあったまだそれほど古くはなさそうな毛布を彼女に与えて、先に眠らせた。彼女は嫌がりもせず、その毛布に身をくるめると、横になって、後はすっかり、眠ってしまった。

彼は今夜は眠らない覚悟をしていた。体も、心も彼女同様にくたくただった。しかし、彼自身のわがままで家を飛び出し、そして彼女まで巻き込んでしまった以上、彼は何としても彼女を無事に送り返す必要があると感じていた。

彼女はおそらく、この様な汚い毛布にくるまって眠ったことはないだろうし、壊れたミュールを引きずってこれほど長い距離歩いたこともないはずだった。それでも何も言わず、彼に付いてきてくれた彼女を、これ以上、不幸な目に遭わせるわけにはいかないような気がしていた。

本当の幸せとはなんだろう。彼はふと、そんなことを考えた。
目の前に燃えるたき火の炎の中に、答えはなかった。彼にとっては今は幸福ではなかった。しかし、また、不幸でもないと感じていた。かつての日々は不幸だった。彼は少なくとも、不幸から逃避は出来ていると思った。

しかし、彼女にとってはどうだろう。彼は再び、彼女の方を見た。
赤い炎に照らされたその横顔は、あどけない少女のように、深い深い夢を見ていた。
彼はその横顔を見て、思わず微笑んだ。

彼女を好きだった。何時までも、この横顔を眺め、一緒にいたいと思った。でも、その彼女と一緒にいることが、彼女自身をかつてより不幸にしてしまうとするならば、それは本当に、彼女を好きな人間が取るべき態度なのだろうか?

彼には答えられなかった。
だが、彼女を明日、家に送り返すことで、実は自分は、また一つ逃避をしようとしているような気がして、彼の決意は右に左に、揺れ動いていた。

2008年9月23日火曜日

猪狩り鉄忠

江戸市中から大分離れた山奥の村に、たいそうな強力で知られた大男が居を構えていた。
この男、いつからここに住み着いたのか村のものですら正確には知らなかった。年は40とも、50とも言うが、時折見せる笑い顔は、童のそれのようで、実はもっと若い男なのかも知れなかった。

いずれにしろ、村の片隅にいるこの大男に、村人は、畏怖と好奇の両方が混じり合った気持ちで接していた。男は普段、家の周りにこしらえた畑にでて、他の村人と同様に鍬を振るい、自らが日頃食う分だけの菜物を育てていた。どうやらその畑で取れるものだけで腹は満たされているようで、村人の世話になることは滅多に無かった。

それどころか、男は月に数度、大きな大刀を一本下げて近所の山に分け入り、二、三日も帰ってこないかと思うと、大きなイノシシを抱えて降りてくることがあった。捕ってきたイノシシは当然のように村人にも振る舞われたから、村人は皆、イノシシが捕れる時期になると、内心、男が山に入るのを心待ちにしていた程であった。

村人はその猪肉の礼として、僅かばかりの米を男に分けた。
男はその米を日々の糧としていたのはもちろんだが、食べきれないと思った時には、町の市に持って行って売りさばき、必要なものを買ってきているようだった。

ただ男の家はいつ見ても薄汚いあばら屋のままだったし、何かが新しく買い足されたようでもなかったので、男が得た金を何に使っていたかというのは何時までも謎のままであった。

立派な大刀を持っていることから見て、男の出自は武士のようだった。
しかし、着ているのものは村人ですら驚くほど薄汚い身なりだったし、髷も十分に結っていなかった。刀の鞘もすっかりぼろぼろで、おそらくは中の刀はすでに刃が落ち、鉄の棍棒に等しくなっているものと思われた。

実際、男が捕ってきたイノシシには全く刀の傷がなかった。
ただ頭蓋だけが激しく陥没していて、これが致命傷になったと察せられた。

村人は男の名を知らなかったから、とりあえずの通称として、
「奥山の鉄柱殿」と彼のことを呼んでいた。


そんな折、一人の若い侍が村をたずねてきた。

「佐田雷哲様という御仁を捜しておるのですが」若い侍は村の長にたずねた。
「佐田雷哲様、ですと?....うちにはそのような立派な名前のものはおりませぬが...。見ての通りの寒村でして。」
しかし、若い侍は村長の言葉を聞いていないのか、
「いえ、佐田様はここにいらっしゃるはずなのです。この村の何処かに...。」
そう言って聞かなかった。

村長はすっかり困ってしまって、とりあえず村の中を案内することにした。
そうしてこの村のことを知れば、こんな村にそのような名前のものが居ないことなどじきに察せられると思ったからである。

村長が、若い侍を連れて村の中を歩いていると、山の奥から例の鉄柱が、イノシシの死体を引きずって歩いてきた。

彼の連れているイノシシはこれまでの中でも3本の指にはいるかという大猪で、運ぶだけでも常人ではひと苦労であるはずなのだが、この男にとってはそれもなんでもないらしく、平然とした顔で村の真ん中の道を歩いてきた。

すると突然、それを見た若い侍が
「もし、あの方は?」
と村長にたずねた。

村長は突然のことに驚いていたが、
「へえ...。私らも本当の名前は知らないんですが...。奥山の鉄柱殿と呼んでおります。」
と正直に話した。

「奥山鉄忠殿...。」
若い侍は突如、つととしてその大男の前に立った。
「もし、鉄忠殿」

呼び止められた大男は、ぼやりとした顔をして、目の前に立った細身の若い侍を見下ろしていた。

「わたくしは太田三朗ともうすもの。さる用向きにより、佐田雷哲様というお方を捜しておる。そなた、何かご存じないか。」

大男は、それまで、右手に猪を引きずり、左手に鞘に入った大太刀をかつぎ上げていたが、
佐田雷哲という名前を聞くやいなや、右手から猪を放した。そして、おもむろに太刀の束に手を掛けた。

若い侍もあわてて身構えた。

大男は太刀を引き抜くと、素早くそれを横になぎ払った。
刀を引き抜こうとしていた若い侍はその動きに全くついて行けなかった。

刀を半分抜いたまま、後ろに飛び退いて、かろうじて一太刀目をかわすと、ようやく鞘を払った。どっと全身の毛穴から汗が噴き出た。

男は間合いを一気に詰め、再び振り回すように太刀を振るった。
ぶうん、と風を薙ぐ音がして、若い侍のすぐ目の前を、大太刀の切っ先が通り過ぎていった。

若い侍は完全に劣勢だった。刀をよけるのに精一杯で、この大男に立ち向かう術はなさそうだった。

大男は青眼の構えから、咄嗟に切っ先を揺らし、相手を袈裟に切り上げる素振りを見せた。
若い侍は不意の動きによけきれず、思わず目をつぶった。

斬られる。

がちん、と耳をつんざくような大きな音がして、
無意識に突き出した彼の太刀が、ものすごい力で持って行かれるのを感じた。
太刀は彼の腕をすっぽ抜け、遠くの屋敷の軒へぶすりと突き刺さった。

恐怖に腰が砕けて、若い侍は尻餅をついた。おそるおそる顔を上げると、そこには大男が、先ほどと代わらぬ静かな瞳で若い侍を見下ろすように立っていた。だらりと下げられた右腕には大太刀が、指の太い手の中にしっかりと握られていた。

大男はしばらくそうして若い侍の顔を不思議そうに見ていたが、やがてくるりと向きを変えると、のそのそと、うち捨てられた猪のもとに戻り、そしてそれを再び引きずって、もとのように歩いて去った。

「大丈夫でございますか!」
遠くから見ていた村長があわてて若い侍に駆け寄ってきた。

「あの方はどういう...。」
若い侍はまだ放心した気持ちが戻らないまま、村長にたずねた。

「さあ、私どもも素性は存じないのです。...ただ、普段は優しい大男で、村人にもあの猪の肉を分け与えてくれるほどなのですが...。よもや、人様に剣を抜くとは...。」

「いや...。これは私の方に責任があるのでしょう。」若い侍は言った。「あの大男、私を斬ろうとしなかった...。追い返すだけが目的だったのか....。」

2008年9月22日月曜日

ナイフの世代

「届かないものを追いかけていると言うことぐらいは自分でも分かっていたんだ」
ユウキはコウイチを見ようともせずに、そう言った。
「でも、しばらく...。もうしばらくと思っているうちに....。」
ユウキの目はうつろだった。その瞳は、もう遠くなってしまった過去を...、静かにふり返っているようだった。

コウイチとユウキは同級生だった。いつも、何をするにも一緒で、なんにも面白いことがない時でも、二人して何やらごにょごにょと話しては、ひひ、と笑い会うような仲のよい男児の典型のような二人だった。

その二人の関係も、彼らが中学3年生を迎えた頃から、微妙な変化を示し始めた。

コウイチは一人の女性を恋したのである。
女性と言っても、同じ学年の女子生徒なのだが、それでも彼にとっては立派な初恋だった。彼女と過ごす時間は何をするのも楽しく、些細なことでも笑いあえた。彼は時々、人生でこんなに笑ったことがあっただろうかと思ってみることもあった。それほどに彼女と過ごす時間は幸福だったし、彼女も同じ幸福を味わっていると言うことを確認する度に、その幸福は更に倍加するようだった。

一方でユウキも、誰か女性を好きになったという噂は聞いていた。
それはコウイチのように、同じ学年の女子生徒ということでは、どうやらないらしかったが、彼らが話す中で、そのことを話題にすることはなかった。いつも一緒にやってきた二人の関係に、二人の違いが入り込むのが、怖かった。
彼らは何時までも、以前の彼らのままで、そういう時は無邪気に笑い転げた。


ある日の夕方、コウイチが部活の帰りで遅くなり、帰宅を急いでいる時のことだった。
春先のことで、日は次第に長くなってきてはいたものの、6時を過ぎるとだいぶ薄暗くなって、学校の周辺は人通りもまばらになった。紺色の空の下に聳える白亜の校舎は、1階の職員室を煌々と明るく照らしたのみで、普段明るい声の響く幾つもの教室のいずれもが、真っ暗な闇に飲まれていた。コウイチは薄闇に沈み逝く校舎に別れを告げて、校門を出た。

校門を出てしばらく歩くと交差点があり、底がコウイチとユウキが、いつも別れる場所だった。ユウキの家はそこを右に曲がった先にあり、コウイチの家は左に曲がった先にあった。今日は一人で家に帰るコウイチはいつもはユウキが曲がっていく右の通りを無意識に眺めながら自身は左に曲がった。

薄暗い左の通りは、彼の前に不穏に立ち上がっていた。点々と続く街路灯の明かりが断続的な平和をもたらす以外には、暗い不安が立ちこめていた。おそらく、女性一人では縮み上がってしまうだろうというような、不気味な通りだった。

コウイチはそのほの暗い道を転々と連なる明るい場所を突き抜けるようにして進んで行った。彼を覗いて通る人はなく、通る車さえない静かな道だった。

ふと、その時コウイチは目の前を見つめ、そして思わず立ち止まった。

二軒ほど先の、知らない民家から、ユウキが一人の女性に付き添われるようにして出てきた。
暗くてはっきりと分からなかったが、女性は、少なくともユウキの母親ではないようだった。ユウキが女性と親しげに言葉を交わすと、彼女は喜んでいるようだった。ユウキはやがて彼女に手を降って別れた。女性も、門の前に立って、同じように手を振りながら彼の背中を何時までも見送っていた。

コウイチはその様子を、通りの角からずっと見ていた。

自分の知らないユウキがそこにはいた。

彼は彼のことを、幼い時から、何一つ余すことなく、知っているつもりだった。
しかし、目の前にいる、ユウキの殻をかぶったような...、それは紛れもなくユウキ自身なのだが...、ユウキは、彼の全く知らない女性と、全く知らない親しみでもって会話していた。

それは、思わずコウイチを通りの角に隠れさせてしまうほどに、見てはいけない光景のように思われた。

ユウキはそんなコウイチには気がつかない様子で、彼のすぐ目の前を、少し早歩きで通り過ぎていった。そうして歩いていくユウキの姿は、いつものユウキと何ら変わることがないようだった。コウイチは嫌な夢でも見たような顔つきで、しばらくそこにいたが、やがて静かに歩き出すと、ふらふらと自分の家に帰っていった。


次の日、彼はユウキと話すのを躊躇っていた。
いつものように話しかけようにも、どのように話しかければいいか分からなくなってしまったのだ。いつも見慣れたユウキは、まるで赤の他人のように、今日は感じられた。だからコウイチは、ユウキがいつものように親しげに話しかけてくるまで、結局こちらから話しかけることが出来なかった。

話してみると、ユウキはいつものユウキだった。
そんな様子に、コウイチも次第にいつもの感覚を取り戻した。昨日のことは、悪い夢だったのだと思うようにした。彼の様子には、何も代わったところはなかったのだ。彼の見たものを裏付ける変化は、何も。


しかし、何時までも、夢のままでは終わらなかった。
事実は、いくら本人が思い違いをしようとも、事実として冷たいほどそこに居座り続けるものだ。コウイチにも、それを思い知らされる時が来た。

ある時ユウキが、全身あざだらけの無惨な姿でコウイチの前に現れた。

それは昼間の出来事だった。日曜の午後、いくら電話しても電話に出ないユウキに見切りを付けて、コウイチが公園脇の道を歩いている時だった。

向こうから、よろよろと歩いてくる人影があった。

始めはそれがユウキであるとはコウイチも気がつかなかった。
それほどまでに彼の姿は痛々しかった。

コウイチがそれがユウキであると気が付いて駆け寄ると、こちらに向かって居歩いてきたユウキの足取りが、ぴたりと止まった。彼は腫れた目を上げて、コウイチを見た。そして、悲しそうに切れた口元だけで笑った。


ユウキが洗いざらい、すべてを話してくれたのは、その日の夕暮れ、もはや遊ぶものの誰もいなくなった、小さな公園だった。
その話は、同級生どうしの無邪気な恋愛しか知らないコウイチにとってあまりに衝撃的なものだった。

静かに、その話しをしている時のユウキは、彼の知るユウキではないように思った。
またあのときの、遠い存在に、ユウキはなってしまったように思われた。
まるで、夜の闇と会話しているかのように、コウイチとは一度も目を合わせずに、ユウキは小さな声で一人語り続けた。

「当然なんだ。考えてみれば。」彼はそう言うと、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「僕は、いけないことをしたんだから」そうして、一つ、大きな溜息をした。
「好きになるって事は、どうしてこうも、自由にならないものなんだろう。それがいいことなのか、悪いことなのかも分からないのに、どんどん前にだけは進んでいく。...それは、彼女も同じだったと思うんだ。僕らは、ふたりとも、同じ気持ちだったのだから。」
ユウキはもはや、コウイチの存在を意識していないかのように、切々と話し続けた。
コウイチは彼が話し切ってしまうまで、質問を挟むことは憚られるように感じていた。

「彼女、泣いてたよ。僕が殴られている間、ずっと。」
コウイチはそう言うと、俯いたまま身を小刻みに震わせた。
口の間から、微かな嗚咽が漏れた。

「もう、こんな恋は嫌だな」
一言、ぽつりと言った。
その声さえも、夜の闇に吸い込まれていくようにコウイチには感じられた。

「僕らは結局、こうするしかないんだ」

ユウキの言葉をコウイチはよく理解できなかったが、それでもなぜか、胸の奥に迫るものを感じていた。
それは彼に突きつけられた、一本のナイフのようでもあった。

2008年9月8日月曜日

野辺送り

老人は嘆いていた。

彼のたった一人の孫が突発的な大波にさらわれ、数日前から行方不明になっていた。仲間が船を出し連日捜索してくれたものの、息子の安否を示す手がかりすらえられなかった。

毎日、浜辺に立ち、仲間の漁船が帰ってくるのを今か今かと待ち続ける老人に、手ぶらで帰ってくる友船の乗組員達は合わす顔がなさそうだった。

「じいさん、すまねえ...。」
若い衆を率いている大柄な男が小さな老人に申し訳なさそうに頭を下げた。

そんなとき、老人の瞳はただ青い海を見つめているだけだった。
彼の灰色の瞳には、彼の孫を飲み込んでも平然とした、穏やかな青い海原が拡がっているだけだった。

これに生かされ、そして殺されるものたちがいる。

老人もかつて漁師だったから、そのことはよく分かっているつもりだった。
彼の息子も、そして娘の婿も、この海に飲まれて死んだ。

しかし、それでも、自分の孫までが、こうしてが生死も判然としない状態になってしまうと、老人はもう気が狂ってしまいそうだった。今はもう亡い、彼の娘に...、すなわち、この孫の母に、彼は誓ったのだ。
先に逝くお前の変わりに、この子を一人前の人間にしてみせる、と。

彼の娘は、その夫が亡くなってそれほど経たないうちに、気をおかしくして海に飛び込んでしまった。
何とか助け出されたものの、溺れて長い時間息ができなかった影響か、もう立つことも話すことも出来なくなってしまい、目を回したような顔のまま、10日と持たずに息絶えた。

幼くして母を亡くした子供は、きっと乱暴者になると、村の老人達は口々に言った。かつてそういう者が出て、村はたいそう迷惑したことがあったという。その言葉に恐れをなして、その子を何処かへ里子に出すように彼に強く迫る者も少なからずいた。しかし、彼は結局、子供を手放さなかった。

この子を、一人前の、漁師にするまでは、私はこの子を育てなくてはいけない。
愛する娘を失った父の、それが生きる支えになっていた。

幸い、彼の孫は周囲の心配を他所に、すくすくと成長した。

そして、まだ随分幼いうちから、祖父について漁を習い、成人する頃には、すでにいっぱしの漁師を名乗れるまでに腕を上げてていた。

彼が港で一番の水揚げを上げたとひとから聞く度に、老人は有頂天になった。
実際、彼の孫は本当に上手に魚を捕ってきた。多くの漁師が、魚をあちこち傷だらけにして、ようやく仕留めるところを、息子はそれを本当に最小限に留めるので、魚の鮮度がほとんど落ちなかった。

街からやってくる仲買達も、彼の孫の捕った魚は特に高く買い取っていった。
おかげで、老人は普通より少し早く引退することが出来た。最近になって、孫の妻となる娘もようやく決まった。彼の孫に対する娘達の評判は悪くはなかったようで、妻となる娘の親ともすぐに話が付いた。


しかし、そんな折、事故は起こった。
孫の船が沈んだ場所は昔から三角波という、極めて大きな波が突然起こる海域で、漁船が転覆する事故がたびたび起こっていた。ただ、それも風向きと天候に左右されるようで、いつもはなだらかな、なんの変哲もない場所だったから、村人も、特にそこを警戒して避けるようなことはしていなかった。何より、その辺りは魚の好む岩礁もいくらかあって、村の漁師達はまずそこで小さな魚を捕まえてから、それを餌にして大魚をねらいに行く場合が多かった。

その日は彼の孫も、おそらくはカジキかマグロあたりを狙って、まずその餌を確保しようとその海域に船を向けたようだった。その様子は、近くで漁をしていた多くの仲間が目撃していた。しかし、少したった後、仲間の一人が彼の捕っていた場所で同じく魚を捕ろうとしたところ、先ほどまでいた彼の船がないことに気がついた。

始めは、いつの間にか立ち去ったのかと思って特に気にしていなかったが、海面に、彼の船名の書かれた板きれが浮かんでいるのに気がつき、あわてて持っていたメガネで海底を覗いた。

揺らめく海底に、途中から真っ二つに折れた一隻の小舟があった。人影までは確認できなかったが、男はあわてて仲間の船を呼びに船を走らせた。


それから、もう数日が過ぎていた。

老人は隠居したと言ってもまだ若く、はつらつとしていて、肌のつやも、目の輝きも未だ衰えを知らぬ印象だったのだが、孫が行方不明になったと聞いた日から、おそらく夜も眠れないのか、眼窩は深くくぼみ、頬はすっかりやせこけていた。心配した彼の姪が、毎日彼の家を訪れて、何かしらのものを食べさせようとしていたが、彼は一向に受け付けなかった。

起きればいつも、なだらかな海ばかりを見て、眠る時は闇の中、閉じられることのない眼を一晩中ぎらぎらと光らせていた。

このまま、彼の帰ってこない日が続けば、この老人もすぐに参ってしまうだろうと、村人は皆心配していた。


そんな折、遺体が浜に打ち上げられた。

知らせを持ち込んだのは、孫の幼なじみの娘だった。

その娘は、彼の孫が行方不明になったと聞いた日から、毎日浜に出て、砂浜の上を歩き回っていた。

昼間の浜には誰もいなかったので、歩き回る彼女の小さな足跡だけが延々とその砂の上に刻みつけられた。そしてそれが潮の満ち干でかき消される頃には、また彼女によって新たな足跡が刻まれた。生存を信じるほどの希望があったわけでもなかった。彼女の父親も、一昨年海の事故で死んだ。海に生きる漁師が海で死ぬのは当然のことだとは彼女もよく分かっていた。せめて、彼の身につけていたものでも流れ着いてくれれば、それだけを幼なじみの形見にしようと彼女は考えていた。
そうして何日目かのある日、視界の向こうに、彼女は、それまで無かった、何か大きなものが流れ着いているのを発見した。

気丈にも、彼女はそれに恐れず近づいた。そして、うつぶせに倒れていたそれをひっくり返し、彼女の幼なじみであることを確認しさえしたのだった。それは、ある種の気の動転のなせる業だった。彼女はその事実を、半ば無意識に、近所に住んでいた村長と、漁師の頭と、そして彼の父である老人に伝えてまわった。

「おじいさん、ヤンが...。」
娘がそう言うのが早いか、老人は家を飛び出してきた。そして娘について、一緒に浜に下った。
老人はそれまで不眠不休で孫の無事を祈っていたとは思えないほどの早足だった。とはいえ、娘の方もすっかり気が急いていたから、そのようなことにも全く気がつかなかった。

老人と娘が浜に付くと、すでに漁師仲間と村長がヤンの亡きがらを取り囲んでいた。
どこからか話を聞きつけたのか、他の多くの村人も浜に続々と降りてきて、そこにはすっかり人だかりが出来ていた。

村人達は、老人が来たのに気がつくと、すぐに道を譲った。
人混みをかき分けるようにして、老人とその幼なじみの娘はようやく、輪の中心にたどり着いた。

そこには、砂の上に眠ったようなヤンの亡きがらがあった。
顔は鑞のように白くなっており、長い間水の中にあったからか、体がふやけて、生前の彼より幾分膨らんでいるように見えた。
亡きがらを前にして、老人に言葉はなかった。
老いさらばえて、すっかり細くなった指を、愛する孫の髪に絡ませた。そしてそのまま、じっと動かなくなった。

その様子に、周りを取り囲んでいた村の女の一人が、さめざめと泣き始めた。鳴き声は静かに、二人を取り囲んだ輪の全体に伝わり、やがて輪全体が、静かな優しい涙に包まれた。

村人はそうして、しばらくみんなで泣いていたが、やがて漁師の頭が、似合わぬ涙声で
「じいさん、そろそろ、家に上げてやろうぜ」
と言った。

輪の中から男達が数人進み出て、ヤンの体を大きな戸板の上に寝かせた。
そして、板の両端を持って、彼を老人の家に向けて静かに運び始めた。

先頭には頭と村長が付き、その後に漁師仲間に囲まれたヤンの亡きがらが続いた。
女達はその後ろについて、老人は幼なじみの娘と彼女の母に支えられて最後尾を歩いた。

他の女達はまだ泣きやまず、そうして歩いている最中にも悲しげな鳴き声がしくしくと聞こえ続けていたが、老人を支える娘の顔には涙はなかった。彼女は、老人が悲しみの余り倒れてしまったりしないように、終始気を遣っていた。

娘の母は、始終泣いていた。
娘は、そんな母に、
「かあさん、ヤンのお父さんには私が付いているから、先に行って休んでいて。」
と気遣いを見せた。
彼女の母はその言葉に頷いて
「じゃあ、後はお願いね、スー」と言い残して、しずしずと進む隊列を抜けて、早足で老人の家に向かった。

老人は浜に駆けつけるために体力を使い果たしたのか、歩き続けるのさえ、ままならなかった。
時々立ち止まったり、左右にふらふらと力なく振れたりしながら、何とか前に進んでいた。
娘と老人は次第に隊列から遅れ始めた。

先頭の何人かがそれに気がついて、隊列を止めようとしたが、娘は手を高く挙げて、先に行っていてください、と合図した。先頭の男達は大きく頷いて、再び歩き出した。

娘は疲れ切った老人を励まし、少しずつ少しずつ、彼の家に向かった。
いつも通い慣れている丘の上の家が、今日は随分遠くに見えた。

こうやって坂を上って、いつもヤンの家に遊びに行ったっけ。
娘は自分が小さかった頃のことを思い出した。

ヤンったら、いつも、私の前では海のことしか話さないから、私まで、女なのに海の仕事に詳しくなっちゃって。
網を縫ったり、仕掛けを作ったり、銛を研いだり。
ああいう仕事をしている時のヤンは、本当に楽しそうだった。
私も、彼と一緒にいつもそんなことばっかりだった。
変な女だって彼も言ってたけど、私も一緒にやると、すごく、よろこんで...。

娘はふと顔を上げた。丘の上の老人の家が見えてきた。
「おじいさん、もう少しです」
彼女に肩を支えられた老人は、うめきとも返事とも付かない声を漏らした。
そして、膝を小刻みに震わせながら、一歩一歩坂を昇った。

ヤンは、本当はもっとかわいらしい女の子の方が好きだったんじゃないだろうか。
私が、彼の結婚相手に選ばれたのは、親の考えだったし、あの頃の彼の周りにはいつも女の子がいたから、私以外に好きな子がいたとしても、おかしくなかった。
悪いことをしたのかな、彼には。
彼の幸せを、私は奪ってしまった。私がはっきり断れば、それだけのことだったのに。
ヤンはおじいさんを大切にするから、きっと断りにくかったんだろうな。

ヤン。ごめんなさい。



二人が老人の家にようやく戻ると、中ではすでに弔いの準備が進んでいた。
村の女達は、弔いに出席する人数分の煮炊きに忙しく、泣くことも忘れていた。
スーの母親も、腫れたまぶたのまま、竈に薪をくべている。老人を座敷にようやく上げると、スーも母を手伝った。


やがて、山寺から僧侶が呼ばれてきて、弔いの儀式が始まった。
僧侶が念仏を唱え、ヤンの魂を山の頂にあるという仙人の国に送った。
そして、一通りの儀式が済むと、僧侶が先に立って、ヤンの亡きがらを山に埋めに行った。

そこから先は男だけの仕事と言われていたので、漁師仲間の数人が僧侶の後について山に入った。
そして、それほど経たないうちに彼らだけが軽くなった戸板を持って山から下りてきた。
それを見た時、スーはようやく、ヤンがいなくなったと言うことを実感した。

足下から力の抜けていくような感覚が彼女を襲ったが、まだ彼女にはすることが残っていた。
ヤンを弔う静かな宴が始まろうとしていた。

「全く、惜しい人を亡くしてしまった。それもこれも、俺の責任だ」
会の冒頭、漁師の頭はそう言って、老人に頭を下げた。老人はその言葉に、
静かに左右に首を振った。
「あんなに明るく、はつらつとして、腕も立つ若いものをみすみす溺れさせてしまうなんて..。」
老人はますます強く首を横に振った。老人の両の瞳から涙の粒がぼとりぼとりと落ちるのを出席した誰もが見ていた。

「スー、お前にも、本当に悪いことをした。」
頭は末席に腰掛けたスーに顔を向けた。
「婚約の日取りも、決まっていたというのに。」
「そんな...。わたしは...。」スーはそれだけ言うと、目を伏せた。

「二人の幸せを奪った、このことは忘れないようにしよう。あの三角波の場所での漁は、今後硬く禁じよう」
漁師達はみな、無言のうちに頷いた。

宴はそれから、静かに進められた。

そして、小一時間もすると、一人、また一人と客は帰っていき、やがてスーと彼女の母親だけが残った。
彼女らは宴の後を片付けていた。

老人は疲れてすでに座を払って奥で休んでいた。

「スー、あなたは大丈夫?」
母親がスーを気遣った。
「今日は疲れたでしょう。先に帰って休んだら。後片付けは、明日早く来てやってもいいんだから。」
スーは首を振った。
「おかあさんこそ、寝ててもいいよ。私もこれだけ片付けて、今日は下がるから。」
母はそれを聞くと、それならと言って、皿だけ机の上から下げて、家に戻った。
スーはそれをみんな水に浸けてしまった後、
「おじいさん、おやすみ」
と一言小さな声で挨拶して、老人の家を出た。


外は月もない夜空で、空には幾つもの星が瞬いていた。
カモメの星座や、海の神様の星が今日はいつもよりよく見えた。

海の神様の星は、他の町の人間は北極星と呼んでいるのだと、スーは以前ヤンから聞いたことがあった。
夜の海で陸が見えなくて迷った時、あの星を頼りに進んでくれば、きっと村までたどり着けるのだと彼は言っていた。

北極星は丘のふもとのスーの家の方から見れば、いつもヤンのいる丘の上に光っていた。
丘の上に立ってそれを見れば、ヤンの魂の昇っていった山の上に、その星は輝いていた。

スーはその小さな星の光を見て、もう一度、足の力が抜けてしまう感覚に囚われた。
そしてその場に座り込んでしくしくと泣き始めた。

風に揺られたすすきがさらさらと乾いた音を立て、
小さな声で鈴虫が鳴いているのが聞こえた。

スーの泣き声は、その中で、途切れ途切れに夜の闇に響いていた。

頭上には、彼の御魂の登った山が、夜空より更に深い闇として、静かにそびえ立っていた。

2008年9月7日日曜日

無題

翌朝老人はいつもよりやや遅く目が覚めた。
昨夜眠りにつく時間が遅かったためかもしれない。
目が覚めるとすでに太陽はすっかり昇っていた。

女もまだ起きていなかった。
彼女も、なかなか寝付けなかったのだろう。

知らない他人の家に泊まり込むほどの事情があった女なのだ。
おそらく、とても疲れているにちがいないと老人は察した。

彼女が起きるまで、そっと眠らせておくことにした。

顔を洗い、手早く着替えをすませると、外に出て、菜園からピーマンを数本取ってきた。
そして、それらをあらかじめ買っておいた他の葉野菜と合わせてサラダを作った。

老人は余り料理には詳しくなかった。せいぜい作れるものは、こういったサラダのような単純なものばかりだった。それでも、自分で野菜を作るようになって、実はこういうシンプルな料理の方が、素材が十分に新鮮な場合にはよっぽどおいしいと言うことがよく分かった。

料理をすれば、品質にややに劣る野菜であっても、ある程度のおいしさにまではすることが出来る。
でもそれは、結局醤油や砂糖などの調味料の味でごまかしているだけで、野菜の本来の味はだいぶ霞んでしまっている事が多い。野菜を作るようになって、老人はそのことをもったいないと感じるようになった。
生のピーマンの苦み、ニンジンの持つ香草のような爽やかな香り。そう言った生の食材の味を老人はこの年になってようやく意識するようになった。

台所で朝食を支度していると、後ろから誰かが歩いてくる音がした。
「...おはようござます」

老人が振り向くと所在なげに女が立っていた。
他人の家と言うことを意識してか、ある程度身は整えてあったが、疲れた表情は隠せていなかった。

「...あの、何か手伝えることは...」
女が老人に気を遣う素振りを見せたので、老人は笑って首を振り、
「あなたはお客さんなのだから。底に座って、新聞でも読んでいてください」
と言った。
「でもそれでは...、せめて何かさせていただかないと...」
女は何もせずに見ていることなど出来ない様子だった。

落ち着かないまま女をほうって置くわけにも行かないので、老人は
「じゃあ、うちのとらにえさをやってはもらえませんか」
と言った。女は老人が指し示したところにあった大きなえさの袋から、一鉢分のえさを取り出すと、その音に気がついてしっぽを立てて近寄ってきたとらを縁側に連れ出した。そしてそこで彼女にえさを与えながら、おそるおそる頭を撫でた。

老人はその様子をほほえましく思いながら、二人分の食事の用意を調えた。
「さあ、出来ましたよ」

二人はそれから、小さなテーブルに向かい合わせに座って静かに食事を取った。
お互いが、どんな人間かも知らないので、会話は僅かだった。

ただ、老人の作ったサラダと、味噌汁を口にした時女は思わず
「おいしい」
と小さな声を漏らした。

「昔から、お料理は得意だったのですか」
女がそんなことを聞くので、老人は首を振った。
「いえ...。元々は、料理なんてちっとも。ただ、妻が死んでからは、自分で作らなくてはいけませんから、何とか、覚えました」
「奥様は亡くなられたのですか...」
「ええ、もう2年になりました」老人は無意識に仏間の方へ目をやった。
「それは...」女は申し訳ないことを聞いたというように目を伏せた。
「いえいえ、気になさらんで下さい」老人は沈み込んだ女に笑いかけた。
「もう、すっかり立ち直りました。今では料理は大切な趣味になりかけていますよ」

「このサラダのお野菜は、ご自身が作られたものですか?」
「分かりますか?」老人は喜々として答えた。
「ええ...。先ほど猫ちゃんにえさをあげていた時に、お庭の畑が見えたものですから...。結構いろいろなものをお作りになられているようですね。」
「ピーマンになすにカボチャに...、季節に応じていろいろ作っています。今年はすいかも始めたのですが、どうもうまくいかなくて。なかなか、ああいう甘いものは難しい。」
「なんだか、とても楽しそうですね」老人が急に饒舌になったので、女が思わずそう言った。
「ええ...。すっかりはまってまして。他にやることがないからでしょうな」
「いえ、素敵なご趣味だと思います。」女は初めて微笑んだ。「なんだか、うらやましい。」
「余り、こういう事はやられませんか?」
「ええ...。うちはマンション住まいで、庭もありませんから...。」女は伏し目がちに答えた。
「庭など無くっても、プランターでも十分です。」家庭菜園のこととなると、老人の言葉は熱を帯びた。「それほど難しいことでもないですよ。」
女は老人の語気に、些か気圧されたようだったが、はにかむように微笑んで「今度挑戦してみます」とだけ、答えた。

食事が終わると、女は再び縁側に出た。
そこでは同じく食事を済ませたとらが、夏の陽光を避けて日陰で涼んでいた。
女は縁側に座って、眠る猫の頭を優しく撫でながら、そこから見える白い雲の浮かぶ広い空と、青い海を見つめていた。庭には青い野菜がたわわに実っており、食べ頃のトマトも、なすも、夏らしいすがすがしい彩りをその風景に添えていた。蝉が強い声で鳴いている。
海から涼やかな風が吹いてくる。

女は一つ深い呼吸をした。
先ほどよりも随分、くつろいだ様子に見えた。

老人はようやく穏やかさを取り戻しつつある女の後ろ姿を見守りながら、冷たい麦茶をグラスに注いだ。

「麦茶でもどうですか」
老人が冷たいグラスを差し出すと、女は
「何から何まで...本当にすいません」と言いながら素直にそれを受け取った。

二人静かに海を見ながらその香ばしい飲み物を味わった。

「...いつも、この海を見ながら過ごしておられるのですか。」
女は遠くを見つめながら言った。
「ええ。これが見たくて、この家に決めたのです。」
老人も女と同じ海を見つめた。
「私の憧れでした。海を見ながら、老後を過ごすのは」
「わたしも、そうありありたい。」女が言った。「こういう、のどかな暮らしを私もしてみたい。」
「したらよろしい。」老人は言った。女が老人の方を見た。
「遠慮などすることもない。独り身の老人が住んでいるだけなのだし。疲れたら、いつでもいらっしゃい。海は、そもそも私だけのものでは無いのだから」
女は老人のその言葉に、みるみる涙ぐんだ。そして、手に持った麦茶のグラスを握りしめるようにして、かろうじて涙をこらえていた。

老人は、女を、静かな瞳で見つめていた。
やがて、女は顔を上げると、絞り出すような声で、
「...ありがとうございます」と言った。そうして、ぼろぼろと涙をこぼした。

老人が差し出したタオルに、女は顔を埋めるようにして泣いた。

老人は女に連れ添って、彼女が泣きやむまでずっと見守っていた。


その日の夕方、彼女は帰った。
帰り際、女は名前と電話番号の書かれた紙を残していった。

樋口と言うのが女の名だった。


「また、お邪魔してもよろしいでしょうか」
遠慮がちに女がそう聞いた。

老人は微笑みながら無言で頷いた。

真っ青な自動車が、夕焼けに輝く海沿いの道を、しだいに小さく遠ざかっていく。
その様子を、老人は家の前まで出て車がすっかり見えなくなるまで見送った。

2008年9月3日水曜日

無題

始めそれは、老人の思い過ごしかと思われた。
彼はその亡き妻にうり二つな女を目の前にしても、まだ己の目が信じられずにいた。

女を客間に通し、かつては妻が使っていて、今は来客用に取ってある布団を与えると、老人は自室に戻って、タンスの奥から、古いアルバムを取り出してきた。

それは、彼と、妻が結婚した時に記念として撮った写真だった。

セピア色の画面の向こうで、若き日の老人と、彼の妻が、幾分緊張した面持ちでこちらを見つめていた。なれない装束を着せられた妻は写真越しにもぎこちなさが見えて、老人は当時の慌ただしさを思い出し、思わず微笑んだ。

その妻の表情はちょうど、先ほど彼の前で不安げに嘆願した女の表情に、やはりよく似ていた。彼の妻の方が、幾分丸い印象は受けたものの、それ以外は全くそっくりだった。

「こういう事もあるものか」
老人は独りごちた。
「涼子が帰ってきたかのようだ」

古いアルバムを、元の場所に大切に仕舞うと、老人の足は自然と、女の眠っている客間の方へ向かった。

特に、目的があったわけではないが、この奇跡のような光景を前にして、彼は居ても立ってもいられなくなっていたのだった。何となく、その奇跡に寄り添っていたい気持ちが、彼の中に働いたのである。そんなことは実際無理だとしても、彼はたとえ一寸でも彼女のそばにいたかった。

老人が客間のそばまで来ると、閉じられた襖の間から、僅かな明かりが漏れているのが見えた。女はまだ、眠っていないようだった。

「もしもし」
老人は襖の向こうへと声を掛けた。
「はい」
はっきりした返事が聞こえた。考えてみれば、今時分は普段の老人にとっては寝る時間だが、彼女位の年齢の人にとってはまだまだ起きていてもおかしくない時間だった。
老人が静かに襖を開けると、女は案の定、まだ着替えもせず、古い布団の上に座っていた。

「眠れませんか」老人がそう言うと、女は
「ええ...。」とだけ言って、困ったように笑って見せた。

「こんな夜更けに、どういう事情があったのか...。無理を言うわけではないのですが、もしよかったら聞かせていただけませんか。私ごときが、なんの話し相手になるか知れませんけれども。」

女はその老人の申し出が意外だったらしく、目を大きく見開いた。黒い瞳が鮮やかに濡れていた。
「ええ...。」女はしかし、何かを躊躇うかのようにその目を伏せた。
「それは...。」

女の様子に、何かよほど言いがたいものがあるのだと悟った老人は
「いえ、いいのです。...何か理由がおありでしょう。今日はとにかく、ごゆっくりお休みなさい。」とだけ言って、その場を立ち去ろうとした。

「!、 あの....。」立ち去ろうとした老人を、女が呼び止めた。「あの...。」
「どうしました?」老人は振り向いて、女の表情をのぞき込んだ。その目には、今にも零れんばかりに涙が溜まっていた。
女の、その涙の溜まった目は、老人の瞳を避けるようにしばらく何もない畳の上に向けられていたが、やがて、意を決したように老人に向けられた。
「しばらく、ここに置いていただけないでしょうか。」

その申し出が意外だったので、老人は驚いて思わず目を丸くした。
女はそんな老人に構ってもいられない様子で、
「理由は...。必ず話します。お願いです、2,3日でもいいんです。もう少しだけ、もう少しだけ...。」女はそう言うと、無意識にか、頭を布団にすり寄せるほどに下げて老人に懇願した。

「いや...。まず、頭をお上げください。」
老人は彼女の肩を支えるようにして、頭を上げさせた。
女の顔はもう、涙ですっかり濡れていた。まぶたと鼻の頭が、子供の泣いた後のように、すっかり赤くなっていた。
「2,3日と言わず....。あなたの気が済むまでいらっしゃったらよろしい。理由など、特に言う必要もない」
それを聞くと、女の瞳から、また涙が溢れた。そして泣きながら、何度も、ありがとうございます、ありがとうございますと、繰り返した。


部屋を出て襖を閉めると、老人はその足で仏間へ向かった。
そこには彼の妻の遺影が、梁の上に掲げられていた。姪の結婚式に出た時の、久しぶりに着飾った晴れやかな表情だった。彼女から彼に向けられる、静かな眼差しを老人は意識しながら、妻の遺影の前に頭を垂れ、これを信じていいのか?と妻に問いかけた。

女がここにしばらく泊まっていきたいと言い出した時、思わず浮ついてしまった自分の気持ちに老人は少なからず罪悪感を覚えていた。忘れていたはずのそうした感情が、まだ時分の奥底に確かに残っていたことに、老人は少なからず驚いていた。

「私が、世の中を避けてこんな田舎へ越してきたのは、もしかするとこういう気持ちを避けるためだったのかも知れない。」
暗闇の中で老人は一人呟いた。

「お前を失って、ただでさえ、流されそうな心を...。」
老人はそこまで言って口をつぐんだ。無言の内に、彼は亡き妻と会話しているようだった。

彼はしばらくそうして、暗がりの中で黙ってじっとしていたが、やがて、伏せていた顔を上げると、彼にほほえみかける妻の遺影に向かって
「いっそのこと気持ちの奥底まで、枯れ果ててしまえれば楽なのに...。」
ふと、そんなことを言って、一人、笑った。

遺影の妻は変わらぬ表情で、静かに男を見つめていた。

2008年9月1日月曜日

無題

ある晩のことだった。

季節はすでに秋で、7時にもなると辺りは暗くなった。老人にとって、特に遅くまで起きている理由もなく、その日も早くに寝るつもりだった。老人は自分一人の寝床を整え、そうして眠気が訪れるまで、布団の中で静かに横になっていた。

その辺りは、都市に近い海辺がみんなそうであるように、夜遅くになると暴走族がひっきりなしに通り過ぎた。当然警察もそれを警戒して、網を張っているので、毎晩彼の家の前の道路では、激しいカーチェイスが行われていた。老人にとっては、轟音を立ててバイクを乗り回す若者も、それを大声上げて追いかけ回す警察も、どちらも眠りを邪魔する騒音の主には違いなかった。故に、老人が早くに寝床に着くのは、そうした夜の喧噪が始まる前に寝入ってしまうためでもあった。

それは、柱時計の鐘が8つを打った時だった。
どんどんと、玄関の戸を叩く音がした。ちょうど寝入りばなだったので、始めは夢かと思っていたが、いつまで経っても、戸を叩く音は鳴りやまなかった。何事かといぶかしがりながらも、老人はゆっくりと立ち上がり、玄関の方へと歩いていった。

老人の動きが、あまりに遅かったので、扉を叩いていた主は、どうやらすでにあきらめていたようだった。老人が玄関へたどり着く頃には、もう扉を叩く音はすっかり止んでいた。それでも老人は念のため、鍵を外すと、戸をがらりと開けた。
そこには、薄暗い玄関の明かりに照らされて、不安げな女の顔があった。
老人は、その顔を見て一瞬はっとしたように目を開いたが、それは女には気がつかなかった。
「すいません、」女は不安げな表情のまま、老人に言った。肩まで伸びた髪は所々乱れていた。

「お宅の前で車が動かなくなってしまって...。この辺りに、ガソリンスタンドか何か、ありませんでしょうか。」女の声は押し殺したような小さな声だったので、老人には上手く聞き取れなかった。ただ、その女の様子から、随分困っているようには察せられたので、
「こんな夜分遅くに...。まあ、とにかく、中へお上がりなさい」
女にはとんちんかんな回答と思われるだろうと思いながらも、老人は彼女をとりあえず中へ招き入れた。女は、老人の目の前に現れた時からすでに、理由は分からなかったが、しきりに辺りを気にしていた。老人にはそれがずっと引っかかっていた。
「でも、車が...。」
女は、後ろを振り向いた。明かりの消えた車が、国道の真ん中で、老人の家の出口を塞ぐように止まっていた。
「車...。」老人はそれを見て、ようやく状況を察したらしく、
「あそこに置いておくと、夜中に騒がしい連中が来て、悪戯されることがあるから、私の家の庭に、とりあえず入れなさい。」そう言って、足下にあった草履を突っかけて、彼女に先立って歩き出した。女はどうして良いのかすっかり困っているらしく、その後ろから何も言わずにおずおずとした様子で付いてきた。老人が運転席のドアを開け、サイドブレーキを外して、ハンドルを取ると、女はようやく後ろからそれを押し始めた。車は、幸い軽自動車だったので、二人の非力な人間の力でも、それほど労無く動かすことが出来た。

車をすっかり庭の中に入れてしまっても、女の顔から不安げな表情は消えなかった。
「お電話、お借りしても良いですか。」
女は、老人の瞳をのぞき込むように言った。
「携帯をおいてきてしまったもので..。」
「ああ、どうぞ、どうぞ。」老人はそう言って、女を内に上げ、電話の前まで案内して、自分は居間に入っていた。

「...。」
電話を前にして、女は受話器は取ったものの、一向に何処かへ掛ける様子はなかった、じっと、受話器の無くなった電話機を見つめるようにしながら、女は何かを思い詰めているように見えた。

ややしばらくして、女は結局、どこへも電話した様子のないまま、受話器を置いた。
そして、老人の前に座り込むと、
「すいません、今日一晩だけ...、今日一晩だけ、泊めていただけないでしょうか」と言って頭を下げた。

「...ええ、それは構いませんが...」老人は女の何か必死な様子に、頷かないわけには行かなかった。
「ありがとうございます」
女がそう言って、一度顔を上げて老人を真正面から見た。その表情を見て、老人は再び、何かが胸の中に激しく渦を巻くのを感じた。この女を放って置いてはいけない。彼の奥底にそのような理由のない、熱い意志のようなものがわき上がるのに、彼自身驚いていた。

女は、年は30も後半だろうか。確かに美しい女ではあったが、どこにでもいる程度の美しさであることは、老人は十分認識していた。彼の年を経た精神は、もはやそのようなものに、闇雲に感情を乱されるほど素直ではなかった。むしろ、頭の一方で冷静にその場を見つめる余裕すら、彼にはあった。だからこそ、自分の心理の一方に、そうした理由のない感情がわき上がってきても、彼はそれはそれで受け入れながら、そんな様子はおくびにも出さずに、目の前の女を観察することが出来た。

それでも、老人は少なからず動揺はしていた。

その女は、若き日の、彼の妻の姿に、あまりにも似ていたからである。

2008年8月30日土曜日

無題

東京から神奈川に入り、海の見える海岸線沿いの道をずっと南下していった先に、小さな一軒家があった。

「早々庵」

その家の入り口には、古い木材に、筆字でそう書かれた表札がかかっていた。
その家に住む老人は、齢67に過ぎなかったが、頭はほとんどはげ上がり、見た目にはもっと年取って見えた。
先年妻が亡くなったため、彼は一人だった。それでも、家の庭に小さな畑を構え、そこでピーマンや白菜など日常使う野菜を育てては、自らの食事に供するという生活をしていた。幸い病気もなく、街に通うのも、数時間に一本走るバスに乗って、週1,2度出れば十分という生活をしていた。

早々庵、と言う名前は、彼の妻がまだ元気だった頃、せっかちな彼をよくからかっていたことに由来している。しかし、若い頃はせっかちだった老人も、今ではすっかり大人しくなった。

「お前ののんきさが、移ったのかな」
老人は姿のない妻に、時々、そう語りかける。

妻が亡くなり、家族は彼と、一匹の猫だけになった。
子供は結局授からなかった。妻は、それを気に病んで、死ぬ間際まで、度々それを口にした。
夫はそれを聞く度、
「そればかりは、運命みたいなものだ」
と言って妻を慰めてはいたが、何かしら後味の悪いものが残った。
彼も子供が欲しかったのは山々だったからだ。
結婚する前、子供は何人欲しい、などと喜色ばって二人で話していた頃を思い出す度に、夫は溜息をついた。

しかし、その妻もなくなった今では、その夫は、これはこれで、良い人生だったと思っていた。二人の間に、子供という存在がなかった分、彼らは何時までも、夫婦でいられた。他の同僚達が、何時しか夫婦から、父母へと移り変わっていったのとは対照的に、彼らは彼らを大切にして時間を過ごすことが出来た。それだけ、彼らの間には濃密な時間が流れていたし、おそらくは、子供のいた夫婦よりも、その絆は強かったのではないかと、老人は思っていた。

一匹の猫は、その時間を、特に後半の数年間を見てきた猫だった。
子供がいなかったので、夫妻は猫を数匹飼っていた。始めは、近所の数匹の野良猫に、妻がえさを与え始めたのがきっかけで、それから人なつこい赤い虎模様の一匹が、すっかり飼い猫のようになついてしまったのだった。飼ってみると、その猫は雌だったようで、ある日、縁側の下に捨てられた段ボールのなかで、かわいらしい子猫を数匹産んだ。その子猫のうちのほとんどは猫同士の力関係に破れたのか、家を去ってしまったが、一匹の斑の猫だけが家に残った。長い夫婦生活のなかで、猫は何度も子供を産み、そして世代が代わっていった。
今いる猫は、始めに飼った猫の、7代目か8代目くらいに当たっていた。心なしか、その頃の猫の面影が、ここにいたって再び蘇ったような気がするほど、その猫の毛並みはかつての猫に似ていた。名前は、初代の猫にあやかって妻が「とら」と名付けた。8歳の雌の猫だった。

老人は晴れた日には、縁側から道路越しに静かな海を見ながら、とらの頭を撫でているのが好きだった。とらも、もう長いことそうされてきたためか、老人の細い足の上で、大人しく丸くなっていた。

神奈川沖を通る船は昔老人が見た時よりも大きく代わっていた。
かつては小型の釣り船や、漁船が行き来していた頃もあったが、今では大きなレーダーを積んだモーターボートのような船が縦横無尽に駆け回ることが多くなった。遙か沖の方では、大型フェリーかあるいはタンカーや貨物船の様な巨大な船が、海に浮かぶ要塞のようにじっとして、そしてじりじりと前進しているのが見えた。
有機的に打ち寄せる波間に、そうした無機的な構造物が、浮かび上がっている様を見るのはなんだか不思議な光景だった。

それでも、老人は総じて海が好きだったし、それはかつての妻も同じだった。この家はそもそも、彼と彼女が老後に住まうために購入した家だったからだ。その妻は、この家にまもなく越すという段になって死んだ。

老人は計画を一年延期し、ここに住まうことを半ばあきらめた時期もあったが、結局ここに引っ越して来た。

妻の亡くなった家に何時までもいるのはつらかったし、彼女も夢見ていた生活であったから、老人は彼女の魂と暮らすつもりで、この家を彼の最後の住居にすると決めた。

越してきてすぐに、声を掛けてきたのは隣の家の夫人だった。
長川、と言うその家は代々その土地で漁師をしており、彼の夫もまた漁師だった。ゴム長に防水のカッパ姿で現れた長川の夫人は、老人が一人暮らしであることを知ると、幾分不安そうにしていたが、「何かあったらいつでも声を掛けてください」と気さくに受け入れてくれた。

田舎住まいの経験に乏しかった老人としては、そのような隣人の好意というものにほとんど触れずに過ごしてきたので、たったこれだけの心配りにも、大いに感激したものだった。

長川の夫妻は、実際本当に老人を気に掛けていた様子で、時々彼を食事に招いてくれた。
彼らには中学生になる男の子と、今年小学校を出る女の子がおり、家は常に騒々しかった。中学の男の子の方は、思春期と言うこともあって、見知らぬ老人にうち解けるのに随分時間がかかったが、この夫妻の子供だけあって元来素直らしく、半年もすると老人にぼそりぼそりとではあるが口をきくようになった。
女の子の方は早いもので、あっという間に老人と親しくなり、退屈な時は彼女の側から老人の家に遊びに来るほどだった。

長川の家で出される料理はどれも取れたての魚介で、一人暮らしでそういうものをなかなか食べる機会のない老人には大変ありがたかった。お礼に彼の方でも、季節事に、家で取れた野菜を持って邪魔することにしていた。

素人の作った、形の悪いものも多かったが、長川の夫人は喜んで、それをその日の夕食に早速使ってくれた。老人にとってそれは自分の努力の報われる、何とも言えず楽しいひとときだった。

2008年8月28日木曜日

サテライト

これは裏切りに当たるのだろうか。

なめらかな女の肌の上で、男は自問自答していた。
時は深夜。週末の捨て鉢のような喧噪が静まり、人々がふと、何か埋めがたい物寂しさを覚える頃。

男もまた、一人、あふれ出してくる孤独に耐えかね、同じような気色に囚われた様子の女と供に、他人の歴史に汚れた寝床の上で、夜を明かそうとしていた。

そのホテルに入ったのは、男にとって初めてのことだったが、彼が特にそのような素振りも見せなかったため、女は終始、男がよく、ここを利用するものだと思っていたようだった。

慣れた手つきで入り口の手続きを済ます男に、女はやや皮肉の混じった一瞥を向けた。
「何?」
男がその眼差しに気付き、問いただしても、女は特に返事せず、微かな笑みを浮かべたまま、不信げな瞳を向ける男を見つめ返していた。

男はその表情に、何か空寒いものを感じたが、特にそれ以上問うこともせず、先に立って、割り当てられた部屋に入った。

女も、何も言わず後に続いて入った。


男は、この女をよく知らなかった。
顔見知り。あえて言えばその程度の仲だった。彼がこの街に越してきてもう1年近く経つが、男は自分でも笑ってしまうほど、他の女との関係を持たなかった。

男の中には一人の女の面影が常にあった。
その女とは、結局、結ばれはしなかった。もう別れて、何年も経っていた。だが、どれほど時間が経っても、遠い土地に引っ越してきていても、その影はいっこうに消える気配がなかった。

男はもう、自分は十分に恋をしたと感じていた。

その、男をとらえて放さなかったかつての女のために、彼は身を焦がれるような思いを何度も経験した。思えば、青かったと男は今は考えていた。単に、女というものを、知らなかっただけなのだと。

しかし、なぜか男はその後、それ以上誰かに恋をする気には、なれなかった。
何度か試みたことはあったが、あの頃のように、自らを捧げるような気持ちには、いつまで経っても、なれなかった。

プロセスが似通っている。
男はそれが原因だと思っていた。

どの恋愛も、かつての恋愛を思い出すのに足りるほど、似ている。
それが男に、かつての女と、目の前の女を、容易に比較させ、色あせたものにしてしまう何よりの理由だと、彼は感じていた。

「どうしたの?」
体の下で、女が不思議そうに男を見上げていた。

「...何でもないよ」
男は静かに、女の体を撫でた。

「...変なの」
女はそういって、息を漏らした。
二人の間に、それ以上の会話はなかった。


なぜ、今頃になって、たいして好意を抱いていたわけでもないこの女を、ここへ連れ込むことになったのか、男は自分で、説明がつかなかった。

自分に関心を抱いてくれた女は他にもいたはずで、彼はそれを、これまで、ことごとく無視してきたはずだったのに、今夜はなぜか、この女をこうして受け入れてしまった。それが彼には解せなかった。

男はまじまじと、女の体を見た。
それは、かつての女とは、似ても似つかなかった。
貧相で、生臭いものに男には感じられた。

男は、かつての女の裸身を実際に見たわけではなかった。
それは彼なりの、空想に過ぎなかった。そしてその空想は、長い時間のうちに美化されてしまい、最終的には彼女の顔のような、それまで幾度となく見てきたはずのものでさえも、実物の彼女よりも、ずっと美しくなってしまっていた。

そうなるともはや、誰を本当に愛しているのか分からなかった。

しかし、男はそれを自分自身で知りながら、ずっと黙認していた。
どうせ叶わない恋ならば、それは現実でも、空想でも、同じ事だった。
むしろ空想の方が、彼の望みに従っている分だけ、ストレスが少なかった。

実際に恋愛している時に、どれだけ現実の女を、俺は見てきたのだろう。
そう思うとおかしかった。
実際には、自分の空想を、多分に現実の彼女に重ねていなかったか。

結局、俺は空想に始まって、空想の内に終わったのだ。男は思った。
彼女を題材にして、一人で夢を見ていたに過ぎなかったんだ。

目の前にいる、生身の女からは、男はあまり魅力を感じなかった。
普段のすました表情からは想像しえない、しかめしい表情や鬼女のような声に、男の心はむしろ滑稽さを見た。

ただ、生理的に男は女を求めていた。
二人の間に展開されているのは、ただそれだけの行為だった。

俺は二人の人間を裏切った。
行為が終盤に至った頃、男は思った。

この後に続く恍惚と快楽は、その代償になりうるのだろうか。
そもそもこの行為は、何かの約束か?

そんなことを考えている内に、あえなく女が音を上げた。


あいつも、今頃誰かの下で...。

そんなことを考えながら、男は、その行為を締めくくった。

2008年7月21日月曜日

metamorphosis

さなぎは窮屈だよね。
それまでは自由に、好きな葉っぱに昇っておいしい緑の葉っぱを食べていた芋虫が、さなぎになってしまうともう1センチも動けずに、狭い土壁に囲まれた個室の中で、身動き取れないで眠ったようになっている。私、あれに似たもの見たことあるんだ。昔近くの美術館でエジプト展をやっていた時に、エジプトの偉い王様のミイラが、固い木か何かで出来た入れ物にすっぽり収まってたの。そのミイラの入れ物にも、きれいな絵が描いてあって、王様の似顔絵がしっかり描いてあるんだ。まるで、これはこの王様の入れ物ですって言ってる見たいに。さなぎもよく見ると、そんな感じじゃない?よく見ると成虫に似た形はしているけれど、ちっとも動けない。固い殻をかぶった入れ物。あの中では、内蔵がどろどろに溶けてるんだってさ。古い自分を壊して、全く新しい自分になるんだ。自分が壊れるってどんな気分かな。新しくできた自分は、本当に「自分」なのかな。虫に聞かないとわかんないんだろうけど、無駄と分かってて時々考えちゃうよね。自分が造り変わるって、どんな気分だろう。気持ち悪いんだろうな、相当。初めて生理が来た時みたいに、なんだか自分が自分でなくなっていくのはやっぱり怖いよね。自分の意志とは無関係に、大人に引きずり込まれていくあの怖さ。きっと昆虫も、あれをずっと味わっているんだよ。暗い、湿った土の中にいて。
 自分が作り替えられると、自分の考えも変わるのかな。でも、それを感じる自分も変わっているんだから、けっきょく変わったことには気がつかないのかもね。私も気がつかないうちに、たぶん去年の私とは変わってる。弟から見たら、私は変わってしまったんだろうな。大嫌いなお父さんやお母さんみたいに、私は弟からは見えているんだろうな。弟の目はいつも子供みたいだから。男の子ってどうしてああなんだろう。どうして何時までも子供みたいな目をしていられるんだろう。同級生の男子を見てもそう。何であんなにはしゃげるの?まるで小学生。ただ体が大きくなっただけの。でも、あの人達もいずれ、お父さんみたいになるんだ。それは何時なんだろう。早く来なければいいな。弟がお父さんみたいなことを言い出したら、悲しいだろうな。私は理解者を一人失った気持ちになるんだろうな。家の中に、ますます居づらくなってしまいそう。
 だってお父さんったら、いつも勉強しろってうるさいんだもん。私は勉強してるんだよ?私が勉強しているところを見もしないくせに、勉強しろ、勉強しろって。じゃあ私は、どこまでがんばればいいの?お父さんが勉強したなって認めてくれるのは、いつ?
 私も、始めはがんばったんだ。だから、お母さんやお父さんが行けっていった難しい中学にも、入ったし。結構大変だったんだよ。難しい中学に入れば、もう口うるさく言われることもないと思ったんだ。でも、けっきょく何も変わらなかった。むしろ、優秀な子達と比べられて、ますます窮屈になっただけだった。こんな調子じゃ、大学に入っても同じ事言われるんだろうな。会社に入っても、もっと上を目指せ、同級生の何々さんはもうお前より給料もらっているんだぞって。どこまで行ったら許してくれる?私が、ほっと出来る時は、何時?
 結婚してしまえばいいのかな。女の子だから、と言うことで。そうすれば、そういう上ばっかり見せられる生活からは抜け出られる。でも、お父さんはそれでも言うんだ、今はそんな時代じゃないぞって。女だから、男だからと言う考えはもう古い。結婚して、出産しても、また会社に帰ってくる人はたくさんいる。お前もだから見習えって。お母さんの時代がうらやましいな。ああやってママできる時代が。子供を抱えて、会社で働いて、そして上ばかり見せられて。女は不利じゃない?どうして女なんかに生まれてきたんだろう。
 私、正直もう、疲れてきたんだ。実際、テストの成績も最近伸びてないし。こないだなんかは、一つ落としちゃった。お父さん達には言ってない。言うとどうなるか、想像できるでしょ。考えただけでもうんざりだよ。だから私は風邪を引いたことにして、その日の追試は受けないでお家に帰ったんだ。先生は私の姿が見えないから、わざわざ家まで電話してきた。ちょうど弟が取ったから、風邪を引いててでられないって言ってもらったんだ。かわいい弟だよね。私の言うことを、真っ直ぐきれいな目で信じてくれた。あんな風に信じてくれる人に私は何人逢えただろう。
 お父さんは早く帰ってきて、私が風邪だと弟から聞いて、寝かしつけようとしたけど、私はもう大分よくなったって言ったんだ。実際熱もなかったし、あんまり重病人っぽくするのもかえって変でしょ。嘘を吐くのが上手くなったのかな、私。お父さんはすんなり信じてくれた。考えてみれば、私はずっと嘘ばかり吐いていたからね。もう心の中は、子供の頃の私とは全然似ても似つかない私になっているのに、お父さんとお母さんの前では、子供の頃の私を演じてる。そのほうが、二人を失望させずに済むから。私小さい頃はいい子だったんだ。お父さんとお母さんの自慢の娘。でも、あるとき、私はそんないい子な自分を無くしてしまったことに気づいた。今まではしっくりいっていた感じがなくなったんだ。自分の思いどうりにやろうとすると、それまでの私とは違った方向に行ってしまいそうになる。今までは思いどうりに行動しても、褒められることしかなかったのに。何かしていて思うんだ、あ、これ絶対に怒られるって。でも、それをやっちゃう。で、怒られる。お前がこんな子だとは思わなかった。小さい時はこんな事無かったのにって言われるんだ。
 小さい頃の自分と比べられるって不幸だよ。そんな自分は、もうこの世に存在していないんだから。親はそんな幻のあたしに、私を何時までも縛り付けておこうとする。生まれたての無垢なわたしに。そんなの無理だよ。でも、私はできるだけ、それを演じてきたんだ。小さいころ好きだった食べ物は、今嫌いになりかけていても喜んでおかわりした。そうしないと、お母さんが悲しむと思ったから。お父さんは心底嫌いになっていたけど、好きだって言い続けた。小さい頃はお父さん子だったんだってさ。お父さんと結婚したいとか言ってたんだってよ。今じゃ、全く理解できないんだけど。
 とにかく、週末だったし、お父さんが買い出しに出てカレーを作ると言い出したから、私もついて行ったんだ。だって、お父さん大好きな私だからね。行くか?って言われたら、うん、行きたいって、喜んで言わなくちゃいけないでしょ?正直に嫌いなら嫌いと、言えたらよかったんだ。でも、そうしたら、家の中がぎくしゃくするのは目に見えていたし、弟や、お母さんが必要以上に悲しむだろうと思ったから、それはしたくなかった。お母さんたら、お父さんのことが、なんだかんだ言って大好きなんだもの。弟もそう。あの二人...、特に弟を悲しませることは、私には出来ないんだ。
 お父さんと二人でカレーを作って、そしてお母さんを待って、一緒にご飯を食べた。お父さんが借りてきたDVDを見て、一緒に笑った。正直私とは少し趣味が違った。でも、私は喜んで見た。弟は随分のめり込んでいたみたいで、目をまん丸にして見ていた。私はあの子がうらやましかった。本気で、お父さんと趣味が一致しているんだから。何の気を遣う必要もないんだから。昔は私もそうだったんだよ。でも、今の私は、もう、あの頃の私では、ないんだ。演技の中にしか、両親の知る私は、いない。二人ともそれは気がつかないみたいだけれど。
 ただ、弟は気がついていたんじゃないかな。私はあの子にだけは嘘を吐かなかったから。正直、最近弟と話す機会が減り始めたと感じていたんだ。前みたいに、どこ行くのも一緒、では無くなってきた。弟も、少しずつ変わり始めていたんだね。でもあの子は素直だから、私みたいにそれを隠したりしなかった。それがますます、私にはうらやましかった。ああやって、自分をさらけ出せれば、私みたいになることもないんだろうね。
 その晩私は夢を見たんだ....。お父さんが、家族みんなを殺してしまう夢を。理由は分からない。追試のことが、いよいよ、ばれたのかも知れない。弟は泣いていた。お母さんも泣いていた。お父さんだけが、真顔だった。怒っているようにも見えた。手に包丁を持って、家族みんなを刺して歩いていたんだ。始めに弟を刺した。それから、お母さんを刺して、私の方に向かってきたんだ。顔色は青かった。お父さんの怖い顔で目の前がいっぱいになって目が覚めた。私は怖かったんだ。体が汗でぐっしょりだった。手がわなわな震えていた。膝もかくかくしていて、立ち上がるのにも苦労した位だった。でも、私は、夢から覚めても恐怖は残っていたんだ。逃げられない。なぜだかそんな気がしていた。
 逃げたいのに、逃げられないんだ。私はまだ震えていた。怖くて、怖くて仕方がなかった。だから、台所に行ったんだ、そして、何かお父さんを殺せるものを....。

そう、そのとき、殺そうと思ったんだ。

そうしないと“私”が、殺されてしまうと思ったから。



 

2008年7月17日木曜日

シンボリック

君が美術館に行きたいというので、僕は対して興味もないのに、君が行きたいというその近代美術館とやらへ、ひょこひょことついて行った。

君はどこで学んだのか、絵画や、芸術に並々ならぬ興味を見せて、時折熱っぽく語ることがあるが、僕は君が実際に油絵だとか、水彩画だとか、スケッチですら、実際に絵筆を取って描いている姿を、これまでとんと見たことがない。

音楽鑑賞を趣味と公言するひとのほとんどが、実際には楽器を扱えなかったりするように、君もまた、受け手側の観衆の一人に過ぎないのかも知れない。長い髪を伸ばして、なんだか文系の女の子のようにその日の君は落ち着き払っていたけれど、数日前までは真夏の渚で、波しぶきを上げながらはしゃいでいたのだ。あの日の君の名残は、本当は肩口の水着のひもの当たっていた辺りにくっきりと残っていたのだけれど、その日の君は文系の女の子で、きっちりとダークグレーの衣服を身に纏って、ちょっと膝上位のスカートまではいていた。僕とのはしたない、ひとときの夏の思い出は、硬い衣装の下にしっかりと隠されてしまっていた。
 波打ち際ではじけた君の姿など、そこに居合わせた、上品な紳士淑女の皆様方には、きっと知るよしもなかっただろう。彼らはきっと、ちょっと地黒の女の子程度にしか、その日の君を見てはいなかった。UVカットローションのSPFを間違えて低いものを買ってしまった君の勘違いなんて、彼らは想像だにしなかった。

君が見たいと言いだしたそれは、戦前にパリに行ったある日本人画家の展覧会だったっけ。その人は白の使い方の上手なひとで、女性の肌を透き通るようなパールホワイトで表現したことで有名なそうなのだ。けれど、それは僕があくまで、その日、実際に展覧会に行った時に仕入れた情報で、なんの予備知識もなく言ったわけだから、居並ぶ名画も、ただ女の人の裸だけがたくさん並んでいる程度にしか、僕には印象を残さなかった。

必然的に僕が見ていたのは、古い額縁の中の絵を真っ正面から真面目に見ている君の横顔と、立ち姿だった。でも、それは君も、その日はしっかりと意識していたのだろう?そうでもなかったら、あんなにまじまじと、絵なんて見るもんだろうか。目をいつもより大きく開けて、ほのかな微笑をたたえ、胸を張ってまっすぐに立った君は、テレビカメラの前に立つ女優のようで、自然体を『繕って』いるようにしか僕には見えなかった。

絵の中のパールホワイトの裸婦像が、ベッドの上で、何をしているのか、ぐったりと力なげに横たわっている絵を見ながら、君は美術館の落とされた照明の中、鼻と瞳の陰影をくっきりと際だたせていた。

まあ、その日の君は文系の少女だったのだ。そのくらいのことはするだろう。読みもしないドストエフスキーの本を抱えて、街を歩いてみる眼鏡の男のように、今日の君は文系の少女なのだ。裸婦像の前で、目をしばたかせることもなく。その価値を知るもののように、静かに見入っていた。

「いい絵だね。」君は言った。その裸婦像の前で。
芸術家の書いた裸婦像だから、その輪郭はおぼろげで、表情は簡素化されていて、なぜかみんな太り気味に見えた。パンフレットには『官能的』と表されていたけれど、どの辺に官能を見出せばいいのか、僕には全く分からなかった。

「そうだね。」僕は言った。
今日の僕は文系の君の彼なのだ。コーラよりも、ストレートの紅茶が似合う顔をしていなければいけない。スポーツドリンクなんて、汗臭い話は無しだ。
「なんだか表情が物憂げで。」
「そうだね。」
君はあっさりと同意した。そしてまじまじと、その絵を見返した。
僕の口から出任せを、こうも簡単に受け入れてくれたのは、この芸術を解しない僕へのせめてもの慰めか。それとも、君も、実際なんだか分かっていないから、知ったかぶってみただけだったのかも知れない。いずれにしろ、僕らのしていることは茶番だ。おかしな茶番を1200円の入場料を払ってしている、おかしな男女の二人連れ。

こんな二人の時間の過ごし方は、
楽しいに決まってる。

「ほら、見て。」君はその絵の脇の小さな説明の書かれたパネルを指さした。
「...この女性は、この画家の後に妻になった。だって。」そうして、何を思ったのか脣の辺りにそっと手を添えてかすかに笑った。
「言われてみるとどことなく、画家の愛情を感じるかな。」僕はまた、心にもないことを言った。「表現が軟らかくて。」
「そうだね。」彼女はまた、僕の言葉を受け入れた。穏やかな白熱灯の明かりの中で、君の影が揺れた。「...優しさって、絵に現れるものなんだね。」
君はそう言うと、静かに僕の手を取って、先に歩き始めた。僕はようやく先に進めるのでほっとしていた。行けども行けども続く、白い裸婦像よりも、幾つもの影を従えて暗がりを歩く君の後ろ姿の方が、僕には印象的だった。握った手の肉の感じや、皮膚の感覚までは、彼女の言うように、優しさまでを描いてしまうような、優れた画家でも、描くことは出来ないだろう。
握られた手の中にしか、その感覚はない。表現して、他人と分かち合うまでもなく。そしてそれは今、僕の手の内にある。文系の君も、渚の君も、僕の手の中では同じようにしか感じられない。
そんなのは極めて些細な違いだ。夜の眠るまでの、極めて、些細な。

美術館を出て、外に出ると、太陽はすでに傾き、辺りはトワイライトのうす紫色に染まっていた。君はまた、新たな色彩演出を得て、涼しい夕暮れの風の吹く中で静かに笑った。

2008年7月12日土曜日

失われた指

久しぶりにあった彼女は、何もかもが変わってしまっていた。

以前には見られた、はじけるような快活さは身を潜め、沈鬱で、どこか世を捨てたような諦めに似た空気を背負った彼女がそこにいた。

「幻滅したでしょう。」
男に出会った時、開口一番、彼女はそう言った。
「だから、会いたくなかったのよ。」
そう言うと女は皮肉に笑った。彼の知っている彼女なら、決して見せなかった笑顔だった。彼は驚きの内に、しばらく言葉を失っていたが、ようやく絞り出すように、
「そんなことはないよ...、」と的外れなことを言うのがやっとだった。
女はそれを聞いても何も言わなかった。彼と目も会わそうとせず、斜め前方の何もない薄緑色の床のタイルを、ただじっと眺めているだけだった。

彼女が、不慮の交通事故に巻き込まれたと言う話を、彼は数ヶ月前に知った。しかし、彼はその時海外にいて仕事の都合上すぐに帰国するのは難しい状況だった。彼女とは3年前、国を出る前に一度関係を清算していたつもりだったし、彼の知らないところで、幸せな生活を営んでいるのだろうと、勝手に考えていた。事故の一報の後、彼女が依然として結婚もせず、これと言った恋愛もせずにいたことを知って、彼はまずおどろいた。

ようやく彼女の見舞いに訪れる事が出来たのは、事故が起こってから1ヶ月以上が過ぎた後だった。
「アンバランスなものね。」車いすの彼女は言った。
「これじゃ、畑のカカシにも劣るわ。」彼女の顔からは化粧気がすっかり無くなっていた。
彼女は、利き腕と、右足を失っていた。交差点に無理矢理突っ込んできた車と側面から衝突し、彼女の車は運転席を中心に大破していた。事故の写真を見せてもらった時、彼は彼女が一命を取り留めたことすら、奇跡と思えたほどだった。それでも、彼女は事故後2週間は生死の境をさまよったと聞いていた。久しぶりに見た彼女の顔には、何か死相にも似た暗い影がまだ、はっきりと見て取れた。
髪はぼさぼさと乱れ、たった3年の間に10も余計に年を取ったようだった。
「もう、用は済んだでしょう。」彼女は言った。「帰って。あなたを見ていると、私の気持ちがざわつくの。」
「そんな...。」彼は何事か言おうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。「せっかく助かった命じゃないか...、どうしてそんな諦めた目をして....。」
「助かった命?」
はっ、と彼女はせせら笑った。
「これが?死んだも同然じゃない。」彼女は膝から下の無くなった自分の右足をこれ見よがしに持ち上げた。「....私は死んだのよ。あなたの知ってる女は死んだの。」
「君は生きている。」男は諭すように言った。「まだそうして、息をして、声を上げて...、」
「あなたの知ってる女はこの程度の女だったの?」彼女は目を見開いて彼をにらみつけた。
「こんな欠損だらけの女だった?そもそも?あなたはかつての私をそんな風に見ていたの?」
「そう言う意味じゃ...。」男は予想外の反応を見せた女にたじろいでいた。「今の君でも十分に素敵じゃないか...。」
「十分に?」女の語気は荒くなった。
「なにそれ?必要は満たしているって事?」女は車いすから立ち上がると、松葉杖をつきながら、男の胸ぐらに迫った。
「私はあなたの道具じゃないわ。『十分に』なんて評価を受けるような代物じゃない。」
「そう言う意味じゃ...。」女がことごとく男の予想を裏切り続けるので、男はすっかりおじけづいていた。
「じゃあどういう意味?あなたにとって十分でも、私にとってはちっとも十分じゃない。欠けているところ、だらけなのよ、この体は。」彼女は残された右腕の付け根を振り回した。怒りの余り、無くなってしまった右腕で思わず彼の頬を打った様だった。女は自らの咄嗟の行為に気がつくと、自身を嘲笑うように笑った。
「ほら見なさい。」女は言った。「私は、何も出来ない女よ。欠損だらけの不良品。もう死んだのよ。」
女の残された片膝が力を失ってがくりと折れた。たちまち落下しようとした胴体を、男が腕を伸ばして支えた。ずしりとした体の重みが、男の腕にかかった。手放された松葉杖が、がらん、と音を立てて、床に転がった。
「...殺して。」女は言った。
「こんな体じゃ、自分一人で死ぬことも満足に出来ない...。いっそのこと、殺してよ。」
女は左手で、男の胸ぐらを掴んだ。女の目は真剣だった。涙の浮かんだ大きな瞳が、彼の頼りのない目をのぞき込んでいた。
「そんなこと...。」
「...出来ないって言うの?」女は掴んだ襟元を力一杯揺すった。
「出来るでしょう?あたしを愛していたなら?あの女は死んだのよ?ここにいる私は、その面影を崩す、ただの滅びかけの残骸に過ぎないわ!」
女は男の腕の中で激しく暴れた。男は女をなだめようと、それを必死に抱きすくめるのに精一杯だった。しばらくそうした状況が続いた後、やがて暴れ疲れたのか、女が大人しくなった。男はその体を、そっと車いすに戻した。女は始終、そっぽを向いたままだった。暇があれば、男の瞳をのぞき込んで微笑んでいた、かつての女の面影を男はふと思い出して、底抜けに悲しい気持ちになった。
「...いつでも良いわ。」女は言った。
「いつでも良いから、ここに来て。私を殺しに。」
「...分かった。」男は言った。「そう遠くないうちに、また来るよ。」

帰りがけ、病室の出口で、男に手招きするものが居た。女の母親だった。
母親もまた、この3年の歳月の内にすっかり老け込んでしまっていた。髪型はきちんと整えられていたが、数本の毛がほつれて、あらぬ方向へ突き出していた。娘と並ぶと、仲のよい姉妹のようにすら見えた以前の若々しい面影は、彼女からもすでに失われていた。
「ありがとう。」彼女は言った。「これを...。」
彼女はそう言うと、小さな銀色の指輪を差し出した。
「これは...。」
「あなたが、昔、娘に贈ったものです。」母親は言った。「返すようにと、娘が。」
母親の掌の上に、小さな飾り気のない、銀の指輪は静かに光っていた。彼はそれをはめていた、彼女の、今は失われた愛おしい右手の姿を、その母親の手の中にありありと見た。
「もう、はめる指もないから、と言うことでした...。これは吹き飛ばされた娘の腕から拾い上げたもので...、恐縮なのですが...。」そう言うと母親は、指輪を捧げた腕だけは彼に指し出したまま、俯いて泣き始めた。彼は嗚咽する母親に、そっと手をさしのべた。そして、彼女の差し出していた指輪を、再び彼女の元に返した。
「いただけません。」彼は言った。「一度あげたものですから。」
「でも...。」母親は言った。「受け取ってください..。娘も過去を清算したいのだと思います。新たな人間として、生きようとしているのではないでしょうか。」
彼はその言葉を聞くと、一瞬言葉に詰まったようだった。
しかし、母親の差し出す指輪をしばらく見つめた後、
「彼女に伝えて下さい。...君の指は、すべて失われた訳じゃない、と。」
と言い残すと、現在の自分の連絡先の書かれた小さなメモを残して、足早に病院を出て行った。

女は病室の明るい窓から、男が病院を背に去っていく様子を、冷たい目で見送っていた。
その目はどこか怒っているようでもあり、悲しんでいるかのようでもあり、いずれの感情も深く内に湛えた、押さえられた瞳だった。

私の失った物はなんだったのだろう。

女は男の背中がもう見えなくなってからも、じっと窓の外を見つめたまま、考え込んでいた。

ベランダの縁に止まって鳴いていた二羽の鳩が、何かに怯えたようにあわてて窓辺から飛び立った。

2008年7月9日水曜日

二人の酔いどれ

「体を意識しない恋愛は恋愛ではないのさ。」
Tは言った。長く片思いと失恋を繰り返していた私に。
「そうなのか?」私は彼の言説には懐疑的だった。「君は純愛というものを否定するのか?」
「そもそも、どこにそんなものが存在する?」彼は声を張り上げた。早い時間から飲み始めたためか、彼は少し酔っていた。飲み始めた時はビールだったが、今彼の前にあるのは冷えた芋焼酎だった。私は先ほどから冷や酒を飲んでいた。彼は、そんな水みたいな、癖の足りない酒は飲まないと言って、私の酒には見向きもしなかった。
「清純派女優の何人が実際に清純だと言うんだ?そんなのまやかしだ。」彼は卑屈に笑った。「君もとっとと夢から覚めることだな。」
「君に言われたくはないね。」私は手元の猪口をあおった。「大体、君は私にそれだけのことを言うだけの権利があるのか?」
「君よりはあるさ。」彼は一向に尊大な態度を改めない。「少なくともまだ、純情を捨てきれない君よりはね。」
「君には彼女が居たっけか。」私は言った。彼に言われ続けるのがいい加減、しゃくに障り始めた。
「現状は、たいした問題じゃない。」彼は鼻先で私の言葉を笑った。「ようは経験だ。」
「経験、経験と、それがそんなに偉いものかね。」私はこれまで私に対して使われた経験という言葉すべてを憎んでいた。「昨日女と別れた男が、次の日には別な女と寝ている...。そりゃ、経験豊富だわな。」
「生来、雄とはそう言うものだ。」彼は言った。「そのためにこそ彼の精細胞は永年分裂を続けている。」
「ここまで進化しておいて、精細胞の理屈に従うこともあるまいに。」私は笑った。「理性の足りないことの裏返しだよ。」
「理性を保った君は、けっきょく恋に破れたんじゃないか?」彼はしてやったり、という風に笑った。「理性を保った合理的な君は幸せだったか。」
「少なくとも、自分に従った部分に於いては満足しているよ。」私は虚勢を張った。「誰かのように、節操のない振る舞いはせずに済んだからね。」
「それは、女に困らない男の言う台詞だな。」彼は言った。「君のような男が言うことではない。」
「はいはい。」私はあきれた素振りを見せた。「浮気性がたたって、知り合いの女すべてから距離を置かれる君には敵わないよ。」
「大体女どもは、」彼が手を挙げると、近くを通りかかったウェイトレスが駆け寄ってきた。彼はおかわりを注文した。「大体女どもは、自分の浮気性を棚に上げて、男の浮気を責める。これは大いなる不条理だ。」
「浮気性と、浮気は違うと思うけどな。」私は彼を冷やかした。
「第一、恋愛などと言う感情は永続するものか?」彼の声は一段と高まった。「あれはあくまで刹那的な...、少なくとも、太陽が昇るまでの命しかない感情なのではないか?夜に恋していた女を、朝に恋しているとは限らない。そうは思わないか?」
「思わないね。」私は言った。「経験の少ない身分で恐縮だが。」
「まあ、君ならそう言うだろうな。」彼は笑った。歯並びのよい歯が見えた。「だから逃げられるんだよ....、あ、逃げられたわけでもなかったか。君の一方的な勘違いに過ぎなかったんだっけな。」彼は肩を小刻みに震わして笑った。「まったく、今時の中学生もおどろく失態だ。」
「今の時代には不足した純真さ。」私は開き直った。「中学生も是非見習うべきだね。」
「絶滅危惧の天然記念物として。」彼が言った。「性教育の時間にでもな。」

ウェイトレスが、銀の盆に酒を持ってきた。澄み切った色の焼酎だった。二人の酔いどれの目にその銀盆の彼女は美しく見えた。
「ここの大学の人?」彼は聞いた。「学部はどこ?」
「人文です。」彼女はおくびれることなく答えた。
「Xを、知ってる?」彼は言った。「僕の友人なんだけど。」
「X...。」彼女は目を浮つかせ、何人かの顔を思い浮かべているようだった。
「君、何年生?」彼は待ちきれなかったのか、問いを重ねた。
「2年です。」
それを聞くと、彼は微かに笑った。そして、「ありがとう、じゃあ分からなくても当然だ。」
そう言って、手を振った。彼女は何かすっきりしない表情で、空の盆を抱えて立ち去った。
「人文に知り合いが居たのか。」私は彼女の立ち去った後、彼に聞いた。「意外だな。」
彼はふん、と笑った。「馬鹿だな、お前、嘘に決まってるだろう?」彼は言った。「人文に知り合いなんか、いないよ。」
彼は、ウェイトレスが持ってきたばかりの冷えた酒をあおった。
「用は話の種だ。嘘だろうと、真実だろうとな。俺は彼女の年を聞きたかっただけだ。」
「年下は好みじゃないのか。」私は笑うほか無かった。「汚い男だな。」
「どうとでも言え。」彼は全く気にしなかった。「潔癖なまま、何も得られず生きるのは趣味じゃない。」
「汚い生き方は趣味じゃない。」私も言った。「どこまでも合わないな、俺たち。」
ふん、と彼がまた鼻で笑った。そして、もう一度片腕をあげて、近くを通りかかった別のウェイトレスを呼び止めた。
「こいつ、今日失恋したんだ。」彼は私を指さしていった。「猪口を二つと、何か一番辛い日本酒を2合。」
「日本酒は飲まないんじゃなかったのか?」私は彼に尋ねた。
「いいんだよ。」彼は笑った。「今日はお前の記念日だ。」
彼はそう言うと、グラスの焼酎を一気に飲み干し、ウェイトレスの銀盆に帰した。

2008年7月6日日曜日

スターリー・スカイ

離島の夜空は晴れ渡っていた。

バーベキュー大会の時に見えた厳かな夕日はすでに水平線の向こうへと沈んでしまっており、辺りは静寂と、暗闇だけが支配していた。

施設周辺は港町になっているため、昼間はそれなりに賑わいがあった。観光客目当てのサザエの壺焼きを売るおばさん達が、狭い通路の両脇で威勢の良い声を上げていて、どこからか焼きトウモロコシのにおいも漂ってくる、そんな場所だった。

冬は分厚い雪雲に閉ざされ自殺志願者が絶えないと噂されるこの島だったが、夏は打って変わって、本土の毎日がまるで一続きの悪夢だった気がするほどに、陽気で開放的な空が視界の果てまで拡がっているのだった。

そのような島の夜空である。見渡す限りの星空だった。
これほどの星が存在していることすら、私は知らなかった。あるいは、広い土地に来て、自分の目が少しよくなったのではないかとすら思った。しかし、いくら何でも、ここに来て数日でこれほどの星に気づく位目がよくなるとも考えられなかった。おそらくは六等星だとか、暗い星の代名詞のように数えられるそんな星までも、今日は私の瞳の中に、控えめに光を投げかけてくれているようだった。

私は施設の屋上に寝ころんで空を見上げていた。幼い頃、獅子座流星群を見るために、道路に段ボールを引いて寝ころんで同じように夜空を見上げたことがあった。その時は、一時間に数個ほどの流れ星を容易に発見することが出来た。ともすれば自分が、偉大な星空に落ちていって仕舞いそうになる倒錯した感覚を味わいながら、幼い私は飽きもせず数時間もそうして星を見上げていた。

そのような思い出も、施設の屋上で寝ころぶ私の脳裏には確かに去来していた。見つめている物は星だったが、それはその時目に映った星では、必ずしも無かったのかも知れない。いつ見ても大きく変化しない星空は、私に時間の経過を忘れさせるのに十分だった。現在が過去になり、過去を現在形で語るように、星を見上げる私の脳裏は時間を自由に行き来していた。

「どうしたの?」
ふいに声がして私は顔を上げた。見れば一人女が立っていた。女は何かおかしいのか、微笑みを湛えた顔で私の顔をのぞき込んでいた。

「...いや。」
私はそう答えるだけだった。
星を見ていた。そう答えるのも余りきざな気がした。

「寒くない?」
女は肩をすくめ言った。昼間に来ていたT-シャツの上に薄いカーディガンを羽織っただけの格好で、確かにその格好では夜の空気はつらそうだった。
「中に入ってたら?」私は彼女に言った。「まだ宴会は続いて居るんだろう。」

その日は、3日続いた大学の臨海実習の最終日だった。昼間海に出て取った魚介を器用な学生数名が調理し、振る舞っていた。私はその会に最初の1時間ほど参加していたが、やがて疲れてしまい、喧噪を離れてこの施設の屋上に上がってきていたのだった。

ここは私だけが知る場所のはずだった。
ここへ来た初日の夜に、施設内を歩き回っていて偶然見つけた屋上への出口。私はそれを、まだ誰にも教えていなかったから、その日の夜は一人で、この偉大な夜空と向き合った。別れの日を前にして、私はどうもこの夜空が恋しくてならなかった。それで、またこの場所に戻ってきていた。

「よくわかったな。」私は正直に言った。「結構わかりにくい場所にあるだろ。」
「そうかな。」女は言った。「何となく分かったよ。」
そう言うと彼女は私の寝ころぶ隣に座った。肩から提げたカーディガンの裾が私の腕に柔らかく触れた。何かの弱い香水のにおいがした。

「わあ!確かにすごい星!」女は言った。「これを見に来てたんだね!」
私は何も言わず、彼女の見上げる空を見上げた。星は暗闇の中で私達を取り囲んでいるようだった。
「みんなも呼んでこようかな。」女は言った。
「...いいよ。まだ宴会してるんだろう。」私はそれを止めた。「星を見るって気分でもないんじゃないかな。」
「...そうだね。」女は応じた。「あんまり人がいても、ね。」
彼女はそう言うと、後ろ手をついて夜空を見上げた。そうして僅かに口元を開けたまま静かに星空を見つめ続けた。

「...ねえ。」行く分かの沈黙の後、女は言った。「あの子とはどうなったの?」
あの子、というのは、同じ学年の同じ学科に所属する別の学生のことだった。私と彼女は当時、付き合っているという噂がささやかれていた。
「...知らないよ。」私は言った。「実際に付き合っているわけでもないし。興味もない。」
それは部分的には嘘だった。私自身はその時、その噂を決して嫌な気持ちで受け止めていたわけでもなかったから。私は人を愛する方法を知らない人間だった。「やさしさ」とは何か、と言う問いに、中学時代から悩み続け、すっかり疲れ果てているような人間だった。

「...そうか。」女はすんなりと私の嘘を受け入れた。微かに苦い気持ちが私の心の内を走った。「彼女、今回は来なかったね。いろいろ言われるのが面倒になったのかな。」
「かもな。」私は言った。実際私も面倒に感じることはあった。事実ではないことを言われ続けるのも、なんだか後ろめたかった。

くしゅん。
女が小さくくしゃみした。
「さっさと中に入ったら?」私は彼女に言った。「明日また、しばらく船に乗るんだから」
「そうだね。」彼女は言った。「でも船からじゃ、この星空は見えないから。」
彼女はそう言うと、私の隣にごろりと寝ころんだ。彼女の腕が微かに私の掌に触れた。

「わあ、空に落ちそう。」彼女が歓声を上げた。「あの光っている奴は、何?」
「...知らない。」私は答えた。星の名前など、実際知らなかった。
「知らないで見てたの?」彼女は私の方を見て笑った。「なにやってんだか。」
「星の名前なんて知らなくたって」私は言った。「きれいだと思えればそれで良いだろ。」
「でも、星の名前をたくさん知っている方が、なんかかっこよくない?」彼女は言った。「そう言うところは欠けてるな。」
「きざったらしい。」私は言った。「名前なんてみんな後付だ。そもそも世界には一つの名前もなかったのに。」
彼女は笑った。「負け惜しみ。」

ふう。言葉を失って、私は溜息を吐いた。彼女に勝てそうにもなかった。
「...でも、一理あるかな。」彼女は再び星空を見た。「私達が生まれた時も、けんかして泣いた夜も」彼女は言った。「うれしくて笑った日も、悲しい別れのあった日も、」
「星は同じように空にあって、同じようにまわっていたんだね。...そうして何時か、私達が、この世界とサヨナラする時だって、」彼女は少し間をおいて言った。
「星は同じように世界の空をまわってる。生まれた時と、ほとんど変わらない配置で。」
彼女は笑った。「後から出てきたのに、元々ある物に名前を付けちゃうなんて...、人って自分勝手な生き物だよね。...ていうか。」彼女はがばと跳ね起きた。
「何言ってるんだろ、わたし。」彼女はそう言って私にほほえみかけると、両手で私の手を取って体を起こした。
「さあ、立って。」
「何?」私は嫌々立ち上がった。彼女に握りしめられた腕の辺りが微かにひりひりした。
「今日は火星の再接近日!」
それは数日前から世間を賑わせていたニュースだった。火星が、数十年に一度の大接近をする年に、その年は当たっていた。
「こんな星空を独り占めする気?みんなを呼びに行こう。」彼女はそう言うと、私の手を引いて屋上の出口へ導いた。


空には満天の星。そのどれが火星であるのか、私は知らなかった。だが、友人の誰かが、どの星が火星であるのか、正確に知っているとも思えなかった。我々は各々の火星を見上げ、そしてその地球への接近を心から祝うのだろう。

それもまた、私達らしいと思った。

2008年7月4日金曜日

One for Helen

少年にとって18回目の誕生日を祝ってくれたのは、幼げな顔の少女だった。
「高校生最後の誕生日だね。」彼女は言った。
「私達にとっては始まりだけど。」そう言って彼女は目を細めて笑った。

少年も併せて笑ったが、その裏で、彼は付き合いの不思議を考えていた。数ヶ月前まで、誰が、彼女と一緒に誕生日を祝うなどと考えていただろう。彼女は彼にとって、無数にいる友人の一人に過ぎなかった。それが今や特別な存在になり、彼にほほえみかけている。彼は彼女の微笑みを見ながら、何やら空恐ろしいものを感じた。今こうして目の前にある幸せも、あるいは同じように急速な時間の内に失われてしまうような気がした。水のように形のない、彼と彼女の幸福。

「どうしたの?」差し出されたプレゼントに、おどろいた反応を見せない彼に、彼女は不思議そうな目をして問いかけた。
「...ああ、なんでもないよ。ありがとう。」少年は大人しい笑顔を浮かべた。
「どういたしまして。いつもお世話になっています。」少女は口先だけ改まったが、顔つきは親しげに笑ったままだった。
「中身は何?」少年は差し出された緑色の柄の小包を掌に載せて言った。
「開けてみて。」少女がそう言うので、少年は包みを開けた。

中には小さな犬のマスコットが付いた、携帯ストラップが入っていた。
「あんまりバイトも出来ないから、こんなので精一杯なんだけど、」彼女が言った。
「でも、ほら。」
少女が差し出した、彼女の携帯には同じマスコットの色違いのストラップが取り付けられていた。
「おそろいを買ったんだ。...何かいつも身近にあるものを、プレゼントしたくてさ。」そう言うと少女は少し恥ずかしそうに俯いた。
「...ありがとう。」少年は微笑んだ。「大切にするよ。」そう言うと彼は早速それを包みからだし、自分の携帯に取り付けた。はにかんでいた少女もそれを注意深く見守っていた。
「..ほら。」少年が少女の前に自らの携帯を差し出すと、少女も自分の携帯をもう一度見せた。
そして、また、さきほどのように、目を細めて笑うのだった。

そこは位夕暮れの公園だったので、少女は少年の手元まではよく見えていなかった。少年の手の中には、それまで付けられていたストラップが、むしり取られるようにして握られていた。
少年は、そのストラップを嘗て送ってくれたいつかの少女に、申し訳ないと思いながらも、それをむしり取ったのだった。
少女はそれに気づいていたかも知れなかった。むしろ気づいていたからこそ、似たような犬のストラップを送ったのかも知れなかった。
少年は彼女がそこまで自分を試すようなことをしたがっているとは信じたくなかったが、それでもそう考えざるを得なかった。彼女は嘗て彼の付き合った少女の、同じクラスの同級生だったからだ。二人は性格も正反対で、仲も余りよくなかった。

しかし少年はそのいずれをも好きになってしまった。

始め付き合った少女は今の彼女よりもずっと積極的で、むしろ彼の方が彼女からアプローチされたほどだった。彼はそれまで恋というものを余り知らなかったし、せっかくなので恋愛した。

付き合ってみると、恋愛はとても面白いものだった。彼女と居るのはとても楽しく、話が尽きても時間は十分に埋められた。彼がそれまで感じていた、話し尽きて沈黙することの恐怖は、恋人同士の場合には存在しなかった。逆に、沈黙は二人の間に関係の充足をもたらしてくれるということを、彼は恋をして初めて知った。

彼は彼女ともっと一緒にいたいと思い始めたが、しかしその恋は長くは続かなかった。メールのやりとりにつきまとう、小さな誤解が発端となり、彼と彼女の恋はあっけなく潰えてしまった。彼女に送るはずのメールが、別の女子生徒に送られてしまったのである。運の悪いことに、その女子生徒は彼の幼なじみだったため、誤解はより大きくなった。彼が弁解すればするほど、彼女の中で疑惑は大きく膨らんだ。そして、取り返しの付かない言葉まで言ってしまって、彼女はへたりとその場に座り込むと、
「...もう疲れた。」と言い残し、彼の前から去った。

その終わり方は、あまりに唐突だったためか、
彼の中でなかなか、彼女との恋愛に終止符は打たれなかった。彼の携帯の待ち受け画面は彼女が、近くの公園で見かけた犬と戯れている写真だったが、彼がそれを変更したのは、彼女と別れて数ヶ月も経った後だった。

実際それまで、彼の部屋には彼女からもらった手紙が目に付く範囲に置かれていたし、一緒に行ったゲームセンターの景品のカエルの人形が、にっこり笑って彼のベッドサイドに座っていた。

彼女と別れると、身の回りのものを急速に整理する人がいると言うが、彼はなかなかそのような感覚になれなかった。元々物に無頓着なこともあるのかも知れないが、それでも、物を見れば思い出すのは彼女であることに違いはなかった。

実に意外なところにまで、彼女の影響が及んでいることを知って、彼が驚きを感じたことも、一度や二度ではなかった。それでも彼は、気がついたところから、徐々に彼女の思い出を整理し始めた。そしてその年の冬が終わり、春になる頃には彼は彼女と廊下で擦れ違っても、何とか普通に挨拶できる程度には関係を作り直した。

その矢先である。彼が、今の彼女と付き合うようになったのは。

彼女のことは彼は以前から知っていた。1年の頃は同じクラスだったし、外見がかわいいと、ちょっと評判の子でもあった。彼も彼女のことは気にはなっていたが、ただ、それだけのことだった。そう言うこと付き合うと言うことが、自分のように平凡な人間にはあり得ないと決めつけていることもあったし、なにより、彼の最初の彼女が、あからさまにその少女を嫌っていたからである。

彼女に言わせれば、少女は「かわいい子」を気取ってるそうなのだ。

そう言うみんなからかわいがられようとする態度は、彼女の神経を逆なでするようだった。
「怒って脣を突き出すような高校生、どこが良いの?」彼女は時々彼に言った。
「男子の感覚って分からない。」

その言葉は決して、彼に向けられた物でないことは彼にも分かっていたが、彼は自分も怒られているような気がしてならなかった。案の定、彼もその後こうして、その少女を本格的に好きになり、つきあい始めるまでになってしまった。

人間関係は、つくづく不思議な物だと彼は思う。どうして、性格も正反対で、お互い仲の悪い二人の人間に、彼はいずれも恋することが出来たのか、自分の心の内をのぞき込もうとしてみても、答えはなかった。

今の彼女とつきあい始めてから、せっかく立ち直りかけた元の彼女との関係は見事に砕けた。彼女はもう、彼と廊下で擦れ違っても、笑顔一つ浮かべてはくれなかった。

「...あの子って、愛想悪いよね。」今の彼女はよく言う。「廊下であっても、なかなか挨拶してくれないでしょ。...よくないよね、ああいうのって。」
彼はそう言われても、ああそうだねと、肯定する気にもなれず、困ったように笑うだけだった。

そう言う無愛想な少女を愛したのも、また彼だったから。

今の彼女は時々、彼の前の彼女から言われたという、いろいろな皮肉や冗談半分の苦言を彼の前に披露することもあったが、彼は本気で以前の彼女を憎む気にはなれなかった。彼女をそうさせている一端は自分にもあると感じていたから、彼はその責任の一部は自分にあると考えていた。

「ねえ、どうしてあの子を好きになったの?」今の彼女は、元の彼女に皮肉を言われた言う時は決まってそう聞いた。
「さあ、なんでかな?もう俺にも分からなくなったよ。あんな奴のこと。」彼はそう言って空虚に笑った。大きな罪悪感が心の内で渦巻いていた。「あなたが振って正解だったよ。」彼女は言った。「あの子とずっと居たら、きっと幸せにはなれないよ。」彼女は、彼の方が彼女を振ったのだと信じ切っていた。彼は何も言わず笑うほか無かった。
「あの子があなたとうまくいくはずないんだから....。」


「そのストラップ気に入ってくれた?」彼はその声にはっとした。
「...ああ、ありがとう。」努めて穏やかに彼は笑った。気づかれないように手の中の古いストラップをポケットに仕舞った。
「よかった。」彼女はありきたりな笑みを見せた。彼は心の中で失笑した。
「これからも、仲良くいようね。」彼女は彼にそう言った。
そして、決して力強いとは言えない彼の肩にその身を預けた。

彼は、彼女の暖かさを感じながら、この恋はもう長く続かないと感じていた。

いずれ来るべき時が来て、彼のもとから、この水物のような幸せは奪い去られてしまうような気がしてしょうがなかった。

彼は彼女を強く抱いた。そして激しく脣を奪った。そう言う乱暴な手段に及んだのは彼にとって初めてのことだった。しかし、後先の知れた関係の末路に、気兼ねする理由もなかった。

煌々と照らす月明かりの下、見ている者はいなかった。


彼が彼女と別れたのは、その日から数日後の、ある晴れた朝のことだった。
幼なじみへ送るメールを、何も知らない彼女のアドレスに送信した。

彼の携帯にはその時のメールはもう無い。

物に頓着しない彼だったが、その時のメールから、彼女にもらった物もすべて、その日の内にみんな処分してしまっていた。

2008年6月28日土曜日

お姉さんになる日

「ねえ、先生。」
放課後、教室に残って先日の課題の添削をしていた私のもとへ、クラスの女子児童の一人がやってきた。
「なんだい?」
私は答案から目を外し、少女の顔を見ていった。少女はまん丸い目を更に円くして言った。

「お母さんが妊娠したの。」
私はどきりとした。少女の口から妊娠という言葉が飛び出すとは予測していなかった。
「ほんとかい。」努めて冷静に私は言った。「じゃあ、お姉さんになるんだね。」
「お姉さん?私が?」少女の円い瞳が喜々と輝いた。「私、お姉さんって呼ばれるの?」
「そうだよ。」私は微笑んで答えた。「もっと、お姉さんらしくしないと、赤ちゃんに笑われるぞ。」
「お姉さん、お姉さん。」少女はうれしそうに何度も繰り返した。
「お姉さんなんだ、ちいさい私が。」
「小さくても、お姉さんはお姉さんさ。」私は笑った。
「そうだよね。」少女は言った。「赤ちゃんは私よりきっと小さいもの。」
少女はその場で意味もなく、くるくると回った。うれしさが彼女をそうさせるようだった。
「先生は、赤ちゃん見たことある?」
「そりゃあるよ。」
「小さいよねえ。」少女は両の手を、赤ちゃんくらいの大きさに開いた。「おててなんかも、こんなに小さい」彼女の指をすぼめるようにして表した。「私見たことあるんだ、ケン君が家に来た時。」
「ケン君?」
「ケン君。お母さんのお兄さんの子供。」
「それはいとこって言うんだよ。」
「そう、いとこ。」少女は真面目な顔で言った。「ケン君とっても小さいの。」そう言うとまた両手でケン君の大きさを表した。「もうすぐケン君みたいな赤ちゃんが生まれるんだもんね。...先生、名前はどうしよう。」
「それは、お父さんお母さんが考えてくれるさ。」私は笑った。「君が心配しなくても、良いことだよ。」
少女は真っ直ぐに私を見ていった。「でも、家、お父さんいないよ。」不思議そうに首をかしげた。「じゃあ、お母さんが考えるのかな。」

私ははっとした。
少女の家庭は母子家庭だった。父親は存在しなかったのだ。
私は言葉を失った。
「先生、先生。」少女は不思議そうな顔で私を見ている。
「どうしたの先生。」
「ああ...、なんでもないよ。」私は努めて微笑んだ。「お母さん、うれしそうだった?」
少女は頷いた。
「うん。笑ってた。...でも。」
「でも?」私は聞き返した。
「でも、お母さん私に聞いたんだ。妹か、弟ほしくない?って。」
「なんて答えたの?」
「もちろんほしいって。」少女は自身の胸の内を表すように、体をきゅっと縮めた。「いもうとがいいなって。男の子って、すぐに散らかすでしょ。私、ご飯作って上げるんだ、サヤちゃんに。」
「サヤちゃん?それって、妹の名前?」
「そう。お名前。」少女はにかりと歯を見せて笑った。「私のサヤちゃん。」
「なんだ、もう勝手に決めてるんじゃないか。」私も笑った。
えへへ。少女は少し恥ずかしそうに身をくねらせた。

「おかあさん、結婚するの?」
私は努めて柔和な表情で彼女に問いかけた。

少女はきょとんとしていた。
「何で?」
「なら、いいんだ。」私は苦笑いした。「なんでもないんだよ。」
「変な先生。」少女は首をかしげた。「先生、お母さんと結婚したいんでしょ。」
「ち、違うよ!」私は今考えると不自然なほど慌てて否定した。
「だって、じゃあ何でお母さんが結婚するかどうかなんて聞くの?」少女が意地悪そうに笑った。「好きなんだ。ミワちゃんが、たっくんと結婚する時も、そうだったもん。」
私は苦笑した。
「先生は、お母さんが、もっと幸せになったらいいなと、思っただけだよ。」私はそう弁解した。
「ふーん。」少女は不思議そうに言った。「お父さんになくても、幸せだけどな。わたし。」そう言って首をかしげていた。

少女はしばらく話した後、生まれたら私にサヤちゃんを見せてくれる約束をして、手を振って帰って行った。

私は少女が帰ってからも、なかなか仕事に手が着かなかった。
そうしているうちに、上級生の担任をしている2つ上の彼女が来たので、その話しをすると、彼女は笑っていた。
「保護者の家庭の事情を詮索しなくても良いじゃない。」
「でも、担任としては、子供の家庭の様子くらい把握してないと...。」
「言わなくても、向こうからやってくるわ。」彼女はあきれていた。「知らせる必要のあることなら。」
私は返す言葉がなかったので、そのまま黙っていた。
彼女も私の脇に突っ立って、しばらく黙っていたが、やがて、
「サヤちゃんって、名前もいいかもね。」そう言って、教室を出て行った。

私は答案の丸付けを再開しようと赤ペンを持ったが、彼女の置いていった言葉の真意にそこでようやく気がついて、廊下の向こうに小さくみえる後ろ姿を慌てて追いかけた。

2008年6月26日木曜日

吠える犬

「俺、鹿児島に両親がいるんだ。」男は言った。
両軍の衝突から3日続いた戦闘は、彼の表情から少年じみたふくよかな頬をすっかり奪い去っていた。落ちくぼんだ眼下の奥から、緊張と恐怖の渦巻いた目が、ぎらぎらと光っていた。
「それでも戦わなくちゃ行けないのかな」
「まだ迷っているのか。」年上の男があきれたように言った。
「君は志願して、この隊に入ったはずじゃないか。それでもまだ...。」
「確かに、志願はしたさ。」若い男は声を荒げた。
「でもそれは、名目上だ。実際には...。」
「周りが、一斉に志願したから。」
部屋の奥で聞いていた、細身の女性兵士がぼそりと呟いた。黒い大きなライフル銃を丁寧に磨いている。
「あなたらしいわね。何時までも子供なんだから。」男の方を見もせずに女は言った。
「...お前はどうなんだよ。」子供と言われた若い兵士は不平そうに問い返した。
「あたし?あたしは...。」女性兵士はふと、微笑んだ。
「どこでもよかったわ。この子と一緒にいられれば。」そう言って、ライフル銃の銃身に軽く口付けた。
「気が狂ってる。」若い兵士はいぶかしがるように女を見た。
「お互い様。」女性兵士はまだうっとりと、黒い銃身を見つめていた。
「じゃあお前は、」二人のやりとりを黙って聞いていた、年上の兵士が口を開いた。
「その銃とさえいられれば、敵方にでも付いた、と言うことか。」
女はその言葉に、きょとんとして、男の方を見た。黒い大きな瞳だった。
「ええ。もちろん。」女は質問されたことすら意外と言った様子だった。
「考えられない。もう、この子と離ればなれになるなんて。向こうの軍じゃ、正規兵しか、こんな立派なスナイピング銃、使わせてくれないでしょう?流れ者は何時までも流れ者扱いよ。能力があってもなくても。」そう言うと、愛おしげに銃身を撫でた。
「だからこっちの軍に入ったの。」
「恐ろしい。こいつには政治の欠片もないのか。」若い男がうんざりした様子で言った。
「イデオロギーだの正義だの、正当性だの大儀だの、この女には一切関係ない。」
「はは、くだらない。」女は軽くあしらった。「だから何時までも坊やなのよ。」
「なにを!」若い兵士は立ち上がった。挑みかかろうとする彼を止めたのは年上の兵士だった。
「まあ、待て。」彼は言った。「勝てる相手じゃない。」
「こんな女ごときに!」若い兵士は言った。「俺が負けるとでも言うのか。」
「ばか!」年上の兵士は、叱責した。
「あの女の銃をよく見ろ。」
女は依然として何食わぬ顔で銃身を磨いていたが、その銃の安全装置はすでに外されていた。
「この距離からなら、あいつは確実にお前の脳天を打ち抜くぞ。」
「クソ!」若い兵士は、足下の椅子を蹴り倒した。部屋に大きな音が鳴り響いて、奥の方で壊れた通信機械を直していた老兵が思わず顔を上げた。
「静かにせんかいガキが。」老兵は大声で言った。「気が散って修理どころでないわい。」
「直りそうかい?じいさん。」年上の兵士は老兵に語りかけた。
「は?」老兵は問い返した。彼は耳が少し遠いようだった。
「直りそうかい?」兵士は大きな声で聞き直した。
「わからん。」老兵は首を振った。「何せ老眼で、細かいところまでは見えんからな。」
「役立たず。」若い兵士が、すねたように小声で言った。
「だまらっしゃい!こわっぱ。」老兵は大声で怒鳴った。
「まあ、じいさんも、あんなガキの言葉に一々腹立てなくても。」
「じじいでも、ガキでも、悔しいものは悔しいわい。」老兵は顔を真っ赤にしていた。薄くなった頭の皮膚まで、茹で上がったかのように赤くなっていた。
「わしはこう見えてかつては第92連隊で、くろがねの泰蔵と...。」
「また、昔の話しか。」若い兵士は皮肉に笑った。「昔のことしか語るべき事がないんだろうな。」
「お前はいい加減黙ってろ。」年上の兵士は低い声で叱った。「これ以上、隊の和を乱すと、それなりの罰を受けることになるぞ。」
そのとき、それまで無関心のように振る舞っていた女兵士が、安全装置を外したライフルを真っ直ぐに若い兵士の頭部に向けた。そして片目を照準に当てたまま、美しい歯を見せてにこりと笑った。
「ばん。」
そう言って女兵士は引き金を引いたのだが、それは銃の轟音にかき消されて誰の耳にも届くことはなかった。轟音が微かな響きを残して、部屋の中から消えていくと、あとには床に転がった若い兵士が残された。
「撃ったのか。」年上の兵士は女の方を見た。女はもう一度にこりと笑った。彼女は美しかったが些か色が白すぎた。青白いほどの笑顔だった。

撃たれた若い兵は、床に転がったまま動かない。目が天井の一点を見つめて凝り固まっていた。
老兵と、年上の兵が彼のもとに駆け寄ったが、女はそれに見向きもしなかった。
「おい!」「しっかりしろ!」
体を揺すっても彼は動かなかった。
「貴様!」年上の兵は女の方を見て怒鳴った。
「見方を撃つこと無いだろう!そもそもなぜ、安全装置を無断で外している?」
「かわいそう。」女は言った。「大好きな子の首を、首輪で縛っちゃうなんて。」女はそう言うと銃身をその身に抱いた。「噛みついてもくれない犬には、何の魅力もないわ...。あなたも、そう思わない?」
「たわけ!」老兵は言った。「まだ生きておるわい。」
若い兵士は天井を見上げたまま、硬直していた。恐怖のためか、体が小刻みに震えていた。彼は失禁したようだった。
「馬鹿め。」老兵は言った。
彼女の弾丸は、若い兵士の耳元をかすめ、板張りの壁に穴を開けていた。おそらくはこの兵士の耳には、銃弾の空気を切り裂く音が、しっかりと刻み込まれたことだろう。
「意気地無し。」女は笑った。
そして銃を大切そうに、革のケースにしまった。

2008年6月21日土曜日

すいかのたね

ぺぺはすいかのたねをうえました。
とおいとおい日本から、アフリカまで、船に乗ってやって来た、丸くて大きなすいかは、ぺぺたち小さなギャング団によってぬすみだされてしまい、すっかり食べられてしまいました。ぺぺははじめこのかみなりのようなくだものを見て、ばくだんではないかと思いました。おそるおそる近づいてみて、ちょんちょんと指でつついて、それでも何とも言いませんでしたので、ぺぺは勇気を振り絞って、それを近くにあった石でたたき割ったのです。

さくり、という音がして、石の下から赤いしるが飛び出してきました。
ぺぺはおどろいてとびのきました。動物の血か何かだと思ったのです。

「これは、肉だぞ。」ぺぺの仲間のカカは言いました。「赤い血が流れたんだから。」
もう一人の仲間のワワはくんくんと、その割れたすいかの匂いを嗅ぎました。
「ちがう、これは血のにおいじゃない。」ワワは自信を持って言いました。
「なんだろう、これ。」ぺぺは言いました。「肉じゃないけど、血が出てる。」
「血じゃ無いったら。」ワワが怒ったように言いました。
「食べられるのかな」カカが言いました。「おいら、腹が減ってるんだ。」
「食べてみようよ。」ワワが言いました。「いいにおいだよ。」
「食べるの?」ぺぺが言いました。「僕はちょっと怖いな。」
「いくじなし。」カカが言いました。
「いくじなし。」ワワも言いました。
「いくじなしなんかじゃない。」ぺぺが怒ったように言いました。

ぺぺは意気地無しなんかじゃないことを、ワワとカカに見せるために、そのすいかの赤いところを手で掬って、口に放り込みました。

「...あまい。」ぺぺが言いました。「なつめやしみたい。」
「そんなにあまいのか」カカが言いました。「肉なのに。」
「肉じゃないよきっと」ワワが言いました。「これは血じゃないもの。」

ワワとカカはぺぺの言葉を聞いて、われ先にとすいかを食べ始めました。ぺぺも混じって三人があんまり勢いよく食べたものですから、すいかはあっという間になくなってしまいました。
「ああ、おいしかった。」カカが言いました。
「もっと食べたかった。」ワワが言いました。
「ほんとにおいしかった」ぺぺが言いました。

ぺぺはすいかを食べているあいだ、お母さんのことを考えていました。すいかがあんまりおいしかったので、お母さんにも食べさせて上げたくなったのです。

ぺぺのお母さんは昼間は町に出て、ものごいをしていました。

ふつうの身なりでは誰もなかなかお金をくれないので、ものごいをする人の中には、わざわざ足の悪い人の動きをまねして、お金をもらう人もいました。中にはもっとすごい人もいて、わざわざ本当に足を折ってしまう人もいるようでした。ぺぺのお母さんは、体が一番だいじと、ぺぺにいつも言っているような人でしたので、そんなことはしませんでした。道路でしんごうを待っている車の間を縫うように歩いて、お金をくださいと、言って歩くのでした。

ぺぺはすいかを食べている内に、これがワワの言うように肉ではなくて、植物の実のようなものだと感じたので、その中にあった、黒いたねのようなものをいくつか拾っておきました。それからぺぺは近くの街路樹の下に、そのたねを埋めました。その街路樹はとても大きなもので、毎日管理人がその根本に、水を撒いていくのを、ぺぺはしっていました。管理人が水を撒けば、このたねにも水がかかるはずでした。ぺぺはこのたねが芽を出して、早く大きくなるように、おまじないをしてから、駆け足でお家に帰りました。

お家に帰ると、お母さんは先に帰っていて、夕食の用意をしていました。
「今日は余り稼げなかったよ。」と、お母さんは言いました。
「お金のありそうな人は、いっぱいいたのにねえ。」
お母さんの作っていたのは、ぺぺの大好きなマメのスープでした。平たくて丸くて大きな豆が、すりつぶされたのとすりつぶされていないのが一緒に入った、とっても栄養のあるスープなのでした。

ぺぺの家には、隣に住むタタおじさんも来ていました。おじさんもマメのスープを食べに来たようでした。おじさんはとてもけちで、人のものはもらうのに、自分のものを人にあげることはありませんでした。

「今日の豆は、わしがもらってきたものだぞ。」タタおじさんは言いました。
「だからわしがもらうのじゃ。」
でも、ぺぺはしっていました。おじさんの持ってきた豆というのは、近くで外国人が、お金のない人たちのために配っている豆だったのです。ぺぺたちの豆も同じでした。だから、けっきょく同じ豆だったのです。

お母さんはそれをしっているはずなのに、何も言いませんでした。お母さんはいつもそうでした。タタおじさんはひどい人なのに、余り文句を言いませんでした。タタおじさんが来る日は、お母さんの様子がいつもと違う気が、ぺぺはしていましたがそれがどう違うのか、ぺぺには分かりませんでした。

「はい。豆のスープだよ。」お母さんは大きな鍋のスープをおじさんに渡しました。「これで良いね。」
「ああ、」おじさんはにこにこ笑ってそれを受け取りました。そして、うれしそうに帰って行きました。ぺぺたちのもとに残ったのは、お母さんがこっそり取り分けておいた、ほんの少しのスープだけでした。

ぺぺとお母さんはそれを分け合って食べました。お母さんはぺぺより体が大きいのに、ほとんど全部をぺぺにくれました。ぺぺはいくらかお母さんに返そうとしましたが、お母さんはもう食べたからと言って、みんなぺぺに食べさせてしまいました。

「ぺぺ。」お母さんが言いました。「ぺぺはお父さんがどんな人か、知りたいと思ったことはないかい?」
「ないよ。」ぺぺは言いました。「僕のお父さんはペルペルポンだもの。」ぺぺは胸を張って答えました。
 ペルペルポンというのは、ぺぺたちの一族の英雄で、神様でもありました。昔、この土地にまだ土人間がたくさん住み着いていた頃、ペルペルポンが海から上がってきて、土人間を海の神様からもらったやりで、みんな打ち倒してしまったのでした。ペルペルポンがやりを空に掲げると、たちまち雨が降ってきて、土人間はみんな溶けてしまいました。そして、雨の降ったところにはオアシスが出来て、それがぺぺたちの住んでいる町の始まりになったのでした。
 だから、毎年雨期の始まりにペルペルポンのお祭りがありました。男の子は4歳になると、小さな槍を手に持って、空に突き上げて、みんなでペルペルポンのうたを歌うのでした。女の子はこのときだけ、特別なきれいな服を着て、それにあわせて踊りました。ぺぺたち、お父さんのいない子供は、みんなペルペルポンの子供でした。カカも、ワワも、そうでした。

「ペルペルポンねえ...。」お母さんは困ったように笑いました。

ぺぺの頭の中はそれどころではありませんでした。今日うえてきた、すいかのたねのことでいっぱいでした。豆のスープを食べていても、ぺぺはどうしても、すいかのことを考えてしまって、気がつくと自然に、顔がほころんでしまいました。

ぺぺが豆のスープを食べながら、あんまりにこにこしているものですから、お母さんは不思議がって、「どうしてそんなに、にこにこしてるんだい。」と聞きました。

ぺぺは笑って、「ないしょ。」と答えました。そしてまたにこにこしていました。
お母さんはそれを見て「変な子だねえ。」と言って笑っていました。すいかが大きくなるまで、ぺぺはお母さんには教えたくなかったのです。大きな甘いすいかを突然持ってきて、お母さんをびっくりさせて、喜ばせてあげたいと思ったのでした。
ぺぺはそれを考えると、ますます顔がほころんでしまうのでした。


その日の夜、ぺぺは夢を見ました。
もちろん、すいかの夢でした。

ぺぺの夢の中で、すいかは大きな木になり、
これまで見たことのない、真っ青な花を付けました。

ぺぺたちはそれを見ながら、うれしくて木の周りを何度も何度も踊りました。


青はペルペルポンの色でした。
ぺぺはそれからすいかのことを、『ペルペルポンの実』と呼ぶことに決めました。

でもそれを、ぺぺはまだ、お母さんには教えていません。
おいしいすいかの実がなったら、お母さんにこのことを一緒に教えて上げようと、ぺぺは思っているのでした。

老人と電車

抱き上げてみると少女の体は思ったよりずっと重かった。
老人はその重みに、自らの子を抱き上げた時のことを思い出した。妻の初めての出産は難産だった。当時は分娩室にはいることは許されず、老人は夜通し、待合室で、うろうろと落ち着かなかった。何度も外に出ては星を見上げ、月を見上げて、妻と、そして生まれてくる新たな命の無事を祈った。柔らかな産着に包まれて初めての娘が真っ赤な顔をして彼の前に現れた時、老人はどれほど泣いたことだろう。ストレッチャーに載せられて、妻が運ばれていく時、何度、ありがとうという言葉を口にしたか、今ではもう、覚えていない。

半日歩き続けた少女はすっかりくたびれてしまったようだった。
渠の肩にもたれるようにして、ぐっすりと眠ってしまっている。老人の耳元で、安らかな寝息が聞こえていた。

「この子を早く家に送り届けて上げないと。」
老人は独りごちた。

老人が、この少女と出会ったのは、老人がいつも利用する駅のホームでのことだった。
少女は自動改札の前で手間取り、辺りをきょろきょろ見回していた。

「どうしたんだい。」老人が尋ねると少女は、
「おばあちゃんちに、いくの。」と答えた。

どうやら少女は、一人で祖母の家に行くところのようだった。親もまた、子供に冒険をさせたものだ。老人は尊敬を通り越してあきれた。老人の目に少女は確かにしっかりしたこの様に見受けられたが、一人旅に出すにはあまりに幼い年齢に見えた。

「お母さんと来なかったのかい。」老人は尋ねた。
「お母さん、いない。」少女は答えた。

少女には元々、お母さんがいないのだろうか。老人は思った。今の家庭事情を考えれば、そんな家庭があってもおかしくないと感じていた。父子家庭なのだろうか。

「お母さんは、元々いないのかい」老人は念のためもう一度聞いてみた。
少女は首をかしげたまま、老人をきょとんとしてみていた。老人の質問が理解できないようだった。

「まあ、いい。」老人は仕方なく笑った。
「おばあちゃんちは近いのかい?」
「宮城県東郡陸前町字菅原1-10-5 ごとう、とめこ」少女ははきはきと答えた。
「ごとう、とめこ...。」老人はその名に聞き覚えはなかった。そのような住所も、この辺りには存在しなかった。
「ここの近くじゃないなあ。」老人は困ったように言った。
「間違えていないよね。」

「宮城県東郡陸前町字菅原1-10-5 ごとう、とめこ」少女はもう一度言った。
「...お父さんが言ったもん。」

「お父さんが、か。」誰が言おうと、存在しない地名は存在しないのであった。
どうやらこの子は完全に迷子のようだった。警察に引き渡すか、それとも自分でこの子を家に送り届けるか、そのどちらかしかなさそうだった。

老人はその日、特に何もすることがないので、近くの競馬場にでも行くつもりだった。元々、それほどギャンブルをする方ではない。しかし彼には、これと言って趣味がなかった。仕事を引退し、地元のこの田舎町に帰ってきてはいたものの、特にすることがあるわけでもなく、日がな一日、新聞を読んだり、縁側に出たり、その程度のことしかできなかった。娘も、そのあとに生まれた息子もとっくに独立しており、妻は先年先だった。

「じゃあ、おじいさんがついて行って上げよう。」老人は言った。久しぶりに小さい子を相手にしてみたかった。孫は娘夫婦にいたが、彼女は二年に一度も帰ってきていない。孫が生まれた時に年賀状に写真を貼って送ってきたきりだった。
「おばあちゃん地に行くのは難しいから、お家に戻ろうか。...さあ、お家はどっち?」
「海老原駅」少女は言った。ここから、一時間ほど電車で走ったところにある駅だった。
「よし。」老人は少女の頭を不器用に撫でた。「じゃあ、冒険に出発だ。」
少女はきょとんとした顔で、老人を見上げた。

海老原に出るには下りの列車に乗る必要があった。
ホームの時刻表で時間を確認しているうちに、海老原方面の列車が入ってきた。老人と少女はすぐに列車に飛び乗った。

列車の中で少女は、小さな財布をずっといじっていた。
子供に人気のマスコットキャラクターの絵柄の入った小さな小銭入れだった。

「お財布かい?」老人は尋ねた。
少女はそのお財布がお気に入りなのだろう。それを見せつけるようにぐいと老人の前に尽きだした。
「おお、かわいいねえ。」老人は笑顔で応じた。
少女はそれを手元で再びいじり始めた。そのうちそれにも飽きたのか、ふと顔を上げ、椅子に逆さまに座って、窓の向こうの景色を見つめた。そこは工業地帯であった。白と赤に塗り分けられた煙突が、数本、彼女の前を通り過ぎた。

「電電工業」少女は目の前に並ぶ建物の一つを指さした。老人は後ろの窓をふり返った。
「お父さんあそこにいるの。」少女はガラス玉のような大きな黒い瞳で、じっと電電工業の立ち並ぶ工場群を見つめていた。
「お父さん、何屋さんなの?」老人は尋ねた。
「さらりいまん。」少女は答えた。退屈を紛らわすためなのか、座席の上でぴょんぴょんと跳びはねたが、余り楽しそうではなかった。
「サラリーマンか...。」老人はその言葉に、思わず一人苦笑を浮かべた。そう呼ばれた頃の自分を懐かしんでいるようだった。

あの頃は、よく電車に乗った。老人は思った。
だが、俺はどのくらい、町の景色を見ていただろう。
20年住んだあの都会の町並みの、どの程度を俺は知っているだろう。

少女は電電工業の建物を見送ってしまうといよいよ退屈になったようだった。
しばらく椅子に座って足をばたつかせていたが、やがて、うとうとと眠り始めた。
老人は少女が反対側に倒れてしまわないように、腕を回して、自らの体の方へ抱き寄せた。
少女の体は大人しく、老人の体にもたれた。

老人は母親が子守歌を歌うときそうするように、少女の小さな肩を、はたはたと拍子をとるように打ち始めた。それは遠い物語だった。老人の母の、老人がまだ、老人ではなく、今彼のそばにいる少女のような、一人の子供だった時代の、母の残してくれた、体に刻まれた、拍子だった。

老人はその拍子で、体の思い出すままに、少女の肩を打ち続けた。
そのリズムに少女は気持ちがよくなったのか、より深い眠りに落ちたようだった。
老人は思わず、穏やかな微笑みを浮かべた。