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走り書き;主人公の心情
0.
テニスコート、午後6時半。
夏だから、まだ日は落ちてはいない。でも沈みかけてる。斜め光線。オレンジ色、みんな。
私は窓辺に座って、ずっとそれを見ている。野球部が見える。ずっと遠くに、えいえい、言っている。
アカネは、まだ出てこない。
ずっとシャワー室。そう、ずっと。
もう、出てこないの?
そんなことはない。いつか出てくる。
水が流れる音が聞こえる。彼女の、小さな歌声。誰かのワルツ。
出てこなければいい。
愛しい人ほど、そう思うのはなぜだろう。
ことに、それが、私を苦しめる、届きそうで、決して届かない存在だからこそ、
もう、出てこなければいいのに、そう言う気持ちにしてしまう。
彼女のことが、嫌い?
嫌い。でも、欲しい。
欲しいから、嫌い。欲望を駆り立てるものは、
みんな避けたくなってしまう。臆病な私が悪い。
ロッカー室に、いつの間にか差し込む、斜め光線。
オレンジ色。食べかけのお菓子の袋が、真ん中の机の上で、悲しげに口を開けている。
笑っている?泣いている。
夕日は、どんどん、ああ、斜めになっていく。
シャワーの音が聞こえる。
アカネの体を洗う音。
水が、走り抜ける音。
もう、出てこなければいいのに。
そう思いながらも、私はここで、彼女を待っている。
嫌い。
1.
私が大学に入って、一番喜んだのは、母だった。
私よりも、母が喜んだ。
私の選んだ学部が看護学部だったから。
母は私を女の子としての私を、誰より望んでいたから。
私が、私でいてはいけないと思わせたのは、母。
男の子と、毎日ケンカして帰ってきた私を、ひどく叱ったのは、母。
スカートより、ワンピースより、ハーフパンツを好んだ私を嫌ったのは、母。
母の買ってくる洋服は、みんな、恥ずかしい位ひらひらしていて、ピンクや白や、ありとあらゆる暖色系の色が優しく組み合わされている、さわり心地のよい服ばかりだった。青や、黒や、びっくりするような刺激的な言葉の書いてあるTシャツは決して着させてくれなかった。
反抗もした。でも無駄だった。
だって、母が生んで、育てている、私だから。
その抵抗にも、限界があるんだ。
高校の同級生と、結婚したいと本気で思って、彼女と一緒に逃げだそうとしたこともあったけれど、それも、準備しているところを母に見つかってしまった。
小さな頃から見ている彼女には、私よりも、私を知っている節があって、それがどうにも、私には疎ましい。
結局、二人の逃避行は見事に失敗した。
相手の彼女は、逃げ出した。
そして、帰ってこなかった。
行き先は、まだ解っていない。向こうの親とも、それがばれて噂になって広まってしまってからは、全く逢えなくなってしまった。
私は、彼女はもう、死んでしまったのではないかと思っている。
二人とも、それほど本気だった。
ただ、私の方には、母にそれ以上逆らうだけの気持ちがなかっただけ。
私は、その失敗があってから、ますます母には逆らえなくなってしまった。
彼女の言うとおりに大学を選び、そして、問題なく学年を進んだ。
私が、この学科に合格した時の彼女の喜びようと言ったら!
私をようやく檻に閉じこめた飼育係のように、彼女は安堵の表情を浮かべていた。
今でこそ、看護は男女の隔てがなくなりつつあるが、彼女にとっては、未だにそれは女性らしい職業の代名詞なのだ。女性らしい職業に就き、他人への奉仕を身につけることで、一種の行動療法のようにわたしの“ゆがんだ”心に作用するだろうと、彼女は考えているに違いなかった。
私の心は、そんな単純なものではない。
それは、何より私自身が一番よく分かっていた。
中学、高校と、『女の子らしい』格好を義務づけられていながらも、私の心は変わらなかったのだ。むしろ、そう言う格好をさせられることで余計に、私が通常とされる人々とどれだけ違っているかと言うことを強く意識させられる結果となった。
これが更に、看護学部だったとしたらどうだろう。
私はすでに、自分がどのような人間であるか、はっきりと意識していた。
もちろん、自分を変えようと思った時期もあった。それは中学校の不安定な一時期に限られてはいたが。
だが、今では、もうそのようなことを考えることはなくなった。
私は私なりの、幸福を見出せばいいのだ。
そう悟っている。
そうして、今、
私はテニス部の先輩として、シャワー室にこもったきりの、後輩が出てくるのを、事実上、待っている。
彼女は...、いや、もはや、私の過去を知るものなど、いないのだ。
私はなんの変哲もない、看護学科の女子学生として、彼女と付き合っている。
私の心の底にわだかまる気持ちなど、彼女は知るよしもない。
でも、それでいいのだ。
それを明らかにすらしなければ、私は、彼女に憧れるだけの男子であれば決して出来ないほど身近に彼女を感じ続けていることが出来るのだから。
越えられない一線が、普通の男女より、随分手前に設定されているだけのことだ...。
2008年12月20日土曜日
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2008年12月13日土曜日
a-cross
もしも、君に出会えていなかったなら。
そんな陳腐な言葉は使いたくなかった。
嫌みできざったらしい言葉ばかりが、頭の中を駆けめぐっていて、この瞬間、目の前の彼女の心に残るような、確実で、またとを得た言葉が、浮かんでこない。
『搭乗手続中』
プノンペン行き202便には、さっきからそう表示されている。
もうそろそろ、ゲートをくぐらなくてはいけない時間。しかし、彼女はまだ席を立とうとはしない。
飛行場の滑走路のよく見える細長い造りのカフェに二人で入って、もう1時間近く経つだろうか。普段落ち着きのない君の割に、長く持った方だ。
君はさっきから、手元の紅茶が冷めていくのも気にせずに、着陸しては離陸していく何機もの飛行機の後ろ姿を、ずっと目で追い続けている。
紅茶の中に沈んだ小さな茶葉が、口の広いカップの底に不安げに漂っている。
君がここに座って以来、見送ってきた何機ものボーイングの背中には、幾人もの僕と君が、散り散りになって機乗している。幾つもの似たような運命の中に、物珍しくもない僕らのラブストーリーも存在している。
カフェの店員には、見慣れた光景だろう。
彼女の水をつぎ足す所作には、一瞬の乱れすら感じられない。
恭しく頭を下げ、水差しを傾けて、楚々と去っていく。
その一連の動作を、僕は目で追っていたが、君はそんなことなど、全く構っていないようだった。
「ねえ、」
僕が、無愛想な君に話しかけた。
「プノンペンには、何時間かかるの。」
「3時間。」
彼女はぶっきらぼうに答えた。
「3時間...。なんだか、中途半端だね。寝るにも足りない時間だ。」
僕は努めて、彼女に笑いかけた。
「そうね。」
彼女は僕の方を見ようともしなかった。
「ねえ...、気持ちは分かるけど、もう少し、ポジティブに考えてもいいんじゃない?会社はきっと、君の将来を見込んでいるんだよ。」
「...そう、かしら?」
彼女は突き刺すような眼光のまま、それでもようやく僕の方を向いた。
「あなた、本当にそう思う?これが、ニューヨークとか、せめて上海ならともかく、プノンペンよ。なんの仕事があるって言うの?明らかに、左遷じゃない?」
「それは...。」
「向こうでの事業は確かに、まだ始まったばかりだけど...、私が回されるのは、前回失敗した事業の尻ぬぐいよ。他人の失敗の後片付けに、どうして私が、わざわざ本社から回されなくちゃいけないわけ?」
僕には、返す言葉もなかった。
「いい加減なこと言わないで...。」
彼女は少し俯いて、それからぷいと、再び滑走路の見える窓の方を向いてしまった。
その目には、微かに光るものが浮かんでいた。
彼女のような、自分の仕事に誇りを持っている女性にとって、会社の今回の措置は、嫌がらせ以外の何物にも映らなかっただろう。
決して、何か間違いを犯したわけでもなく、彼女の仕事の成績はいつも人並み以上だった。
むしろ、彼女に仇なしたのは、この彼女の優秀さにあったのかも知れない。
彼女のこの性格のためもあって、社内のやっかみは相当あるようだった。
「...わたしが、何をしたって言うの...。」
彼女は大きな窓に目を向けながら、小さな声で、そう呟いた。
彼女は、プライドが高かったが、芯が強いわけでは無かった。そう振る舞っていただけで、内心は繊細で、傷つきやすい人間なのだ。
むしろ、だからこそ、彼女は周りの人間に対して、時に威圧的にも見える態度を取っていたのだと、僕は思っていた。
正直、耐えられないだろうな。
口惜しそうな表情で、窓を見つめる彼女の横顔を見ながら、僕はそう感じた。
だが、ついて行くわけにも行かなかった。
僕には僕で、やらなければいけない仕事があるのだから。
「...ねえ。」
消え入りそうな声で、彼女が言った。
「別れ、ましょ」
彼女は、体は向き直っていたが、うつむき加減で、僕の目も見ていなかった。
「もう、そのほうが、いいとおもうの。...お互い、歯車は、別方向に、動き、出したのよ」
言葉を絞り出すように、彼女は小さな声で僕に語りかけた。
長い髪が、顔の両側に黒い幕を下ろしたように垂れ下がって、表情を覆い隠した。
「....こんな、急な話で、ごめんね...。ありがとう、いままで。さよぅ...」
「あの、さ。」
僕は、おそるおそる、切り出した。
「結婚、しちゃわない。」
今まで俯いていた彼女が、驚いたように顔を上げた。
先ほどの泣き顔が、まだその顔には張り付いている。
「なんか...、僕の方こそ、こんな飛行機の待ち時間みたいな時で、悪いんだけど。」
「でも、」
「...いい考えだと思うんだ。僕には君の支えになれるか解らないけれど、だからと言って、放っても、おけないんだよね...。プノンペン行きは、君にとっては、そりゃあ....、不安だろうと思うけれど、僕にとっても不安なんだよ。だから...、ね。君にこれだけ振り回されても、ずっとここまで、くっついてきた僕なんだから、少しは....、考えてくれないかな。...この不安の、解消」
彼女は黙ったままだった。
ベージュのチノの膝の辺りをくしゃくしゃに握りしめて、彼女の体は微かに震えていた。
「式とか、手続きとか、そう言うかたちの上のことは、正月に帰ってきてから、またゆっくり話せばいいことだしさ」
彼女に僕の気持ちを言ってしまっても、僕の中にはまだ、少し後悔があった。
本当なら、もっときれいなところで、落ち着いた時間にきっちりとしたかたちでプロポーズするべきだったと思っていた。
彼女の転地が決まってから、お互い、ここ数ヶ月は忙しくて、ゆっくり会う暇もなかった。
それは、言い訳にしかならないのではないか。“男の勝手”な...。
彼女の、口癖だ。
膝を握りしめた彼女は、動こうとしない。
そうこうしているうちに、いよいよ飛行機の出発時間は近づいてきた。
「もう、行かない?」
彼女の手を取って、促した。
彼女は俯いたまま、ゆっくりと立ち上がった。
ベージュ色の生地に、雫に濡れた跡があった。
やはり、泣いていたらしかった。
彼女の黒いキャリーバックを引いて、手荷物検査場の手前まで歩いてきた。
ここから先は、彼女だけが行くことの出来る領域。
僕の手は、いよいよ、もう、届かなくなる。
彼女は、無言のまま、僕の手から、彼女の荷物を受け取った。
そして、俯いた顔をあげて、ようやく僕の顔を見た。
「...行ってくる。」
頬は涙に濡れたまま、にこりと微笑んでみせた。
2008年12月7日日曜日
潜る
それはまだ、赤い太陽が僕らの頭の上にぎらぎらと照っていた、夏の盛りのできごと。
僕とお姉さんは、二人して、近くの川辺に出かけていた。
その日のお姉さんは普段着たことのないワンピースなんかを着ていて、それは小さな水玉がいっぱい入っていて、お姉さんが動くと、模様のの水玉がはじけるようにはね回るのだった。
「ユウキ、泳がないの?」
お姉さんは僕に向かって笑いかけた。僕は思わず目をそらした。お姉さんの笑顔を、僕は真っ直ぐに見ることが出来ない。
「泳がないよ」
そのつもりはなくても、ぶっきらぼうな返事。お姉さんを怒らせたんじゃないかと不安になって、僕は目の端で、その表情を伺う。
「泳げばいいのに。ユウキ学校の水泳大会で、2等になったんでしょう。見たいな、ユウキの泳ぐとこ」
お姉さんは、僕の連れない返事なんかちっとも気にしていない様子で、相変わらずにこにこしていた。僕が水泳大会で賞を取ったのを、母さん当たりからどうも聞いたらしかった。
「母さんに聞いたの?...言わないでって言ったのに」
僕はむすっとして言った。
「いいじゃない。姉弟なんだから」
お姉さんは笑っている。
「姉弟って言っても...。」
僕は小さな声でそう言い欠けて、口をつぐんだ。これ以上言ったら、僕らの間に何か冷たい風が吹き抜けてしまいそうな気がしたから。
お姉さんは、僕のお姉さんなんだ。たとえ、何があったとしても。
お姉さんは当時、もう三十は少し超えていたように思う。でもずっと家にいて、昼間はお家で眠っていることが多かった。お仕事は夜で、明け方になるまで帰ってこなかった。帰ってきた時のお姉さんからは、いつも香水とお酒の匂いと、あとちょっと、タバコの匂いもしていた。
僕は知っていた。
お姉さんは、いつもお仕事から帰ってくると、眠っている僕を、そっと抱きしめてくれるのだ。僕の小さかった頃から、そうしていたようで、僕が中学生になっても、相変わらず帰ってくると抱きしめてくれた。僕は、実は起きていることもあったのだけれど、お姉さんにされるままにしていた。なぜだか、そうしている時のお姉さんは、いつもひどく、疲れているようだったから。
昼間の、水玉模様のお姉さんと斯うして外に出かけたのは、だから本当に稀なことだった。次の日のお仕事が、きっとお休みだったからだろう。
斯うしている時のお姉さんは、年齢よりもずっと若く見えた。まだ、少女のような、そんな微笑みを、お姉さんはときどき見せてくれた。それは、夜に疲れて僕を抱きしめるお姉さんとは、まるで別人のようだった。
「ユウキって、けちね。泳いでみせる位、何でも無いじゃない」
お姉さんは言った。ぼくはそっぽを向いたままだった。お姉さんの前で、何かをすると言うことが、全体的に恥ずかしかった。何をやっても、お姉さんの前では不自然になってしまうだろうと僕には解っていた。
ここ数日雨が降っていなかったので、川は川底がはっきり見える位澄んでいた。僕らの見つめる先を、鮎の魚影が流れに逆らうようにして鋭く横切っていく。
「おさかなって、いいわよね」
お姉さんが、突然そんなことを言った。
「こんなきれいな、冷たい水の中にいて。誰に構わず自分の好きなところに泳いでいける」
「でも、水の外には出られないよ」
僕はそんな意地悪を言った。
「ぼくは、いやだな。鳥の方がいい。鳥の方が自由だ」
お姉さんはそれを聞いて笑っていた。
そして、ふと空を見上げて、
「確かに、鳥になれるものなら、鳥になりたいけど。...みんな、羽を持っているわけでは、無いから」
と言って、ちょっと悲しそうな顔をした。
お姉さんは、もちろん、僕の本当のお姉さんではなかった。
それどころか、どこからやって来たのかも、誰も知らなかった。
僕の母さんが貸していた部屋にずっと前から住んでいて、僕はお姉さんを、本当のお姉さんのようにして、育った。
お姉さんのことを、悪くいう人もいた。
夜の仕事というものが大人達には印象が悪いようだった。
でも、母さんは、昔から住んでいるお姉さんの本当の人の良さを知っていて、そんな大人達とは見方が全く違っていた。
お姉さんと僕ら母子は一緒にご飯も食べたし、よく一緒に旅行にも行った。
お姉さんにはすごく借金があって、お姉さんがあんまりいい人だから、母さんはそれも、少し手伝おうとしたようだったけれど、お姉さんは決してそれには手を出させなかったそうだ。
それどころか、家賃も最初に決めた額を毎月きっちり払っていた。
そんな事情を知ったのは、もっと後のことだ。
僕にとって、物心ついた時からそばにいるお姉さんは本当のお姉さんと変わりがなかった。
「ユウキ、」
空を見上げていたお姉さんは、僕の方に目を向けて話しかけた。
「将来、なりたいものって、もう決めてる?」
「海上保安官」
僕は映画を見て、その職業に憧れていた。泳ぎが得意だと言うことも生かせそうな気がしていた。
でも、お姉さんはその答えを聞いても、あまりうれしそうではなかった。
「確かに、かっこいいけど...。人を守る人は、人に縛られるのよ。ユウキはそれに憧れる?私は、ユウキにはもっと違った職業が向いているような気がするけどな」
「じゃあ、何?」
気に入っていた考えを否定された気がして、僕は少し機嫌が悪かった。
「フリーダイバー」
お姉さんは、真面目な顔で言った。
「酸素ボンベも背負わずに、体一つで深い海に潜っていくの。光りの届かない、世界で最も静かで、透き通った蒼い闇の底。海は敵ではなくて、他人も関係ない。地球や、自分自身との会話を続けながら、潜っていくの。誰も到達したことのない、深い深いところへ」
「それって、職業といえるの?」
僕は気になって聞いた。
お姉さんは、少し困った顔をしていた。
「職業といえるか解らないけれど、一つの生き方ではあると思う。自分の可能性を、追い求める仕事ね。...ユウキにはそう言う仕事についてもらいたいな」
僕は、それでも、フリーダイバーを目指そうという気にはならなかったけれど、お姉さんが僕に求めていることは何となく解った。
蒼い静かな闇の冷たさを身に感じながら深い海の底へ一人潜っていく自分の姿を僕は想像した。
そのそばには、真っ白な長い手足を持ったお姉さんが連れ添って潜ってくれていた。
いつも、何をするにも、見守ってくれる人を当たり前のように想定していた。
孤独と言うことが、当時の僕には、まだ想像できなかったのかも知れない。
...でも、その孤独は期待していなかったかたちで、全く無慈悲に訪れた。
お姉さんは、首を吊って死んでしまった。
川辺で二人並んで話してから、そう幾日も経たないうちに。
二人で話した時にはお姉さん自身もまだ知らなかったのかも知れないが、おなかには、誰かの赤ちゃんがいたと言うことだった。あの頃のお姉さんはいろいろ、他に病気も持っていて、体はもう、ぼろぼろだったらしい。
そばにいたはずの僕は、結局、何も出来なかった。
誰も到達したことのない深みに潜っていくダイバーを、
追いかけられるものは誰もいない。
心はあまりに深すぎて、潜るにはあまりに危険なのに、たとえ、そこで溺れてしまった人を見つけたとしても、他人の心の海に飛び込んでまで助けることが出来る人など、この世界にはいないのだ。
僕は海面に浮かんで、沈んでいこうとする危険な、あまりに小さな、真っ白なお姉さんの手足を見つめていることしか、出来なかった。僕を何度も抱きしめてくれた、あの白くて温かな手が、目の前を沈んでいくのに。
夏の太陽が、一人川辺に佇む僕の皮膚をじりじりと焼いている。
本当に、雨の少ない夏だった。
僕は、空を見上げた。
お姉さんのいない夏の空は、いつ見ても寂しかった。
お姉さんがいなくても、空が青いということが、僕にはどうしようもなく悲しいのだ。
2008年12月5日金曜日
夢
もう、幾度となく過ごしてきたクリスマスの、誰も買ってくれたことのないプレゼントとして、孤独な男が自分自身に買い求めたものは、小さな、少女の横顔の描かれた肖像画だった。
名のある画家のものではなく、無名の画家が40年ほど前に描いた絵であった。当時、これを描いた画家はすでに30代も終わろうとしていたが、描いた絵は全く売れていなかった。
己の才気を信じ、大都会で成功しようと意気込んで田舎を出てきたこの画家も、この絵を描いた頃には自身の才能をすっかりあきらめており、生まれた故郷に引き込んで両親と共に田舎暮らしをしながら、身の回りの何気ない風景を思うままに描く様になっていたのだという。
皮肉なことに、この画家の作品は、こうして己の才能に見切りを付けた後の方が一層瑞々しく、評価も高いのだそうだ。
「若い頃は誰でも、自分の身の丈を間違うものです」
この絵を売ってくれた温厚な画商は、丸くはげ上がった頭を撫でながらそう言った。
「自分の仕事、と言うものが誰にもあるはずなのですが」
この画商によれば、この絵のモデルとなった少女は、画家の姪御らしいと言うことだった。
フランスの田舎の娘であるらしい少女の横顔からは、まだ青いブドウの房の甘酸っぱい匂いが漂ってくるようで、男はそれを落ち着いたベージュ色の壁につり下げながら、微笑んでしまわずにはいられなかった。
絵の中の小さな少女は、その手の中に、もっと小さなティディベアの人形をしっかりと握っていた。その瞳は何を見ているのだろうか。向いている方向には大きな窓があるらしく、少女の青い瞳や表情が、明るい光りを浴びて輝いていた。
こうした少女の表情に、男は何処かで出会った気がしていた。しかし、それがどこであったのか、またいつであったのか、彼はついぞ思い出すことが出来なかった。
この絵を買ってしまったのも、この絵を気に入ったというのももちろんだが、何処か懐かしいような、不思議に引き込まれるようなものを感じたからであった。
「青い瞳の少女なんて、今まで海外旅行にでも行かない限り見たこともなかったのに」
男は独りごちた。
「...どうして、乞うも懐かしいのだろう。」
男は、キッチンの奥の小さな冷蔵庫を開け、冷えたビールの小瓶を取り出してきた。そして、手近にあった栓抜きで栓を抜くと、コップにも注がずに、それを飲み下した。
絵の中の少女は、彼女しか知らない窓の外を食い入るように見つめている。
男が見つめる先で、少女がクマの人形を握る手の力の強さを、男はふと感じた気がした。
男には、子供がいなかった。
子供どころか、彼には家庭というものが未だに無かった。
結婚というものを、考えたことがなかったわけではない。
節目節目で、場合によってはそれからの人生を共にしかねなかった女性には何人も出会ってきた。
それでも、男は結局彼女らと運命を共にすることはなかった。
面倒くさかったからかな。
男は時々、考えることがある。
仕事が思ったより早く、片付いてしまった帰り道に。
つまりは、面倒くさかったからだ。
関係を構築し、お互いのスケジュールをより合わせ、そして好き嫌いを妥協し合って、ふたり間をとりとめもなく割り算していくような、その作業が。
そもそも、それまで培ってきた20年を越える人生を、知らない他人と分かち合おうなどと言うことが、男には気の遠くなるような、無意味な行為に思えていた。
俺には、今が大切なんだ。
彼には解っていた。
何よりも、今が。
しかし、彼にも夢見たことが無かったわけではない。
小さくても、確かな生活。
慎ましい家庭。
むしろ、孤独な時間を人一倍長く過ごしてきた男にとって、こうした夢想は日常生活の一部ですらあった。
朝日を浴びた白い皿を彩る、緑色のレタスや、スクランブルエッグ。
真っ赤なトマト。
コーヒーの香り。
トーストの香ばしい焼き加減。
忙しい朝に、子供の声、そして、その母の声....。
男は、いつもそこまで考えると、自分の愚かさに、思わず笑ってしまうのだった。
そして、それを打ち消すかのように、心の内で自分に言い聞かせた。
俺には今が大切なんだ。
何よりも、今が...。
今を大切にしすぎたために、男は一人になってしまったのか。
果たしてこれが、一つの幸せというものの“かたち”であるのか。
まだ夢を見続けていた男には解らなかった。
しかし、彼が時折思い描くような家庭生活を送っている男達のすべてが、その時男が感じるような、甘い郷愁のようなものを、その生活からいつもを感じているかと言えば、そうではないだろうと思っていた。
苦いビールが、喉の奥を駆け抜けていく。
もしかしたら送っていたかも知れない人生が苦みと共に通り過ぎた。
生きていく、と言うことは、あり得たかも知れない未来の可能性を一つずつ、潰していくことなのだろうか。
男は大きく息を吐いた。そして、目の前に掛けた少女の絵を見ながら考えた。
少女が見ている窓の先には、きっと、いつか画家の夢見た希望の未来があるのだろう。
明るい窓を見つめている少女に、画家は、自分は叶えられなかった未来を見出し、託したのではないか。
そこまで考えると、男はふと何かを思いついたように、手に持った茶色の小瓶を近くの背の低いテーブルに置いた。
そして、書斎に入り、2、3の書類を丁寧にしたためた後、それを、それぞれ適当な大きさの封筒に入れ、しっかり封をして、しかるべき宛先を書き入れた。
その作業がすべてが終わると、彼はもう一度、大きく息を吐いた。
彼は、もはや、自分が、未来を次の世代に託すべき年齢になったのだと感じていた。
あのような絵に引きつけられたこと自体、その何よりの表れではないか。
あの懐かしさは、かつての若かった頃の自分の持っていた可能性への、懐かしさだったのだ。
もういい加減、俺は引き時なのだ。男は思った。
可能性にまぶしさを感じるような年になってしまった。
それは、もう自分自身が、光を失って久しいと言うことだ。
夢は十分、追わせてもらった。
男は愛着のある品々に囲まれたほこり臭い書斎の中で一人密かに笑った。
親父は、今頃どうしているだろう。
彼はふるさとへ向けた長い手紙を書きながら考えていた。
2008年11月24日月曜日
あと5分、まって
彼女が、化粧をしている。
僕の家の狭いユニットバスの、湿ったフロアの上に裸足で立って、所々、端っこからさび付いて、茶色い斑点が浮かび上がった鏡の前で、薄い青色のアイシャドーを、まぶたの下端に塗っている。
彼女は鏡に映った自分の顔を斜めからのぞき込むようにしてその青い塗料を、すっかり目尻の所まで、念入りに塗りつけている。
僕は玄関先に立って、その様子を見ている。
僕の方はもう、外出する準備は整っている。
彼女に比べて、僕はいつも軽装。
彼女は、近所のマックにちょっと出かける時でさえも、どうしてこれだけ荷物がいるのだろうと思うほど、いろいろなものを小さな手提げに入れて、そうしてそれを大事そうに左手の手首の上の方にぶら下げている。
化粧もそうだ。
できあがった彼女の顔は、決して厚化粧の方ではないのだけれど、その準備には、なぜだかとても時間がかかる。
シンプルな絵が、決して短時間で完成するとは限らないように、
彼女のメイクもそれだけ念の入ったものだと言うことなのだろうか。
はやくしろよ。
そんな言葉が、さっきから僕の頭の中に聞こえている。
でも、僕は口に出さない。
ありきたりな、お父さんのようなキャラクターには、染まりたくないから。
優しい彼、でいたいから。
でもそれは、僕の本当の姿なのだろうか。
僕はいつも自問自答している。
偽った僕の優しさを、彼女が僕の本来の優しさだと勘違いしているとしたら、そのまま、この関係が発展してしまうのは、危険じゃないだろうか。
どうせなら、偽らざる、醜い僕を、
彼女には好きになって欲しいけれど。
偽る、と言えば、彼女は、今、僕の前で、化粧しているが、
あれは、誰のための化粧なのだろう。
僕は、彼女の、ちょっと素朴な感じのする、素顔を知ってしまっている。
現代的なメイクの下の、そんな愛らしい素顔を知っている僕の前で、ああして念入りにメイクする彼女の行為の理由を、僕は知らない。
もしかするとあれは、僕以外の、他の誰かのために、メイクしているのだろうか。
そう考えると、軽い嫉妬を覚えてしまう。
大切な素顔は、あなたのために、取っておいているのよ
昔、そんな映画の台詞があったけれど、それならば、もっと適当でもいいだろう。
何が、彼女をあそこまで、念入りにメイクさせるのだろう。
ごめん、ちょっと待っててね。
斜めから鏡をのぞき込む、彼女の瞳が一瞬僕の方を向いた。
僕の贈った耳元の白いイヤリングがそれに併せてちらりと揺れた。
昔、幼かった頃、
母が何処かに出かけるために、化粧を始めると、
僕はなんだか不安になった。
化粧はそれ以来、僕にとって、
そばにいて欲しい大切な人が、自分から離れてしまうような
切ない幻想を抱かせる。
化粧をした母に、僕は泣いたものだった。
そうして未来に、怯えたものだった。
「お待たせ。」
すっかり準備の整った彼女が、美しい睫毛を交差させて、にこりと笑った。
そのまぶたには薄く引かれた青い影。
彼女が遠くに行ってしまうような、そんな幼いおののきを覚えて、
僕は差し出された彼女の手を、待ちくたびれた手で、しっかりと握った。
2008年11月22日土曜日
笑顔
しんしんと降り続く雪の中、男と少女は、雪深く沈んだ原野の上を、ただひたすらに、北を目指して歩いていた。
すでに、民家の建ち並ぶ住宅街を越え、未だ開発も行われていない裏山に、二人は入り込んでいた。2月を過ぎ、雪は二人の膝下位まで積もっていた。誰も歩いた形跡のない、ふわふわとした新雪の上を、赤い上着を着た少女に手を引かれるようにして、暗い灰色のコートに身を包んだ男が進んでいった。
「どこまで行くつもりなんだ。」
雪の中、腕を引かれた男が少女にたずねた。その声は少し、苛立っているようだった。
「....もっと上の方まで。」
少女はそう言うと、目を細めてにこりと笑った。
白い雪の中に融けるような笑顔であった。
少女は男の実の娘ではなかった。
亡くなった妻の連れ子だった。結婚した当時で、すでに小学校5年生になっており、性格的にすっかりませていたこともあって、それから5年もたった今になっても、彼のことを一度も「お父さん」と呼んだことがなかった。
彼女自身、元の、本当の父親によほどの愛着を感じていたらしかった。
実の父と母が離婚し、男と再婚するために、母と、遠く離れたこの街に引っ越してきた後になっても、男がいない時には、事あるごとに、そのことで母を詰っていたようだった。
しかし少女は、男の前では決して、そのような素振りを見せなかった。
普通の娘として振る舞い、男に対しても屈託のない笑みを振りまいた。
そんな少女に、男は、何処か掴み所のない不気味さを感じながらも、自分の愛する妻の娘として、惜しみなく愛情を注いできたつもりだった。
そんな折、つい先日、彼が愛してきた妻が、突然の病で亡くなってしまった。
少女の嘆き様は、痛々しいほどだった。
この世の終わりでも来たかのように、少女は母の棺にしがみついて大声を上げて泣いた。多くの参列者が、それを見て、思わずもらい泣きをしたほどであったが、妻を失った当の男一人は、少女のその様子を見ても、泣くことができなかった。
俺が死んだ時、この娘は、これほど悲しんでくれるだろうか。
式の間中、男の脳裏にはそんな疑問がずっとわだかまっていた。
実の母ほど、泣いてくれなくても構わない。
でも、娘となった少女に、これまで惜しみなく注いできた愛情の分だけでも、せめて、この子を置いて去った元の父親よりは、大切な存在であって欲しい。
心の内で男はそう、切に願っていた。
男のこの願いは、しかし実際には、確かめようのないことだった。
式が終わると、少女は、いつものように屈託のない笑みを、男に返してくれた。だが、そうなってしまうと、その笑顔の奥にある少女の本来の気持ちなど、男にはもう計りようがなくなってしまうのだった。
笑顔ほど、空恐ろしい表情はないな。
男は時々、思うことがあった。
どんな感情も、覆い隠してしまうことが出来る。
わざと泣くことは難しいが、わざと笑うことはたやすい。
男は、年を増すごとに美しくなっていく少女の微笑みを見ながら、つかみ所のない彼女の本心をどうにかして聞き出したい欲求に、いつもに駆られていた。
「裏山に行こうよ」
大雪の降った朝、少女が、突然そう言いだした。
それを聞いて、男は始め、何かの冗談かと思った。
しかし、彼女はとぼけた様子もなく、もう一度強く、そうせがんだ。男にはこれと言った理由も分からなかったが、彼女に気圧されるようにとりあえず身支度をして、同じように厚く重ね着した少女と共に、深く雪の積もった裏山に出かけて行った。
二人連れだって裏山に行く理由を、少女はなかなか教えてくれなかった。
何度たずねても、はぐらかすように笑うだけで、
その足がついぞ止まることはなかった。
少女の足取りは、明らかに、散歩のたぐいではなく、何か明確な目的を持っていることを感じさせるものだった。
そうして、もう小一時間も歩いただろうか。
男の言葉に耳も貸さず、ひたすらに斜面を登っていた少女が、もうじき山頂というところの
南を向いた斜面の上で、突如ぴたりと歩みを止めた。
「柳瀬さん」
少女は言った。
「なんだい。」
男は答えた。
「柳瀬さんは、どうしてお母さんと結婚したの。」
歩き疲れてうつむき加減だった男の顔が、不意の質問に驚いたように少女に向けられた。
雪の中に一層白い少女の頬が、生真面目に引き締まって、黒い瞳が野ウサギのように、じっと男を見すえていた。
その強い眼差しに耐えきれず、男の瞳は思わず一瞬、宙を泳いだが、
「...君のお母さんが好きだったからだよ」
俯いて、男はようやく、呟くようにそう答えた。
「それだけじゃ解らない。」
怒りを込めた口調で少女は言った。
「みんな、ありきたりの答えばっかり言う。誰も本当のことは話してくれない。...お母さんに言っても、おじいさんに聞いても、答えるのはそればっかり。柳瀬さんは、お母さんを好きだったんじゃないか...。...私は、そこまで子供じゃない。本当の理由は、何?」
町を離れた裏山に、他に人の気配はなかった。苛立ちと怒りに満ちた少女の声は、周りの深い雪に吸い込まれ、消えていった。
少女は、ずっと、この時を待っていたらしかった。
他人の目を気にせず、この男に、自分の中に長年わだかまっていた感情をぶつけられる、この大雪の降った日を。
それは、普段娘を演じてきた少女がみせた、初めてのあからさまな反抗だった。
観客のいない舞台に響く、役者の生々しい肉声であった。
男は、少女のその、強い口調で言い放たれた言葉を受けても、ただ小さく、悲しげに笑うのみであった。
それは少女の幼さに笑っているのではなかった。
なんの理由も答えられない自分に、ただ笑っていたのだった。
男は、本当に彼女の母が好きで結婚しただけだった。
それまで、積み上げてきたもの、ほとんどすべてを捨てて、男は彼女の母と結婚した。しかし、彼にそれほどの行動を取らせたのは、単に彼女に対する情熱にも似た感情だけであって、何らかの、明快な理由など、そもそも始めから存在していなかった。
彼女に、それをどう説明したらいいのだろう。
男には解らなかった。
大人の方が、時に子供よりも、理由のつかない行動に身を任せてしまうと言うことを、この時期の少女に教えることは、少し酷なような気がしていた。
「...何か、おかしいの?」
少女が気味悪そうに聞いた。
「...いや。...なんでもない。」
男は答えた。
「...君は、僕のことを嫌いか?」
「...そんなこと。」
少女は答えに詰まった。
「いや、それなら、それでいいんだ。...考えてみれば、父親とは、そう言う役目なのだから。」
男は手近なところから掌いっぱいに雪を取ると、それをさらさらと零して見せた。
「雪というのは何かに似ていると、ずっと思っていた...。それが、ようやく解った様な気がするよ。」
そう言って、男は笑った。
「表面に出して醜いことは、みんな笑顔の下に眠ってる。でも、それでいいんだ。笑顔の下など、本来、どう知りたいと願っても見れるものではないのだから。」
男はそう言うと、南の斜面から、彼らの住む町を見下ろした。
深い雪に沈んで、町は一時、沈黙しているように見えた。
普段の喧噪も、諍いも、その風景からは些かも感じられなかった。
「...きれいなものだ。雪が降っただけで。」
男はぽつりと呟いた。
少女は未だ、硬い表情を崩してはいなかった。
男はそれに気がつくと、自身の表情を和らげて、言った。
「俺に対して、どんな感情を抱いていても構わない。...ただ、見せかけだけでもいいから、今までのように笑っていてくれないか。娘、として。...俺は、それ以上は求めないから。」
少女は困惑しているように見えた。
まだ、難しいことなのかも知れないな。男は思った。
男と少女は、それからすぐに山を下りた。
彼らの歩いた後には、来た時と同じように、何もない雪原に、大きさの違う二列の足跡が、長く長く、残されていた。
しかし、それは少なくともたった一つの点で、彼らが山に登ってきた時とは異なっていた。
男の大きな足跡から、少し離れるようにして、少女の小さな足跡が、転々と続いていたからである。
2008年10月25日土曜日
クスリ
どこに行けばいいのだろう。
女は一人途方に暮れていた。
知らない田舎のはずれの無人駅。
すでに通る列車もなく、辺りは静まりかえっている。
女は死に場所を探していた。
死ぬのならば、誰も知らない、どこか遠くで、ひっそりと死にたいと思っていた。誰からも振り向かれることの無かった己の人生に、それが一番相応しい最後であると、彼女は思っていた。女はふと、手に提げた小振りのボストンバックを見た。中には、少々のお金と、そして、両親と、何人かの友人に当てた遺書が入っていた。遺書を残した友人のうち、一人はかつて、彼女が本気で恋をした男だった。しかしそれも、今となっては遠い昔の話で、おそらく彼も今頃は、別な女性と、幸せに暮らしているのだろうと、彼女は思っていた。彼女からの遺書が、万が一にでも、彼の元に届いたら、彼はきっと、迷惑するかも知れない。彼女は遺書を書きながら、ふと、そんなことを考えもした。
しかし、結局、遺書は書いてきた。
どうせ、死ぬのだから。
それで、この小さなわがままの一つ位、許してもらえたっていいのではないだろうか。
死と引き替えに、たった一通の手紙を残す。
それもなんだか不釣り合いな気がしていた。
彼と付き合ってさえいれば、そんなこと造作もなかったはずなのに、今のわたしにとって、この一通分の思いを伝えるのが、なんて難しく、つらいことなのだろうか。
女はそれを思うと、今彼と付き合っているであろう、見知らぬ女を恨みもした。
でも、それもすぐに止めた。恨み辛みを抱えたまま、己の死に際を、醜悪に終わらせたくはなかった。
せめて、散り際だけはさらりと、逝きたかった。
自殺の理由は、特にこれと言って無かった。何か特定の原因と言うよりも、いろいろな不安が押し重なって、彼女を死のきわまで追い詰めていた。生きるのが、嫌になった。そう言うのが一番正確なのかも知れない。生きていても、楽しい事なんて、期待できないのかも知れないな。彼女はそんな、脱力感にもにた思いに囚われたのであった。
彼女の持ってきた荷物の中には、多量の睡眠薬が入っていた。
首をつることも、海に飛び込むことも考えたが、苦しまずに死ねる方法を考えて、これにした。
実際、本当に苦しまずに死ねるかどうか、死んだ人が教えてくれるわけでもないので、知りようがなかった。ただ、テレビや映画では、みんなまさにに眠るように死んでいくような描かれ方をしていたし、死に際も醜くなる心配はなさそうだった。高いところに昇るのは怖かったし、怖じ気づいてしまうだろうという予測があった。首をつるのも、目玉が飛び出るほど苦しむという話を聞いていて、考えただけで吐き気がした。
彼女は鞄を開け、睡眠薬の入った小瓶を取り出した。
それを掌で暖めるように押し抱きながら、しばらく佇んでいた。
この小瓶を手に入れてからずっと、彼女は不安になるごとに、この瓶を抱いていた。
これを飲めば、いつでも楽になれる。
そう思うと、不思議と心が静まった。死ぬために買った薬で、これまで生き続ける事になろうとは、彼女自身、思っても見なかった。もしかすると、彼女に不安をもたらしていたのは、出口のない毎日であったのかも知れない。毎日というものから、脱出する出口を見出すことで、なんにせよ彼女は、その不安を軽くすることが出来た。
これで、この毎日も終わる。
彼女は辺りを見渡すと、誰もいない駅の待合室が目についた。ここなら、次の日の朝には、彼女の遺体を誰かが見つけてくれるだろう。ひっそりと死にたいとは言っても、誰にもその死を伝えたくないというわけではなかった。わたしは悩み抜いて死んだのだ。そのことを、一部の人には確実に伝えておきたかった。
彼女は、待合室のベンチに腰を下ろした。夜露に濡れたプラスチックのベンチは、座るとひやりとした。
彼女はそっと小瓶の蓋を開けた。そして、ありったけの錠剤をその掌に載せると、微かに微笑んでそれを飲み下した。
次第に、世界が揺れていく。
目の前はやがて真っ暗になった。
明くる日、まだ太陽が昇りきらないうちに、彼女は目を覚ました。
太陽は、真向かいの大きな山の頂から、赤く眩しい光りで、地上を照らしていた。
彼女は、のそりと起き上がった。頭が、がんがんしていた。
喉も少し痛かった。
おそらくは、風邪を引いたのだろうと思った。
こうして死ねなかった女が、どこへ行ったのか、誰も知らない。
ただし、彼女がもう一度、自死を試みたことだけはなかったと思われる。
彼女の去った後の駅のくずかごには、破り捨てられた彼宛の遺書が、
くしゃくしゃに丸められてうち捨てられていた。
2008年10月15日水曜日
ゴンドラ
この恋の先に、一体、何があるって言うんだろう。
わたしには、それが見えずにいた。
彼との時間は楽しかった。どんな些細なことでも笑いあえたし、二人の間にはなんの問題もなかった。
彼は優しく、頼りがいがあり、仕事もきっちり出来る人で、申し分のない男だった。
わたし達は、言うまでもなく「順調」だった。
でも、「順調」という言葉は、そもそも何が「順調」だというのだろう。
まるで二人の関係が、すでに行き先が決まっている旅のようで、そうしていずれ、決まり切った過程を経て、行き着くところへ行き着くとでも言うような...。その道すがら、わたし達は「順調」だというのだ。
まるで、わたしが、彼の運命を縛っているようにすら感じてしまうその「順調」と言う言葉。
進めるべき所に、進めているのは彼?それとも、やはりわたしなのだろうか。
ときどき、わたしは思うのだ。
彼は、この、私達の関係を、どのように考えているのだろう、と。
彼は、わたしの前ではいつも饒舌に、そして時々冗談を交えながら、陽気に振る舞ってはくれているけれど、その笑顔の下の本心には、何か、全く違うものが隠れているのではないだろうか。
それを考え始めると、怖くなる。
彼が笑えば笑うほど、その表情の下にもっと暗い何かが立ちこめているのが見えてしまいそうで、わたしの笑顔は硬くなる。
実際には、それは心配のしすぎなのかも知れない。
彼はいい人だし、これまで、そんな暗い兆候なんか、わたしの前では一度だって、見せたことはなかったのだ。
ただ、どうしてなのだろう。
彼が笑うと、わたしは不安になる。
幸せにならなければいけない場面で、わたしは思わず、尻込みしてしまうのだ。
いま、彼が朝のトーストを用意してくれている、ほんの僅かな時間に、
わたしはこの文章を書いている。
昨日も大分遅くまで仕事をしてしまったから、明るい窓から差し込む朝の光が、目に灼けるように眩しい。
カーテンは彼の好み。うすく、透き通るようなブルー。
庭のコスモスの淡い赤が、その色によく映えるように、彼は計算していたらしい。
わたしにはもったいないぐらい、出来る人だ。
昔、わたしが彼に、今のような不安をぶつけた時、彼はわたしをじっと見て、
僕は君を必要としている。
と、はっきり言ってくれた。
わたしは、その言葉を信じている。
なんの根拠もない言葉かも知れないけれど、他の誰でもない、
彼の言葉だし、わたしは信じてみたい。
でも、同時にわたしには分からないのだ。
一体、彼のどこに、わたしが必要だと、いうのだろう。
彼はあまりに、よくできた人なのだ。
わたしなどがいなくても、おそらく彼は十分にやっていけるだろう。
それなのに、「わたしが必要」とは?
たぶんわたしが恐れているのは、その不可解さなのだ。
かれが、わたしの何を必要としているかが分からないから、わたしは始終、彼を恐れている。
もしかして、彼の意に沿わない何かを、わたしはしてしまうんじゃないか。
あるいは、わたしの唯一、彼が必要としている「よい点」を、わたしは何時しか、失ってしまうのではないか。
そうなってしまうことを、わたしは恐れている。
彼が、帰ってくる。
今日も、優しく笑っている。
わたしも笑い返そうと思う。
今日も、綱渡りの
甘い一日
2008年10月4日土曜日
カスク
こいつは、何時か俺を裏切るに違いない。
男と並んで隣を歩いていた女が、親しげに腕を組んできても、男の心の中からそうした思いが消えることはなかった。手を握ること、腕を組むこと、口づけをかわすこと、夜を供にすること。そうした、物理的な二人の交差は、決して二人の行く末の安泰を保証するものではないことは、男は長い経験のうちから知っているつもりだった。むしろ、そうした事実の積み重ねを急ぐような恋愛は、得てして、短命に終わる。男はそう考えていた。
決して、恋愛経験に乏しい男ではないにもかかわらず、未だに、うち解けたつきあいの出来る女を得られずにいることが、彼のすべてを物語っていた。それは、これまでの彼の恋愛が、仮に物理的な経験は十分にあったとしても、最後は心理的な行き違いで、後味の悪い感情だけを残して終わっていたことに、そもそも起因していた。
どの恋愛も、最後は裏切りで終わる。
それが、男がこれまでの経験から得た結論だった。
友達で終わるとか、きれいに別れる、などというのは、建前もいいところだ。
それは、そもそも始めから恋愛関係ではなかったのだ。
憎しみの伴わない愛が、どこにあるというのだろう。
相手に、自分の理想を抱けば抱くほど、その理想と現実とのズレが、いずれ憎しみとなって吹き出してくる。
それがない愛など、相手に理想を抱いていないも同然ではないか?
傍らの女は、男の腕にしがみついたまま、ひたと身をすり寄せてきた。
男は、感情のこもらない目で、女の顔を見た。女の目は彼を見ていなかった。
ただ前だけを見ていた。しかし、男から見られていると言うことは明らかに意識しているようだった。
男は何も言わず、ただ溜息をついた。
用事があるから、と適当な理由を付けて女と別れた後、男は一人街を歩いた。
何か当てがあるわけではなかった。ただ、女と歩くのにうんざりしただけのことだった。
俺にはそもそも、こういうのは向いていない。
男はそう感じていた。
街は次第に暮れ始めており、西の空深く太陽はは沈んで、薄赤い残光が夜の縁を照らすのみだった。
男はその太陽の残り火を求めるように歩きながら、ネオンの明るく灯り始めた街の中を一人歩いた。
「いらっしゃい」
手近な一軒の店の入り口をくぐると奥から声がした。金属の呼び子が、からからと音を立てた。まだ店は開いたばかりのようで、男の他に先客は客は誰もいなさそうだった。
「お一人様ですか」奥の方から、店の主らしい女の声がした。太く、枯れた女の声だった。
「ええ」
男は端的に答えた。
「では、どうぞお好きなところへ」
男は足の赴くまま、店の一番奥のカウンターテーブルの端に腰を下ろした。
よく磨かれた質朴なその机は、店の穏やかな白熱灯の間接照明を受けて、鈍い輝きを放っている。
「何にいたしますか」
店の主の女が、カウンターの奥から男にたずねた。女はこちらを真っ直ぐに見ていたが、暗さに目が慣れないため、表情までは読み取れなかった。
「タリスカーは、ある?」
男はなじみの酒の名を呼んだ。
「ええ。水割りでよろしいですか?」
「ダブルで」
男はそう簡単に答えると、差し出された手ぬぐいをそっと目に押し当てた。
どうしようもなく、疲れた気がしていた。
あの女と歩いた2時間は、彼に徒労以外の何物をも残さなかったと思うと、自分の人生のほとんどは、疲れるために生きているような気さえしてきて、彼は自分の32年間を無駄多いものとして実感するほか無かった。
もっと効率よく、生きる道もあったはずだった。
それが、どうしてこう、徒労の多い生き方を選んでしまったのだろう。
男は目に厚い手ぬぐいを押し当てながら、ふと笑った。
そして、何事もなかったかのようにそれを傍らへ退けると、差し出された冷たい酒を喉に流した。
男は通しとして差し出された小鉢の和え物を竹の箸でつまんだ。
何処か懐かしい味のする、牛蒡と人参の和え物だった。
「うまいな」
男はふと、独りごちた。
人気のない店内に、男の声は静かに響いた。
「気に入っていただけました?」
女は控えめに男にたずねた。ようやく目が慣れて来た様子で、男はその女の表情を灯るような薄明かりの中、はっきりと見ることが出来た。そして、はっと息をのんだ。
「気に入っていただけた?もう、10年にもなるものね。」
女はそう言うと、恥ずかしそうに目をそらした。
紛れもなくそれは彼がかつて恋した女だった。
よく見れば、見間違うはずもなかった。顔つきも、表情も昔のままだった。
しかし、10年の間に彼女の雰囲気はすっかり変わっていた。
和服を着て、しっかりと化粧をした彼女を彼は見たことがなかった。それに、声も昔よりは幾分低くかすれているように感じた。
「私は、変わってしまったでしょう」
女は眉を下げて困ったように笑った。見覚えのある表情だった。
「十年は、長いものね。でも、あなたは全然変わらない」
「こんなところで働いていたのか。」男はようやく声を出した。
「大学を出てから、君だけ連絡がつかなくなっていたと聞いたが...。」
「わたしは、私を捨てたのよ。」女は困ったような笑顔のままで言った。
「大学時代に見聞きしたものも、それまでに培ったものも、あなたとの思いでもすべて...。そうしないことには生きられなかったから。」
女は、手元の水割りを、マドラーで静かにかき回した。
乾いた氷の音が心地よく耳に届いた。
「あれから、何があったんだ?」男がたずねた。
「俺と別れてから、何が?」
「...何もなかったわ。何も。取り立てて、言うようなことなんか」
女は静かに言った。かすれ気味の声が、言葉じりを匂うように煙らせた。
男も、聞く言葉を失った。
そして、手元の酒をもう一度あおった。
二人は無言のままそれから半時ばかりを過ごした。
男の脳裏には、女の過去に対する疑念が次々に浮かんできたが、男はそのつど、浮かんでくる言葉を酒とともに飲み込んでいた。
男は、自分には彼女の別れて後の人生について、質問する権利を持たない気がしていた。傷を負い、傷を負わせた者の、それが最低限の慈しみのように、彼は思っていた。
女は男が酒を飲み干すと、無言のうちに同じものを差し出した。
それが、彼の無言の質問への彼女の答えなのかも知れなかった。女は慣れた手つきで、その行為を何度となく繰り返した。
二人の視線はその間、度々交差した。
しかし、その手が触れあうことすら、ついぞ無かった。
それは、男が幾杯目かのグラスを開けた時だった。
「....あと、30分もすると、別なお客が入ってくるわ。」
それまで黙っていた女が突如、口を開いた。
「...その前に、帰った方がいい...。...あなたは、見ない方がいいと思うわ...。」
男はなおも無言であった。
が、女の言葉に答えるかのように、最後のグラスを干してしまうと、席を立ち、
勘定を済まして店を出た。
「ちょっと待って」
男が店の前から立ち去ろうとした時、女が呼び止めた。
「これを」
女は一枚のハンカチを男に差し出した。
「昔、私が、他人に言われたことが悔しくて泣いた時、あなたがくれたの。私の...、お守りのようなものだった。すべてを捨てようとして、結局何も捨てられずにいる私の象徴だった...。私は、これを見ていて、私を許せたの。何も、変わっていないような気がする時、何かが、変わってしまったような気がする時、このハンカチが、私を元の私に、引き合わしてくれた。」
女は目を細めて微笑んだ。
「でも、もういいの。私は、私の道を見つけた。私はこれからも変わっていく。でも、私を失うことは、もう無いと思うわ。変わり続けても、変わりきれないものだと気づいたの。どうしても動かせない部分が、人にはあるのよ。...他人はそれを、不器用と言うけれど。」
男は、その言葉に、何かを言おうとした。
しかし、女はそれを遮るように続けた。
「あなたとは結局けんか別れしちゃったけれど、私にとっては最後の恋らしい恋だった。あなたのおかげで、いっぱいいっぱい、いろんな事を知った。...ありがとう。それだけは、言いたかった。」
そう言うと、女は昔のように、片手を上げて、小さく遠慮がちに手を振った。
男は無愛想な表情のまま、それでも軽く頭を下げた。
角を曲がって、女の姿が見えなくなってから、男は女のくれたハンカチを、まじまじと見た。
飾り気のない、暗いトーンの格子柄の、男物のハンカチだった。それは確かに、彼のものだった。女はそれを、肌身離さず持っていたのか、裾はすっかり擦り切れて、ぼろぼろになってしまっていた。布地からは、先ほどの女と同じ香水の匂いがした。彼の知らない彼女の香りだった。
彼の背後から、先ほどとは違う調子の女の声が、微かに男の耳に触った。
男はその声を聞きたくなかった。早足で逃げるように、ビルを出て、ほの暗い通りに出た。
通りでは幾組もの男女が、腕を組み、あるいは手を繋いで、親しげに通りを行き来していた。
男はその中を、両の手をポケットに突っ込んだまま、やや前かがみに、足早に通り抜けた。
男は行き交う群衆の中で、寂しい、と感じた。
裏切りのリスクを背負ってでも、誰かと繋がろうとする寂しさを、
彼は初めて、理解したような気がした。
2008年9月29日月曜日
夏の記憶
祖父は幼い私を、いつも抱きたがっていた。私がご飯を食べている時も私を膝の上に載せたがって、甘い声で、
「こっちへこねえが?」
と呼び寄せたりする。
私も、優しい祖父は大好きだったから、祖父がそう言ってくれればすぐにでも立ち上がって、彼のあぐらの上に喜んで腰を下ろした。でも、そう言う時は決まって、
「これ!」
と、傍らから檄が飛んできた。目尻をつり上げた祖母が、恐ろしい形相で、祖父を睨んでいる。その表情を見て、私は自分自身が怒られているような気がして、怖くて泣きそうになった。
なぜ、祖母が祖父をことある事に怒るのか、私には分からなかった。
祖父は庭仕事が好きで、天気のよい日にはよく庭に出て、花壇の土を掘り返しては、新しい花の苗を植えたり、植木の剪定をしたりしていた。
祖父が特に好きだったのは朝顔とチューリップで、中でも朝顔は殊更、力を入れていた。大きなおなかを窮屈そうに丸めてしゃがみ込み、せん定ばさみをくわえて、朝顔の蔓が巻き付きやすいように、細い竹の格子を作ったりしていた。祖父の太い指は驚くほど器用で、そうした物をあっという間にくみ上げてしまった。
私は、祖父の指が竹の格子の上を行ったり来たりしながら、見たこともない結び方で、どんどん格子が組上げられていくのを、まるで魔法のわざでも目撃したかのように、目を輝かせてみていたそうだ。
しかし、そうして、祖父と私が気分よく庭仕事をしていると、決まって後ろから聞こえてくるのは祖母の声であった。
「これ!」
私はいつも、その声を聞くと、驚いて立ちすくんでしまった。
祖父を見れば、彼も同じように立ちすくんでいた。まるで悪戯をとがめられた少年のように、すごく申し訳なさそうな顔をして、縁側から顔を出して怒る祖母を見ていた。
私は、祖母が嫌いであった。
こんなに、子供のような心を持つ祖父をガミガミ言う祖母が嫌いであった。
祖父が、自分の布団で私と一緒に寝ようとしている時に、それを取り返してしまう祖母が嫌いだった。
祖父と縁側に出れば怒り、庭に出れば怒り、散歩をしても怒る祖母が、嫌いだった。
祖母はきっと、祖父が嫌いなんだろう。
子供心に、それが分かった。
おじいちゃんは、いつもかわいそうだ。
私は祖父と一緒にいる時には、必ず祖母が居ないのを見計らうようになった。
そうすれば、私も、祖父も怒られずに一緒にいることが出来るからである。
私は、祖父と一緒にいたかった。
もっと、何時までも、一緒に。
なのに。
祖父が死んだのは、突然だった。
正確には、突然と思っていたのは、幼かった私だけだった。
祖父は、末期の脳腫瘍を患っており、実はかなり長い期間、入院していたのである。幼い私には何も知らされず、祖父は、遠い大きな街に住んでいるとしか、理解していなかった。
この退院そのものが、もう手の施しようのない祖父への、病院側の、せめてもの計らいだったのだ。
しかし、それは、おそらく祖父自身も知らなかった。
知っていたのは祖母と、私の両親だけだった。
私は覚えている。
朝食を食べている祖父の、白米の盛られた椀に、鮮血の雫が、ぽたり、と落ちるのを。
見れば、祖父の鼻から、血が滴り出ていた。数時間経っても祖父の出血は止まらず、そのまま病院に担ぎ込まれた。
私はその日から、祖父を見ていない。
大輪の朝顔が、華々しく裏庭に咲き誇った、夏の初めの出来事だった。
前日まで、祖父はそれを見ながら、満足げに笑っていたはずだった。
この世界の青を全部集めたような、色とりどりの朝顔が、祖父の用意した、大きな竹の格子を埋め尽くさんばかりに咲いていた、7月。
祖父の笑顔と、朝顔の青と、白米の赤い鮮血。
私の、最初の夏の記憶。
そらから程なく、家の前に、大きな提灯が飾られた。
白黒の幕が、周囲を取り囲んだ。
祖父の遺影が、先祖の遺影の列に、新しく加えられた。
祖母はその日から、誰も怒らなくなった。
もう、顔を真っ赤にして
「これ!」
と叱ることも、なくなってしまった。
2008年9月27日土曜日
避行
冷えた夜風が吹き抜ける夜道に、少年は片膝を立てるようにして座り込んでいた。辺りからはもうすっかり人影は消え失せ、季節に置いて行かれた秋の虫が、悲しげに、今にも消え入りそうな細々とした声を立てるばかりであった。
少年の前には、赤々と燃える炎があった。
拾ってきたライターで、落ちていた新聞紙をたき付けに、ようやく起こした火だった。
少年はその炎を切らさないよう、十分な量の薪を用意したつもりでいたが、それもどうやら足りなくなりそうだった。外気は先ほど降った小雨で、かすかに湿り気を帯びていた。どうやら、新しい薪を得ることは難しそうだった。
少年は、長く寒い夜になることを覚悟して、炎照らす闇の中、身を縮めた。
彼の前には、一人の少女が横たわっていた。
少女は彼らの持っていた唯一の毛布にくるまって眠っていた。今日一日の移動ですっかり疲れてしまったのか、少女は微かに寝息を立てていた。先ほどまで履いていたミュールは片方のかかとがすっかり外れて、革一枚で繋がっているような状態だった。
少年は、彼女がそれを、不安定に揺らしながら歩いている昼間の様子を思い出し、微かに微笑んだ。少年がいくら脱ぎ捨てろと言っても、少女はそれを捨てようとしなかった。思い出の品だからと言うだけの存在理由で、その折れたミュールは、彼女の足にくっついたまま、結局夜になってしまった。
それを考えると少年は、このミュールが自分自身のようにも思えてきた。
そもそも彼女を、彼の家出に誘ってしまったのは間違いだったような気がしていた。家を出るなら、彼一人、出ればよかったのだ。彼女を誘ってしまったのは、自分の弱さの表れにも他なら無かったように思えた。家に居続けるだけの気持ちのゆとりもなく、かといって、一人で出て行くほどの勇気もない。家を出て、僅か数時間で、彼女にメールをしてしまったことを、彼は今、悔やんでいた。
彼が呼び出すと、彼女はすぐに現れた。
いつもと代わらない軽装で、足下には彼の贈ったミュールが見えた。
彼に出会った時、彼女は始め、家に帰るように説得した。彼の母親が随分心配していたこと、父が落ち込んで、朝から黙り込んだままであることなどを彼女は彼に伝えたが、彼は今更、父母の居る我が家に帰ることは出来なかった。これだけの騒動を起こした後で、何事もなかったかのように家に帰るだけの図々しさを、彼は持ち合わせていなかった。一体家に帰ったところで、どんな顔で、それほど心を痛めた両親に会えばいいのか、彼には見当も付かなかった。
彼女は、彼の話を、大きく目を見開いて熱心に聞いていたが、やがてうん、と頷くと、
じゃあ、私も連れてって、と言いだした。
「いいでしょう?私がついて行っても」
彼女の半ば強引な要求を、彼は拒否することが出来なかった。彼一人になって心細さを感じ始めていた矢先でもあったし、彼女がそばにいるのは心強かった。とはいえ、彼女を巻き込んで、騒動をこれ以上大きくしてしまうことには抵抗があった。それでも、このときは、弱り切っていた自分の気持ちを補正することの方が、彼にとって差し迫った優先事項だった。
彼と彼女は、何も言わず連れだって歩いた。
彼らにこれといった目的地があるわけではなかった。ただ、一時的でも心の安まる場所を求めて、街のあちこちを歩き回った。その多くは、彼らの一度行ったことのある場所であり、知らない場所には滅多に行かなかった。どうやら気持ちの萎えている状況では、新しい場所に行く緊張と不安を、自然と避けてしまうようだった。彼らは彼らの思い出を、一つ一つたどるようにして、何時か来た場所を一つ一つ巡り歩いた。そうして歩いていると、彼は時々、まるで彼女と、いつものようにデートでもしているような錯覚に囚われることがあった。町並みも、そこを行き交う人々も、彼女の格好も、自分の服装も、いつものそうした状景と、何ら変わりはなかった。ただ一つ違うのは、彼らに帰る意志がないと言うことだけだった。これは日常からの別れの旅だった。
夜になり、辺りが暗くなってくると、彼は夜をどこで明かすかと言うことが心配になり始めた。何処かに泊まろうにも、彼らに、二人で宿泊するだけのお金はなかった。困った挙げ句、彼は幼い頃何度か隠れたことのあった、学校の裏手の小さな洞窟を思い出した。そこは洞窟と言っても、深さが1, 2メートルほどしかない、崖のくぼみ程度の物で、雨露をかろうじて防げる程度の物だったが、外からは見つけにくい場所にあり、今の彼らにとっては格好の隠れ家になってくれそうだった。
彼がそこに彼女を案内するのは初めてだった。
その洞窟を見た時に、彼女は何も言わなかったが、予想とは大分違っていたようで、思わず目を大きく見開いた。それを見て、彼は幼い頃の自分の恥部を見せたようで、なんだか恥ずかしくなった。
彼らは空腹を抱えながら、それでも暖だけは取ろうとたき火を起こした。
そして、近くに捨ててあったまだそれほど古くはなさそうな毛布を彼女に与えて、先に眠らせた。彼女は嫌がりもせず、その毛布に身をくるめると、横になって、後はすっかり、眠ってしまった。
彼は今夜は眠らない覚悟をしていた。体も、心も彼女同様にくたくただった。しかし、彼自身のわがままで家を飛び出し、そして彼女まで巻き込んでしまった以上、彼は何としても彼女を無事に送り返す必要があると感じていた。
彼女はおそらく、この様な汚い毛布にくるまって眠ったことはないだろうし、壊れたミュールを引きずってこれほど長い距離歩いたこともないはずだった。それでも何も言わず、彼に付いてきてくれた彼女を、これ以上、不幸な目に遭わせるわけにはいかないような気がしていた。
本当の幸せとはなんだろう。彼はふと、そんなことを考えた。
目の前に燃えるたき火の炎の中に、答えはなかった。彼にとっては今は幸福ではなかった。しかし、また、不幸でもないと感じていた。かつての日々は不幸だった。彼は少なくとも、不幸から逃避は出来ていると思った。
しかし、彼女にとってはどうだろう。彼は再び、彼女の方を見た。
赤い炎に照らされたその横顔は、あどけない少女のように、深い深い夢を見ていた。
彼はその横顔を見て、思わず微笑んだ。
彼女を好きだった。何時までも、この横顔を眺め、一緒にいたいと思った。でも、その彼女と一緒にいることが、彼女自身をかつてより不幸にしてしまうとするならば、それは本当に、彼女を好きな人間が取るべき態度なのだろうか?
彼には答えられなかった。
だが、彼女を明日、家に送り返すことで、実は自分は、また一つ逃避をしようとしているような気がして、彼の決意は右に左に、揺れ動いていた。
2008年9月23日火曜日
猪狩り鉄忠
江戸市中から大分離れた山奥の村に、たいそうな強力で知られた大男が居を構えていた。
この男、いつからここに住み着いたのか村のものですら正確には知らなかった。年は40とも、50とも言うが、時折見せる笑い顔は、童のそれのようで、実はもっと若い男なのかも知れなかった。
いずれにしろ、村の片隅にいるこの大男に、村人は、畏怖と好奇の両方が混じり合った気持ちで接していた。男は普段、家の周りにこしらえた畑にでて、他の村人と同様に鍬を振るい、自らが日頃食う分だけの菜物を育てていた。どうやらその畑で取れるものだけで腹は満たされているようで、村人の世話になることは滅多に無かった。
それどころか、男は月に数度、大きな大刀を一本下げて近所の山に分け入り、二、三日も帰ってこないかと思うと、大きなイノシシを抱えて降りてくることがあった。捕ってきたイノシシは当然のように村人にも振る舞われたから、村人は皆、イノシシが捕れる時期になると、内心、男が山に入るのを心待ちにしていた程であった。
村人はその猪肉の礼として、僅かばかりの米を男に分けた。
男はその米を日々の糧としていたのはもちろんだが、食べきれないと思った時には、町の市に持って行って売りさばき、必要なものを買ってきているようだった。
ただ男の家はいつ見ても薄汚いあばら屋のままだったし、何かが新しく買い足されたようでもなかったので、男が得た金を何に使っていたかというのは何時までも謎のままであった。
立派な大刀を持っていることから見て、男の出自は武士のようだった。
しかし、着ているのものは村人ですら驚くほど薄汚い身なりだったし、髷も十分に結っていなかった。刀の鞘もすっかりぼろぼろで、おそらくは中の刀はすでに刃が落ち、鉄の棍棒に等しくなっているものと思われた。
実際、男が捕ってきたイノシシには全く刀の傷がなかった。
ただ頭蓋だけが激しく陥没していて、これが致命傷になったと察せられた。
村人は男の名を知らなかったから、とりあえずの通称として、
「奥山の鉄柱殿」と彼のことを呼んでいた。
そんな折、一人の若い侍が村をたずねてきた。
「佐田雷哲様という御仁を捜しておるのですが」若い侍は村の長にたずねた。
「佐田雷哲様、ですと?....うちにはそのような立派な名前のものはおりませぬが...。見ての通りの寒村でして。」
しかし、若い侍は村長の言葉を聞いていないのか、
「いえ、佐田様はここにいらっしゃるはずなのです。この村の何処かに...。」
そう言って聞かなかった。
村長はすっかり困ってしまって、とりあえず村の中を案内することにした。
そうしてこの村のことを知れば、こんな村にそのような名前のものが居ないことなどじきに察せられると思ったからである。
村長が、若い侍を連れて村の中を歩いていると、山の奥から例の鉄柱が、イノシシの死体を引きずって歩いてきた。
彼の連れているイノシシはこれまでの中でも3本の指にはいるかという大猪で、運ぶだけでも常人ではひと苦労であるはずなのだが、この男にとってはそれもなんでもないらしく、平然とした顔で村の真ん中の道を歩いてきた。
すると突然、それを見た若い侍が
「もし、あの方は?」
と村長にたずねた。
村長は突然のことに驚いていたが、
「へえ...。私らも本当の名前は知らないんですが...。奥山の鉄柱殿と呼んでおります。」
と正直に話した。
「奥山鉄忠殿...。」
若い侍は突如、つととしてその大男の前に立った。
「もし、鉄忠殿」
呼び止められた大男は、ぼやりとした顔をして、目の前に立った細身の若い侍を見下ろしていた。
「わたくしは太田三朗ともうすもの。さる用向きにより、佐田雷哲様というお方を捜しておる。そなた、何かご存じないか。」
大男は、それまで、右手に猪を引きずり、左手に鞘に入った大太刀をかつぎ上げていたが、
佐田雷哲という名前を聞くやいなや、右手から猪を放した。そして、おもむろに太刀の束に手を掛けた。
若い侍もあわてて身構えた。
大男は太刀を引き抜くと、素早くそれを横になぎ払った。
刀を引き抜こうとしていた若い侍はその動きに全くついて行けなかった。
刀を半分抜いたまま、後ろに飛び退いて、かろうじて一太刀目をかわすと、ようやく鞘を払った。どっと全身の毛穴から汗が噴き出た。
男は間合いを一気に詰め、再び振り回すように太刀を振るった。
ぶうん、と風を薙ぐ音がして、若い侍のすぐ目の前を、大太刀の切っ先が通り過ぎていった。
若い侍は完全に劣勢だった。刀をよけるのに精一杯で、この大男に立ち向かう術はなさそうだった。
大男は青眼の構えから、咄嗟に切っ先を揺らし、相手を袈裟に切り上げる素振りを見せた。
若い侍は不意の動きによけきれず、思わず目をつぶった。
斬られる。
がちん、と耳をつんざくような大きな音がして、
無意識に突き出した彼の太刀が、ものすごい力で持って行かれるのを感じた。
太刀は彼の腕をすっぽ抜け、遠くの屋敷の軒へぶすりと突き刺さった。
恐怖に腰が砕けて、若い侍は尻餅をついた。おそるおそる顔を上げると、そこには大男が、先ほどと代わらぬ静かな瞳で若い侍を見下ろすように立っていた。だらりと下げられた右腕には大太刀が、指の太い手の中にしっかりと握られていた。
大男はしばらくそうして若い侍の顔を不思議そうに見ていたが、やがてくるりと向きを変えると、のそのそと、うち捨てられた猪のもとに戻り、そしてそれを再び引きずって、もとのように歩いて去った。
「大丈夫でございますか!」
遠くから見ていた村長があわてて若い侍に駆け寄ってきた。
「あの方はどういう...。」
若い侍はまだ放心した気持ちが戻らないまま、村長にたずねた。
「さあ、私どもも素性は存じないのです。...ただ、普段は優しい大男で、村人にもあの猪の肉を分け与えてくれるほどなのですが...。よもや、人様に剣を抜くとは...。」
「いや...。これは私の方に責任があるのでしょう。」若い侍は言った。「あの大男、私を斬ろうとしなかった...。追い返すだけが目的だったのか....。」
2008年9月22日月曜日
ナイフの世代
「届かないものを追いかけていると言うことぐらいは自分でも分かっていたんだ」
ユウキはコウイチを見ようともせずに、そう言った。
「でも、しばらく...。もうしばらくと思っているうちに....。」
ユウキの目はうつろだった。その瞳は、もう遠くなってしまった過去を...、静かにふり返っているようだった。
コウイチとユウキは同級生だった。いつも、何をするにも一緒で、なんにも面白いことがない時でも、二人して何やらごにょごにょと話しては、ひひ、と笑い会うような仲のよい男児の典型のような二人だった。
その二人の関係も、彼らが中学3年生を迎えた頃から、微妙な変化を示し始めた。
コウイチは一人の女性を恋したのである。
女性と言っても、同じ学年の女子生徒なのだが、それでも彼にとっては立派な初恋だった。彼女と過ごす時間は何をするのも楽しく、些細なことでも笑いあえた。彼は時々、人生でこんなに笑ったことがあっただろうかと思ってみることもあった。それほどに彼女と過ごす時間は幸福だったし、彼女も同じ幸福を味わっていると言うことを確認する度に、その幸福は更に倍加するようだった。
一方でユウキも、誰か女性を好きになったという噂は聞いていた。
それはコウイチのように、同じ学年の女子生徒ということでは、どうやらないらしかったが、彼らが話す中で、そのことを話題にすることはなかった。いつも一緒にやってきた二人の関係に、二人の違いが入り込むのが、怖かった。
彼らは何時までも、以前の彼らのままで、そういう時は無邪気に笑い転げた。
ある日の夕方、コウイチが部活の帰りで遅くなり、帰宅を急いでいる時のことだった。
春先のことで、日は次第に長くなってきてはいたものの、6時を過ぎるとだいぶ薄暗くなって、学校の周辺は人通りもまばらになった。紺色の空の下に聳える白亜の校舎は、1階の職員室を煌々と明るく照らしたのみで、普段明るい声の響く幾つもの教室のいずれもが、真っ暗な闇に飲まれていた。コウイチは薄闇に沈み逝く校舎に別れを告げて、校門を出た。
校門を出てしばらく歩くと交差点があり、底がコウイチとユウキが、いつも別れる場所だった。ユウキの家はそこを右に曲がった先にあり、コウイチの家は左に曲がった先にあった。今日は一人で家に帰るコウイチはいつもはユウキが曲がっていく右の通りを無意識に眺めながら自身は左に曲がった。
薄暗い左の通りは、彼の前に不穏に立ち上がっていた。点々と続く街路灯の明かりが断続的な平和をもたらす以外には、暗い不安が立ちこめていた。おそらく、女性一人では縮み上がってしまうだろうというような、不気味な通りだった。
コウイチはそのほの暗い道を転々と連なる明るい場所を突き抜けるようにして進んで行った。彼を覗いて通る人はなく、通る車さえない静かな道だった。
ふと、その時コウイチは目の前を見つめ、そして思わず立ち止まった。
二軒ほど先の、知らない民家から、ユウキが一人の女性に付き添われるようにして出てきた。
暗くてはっきりと分からなかったが、女性は、少なくともユウキの母親ではないようだった。ユウキが女性と親しげに言葉を交わすと、彼女は喜んでいるようだった。ユウキはやがて彼女に手を降って別れた。女性も、門の前に立って、同じように手を振りながら彼の背中を何時までも見送っていた。
コウイチはその様子を、通りの角からずっと見ていた。
自分の知らないユウキがそこにはいた。
彼は彼のことを、幼い時から、何一つ余すことなく、知っているつもりだった。
しかし、目の前にいる、ユウキの殻をかぶったような...、それは紛れもなくユウキ自身なのだが...、ユウキは、彼の全く知らない女性と、全く知らない親しみでもって会話していた。
それは、思わずコウイチを通りの角に隠れさせてしまうほどに、見てはいけない光景のように思われた。
ユウキはそんなコウイチには気がつかない様子で、彼のすぐ目の前を、少し早歩きで通り過ぎていった。そうして歩いていくユウキの姿は、いつものユウキと何ら変わることがないようだった。コウイチは嫌な夢でも見たような顔つきで、しばらくそこにいたが、やがて静かに歩き出すと、ふらふらと自分の家に帰っていった。
次の日、彼はユウキと話すのを躊躇っていた。
いつものように話しかけようにも、どのように話しかければいいか分からなくなってしまったのだ。いつも見慣れたユウキは、まるで赤の他人のように、今日は感じられた。だからコウイチは、ユウキがいつものように親しげに話しかけてくるまで、結局こちらから話しかけることが出来なかった。
話してみると、ユウキはいつものユウキだった。
そんな様子に、コウイチも次第にいつもの感覚を取り戻した。昨日のことは、悪い夢だったのだと思うようにした。彼の様子には、何も代わったところはなかったのだ。彼の見たものを裏付ける変化は、何も。
しかし、何時までも、夢のままでは終わらなかった。
事実は、いくら本人が思い違いをしようとも、事実として冷たいほどそこに居座り続けるものだ。コウイチにも、それを思い知らされる時が来た。
ある時ユウキが、全身あざだらけの無惨な姿でコウイチの前に現れた。
それは昼間の出来事だった。日曜の午後、いくら電話しても電話に出ないユウキに見切りを付けて、コウイチが公園脇の道を歩いている時だった。
向こうから、よろよろと歩いてくる人影があった。
始めはそれがユウキであるとはコウイチも気がつかなかった。
それほどまでに彼の姿は痛々しかった。
コウイチがそれがユウキであると気が付いて駆け寄ると、こちらに向かって居歩いてきたユウキの足取りが、ぴたりと止まった。彼は腫れた目を上げて、コウイチを見た。そして、悲しそうに切れた口元だけで笑った。
ユウキが洗いざらい、すべてを話してくれたのは、その日の夕暮れ、もはや遊ぶものの誰もいなくなった、小さな公園だった。
その話は、同級生どうしの無邪気な恋愛しか知らないコウイチにとってあまりに衝撃的なものだった。
静かに、その話しをしている時のユウキは、彼の知るユウキではないように思った。
またあのときの、遠い存在に、ユウキはなってしまったように思われた。
まるで、夜の闇と会話しているかのように、コウイチとは一度も目を合わせずに、ユウキは小さな声で一人語り続けた。
「当然なんだ。考えてみれば。」彼はそう言うと、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「僕は、いけないことをしたんだから」そうして、一つ、大きな溜息をした。
「好きになるって事は、どうしてこうも、自由にならないものなんだろう。それがいいことなのか、悪いことなのかも分からないのに、どんどん前にだけは進んでいく。...それは、彼女も同じだったと思うんだ。僕らは、ふたりとも、同じ気持ちだったのだから。」
ユウキはもはや、コウイチの存在を意識していないかのように、切々と話し続けた。
コウイチは彼が話し切ってしまうまで、質問を挟むことは憚られるように感じていた。
「彼女、泣いてたよ。僕が殴られている間、ずっと。」
コウイチはそう言うと、俯いたまま身を小刻みに震わせた。
口の間から、微かな嗚咽が漏れた。
「もう、こんな恋は嫌だな」
一言、ぽつりと言った。
その声さえも、夜の闇に吸い込まれていくようにコウイチには感じられた。
「僕らは結局、こうするしかないんだ」
ユウキの言葉をコウイチはよく理解できなかったが、それでもなぜか、胸の奥に迫るものを感じていた。
それは彼に突きつけられた、一本のナイフのようでもあった。
2008年9月8日月曜日
野辺送り
老人は嘆いていた。
彼のたった一人の孫が突発的な大波にさらわれ、数日前から行方不明になっていた。仲間が船を出し連日捜索してくれたものの、息子の安否を示す手がかりすらえられなかった。
毎日、浜辺に立ち、仲間の漁船が帰ってくるのを今か今かと待ち続ける老人に、手ぶらで帰ってくる友船の乗組員達は合わす顔がなさそうだった。
「じいさん、すまねえ...。」
若い衆を率いている大柄な男が小さな老人に申し訳なさそうに頭を下げた。
そんなとき、老人の瞳はただ青い海を見つめているだけだった。
彼の灰色の瞳には、彼の孫を飲み込んでも平然とした、穏やかな青い海原が拡がっているだけだった。
これに生かされ、そして殺されるものたちがいる。
老人もかつて漁師だったから、そのことはよく分かっているつもりだった。
彼の息子も、そして娘の婿も、この海に飲まれて死んだ。
しかし、それでも、自分の孫までが、こうしてが生死も判然としない状態になってしまうと、老人はもう気が狂ってしまいそうだった。今はもう亡い、彼の娘に...、すなわち、この孫の母に、彼は誓ったのだ。
先に逝くお前の変わりに、この子を一人前の人間にしてみせる、と。
彼の娘は、その夫が亡くなってそれほど経たないうちに、気をおかしくして海に飛び込んでしまった。
何とか助け出されたものの、溺れて長い時間息ができなかった影響か、もう立つことも話すことも出来なくなってしまい、目を回したような顔のまま、10日と持たずに息絶えた。
幼くして母を亡くした子供は、きっと乱暴者になると、村の老人達は口々に言った。かつてそういう者が出て、村はたいそう迷惑したことがあったという。その言葉に恐れをなして、その子を何処かへ里子に出すように彼に強く迫る者も少なからずいた。しかし、彼は結局、子供を手放さなかった。
この子を、一人前の、漁師にするまでは、私はこの子を育てなくてはいけない。
愛する娘を失った父の、それが生きる支えになっていた。
幸い、彼の孫は周囲の心配を他所に、すくすくと成長した。
そして、まだ随分幼いうちから、祖父について漁を習い、成人する頃には、すでにいっぱしの漁師を名乗れるまでに腕を上げてていた。
彼が港で一番の水揚げを上げたとひとから聞く度に、老人は有頂天になった。
実際、彼の孫は本当に上手に魚を捕ってきた。多くの漁師が、魚をあちこち傷だらけにして、ようやく仕留めるところを、息子はそれを本当に最小限に留めるので、魚の鮮度がほとんど落ちなかった。
街からやってくる仲買達も、彼の孫の捕った魚は特に高く買い取っていった。
おかげで、老人は普通より少し早く引退することが出来た。最近になって、孫の妻となる娘もようやく決まった。彼の孫に対する娘達の評判は悪くはなかったようで、妻となる娘の親ともすぐに話が付いた。
しかし、そんな折、事故は起こった。
孫の船が沈んだ場所は昔から三角波という、極めて大きな波が突然起こる海域で、漁船が転覆する事故がたびたび起こっていた。ただ、それも風向きと天候に左右されるようで、いつもはなだらかな、なんの変哲もない場所だったから、村人も、特にそこを警戒して避けるようなことはしていなかった。何より、その辺りは魚の好む岩礁もいくらかあって、村の漁師達はまずそこで小さな魚を捕まえてから、それを餌にして大魚をねらいに行く場合が多かった。
その日は彼の孫も、おそらくはカジキかマグロあたりを狙って、まずその餌を確保しようとその海域に船を向けたようだった。その様子は、近くで漁をしていた多くの仲間が目撃していた。しかし、少したった後、仲間の一人が彼の捕っていた場所で同じく魚を捕ろうとしたところ、先ほどまでいた彼の船がないことに気がついた。
始めは、いつの間にか立ち去ったのかと思って特に気にしていなかったが、海面に、彼の船名の書かれた板きれが浮かんでいるのに気がつき、あわてて持っていたメガネで海底を覗いた。
揺らめく海底に、途中から真っ二つに折れた一隻の小舟があった。人影までは確認できなかったが、男はあわてて仲間の船を呼びに船を走らせた。
それから、もう数日が過ぎていた。
老人は隠居したと言ってもまだ若く、はつらつとしていて、肌のつやも、目の輝きも未だ衰えを知らぬ印象だったのだが、孫が行方不明になったと聞いた日から、おそらく夜も眠れないのか、眼窩は深くくぼみ、頬はすっかりやせこけていた。心配した彼の姪が、毎日彼の家を訪れて、何かしらのものを食べさせようとしていたが、彼は一向に受け付けなかった。
起きればいつも、なだらかな海ばかりを見て、眠る時は闇の中、閉じられることのない眼を一晩中ぎらぎらと光らせていた。
このまま、彼の帰ってこない日が続けば、この老人もすぐに参ってしまうだろうと、村人は皆心配していた。
そんな折、遺体が浜に打ち上げられた。
知らせを持ち込んだのは、孫の幼なじみの娘だった。
その娘は、彼の孫が行方不明になったと聞いた日から、毎日浜に出て、砂浜の上を歩き回っていた。
昼間の浜には誰もいなかったので、歩き回る彼女の小さな足跡だけが延々とその砂の上に刻みつけられた。そしてそれが潮の満ち干でかき消される頃には、また彼女によって新たな足跡が刻まれた。生存を信じるほどの希望があったわけでもなかった。彼女の父親も、一昨年海の事故で死んだ。海に生きる漁師が海で死ぬのは当然のことだとは彼女もよく分かっていた。せめて、彼の身につけていたものでも流れ着いてくれれば、それだけを幼なじみの形見にしようと彼女は考えていた。
そうして何日目かのある日、視界の向こうに、彼女は、それまで無かった、何か大きなものが流れ着いているのを発見した。
気丈にも、彼女はそれに恐れず近づいた。そして、うつぶせに倒れていたそれをひっくり返し、彼女の幼なじみであることを確認しさえしたのだった。それは、ある種の気の動転のなせる業だった。彼女はその事実を、半ば無意識に、近所に住んでいた村長と、漁師の頭と、そして彼の父である老人に伝えてまわった。
「おじいさん、ヤンが...。」
娘がそう言うのが早いか、老人は家を飛び出してきた。そして娘について、一緒に浜に下った。
老人はそれまで不眠不休で孫の無事を祈っていたとは思えないほどの早足だった。とはいえ、娘の方もすっかり気が急いていたから、そのようなことにも全く気がつかなかった。
老人と娘が浜に付くと、すでに漁師仲間と村長がヤンの亡きがらを取り囲んでいた。
どこからか話を聞きつけたのか、他の多くの村人も浜に続々と降りてきて、そこにはすっかり人だかりが出来ていた。
村人達は、老人が来たのに気がつくと、すぐに道を譲った。
人混みをかき分けるようにして、老人とその幼なじみの娘はようやく、輪の中心にたどり着いた。
そこには、砂の上に眠ったようなヤンの亡きがらがあった。
顔は鑞のように白くなっており、長い間水の中にあったからか、体がふやけて、生前の彼より幾分膨らんでいるように見えた。
亡きがらを前にして、老人に言葉はなかった。
老いさらばえて、すっかり細くなった指を、愛する孫の髪に絡ませた。そしてそのまま、じっと動かなくなった。
その様子に、周りを取り囲んでいた村の女の一人が、さめざめと泣き始めた。鳴き声は静かに、二人を取り囲んだ輪の全体に伝わり、やがて輪全体が、静かな優しい涙に包まれた。
村人はそうして、しばらくみんなで泣いていたが、やがて漁師の頭が、似合わぬ涙声で
「じいさん、そろそろ、家に上げてやろうぜ」
と言った。
輪の中から男達が数人進み出て、ヤンの体を大きな戸板の上に寝かせた。
そして、板の両端を持って、彼を老人の家に向けて静かに運び始めた。
先頭には頭と村長が付き、その後に漁師仲間に囲まれたヤンの亡きがらが続いた。
女達はその後ろについて、老人は幼なじみの娘と彼女の母に支えられて最後尾を歩いた。
他の女達はまだ泣きやまず、そうして歩いている最中にも悲しげな鳴き声がしくしくと聞こえ続けていたが、老人を支える娘の顔には涙はなかった。彼女は、老人が悲しみの余り倒れてしまったりしないように、終始気を遣っていた。
娘の母は、始終泣いていた。
娘は、そんな母に、
「かあさん、ヤンのお父さんには私が付いているから、先に行って休んでいて。」
と気遣いを見せた。
彼女の母はその言葉に頷いて
「じゃあ、後はお願いね、スー」と言い残して、しずしずと進む隊列を抜けて、早足で老人の家に向かった。
老人は浜に駆けつけるために体力を使い果たしたのか、歩き続けるのさえ、ままならなかった。
時々立ち止まったり、左右にふらふらと力なく振れたりしながら、何とか前に進んでいた。
娘と老人は次第に隊列から遅れ始めた。
先頭の何人かがそれに気がついて、隊列を止めようとしたが、娘は手を高く挙げて、先に行っていてください、と合図した。先頭の男達は大きく頷いて、再び歩き出した。
娘は疲れ切った老人を励まし、少しずつ少しずつ、彼の家に向かった。
いつも通い慣れている丘の上の家が、今日は随分遠くに見えた。
こうやって坂を上って、いつもヤンの家に遊びに行ったっけ。
娘は自分が小さかった頃のことを思い出した。
ヤンったら、いつも、私の前では海のことしか話さないから、私まで、女なのに海の仕事に詳しくなっちゃって。
網を縫ったり、仕掛けを作ったり、銛を研いだり。
ああいう仕事をしている時のヤンは、本当に楽しそうだった。
私も、彼と一緒にいつもそんなことばっかりだった。
変な女だって彼も言ってたけど、私も一緒にやると、すごく、よろこんで...。
娘はふと顔を上げた。丘の上の老人の家が見えてきた。
「おじいさん、もう少しです」
彼女に肩を支えられた老人は、うめきとも返事とも付かない声を漏らした。
そして、膝を小刻みに震わせながら、一歩一歩坂を昇った。
ヤンは、本当はもっとかわいらしい女の子の方が好きだったんじゃないだろうか。
私が、彼の結婚相手に選ばれたのは、親の考えだったし、あの頃の彼の周りにはいつも女の子がいたから、私以外に好きな子がいたとしても、おかしくなかった。
悪いことをしたのかな、彼には。
彼の幸せを、私は奪ってしまった。私がはっきり断れば、それだけのことだったのに。
ヤンはおじいさんを大切にするから、きっと断りにくかったんだろうな。
ヤン。ごめんなさい。
二人が老人の家にようやく戻ると、中ではすでに弔いの準備が進んでいた。
村の女達は、弔いに出席する人数分の煮炊きに忙しく、泣くことも忘れていた。
スーの母親も、腫れたまぶたのまま、竈に薪をくべている。老人を座敷にようやく上げると、スーも母を手伝った。
やがて、山寺から僧侶が呼ばれてきて、弔いの儀式が始まった。
僧侶が念仏を唱え、ヤンの魂を山の頂にあるという仙人の国に送った。
そして、一通りの儀式が済むと、僧侶が先に立って、ヤンの亡きがらを山に埋めに行った。
そこから先は男だけの仕事と言われていたので、漁師仲間の数人が僧侶の後について山に入った。
そして、それほど経たないうちに彼らだけが軽くなった戸板を持って山から下りてきた。
それを見た時、スーはようやく、ヤンがいなくなったと言うことを実感した。
足下から力の抜けていくような感覚が彼女を襲ったが、まだ彼女にはすることが残っていた。
ヤンを弔う静かな宴が始まろうとしていた。
「全く、惜しい人を亡くしてしまった。それもこれも、俺の責任だ」
会の冒頭、漁師の頭はそう言って、老人に頭を下げた。老人はその言葉に、
静かに左右に首を振った。
「あんなに明るく、はつらつとして、腕も立つ若いものをみすみす溺れさせてしまうなんて..。」
老人はますます強く首を横に振った。老人の両の瞳から涙の粒がぼとりぼとりと落ちるのを出席した誰もが見ていた。
「スー、お前にも、本当に悪いことをした。」
頭は末席に腰掛けたスーに顔を向けた。
「婚約の日取りも、決まっていたというのに。」
「そんな...。わたしは...。」スーはそれだけ言うと、目を伏せた。
「二人の幸せを奪った、このことは忘れないようにしよう。あの三角波の場所での漁は、今後硬く禁じよう」
漁師達はみな、無言のうちに頷いた。
宴はそれから、静かに進められた。
そして、小一時間もすると、一人、また一人と客は帰っていき、やがてスーと彼女の母親だけが残った。
彼女らは宴の後を片付けていた。
老人は疲れてすでに座を払って奥で休んでいた。
「スー、あなたは大丈夫?」
母親がスーを気遣った。
「今日は疲れたでしょう。先に帰って休んだら。後片付けは、明日早く来てやってもいいんだから。」
スーは首を振った。
「おかあさんこそ、寝ててもいいよ。私もこれだけ片付けて、今日は下がるから。」
母はそれを聞くと、それならと言って、皿だけ机の上から下げて、家に戻った。
スーはそれをみんな水に浸けてしまった後、
「おじいさん、おやすみ」
と一言小さな声で挨拶して、老人の家を出た。
外は月もない夜空で、空には幾つもの星が瞬いていた。
カモメの星座や、海の神様の星が今日はいつもよりよく見えた。
海の神様の星は、他の町の人間は北極星と呼んでいるのだと、スーは以前ヤンから聞いたことがあった。
夜の海で陸が見えなくて迷った時、あの星を頼りに進んでくれば、きっと村までたどり着けるのだと彼は言っていた。
北極星は丘のふもとのスーの家の方から見れば、いつもヤンのいる丘の上に光っていた。
丘の上に立ってそれを見れば、ヤンの魂の昇っていった山の上に、その星は輝いていた。
スーはその小さな星の光を見て、もう一度、足の力が抜けてしまう感覚に囚われた。
そしてその場に座り込んでしくしくと泣き始めた。
風に揺られたすすきがさらさらと乾いた音を立て、
小さな声で鈴虫が鳴いているのが聞こえた。
スーの泣き声は、その中で、途切れ途切れに夜の闇に響いていた。
頭上には、彼の御魂の登った山が、夜空より更に深い闇として、静かにそびえ立っていた。
2008年9月7日日曜日
無題
翌朝老人はいつもよりやや遅く目が覚めた。
昨夜眠りにつく時間が遅かったためかもしれない。
目が覚めるとすでに太陽はすっかり昇っていた。
女もまだ起きていなかった。
彼女も、なかなか寝付けなかったのだろう。
知らない他人の家に泊まり込むほどの事情があった女なのだ。
おそらく、とても疲れているにちがいないと老人は察した。
彼女が起きるまで、そっと眠らせておくことにした。
顔を洗い、手早く着替えをすませると、外に出て、菜園からピーマンを数本取ってきた。
そして、それらをあらかじめ買っておいた他の葉野菜と合わせてサラダを作った。
老人は余り料理には詳しくなかった。せいぜい作れるものは、こういったサラダのような単純なものばかりだった。それでも、自分で野菜を作るようになって、実はこういうシンプルな料理の方が、素材が十分に新鮮な場合にはよっぽどおいしいと言うことがよく分かった。
料理をすれば、品質にややに劣る野菜であっても、ある程度のおいしさにまではすることが出来る。
でもそれは、結局醤油や砂糖などの調味料の味でごまかしているだけで、野菜の本来の味はだいぶ霞んでしまっている事が多い。野菜を作るようになって、老人はそのことをもったいないと感じるようになった。
生のピーマンの苦み、ニンジンの持つ香草のような爽やかな香り。そう言った生の食材の味を老人はこの年になってようやく意識するようになった。
台所で朝食を支度していると、後ろから誰かが歩いてくる音がした。
「...おはようござます」
老人が振り向くと所在なげに女が立っていた。
他人の家と言うことを意識してか、ある程度身は整えてあったが、疲れた表情は隠せていなかった。
「...あの、何か手伝えることは...」
女が老人に気を遣う素振りを見せたので、老人は笑って首を振り、
「あなたはお客さんなのだから。底に座って、新聞でも読んでいてください」
と言った。
「でもそれでは...、せめて何かさせていただかないと...」
女は何もせずに見ていることなど出来ない様子だった。
落ち着かないまま女をほうって置くわけにも行かないので、老人は
「じゃあ、うちのとらにえさをやってはもらえませんか」
と言った。女は老人が指し示したところにあった大きなえさの袋から、一鉢分のえさを取り出すと、その音に気がついてしっぽを立てて近寄ってきたとらを縁側に連れ出した。そしてそこで彼女にえさを与えながら、おそるおそる頭を撫でた。
老人はその様子をほほえましく思いながら、二人分の食事の用意を調えた。
「さあ、出来ましたよ」
二人はそれから、小さなテーブルに向かい合わせに座って静かに食事を取った。
お互いが、どんな人間かも知らないので、会話は僅かだった。
ただ、老人の作ったサラダと、味噌汁を口にした時女は思わず
「おいしい」
と小さな声を漏らした。
「昔から、お料理は得意だったのですか」
女がそんなことを聞くので、老人は首を振った。
「いえ...。元々は、料理なんてちっとも。ただ、妻が死んでからは、自分で作らなくてはいけませんから、何とか、覚えました」
「奥様は亡くなられたのですか...」
「ええ、もう2年になりました」老人は無意識に仏間の方へ目をやった。
「それは...」女は申し訳ないことを聞いたというように目を伏せた。
「いえいえ、気になさらんで下さい」老人は沈み込んだ女に笑いかけた。
「もう、すっかり立ち直りました。今では料理は大切な趣味になりかけていますよ」
「このサラダのお野菜は、ご自身が作られたものですか?」
「分かりますか?」老人は喜々として答えた。
「ええ...。先ほど猫ちゃんにえさをあげていた時に、お庭の畑が見えたものですから...。結構いろいろなものをお作りになられているようですね。」
「ピーマンになすにカボチャに...、季節に応じていろいろ作っています。今年はすいかも始めたのですが、どうもうまくいかなくて。なかなか、ああいう甘いものは難しい。」
「なんだか、とても楽しそうですね」老人が急に饒舌になったので、女が思わずそう言った。
「ええ...。すっかりはまってまして。他にやることがないからでしょうな」
「いえ、素敵なご趣味だと思います。」女は初めて微笑んだ。「なんだか、うらやましい。」
「余り、こういう事はやられませんか?」
「ええ...。うちはマンション住まいで、庭もありませんから...。」女は伏し目がちに答えた。
「庭など無くっても、プランターでも十分です。」家庭菜園のこととなると、老人の言葉は熱を帯びた。「それほど難しいことでもないですよ。」
女は老人の語気に、些か気圧されたようだったが、はにかむように微笑んで「今度挑戦してみます」とだけ、答えた。
食事が終わると、女は再び縁側に出た。
そこでは同じく食事を済ませたとらが、夏の陽光を避けて日陰で涼んでいた。
女は縁側に座って、眠る猫の頭を優しく撫でながら、そこから見える白い雲の浮かぶ広い空と、青い海を見つめていた。庭には青い野菜がたわわに実っており、食べ頃のトマトも、なすも、夏らしいすがすがしい彩りをその風景に添えていた。蝉が強い声で鳴いている。
海から涼やかな風が吹いてくる。
女は一つ深い呼吸をした。
先ほどよりも随分、くつろいだ様子に見えた。
老人はようやく穏やかさを取り戻しつつある女の後ろ姿を見守りながら、冷たい麦茶をグラスに注いだ。
「麦茶でもどうですか」
老人が冷たいグラスを差し出すと、女は
「何から何まで...本当にすいません」と言いながら素直にそれを受け取った。
二人静かに海を見ながらその香ばしい飲み物を味わった。
「...いつも、この海を見ながら過ごしておられるのですか。」
女は遠くを見つめながら言った。
「ええ。これが見たくて、この家に決めたのです。」
老人も女と同じ海を見つめた。
「私の憧れでした。海を見ながら、老後を過ごすのは」
「わたしも、そうありありたい。」女が言った。「こういう、のどかな暮らしを私もしてみたい。」
「したらよろしい。」老人は言った。女が老人の方を見た。
「遠慮などすることもない。独り身の老人が住んでいるだけなのだし。疲れたら、いつでもいらっしゃい。海は、そもそも私だけのものでは無いのだから」
女は老人のその言葉に、みるみる涙ぐんだ。そして、手に持った麦茶のグラスを握りしめるようにして、かろうじて涙をこらえていた。
老人は、女を、静かな瞳で見つめていた。
やがて、女は顔を上げると、絞り出すような声で、
「...ありがとうございます」と言った。そうして、ぼろぼろと涙をこぼした。
老人が差し出したタオルに、女は顔を埋めるようにして泣いた。
老人は女に連れ添って、彼女が泣きやむまでずっと見守っていた。
その日の夕方、彼女は帰った。
帰り際、女は名前と電話番号の書かれた紙を残していった。
樋口と言うのが女の名だった。
「また、お邪魔してもよろしいでしょうか」
遠慮がちに女がそう聞いた。
老人は微笑みながら無言で頷いた。
真っ青な自動車が、夕焼けに輝く海沿いの道を、しだいに小さく遠ざかっていく。
その様子を、老人は家の前まで出て車がすっかり見えなくなるまで見送った。
2008年9月3日水曜日
無題
始めそれは、老人の思い過ごしかと思われた。
彼はその亡き妻にうり二つな女を目の前にしても、まだ己の目が信じられずにいた。
女を客間に通し、かつては妻が使っていて、今は来客用に取ってある布団を与えると、老人は自室に戻って、タンスの奥から、古いアルバムを取り出してきた。
それは、彼と、妻が結婚した時に記念として撮った写真だった。
セピア色の画面の向こうで、若き日の老人と、彼の妻が、幾分緊張した面持ちでこちらを見つめていた。なれない装束を着せられた妻は写真越しにもぎこちなさが見えて、老人は当時の慌ただしさを思い出し、思わず微笑んだ。
その妻の表情はちょうど、先ほど彼の前で不安げに嘆願した女の表情に、やはりよく似ていた。彼の妻の方が、幾分丸い印象は受けたものの、それ以外は全くそっくりだった。
「こういう事もあるものか」
老人は独りごちた。
「涼子が帰ってきたかのようだ」
古いアルバムを、元の場所に大切に仕舞うと、老人の足は自然と、女の眠っている客間の方へ向かった。
特に、目的があったわけではないが、この奇跡のような光景を前にして、彼は居ても立ってもいられなくなっていたのだった。何となく、その奇跡に寄り添っていたい気持ちが、彼の中に働いたのである。そんなことは実際無理だとしても、彼はたとえ一寸でも彼女のそばにいたかった。
老人が客間のそばまで来ると、閉じられた襖の間から、僅かな明かりが漏れているのが見えた。女はまだ、眠っていないようだった。
「もしもし」
老人は襖の向こうへと声を掛けた。
「はい」
はっきりした返事が聞こえた。考えてみれば、今時分は普段の老人にとっては寝る時間だが、彼女位の年齢の人にとってはまだまだ起きていてもおかしくない時間だった。
老人が静かに襖を開けると、女は案の定、まだ着替えもせず、古い布団の上に座っていた。
「眠れませんか」老人がそう言うと、女は
「ええ...。」とだけ言って、困ったように笑って見せた。
「こんな夜更けに、どういう事情があったのか...。無理を言うわけではないのですが、もしよかったら聞かせていただけませんか。私ごときが、なんの話し相手になるか知れませんけれども。」
女はその老人の申し出が意外だったらしく、目を大きく見開いた。黒い瞳が鮮やかに濡れていた。
「ええ...。」女はしかし、何かを躊躇うかのようにその目を伏せた。
「それは...。」
女の様子に、何かよほど言いがたいものがあるのだと悟った老人は
「いえ、いいのです。...何か理由がおありでしょう。今日はとにかく、ごゆっくりお休みなさい。」とだけ言って、その場を立ち去ろうとした。
「!、 あの....。」立ち去ろうとした老人を、女が呼び止めた。「あの...。」
「どうしました?」老人は振り向いて、女の表情をのぞき込んだ。その目には、今にも零れんばかりに涙が溜まっていた。
女の、その涙の溜まった目は、老人の瞳を避けるようにしばらく何もない畳の上に向けられていたが、やがて、意を決したように老人に向けられた。
「しばらく、ここに置いていただけないでしょうか。」
その申し出が意外だったので、老人は驚いて思わず目を丸くした。
女はそんな老人に構ってもいられない様子で、
「理由は...。必ず話します。お願いです、2,3日でもいいんです。もう少しだけ、もう少しだけ...。」女はそう言うと、無意識にか、頭を布団にすり寄せるほどに下げて老人に懇願した。
「いや...。まず、頭をお上げください。」
老人は彼女の肩を支えるようにして、頭を上げさせた。
女の顔はもう、涙ですっかり濡れていた。まぶたと鼻の頭が、子供の泣いた後のように、すっかり赤くなっていた。
「2,3日と言わず....。あなたの気が済むまでいらっしゃったらよろしい。理由など、特に言う必要もない」
それを聞くと、女の瞳から、また涙が溢れた。そして泣きながら、何度も、ありがとうございます、ありがとうございますと、繰り返した。
部屋を出て襖を閉めると、老人はその足で仏間へ向かった。
そこには彼の妻の遺影が、梁の上に掲げられていた。姪の結婚式に出た時の、久しぶりに着飾った晴れやかな表情だった。彼女から彼に向けられる、静かな眼差しを老人は意識しながら、妻の遺影の前に頭を垂れ、これを信じていいのか?と妻に問いかけた。
女がここにしばらく泊まっていきたいと言い出した時、思わず浮ついてしまった自分の気持ちに老人は少なからず罪悪感を覚えていた。忘れていたはずのそうした感情が、まだ時分の奥底に確かに残っていたことに、老人は少なからず驚いていた。
「私が、世の中を避けてこんな田舎へ越してきたのは、もしかするとこういう気持ちを避けるためだったのかも知れない。」
暗闇の中で老人は一人呟いた。
「お前を失って、ただでさえ、流されそうな心を...。」
老人はそこまで言って口をつぐんだ。無言の内に、彼は亡き妻と会話しているようだった。
彼はしばらくそうして、暗がりの中で黙ってじっとしていたが、やがて、伏せていた顔を上げると、彼にほほえみかける妻の遺影に向かって
「いっそのこと気持ちの奥底まで、枯れ果ててしまえれば楽なのに...。」
ふと、そんなことを言って、一人、笑った。
遺影の妻は変わらぬ表情で、静かに男を見つめていた。
2008年9月1日月曜日
無題
ある晩のことだった。
季節はすでに秋で、7時にもなると辺りは暗くなった。老人にとって、特に遅くまで起きている理由もなく、その日も早くに寝るつもりだった。老人は自分一人の寝床を整え、そうして眠気が訪れるまで、布団の中で静かに横になっていた。
その辺りは、都市に近い海辺がみんなそうであるように、夜遅くになると暴走族がひっきりなしに通り過ぎた。当然警察もそれを警戒して、網を張っているので、毎晩彼の家の前の道路では、激しいカーチェイスが行われていた。老人にとっては、轟音を立ててバイクを乗り回す若者も、それを大声上げて追いかけ回す警察も、どちらも眠りを邪魔する騒音の主には違いなかった。故に、老人が早くに寝床に着くのは、そうした夜の喧噪が始まる前に寝入ってしまうためでもあった。
それは、柱時計の鐘が8つを打った時だった。
どんどんと、玄関の戸を叩く音がした。ちょうど寝入りばなだったので、始めは夢かと思っていたが、いつまで経っても、戸を叩く音は鳴りやまなかった。何事かといぶかしがりながらも、老人はゆっくりと立ち上がり、玄関の方へと歩いていった。
老人の動きが、あまりに遅かったので、扉を叩いていた主は、どうやらすでにあきらめていたようだった。老人が玄関へたどり着く頃には、もう扉を叩く音はすっかり止んでいた。それでも老人は念のため、鍵を外すと、戸をがらりと開けた。
そこには、薄暗い玄関の明かりに照らされて、不安げな女の顔があった。
老人は、その顔を見て一瞬はっとしたように目を開いたが、それは女には気がつかなかった。
「すいません、」女は不安げな表情のまま、老人に言った。肩まで伸びた髪は所々乱れていた。
「お宅の前で車が動かなくなってしまって...。この辺りに、ガソリンスタンドか何か、ありませんでしょうか。」女の声は押し殺したような小さな声だったので、老人には上手く聞き取れなかった。ただ、その女の様子から、随分困っているようには察せられたので、
「こんな夜分遅くに...。まあ、とにかく、中へお上がりなさい」
女にはとんちんかんな回答と思われるだろうと思いながらも、老人は彼女をとりあえず中へ招き入れた。女は、老人の目の前に現れた時からすでに、理由は分からなかったが、しきりに辺りを気にしていた。老人にはそれがずっと引っかかっていた。
「でも、車が...。」
女は、後ろを振り向いた。明かりの消えた車が、国道の真ん中で、老人の家の出口を塞ぐように止まっていた。
「車...。」老人はそれを見て、ようやく状況を察したらしく、
「あそこに置いておくと、夜中に騒がしい連中が来て、悪戯されることがあるから、私の家の庭に、とりあえず入れなさい。」そう言って、足下にあった草履を突っかけて、彼女に先立って歩き出した。女はどうして良いのかすっかり困っているらしく、その後ろから何も言わずにおずおずとした様子で付いてきた。老人が運転席のドアを開け、サイドブレーキを外して、ハンドルを取ると、女はようやく後ろからそれを押し始めた。車は、幸い軽自動車だったので、二人の非力な人間の力でも、それほど労無く動かすことが出来た。
車をすっかり庭の中に入れてしまっても、女の顔から不安げな表情は消えなかった。
「お電話、お借りしても良いですか。」
女は、老人の瞳をのぞき込むように言った。
「携帯をおいてきてしまったもので..。」
「ああ、どうぞ、どうぞ。」老人はそう言って、女を内に上げ、電話の前まで案内して、自分は居間に入っていた。
「...。」
電話を前にして、女は受話器は取ったものの、一向に何処かへ掛ける様子はなかった、じっと、受話器の無くなった電話機を見つめるようにしながら、女は何かを思い詰めているように見えた。
ややしばらくして、女は結局、どこへも電話した様子のないまま、受話器を置いた。
そして、老人の前に座り込むと、
「すいません、今日一晩だけ...、今日一晩だけ、泊めていただけないでしょうか」と言って頭を下げた。
「...ええ、それは構いませんが...」老人は女の何か必死な様子に、頷かないわけには行かなかった。
「ありがとうございます」
女がそう言って、一度顔を上げて老人を真正面から見た。その表情を見て、老人は再び、何かが胸の中に激しく渦を巻くのを感じた。この女を放って置いてはいけない。彼の奥底にそのような理由のない、熱い意志のようなものがわき上がるのに、彼自身驚いていた。
女は、年は30も後半だろうか。確かに美しい女ではあったが、どこにでもいる程度の美しさであることは、老人は十分認識していた。彼の年を経た精神は、もはやそのようなものに、闇雲に感情を乱されるほど素直ではなかった。むしろ、頭の一方で冷静にその場を見つめる余裕すら、彼にはあった。だからこそ、自分の心理の一方に、そうした理由のない感情がわき上がってきても、彼はそれはそれで受け入れながら、そんな様子はおくびにも出さずに、目の前の女を観察することが出来た。
それでも、老人は少なからず動揺はしていた。
その女は、若き日の、彼の妻の姿に、あまりにも似ていたからである。
2008年8月30日土曜日
無題
東京から神奈川に入り、海の見える海岸線沿いの道をずっと南下していった先に、小さな一軒家があった。
「早々庵」
その家の入り口には、古い木材に、筆字でそう書かれた表札がかかっていた。
その家に住む老人は、齢67に過ぎなかったが、頭はほとんどはげ上がり、見た目にはもっと年取って見えた。
先年妻が亡くなったため、彼は一人だった。それでも、家の庭に小さな畑を構え、そこでピーマンや白菜など日常使う野菜を育てては、自らの食事に供するという生活をしていた。幸い病気もなく、街に通うのも、数時間に一本走るバスに乗って、週1,2度出れば十分という生活をしていた。
早々庵、と言う名前は、彼の妻がまだ元気だった頃、せっかちな彼をよくからかっていたことに由来している。しかし、若い頃はせっかちだった老人も、今ではすっかり大人しくなった。
「お前ののんきさが、移ったのかな」
老人は姿のない妻に、時々、そう語りかける。
妻が亡くなり、家族は彼と、一匹の猫だけになった。
子供は結局授からなかった。妻は、それを気に病んで、死ぬ間際まで、度々それを口にした。
夫はそれを聞く度、
「そればかりは、運命みたいなものだ」
と言って妻を慰めてはいたが、何かしら後味の悪いものが残った。
彼も子供が欲しかったのは山々だったからだ。
結婚する前、子供は何人欲しい、などと喜色ばって二人で話していた頃を思い出す度に、夫は溜息をついた。
しかし、その妻もなくなった今では、その夫は、これはこれで、良い人生だったと思っていた。二人の間に、子供という存在がなかった分、彼らは何時までも、夫婦でいられた。他の同僚達が、何時しか夫婦から、父母へと移り変わっていったのとは対照的に、彼らは彼らを大切にして時間を過ごすことが出来た。それだけ、彼らの間には濃密な時間が流れていたし、おそらくは、子供のいた夫婦よりも、その絆は強かったのではないかと、老人は思っていた。
一匹の猫は、その時間を、特に後半の数年間を見てきた猫だった。
子供がいなかったので、夫妻は猫を数匹飼っていた。始めは、近所の数匹の野良猫に、妻がえさを与え始めたのがきっかけで、それから人なつこい赤い虎模様の一匹が、すっかり飼い猫のようになついてしまったのだった。飼ってみると、その猫は雌だったようで、ある日、縁側の下に捨てられた段ボールのなかで、かわいらしい子猫を数匹産んだ。その子猫のうちのほとんどは猫同士の力関係に破れたのか、家を去ってしまったが、一匹の斑の猫だけが家に残った。長い夫婦生活のなかで、猫は何度も子供を産み、そして世代が代わっていった。
今いる猫は、始めに飼った猫の、7代目か8代目くらいに当たっていた。心なしか、その頃の猫の面影が、ここにいたって再び蘇ったような気がするほど、その猫の毛並みはかつての猫に似ていた。名前は、初代の猫にあやかって妻が「とら」と名付けた。8歳の雌の猫だった。
老人は晴れた日には、縁側から道路越しに静かな海を見ながら、とらの頭を撫でているのが好きだった。とらも、もう長いことそうされてきたためか、老人の細い足の上で、大人しく丸くなっていた。
神奈川沖を通る船は昔老人が見た時よりも大きく代わっていた。
かつては小型の釣り船や、漁船が行き来していた頃もあったが、今では大きなレーダーを積んだモーターボートのような船が縦横無尽に駆け回ることが多くなった。遙か沖の方では、大型フェリーかあるいはタンカーや貨物船の様な巨大な船が、海に浮かぶ要塞のようにじっとして、そしてじりじりと前進しているのが見えた。
有機的に打ち寄せる波間に、そうした無機的な構造物が、浮かび上がっている様を見るのはなんだか不思議な光景だった。
それでも、老人は総じて海が好きだったし、それはかつての妻も同じだった。この家はそもそも、彼と彼女が老後に住まうために購入した家だったからだ。その妻は、この家にまもなく越すという段になって死んだ。
老人は計画を一年延期し、ここに住まうことを半ばあきらめた時期もあったが、結局ここに引っ越して来た。
妻の亡くなった家に何時までもいるのはつらかったし、彼女も夢見ていた生活であったから、老人は彼女の魂と暮らすつもりで、この家を彼の最後の住居にすると決めた。
越してきてすぐに、声を掛けてきたのは隣の家の夫人だった。
長川、と言うその家は代々その土地で漁師をしており、彼の夫もまた漁師だった。ゴム長に防水のカッパ姿で現れた長川の夫人は、老人が一人暮らしであることを知ると、幾分不安そうにしていたが、「何かあったらいつでも声を掛けてください」と気さくに受け入れてくれた。
田舎住まいの経験に乏しかった老人としては、そのような隣人の好意というものにほとんど触れずに過ごしてきたので、たったこれだけの心配りにも、大いに感激したものだった。
長川の夫妻は、実際本当に老人を気に掛けていた様子で、時々彼を食事に招いてくれた。
彼らには中学生になる男の子と、今年小学校を出る女の子がおり、家は常に騒々しかった。中学の男の子の方は、思春期と言うこともあって、見知らぬ老人にうち解けるのに随分時間がかかったが、この夫妻の子供だけあって元来素直らしく、半年もすると老人にぼそりぼそりとではあるが口をきくようになった。
女の子の方は早いもので、あっという間に老人と親しくなり、退屈な時は彼女の側から老人の家に遊びに来るほどだった。
長川の家で出される料理はどれも取れたての魚介で、一人暮らしでそういうものをなかなか食べる機会のない老人には大変ありがたかった。お礼に彼の方でも、季節事に、家で取れた野菜を持って邪魔することにしていた。
素人の作った、形の悪いものも多かったが、長川の夫人は喜んで、それをその日の夕食に早速使ってくれた。老人にとってそれは自分の努力の報われる、何とも言えず楽しいひとときだった。
2008年8月28日木曜日
サテライト
これは裏切りに当たるのだろうか。
なめらかな女の肌の上で、男は自問自答していた。
時は深夜。週末の捨て鉢のような喧噪が静まり、人々がふと、何か埋めがたい物寂しさを覚える頃。
男もまた、一人、あふれ出してくる孤独に耐えかね、同じような気色に囚われた様子の女と供に、他人の歴史に汚れた寝床の上で、夜を明かそうとしていた。
そのホテルに入ったのは、男にとって初めてのことだったが、彼が特にそのような素振りも見せなかったため、女は終始、男がよく、ここを利用するものだと思っていたようだった。
慣れた手つきで入り口の手続きを済ます男に、女はやや皮肉の混じった一瞥を向けた。
「何?」
男がその眼差しに気付き、問いただしても、女は特に返事せず、微かな笑みを浮かべたまま、不信げな瞳を向ける男を見つめ返していた。
男はその表情に、何か空寒いものを感じたが、特にそれ以上問うこともせず、先に立って、割り当てられた部屋に入った。
女も、何も言わず後に続いて入った。
男は、この女をよく知らなかった。
顔見知り。あえて言えばその程度の仲だった。彼がこの街に越してきてもう1年近く経つが、男は自分でも笑ってしまうほど、他の女との関係を持たなかった。
男の中には一人の女の面影が常にあった。
その女とは、結局、結ばれはしなかった。もう別れて、何年も経っていた。だが、どれほど時間が経っても、遠い土地に引っ越してきていても、その影はいっこうに消える気配がなかった。
男はもう、自分は十分に恋をしたと感じていた。
その、男をとらえて放さなかったかつての女のために、彼は身を焦がれるような思いを何度も経験した。思えば、青かったと男は今は考えていた。単に、女というものを、知らなかっただけなのだと。
しかし、なぜか男はその後、それ以上誰かに恋をする気には、なれなかった。
何度か試みたことはあったが、あの頃のように、自らを捧げるような気持ちには、いつまで経っても、なれなかった。
プロセスが似通っている。
男はそれが原因だと思っていた。
どの恋愛も、かつての恋愛を思い出すのに足りるほど、似ている。
それが男に、かつての女と、目の前の女を、容易に比較させ、色あせたものにしてしまう何よりの理由だと、彼は感じていた。
「どうしたの?」
体の下で、女が不思議そうに男を見上げていた。
「...何でもないよ」
男は静かに、女の体を撫でた。
「...変なの」
女はそういって、息を漏らした。
二人の間に、それ以上の会話はなかった。
なぜ、今頃になって、たいして好意を抱いていたわけでもないこの女を、ここへ連れ込むことになったのか、男は自分で、説明がつかなかった。
自分に関心を抱いてくれた女は他にもいたはずで、彼はそれを、これまで、ことごとく無視してきたはずだったのに、今夜はなぜか、この女をこうして受け入れてしまった。それが彼には解せなかった。
男はまじまじと、女の体を見た。
それは、かつての女とは、似ても似つかなかった。
貧相で、生臭いものに男には感じられた。
男は、かつての女の裸身を実際に見たわけではなかった。
それは彼なりの、空想に過ぎなかった。そしてその空想は、長い時間のうちに美化されてしまい、最終的には彼女の顔のような、それまで幾度となく見てきたはずのものでさえも、実物の彼女よりも、ずっと美しくなってしまっていた。
そうなるともはや、誰を本当に愛しているのか分からなかった。
しかし、男はそれを自分自身で知りながら、ずっと黙認していた。
どうせ叶わない恋ならば、それは現実でも、空想でも、同じ事だった。
むしろ空想の方が、彼の望みに従っている分だけ、ストレスが少なかった。
実際に恋愛している時に、どれだけ現実の女を、俺は見てきたのだろう。
そう思うとおかしかった。
実際には、自分の空想を、多分に現実の彼女に重ねていなかったか。
結局、俺は空想に始まって、空想の内に終わったのだ。男は思った。
彼女を題材にして、一人で夢を見ていたに過ぎなかったんだ。
目の前にいる、生身の女からは、男はあまり魅力を感じなかった。
普段のすました表情からは想像しえない、しかめしい表情や鬼女のような声に、男の心はむしろ滑稽さを見た。
ただ、生理的に男は女を求めていた。
二人の間に展開されているのは、ただそれだけの行為だった。
俺は二人の人間を裏切った。
行為が終盤に至った頃、男は思った。
この後に続く恍惚と快楽は、その代償になりうるのだろうか。
そもそもこの行為は、何かの約束か?
そんなことを考えている内に、あえなく女が音を上げた。
あいつも、今頃誰かの下で...。
そんなことを考えながら、男は、その行為を締めくくった。
2008年7月21日月曜日
metamorphosis
さなぎは窮屈だよね。
それまでは自由に、好きな葉っぱに昇っておいしい緑の葉っぱを食べていた芋虫が、さなぎになってしまうともう1センチも動けずに、狭い土壁に囲まれた個室の中で、身動き取れないで眠ったようになっている。私、あれに似たもの見たことあるんだ。昔近くの美術館でエジプト展をやっていた時に、エジプトの偉い王様のミイラが、固い木か何かで出来た入れ物にすっぽり収まってたの。そのミイラの入れ物にも、きれいな絵が描いてあって、王様の似顔絵がしっかり描いてあるんだ。まるで、これはこの王様の入れ物ですって言ってる見たいに。さなぎもよく見ると、そんな感じじゃない?よく見ると成虫に似た形はしているけれど、ちっとも動けない。固い殻をかぶった入れ物。あの中では、内蔵がどろどろに溶けてるんだってさ。古い自分を壊して、全く新しい自分になるんだ。自分が壊れるってどんな気分かな。新しくできた自分は、本当に「自分」なのかな。虫に聞かないとわかんないんだろうけど、無駄と分かってて時々考えちゃうよね。自分が造り変わるって、どんな気分だろう。気持ち悪いんだろうな、相当。初めて生理が来た時みたいに、なんだか自分が自分でなくなっていくのはやっぱり怖いよね。自分の意志とは無関係に、大人に引きずり込まれていくあの怖さ。きっと昆虫も、あれをずっと味わっているんだよ。暗い、湿った土の中にいて。
自分が作り替えられると、自分の考えも変わるのかな。でも、それを感じる自分も変わっているんだから、けっきょく変わったことには気がつかないのかもね。私も気がつかないうちに、たぶん去年の私とは変わってる。弟から見たら、私は変わってしまったんだろうな。大嫌いなお父さんやお母さんみたいに、私は弟からは見えているんだろうな。弟の目はいつも子供みたいだから。男の子ってどうしてああなんだろう。どうして何時までも子供みたいな目をしていられるんだろう。同級生の男子を見てもそう。何であんなにはしゃげるの?まるで小学生。ただ体が大きくなっただけの。でも、あの人達もいずれ、お父さんみたいになるんだ。それは何時なんだろう。早く来なければいいな。弟がお父さんみたいなことを言い出したら、悲しいだろうな。私は理解者を一人失った気持ちになるんだろうな。家の中に、ますます居づらくなってしまいそう。
だってお父さんったら、いつも勉強しろってうるさいんだもん。私は勉強してるんだよ?私が勉強しているところを見もしないくせに、勉強しろ、勉強しろって。じゃあ私は、どこまでがんばればいいの?お父さんが勉強したなって認めてくれるのは、いつ?
私も、始めはがんばったんだ。だから、お母さんやお父さんが行けっていった難しい中学にも、入ったし。結構大変だったんだよ。難しい中学に入れば、もう口うるさく言われることもないと思ったんだ。でも、けっきょく何も変わらなかった。むしろ、優秀な子達と比べられて、ますます窮屈になっただけだった。こんな調子じゃ、大学に入っても同じ事言われるんだろうな。会社に入っても、もっと上を目指せ、同級生の何々さんはもうお前より給料もらっているんだぞって。どこまで行ったら許してくれる?私が、ほっと出来る時は、何時?
結婚してしまえばいいのかな。女の子だから、と言うことで。そうすれば、そういう上ばっかり見せられる生活からは抜け出られる。でも、お父さんはそれでも言うんだ、今はそんな時代じゃないぞって。女だから、男だからと言う考えはもう古い。結婚して、出産しても、また会社に帰ってくる人はたくさんいる。お前もだから見習えって。お母さんの時代がうらやましいな。ああやってママできる時代が。子供を抱えて、会社で働いて、そして上ばかり見せられて。女は不利じゃない?どうして女なんかに生まれてきたんだろう。
私、正直もう、疲れてきたんだ。実際、テストの成績も最近伸びてないし。こないだなんかは、一つ落としちゃった。お父さん達には言ってない。言うとどうなるか、想像できるでしょ。考えただけでもうんざりだよ。だから私は風邪を引いたことにして、その日の追試は受けないでお家に帰ったんだ。先生は私の姿が見えないから、わざわざ家まで電話してきた。ちょうど弟が取ったから、風邪を引いててでられないって言ってもらったんだ。かわいい弟だよね。私の言うことを、真っ直ぐきれいな目で信じてくれた。あんな風に信じてくれる人に私は何人逢えただろう。
お父さんは早く帰ってきて、私が風邪だと弟から聞いて、寝かしつけようとしたけど、私はもう大分よくなったって言ったんだ。実際熱もなかったし、あんまり重病人っぽくするのもかえって変でしょ。嘘を吐くのが上手くなったのかな、私。お父さんはすんなり信じてくれた。考えてみれば、私はずっと嘘ばかり吐いていたからね。もう心の中は、子供の頃の私とは全然似ても似つかない私になっているのに、お父さんとお母さんの前では、子供の頃の私を演じてる。そのほうが、二人を失望させずに済むから。私小さい頃はいい子だったんだ。お父さんとお母さんの自慢の娘。でも、あるとき、私はそんないい子な自分を無くしてしまったことに気づいた。今まではしっくりいっていた感じがなくなったんだ。自分の思いどうりにやろうとすると、それまでの私とは違った方向に行ってしまいそうになる。今までは思いどうりに行動しても、褒められることしかなかったのに。何かしていて思うんだ、あ、これ絶対に怒られるって。でも、それをやっちゃう。で、怒られる。お前がこんな子だとは思わなかった。小さい時はこんな事無かったのにって言われるんだ。
小さい頃の自分と比べられるって不幸だよ。そんな自分は、もうこの世に存在していないんだから。親はそんな幻のあたしに、私を何時までも縛り付けておこうとする。生まれたての無垢なわたしに。そんなの無理だよ。でも、私はできるだけ、それを演じてきたんだ。小さいころ好きだった食べ物は、今嫌いになりかけていても喜んでおかわりした。そうしないと、お母さんが悲しむと思ったから。お父さんは心底嫌いになっていたけど、好きだって言い続けた。小さい頃はお父さん子だったんだってさ。お父さんと結婚したいとか言ってたんだってよ。今じゃ、全く理解できないんだけど。
とにかく、週末だったし、お父さんが買い出しに出てカレーを作ると言い出したから、私もついて行ったんだ。だって、お父さん大好きな私だからね。行くか?って言われたら、うん、行きたいって、喜んで言わなくちゃいけないでしょ?正直に嫌いなら嫌いと、言えたらよかったんだ。でも、そうしたら、家の中がぎくしゃくするのは目に見えていたし、弟や、お母さんが必要以上に悲しむだろうと思ったから、それはしたくなかった。お母さんたら、お父さんのことが、なんだかんだ言って大好きなんだもの。弟もそう。あの二人...、特に弟を悲しませることは、私には出来ないんだ。
お父さんと二人でカレーを作って、そしてお母さんを待って、一緒にご飯を食べた。お父さんが借りてきたDVDを見て、一緒に笑った。正直私とは少し趣味が違った。でも、私は喜んで見た。弟は随分のめり込んでいたみたいで、目をまん丸にして見ていた。私はあの子がうらやましかった。本気で、お父さんと趣味が一致しているんだから。何の気を遣う必要もないんだから。昔は私もそうだったんだよ。でも、今の私は、もう、あの頃の私では、ないんだ。演技の中にしか、両親の知る私は、いない。二人ともそれは気がつかないみたいだけれど。
ただ、弟は気がついていたんじゃないかな。私はあの子にだけは嘘を吐かなかったから。正直、最近弟と話す機会が減り始めたと感じていたんだ。前みたいに、どこ行くのも一緒、では無くなってきた。弟も、少しずつ変わり始めていたんだね。でもあの子は素直だから、私みたいにそれを隠したりしなかった。それがますます、私にはうらやましかった。ああやって、自分をさらけ出せれば、私みたいになることもないんだろうね。
その晩私は夢を見たんだ....。お父さんが、家族みんなを殺してしまう夢を。理由は分からない。追試のことが、いよいよ、ばれたのかも知れない。弟は泣いていた。お母さんも泣いていた。お父さんだけが、真顔だった。怒っているようにも見えた。手に包丁を持って、家族みんなを刺して歩いていたんだ。始めに弟を刺した。それから、お母さんを刺して、私の方に向かってきたんだ。顔色は青かった。お父さんの怖い顔で目の前がいっぱいになって目が覚めた。私は怖かったんだ。体が汗でぐっしょりだった。手がわなわな震えていた。膝もかくかくしていて、立ち上がるのにも苦労した位だった。でも、私は、夢から覚めても恐怖は残っていたんだ。逃げられない。なぜだかそんな気がしていた。
逃げたいのに、逃げられないんだ。私はまだ震えていた。怖くて、怖くて仕方がなかった。だから、台所に行ったんだ、そして、何かお父さんを殺せるものを....。
そう、そのとき、殺そうと思ったんだ。
そうしないと“私”が、殺されてしまうと思ったから。