人生は、何かがある時よりも、何もない日の方が遙かに多い。
男は、そう感じていた。薄曇りの空の下、絶え間ない霧雨で、アスファルトの路面はしっとりと濡れていた。傘を差すか、差さないか迷うような雨の中を、片手に傘を差した自転車が、脇目もふらずに通り過ぎていった。その後を追うように吹き抜けていく、湿り気を帯びた冷ややかな風を感じながら、男は自転車の通り抜けた後の路面を、ひたひたと歩いていった。
彼は、これまで自分が孤独だと感じたことはなかった。
彼の身の回りにはいつも人がいたし、彼らは彼をいつも必要としてくれているようだった。たとえ、一人になる時間があったとしても、男はその一人の時間を愛していた。周りに人がいる時には余り見せない、彼の一面――たとえば、古い友人に手紙を書くこと――も、消して彼の孤独な行為とは受け止められないだろう。それはまだ、一人の時間の過ごし方と言うだけのことであり、そのような時間は、人生の大半に渡って、特に青年期の初期から壮年期の前半にかけて顕著に表れる時間である。現に、彼は孤独のもたらす数多くの弊害、たとえば思考が狭まり、次第に厭世的な見方に偏っていくような兆候を示していなかった。むしろ、彼から一人でいる時間を奪った方が、彼はそのような兆候を示したかも知れない。そう言った点でも、彼はごく普通の人間だった。
しかし、この日の男は、何処か様子が違っていた。
地味なブラウンのコートを羽織り、傘も差さず、雨中に佇んでいた。両手には何も持たず、使い慣れた革の鞄すら、今日は持っていなかった。
それでも、上下はいつものスーツを着ていた点からみて、彼の服装はいつもの会社帰りとさほど変わらなかった。彼は裏露地の狭い道を歩きながら、ふと、目の前に、道を遮るように止まったタクシーに目をやった。しかし、彼はそれを見ただけで、結局乗ろうとはせず、競り建ったビルとタクシーの間をすり抜けるようにして、市の中心部の方向へ向けて歩いていった。
黒く湿ったアスファルトが、明るい光りに彩られた街を逆さまに、滲んで浮かびあげていた。街は今、水上に浮かぶ架空の都市のように、曖昧で儚い光を放っていた。ビルの上の赤い光りが男の網膜の奥に焼け付くほど強く差し込んできた。街の輻射に赤く霞んだ雲の中に浮かび上がる、その鮮やかな単色光に、男は一瞬、目を奪われる思いがした。
彼は、雨に濡れる身体を構うことなく、ひたすらに街の中心を目指して歩いていた。
そして、市の中心部の駅の前まで来たところで、彼の足はぴたりと止まった。
男はその場所に立ったまま、おもむろに、彼の頭上にあるものを見上げた。
そこには一本の高いビルが聳えていた。
2年ほど前に立ったばかりの駅前の超高層マンション。彼はそのビルの突端近くの高い窓を雨に濡れるのも気にせず見つめていた。
男の見つめるビルの高層階には、一部屋だけ明かりが灯っていた。他の部屋にはもう明かりは灯っておらず、それらの部屋の住人は、すでに眠ってしまっているようだった。
男は眼を細めて、その高いビルの一部屋だけ灯った明かりを見つめた。
その窓辺には、誰の姿もなかった。窓は堅く閉ざされており、誰かが出てくる気配すら感じられなかった。
「……幸せ、か」
男は、ぽつりと呟いた。
そして、顔を伏せて自らの足下を見つめた。
冷たく濡れた暗い路面が、彼の足下に拡がっていた。
その上に吸い付くように立ったままの、二本の彼の足。当たり前のそれが、今日はいつになく不自由なものに感じられた。
「……幸せ、なのか?君は……」
男は地面を見つめたまま、身じろぎもせず、そう言った。
高いビルの上の窓には、相変わらず煌々と明かりが灯っている。彼はしかし、もう一度その窓を見上げようとはしなかった。
「あの窓から見える景色は、僕らが憧れた……」
そう呟いて、しばらく口をつぐんだ。
僕ら。そう思っているのは、すでに自分だけかも知れない。彼は、そう感じたのだった。
彼はふと、辺りを見渡し、自分の周りにもう誰も人がいなくなっているのに気づいた。
駅も、すでに最終電車が過ぎ、僅かばかりの明かりが灯されているだけだった。
街は、煌々と夜の残余を残しながら、次第に眠りにつこうとしているようだった。
男はすでに、ここに立っている意味を見失っていた。僅かな霧雨は、しかし確実に、雨中に佇む男の身体を濡らしていた。茶色のコートが湿り気を帯びて、ずしりと身体にのしか掛かってきた。
「……次の誕生日には、もう少し、ましなものを用意しようと……」
男は呟いた。
「……しかし、それも必要なかったな。君には、君の幸せがもうあるのだから」
男の脳裏に、一人の女性の微笑みが浮かんでは消えていった。
渡そうとして渡せなかったものと、それをもらって喜ぶ彼女の微笑み。
しかし、それは恍惚とした喜びと一緒に、身をもだえるような苦しみを彼にもたらした。
男は微笑んだまま、眼を伏せ、暗い路面を見つめ続けた。
雨に濡れた街は逆さまに、夜の光りを映している。
彼の足下に、一点の光りがぼやけて映っていた。彼はそれを、彼女の部屋の明かりだろうと思った。その光りは、彼の背中にそびえる現実の塔から差し込み、彼の足下で揺らめいているように見えた。
その時、彼の足下に灯されていたその小さな明かりが、突然音もなく消えた。
驚いて、彼は背後の高層ビルを振り向き、高い塔の突端近くの部屋を思わず見上げた。
そこには、未だに明かりが灯ったままだった。
しかし、その窓辺に、これまでは見られなかった、一人の女性の姿があるのに、彼はすぐに気づいた。
女性は、窓辺に立ったまま、静かにビルの下の暗い世界を覗き込んでいた。
しかし、高い建物の上の、明るい部屋の中からは、暗い世界の底から見上げる彼の姿に、気づくことは不可能だった。
男はそれでも、高い窓の上から見下ろす彼女の瞳が、彼を捉えているように思えて仕方がなかった。それがあり得ないことは十分解っていたが、それでも、彼はそう信じたかった。
窓辺の影はそれからすぐに消えた。
彼女が立ち去ってまもなく、部屋の明かりも消えてしまった。
「……孤独ではない、そう思っていたのは私だけだったな。よりどころとしていた君は、ずっと、孤独だったのだから。」
男はそう言って、顔を伏せ、微かに嗤った。
「……僕と、一緒にいる時から、ずっと……」
そして、塔に背を向け、元来た道を歩き始めた。
「……君の孤独に、あの時、気づけなかったのは……」
それは、相手が君だったからだ。
男はその言葉を飲み込んだ。
夜は次第に更けていく。
街の明かりは、気づけば、もうほとんど落ちてしまっていた。
雨に濡れた身体を引き摺ったまま、男が、深い、深い夜のとばりの中へ、ゆっくりと吸い込まれるように、消えていく。
その後を追う者は誰もいなかった。
あるとすればそれは、音もなく降る、夜霧のような霧雨と、振り払っても身にまとわりつくような、湿った夜の影だけだった。
2009年5月23日土曜日
one, single, alone.
2009年5月10日日曜日
Potato Salad, a cup of,
隣の机に座る少女が机に伏せるようにして眠っている。
私は彼女を気に掛けながらも、目の前のパソコンに向かい、仕事を続ける。
彼女は昨日も遅かったのだろう。
仕事が立て込むと、眠れなくなることも多いのだそうだ。
私がそのことを尋ねると、
「……昨日は、ちゃんと寝ましたけど」
そう言って、頼りなげに笑った。
「……でも、ねむいんです。……なんか」
彼女はそう言って、また机の上に突っ伏してしまった。
私は声も出さずに笑って、お疲れ、と小さく呟いた。
彼女の向こうの窓に見える景色は、もうすっかり暗くなっている。
遠く、駅前の高層マンションの明かりが、はっきりと夜空に浮かんで見える。その先端の赤い明滅する光りが、星のない虚空に、受け取る者の無い信号を放ちながら、ただひたすらに、無事にこの夜が明けるのを待ちづつけている。
ふと、視線を感じて、隣を見れば、彼女が机に伏せたまま、顔を横に向けて、私をじっと見つめていた。
私の視線を感じると、彼女は咄嗟に私から目をそらして、向こうを向いてしまった。
私は再び、声のない笑いを漏らした。
「……昔、そう言う眼で、こっちを見てた人がいたよ」
私は、小さな声で、独り言のように呟いた。
「……その人とは、どうなったんですか」
彼女は向こうを向いたまま、独り言のように言った。
「……さあね。……忘れてしまったよ」
「……なんだ」
彼女の溜息が聞こえた。
「……つまんない」
私が彼女に言ったことは、言うまでもなく事実だった。私は確かに、昔あのような瞳で私を見つめていてくれた人が傍らにいたことを覚えている。彼女もいつも疲れた顔をして、同じ研究室でもなかったはずの私の机の隣に、いつも突っ伏していた。
逃げるようにやってきて、一眠りして、帰って行く彼女。
その背中に掛ける言葉を知らず、私はいつも、見守ることしかできなかった。
「……先輩」
向こうを向いたまま、彼女が呟いた。
「……その人とは、本当に何も、なかったんですか」
私はしばらく、黙り込んだ。
彼女との思い出を一つ一つたどってみた。
しかし、思い出すのはどれも、眠っている彼女だった。
笑顔でも、泣き顔でもなく、何故か疲れ果てて傍らでうずくまるように眠っていた、彼女の姿だけだった。
「……何も。……ただ、」
「……ただ?」
「……ポテトサラダ」
「え?」
私は彼女とのほとんどたった一つの思い出を思い出そうとしていた。
いつか彼女の作ってきてくれた、小さなカップのポテトサラダ。ほとんど料理など出来ないと、はっきり言っていた彼女が、どうしてそんなものを作る気になったのか私には解らなかった。
「……その子が、ポテトサラダを作ってきてくれたことがあったんだ。たった一回だけどね」
「……それ、」
彼女がこちらを向いた。
「……おいしかった、ですか」
私はその味を思い出していた。
ポテトとマカロニと、細く切ったキュウリとタマネギのようなものが顔を出していたのを、おぼろげに覚えていた。だが、その味付けは本当に薄味で、塩気が全くないのだった。彼女の父は塩分を控えるように医者から言われていたらしく、それで彼女の家庭では塩を控えるようにしていたのだと、私は聞いたことがあった。
それにしても、あの味の薄さは、それとはまた違っていた。
おそらくは、過剰な塩分はいけないという彼女の考えが先走って、おいしい味付けと言うものよりも優先してしまったのだろうと私は思った。
行動的に人前で振る舞う割には、肝心な時には一転して、ものを考えすぎてしまう彼女の性格が、そうした味の薄いポテトサラダを作らせてしまったのだろう。わたしはそう思っていた。
「……まあ、まあだったかな」
私は答えた。
「……優しい、味付けだったよ」
「……ふうん」
彼女は不思議そうな顔をして言った。
「……優しい味付け、ですか」
あのような薄味のポテトサラダには、今後も会うことはないだろう。わたしは思った。
彼女も今頃は上達し、もっとおいしいサラダを作れるようになっているのかも知れない。振り向いてほしい、何処かの、知らない誰かのために。
だが、もう誰も知らないのだ。
あのときの薄味のポテトサラダを愛していた人間も、この夜空の下に、いないわけではなかったことを。そして、その儚い味の中に、小さな幸福を噛みしめていた人間が、僅かにでもいたのだということを。
2009年5月7日木曜日
ある男の生涯
……まだ、終われないのか。
男は雨の中、一人呟いた。
早朝。雨降りしきる、抜かるんだグラウンド。校庭に子供らの姿はない。
すでに引率の手により、校舎の奥に避難している。
窓の向こうから、子供の不安げな瞳がこちらをじっと見ている。
男はそれに気づき、その瞳に笑いかけようとしたが、それだけの気力はもはや残っていなかった。
子供の影は、彼の引きつった笑顔を恐れたのか、不意に窓辺から消えてしまった。
男は力なく笑い、彼の敵の方を、ゆっくりとふり向いた。
「……何もこんな雨の中、襲ってくること無いだろうがよ……」
男は独りごちた。
「……悪戯が過ぎるぜ、全く……」
大小無数の水たまりが、疲れ果てた彼の表情を、砕けたガラスのように、あらゆる角度から散り散りに映し出す。
薄い雲の向こうに、おぼろげな太陽が見える。
しかし、それは、今日はあまりにも遠い。
太陽がこんなに、遠く感じるのは初めてだ。
男は雨雲に覆われた空を見つめ、そう思った。
身体は冷たい雨に濡れ、顔からは無数の雫がしたたり落ちている。
これは、汗か、それとも涙か。
男は地を向いて一人嗤った。
俺は、他人のためだけに尽くしてきた。
それなのにまだ、お前らは俺を喰らうというか?
一体何処まで、この身を捧げればよいのだ?
どれだけ苦痛を味わい、命を張っても、彼らは、彼女らは満足することを知らない。
初めはうれしがって、感謝の言葉を述べもするが、いずれはそれも当然のこととなって、礼の言葉すら、無くなってしまう。
俺は、何処に見出せばいいのだ。この犠牲の結果を。
救った人々の笑顔を、守った、ありふれた日常を糧に、この苦行のような戦いを、明日も続けろと言うのか?
ほら、見ろ。
霞の向こうで、奴が微笑んでいる。
大きな機銃を手にして、俺に照準を合わせたまま。何が楽しいのか……。
結局は奴だけが、俺の行為の無益さを、誰よりも良く、理解していたと言うことか。
痛みに耐え、苦しみに耐え、己を滅して、生きてきて、その果てが、これか?
何が残ったというのだ。俺の戦いの果てに。
日常の価値も忘れた、人々の当たり前の生活だけが、俺の消えた後も、延々と続いていくのか……。
男は黄色いグラブの下で、拳を握りかためた。
その手中には、何もなかった。汗に汚れ、血豆も破れ、むごたらしく傷ついた指だけが、彼の戦いのすべてを物語っていた。
しかし、その壊れた手は、今だ何も掴んではいなかった。
愛する人の賛辞も、賞賛も、栄誉も、幸福も……。
男は忘れていたのだ。
他人に尽くすことを美学とする余り、自身を省みることを。自身の心の内の、人間じみた人並みな欲求を受け止めることを。
男は再び、力のない笑みを浮かべた。
降りしきる雨の向こうで、黒衣の彼が、機銃の弾倉をゆっくりと付け替えているのが見えた。
逃げぬ獲物と解っているのだ。あとは、照準を外さず、一撃で仕留めることこそが、男と数限りなく死闘を演じてきた彼なりの、最後の餞だった。
……ばいばいきん。
彼が、雨の中でそう呟いたように見えた。
水に濡れた頭が重い。
足に力が入らない。いやにふらついて、立っているのがやっとだった。
「……膝が笑っていやがる」
男は独りごちた。
これは、疲労のためか?それとも……、
「……怖いのか?俺は……」
男は天を見上げた。
白い雲の中から、雨だれは灰色の影となって降り注ぐ。
水に濡れた男は嗤った。
このまま腹が裂け、胸板が砕け散るかと思うほどに、嗤い続けた。
英雄が何だ。
最後が、これか。
……俺は、ちっぽけな男だ。
あいつがまた、見かけに似合わず、豹のような周到さで、俺の命を狙っているかと思うと、いつも怖くて、怖くて、仕方がなかった。
出来ることなら戦いたくない。
このまま、逃げおおせてしまいたい……。
着古したマントを羽織り、グラブを嵌めながら、そう思ったことが、いままで何度あったか。
そんなどうしようもない俺を、励ましてくれる奴なんていなかった。
みんな、ケガを知らない、きれいな手を胸の前に組んで、固唾をのんで、神妙な顔して見守っているだけだ。
リングの上に上がるのは、いつも俺一人。
傷つくのも、苦しみを味わうのも、俺一人……。
俺を、恐怖から救ってくれたのは、他人の優しい言葉なんかじゃ、決してない。
それでも他人を裏切れない、俺の心の底のどうしようもない甘さと、がむしゃらな勇気だけだった。
だが……。
勇気≪とも≫の姿は、もう、見えない……。
ははっ。
腰が砕けそうだ。
お天道さんよ、
俺は最後まで、惨めなまねはしたくねえんだよ。
なあ、頼むよ……。
もう少し、この俺を、支えてくれよ……。
男は嗤ったまま、天を抱くように、くたびれた両手を大の字に広げた。
雨の向こうの彼の、漆黒の右手が、引き金を静かに引いた。
怒濤のように銃声は辺りに響き渡り、たちまち、無数の閃光が彼の身体を貫いた。
男の身体がぐらりと傾き、泥に濡れた大地に、うつぶせに倒れた。
水を吸った頭が身体から離れて、浅い水たまりの上に、ごろりと転がった。
仰向けになった頭が、泥に濡れた彼の、最後の引きつった笑みを、雨雲たれ込む白い空に向けていた。
“彼”は、左手に銃を提げたまま死体に近づき、喜びとも悲しみとも付かない引きつった表情を浮かべて、しばらく男の死顔を見つめていた。が、やがて、何を思ったのか、その命を奪った身の丈ほどの黒塗りの重機銃を、ぬかるんだ大地にずぶりと突き刺した。
彼は、泣いていたのだった。
声も枯れよ、とばかりに。
やがて、彼は大地に刺した機銃を引き抜くと、おもむろにその銃口を自身の方に向け、その先端に彼の額の中心を据えた。
……ばいばいきん。
彼は再び、そう呟いたように見えた。
雨に濡れた大地に、無数の雫が流れ落ちる……。
昼が過ぎ、雨は上がった。
太陽は白い雲の向こうから、溢れんばかりの日差しを、彼と彼の身体に投げかけた。
泥まみれの身体が、互いに頭を向けて大地に横たわっている。
降り注ぐ雨が、涙も、血しぶきも、きれいに洗い流してしまった。
駆け寄ってきた村人達は、しかし、それ以上近づくことが憚れ、遠巻きにその二つの遺体を見つめていた。
一人の老人が、村人達の輪から一歩踏み出て、彼らの身体にそっと手を触れた。
そして、嗤ったまま強ばってしまった二人の死相をまじまじと見つめて、その目尻を濡らしたものを、老いさらばえた細い指で、そっとぬぐった。
母に手を引かれたまま、老人の背中をじっと見つめていた、一人の幼い、やや知恵の遅れた少年が、その時、誰に言うでもなく、小さな声で呟いた。
「……勇気のすずは、もう鳴らない」
その声を聞いた母は驚いたように、思わず我が子の顔を覗き込んだ。
幼子はあどけない眼差しを、陰惨とした現場にじっと向けたまま、抑揚も付けずに、もう一度その言葉を呟いた。
「……勇気のすずは、もう、鳴らない」
2009年4月21日火曜日
田舎の生活
たらいに汲んだ井戸水に、ゆっくりと手を浸した。
冷たい感覚が、指先から静かに駆け上がって、腕の中を走る何本もの青白い血管を浮き上がらせ、内蔵の方までゆるゆると冷やして行く。寝ぼけて熱った体温が、それにつられて急速に冷まされて、背中が、きゅっと縮むような感覚があった。
たらいに映る顔は、朝の光を浴びていても、何処か未だ眠たげだ。
昨日、寝る前に鏡で見た時の自分の顔の、半分ほども目は開いていなくて、頬は幾分丸く膨らんでいる。蜂に刺されてふてくされたかのような、その寝起きの顔が、指先からこぼれ落ちる雫に、ゆらゆらと揺れていた。
洗面所。山奥の田舎にある、この古民家を借り切ってもう3年になる。大家のおばあさんは、去年まで、この家の向かいの母屋に住んでいたのだが、今はもう、この住み慣れた田舎町を去って、都会に住む息子夫婦の家に越して行ってしまった。
「...あの母屋も、好きにに使っていいから。家族が増えたら、今のところじゃ手狭でしょうに」
別れ際、僕らにそう言ってくれたおばあさんのしわがれた優しい声が、僕の耳には、未だ昨日のことのように鮮明に残っている。それは、キュウリか、レタスか、白菜か、幾分不格好でしわくちゃだけれども、何処か優しく、瑞々しく、それでいて、青臭い匂いのする、不思議な安らぎを持った声の主だった。都会から田舎のなんたるかも知らずに越してきた僕らが、この土地に根づく事が出来たのも、あのおばあさんがいてくれたからだと、時折、妻と昔話のついでに話すことがある。
この古い家の、薄暗い洗面所の中で、背中側から細く差し込む光が、ようやく僕の手元を照らす。コンクリートを塗った土間に、取って付けたような琺瑯の洗面台。おそらくは、どこかで要らなくなったものを、もらってきてそのまま置いただけなのだろう。立て付けが悪いらしく、全体が少し左手に傾いていて、鏡に映った僕の顔も、たらいに張った水も、どうやら少し、かしいでいる。
「今日は早いのね」
斜めに移った自分の顔を、未だ眠気の覚めない頭でぼんやりと見つめていると、後ろから声がした。ふり返ると、見慣れた顔が、こっちを向いて笑っている。
「……日曜日だからな」
「子供みたい」
そう言って笑うと、彼女は土間にすかすかと入ってきて、僕のわきをするりとすり抜け、洗面台の先にあるトイレに、先に入ってしまった。
がちゃり、と鍵の下りる音。
何処か拒絶されたような、錯誤した感覚が僕を襲う。それに伴う孤独と気まずさが、僕らの間に一瞬の沈黙を生み出した。
この何とも言えない間合いの可笑しさは、彼女も感じたらしく、扉の向こうから、フフ、と含み笑いをする声が聞こえた。
僕も思わず、声に出さずに笑った。
そして、また冷たい水に手を突っ込んで、ざぶざぶといつもより余計に音が出るようにしながら、大仰に顔を洗って、ううっと声に出して、大きく背伸びをした。
「……ねえ」
閉じた扉の向こうから、声がした。
「何?」
閉じた扉の方を向き、問い返す。
「……また、駄目だったんだ、私」
扉の向こうの声が言った。
「昨日、編集者から電話が来てね、今回の受賞はなさそうだって。二次選考までは通ったらしいんだけど、最終候補には残ってないみたい。……また、来年頑張ろうってさ。あの、いつも、ぐちぐち意地悪ばかり言う編集者が」
力のない笑い声が聞こえた。
「……あーあ。あたし、向いてないのかな。やっぱり」
「そんなこと無いよ」
「いや、やっぱり向いてないんだよ。甘かったんだ。OLやめて、自分の好きなやり方で、人生生きてやるって、思ったのはいいけど、それはやっぱり、単なる日常からの逃避だったんだよね。同じ繰り返しの毎日に、うんざりしてて、ちょっと変化が欲しかっただけだったんだ。それなのに、気まぐれに書いた文章が、ちょっと上手く書けたからって調子に乗って……、こんなの所まで、行き着いちゃった」
「こんな所って……」
僕は思わず、そう呟いた。
「……たしかに、こんな所、はないよね」
彼女は再び、笑ったようだった。
「……あたし、やっぱり、だめだ。いろんな人にお世話になって、それをすっぽかして、ふり返りもしないで……。あなたにも、迷惑掛けてばかり。人の人生巻き込んで、こんな田舎まで越してきて……」
扉の向こうの声が、不意に静かになった。
小さな嗚咽が聞こえた。
また、思い出したんだな。僕はそう思った。
最近の彼女は、いつもこうだ。
時期的なものもあるのかも知れない。春が近づき、草木が芽吹く季節になると、相対的に、自分の心の底にあるものが、どうしようもなく避けがたいものとして、はっきりと見えてしまう。浮かれる心の一方で、どうにも動かない、その深く、暗い悲しみ。それが春の、もう一つの側面であることは、僕もよく知っている。何度もこうして、雪解けを待ってきたのだから。
「……ごめん」
彼女は小さな声でそう呟いた。
「やっぱり、思い出しちゃって……。こういう時に限って、……なんで、かな……」
「無理もないよ」
僕は扉の向こうの彼女に慰めを言った。
「僕らのしたことは、そう言うことだ」
「……はは……、そう、だよね……」
僕と彼女の間に、一瞬の沈黙があった。
僕は言葉を躊躇った。
彼女は言葉を選んでいるようだった。
「……ねえ」
沈黙を先に破ったのは、やはり彼女だった。
「……ちゃんと産んでたら、幾つになったかな」
「4つ」
僕はその年齢を忘れていなかった。それは、僕の罪でもあるのだから。
「4つ、か……。私達、若かったよね。たった四年前の出来事だけど……。いま、あの子が生まれるのなら、私、迷わず産んでるのに……」
彼女の声が涙声になった。
「……たった、四年間で、変わってしまうような都合で、私達は、一つの命を捨てたんだ。今更、それを欲しいと願っても、それはわがままに過ぎないよね。……出来ないのも、無理は、無い、か……」
「……君だけが、背負う事じゃない」
扉の向こうの彼女に、僕は語りかけるように言った。
「それは、僕にとっても背負うべき事だ。僕ら、二人の命だろう。そして、二人で決めたことだったろう?」
「……私達、二人で決められることだったのかな」
彼女の声が訴えかけるような調子に変わった。ドアのすぐ向こうまで、彼女はせり出しているようだった。
「一つの命が、産まれるとか産まれないとか、そんな都合は、私達が、自分のスケジュールに合わせて決めていいことだったの?それで、展開していったはずの一つの可能性が、可能性のまま消えてしまっても、私達は、生きていけるだけの権利があるの?」
「……すでに生きているんなら、生きなきゃならない」
僕は、乱れた彼女の心を静めるように、一呼吸置いて続けた。
「消えていった命を背負えるのは、今生きている僕らだけだから」
「……勝手だよ。先に生まれたものの、勝手」
彼女は言い捨てるように言った。
「……今でも時々、子供を産む夢を見るんだ。朝起きると、夢の中では大きかったおなかはすっかりしぼんでしまってる。その喪失感に……、なんだか、涙が出るんだ」
彼女は言った。
「こんな感覚、男の人には、解らないだろうな……。子を宿すってことを、身体で感じられるのは、私達だけだから……」
彼女はその後しばらく、トイレから出てこなかった。
顔を洗って濡れていたはずの僕の両手は、気がつけばすっかり乾いてしまっていた。
僕は先に洗面所を出て、居間に入った。朝食の用意は、もう調っていた。
居間の冬には炬燵として使う机の前に座って、静かに物思いにふけりながら外の明るい景色を見ていると、ようやく彼女が奥から出てきた。
扉の向こうで泣いていたとはつゆとも感じさせない笑みを浮かべて、照れくさそうに僕の向かい側に座ると、古ぼけたしゃもじで、白いご飯をひとすくい、使い古した茶碗によそった。
2009年4月5日日曜日
何も残さなかった
30まで生きるつもりはないと、男は日記に書いていた。
『僕のような人間が、いつまでも長生きしていいとはとても思えないのです。両親は、人の役に立つ人間になれ、と言って、僕を育てました。ですが、どうでしょう。生まれてきた僕は、人の役に立つどころか、人に迷惑を掛けてばかりの、ある種、社会の寄生者のような存在に、なってしまったのですから。両親も、心の底では、嘆き悲しんでいるに違いありません。実家に帰って、優しげに僕を受け入れてくれる老いた笑顔をみるとき、僕は自分の存在していること、そのものの持つ罪の深さに、目が回るようでした』
彼の日記は、所々手垢のような物で黄色い染みが浮かんでいた。彼はそれを一気に書いたのだろうか。乾いていないインクの上を掌が滑るように進んでいったものだから、文字が所々すれて、斜めに線が延びたようになっていた。
わたしはこれを書いた彼の肉体労働を知らない、皮の薄い掌が、きっとこの日記に使われたインクと同じ、ブルーブラックの曖昧な色に汚れていただろうと想像し、思わず苦笑せざるを得なかった。
『多くの人は、わたしを笑うでしょう。それならば何故、人の役に立つ仕事をしようとしてこなかったのか、と。いつまでの親にすがっていないで、自立することも出来たではないかと。幸い僕は健康ですし、肉体的に何の障害もありません。精神的に健康かと問われれば、それは自分では何とも判断の付きにくい部分もありますが、しかし、日常生活に特に支障は感じないので、おそらくは健康なのでしょう。そうなればなおさら、僕のしていることは罪以外の何物でもないような気がします。人を欺いてその金品を奪い、生活をしているのと、今の僕はどう違っていると言えましょうか。実質的には、そこに違いはないのです。ただ、一方が個人や法人と言った具体的なものを欺いているのに対し、僕は社会や世の中のような、とかく漠然としたものを欺いて生きていると言うだけの違いでしかありません。人の役に立っているような、さも一人の立派な人間のような顔をして、僕は人並みに通りを歩いていますが、実は、それだけでも一つの立派な犯罪なのではないかと、心の底ではびくびくと怯えているのです。いつか、僕の心の内を明晰に見抜いてしまうほどの眼力を持った人が、目の前に現れて、僕のどうしようもない本質を看破してしまうのではないかと、そのことばかりを恐れています』
彼の日記はここで、数行の空白を残して、次のページに飛んでいる。
しばらくここで何かを迷っていたのか、あるいは、時間的な間隔が実際に開いたのか、次の行からの文字は、以前のものより線が震えて擦れ、全体的に小さくなっているように見えた。
『全体、僕のような犯罪者ほど、社会において罪をなすものはないように思います。自分の利益のために人を殺す様な人間は、確かに極悪非道かも知れませんが、それはよりよく生きようとする、人類本来の向上心が、悪い方向に発露しただけとみることもできます。しかし、それならば、僕はどうでしょう。僕は何の向上も望んでいません。ただ今があり、そして、今日があれば、それで満足なのです。未来のことなど、考えてみても解りません。それはあまりに複雑すぎて、たとえ予定を立ててみても、土壇場になっていとも簡単に覆ってしまうと言うことに、僕は慣れっこになってしまいました。人間に、未来を予想するだけの知性があるのなら、失敗するものなど、そもそもいるのでしょうか。どれもこれもが、運のような気がしてなりません。努力に結果が付いてくると言うのは、誰も皆、成功者なのですから。彼らの足下に散らばる骸の声を、誰が聞こうとするでしょうか。彼らが努力したと言ったとて、皆口をそろえて、それでは努力が足りなかったのだ、と言いくるめます。そう言われれば、そうかも知れないとしか、答えられません。それは何の証明のしようもないからです。努力を測る物差しなど、誰も持ってはいないのですから。あったとしてもそれは、成功と失敗の2極しかない物差しなのでしょう。成功に至らないものは、すべて失敗なのです。言い換えれば、成功に導かない努力は、努力していなかったに等しい、と言うことも出来るでしょう。僕はつくづく、己の無力を感じています。努力とは時間の経過です。しかし成功は、その途中に構えられた一種の門のようなものに過ぎません。そして、人生もまた、時間の経過なのです』
彼の日記は、ここで一度終わっている。
次ページからは何の変哲もない毎日の記録に戻っていた。
彼のような、人生の敗北者に、耳を貸す必要など無いのかも知れない。
実際彼は、社会において何の役にも立たなかったし、私達家族に、彼が何をしてくれたのかと言えば、思い出すのも難しい。老後、彼がいなくなった後の私達夫婦を、支える羽目になるのは、彼の弟とその家族になるはずだ。彼はしっかりしているから、きっと兄のようなことにはならないと私達は期待している。
しっかりしている人間の話は、わかりやすい。
それはいつも、掴めるものを追うからだ。彼の兄のように、掌に入れられないものを追い掛けた人間は、いつも道に迷ってしまう。雲を掴む努力をしたところで、それが何になるだろう。わたしには正直、彼という人間が未だに理解できないでいる。親として彼を世に生み落としていながら、つくづく無責任なこととは思っているが。
ただ、不幸中の幸いは、彼があの飼われた生き物のような生活に、決して安んじていたわけではないと言うことだ。少しでも罪の意識を持っていたというのなら、それがたとえ、私達に向けた形式上のものであったとしても、親として少しは彼の『努力』を認めてやらないでもない。ただし、彼が言うように、成功に至る努力意外には、人は努力とは認めないものだ。そう言う意味では、彼は、何もしていなかったに等しかった。30年、生きていながら、何も。
2009年4月2日木曜日
揺れる
前の席に座っていた彼女が、髪を少し染めてきた。
その変化に、初め僕は気がつかなかったのだが、仲の良い友人の一人が、冷やかすように、僕にその変化を告げたので、僕はようやくそれに気づいたと言う位、それは染めたと言っても微々たる色の変化に過ぎなかった。
ただし、彼女はそもそも優等生的な性格の生徒で、髪を染めるというような、教師に睨みをきかされる危険をわざわざ冒すような感じでもなかった。目立つことも余りしなさそうな、ごく大人しい、真面目な生徒。僕は最近まで、彼女をそう思っていたし、それはクラスの、他の生徒達も、同じはずだった。
何故、急に彼女が、髪をを染めてきたのか。
クラスの、特に僕の身の回りの男子達は、しきりにそのことを噂しだした。僕の顔をちらりちらりと嫌らしい眼差しで見ながら、へらへらとした笑いを浮かべて、彼らは楽しそうに各自の持論を述べ立てた。
「...やっぱ、彼氏だよ」
ある友人が言った。
「だって、急に髪染める理由なんて、他に考えられるか?ぜってえ、男」
彼はそう言うと、歯をむき出して、僕の方を向いてへへへと笑った。
「あいつが、C組の工藤と一緒に歩いて帰るの、見たって奴いるぜ」
「ああ、ヤスコだろ」
別な男子が言った。
「ヤスコがバイト帰りに、駅前で見たんだってさ。7時位だって言ってたから、結構遅い時間じゃねえ?」
「工藤、電車通学だもんな」
にたにたと笑って聞いていた、最初の友人が言った。
「...どっかで時間潰して、送ってったんだよ、きっと」
僕はその話しを、興味があるような無いような、微妙な表情を浮かべながら聞いていた。正直、その話しを詳しく知りたいとは思わなかった。ただ何か、自分の想像できない場所での、彼女の振る舞いや、見たことのないはずの情感のこもった表情が、ありありと脳裏に浮かんできそうになって、僕は慌てて、その思考を抑えていた。
「お前、いいのか?」
最初の友人が言った。
「工藤に取られちまうぜ」
「...べつに、いいよ」
僕は、薄ら笑いの表情を変えずに、彼に言った。
「付き合っているわけでも、ないし」
「だから、子供なんだよ」
あきれたように彼が言った。
「付き合ってるかどうかじゃないだろ、お前が好きか、どうか、だ」
彼は、また歯を見せて、にたにたと笑った。
「行っちまうぞ、そんなこと言ってると。いずれにしろ、損するのは、お前だ」
放課後、僕と彼女は、一緒の掃除の班だった。
体育館掃除という、何とも漠然とした掃除。運動部が、毎日、念を入れて磨いているアリーナに、僕らがすることなど、何もなかった。とりあえず、薄汚れたモップを持って、広い体育館を、縦横に往復する以外、することはないのだ。
掃除が終わり、班の他のメンバーらは、さっさと教室に戻ってしまった。
班長だった彼女は、掃除が終わったことを体育教官室に伝えに行った。僕はそれを見届けた後、他のメンバーの後を追い掛けて、教室に帰ろうとした。
その時、ふと、体育館のステージの上に、バスケットボールが一つ転がっているのに気がついた。誰かが、体育の時間にでも使って、そのままになっているのかも知れない。僕は余り気に留めなかった。だが、気づいていながら、そのままそこを立ち去るのも、後ろめたいように感じた。仕方なく、ステージの上に上がると、そのボールを拾い上げ、手持ちぶさたにドリブルをしながら、用具室の古びたカゴの中に、そのボールを放り込んだ。
「...まだ、なにかあったの」
後ろから、彼女の声がした。
「...ボール」
僕は振り向くと、彼女に向かって、手短にそう答えた。
僕がふり返るとほとんど同じ位のタイミングで、彼女は丸い目を大きく開けて、何か言いたそうにしながら、くるりと向こうを向いてしまった。そして、僕の先に立つかのように、ゆっくりと出口に向かって歩き始めた。
僕も何か話したいことがあったわけでもないし、彼女の後に付いていくようにして、何もない体育館を縦に歩いた。
先に立った彼女の髪は、言われてみると、少し茶色っぽいような気がした。しかし、それくらいの色であれば、光りの加減で、何とでもなるという程度の色の明るさだった。もしかすると、彼女は元々やや赤毛で、最近になって、ようやく周りがそれに気づいたというだけのことかも知れない。僕はその時、そう思った。
先だって歩く彼女の髪が、深い紺色の学生服の上で、彼女が歩みを進める度、ゆらゆらと迷うように大きく左右に揺れた。それは少々、僕にはわざとらしくも見えた。もしかすると彼女は、変化した髪の色に、気づいてもらいたかったのかも知れなかった。
それでも、正直、僕はもう、彼女に話すことなど無いと思っていた。
いつも通りを装っていても、彼女は本質的には別の人間になってしまったように僕は感じていた。恋愛をしてしまった人と、未だしていない人の間には、大きな差異があるように僕は思う。前者はいつも嘘つきで、可能な限り真実を小出しにしようとし、後者は悲しくなるほどに、自分を表にさらけ出そうとする。
今の彼女は、その嘘つきになってしまったのかも知れなかった。自分の気持ちのよりどころを隠し、いつもと同じ彼女を、装っているだけかも知れなかった。僕にかけてくれるどんな言葉も、それは装うための文句に過ぎず、本当の心のありかは何処か遠い、自分の知らない誰かの所にあるのに、違いなかった。
彼女の揺れる、やや赤い髪は、その内心を早く公にしたいという、相反する彼女の心の表れではないかと、僕は思っていた。僕はだから、彼女に、もう何も話しかけたくなかった。言った言葉のすべては、僕の中で嘘になり、傷つくことだけが、いつも真実になってしまうのだ。
真実など知りたくなかった。
嘘なら嘘で、ずっと優しい嘘をついていて欲しかった。
彼女をこのまま恨んでしまいたかった。もう、何を言っても、出来る限りぶっきらぼうに振る舞って、何も話すことなどしないでいてみようと、目の前で揺れる、やや明るくなった様にも見える彼女の髪を見ながら、僕は硬く、心に誓っていた。
「ねえ、」
前を歩いていた彼女が、少し僕の方を振り向いて言った。
「...あんまり、後ろばっかり、見ないでよ」
彼女はおかしそうに笑った。
「いつもそうなんだから。後ろを歩かないで、横に立ってくれればいいじゃない。話も出来ないよ」
僕はそう言われて、咄嗟に彼女の横に立った。
彼女は柔和な笑みを浮かべて、僕を見ていた。それが何を意味しているのかは、解らなかった。
「お姉ちゃんがね、」
やや唐突とも思える間合いで、彼女が言った。
「...わたしの髪は重いから、少し染めてみたらって言ったんだ。髪なんて、あんまり染めたこと、無かったんだけど、そんなに色は抜かないからって」
彼女は自分の髪を右手の指先に少しつまんで、首を傾げるようにして、それを見つめた。
「なんか、ちょっと赤かったかな」
「...気にならなかったな」
僕は言った。
「そう?」
彼女は、意外そうに僕の方を見つめた。
「結構、鈍感なんだね」
彼女はおかしそうに笑った。
「...ついでに、前髪も切ったの、気づいてた?」
「いや、全然」
僕は答えた。彼女はまた、口に手を当てておかしそうに笑った。
「...今日、教室の後ろの方で、わたしが髪染めたこととか、みんなで話してたでしょ?あの人達、今日わたしが学校来たらすぐ気づいて、何で何でって、その話しばっかりしてたの。わたしが、お姉ちゃんに言われたことを話したら、納得したくなかったみたいで、なんだか残念がってた。...みんな、変化をほしがってるんだね、たぶん。恋愛とか、失恋とか」
彼女は、穏やかな表情を浮かべたまま、静かに溜息をついた。
「そんな、面白いことばっかり続かないのは、お互い様なのに。....私達みんな、カゴの中の鳥みたいだよね。本当はもう飛べるのに、飛べないと思いこんで、大人しく、ご飯をもらったりして。出来ることと言えば....、誰かを思って、歌でも歌うくらい。届かないかな、なんて、思いながら」
彼女がふと、僕の方を見た気がした。しかし、それは気のせいのようだった。
僕が見た時には、彼女は平然とした顔で、前を向いて歩いていたから。
その時、彼女が僕の見つめる目の前で、またもや唐突に口を開いた。
「...コンタクトにしてみたら?」
「え?」
「ううん、部活でも楽になるかなって、思っただけ」
そう言うと、彼女は歩く速度を速めて、再び僕の前に立って歩き始めた。そして、体育館の入り口までたどり着くと、小さくなった身体で僕の方を振り向いて、
「...かぎ、閉めるよ!」
そう言って、本当に向こうから扉を閉めて、鍵を閉める動作をした。
僕が慌てて彼女に追いついて、扉を押し開け、今にも鍵を掛けようとしたその手を押さえてしまうと、僕の眼鏡越しに一瞬、僕の目を彼女が見た。そうして、今度は僕の見つめる前で、少し勿体ぶるように、ゆっくりと、誰もいなくなった体育館の扉に鍵を下ろした。
2009年3月31日火曜日
サマー・バケーション
何もない草むらの上にオレンジ色の縁取りのハンカチが一つぽつりと寂しそうに落ちていた。
誰の物だろう。
少年はいぶかしがりながらもそれを拾って、両手の指につまんで、そのハンカチを広げてみた。右下に、風船をもつくまの絵。
明らかに子供向けの、しかも、おそらくは女の子向けのハンカチだった。
尚ちゃんのだろうか。
少年は咄嗟に、近所に住む少女の名前を思い浮かべた。
でも、その少女は普段ハンカチを持ち歩いているような印象はなかったし、こんな何もない辺鄙なところまで、わざわざ遊びに来ているとも思えなかった。ここは集落から大分離れた、丘の上だった。来るのはせいぜい、山奥から木材を運び降ろす軽トラックか、少年くらいのものだった。
一体、誰のだろう。
少年は、ハンカチを裏返したり、ひっくり返したりしながら、何処かに名前が書かれていないかと調べた。しかし、ハンカチのわきに飛びだした説明に、『Made in Taipei』と本当に小さな文字で書かれている以外、名前らしい名前は見あたらなかった。
ひょっとすると、少年の知らない誰かが、わざわざ、ここまで遊びに来て、そうしてこれを落としていったのかも知れなかった。だとすれば、落とした人は困っているかも知れない。少年はそう思ったが、届けたくても、それを何処に届ければいいのか、見当が付かなかった。落とし物は交番に届けましょう。そう、学校では教えてくれたけれど、交番なんて物は、大人に車に乗せていってもらわなければ行けないほど遠くにあった。こんなハンカチ一枚のために、父親が、わざわざ車を出してくれるようにも思えなかった。
少年は仕方なく、そのハンカチを、もとあった草むらに置いた。
そして、後ろ髪引かれる思いで、その丘の上を後にした。
翌日は雨だった。
少年は家の窓から、白糸のように降りしきる雨を見つめていた。ざあっ、と言う音が、家の中のすべての小さな音をかき消して、そして世界の余計な音までも雨の音に染めていった。雨の降る日は、だから不思議と、雨音の分だけ世の中が急に静まってしまったような寂しさを感じた。
昼なのに薄暗い家の中から見える空には、分厚い雨雲がたれ込めていた。
少年が見ている間にも、雨雲は時々そのずっと上の方で、ぴかりぴかりと閃光を発していた。雲全体が、なんだか薄青い炎を纏っているようで、気味が悪かった。
ふと、目を地面に向けると、母親が取り込み忘れたのか、小さな靴下が一つ、雨ざらしになった庭の上に落ちていた。靴下は泣いているようにも、いじけているようにも見えた。忘れられていることをねちねちとひがんでいるのか、それはじっと雨に打たれたまま、泥を浴びた庭の上で、やけに白く光って見えた。
それを見て、少年は昨日拾いかけた、一枚のオレンジ色の縁取りのハンカチを思い出した。あのハンカチも、今あの靴下のように、雨に打たれて、すねたように昨日の草むらの上で、じっと拡がっているのだろうか。そう思うと、彼は、なぜだか後味の悪い物を感じた。
ハンカチに、実は謝らなくてはならないような、妙な気持ちを抱いて、少年は窓の向こうの一足の靴下に対してさえ、それ以上だまって見つめていることが出来なくなった。母親に見つかったら、むしろ怒られるのではないかと思いながらも、少年はわざわざ彼の青い長靴を履いて、そして、黄色い雨傘を差して、激しく雨の降る雨中に出た。
家の雨樋から垂る大きな水滴が、彼の傘の幕に当たって、ボツボツという張りのない、低い音を立てた。彼は、自分の手を必要以上に汚さないように、人差し指と親指の間に濡れた靴下をつまんで、汚い物でも運ぶような格好で、それを玄関の中まで持ってきた。
靴下からはびちゃびちゃと、汚い泥の雫が絶えず落ちていて、持ってきたのはいいものの、玄関に脱いだままになっていた父親の黒い革靴の上に泥水が随分と垂れてしまった。
そのまま上がってしまったら、母親に大目玉を食らいそうなことくらい、少年は重々承知していたので、迷った挙げ句、彼はその靴下を、玄関の誰も見向きもしない暗い片隅に、そっと寝かしつけるように、広げておいた。
玄関を上がって、元いた場所に戻ってきても、彼には、その靴下が心残りだった。
水を絞ることも考えたが、そうすれば、今度は自分の手が汚れてしまう。そこまでして、靴下を拾ったところで、泥だらけの靴下を、母が何処まで受け入れてくれるのか、解らなかった。それを洗濯機に入れるような母だろうか。それとも、それを汚いと捨ててしまうのだろうか。少年には解らなかった。どっちの結末も、彼には余りいい気がしなかった。
結局、雨中に忘れられた靴下は、いずれにしろ余りいい最後を迎えることはなさそうだった。少年は、靴下に対して、少し申し訳ないような気持ちを抱いた。昨日まで黙って履かれていた靴下を、こんな最後に終わらせてしまうのが悲しかった。
翌日は打って変わって、嘘のような快晴だった。
雨の降った後の空は、同じ空とは思えないほど高く、澄んでいた。
山の緑は生まれ変わったように鮮やかに輝き、草葉の先端には小さな雫が留まって、見る角度によって、女の人が耳に付ける宝石の飾りのように、ちらちらと踊るように光を放った。
少年は、朝ご飯を食べると、すぐにあの丘に登った。
あの日からずっと気がかりだった、一枚のハンカチの無事を、一刻も早く確かめたかった。
草むらにたどり着くと、少年はすぐに、ハンカチのあった場所を丁寧に探し始めた。
雨の乾ききっていない草は、すぐに少年の腕を濡らし、半袖のシャツに幾多の水玉模様を浮かび上がらせた。雫が半ズボンの先から出た腿を濡らして、ひやりと冷たかった。それでも彼は、筋の細い、硬い草をかき分け、その下にあのハンカチが、悲しげに眠っていないかを確認するために、あちこちに草むらを見つけては、そこに飛び込んだ。
しかし、彼がいくら探しても、その場所にはもう、あのハンカチは見つからなかった。昨日の雨の後、少し風が出ていたような気もした。少年は探す場所を少し変えて、近くに生えた高い木の途中まで昇ってみたりして、隈無く辺りを探したが、もうあのハンカチは、何処にもいなかった。
少年の頭の中に、あの風船を持ったくまの絵が寂しく浮かんだ。
風船を持ったくまは、頭の中でも楽しそうに笑っていた。ちょうど遊園地で、大人に風船を買ってもらった時の少年のような、跳ねるような足取りで、オレンジ色に縁取られたハンカチの中でくまは歩いていた。
少年は、一昨日、ハンカチを持って帰らなかった自分を悔やんだ。
あのハンカチが、好きだったわけではないのだけれど、それを持って帰るのを躊躇ったばかりに、永遠に、もう彼の前から失われてしまったことに気づいて、小さな背中が、なぜか、すうっと冷えていくのを感じていた。
2009年3月24日火曜日
メルカトル
ミドリガメが目の前をゆっくりと這っていく。
ナオコに言わせると、それは散歩なんだそうだ。
「だって、カメだって生き物でしょう」
彼女は妙な色のペディキュアを足の指に塗りつけながら言う。
「きっと、狭い水槽じゃ、気が滅入っちゃうよ」
カメに滅入るだけの繊細な神経があるのか、僕はよく知らない。
それを知ってたところで、何になるだろう。ただ、カメを飼うのに、以前よりもこっちが気を遣うようになって、何のために、この手の掛からない生き物を僕らのペットに選んだのか、解らなくなってしまうのが、オチじゃないだろうか。
「ミドリガメは、あんまり陸が得意じゃないみたいだよ」
僕は彼女の足の指先を見つめながら、控えめに言った。妙な色は次第に、足の爪の上で、面積を伸ばしていく。なんだか、気分が悪かった。
「でも、ずっと水に入れてたら、カビが生えてきたでしょう?」
彼女が苛立った調子で言う。
「それじゃいけないって、あなたが言ったんじゃない」
彼女はようやく満足がいく具合になったらしく、爪に色の付いた足を不格好に高く持ち上げて、少し見上げるような姿勢をして見せた。足の指の先を、無意味に曲げている。
「水をちゃんと換えてれば大丈夫だよ」
僕は彼女の高く上げた足を、一緒に見つめながら言った。身体の少し硬い彼女は、足を高く上げようとすると、膝が先に曲がってしまう。そのうち、腿の裏側の筋肉がつってきたらしく、高く足を上げるのを止めて、ごろりと背中を付いてしまった。
頭の後ろに手を組んで、口をへの字に結んで仰向けに天井を見上げている。
「あ、蛾の死体」
彼女が、天井の隅を指さしながら呟いた。
僕も、彼女の指さす方を見上げた。そこには確かに、蛾の死体がくっついたままになっていた。もう、ずいぶん古い物らしく、主のいなくなった蜘蛛の巣に絡まったまま、腐りもせずに残っていた。でも、よく見ると表面は、うっすらと、深緑色の藻のようなカビに覆われていた。
「...モス」
彼女は蛾の死体を指さしたまま、そう言って、おかしそうに笑った。
何がおかしいのか、僕には解らなかった。
「...ああ、つまらない」
彼女は持ち上げていた腕を、ばたりと畳の上に落とした。
そして、また口をへの字に結んで、天井を見つめていた。
「あのさ、」
僕はおそるおそる、彼女に話しかけた。
「何で、僕を呼んだわけ?」
今日は、バイトの日だった。彼女が急に、会いたいというものだから、僕は何かあったのかと思い、友達にわざわざ換わってもらって、ここに駆けつけたのだ。
「...悪かった」
彼女は、目だけを僕に向けて謝った。
「悪気は、無いの」
つまらなそうに、また天井を向いた。僕よりも、天井を見ていた方が、未だ飽きないらしい。
彼女はやがて、静かに目を閉じた。
キスでもしろ、と言うように、口を半開きにして見せている。
僕は戸惑った。
さっきから、気になっていたんだ。
カメが、僕らを見ていた。
「...ねえ」
僕は恐る恐る彼女に呼びかけた。
「...ん?」
半開きの口が答えた。
「...カメが、見てるよ」
彼女は、ふと、目を開くと、身体を半分起こしてカメを転がしておいた方を見つめた。しかしカメは、彼女が見つめる頃にはもう向きを変えていて、そっぽを向いたまま、つまらなそうに歩き始めていた。
「...見てないじゃん」
彼女が、ふてくされたように僕を睨み付けた。
見てたんだよ。
僕は言葉を口の中でかみ殺した。
「まあ、いいけどね」
彼女はごろりと横になると、身体の向きを変え、僕に背中を向けてしまった。
「...なんか、つまんないの」
彼女の背中が、少し小さく見えた。もしかすると、泣いているのかも知れなかった。でも、下手に触ると、彼女のことだから、きっと、ペディキュアの乾いていない足で、僕を足蹴にしてしまうのだろう。
僕はそれが怖かった。だから、あえて彼女には触れないようにしていた。
彼女の向いた先には、安っぽい窓枠の嵌められたガラス戸が僅かに開いたままに放置されていた。その向こうから西日が差し込んできて、部屋は妙に明るかった。
「...ねえ」
彼女が向こうを向いたまま言った。
「...もう、帰ってもいいよ」
彼女の小さな背中は、いつまでも小さなままだった。
気がつけば、カメの姿も、もう無かった。
でも、カメが見つめていてもいなくても、彼女の背中は触れるにはあまりに小さすぎて、僕は何も出来ずに、半分伸ばしかけた右の手を、静かに降ろした。
2009年2月21日土曜日
『カタワラ』:18
「ねえ、ちょっと、どこ連れてくの」
車の中でアイマスクをつけられた眞菜がうれしそうに声を上げた。
「また倒れたって知らないよ!」
「心配すんな」運転席の徹さんが言った。「優秀な担当医が二人も付いてる」
「……ぼくは医者じゃないですよ」賢治が言った。
「眞菜の専属医だ」徹さんは眼尻にいっぱいしわを寄せて笑った。
「この間の森での処置は、みごとだったぞ」
あれをやらなきゃ、眞菜はとっくに死んでたかもな。
徹さんはよほど上機嫌なのか、思わず、そんな物騒なことを言ったので、アイマスクの下の眞菜の口元が、風船のように膨れた。
「……医者にあるまじき、デリカシーのなさ」
眞菜はそう言って、見えないはずの窓の向こうを見るように、顔をそむけた。
車はやがて、どこかの場所についた。
賢治は眞菜にあの例のガスマスクをかぶせ、彼女の手を引いて足早に建物の中に駆けこんだ。
玄関先で、彼女の体にわずかについた花粉を念入りに取り除くと、そのまま建物の奥に入った。
「……やっときたあ」
ガラガラと扉を開ける音がして、聞き覚えのある声が眞菜の耳に入った。
「この声、聞き覚えがある……、瀬希?」
瀬希はうれしさに小さな体をいっぱいに伸ばして、ひとみをらんらんと輝かせた。
「マナマナ!ひっさしぶりい!中学校以来だね!」
見えもしないのに、瀬希は眞菜の顔の前で手を振った。
「早く、瀬希の顔が見たいんだけど」眞菜が言った。「……まだ、とっちゃダメ?」
「もう、いいよ」賢治が言った。
眞菜は恐る恐る、アイマスクを取った。
そして、はっと、息をのんだ。
目の前にあったのは、大きな柳のように流れる、枝垂桜だった。
そこは、かつて彼らの学んだ、小学校の理科室だった。窓も大きく、枝垂桜にも近いこの場所は、彼らが“花見”をするにはうってつけの場所だった。土日の連休中で、小学校に他の児童の姿はなかった。彼らは、その日当直だった知り合いの先生に頼んで、少しの間、ここへ入れてもらったのだった。
賢治と瀬希は、あらかじめこの部屋をきれいに清掃し、眞菜の家から持ってきた空気清浄機をかけっぱなしにして、昨日から準備していたのだった。
桜は、理科室の大きな窓いっぱいに、桃色の花をつけた枝を揺らしていた。そよ風が吹くと、その枝先から、零れ落ちる滴のように、花びらが舞い散った。
明かりを消した薄暗い理科室の窓から見えるその光景は、さながら、スクリーンに映る映画のワンシーンように、眩しく彼らの瞳に焼き付けられた。
「……満足した?」
眞菜の隣に立った瀬希が、下の方から、眞菜の顔を覗き込んだ。
「……ええ」
眞菜は涙をいっぱいにためた目で、その光景を見つめていた。
賢治はそれを見て、うれしそうに微笑んだ。
「……なんか、こうしてると、思い出すね」
瀬希が言った。
「小学校の時、みんなで、あの桜の下で、お花見、やったっけね」
「……あの時、一緒にいたのは、瀬希だったっけ」
眞菜が言った。
「もしかして、忘れてたの?」
瀬希があぜんとした顔で眞菜を見つめた。
「……ひどいよ、マナマナ……」
「そういえば、桜に気を取られて、ちゃんと見てなかったけど、」
眞菜がじっと瀬希の顔を見た。
「……ずい分、大人っぽくなって……、“きれい”になったんじゃない?瀬希」
瀬希の顔がみるみる喜びに満ちた。彼女は思わず、眞菜に抱きついた、小柄な彼女が抱きついても、肩ほどまでも頭が届かなかった。……親にじゃれる、子供みたいだな。脇で見ていた賢治は苦笑を浮かべて一人思った。
「……賢治」瀬希に抱きつかれたままの眞菜が、賢治の方を向いた。
「……薫さんは、どうなったの」
薫はそのころすでに、他県の大学に通うため、引っ越してしまっていた。本当は瀬希も賢治も引っ越しは既に済んでいたのだったが、この桜が咲く時期に合わせて、一度帰ってきていたのだった。
「……声かけたんだけど、新しい生活の準備で、いろいろ大変だから、今回は、ごめん、てさ」
賢治はそう、眞菜に伝えた。
「……そう、か」眞菜は残念そうに言った。
「……一度、ちゃんとお話ししてみたかったな、彼女とは」
眞菜は、桜に目をやった。二羽のモンシロチョウが、校庭の隅をじゃれあいながら、過ぎて行くのが見える。
校庭の隅の菜の花が、左手から右手へ流れる風にたなびくように揺れた。
「似てると思うんだよね。彼女」
眞菜は窓を見ながら言った。
「賢治からの話を聞いてるとさ、彼女、あたしに、よく似てるなって、思えた」
「……どういうところが?」
眞菜に抱きついたままの瀬希が、不思議そうに眞菜を見上げて尋ねた。
「なんだか、せっぱつまってるところ」
眞菜は困ったような表情を顔に浮かべて言った。
「せっつかれるように、今日を生きているところ、と言えばいいのかな……。今日を大事に生きてはいるんだけど、未来を見る余裕があまりないって感じが」
「……でも、眞菜の場合は、難しい病気を持ってるって所為もあるだろう」
賢治が言った。
「あいつは何ともないんだけどな」
「……彼女はたぶん、何かをし続けなければいけない人なんだよ」
眞菜が言った。
「ぐらつく足下の上で、彼女は必死にもがいているんだ」
何もしなければ、何も生まれない……。あの日、病院の待合室で聞いた薫の言葉が、ふと彼の頭の中をよぎった。
頼るもののない彼女が、未来を切り開いていくには、今、目の前にあるものと、格闘していくしかなかった。それは、先行きの見えない不安な生き方ではあるだろうが、賢治はひどく、それをたくましいと感じた。
「俺にはできないな、ああいう生き方は」
賢治が言った。
「そうだね」眞菜が言った。「……私も、見習わなくちゃな」
「……なあ、眞菜?」
急に改まったような賢治の語りかけに不意を突かれたのか、眞菜が、えっ、と驚いたような声を上げた。
「まだ、ケーキ屋さんになりたいと思ってるか?」
彼女はおかしそうに、ぷっと吹き出した。
「……そんなこと、まだ覚えてたの?」
恥ずかしそうに笑った。
「……もう私は、忘れてたよ」
「……なって、くれないかな」賢治が言った。
眞菜は、もう一度、えっ?、と小さく声を漏らした。
「……俺の、いつか開く喫茶店で、眞菜の焼くケーキを出すんだ」
それは、眞菜が初めて豆腐入りのケーキを作った日から、賢治がぼんやりと温めていた構想だった。賢治の開く田舎の喫茶店で、彼女がケーキを焼く。彼女の作る、アレルギー患者でも安心して食べられるケーキが店のメニューに並んだら、どれほどいいだろうかと、賢治は思った。アレルギーのある人も、無い人も、同じテーブルを囲んで、同じケーキをつつくことができるのだ。眞菜が夢に見た『あたりまえ』を実現できる小さな貢献ではないかと賢治は思った。
その提案を聞いて、眞菜は照れたように微笑んでいた。
そして、また、桜の方に向き直った。
「……早く帰ってこなきゃだめだよ」
眞菜が言った。
「賢治のお母さんみたいに、私は長くは待てないからね」
……おう。と賢治は小さな声で言った。
眞菜は桜を見たまま、照れくさそうに、しかし嬉しそうに、クス、と笑ったらしかった。
「マナマナが、ケーキ屋さん?」
隣で見ていた瀬希が、驚いたように言った。
「……コーヒーも入れられない、マナマナが……」
「瀬希」眞菜が瀬希をふり返った。
「それ、誰に聞いたの?」
眞菜の気迫に驚いた瀬希は、あわてて賢治の背中に隠れた。
「マナの……、お、お父さんに……」
「お父さん……」苦々しそうに眞菜が呟いた。
理科室の扉の向こう側から、一人の人影が、あわてて逃げ去っていくのを賢治は見た。
「賢治」賢治の背中に抱きついていた瀬希が賢治を見上げた。
「……が、がんばってね、これから。応援、してるから」
瀬希は心配そうに賢治を見上げていた。
ああ、お前もな。
賢治はそう言って、昔、そうしていたように、小柄な瀬希の頭をぐりぐりと撫で回した。
瀬希は頭を洗われる子供のような顔をして、ひい、と言って笑っていた。
賢治はふと気になって、窓から外の景色を見た。理科室の窓から見える春の空は青々と晴れ渡っていた。ところどころに浮かぶ綿菓子のような雲が、上空の強い風の流れを受けてか、いつもより早く流れ去っているように見えた。
それは天候の悪化する前兆だと、かつて父から聞いていた。
どんな天気にも、必ず前触れがある。父は幼い彼にそう言っていた。
それを読み取れるかどうかは、どれだけ毎日、空と向かい合っているかで決まるんだ。
空の機嫌を普段気にしてもいない奴に、快晴や嵐の前触れを自然は決して見せてくれないさ。
賢治、毎日怠るなよ。
父は口癖のように、そう言っていた。
普段何気なく身近にあるものでも、何気なく見ていてはだめなんだ。
父はそういうことを言いたかったのだと、今になって彼は解った。
空を流れる雲は次第に、元の丸い形から、細くたなびくような形に変わっていった。雲の底は上端の純白な、綿菓子のような様相とは打って変わって、雷雲を思わせる暗い色を帯び始めていた。
ひと雨、降るかもな。
賢治はまだ青い空を見ながら、ふと思った。
[終]
2009年2月20日金曜日
『カタワラ』:17
「一体、どうして、お前たちがあそこにいたんだ?」
病院の待合室。もう誰もいなくなった広い玄関ホールに、賢治の怒号が響いた。
薫は椅子にすわり、何も言わず、ただ口の先を幾分とがらせるようにして、じっと黙っていた。
「……まさか、お前が連れ出したのか」
ちがう!とでも言うように、薫は、きっと賢治を睨みつけた。
しかし、彼女はそうして目で訴えるだけで、それ以上何も言おうとはしなかった。
「……黙ってても始まらないだろう」
賢治が諭すように言った。「教えてくれないか」
「……私だって、知らないよ」薫がようやく口を開いた。
「ただ、私が眞菜さんの家に行こうとしたら、ちょうど彼女が玄関から出てきたの。マスクにゴーグルって格好で、どこか危ない所にでも行くのかと思った」
所在無げに、膝を動かしていた。
「どこに行くんだろうって思ったから、そのあと彼女についていったの。そしたら、あの木の下のところで立ち止まって……」
何かを、探してるようだった。薫はそういった。
「……でも、結局それを見つける前に、彼女胸をさえてうずくまりだしたの。だから……」
薫はそういって、賢治から顔をそむけた。泣いているらしかった。
「……ごめんなさい、勝手に、眞菜さんちにまで押しかけて……」
彼女の口から、嗚咽が漏れた。
彼はそれ以上、彼女に何も聞けなくなった。
眞菜が、何を探していたのか、彼には心当たりがなかった。だが、それは真菜が倒れていた場所にあったはずだった。
明日、明るくなったら、もう一度行ってみよう。賢治は思った。
「……ねえ、賢治」
泣いていたはずの薫が、賢治を見つめていた。
まだ涙が目尻に、零れんばかりの大きな雫となって残っていた。
「……眞菜さんのこと、どう思ってるの」
賢治は、すぐには答えられなかった。やや間が開いた後、呟くように、
「……幼馴染、だよ」
と、答えた。
「……それ、だけ?」
薫は言った。そして、涙のたまったひとみで、クスリ、と笑った。
「……最低」
薫が賢治を睨んだ。
その瞳には今までよりずっと強い、怒りに似た感情が込められていた。
「彼女がここまで思い詰めていたのに、あなたはまだ、私の前ですら、彼女との関係をはっきり認められないの?……いつまでも、そんな意気地のないこと、言ってるから……」
そういうと、彼女は、制服のポケットから、一個の錆ついた古い缶を取り出した。
封はすでに開いていた。
「……眞菜さんが倒れた木のそばに、転がってたの」薫は言った。
「彼女が探してたのは、これじゃないかってとっさに思ったから……、拾ってきた」
渡された缶の中には、二枚の紙切れが入っていた。
賢治は、紙きれの一つを缶から取り出し、おもむろに開いた。
手紙にはつたない字で、次のようなことが書かれていた。
おっきくなったら
しょうぼうしゃかきゅうきゅうしゃか
おいしゃさんになりたいです
けんじ
それは、幼いころの賢治の夢が描かれた紙だった。
そう言われてみれば、そう言うこともあったかも知れない。賢治はおぼろげながら、思い出した。眞菜と二人、まだ、小学校に入ったか入らなかったかの頃、あの樹の下まで、よく森を探検して、そうして、その時の二人の夢を、紙に書いて、埋めたと言うことが。
懐かしさに緊張を忘れ、彼はそれまで無意識に強ばらせていた顔が、穏やかさを取り戻していくのを感じながら、箱の中に残った、もう一片の紙切れを開いた。それは、眞菜が書いた手紙だった。
おっきくなったら
けえきやさんになりたいです
あと、けんじのおかあさんか、およめさんになりたいです
まな
「……私も、さっき中身読んじゃったの」
薫が言った。
「そうして、思った。……勝てないな、って」
彼女は誰もいない待合室の椅子の上に、ごろりと横になった。飾り気のない白い天井が、彼女の瞳にさかさまに映った。彼女の表情には先ほどの怒りはもう無かった。ただ、あきらめたような、安堵を伴った安らかな表情をしていた。
「離れているとか、手が届かないとか、あなたたちには正直、もう関係ないんでしょう?」
天井を見詰めたまま、誰に言うでもなく薫が言った。
「そういうの、どうしようもなく憧れるんだよね……。私、小さい時から、引っ越してばかりだったから」
体の向きを変えて、彼女は賢治に儚げな背中を向けた。短く切った後ろ髪越しに、彼女の細い首筋が透けて見えた。
「……幼馴染、か」
薫はぽつりと言った。
「簡単に言うけど、それに恵まれない人間だって、いるんだよ……」
言葉尻は、消え入るようだった。
彼は、その時、ふと、いつか夏の終わりに、薫と交わしたくちづけの味を思い出した。
そして、それに対して、動揺以外の心理が浮かんでこなかった自分を思い返していた。思えば、あれも似ているような気がした。どれだけ近くても、届かない、眞菜の差し出す荒れて硬くなってしまった、小さな手に。
触れあっているからと言って、わかり合ったことにはならない。
皮膚の表面から、身体の奥底までの、どうしようもない距離感を賢治は感じた。
しばらく、無言の時間が続いた。
やがて、彼女は向きを変えて、あおむけになった、そして、右の手を、不安から身を守るかのように、そっと自分の腹の上に乗せた。
彼女は楽しそうに笑った。
「……そんな固い絆に、この1年で挑もうとした私を、笑ってくれる?」
彼女は、おかしがって所々吹き出しながらしゃべったので、その言葉は途切れ途切れに賢治の耳に聞こえた。
「……でも、そうせざるを得なかったの」
彼女の表情に、ふと、悲しみの影が浮かんだ。
私には、自分から進んで作ってきた絆しか、無かったから。
彼女はそう言った。
「何もしなければ、何も生まれない……。もともと存在した関係なんて、血縁以外には、私には無いんだよ。仲良くなりたければ、恥ずかしいのをこらえてでも、相手にアプローチしなくちゃいけない。そうやって、みんなそれなりに苦労して、紡いできた関係なんだ」
薫の瞳はしっかりと天井を見据えていた。
もう、涙に濡れた悲しみも、自虐するような笑いも、その表情には無かった。
「……そして、それは、これからも続いていく」
「でも、真菜さんはそれを見つけて、どうするつもりだったのかな」
薫は賢治の方を向いて言った。
「……今更そんなものを掘り返すまでもなかっただろうに」
賢治には、おおよそ察しが付いていた。
眞菜は、この手紙を破り捨てようとしたのではなかったか。
過去の思い出とともに、賢治ともう縁を切る覚悟で、彼女はいたのではなかっただろうか。
気分のすぐれない中、寝室の見飽きた天井を見つめて、彼女は賢治よりも多くの時間、考え続けてきたに違いなかった。自分のこと、そして、賢治とのこと。その結果下した結論が、彼との別れだったのだ。
「……薫が言うように、おれが恵まれていたんだとすれば」
賢治が言った。
「それはある意味、ハンディキャップでもあるのかもしれない。……人と人のつながりを、あまり意識してこなかった。薫みたいに苦労しなかった分だけ、それを大切にしてこなかった。……なんか、そんな気がする」
賢治は、真菜の手紙を錆びついたクッキー缶にもどし、彼の学生服の上着のポケットにねじ込んだ。
『治療中』の赤い明かりが付いたままだった処置室から、ようやく徹さんが出てきた。
いつも見る、着古したスウェットのシャツではなく、上下真っ白な白衣を着て、しっかりとした造りの医療用のマスクも付けていた
「……ようやく、血圧が落ち着いたよ」
顔の半分ほどもある緑色のマスクを取り外しながら、ほっと安堵したように笑った。
「ただ、今回はちょっと重症だから、2、3日は容体が不安定になるかもしれない。……とりあえず今日のところは大丈夫そうだから、君たちはもう帰った方がいいよ」
賢治と薫は、ご迷惑をおかけしましたと、口々に謝って、病院を出た。
薫を家の前まで送って行ったあと、賢治は自転車をゆっくりとこぎながら、考えていた。
もう時間は夜半近くになっていた。町の中央を走る国道とはいえ、時々運送会社の大型トラックが走り過ぎる以外に、車の通りはなかった。
眞菜とは、確かに離れてしまうかもしれない。
賢治は思った。
でも、それが、何だというのだろう。
どんな遠くの海を目指した船も、いずれ、元の港に帰るのだ。
……幽霊船でもあるまいし。賢治はひとり笑った。
港がしっかりしてなくちゃ、安心して旅にも出られない。
賢治は自転車をこぐ速度を速めた。
開けた場所から見える港の全景が、かなたから聞こえる動力機関のベース音に乗せられ、賢治の耳は一瞬、船の甲板で聞く潮騒の音を聞いた気がした。
『カタワラ』:16
「いま、どこにいるんだよ!」
あわてて靴を履きながら、賢治は受話器に向かって怒鳴った。
「……わからない……、どこ?、なんだか深い森の中」
暗闇の森だ。賢治は真っ先にそう思った。
しかし、なぜ、二人があの場所に行ったのか、彼には全く見当がつかなかった。
「……眞菜の様子は、どうだ?」
賢治は放っておけばどこかへ行ってしまいそうな自分の気持を務めて抑えるようにしながら、彼女の容体を聞いた。
「……なんだか、ひどく苦しそう、ぜえぜえ言ってる」
喘息の発作が起こったのかもしれない。賢治はそう思った。
たとえマスクをしていても、原因物質を完全に防ぐことはできないと徹さんから聞いたことがあった。
ほおっておけば、真菜の呼吸はどんどん苦しくなるだろう。
薫に、少しそこで待っているように連絡して、賢治は一度電話を切った。
「……徹さん?」賢治はすぐに徹さんに電話をかけた。
「おう、賢治、どうした」明るい彼の声が聞こえた。
「……眞菜が……、倒れたらしいんです」
電話の向こうで、眞菜の父が医者の顔になるのが彼には分った。
「いま、友達がすぐそばにいるみたいなんですが……、どうも森の中らしくって、……いったいなんで、あんなところに!」
「……まあ、賢治、落ち着け」
徹さんが低い声で彼をいなした。
「森に行く前に、うちに寄ってくれないか。そこに、眞菜の緊急用の吸入薬がある。……それと、新しいマスクを持って行ってくれ」
徹さんは、そのほか、ニ三の処置を賢治に指示した。
「……いいか、賢治、落ち着いてやれよ。……僕もすぐ家に帰るが、それまでは君が頼りだ。特に森の中のことは、誰も知らないんでね」
そして、ややあって、一言、
「……眞菜を、頼む」祈るように、そう言った。
眞菜の家に立ち寄って、徹さんが指示したマスクと、吸入薬を探した。真菜はすぐに帰るつもりでいたのか、家のかぎは空いたままだった。指示したものは取り出しやすい場所にまとめて透明なビニールの手提げ袋に詰めて置かれていた。賢治はその袋を手に提げて、深い森の中に分け入っていった。
太陽はすでに、沈んでいた。
西の残光が、かろうじて森の中に、一本の道を示していた。紅葉は、紫色の夜の気配のなかで、不気味に闇を増すばかりで、風が吹くごとに、その乾いた葉が、かさかさと音をたてた。
「……賢治……」
再び薫に電話をかけると、不安げに彼女が言った。
「……まだ?……、呼吸が、どんどん荒れてきてる……、」
電話の向こうから、かすかに真菜の、ぜえはあ、ぜえはあ、と喘ぐ苦しげな呼吸音が聞こえてきた。
壊れたふいごのようなその声を聞いて、賢治はさらに道を急いだ。
「何か、目印はないか」
賢治は薫に言った。
「……目印……」賢治に言われて、薫はあたりを見回したようだった。しかしすぐに
「……そんなものないよ。この暗い森で、何を目印にすればいいわけ?」
取り乱したような声が聞こえてきた。
「……何か、些細なものでもいいんだ」
賢治は努めて冷静に言った。「……頼む」
薫は再び気を静めて、あたりを見回したようだった。しかし、彼女には目印になるようなものは見つけられなかった。
「……なんにもない……、なんか、葉っぱのすべすべした、変な木の下にいるってだけ」
「葉っぱの、すべすべした……」
賢治はそれを聞いて、はっと思い当った。遠い記憶をさかのぼった。秋になっても葉を落とさない、すべすべの葉っぱを持つ木。それは森の中に、複数生えていたが、真菜と彼が何度も通ったのは、そのうちたった一本だった。
……あの、タブの木の下だ。
「……待ってろ、薫。わかった」
賢治の口元に思わず笑みが浮かんだ。彼の足は速度を増して、暗がりに沈む森を駆けた。
「賢治!」
暗がりの中から、袋を持った賢治が飛び出してくると、薫は驚きと、喜びがないまぜになった顔をして、思わずそう叫んだ。
眞菜は、薫の膝にもたれかかるようにして、すでにぐったりとしていた。
苦しそうな真菜の息が、マスク越しに聞こえた。
賢治は急いで袋から、吸入薬を取り出すと、眞菜の頭にそっと大きな袋をかぶせて、余計な花粉が入らないようにした。暗くなってきたので、そして、その中で真菜のマスクを外し、吸入薬を彼女の口にあてがって、薬剤を気管にそっと送り込んだ。
しばらくそうした後、彼は彼女に、家から持ってきた新しいマスクをつけた。それは、作業用の防塵マスクのようなもので、口の先に、武骨な円形のフィルターがついたものだった。その形は、映画で見た、ガスマスクによく似ていた。彼女にとって、この世界は、ここまで住みにくいものなのか。賢治はとっさに、そんなことを思った。
「……早く行こう」
一通りの処置を終えると、賢治は真菜を背負って森の道を走り始めた。気を失った眞菜は、賢治の肩にしがみつくこともできず、何度もずれ落ちそうになった。薫がやがて、後ろから眞菜の両肩をそっと支えた。二人はそうして歩調を合わせるようにして、前へ前へと進んだ。
日はすっかり落ちていた。森の外よりも、森の中は、夜が早くやってきた。道はもう、ほとんど見えなかった。かろうじて森の木々の隙間から洩れて来る月の明かりだけが、彼らの頼りだった。森の出口は、太陽の明かりでのみ、彼らに認識された。こう弱い光の中では、すぐそばに出口があったとしても、それが出口と認識されるのは難しかった。正しいはずの道で、彼らは何度となく迷った。そうして、そのたびに、背中の真菜のすっかり冷え切った手脚が、彼の心に重くのしかかってきた。
そのとき、ぽつりと小さな光が、彼の視野に飛び込んできた。星というには明るい光だった。
「……車だ」
賢治が呟いた。
「……徹さん!」森の出口で待ち構えていた、徹の車のヘッドライトだった。
2009年2月18日水曜日
『カタワラ』:15
家に帰っても、賢治の気持ちは、囚われたままだった。
眞菜とのことがいつまでもぐるぐると頭の中を廻っていた。
夢なんて、無いよ。
あのときの眞菜の一言が、気になって仕方がなかった。
本当に、あいつには夢なんて無いんだろうか。
賢治は思った。
いくら、しんどい病気だからといえ、生きていれば、誰だって、小さな夢の一つくらい描くものではないのだろうか。
もし、本当に、今の眞菜に夢がないのだとしたら……。
彼はそれを考えると、背筋がぞっとした。
夢の描けない生活というものの、背後に寄る辺のない、せっぱ詰まった心境を、一端だけでも、かいま見た気がしたからである。
眞菜に、夢を与えなくちゃ行けない。
彼は強くそう思った。今のままでは、いくら何でも、悲しすぎはしないか?今の眞菜は、いったい何のために生きているというのか。ただ、いつか年取って、死んでしまうのを、待っているだけじゃないか。
同じ高校生で。
賢治は思った。
同じ高校生で、それは、あまりにひどすぎる。生きると言うことの価値を、誰よりも知っている人間が、どうして、誰よりも死に近い場所にいなくてはいけないのか。どうして、夢から遠い場所に、居なくてはいけないのか。
眞菜は彼女の言うように、普通の世界の『カタワラ』にいて、どれだけ手を伸ばしても、それに対して何も出来ない存在なのかも知れなかった。それならば、世界の方から、彼女に手を差し伸べることは出来ないのだろうか。彼は思った。
それが、自分が傷つけた眞菜に出来る、最大の罪滅ぼしになると彼は思った。そして、彼の中には、おぼろげながら、すでに、そのあてもあった。
だが、彼と彼女の関係は、今、すっかり冷え切っている。
何を始めるにせよ、まず、これをどうにかしなくてはいけないと考えていた。
「……賢治、いつまで寝てるの」扉の向こうから、母親の声がした。
「……悩み事」賢治は答えた。
「また、眞菜ちゃんのこと?」
扉の向こう側で、母親が溜息を吐くのが聞こえた気がした。
「なんだかんだ言っても、仲良しなのね、あなたたち」
「そうかな」賢治は母の言葉に素直に同意できなかった。
「……お互いを無視できないって言うことは、仲良しって事なの」
母は言った。「離れていても、相手のことを考えてるって事も」
「……でも、心配しているのは俺だけかもしんないよ」賢治は言った。
「あいつはもう、あいつと俺が仲直りしても、意味がないって言ってた」
扉の向こうの母は急に静かになった。
しばらくの間、沈黙が続いた。
「……賢治、一つ質問なんだけど」ややあった後、母が言った。
「あなたはもし、片思いの相手が、別な誰かを好きになりかけていることを知ったとして、」
「その別の誰かと一緒になる方が、その人のためになるって解った場合に、……その人を、諦めたり、する?」
「……わかんないよ、そんなの」
賢治はぶっきらぼうに答えた。
「……眞菜ちゃんは、今、そう言う心境なんじゃないかな」母は言った。
「あなたは、あの子があなたを思う気持ちを、未だに信じられないの?……もう10年以上も、あの子はあなたのすぐ傍で、あなたを見つめていたのに」
「……でも、これからは違うだろ」賢治は言った。
「眞菜の言うように……、これからはおれとあいつの距離はもっと開いてしまうんだ」
「……距離って、そんなに大切なものなのかな」母が言った。
「……あなた、前に、どうしてお母さんとお父さんが一緒になったのかって、聞いたよね」
賢治は思い出していた。随分前に、そんなことを聞いた気がした。しかしその時、母は、何も答えなかったはずだ。
「……お父さんに告白された時ね、実はお母さんには、別に好きな人がいたの」
母は小さな声で言った。
「……片思いだったけどね、結構真剣だった。お父さんはもう船乗りだったし、滅多に帰ってこないことも解ってた。お母さんはすぐにでも、断ろうと思った」
「でね、断りに行こうと思って、お父さんの住所のあった宿舎に行ったら……」
お父さん、もういなかったの。くすくすと笑いながら母はそう言った。
「……次の航海に出た後でね、帰ってくるのは半年先だって言われた。お母さん正直、迷った。お父さんに答えを返さないまま、今好きな人に告白しちゃって良いものかって。通信手段も満足にない時代だったしね。……結局それが気になって、お母さん告白に踏み切れないまま、半年経っちゃったの」
「そうして半年後、お父さんの船が帰ってきたって聞いて、お母さん、港まで出迎えに行った。……気がついたら、他の船乗りの奥さんと、同じことしてたんだよね。お父さんがタラップから下りてきて、きょとんとした顔でお母さんの顔を見たから、すぐ伝えたの『おかえりなさい』って」
お父さん、うれしそうににっこり笑って、ただいま、って言ってくれた。母が言った。
「その時、お母さん思ったんだ。離れるのも、悪くないかなって。……いつも近くで見ていたら、決して気がつかないようなことが、離れてみると、よく見えたりするんだなって」
母は扉の向こうで、しばらく黙りこんだ。何かを思い出したようだった。
「……帰ってくる度に、お父さんも私も、少しずつ変わってる。結婚して最初の航海の後、帰ってきたら、お父さんは6ヶ月の男の子のお父さんになってた」
母が笑っているのが、賢治には分った。
「本当に大切な関係は、離れることで薄まったりするものじゃないんじゃないかな。むしろお互いのことが心配になって、傍にいる時よりずっと近くに、相手を感じたりするものなんじゃない?……お母さんはそう思ってるよ」
シチューが冷めるから、早く来なさい。
そう言って母は扉の向こうから去っていった。
賢治は母の話を聞いたあともしばらく、あおむけにベッドの上に寝転がったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
眞菜にいくらでも逢える季節と、そうでない季節と、彼女のことを真剣に考えていたのはどっちだったろう。
彼はそんなことを考えていた。
やがて賢治は、むっくりとベッドから起き上がると、母の作ったシチューの香りに誘われるように、茶の間に赴いた。
健介は先に卓について、貪るようにシチューを食べていた。
賢治も炬燵に入って、母のよそってくれた皿と向かい合った。
その時、賢介が手に握りしめていた古い船のおもちゃが、彼の目にとまった。どこかで、そのおもちゃを見たことがあるような気がしていた。だが、それがいつ、どこであったのか、彼は思い出せそうになかった。
それは、随分古い思い出か、あるいは些細な思い出であったようで、なかなか具体的な像となって彼の脳に浮かんでは来なかった。それ以上、そのことを考えても仕方ががないような気がした。彼は気を取り直し、皿によそわれたものを食べようと、添えられた大柄なスプーンを手に取った。
それはちょうど、ラジオで船舶情報が配信される、直前の出来事だった。
ズボンのポケットの中で、唐突に彼の携帯電話が、呻くように振動し始めた。
彼がポケットから取り出すと、携帯の表の小さな液晶画面には、『矢崎薫』の名が表示されていた。こんな時に、どうしたんだろう。何やら得体の知れない、不安なものを感じ、彼は何故か気が急くのを不思議に思いながら、二つ折りの携帯を開いて、その電話を受けた。
「……賢治!」
案の定、と言うべきか、耳元で聞こえた薫の声は、明らかに気が動転していた。
「早く来て!……眞菜ちゃんが、倒れてる!」
『カタワラ』:14
「ねえ、けんすけくん」
歩が賢介に話しかけた。「おっきくなったら、私達、結婚しない?」
「おう!」賢介は、意味もなく胸を張った。結婚すると言うことは、逞しいことだと彼は思っていた。
「じゃあさ、約束しようよ」歩が言った。
「紙に書いて、地面に埋めるの。……大人になったら、開けるのよ」
賢介と歩は、習ったばかりのひらがなで、小さな紙に結婚の約束を書いた。
ぼくたち
わたしたちは
おっきくなったら
けえっこんしまあうす
2年1くみ いとうあゆむ
1ねん1くみ のぐちけんすけ
「……できた」歩がうれしそうに瞳を輝かせた。「どこに埋める?」
「あゆむちゃんちの庭」賢介が言った。
「だめだよ!」少女はが大きな声で否定した。「うちのマリが掘り返しちゃう」
歩の家にはマリという、ちっとも言うことを聞かない大きな犬がいた。朝、学校に行く前に、彼女がマリに引きずられるように散歩させている姿を、賢介はよく見ていた。
「ほかに、ない?」
歩は大きな瞳をくりくりさせて、賢介の顔をのぞき込んだ。
賢介は彼女にじっと見つめられるのがうれしくて、しばらくうんうん唸って考え込む振りをしていたが、やがて、
「……まっくら森」と、さも、ようやく思いついたかのように言った。
「うん!それいいね!」歩も賛成した。
賢介の手を取り、「じゃあ、いこう」と言って、まっくら森に向かって二人は駆けだした。
森の中の道は、歩と賢介の頭の中にすっかり入っていた。
彼と彼女にとって、ここは唯一の遊び場だった。大人の入り込めない、子供だけの庭。見たことのない地味な色の花が、うっそうと茂る林冠から漏れ出た光の中に一輪、花を付けていた。
森の木々は燃えるように色づいていた。
彼らは秋に迷い込んでいた。
いつも知っている道が見知らぬ道のように彼らの前に展開し、そして彼らの背後に消えていった。目の回るような秋の回廊を、彼らはそれでも、子供に備わった本能なのか、臆することなく進んで行った。
大人にはかぶれるから触ってはいけないと言われている、赤い実をびっしり付けたマムシソウが、道を指し示す行灯のように、所々にのっそりと立っている。降り積もった厚い落ち葉が彼らのくるぶしまでをしっかりと覆い尽くし、踏まれる度にかさかさと、乾いた泣き声を上げた。
「……このへんで、いいんじゃない?」
しばらく突き進んだ後で、歩の足がぴたりと止まった。
その背中を追いかけてきた賢介もその隣に立ち止まって、彼女が見つめるものと同じものを、並んで見上げた。
それは大きく古いタブの木だった。
他のほとんどの木々がすっかり色づいていた中で、その常緑の樹は、てらてらと光る、冬でも枯れることのない緑の葉を場違いに身に纏っていた。
賢介は、手近にあった棒きれを拾って、そのタブの木の根元の、出来るだけ土の軟らかい場所を選んで、掘り返し始めた。歩は家からクッキーの空き缶を持ってきていて、その中に先ほどの結婚の約束を書いた手紙と、一番お気に入りの蒼いビーズの髪留めを入れていた。
「……けんすけ君、私が引っ越しても、忘れないでいてくれる?」
歩が、熱心に木の根元を掘り返している健介の背中に心細そうに問いかけた。
彼は聞こえないかのように返事もせず、作業を黙々と続けていた。
「……あたしね、実はちっともさびしくないんだ」
賢介から返事がないことは見通していたかのように、歩は続けた。
「だってさ、賢介君、ここにいるんだもの」
歩ちゃんは自身の胸のところに手をあてた。
「おうちで一人いてもさ、気がつくと、頭の中の賢介君とお話ししていたの。にこにこしてるから、お母さんに笑われちゃうくらい」
歩は、恥ずかしそうに身もだえしていた。
「……けんすけ君は、もう私の心の中にも住んでるんだ。だから、ちっともさみしくないのかも」
賢介はそれでも、歩ちゃんに背中を見せたままだった。
ざり、ざり、という音を立てて、彼は躊躇する様子すら見せなかった。
「……母ちゃんが」
そのとき、彼は歩に後ろを見せたまま、思い出したように、ぼつりとつぶやいた。
「触っても触れないところに、大事な人は住んでるって言ってた」
泣くのをこらえていたのか、彼の声はいつもよりずっと控えめだった。
「……だから、父ちゃんはいつも、母ちゃんや、おれや、にいの、カタタラにいるんだって」
「カタタラ?」少女は思わず首をかしげた。しかし、それは賢介の方からは見えなかった。
「……難しくてわかんないけど」
歩は一人笑った。
「でも、手を伸ばしても届かないけど、もう、いつもつないでいるような、そんな感じだよね」
歩は何かを思い出したのか、再び、恥ずかしそうに俯いた。そうして、
「……一人で歩いていても、お家まで、ゆっくり帰りたくなっちゃうな。……けんすけ君と居る時みたいに」
と、寂しそうにぽつりと呟いた。
「けんすけ君、掘れそう?」
歩は急に声の調子を変えて、賢介の手元をのぞき込んだ。
しかし賢介はすでに掘るのを止めていた。枝を持たない方の手に、何かをしっかりと掴んでいた。
「……なにか、あったの?」
賢介は、歩に、手に持っていたものを差し出した。
小さなクッキーの空き缶だった。
空き缶はすっかり錆びて、泥だらけになり、元の絵柄は解らなくなってしまっていたが、所々、元々塗られていた蒼い色の塗料を鮮やかに残していた。
「……なに、これ」
「埋まってた」賢介が言った。
「……誰かの、落とし物?」
あけてみようよ、と言うのが早いか、賢介はそのクッキーの空き箱を、小さな平たい石でこじ開けた。
「……?あ、お手紙」歩が言った。
箱の中には、小さな紙に書かれた手紙と、船のおもちゃが入っていた。
歩は、箱に入った小さな手紙を読み始めた
「おつきくなつたら……。……字が読みにくい」
賢介も彼女の隣から覗き込んで、その文字を読もうとしたが、だめだった。
色の薄い鉛筆で書かれた文字は、森の底の薄暗い光の中では、よく見えなかった。
「はやくしないと暗くなっちゃうよ」
手紙を読もうと、じっと見つめていた彼女は、ふと我に返り、林冠から見える空を見上げて、不安げに呟いた。太陽はすでに、西に陰り始めていた。森の底には光りの届かない暗がりが、所々にできはじめていた。
森に、夜が生まれつつあった。
賢介は、その古い缶をタブの根元に放り出すと、彼らの持ってきた新しい缶をその場所に埋めて、しっかりと土を覆い被せた。
「……よし」賢介が言った。
「……暗くなってきたから、もう帰ろう」歩が言った。
歩が手を差し出すと、賢介は待っていたかのようにその手を勢いよく掴んだ。
そして二人並んで、2匹の子鼠のように、もと来た道を駆け足で戻って行った。
2009年2月17日火曜日
『カタワラ』:13
「……もう、いいよ」不機嫌そうに眞菜が言った。「……気にしてない」
「ごめん、……眞菜を、傷つけるようなことを言ってしまって……」
玄関先で、賢治は頭を下げた。
賢治は眞菜の家に、謝りに来ていた。
そろそろ夏も終わりになり、秋の草花がぽつりぽつりと見られるようになった。
眞菜も、外出を控えるようになってきていた。秋はブタクサなどのイネの仲間の植物が良く花粉を飛ばす。それは眞菜にとっては、時にスギの花粉以上に、大きな影響を与えていた。中学の時、卒業アルバムの写真にほとんどのらなかったのも、この秋の花粉のためだった。
「……傷つけたって、本当に思ってる?」疑いのありありと籠もった目で眞菜が言った。
「……賢治、いつも本当に口先だけなんだから」
「……ホントに、そう思ってる」賢治は言った。「そうでなかったら、わざわざ出向いてまで謝りに来ないよ」
賢治はまず眞菜に電話をかけてみたのだが、案の定、彼女は電話に出なかった。
こういう時は、彼女が本当に怒っている時なのだと言うことを、賢治はよく知っていた。家から滅多に出られない彼女にとって、電話にすら出ないと言うことは、関係を完全に遮断したに、等しかったからだ。
彼が彼女の家に謝りに出向いたとき、彼女は、すぐには出て来てくれなかった。
インターホン越しのやり取りが、すこし続いた後、彼女もそれでは言い足りないものを感じたためか、ようやく彼の前に姿を現してくれたのだった。
しかし、目の前に現れた彼女は、彼の予想とはやや違っていた。
賢治は彼女が、明らかに怒っていると思っていたのだが、彼女は意外にも冷静だった。むしろ、観察するような疑念を含んだ瞳を彼に向けて、彼女は玄関の上がりのところに突っ立って、彼に向かっていた。
「……賢治」
彼の言葉を受け取って、しばらくの沈黙した後、眞菜が口を開いた。
「……わざわざ来てくれたのはうれしいけど、もう、帰ってくれない?」
「どうして?」
賢治は自分がうろたえているのを真菜に見せているのすら気がつかないほどに動揺した。
「なんか、気分が滅入るんだ」
眞菜が身体を縮めて身を震わせた。
「……それに、なんか今日は花粉が随分飛んでる気がするし」
くしゅん、眞菜は大きなくしゃみをした。眞菜は常に携帯しているポケットティッシュで鼻をかむと、手近なところから大きなマスクを取り出し、顔を覆った。
「……ほらね。それに……」
「それに?」
「……賢治さ、そうまで頭下げて、私と仲直りする意味、あるの?」
眞菜はさらりと言った。
「……どういう意味だ」賢治には理解できなかった。
「……私と賢治は、住む世界が違うんだよ」眞菜が言った。
「賢治はこれから、大学に行って、多くの人と知り合う。社会の一員になって、それを支えていく。……でも、私は、こうして家の中で、春と秋に怯えて生活していくの、……持って生まれた、命が尽きるまで」
眞菜は後ろを向いて、マスクをずらし、もう一度鼻をかんだ。
もう何度もそうしていたためか、鼻の奥の血管が破れたらしく、ポケットティッシュに少し血が滲んでいるのが賢治にも見えた。
「……正直、私ともう仲直りしなくても、あなたの人生には、なんの影響もないとは思わない?もっと、ためになる人と、賢治は知り合っていくべきなんだよ」
……薫のことを言っているのだろうか。賢治には、眞菜の心の内の声が聞こえるようだった。
だが、彼女は単純に薫に嫉妬しているというわけでもなさそうだった。もし彼女が嫉妬しているとすれば、自分を含めたすべての、「普通の」高校生なのかもしれない。そう彼は感じた。
「……もう、今日はいいや、……私だんだん、だるくなってきた。薬飲んで、もう寝るね」
眞菜はそう言って、玄関の内側のガラス戸をぴたりと閉めた。奥の寝室に歩き去っていく、眞菜の小さな素足が見えた。
眞菜が再び現れることはもう期待できなかった。
賢治は仕方が無く、眞菜の家を辞して玄関の戸を閉めた。
彼には、もう彼女と仲直りする当てがなくなっていた。この様なことは、初めてと言っても良かった。今までであれば、電話をするか、会いに行くかすれば、結局仲直りして、2日と立たないうちに、元通りの関係に戻ってしまっていた。だが、今日の眞菜はそのいつもの眞菜ではなかった。
彼と彼女の関係に、二人の持って生まれた、境遇の違いというものが重くのしかかっているのを賢治は始めて意識した。高校の三年生は進路を決める時期とよく言うが、進路を決めると言うことは、過去のものとの決別も意味していると言うことを今頃になって思い知らされた気がして、彼は恐ろしさに身が震えた。
今まで、身体の一部のように身近だった眞菜の存在が、手の届かないほど遠くに行ってしまったような気がしていた。考えてみれば、彼は眞菜との距離をこんなにも意識したことはなかった。逢えない時期であっても、彼にとって眞菜は常に傍にいる存在だったから。それは、眞菜にとっても同じはずだった。その眞菜が、仲直りする必要など無いと、言い切ったのだ。
それは、体の一部を、ほとんど永久的に失ったに等しい喪失感だった。
これからどうしていこうという、らせんを描いて落下するような狂おしい感覚を賢治は感じた。
彼には、彼女の思いは全く理解できなかった。ただただ、彼女が遠くなっていく感覚に怯えていた。
2009年2月14日土曜日
『カタワラ』: 12
「……ひっさしぶりい。薫」
薫が少し遅れて席に着くと、瀬希はカウンターに向かって、水、もう一つお願いします、と叫んだ。
背の高い男性が、彼女らの座るテーブルの傍までやって来て、薫の新しいコップを用意し、慣れた手つきでコップに水をつぎ足した。薫はアイスコーヒーを注文した。
「あつかったでしょう」
向かいに座った瀬希は、すっかりうなだれていた。
「家、エアコン壊れてて、いられないんだよね……。全く、もう9月だって言うのに、この残暑は、何?」
彼女は肩の大きく出た服を着て、下も短いパンツをはいていたが、小柄な彼女が着ると、まるで少年のようだった。とび色の瞳をぐりぐりと動かして久しぶりに会った薫を見つめていた。
「薫、本当に久しぶりだよね、……3年になってクラス代わってから、ほとんど会ってないでしょう?前は、飽きる位会ってたのに」屈託のない笑顔を浮かべて瀬希は言った。
「……ホントに」薫も笑った。
「でも、しばらく会ってなかったから、瀬希の顔見るとなんだかほっとするよ」
「へへ」瀬希はうれしそうだった。「……あたしって癒し系だから」
卓の上のオレンジジュースの氷が、からりと鳴った。
「……薫、もしかして、なんか疲れてない?」
瀬希は机に顎を載せたまま心配そうな顔で薫を見つめた。「……どうかしたのの?」
「……べつに」薫は言った。「……まあ、受験生だからね。お互い様じゃない?」そう言って笑いかけた。
「……だね」瀬希が言った。「私も毎日、もううんざりだ」
結露してすっかりびしょ濡れになったグラスを掴んで、瀬希はストローからオレンジジュースを飲んだ。
「勉強、してる?」瀬希が尋ねた。「結構しんどくない?モチベーション保つのって」
「……まあね」薫が答えた。
「誰か、一緒に勉強してくれるといいんだけど。誰も美術系なんて受けないだろうしな……。」
「実技試験があるんだっけ。それもまた、大変だよね」薫が言った。
「センター受けるのは一緒なんだけどね」瀬希が言った。「……受験生はみんな自分勝手になりがちだから、私のことなんか構ってくれない」めそめそと泣くような素振りを見せた。
「楽しいだろうにね、瀬希がいたら……」薫が慰めると彼女は、
「……そう言う、薫も一緒になかなか勉強してくれないくせに」恨めしそうに薫を見た。
「……ごめん」薫が言った。
瀬希はうなだれた様子の薫を、子供じみた大きな瞳をまん丸に広げて、珍しそうに見つめていた。
「……やっぱり、どうかしたの、薫。……元気ないよ」
薫は何も言わなかった。
これじゃあたしも、賢治と同じだな。心の内でそう思った。
「……まあ、いいや。乙女にひみつは憑き物だもんね」
瀬希は思い出したように、隣に置いたスヌーピーの鞄から、一冊のアルバムを取り出した。
「はい、これだよ。うちの中学のアルバム」
薫はそれを受け取ると、早速ページを開いた。
瀬希は立ち上がって、反対側からそれを眺めた。
幾分緊張した様子の生徒の写真が並んでいた。しかし、その数は決して多くはなかった。たった2クラスしかないんだ。薫は驚いていた。全部併せても、40人ちょっと……。
「少ないでしょう、うちの中学」瀬希が言った。
「今、もっと少ないんだ。一学年1クラスしかないんだよ……。ほおら、これ、あたし!」
瀬希が指さしたところには、制服を着た瀬希の姿があった。
「……今と、あんまりかわらないね」薫が苦笑した。
「ええ!そんなこと無いよ、随分純朴で、素朴な感じじゃない?」瀬希は怒って身体を起こした。
「……そうだね……、変わらず、“かわいい”って事だよ」薫は苦し紛れにそう言った。
「……言われ飽きたな“かわいい”は」瀬希が言った。
「一回でも良いから、“キレイ”って言われたい……」
薫は瀬希の言葉に構うことなく、生徒の顔の並んだページをめくった。
そして、その隅の名前に目がとまった。
「……これ、賢治?」
構ってもらえなかった瀬希は、一人でふてくされていたが、薫の驚いた様子に、首を伸ばしてアルバムをのぞき込んだ。
「そう。賢治も、この頃、かわいかったな……。今はもっとヒゲヒゲしてるけど」
薫は何も言わず、未だあどけなさの残る賢治の写真を見つめていた。
「そう言えば、薫と賢治って、同じクラスだよね」瀬希が言った。「どう?奴」
「……どうって?」薫が顔を上げた。
「惚れた?」いたずらっ子そのものの目で、瀬希が言った。
「……なわけ、無いじゃない」薫は表情も変えず否定した。「ただ、知ってる名前があったから……」
「ふーん」疑うような目で瀬希が言った。「……夜中に、急にアルバム見たいって電話してくる位だから、てっきり、賢治のことでも、詳しく知りたくなったのかと思ったよ」
そうして、彼女はくたびれたように頬杖を突いた。
薫は再び熱に浮かされたように、手元に広げられたアルバムをのぞき込み始めた。
瀬希はそれを退屈そうに見つめていた。そして、やがてそれにも飽きてしまったのか、一言、
「大人って、難しいね……」、
と呟いて、明るい日差しの照りつける、窓の外の何もない往来を、光の消えた琥珀のような瞳でぼんやりと見遣った。
アルバムを見つめる薫の耳には、もうその声すら、入ってはいないようだった。
……賢治と同じクラスの女子は、全部で、やっぱり11人いる。
彼女は思った。アルバムをぱらぱらとめくっていて、彼女は妙な事実に気がつきかけていた。
手渡されたアルバムの後半には、行事ごとに、クラスの集合写真が延々と続いていた。
しかし、その中には、どれも女子が一人だけ、常に足りなかったのだ。
「……あのさ、瀬希」
「ん?」ストローを咥えたまま、瀬希が返事した。
「一人、登校拒否だったの?」
「……?うちで?登校拒否?それは、無いよ。だって、和気あいあいだったもん」
「でもさ、賢治のクラスの女子、いつも一人少ないじゃない?」
窓の外に降り注いでいた強い太陽の光が、はぐれ雲に遮られたのか、一瞬翳った。
いつもは高校生らしくもない、子供のように無邪気な瀬希の表情に、年齢に相応の複雑な悲しみを伴った、影のようなものがしめやかに差したのを、その時、薫は確かに認めた。
「……マナマナ、だね」
「マナマナ?」
瀬希は薫の持っていたアルバムのページを始めの生徒の個人写真のページに戻した。そして、一人の少女を指さした。
「この子が、マナマナ」
彼女の指さした少女の写真は、他とは明らかに違っていた。
卒業を控えた時期の周りの写真に比べ、その表情は不自然なほど幼かった。
なにより、他の生徒の写真がみんな冬服だったのに、彼女だけは、何故か衣替え前の夏服を着ていたのだ。
「どうしてこの子だけ、半袖なの」薫は尋ねた。
「だって、マナマナ、倒れて入院してたから。ちょうど写真取る時、いなかったんだよね。……それ、たぶん、なんか別の時に撮ったやつを、使い回したんじゃないかな」
「この子……、身体弱かったの?」
薫が瀬希に尋ねると、瀬希はとりついた何かを振り払うように首を振った。
「まあね。……小学校に入る前に、東京から、ぜんそくの療養のために来たって聞いてる。都会の粉塵が、どうも身体に合わなかったらしくて……。この子のことに関しては、賢治が一番詳しいよ」
「……どうして?」薫はもう察しがついていた。しかし、確認せずにはいられなかった。
「……だって、仲良かったもん」瀬希が言った。
「……ホントの、幼なじみって、ああいう二人を言うんだろうね」
……やっぱり。
薫は思った。あの日、賢治と別れてから、薫はずっと彼の様子がおかしいことについて考えていた。彼女なんていない、と彼は言っていた。だが、そんなことがあるだろうか。薫にはどうしても、信じられなかった。
彼が彼女と出会う前、中学時代、あるいはもっと前に、誰か付き合っていたひとがいたのではないか。彼女はそう考えた。そしてもしかすると、彼はその人のことを、まだ心の中で強く思っているのかも知れない。彼女の直感は、彼女にそう告げていた。
賢治と小学校からずっと同じだった瀬希なら、きっと事情を知っているに違いない。
そう思うと居ても立っても居られず、昨日の、もう時間は深夜であったのだが、去年までクラスメイトであった瀬希に、咄嗟に電話を掛けてしまったのだった。
「……ありがとう。……これ、ちょっと借りるね」
薫はアルバムを閉じると、瀬希の返事を待つまでもなく、自分の鞄に入れた。
「……薫」瀬希が言った。
「何?」
「……マナマナのことなら……、そっとしておいて上げて」
瀬希は不安そうに言った。
「……なんだか、嫌な予感がする。眞菜は、今、きっと幸せなんだ。でも、その幸せも、賢治が遠くの大学に行っちゃえば、終わってしまうかも知れない……」
薫は、にこりと笑った。
「……解ってるよ、瀬希」
アルバムを入れた鞄を手にとって、椅子から静かに立ち上がった。
「……でも、それは私にとっても、同じ事なんだ」
『カタワラ』:11
……それから、眞菜は彼の前に姿を見せなくなった。
メールしても、返事が返ってこなかった。
電話をしようとも考えたが、もしも受け取ってくれなかったらと思うと、怖くて出来なかった。
賢治は、かろうじて繋がっていた眞菜との一本の細い絆が、ぷっつりと、あまりにあっけなく途切れてしまったのを感じていた。もう何をしても、彼女には届かないという絶望感が、底冷えの夜のように、静かに、彼の体温を奪っていくような気がしていた。
そうして梅雨は明け、季節は夏になった。
「……ねえ、賢治」
薫は心配そうに彼を見つめていた。
邪魔になるからと最近短くした髪を、無意識に掻き上げ、片耳を見せた。
「……ん?」
「どうしたの?」
薫は何も言わず賢治のペンの先を指し示した。
キャップが付いたまま賢治はペンを動かしていた。
「……考え事?」薫は心底心配しているようだった。
「なんか賢治……。時々そうなるよね。大抵、月曜日に。……休日に何かあるの?」
「……なんでもないよ」賢治は笑顔を取り繕って見せたが、薫の表情は晴れなかった。
「なんか心配事があるんなら、私にも相談してよ。……賢治が勉強はかどらないと、私もはかどらないんだから」
「……ごめん」
賢治は素直に頭を下げた。
考えてみれば、彼女が言うように、彼の様子がおかしくなるのはいつも月曜日だった。
それは、眞菜から連絡があるのではないかと期待して、週末を迎え、そしてなんの音沙汰もないままに週末が開けてしまうからに他ならなかった。今週も、何もなかった。そう言う虚脱感を感じながら、ここ数ヶ月の彼の一週間は始まるのだった。
突然、薫は開いていた参考書をばたん、と閉じた。
「……もういい。……今日は、何処か気分転換に行かない?」
「気分転換?」
「そう。賢治がそんな調子じゃ、私まで憂鬱になっちゃうし」
薫は言った。「……責任、取ってもらわないと」
賢治は何とも答えなかった。
薫と学校以外で出歩いたことは今まで無かったし、眞菜との関係がこじれてしまった今、誰かと一緒にいるところを知り合いに見られでもしたら面倒になると思った。
「……それは、勘弁してくれないかな」
恐る恐る賢治は言った。
「……どうして?」薫は不思議そうに尋ねた。
「どうせ、勉強に集中できないんでしょう?」
賢治はそれ以上何も言わなかった。
薫は黙ったまま、賢治の様子をじっと見つめていた。
しかし、いつまで経っても、彼が、彼女の期待した答えを言わないと解ると、やがて、抑えた声で
「……もしかして、賢治、彼女いるの?」
と、彼女の感じていた疑問の本質を突いた。
「……いねえよ」
賢治があまり真面目な顔で否定したので、彼女は思わずぷっと吹き出しそうになって、
「……いるんだ」と、疑うような目でそう言った。
「ねえ、どんな子?この学校の子?」
身を乗り出して彼女は尋ねてきたが、賢治はもう何も言おうとしなかった。
「……つまんない」
言葉とは裏腹に、薫の表情は明るかった。
「……あからさまに口に出して言えないような関係なら、別に良いじゃない。たまには外、行こうよ」
薫は賢治の右の二の腕に手をかけ、立ち上がらせると、そのまま彼のロッカーの前まで連れて行った。
賢治は為す術もなく、薫に促されるままに帰り支度をし、結局、二人連れだって下校した。
高校のある丘を下って少し川沿いを進むと、一軒のクレープ屋があった。
クレープ屋と言っても本業は釣具屋で、その店の一角の釣り客用の食事スペースでクレープのテイクアウトも出来るというだけの店だったが、高校の近くと言うこともあり、学校帰りの生徒がよく立ち寄る店だった。
賢治はそこに着くと咄嗟に、数人見かけた同じ高校の制服を着た生徒を見渡したが、その中に、彼らのことを知っている者はいないようだった。
薫はそこでイチゴの味のクレープを買った。
賢治はクレープの味など、別にどうでも良かったが、とりあえず無難なプレーンを買った。そして、二人は、つかず離れずの微妙な距離を保ちながら、川縁の大きな橋を自転車を押して渡っていった。
まだ溶けきっていない生クリームが、口に含むとアイスシェイクのようにじゃりじゃりと下に触った。クレープ生地はさっきまで凍らせていたのか、冷えすぎていて、硬かった。
橋を渡りきると、二人は、橋のすぐ傍にあった海浜公園の、手入れのあまりされていない、古い木製のベンチに腰掛けた。公園は町の公民館が管理していて、その一角は陸上のトラックになっていた。夏になり、昼間が長くなったこともあって、下校時間はもうとっくに過ぎていたが、太陽はまだ高い位置にあった。
熱せられたトラックがその向こうに見える海を陽炎の中に浮かべていた。
「……でさ、賢治は結局、彼女はいないの?」
ベンチに両脚をぴんと伸ばした姿勢で座って、薫はまだ、その話題を気にしていた。
「……しつこいぞ。……もういい加減にしろよ」
賢治は不機嫌そうに言った。
「……良いじゃない。興味あるんだから」
薫は怒ったように言った。「そうやって聞かれている内が、華だよ」
「ちっとも、うれしくねえ」賢治は言った。
「……彼女なんて、いないんだよ。本当に」
「……まさか、今まで誰とも付き合ったこと無いの?」薫は驚いたように言った。
「……珍しいね、今時。小学生だって、好きな子くらい、いるじゃない?」
賢治は何も言わなかった。暑さでクレープの生地は少しずつ柔らかくなっていた。
開きすぎた花の花弁のように、その縁はだらしなく垂れ下がっていた。
「……また、そうやって、黙っちゃうんだから」
薫が口をとがらせた。「……ずるいよ、賢治は」
手に持ったイチゴ味のクレープの残った端を、大きく開けた口の中にわざとらしく放り込んだ。
「……賢治がその手なら、私にも手段がある」薫は独り言のように言った。
「……何だよ」気になった賢治が彼女の方を向きもせず尋ねた。
「教えない」薫は向こうを向いたまま不敵に笑っていた。「……絶対、はっきりさせてやるんだから」
海浜公園の向かいは徹さんと涼子さんの勤める病院だった。賢治は、彼らにばったり出くわすのではないかと気が気でなかった。
眞菜はどうしているだろうか。
徹さん夫妻のことをを考えていると、自然に考えは彼女の事に飛んだ。
あれから、全然連絡がない。
こんな事は、初めてだった。
一体、彼女ははどうしてしまったのだろう。
彼は先行きの見えない不安を感じていた。
それまで、眞菜の心の内は手に取るように解ると、彼は感じていた。
病気になってからの眞菜の心情には、たしかに彼のの想像を超える部分があった。しかし、彼女の性格の本質的な部分を彼はしっかり理解していると自信を持っていた。それは身体に染みついている、と言っても良いほど確かな感覚だった。自分が何を言えば、彼女は喜び、何を言えば、嫌がるかを彼はほとんど本能的に感じ取ることが出来た。
彼女はある意味で、彼の一部だった。
それは同時に、彼が彼女の一部でもあることを意味していた。彼が落ち込むような出来事なのであれば、当然のように、彼女も同じ理由で落ち込んでいるはずだった。
眞菜も、仲直りする機会を見失っているのかな。
彼はそう思った。
そろそろ、電話、したほうがいいかもな。
残ったクレープを口に入れながら、賢治はそんなことを考えていた。
その時である。
それはまさに不意をつかれた感覚だった。
彼の右腕を、何者かが、ひしと掴んだ。
見れば、薫の白く長い指が、賢治の二の腕をしっかりと捉えていた。
夏の暑さのせいで、彼女の手はしっとりと湿っていた。
突然のことに、賢治は驚いた。
薫は身じろぎもせず、賢治より少し低い位置から見上げるようにして、彼の表情をじっと伺っていた。彼女の顔は、驚くほど近い位置にあった。指に込められた力は、少しずつ強くなっているようだった。
「……なんだよ」
薫が彼を見つめたまま何も言い出さないので、賢治はしびれを切らした。
彼女の口元が、何かを話そうとしているかのように薄く開いた。
しかし、そこから言葉は漏れては来なかった。
ただ言葉を待つように、その口元は僅かに開いたまま、少しずつ彼に近づいてくるように思えた。
何を……。
賢治がそう言おうと口を開いた刹那、目の前は真っ暗になった。
脣と脣が触れあう感覚がした。
メンソールか何かの涼やかな感覚と、先ほど食べたクレープの乳脂に混じった微かなイチゴの香りが、呆然とする彼の口元を通り過ぎた。
二人の身体は、気がつけば、もう離れていた。
薫はすでに半歩離れた位置に立って、驚きに目を丸くしてベンチに転がった賢治を見下ろしていた。
「……遠くに行っちゃ、駄目だからね」薫は独り言のようにそう言った。「……傍にいてくれなきゃ、困るんだから」
薫は、公園の入り口に止めた自分の自転車にまたがると、賢治の方は振り向きもせず走り去り、そして、その姿はあっという間に見えなくなった。
後に残された賢治は、混乱した頭で、その背中を見送ることしかできなかった。
2009年2月13日金曜日
『カタワラ』;10
6月に入り、梅雨が本格化してくると、ようやく眞菜の家からビニールシートの前室が取り払われた。
「受験は夏が勝負」という、大手予備校のキャッチコピーに乗せられて、賢治の受験勉強への意識も次第に高まってきていたが、それでも暇を見つけては、眞菜の所に顔を出すようにしていた。
雨は、空気中から、僅かに残った粉塵のようなものまで洗い流してくれたから、雨が降った日は、体調さえ良ければ、眞菜の方から賢治の家に出向いてくることもあった。
「こんにちは」
薄い赤い色の傘を差した眞菜が、控えめに玄関先に現れると、いつも最初に飛びつくのは賢介だった。
「あ、眞菜ねーちゃんだ!」
眞菜を見つけると、彼はいつも大きな声を出し、母にも、賢治にも大仰に伝えて廻った。
外出していた飼い主がようやく帰ってきた時の子犬のような大げさな歓迎に、眞菜は困ったような笑顔を見せながらも喜んでいるようだった。
「賢介君、少し身長伸びました?」
差し出された座布団に膝を突きながら、珍しいものでも見たような目をして、眞菜が賢治の母に言った。
「……そうかしら、いつも見ていると解らないけど」
「伸びてますよ。ね、賢介君?」
眞菜に優しく笑いかけられて、賢介は恥ずかしそうに身をくねらせた。そして、いたたまれなくなったのか、卓の傍を飛び出して、奥の部屋に引っ込んでしまった。
「あ、逃げられちゃった」
「眞菜ちゃんが来て、うれしくて落ち着かないんでしょ」
賢治の母はおかしそうに笑っていた。
「恥ずかしがり、なんだから」
「誰かさん、そっくりですね」眞菜が、隣に座った賢治に目配せした。
「……なんだよ」賢治はぶっきらぼうに、そう答えた。
「ほら」
「ほんとに」
女二人は向かい合って、おかしそうに笑っていた。
賢治はその様子を不愉快そうに見つめていた。
「……いったい何の用で来たんだ?俺は受験生なんだぞ」
賢治がそう言うと、母は、
「……いくら何でも、そんな態度取ることないでしょう」と眉をつり上げて叱った。
「……眞菜ちゃんごめんなさいね。この子は……。眞菜ちゃんの家に行っている時に、ご迷惑かけてない?」
眞菜は首を振った。
「……迷惑だなんてそんな……。親も賢治が来てくれると、とっても喜ぶんです。賢治は、家にいる時、とっても、“素直”、なんですよ」
ね、賢治。とでも言うように、眞菜は含みのある笑みを浮かべながら賢治の方を向いた。
賢治は明後日の方角を向いたまま、顔を合わせようともしなかった。
「それに今日は賢治じゃなく、陽子さんに会いに来た訳ですから。……受験生は、さぞ忙しいのでしょうし」
「それも、そうね」
女二人は、賢治の方を見た。
そしてまた、顔を見合わせて笑った。
賢治は不機嫌そうに口をゆがめていたが、賢介のようにその場を立ち去ろうとまではしなかった。眞菜を歓迎しているという点では、彼も母と同じだったからである。ただ、母親の前で、眞菜にいつものように接するのはいささか照れくささも感じていた。こういう態度を取っても、彼女なら解ってくれる。そういう、古いつきあいだからこそ生まれる甘えのようなものも、彼の中にはあった。
「……ところで賢治、受験勉強は進んでるの?」
陽子に会いに来た、とは言いながら、眞菜は賢治に問いかけた。
賢治は心の中で安堵を感じた。
「……ああ、まあ」口数少なく、賢治が答えた。
「薫さんとの、勉強会は、まだ続いてる?」
「……ああ」賢治が答えた。
「勉強会?同級生と?」賢治の母が驚いたように声を上げた。「……知らなかったわ」
「賢治、お母さんに言ってなかったの?」あきれたように眞菜が言った。「全く、男子って……」
「その薫ちゃんって、女の子?」興味津々で母が聞いた。
「そうみたいですよ」
賢治が答える素振りがなさそうだったので、眞菜が代わりに答えた。
「……まあ、この子は、眞菜ちゃんって子がありながら……」母もあきれた様子だった。
「……うるさいな、そう言う関係じゃないよ」賢治は煩わしそうに答えた。
「あくまで、あれは勉強会。それ以上でも、以下でも無し」
それから、何か一言、まだ言い足りないような気がして、彼はその後にこう付け加えた。
「……それに、眞菜とだって、別に付き合ってる訳じゃ……」
その時、眞菜の表情が一瞬悲しげに曇ったのを賢治は見過ごさなかった。
「まあ、そうだけどね」賢治から顔を背け、突っぱねるように眞菜は言った。
「……そうだけどね」
眞菜の取った態度に、彼は小さな不安を覚えた。いくら眞菜とはいえ、余計なことを言ってしまったかも知れない。不安はたちまち彼の胸の内に広がり、思わず表情に表れてしまいそうになった。
しかし、今が母の前と言うこともあり、弱気を彼女に見せたくない意地が働いて、彼は相変わらず不機嫌そうな態度をとり続けた。
「……一緒に勉強しようって言うから、してるだけだ」
不安に声が震えそうになるのを必死に抑えて、言い訳のように賢治が言った。
「手の届く距離に、同じ目的の奴がいるのは心強いからって言うから……」
「手の届く距離……」
眞菜は、せっぱ詰まった表情で賢治を見つめた。
賢治は彼女の不安げな瞳を通して、その内に、やるせない切実な気持ちが激しく渦巻いているのを敏感に感じ取っていた。
「確かに、今は、とりあえず目標の大学に入るって言う、共通の夢があるもんね」母が言った。
「そのために、手と手を取り合うっていうのも、解らないでもないかな」
「夢……、そうですよね……」
眞菜は小さく呟くようにそう言った。
明らかに、来た時の元気はなくなっていた。
思うようにいかない事態に、彼は焦っていた。
話題を変えた方がいいな。賢治は咄嗟にそう思った。
「……そういえば、眞菜の夢を、まだ聞いてなかったな」
暗く沈んでしまった彼女の表情を少しでも晴らそうと、彼は努めて明るく言った。
「この間の時は、はぐらかされちゃって、結局聞けなかったから。今日は教えてくれよ。眞菜の、夢」
彼女はしかし、その賢治の問いを聞いても、何も言わなかった。
俯いて、じっとしていただけだった。
やがて、その瞳から、ぽろりと数滴の涙の雫がこぼれ落ちたのを彼ははっきりと認めた。
眞菜は悲しみに、小刻みに身体を震わせていた。
「眞菜……?」泣いているのか?
賢治は思わず身を乗り出した、そして、その手をさしのべようとすると、彼女は、きっ、と賢治を鋭い眼差しで睨み付け、差し出された手をぴしゃりと音が出るほど強く払った。
賢治は驚いて、一度差し出したその手を、思わず引っ込めてしまった。
「……どうしたんだ、一体……」
眞菜の泣いた理由が、彼にはすぐに分からなかった。
「……夢、なんて、無いよ」
消え入るような声で、眞菜が言った。
「明日どうなるかも解らない私に、どうして、未来の夢、を見ろ、と言うの?」
眞菜は先ほど見せた激しい気持ちのこもった眼差しを再び彼に向けた。
涙で濡れたその瞳はあまりに強く、賢治は思わず、身体が竦んでしまった。
「今日を無事に生きれるかも解らない……、もしかすると、明日には、私の意識はないかも知れない……。そう言う気持ちで、毎日を生きたことが、賢治にはある?」
眞菜の手が勢いよく、彼女の座った床を叩いた。
「私は、今を生きるだけで精一杯……。それなのになぜ、健康なあなたたちが描くような明るい未来を描け、と言うの?」
眞菜は突然うつむき、左の手で、両の目を覆った。
「夢を持つなんて……、私には、贅沢、なんだよ……。」
彼女は身を震わせ嗚咽を始めた。手首を伝って、涙が肘からぽたぽたと床の上に流れ落ちた。
それを、当然のことのように、言わないで……
声にもならない声で、彼女はそう訴え続けた。
賢治の母が、泣きやまない眞菜に駆け寄って、彼女を抱きすくめた。
ごめんなさいね。あなたの気持ちを解って上げられなかった。
母はそう言って、眞菜の背中を静かにさすっていた。
始めはそれを拒むように身を縮めていた眞菜も、その言葉に安堵したかのように、彼の母に身を委ねた。
賢治はその様子を、どうすることも出来ず、ただ呆然として見つめていた。
差し伸べようとして、強くはじかれた彼の右手が、熱を持ったように赤くなり、じんじんと痛んだ。
……それから、眞菜は彼の前に姿を見せなくなった。
2009年2月11日水曜日
『カタワラ』;9
薫との勉強会は、それからもほとんど毎日続いた。
前半は賢治が得意な教科を教え、後半は薫がそれに代わった。
薫は、賢治が驚くほど、自分の得意な教科は勉強してきていた。彼女は確かに勉強が出来ない方ではなかったが、それでも学校の掲示に張り出される上位成績者に名前が出る方でもなかったから、明らかにこの勉強会のために勉強してきているようだった。
「人に教えなきゃって思うと、なんだか責任感じるでしょう」薫はそう言って、照れたように笑った。
賢治は始め、自分の解る範囲で彼女に教えればいいと高をくくっていたのだが、彼女の努力に気づいて、自分だけ適当に怠けているのが申し訳なくなってきた。
得意な教科は相手に教えられるほど得意に。苦手なものは、せめて、相手が教えてくれたくらいは理解できるように。二人はいつしか気がつかないうちに、相手が自分に注いでくれた熱意の分だけでも、努力するようになっていた。それを思いやりと呼ぶことまでは意識していなかったが、一月も経つ頃には、当初は面倒な同級生と思っていただけの薫に対して、賢治はある種の信頼を感じるようになっていた。
それは、薫の側でも同じのようだった。特に約束しなくても、彼女はいつも放課後、賢治の席のあたりで、彼が掃除から帰ってくるのを待っているようになった。
「あたし達ってさ」ある時、薫が言った。
「ある意味、受験のための協力関係としては、理想的なかたちじゃない?」
「そうかもな」賢治は否定しなかった。
薫がうれしそうに笑った。
「まさに、“パートナー”って気がする。……私が困っているところを、すぐに助けられる距離に賢治がいるから」
そう言った時の彼女は、少し照れくさそうだった。
「いつも近くにいるって、大切な事だよね」薫が言った。
「いつでも手の届く距離に、賢治みたいに気軽に話せる人がいるってだけで、すごく心を強く持てる気がする」
賢治は薫の言葉を肯定も否定もしなかった。だが、彼は内心、彼女と同じ気持ちだった。目的を同じくするものが、すぐ傍にいて、お互いに切磋琢磨しあえると言うことが、どれだけ自分自身を鼓舞するか。不安を押しやり、払拭してくれるか。彼は彼女との、このたった一ヶ月の間にはっきりと知った気がした。
「……まあ、おれに感謝するのは、受かってからにしろよ」
照れくささに耐えかね、少し戯けた調子で賢治は言った。
「それもそうだね」薫が笑った。
「……じゃあ、数学やろうか、賢治君」
薫は学生鞄の中から使い込まれた数学の参考書を取りだした。
パステルカラーの付箋紙が、短冊飾りのようにあでやかに揺れながら、本の上端から何本も顔を出していた。
参考書の隅は、ページの目印にしたらしく、幾つもの折り跡が重なって見えた。
本を持つ彼女の右の親指に、いつの間にか参考書に引かれた赤いボールペンのアンダーラインのインクが移って、赤く色が付いていた。しかし彼女はそのことすら、気に留めていなかった。
「……どうしたの」
ぼんやりと彼女の様子を見ている賢治に気づいて、参考書に向かっていた薫は不思議そうに彼を見上げた。
「あ、いや……」
お前って、意外にがんばり屋なんだな。
そんな言葉を飲み込んで、彼は自分の鞄から彼女と同じ参考書を取り出した。
白い参考書を出すのが、少し、恥ずかしかった。
『カタワラ』;8
“賢治?今電話しても大丈夫?”
彼女からのメールは、たったそれだけだった。
賢治はアドレスから眞菜の番号を呼び出し、電話をかけた。
「……ぉう」
なんともつかない挨拶をして賢治の電話は眞菜と繋がった。
よく見知った相手に改めて電話するときの、この気まずさは何なんだろう。
そんなことを感じていた。
「……うん」
その感覚は、向こうも同じだったのか、何に対する返事なのかもわからない答えがワンテンポ遅れて帰ってきた。
「……今、どうしてる?」相手との間合いを測るかのように、遠慮がちに眞菜が尋ねた。
「……港で海見てる」賢治は端的にそう答えた。
「夕日、見える?」
「……見えないな。やっぱり、山に隠れちゃうから」
海で夕日が見えないことは、眞菜だってよく知っているはずだった。
あえて答えの分かっている質問でもとりあえず投げかけさせてしまう、今の彼女の孤独な気持ちが賢治にも切実に伝わってきた。
「また、一人なのか?」傷口に触るように、できるだけ優しい口調を心掛けて、賢治は尋ねた。
……うん、と、頷いたついでに漏れてきたという程度の、消え入るような返事が聞こえた。
「やっぱりこの時期になると、仕事をやれるだけ終わらせてから家に帰ろうとするからかな。どっちも帰りが遅くなりがちなんだ」
家の出入りがビニールのカーテンに区切られて不便になるということは、そういうことらしかった。余計な出入りをできるだけ減らそうとすれば、どうしても、忘れ仕事を残したくなくなってしまうのだろう。
「忙しいもんな」
できるだけ、彼女が隔離されているという話題には触れないように賢治は心掛けていた。それが事実であったとしても、わかりきったことをあえて何度も言うのは、単純に残酷なだけのような気がした。
「……ねえ、賢治?」
「うん?」
新しいクラス、楽しい?眞菜はそう訊ねた。
さびしい気持ちを殺して、明るい笑顔を心掛けるときの彼女の、誰かに遠慮するような微笑みが、賢治の脳裏に浮かぶようだった。
「……楽しくなんかないよ」
ひょうきんな調子を取り繕って、彼は答えた。
「今日なんか、めんどくさい同級生に、取りつかれちゃってさ」
賢治は、今日の薫と結ばされた『契約』の話を眞菜に話した。
眞菜はところどころ笑いながら、それを楽しそうに聞いていた。
彼の話を聞いているうちに、彼女の笑い声は、少しずつ元の調子を取り戻してきた様だった。
少し元気になってくれたかな、賢治は彼女に話しながらそう感じていた。
「それは、大変だったね!」
話が一通り終わると、眞菜が言った。
「……でも、みんなと協力して、何か一つのことを目指すって、なんだか憧れるな」
「そうかな」賢治は言った。
「努力って、最終的には自分を高めるもんだろ。他人の協力できることなんて、限られてるんじゃないか?」
彼はそう思っていた。薫の一緒に勉強しようという誘いに乗れなかったのも、そういう考えがあったからだった。
準備段階では誰と協力しても、結局受験するのは自分の身ひとつなのだ。誰かが代わりに受験してくれるわけでもなかった。ならば、始めから自分で、自分を強化した方が早いではないか。
他人との協調は、目標を目指すにはあまりにロスが多いように賢治は感じていた。
「でもね」と眞菜の声が聞こえた。
「たとえ相手のためになっていないかもしれないと思っても、何かしたいと思うものなんじゃない?」
……仲間って。付け加えるように、彼女は最後にそう言った。
「おれは、あいつを仲間とは、思えないけれどなあ」賢治はうんざりしたように言った。
「……取りつく島もないね」と眞菜が笑った。「努力してる薫さんが、かわいそうだよ」
「あいつだって、自分のこと考えているだけじゃないか?」賢治が言った。「そんなにお互いのこと考えている余裕はないよ。受験生って」
「……そうなのかもしれないね」急に、少ししょげ返ったように眞菜が言った。「……私が、のんきなのかな」
眞菜自身は大学を受験する気はない、と以前から言っていた。
たとえ合格しても、高校ですら通えない身体に大学生活は無理だろうということだった。
通信制の大学を受験することも考えたというが、結局その話もあまり乗り気ではなさそうだった。大学を出たところで、それが自分にとって何になるのか眞菜には見えないらしかった。
今日はまた、ずいぶん気持ちが沈んでるな。と賢治は思った。
冬や夏に、彼女の家に遊びに行った時の元気の良さからは想像できないほど、この時期の真菜は、ふさぎ込むことが多かった。物理的に一ヵ所に閉じ込められるということは、心まで封じ込めてしまうのかもしれないと賢治は思っていた。
「そんなに、自分を悲観するなよ」元気づけようとして、賢治は言った。「ケーキだって、作れたじゃないか」
ふふ、そうだったね。と電話の向こうで眞菜が笑った。あれ、陽子さん達も食べてくれた?
「うまいうまいって、誉めてたよ。……賢介なんて、母さんのを取り返して食べてた」
本当に?真菜の声に幾分、元気が出てきた。賢治は思わず笑顔になった。
「ケーキのクリームに、イチゴのつぶしたのをほんの少し入れたのは、眞菜の工夫だったんだって?気がつかなかったよ」賢治は、彼の母が気付いた点をそのまま言った。
「あれは、思いつきでやったんだよね」
眞菜が言った。「……陽子さんのレシピを見てしたがっているだけじゃ、飽き足らなくなって」
「……その意気があれば、なんとかなるさ」少し大げさに事を言っているのは自分でも解っていた。
「眞菜ならやれる。……なんだって」
……ありがとう。電話の向こうの声は言った。そんな浮ついた誉め言葉に喜ぶ彼女ではないことは、彼にはよく解っていた。それでも、そう言ってくれた彼の意図をくみ取って、その気持ちに対して、彼女はありがとうと言ってくれたに違いなかった。
「……じゃあね」彼女が言った。
「……じゃあな」二言三言、言い足りない言葉を心の内に残したまま、彼はそう言って電話を切った。
夕日に照らされた港の景色が、急に眼前によみがえってきたような気がした。
眞菜との電話に夢中になるあまり、今までずっと、港にいたことを忘れていた。
それほど、自分は電話に集中していたということだろうか。……だとすれば、なんて気を遣わせる電話だろう。
たかが電話一つに、それだけ必死になっていた自分が、賢治はなんだかおかしかった。
立ち止まっていた自転車のペダルに再び足をかけて、恥ずかしそうに彼は一人笑った。
しょうがないか。彼は思った。眞菜とおれとは、今、この電話で繋がっているだけだもんな。
彼は止めていた自転車のペダルを踏み込んで、再び前へと進み出した。
群青色の夜空が、背後から静かに広がってきた。
2009年2月10日火曜日
『カタワラ』:7
四月に入り新学期が始まるころになると、当然のように眞菜は外に出られなくなった。彼女の家の玄関の内側にはビニールのシートが貼られた。クリーンルームの前室のように、入室者はそこから先に入るには、まず玄関で花粉をしっかりと落とさなくてはいけなかった。
彼女の両親はつまりそれを毎日繰り返すことになる。
少しでも花粉との接触のリスクを減らすため、賢治ですらも、特に用向きがなければ眞菜の家に行くことは憚られた。
またしばらく、あいつの顔が見れなくなるな。そのことを思うと、賢治は特に寂しいと言うよりも、憤りを感じた。
同じ高校生でありながら、一方はありふれた危機に怯え、家で軟禁のような生活を強いられている。そしてもう一方、自分を含め大多数は、外へ自由に出歩くことを若者に当然に与えられた権利として、疑うことを知らずにいる。
誰も恨むことの出来ないその不条理な、強いて言えば神か仏かの仕打ちに、彼は憤っていた。
なぜ、他の誰でもなく、眞菜であったのか。
春の陽気に包まれ、新しいクラスメイトとの生活が始まって、友人達が浮かれだしても、賢治の気持ちは暗く鬱屈していくだけだった。
「……ちょっと、賢治?」
向かいに座った女生徒が賢治に声を掛けた。
「聞いてるの?ねえ?」
「……わりい」
賢治は自分がぼんやりと机を見たまま、眞菜のことを考えていたことに気がついた。
今は放課後。掃除も終わり、受験を意識し始めた生徒が数人、居残って勉強をしていた。
「そんなことで、大丈夫なの?」怪訝な顔の女生徒は言った。「どこ受けるの?国立?」
「まあ、一応」
賢治は場に合わせて、適当に答えた。まだそれほど自分の志望については考えていなかった。彼の夢はあくまで喫茶店を開くことだった。大学を目指すのは、みんなが入っているから、と言うだけに過ぎなかった。父親の影響か海外の情勢にも興味があったから、何か国際関係を学べるような学部であればいいという程度に考えていた。
「何?“一応”って」女生徒は、賢治の答えが気に入らなかったらしかった。
「そんなんじゃだめだよ、目標はしっかり見すえないと。賢治、何か始めても、いつも、最後はぐだぐだになるんだから」
女生徒はいつの間にか、自分が賢治のお守りでも言いつかったかのような顔をして、そう言った。
「……わかったよ……」
賢治は返事するのも面倒そうに、向こうを向いた。
何で、よりによって、こいつと一緒のクラスになったんだ。
心の底で彼はそう思っていた。
女生徒は名を薫といい、賢治とは高校になってからの同級生だった。
彼女は、彼が2年の時、他のクラスの学級委員だった生徒で、当時、賢治は別なクラスの副委員を勤めていた。
副委員と言っても、どうにかようやく委員が決まったものの副委員を務めるものが見つからず、仕方なく委員の友人であった賢治に話が回ってきたと言うだけのことで、彼は特に積極的にその役割をこなしていたわけではなかった。
一方の彼女は自分から率先して委員になったと聞いていた。実際に学級委員の集まりの時には彼女は自分から進んで発言をする方だったし、時には生徒会長をしのぐ存在感を見せることさえあった。彼女は3年に上がってからも、当然のように学級委員に着くと皆が思っていた。
「なら、いいんだけど」薫は椅子の上で居住まいを正した。
「……でね、話って言うのは、私と『契約』を結んで欲しいわけよ」
「『契約』?」賢治は眉根を寄せた。「何が言いたいんだ?」
「……つまり、だからね、」
薫は借りてきた言葉を話すような口調で言った。
「賢治は英語と現代文が出来るけど、数学と理科が苦手、私は社会と理科と数学なら、何とかなる。でも、英語も国語全般も全くダメ。……私達って、ちょうど正反対でしょう、だから……、教え合いっこ、しない?」
名案でしょ、とでも言うように、薫は瞳を爛々とさせて賢治の反応を待った。
「一人では出来ないことも、二人、力を合わせれば出来るってよく言うじゃない。私達にも、きっと、出来るよ」
「それは、たぶん夫婦に言う言葉だろう」賢治が言った。
「俺たちには、関係ないんじゃ……」
「夫婦……、賢治、そんなこと考えてるの?」彼女が言った。
「これから、仲良くなろうって段階なのに……」
小さな声でそう呟いて、椅子に座った自分の足下を見つめていた。
机の下では、彼女の膝がそわそわと動いていた。
「とにかく、私達は協力した方が良いの。絶対、お互いのためになるよ」
薫は、賢治の顔を見ながらはっきりと言った。
「……ねえ?やろうよ」
「何で、俺が……」賢治は答えを渋った。
「別に、薫に教えてもらわなくても自分でやるよ……」
「そう言う問題じゃないの」怒ったような調子で薫が言った。
「……あなたが私を必要としていなくても……、私は、教えてもらいたいの。……それとも、そこまで、いやなの?」
薫は黒目のはっきりした目で、じっと賢治を見つめていた。
それを正面から受けきれず、賢治は視線を窓の外に逃がした。
「……いいよ。それなら」
薫は下脣を突き出して、すねるようにそう言った。
「賢治があたしを“たぶらかした”って、みんなに言いふらしてやるから」
「おい、何言い出すんだよ」ただごとではない言葉に、賢治は慌てた。
「おれ、そんなことしてないぞ」
「したのよ。……したことに、なるの」薫は意地悪な目を賢治に向けた。
「……さあ、どうする?」
「……お前、悪女だな」吐き捨てるように賢治が言った。
「なんとでも言ったら」薫は平然としていた。
「……態度をはっきりさせない、あなたが悪い」
「……解ったよ」
賢治が折れた。「お前に、国語と英語、教えればいいんだろ。……後は自分でしろよ」
「やった!」
先ほどの悪女ぶりが嘘のように、薫の顔に幼げな喜びが満ちた。
「じゃあ、私は数学と理科を教えてあげるからね」
「いいよ、そんなの自分でやれるから」くだらない、とでも言うように賢治は言った。
「……その代わり、変なこと、周りに広めるなよ」
「もちろん!」素直に薫は答えた。
「あたしも、そこまでは堕ちてない。……大丈夫。そんなに突っ張らなくても。ちゃんと賢治には教えてあげるからね。理科と数学」
「……いらねえって言ってるだろう」
賢治は不機嫌に窓の外を見た。
「でさ、早速、質問なんだけど」
ふてくされた賢治の態度など、あえて気にしないかのように、嬉々とした顔の薫が言った。
「……“たぶらかす”って、具体的に何すること?」
薫との小さな“勉強会”は、それから2時間続いた。賢治はすっかり疲れて学校を後にした。
学校は小高い丘の上にあった。古ぼけたトタン屋根の自転車置き場で使い込んだ自分の自転車にまたがり、坂の上から街の方角を見れば、いつもそこには大きな海があった。
賢治は、この風景が好きだった。海には細い幾何学的な線を持つ防波堤が突き出していて、何隻もの大型漁船が明日か明後日かの出港を待っていた。賢治はいつも海沿いの、港の中を走る道を通って家に帰った。
坂を下りるに従って、街はぐんぐん大きくなった。始めは家の密集に過ぎなかった住宅地が、彼を取り巻く程の大きさになるまでに数分とかからなかった。家々の窓には、すでに灯りが入り始めたものもある。賢治の自転車は最短距離を選び取って、夕焼けに赤く燃える海を目指して走った。
彼の住む街では、夕日は海には沈まなかった。海に沈む夕日というものを、彼はいつか見てみたいと思っていた。夕日が海に沈む時、一瞬緑色の閃光を発すると、彼は父から聞いたことがあった。あれはどういう光の加減なのか、赤い光を発していた太陽が、突然緑に光って見えるのだから、自然というのは不思議だと、長い船旅ですっかり顔が赤い髭に埋もれた父は、塩に灼けた顔をにやにやさせて語っていた。
ただ、彼の街ではそれは見えない。朝焼けなら見えるかも知れないと、それから数日早起きし続けたこともあったが、そう言った閃光は一度も見ることが出来なかった。金色に輝く海を見て、まぶしさに目を窄める朝が彼は昨日のことのように脳裏に蘇って、顔は切なく微笑んだ。
やがて、自転車は港に入った。朝には賑やかに鳴いていたカモメたちも夕暮れには何処かに行ってしまって、静かになった港にはもう人影が見られない。浮かべられた船だけが打ち寄せる波に併せて、眠りにつく頃の心臓の拍動のような穏やかでなまめかしい規則性を伴って上下に揺れているだけだった。
父さん、今頃何処にいるんだろう。並ぶ漁船を左手に見ながら、彼はふと考えた。また、ルソンか。それともフィリピンか。ケガしてなければいいけれど。
夕日にそそのかされて不意に浮かび上がってきた、そんな届く当てもない感傷に浸っていると、突然に彼の携帯が鳴った。眞菜からのメールだった。
“賢治?今電話しても大丈夫?”