2010年7月11日日曜日

Phantom pain

右肩から先がない。
そのことに気がついたのは、病院のベッドの上だった。

白い机、白いフレーム、白いシーツ。
天井の茶色いシミのような点々とした模様が鮮やかにさえ見える、真夏の真昼の午後だったように記憶している。

私が気がついたとき、私の周りには誰もいなかった。

数本のチューブが、私の左手から伸びていて、数桁の数字をデジタルで表示する、何物かの装置の中につながれていた。数本のチューブの一本は赤茶けた血液の色をしていて、その先にはおそらく輸血用の血液のバックがぶら下がっていた。


ああ、このチューブとバックは今、血管で俺の体とつながっているんだな。
そう思うと、このプラスチックの無機質な使い捨てバックが、自分と生を共にする臓器のようにさえ思えてきた。

正人は……。

私はふいに、その名前を思い出した。

正人は、どこに行ってしまったんだ……?








「……ああ、どうです」
寝そべったままの私の視界に覗き込むように入り込んできた、中年の医者が、しわの深く刻まれた真面目で硬い顔に慣れていない笑顔を浮かべて、当たり障りの無い言葉で私に語りかけた。

「……ええ……」
それ以上答えようがなかった。
意識が戻ってから、体はこれまでたまったうっぷんを晴らすようにあちこち痛んでいた。きっとこれでも、私の周りにぶら下がったバックのどれかから、鎮痛剤が相当量、処方されているのだろうが、足の指一本動かすたびに、関係ないはずの背中や腰が、スパークするのだ。

私の顔は、医者に答えようと口を動かすだけでも痛みを感じて、始終愛想悪くゆがんでいたはずだった。

「……、痛いです、あちこち……」
私は情け無さも感じながら、そう訴えずにはいられなかった。

医者は、それはそうでしょうとは感じながらも、そんなことなどおくびにも出さない硬い笑顔のまま、ただ大きくうなづくだけだった。

「背中の骨と、腰の骨に、大きなヒビが入っています。痛ければ、もう少し、鎮痛剤を処方してもらいましょう……」
医者は、その後、私の顔を覗き込んだまま、何ものかを待つように、言葉を切った。
私は、医者の待っている質問が分かっていた。だが、それを発することは私にとって大きな勇気がいった。その医者の答えるであろう回答も、私には予想出来ていたから。

「……正人は……、正人と、優子は……」

医者は、その質問に、それまで痛いほどに投げつけていた目を、一瞬、宙に切った。そして、再びその目を私の動けない顔に向けた。先程よりも、ずっと力のこもった視線で。

「……脳死です、息子さんの方は……。先程、担当医が報告してくれました。奥様は、即死でした……」

私は、私を、何かが空に引っ張りあげるような感覚を感じた。気が遠くなるというより、語弊を伴わずに言えば、身が軽くなるといった感覚か。私は、もう、両親でも、夫でも、なくなり、たった一人の、男になってしまったのだという、ふわふわとした、背中のざらつく感覚だった。

「……子供の脳死判定は難しく、脳死と思われても、一定確率で蘇生する例があります。……しかし、その確率は、ほんとうにまれとしか言いようがなく……」

医者が言わんとしていることはわかった。

「……お願いします」
私は、喉の奥から吐き気がしそうなのをこらえながら言った。

「……今の状態が続いても、せいぜい数日……、なんですよね?……先生方をご信頼します」私はそこで、言葉を切った。肺を固く締め付ける固定具のため、息が続かなかった。

「……息子の……、臓器を、他の子供達のため、役立ててください……」

私はそこまで言うと、力尽き、目を閉じた。医者の反応など、もう見たくはなかった。彼がこれからどうするか、想像したくなくても、想像できた。息子はこれから、親の決断によってバラバラにされ、内蔵をとり出され、その必要のままに、他の子供達の待つ病院に送られていくだろう。

彼の存在意義は、もう臓器にしか無いということなのか?
そんな疑問も浮かんだが、それを考えるには、私はあまりにも打ちのめされていた。冷静に考えることなど今はできないと感じていた。いやでも、私はこの事実を背負っていくだろう。これから、残された人生をかけて、私はこのことを見つめ続けていかなくてはいけないのだ。

『パパのお仕事って、どんなの』
息子が、大きな目をくりくりさせながら、尋ねてきた日のことを思い出す。

「お船で、新潟の港から佐渡まで、人を届けるのが仕事だよ」
私は答えた。息子は私のあぐらの上で大きな黒い瞳を、鮮やかに輝かせた。
『トキ見える?トキ?佐渡にいるんでしょ?』

私は笑った。
「……いるいる。でも、船からは見えないなあ。まだ、ゲージの中にいるんだ」

えーっ。
息子は頬をふくらませた。夏が近づき、白かった彼の頬は男の子らしくたくましく、褐色に焼けはじめていた。

そんなぁ。

そうは言ったものの、息子の興味は尽きないようだった。
船の上ってどんなの?酔わない?イルカ見えるの?クジラいる?

そんな質問を矢継ぎ早に繰り出しながら、私たちは、夏休みに入って最初の連休を過ごしていた。彼にとっては人生最初の夏休みになる予定だった。私にとっても、息子と最初の夏休みなる。そう、予定していた。