2012年4月3日火曜日


海の音が聞こえた。渚に座って、一人海を見ていた。あたりはすでに何もない真っ暗闇で、遠く港の街灯が、オレンジ色にぼんやりと霞んで見えていた。渚に打ち寄せる波の音というか、この日の暮れた埠頭の上では、コンクリートの隙間に入り込んだ波が行き場を失って空気を含んだような、とぷとぷという音が、程よい張りの太鼓の音色のように、やや不定期に響いていた。
すでにカモメも鳴いていない。翼をたたんで佇む数羽の鳥の群れが、黒い波間に見えたような気がしたが、あれは何か養殖用のいけすをつるす浮きだろうか。頼りなげに波に揺られ、上下に小刻みに揺れている。

「...みんなまだ騒いでるよ」
気がつけば君は僕の後ろに立ち、短いズボンから伸びた両足を軽く開いて微笑みかけていた。
「...あ、うん」
返事にもならない僕の返事は、果たして君に届いただろうか。それでも、君はゆっくりと僕の背中に歩み寄り、そしてそっと、隣りに座った。波間に揺れるカモメの群れは、さっきから変わらず上下に動き続けている。あるいは本当に、あれは生き物でも何でもなく、ただの浮きなのかもしれなかった。
「...なんか視えるの?」
同じ暗い夜を覗き込みながら、君はそっとそう言った。明るい合宿所の広間から出てきた目には、波間に浮かぶ浮きも、あるいは波の動きすらも良くは見えないはずだった。
「...ん、なんか」僕は言った。
「外っていいなあって思って」
当て所ない僕の答えに、君は思わずふっと笑ったようだった。だが、何か、自分の中にも触れるものがあったのか、君はその答えを特に茶化すこともせず、静かに飲み込んだようだった。
「...相変わらず、だめか、みんなと騒ぐのは」
僕は揺れる波間からそっと目を逸らした。人と一緒に騒げない自分自身にこういう夜は特に嫌気が指していた。我を忘れて騒ぐことをどこか恐れる自分自身の呪縛のようなものから、僕はずっと自由になりたいと思っていた。みんなと一緒になって、騒ぐことのできない自分自身に、罪悪感を感じることも度々だった。今日のように、特に今日のように、遠い海辺の合宿所まで、仲間たちだけで出かけてきたような夜には、その気持ちはいつにもまして大きくなるのだった。
「よく一人でいるよね。こういう飲み会の時」
君は僕を見透かしているようだった。
「...」
僕は答える言葉が見つからなかった。
君は何も言わず、海を見つめていた。時折手元を見つめ、足元に転がる小さな言葉を拾い集めているかのように、指先で波打ち際のコンクリートをなぞった。
「本当は...、私も似たようなもんなのかもしれない」
君は言った。
「人と一緒に騒いでいても、どこか、冷たい目をした自分が、自分自身を見ている。こんなことしたら失礼だとか、あの人はこんな気持ちで言ったんじゃないかとか、そんなひとを詮索するようなことを...、ずっとし続けてる」
君はそこで一瞬言葉を切り、そして続けた。
「どうやったら、どうやったら、心の底から、今を楽しめるんだろうね、何の疑いも、細かいことなんて一切、考えずにさ」
ふと、君はなにか思い出したようだった。
「うちで、犬買ってるって話、したっけ?」
僕はうなづいた。大きな白いラブラドールを飼っているという話を僕は以前聞いたことがあった。
「犬はさ、見てるとほんとお馬鹿だなって思うんだ、こっちが何かし始めると、本気で遊び始めるし、ほんとに、見境なく、全力で...、もの投げると今まで見たことのないくらいのスピードで飛んでって、そして息切らして帰ってくるでしょ、ほんとに、何回でも何回でも、しっぽちぎれるんじゃないかってくらい、振り回して」
君の声は目の前に今は存在しない、そのラブラドールの若犬に語りかけるように明るく弾むようだった。
「あたしもさ、最後には呆れちゃって思わず『おばか』って言っちゃうんだけど...、でも、憧れてるんだ。犬みたいになりたいって、心の底で思っちゃうんだ」
少し恥ずかしそうに、君は声を潜めた。
「人間に生まれてよかったって、いつも思っているけど、でも、時々わからなくなる。なんにもわからなくて、お馬鹿な犬だけど、ある意味では、あれは幸せなんじゃないのかな...、何から何まで、考え過ぎちゃうのって、人間の持って生まれた不幸なんじゃないかなって、ふっと思うんだよね」
「...荷物?」
「そう、荷物」
君は僕の方を見て笑った。
「荷物だよ、この大きな、無駄に大きな人間の脳みそ。こんなに重く無くたって生きてる動物、いっぱいいるのにさ」
君は重い荷物を持ち上げるように、よっ、と勢いをつけて立ち上がった。尻についた砂を、左手で払った。
「どうして、こんなに何でもかんでも抱え込んで、わざわざ好き好んで複雑に生きてくんだろう、この生き物。何も知らずに、まっすぐに犬みたいに喜べる動物にどうして生まれなかったのかな」
波はまだ、とぷとぷと不規則に音を立てて揺らいでいた。僕のそばに立つ君は、闇に伸びる銀色の鉄塔か何かのように、色の薄い星の浮かぶ夜空に、そそり立っていた。ここに来る前に、先に風呂にでも入っていたのか、微かに石鹸のような、甘くさわやかな香りがした。

波間に浮かぶ鳥たちは、まだ動こうとしなかった。僕らの目には捉えられない、規則性の波に揺られて、その影は上下に揺れ続けていた。以前は僕らも、こうして波に揺れる鳥のように、流れに身を預けて生きていた時期があった。しかし、一人で立つことを覚え、話すことを知ってからは、波に流れを任すすべもひょっとしたら失ってしまったのかもしれない。立ち上がるということは、この重い頭を不自然に高いところまで持ちあげるということだ、重力の摂理から最も遠い位置にまでそのポイントを遠ざけるということだ。

僕の傍らにそそり立つ、銀の鉄塔のような君は、立ったまま海を見ていた。光を忘れた灯台のように、暗く揺れる波を見つめていた。
「...さて、行こう」
君は闇の中でそう言って僕を促した。
波に揺れることに焦がれていながら、すでに自らの足で立つことを覚えた君は、暗い荷物に振り回される僕のそばにつかず離れずの距離で立って、一歩一歩歩幅を確かめるように前に進み始めた。

あの日の小さな君の影を、僕はまだ追い続けているのかもしれない。

2011年3月23日水曜日

3/22-2

何も無くなった町で瓦礫と戯れながら、少女は歌っていた。白痴であった。皆視線を避けていた。しかし、今、瓦礫の向こう側で、誰か少女に合わせて歌う声があった。声は次第に大きくなり、数を増し、やがてはその墓標のようなビルを取り囲み、町民は皆、泣きながら歌っていたのである。

3/22-1

駅舎に、もう人影はなかった。歪んだ線路が浜通りからこちらへと伸び、そして、男の目の前で、雪のふる曇り空に向かって大きく跳ね上がっていた。少年は口をへの字に結んだまま、じっと浜通りの方を見つめていた。大人用の大きな黒い傘が、小さな右手に下げられていた。

2010年12月10日金曜日

始まりの日

拝啓 国連本部様

あの、初めに申し訳ないんですが、全人類宛に何か伝えたい場合には、こちらでよろしかったのでしょうか?私は、地球上のすべての人に伝えたいのです。余す所なくすべての人に。初めは、こちらで把握してる限りのメールアドレスに、同時配信することも考えましたが、それでは届かない人も出てくるでしょう。であれば、誰か人類を代表する人に、送り届けたいと思ったのです。アメリカ大統領も考えましたが、昨今の国際情勢を見させていただいていると、アメリカだけが世界の極ではなくなってきているような気がしてまいりました。では中国かと申しますと、たしかに有望な国ではあるかと思いますが、あの国の国際政治のスタイルを考えるに、私たちのメッセージが本当に、世界の全てに伝わるかと問われると、不安が残ります。そこで、あなた方国連にこのメッセージをたくそうと考えたわけです。国連が、事実上、何の権限もないことは、私たちも良く知っています。いざ戦争が起きたとしても、結局あなた方はモメるばかりで止めることすらできないでしょう。でも、それでもあなた方にこのメッセージをたくそうと私たちは考えました。それは、たとえ形骸的なものであっても、貴方達は平和希求という人類の理念(または高望み)の下に産み落とされた、尊重すべき存在であるからです。

さて、理由ばかりで長々と綴ってしまいました。
#Aと違い、#Zはもとより文章が苦手です。

本題に入りましょう。

私たちは、全人類を「想像」することをやめることにしました。

と言っても、あなたが他の哲学は、このことが何を意味するのか、まだ把握していないでしょう。
噛み砕いて説明しますと、あなたが存在するのは、私が想像するからなのです。私たちが、誰一人、あなたを想像しなくなれば、あなたが存在すると、誰が認識するのでしょう?
あなた自身が自分を認識し続ける?それは無意味なことです。ゼロがゼロを見つめ続けても、何の発展もないように。あなたはいわば、存在の特異点に閉じ込められます。それは結局、存在しないのと同じことです。

逆に、私たちがみな、誰か共通のイメージを想像していれば、その存在は、実際に存在するのです。実際にはこうして生み出された存在が、人類社会のあちこちにいます。私たちはもうずっとながいあいだ、こうして、人類の数を増やしてきたのです。想像をやめれば、消えてしまう人間が、この世界には相当な数存在します。そして、それはあなたかもしれませんし、あなたのご友人かもしれません。

私たちは、人類を想像する鍵を持っています。
私たちは少なくとも、想像をやめれば消えてしまう人類とは異なります。
私たちは、ある特殊な方法で、誰にも存在を知られない状況に陥っても、無事生還できることが分かった人類です。この実験を行うに当たっては、多くの人間がそのまま消滅したと聞いています。生き残った私たちも、その過程で自分の戸籍も、名前も失ってしまいました。
どれほどの人間が消えてしまったのか、その数は定かではありません。彼らがどんな人間だったのか、今では誰も想像できないからです。

私たちはそれから、“想像することをやめる”ための訓練を受けました。
これは、意外と難しいことです。しかし、ある種の自己暗示的な方法を有効に使うことにより、よほど厳しいトラウマでもない限り、取り除くことができます。私たちの会の入会条件は、三親等以内上の親戚のうち誰かを消滅させることです。私も、この能力を手に入れるまでは、まさかうちの親戚に消滅してしまうような形だけの人類が混じっていることなど、気が付きませんでした。しかし、実際には可能だったのです。もちろん、彼がどんな人間だったか、私は覚えていません。あとで報告書を見て、そうだったのかと思わされただけのことです。

私これまでの記録を見る限り、この世界の92.8%の人間は、想像されることで存在している人類です。しかし、この数はもっと多いかもしれません、私よりずっと<<想像力>>がたくましい人間がこの会の会員だけでもズラリとおりますから。想像力のある人間はそれだけ、たくさんの人間の存在を支えています。彼らが人類を忘れ始めれば、世界は一気に崩れ始めるでしょう。

さて、ではどうして私たちが、人間を想像することをやめてしまおうと決意したのか。
この能力の存在に気づいた#Aは、人間という存在に絶望したといいます。消えては生まれ、生まれては消えて行く。それなのに、目の前の事柄に固執する。想像上の人間でも、実際の人間でも、その点は変わりません。ですが、彼は違いました。人間を再想像すると決めたのです。彼はそのために、自らを律し、理想的な人間に成るように努力しました。そして、身をもって、人間の理想像を創り上げた段階で、同じような志と能力を持った会員を募ったのです。彼は私たちにも、自らと同じような厳しい戒律を守らせました。私たちも、彼の思いに賛同した者たちですから、その厳しい決まりごとを喜んで引き受けました。そして、この日がやって来ました。今日は人間を再想像する始まりの日です。それはすなわち、一度人間を消去することを意味します。想像上の人間を消去するには、いかに訓練を受けた私たちといえども、少し時間がかかります。その間、想像上の人類は少しずつ、消え去っていくことでしょう。再想像の実証実験の結果から計算するに、私たちの会員だけでも、全人類の12.5 % を支えています。このメッセージが、まだ自分の能力に気づいていない他の実在の人類に届き、協力してくだされば、この数はもっと増えることでしょう。いずれは全ての人類が置き換わると、私たちは確信しています。

少し、唐突な問いになりますが、あなたは、あなたがそこに確かに存在していることを、何をもって証明できますか?その、考えなくても明らかなように思えたあなたの存在が、ゼロがゼロを見つめるようにそう思い込んでいただけではないと、どうして言えますか。あなたを見つめているその家族は、ご友人は、どうでしょう。思うことをやめれば消え去ってしまうような、儚い存在ではないと、何をもってあなたはいうのでしょう。例えばあなたが、何か物を作っているとして、そのものが誰かに使われているから、私は存在していると考えるのは間違いです。あなたが作っているものも、実在するとは限りません。例えば、大型の工場では、一日に天文学的な数の製品を作っています。それらの製品は、ベルトコンベアーを右から左に流れていきますが、あれらはそれからどうなっていくのでしょう?あの先、想像の向こうに消えていっているだけだとは考えてみたことはありますか?全てがそうだとはいいません。ですが、多くがそうなのは確かです。想像上の人間の存在など、それほど脆弱なものです。あなたの存在を支えている私たちの想像も、実はそれほど強固なものではないのです。

ただ、あなたがたとえ想像上の人類だったとしても、悲観することはありません。人類は新しい形で想像し直されるだけです。私たちの敬愛する#Aのようによりたくましく、明るく、健康的で、ジョークを欠かさない、社交的な人類に。再想像が終わったら、私たちもまた社会の一員として、優れた人類の間に混じって、恥ずかしくないよう生きて行くつもりです。

最後に。
あなたが、あなたのご友人が、想像上の人類でないと確かめたくても、あなた自身が想像上の人類である場合には不可能です。そうでなくても、訓練を受けていなければ無理でしょう。ただ、そのための努力をすることは無駄ではないかもしれません。今、あなたの目の前にいる人が本当に、嘘でなく、存在していることを、あなたは何とかして、証明できますか?たとえそのために、多くの犠牲を払って不断の努力を傾けたとしても、それが、悲劇的な結末に結びつくことは無いでしょう。そのご友人がたとえ想像上の人類だったとしても、あなたにそれに気づくすべは結局ないからです。ただ、努力や犠牲を払った分だけ、あなたはかたくなにその存在を信じ、それを守ろうとするでしょう。

すべてが消える存在だとしても、


それでは、さよなら。

#Z

2010年8月1日日曜日

phantom pein (3)

入院からひと月近くたって、ようやくリハビリも本格的になってくると、男はそれまでの個室から6床の大部屋に移された。自分ひとりだけが静かに横たわるしか無い個室では、誰か他人が尋ねてこない限りは、まるで自分が死んでいるのか生きているのか、はっきりとしないように男には思えた。窓の外には、茫洋とした海と、ただ砂浜だけが続く人気のない海岸線が広がっており、市街地の反対側であったこともあって、彼は、この広い世界にたった一人、取り残されてしまったのだという寂寞とした気持ちに落ち込んでしまいやすかった。空が晴れていればいるほど、海が澄んでいればいるほど、その気持は強くなり、彼は冥府からの使者が、そっとあの青い海と空の間から自分に手を差し伸べてくれることを、気持ちの奥底で望んでいた。

大部屋に移って、彼には一番入口近くのベッドが与えられた。彼の右隣は無人で、足の向いている方には、右目と頭の上半分を包帯で覆った、労働者風の男が眠っていた。あとは膝を固定したふくよかな老婦人、背の高い、腕をつった青年、そして空きベットの向こう側の一番窓に近いベッドに、小さな少年がいた。

大きな部屋に移ったことは、彼の体が、確かに回復に向かっているのだという紛れもない事実を、彼につきつけるものだった。口には出さないまでも、心の奥底で、死に安らぎを見出しつつあった彼にとって、それはただ皮肉なだけだった。夏は盛りを迎え、窓の向こうに見える木々は緑を増し、病院から道路を挟んで向こう側の公園には、青々とした芝生が広がっていた。まさに彼の体も、彼自身の内心の状況とは無関係に、体に刻まれた生に向かう極めて原初的な生理作用によって、日一日を追うごとに、傷口を埋め、壊れかけた体の諸関節の可動範囲を大きくしていた。

彼は、彼自身の精神が、長年、つれそった自分の身体からさえも取り残されてしまった気分を切に感じていた。

魂だけが遊離し、遠く死へと向かうベクトルを希求しているが、それを引き止めているのは紛れもなく、彼自身の体であった。「身体は精神の檻である」どこかで聞いたそんな言葉を、彼はベットの上に休みながらじっと考えていた。


その時、彼はふと誰か彼をじっと見つめ続ける視線を感じ、そちらを振り返った。
見れば、そこには窓際のベッドの少年が、いつの間にか起き上がって、ベッドの上に腰掛けるようにしながら、じっと彼の方を見つめていた。

彼は、少年と目が合うと、反射的に、にこりと微笑んだ。
少年は驚いたように目を一瞬大きくしたが、恥ずかしかったのか、すぐにぷいと向こうを向いて、ベットに突っ伏してしまった。

だが、しばらく見ていると、彼はまたひょいと下のように起き上がって、先ほどと同じように彼の方を見るのだった。彼がまたにこりと微笑むと、少年はまた同じ動きを繰り返した。

そんなことを数回繰り返した後、少年は飽きてしまったのか、枕元のテレビを付けたようだった。テレビではちょうど、彼の好きなアニメか何かがやっていたらしく、次第に彼の瞳はその画面に釘付けになった。口をぽかんと開け、無心になってテレビを見ている丸刈りの少年の姿に、男は失った息子の姿を重ねそうになって、左手で目頭を抑えた。

少年は頭部を怪我していたらしかった。子どもらしい丸い頭に、白いネットが痛々しかった。左耳の付近は厚いガーゼで覆われており、その周辺に彼を入院に至らしめた創傷があるようだった。男は揺らぐ天井を見つめたまま、できるだけ少年のことを考えないようにしていた。遠くから聞こえてくるかすかな子供番組の声が、不思議に彼の心をかき乱すのを必死にこらえながら、彼は意固地になって、固く両目を閉じた拍子に、大粒の涙がボロボロとこぼれて、彼の枕を濡らしたのを知った。

2010年7月18日日曜日

Phantom pain (2)

「わたし」という実体は、どこにあるのか。

右腕を失ってから、私はよくそれを考えていた。


病院の三階にあるリハビリ室では、めいめいが、看護師や理学療法士の指示を受けながらリハビリに取り組んでいた。

平行棒のような支えの間で、歩行訓練をする、義足の中年女性がいた。その脇では、ベットに寝そべって、ゆっくりと膝の曲げ伸ばしを繰り返す、老人がいた。

部屋の奥のほうでは、中年のパジャマ姿の男が、ひたすらに積み木を積み上げる訓練を繰り返していた。

男は、私よりずいぶん年上のようだった。剥げかかった頭を、私の方に向けたまま、脂汗を浮かべて、右腕で小さな積み木をつまみ、すでに組みあがった小山ほどの物体の上に積み上げようとしていた。よく見れば、男の右腕の先には手がついていなかった。手があったはずの場所には、前腕の骨でできた、指のようなものが、にゅうっ、と、蟹挟みのように突き出ていた。

男は、二本の「指」がつかんだ赤い5センチ程の積み木を、丸いだるまのような目を大きく見開いて、持ち上げ、これまで積み上げてきた彼の「城」の上に慎重に重ね上げようとしていた。

彼は、もう何時間もそうしていたのだろうか。積み木の城は、座った彼の肩ほどにまで大きくなっていた。

男の震える二本の指先が、赤い積み木を城の突端に載せた。積み木は、不安定な色モザイクの城の上で、眩しいほど赤い色をしていた。男は城を崩さぬよう慎重に、自分の慣れない二本の指を、城の突端においた赤い積み木から離しにかかった。それは、掴むより、よほど難しい作業のようだった。丸い頭に、ふつふつと、粟粒のような汗が浮かんでいるのが見えた。

ああ、と、不意に男の声が聞こえた気がした。指が、ふとしたはずみに城の突端に触れた。
掛かっていた魔法が急激に解けたように、男の目の前で城が崩れていく。

からからからん。乾いた音が、リハビリ室に反響して、よく磨かれたフローリングの上に、色とりどりの積み木が飛沫のように散らばった。

付近に似いた何人かの人間が、その音に気づいて彼の方を見た。が、殆どの人間はそのことにさえ、気がつかなかったようだった。皆、黙々と、自分に与えられた苦痛と向き合っていた。誰も彼もが、自分の体の痛めた箇所を見つめて、眉をひそめていた。それは、城を崩した彼自身も同じのようだった。他人の目線など、気にしない様子で、崩れた城を、丸い目でしばらく、じっと見つめていた。

男は、ひゅう、ひゅう、と息をつきながら、その場に座り込んで、じっとしていたが、やがて、崩れてあたりに散らかった積み木を、右腕と左腕で抱え込むようにして寄せ集めた。それから、崩れた城を夢に描いて、再び一段目から、積み木の山を重ね始めた。


私は、歩行訓練で疲れた体を、部屋の隅の椅子に座って休ませながら、その光景を見つめていた。

彼に、家族はあるのだろうか。私はそんなことを考えていた。男の年齢は、明らかに50を超えていた。だが、彼の瞳は、それにしては妙に若々しく光っていた。もしかすると、彼は、あの右腕のケガの他にも、何らかの知的な障害を負っているのかもしれない。私はそう思った。無心になって、積み木を積んでいる彼の仕草を見ていると、私にはそうとしか思えなかった。

だが、よく良く考えてみれば、このリハビリ室に入る人間自体が皆、人間の発達を逆行させたのではないかと思うほど、小さな仕草一つに難儀している有様なのだ。彼にだけ、言えたことではないな、と私は思った。かくいう私も、腕を失ってから、ただまっすぐに歩くのだけで、難儀している。体の左右のバランスが悪くなったおかげで、少し歩いただけで、腰や背中に大きな負担がかかるのだ。

人間の体が、ここまで精妙にできていたということに、私はけがをしなければ、気がつくことはなかっただろうと思った。

右腕を失っても、私は当たり前のようにこうして生きている。心臓は事故前と同じように拍動し、瞳は物を見、耳は声を聞いている。まるで、この失った右肩さえ目をつむれば、何事も変わっていないように、はたからは見えるかもしれない。

しかし、こうして失った右腕を補うための訓練を続けている、残された私は、果たして、元の事故前の私と同じ人間だと、言えるのだろうか。椅子に座ったまま、白い病院の壁に背中を預けながら私はそんなことを考えていた。

右腕は、私から切り離された瞬間から、私では、なくなってしまった。私とは違う、一個の物体として、病院の何処かに葬られたのだ。かつて、紛れもない私として、私の意のままに、動いていたあの部分が、切り取られ、私ではなくなって、あの場に転がっていたと考えると、それは、なんとも不思議な気分がした。だが、それ以上に、そうして腕を失ってもなお私というものがまだ続いているということに、私は戸惑っていた。肩口から向こう側が私でなく、こちら側が私であった理由は、どこにあるのだろうか。脳があったから?脳がある側が私なのだろうか?

しかし、私には分かっていた。
たとえ脳が無傷ではあっても、私はもう、元の私ではなくなってしまっていた。やはり失ったものこそが、私であったのだ。あの日、この右肩の傷口の先に、確かにつながっていた小さな手のぬくもりは、体の一部であった私の右腕と共に永遠に、私の元から、失われてしまったのだ。

この体が、私なのではない。あれこそが私であったのだ。息子が、そして、妻が、あれこそが私であったのだ。

2010年7月11日日曜日

Phantom pain

右肩から先がない。
そのことに気がついたのは、病院のベッドの上だった。

白い机、白いフレーム、白いシーツ。
天井の茶色いシミのような点々とした模様が鮮やかにさえ見える、真夏の真昼の午後だったように記憶している。

私が気がついたとき、私の周りには誰もいなかった。

数本のチューブが、私の左手から伸びていて、数桁の数字をデジタルで表示する、何物かの装置の中につながれていた。数本のチューブの一本は赤茶けた血液の色をしていて、その先にはおそらく輸血用の血液のバックがぶら下がっていた。


ああ、このチューブとバックは今、血管で俺の体とつながっているんだな。
そう思うと、このプラスチックの無機質な使い捨てバックが、自分と生を共にする臓器のようにさえ思えてきた。

正人は……。

私はふいに、その名前を思い出した。

正人は、どこに行ってしまったんだ……?








「……ああ、どうです」
寝そべったままの私の視界に覗き込むように入り込んできた、中年の医者が、しわの深く刻まれた真面目で硬い顔に慣れていない笑顔を浮かべて、当たり障りの無い言葉で私に語りかけた。

「……ええ……」
それ以上答えようがなかった。
意識が戻ってから、体はこれまでたまったうっぷんを晴らすようにあちこち痛んでいた。きっとこれでも、私の周りにぶら下がったバックのどれかから、鎮痛剤が相当量、処方されているのだろうが、足の指一本動かすたびに、関係ないはずの背中や腰が、スパークするのだ。

私の顔は、医者に答えようと口を動かすだけでも痛みを感じて、始終愛想悪くゆがんでいたはずだった。

「……、痛いです、あちこち……」
私は情け無さも感じながら、そう訴えずにはいられなかった。

医者は、それはそうでしょうとは感じながらも、そんなことなどおくびにも出さない硬い笑顔のまま、ただ大きくうなづくだけだった。

「背中の骨と、腰の骨に、大きなヒビが入っています。痛ければ、もう少し、鎮痛剤を処方してもらいましょう……」
医者は、その後、私の顔を覗き込んだまま、何ものかを待つように、言葉を切った。
私は、医者の待っている質問が分かっていた。だが、それを発することは私にとって大きな勇気がいった。その医者の答えるであろう回答も、私には予想出来ていたから。

「……正人は……、正人と、優子は……」

医者は、その質問に、それまで痛いほどに投げつけていた目を、一瞬、宙に切った。そして、再びその目を私の動けない顔に向けた。先程よりも、ずっと力のこもった視線で。

「……脳死です、息子さんの方は……。先程、担当医が報告してくれました。奥様は、即死でした……」

私は、私を、何かが空に引っ張りあげるような感覚を感じた。気が遠くなるというより、語弊を伴わずに言えば、身が軽くなるといった感覚か。私は、もう、両親でも、夫でも、なくなり、たった一人の、男になってしまったのだという、ふわふわとした、背中のざらつく感覚だった。

「……子供の脳死判定は難しく、脳死と思われても、一定確率で蘇生する例があります。……しかし、その確率は、ほんとうにまれとしか言いようがなく……」

医者が言わんとしていることはわかった。

「……お願いします」
私は、喉の奥から吐き気がしそうなのをこらえながら言った。

「……今の状態が続いても、せいぜい数日……、なんですよね?……先生方をご信頼します」私はそこで、言葉を切った。肺を固く締め付ける固定具のため、息が続かなかった。

「……息子の……、臓器を、他の子供達のため、役立ててください……」

私はそこまで言うと、力尽き、目を閉じた。医者の反応など、もう見たくはなかった。彼がこれからどうするか、想像したくなくても、想像できた。息子はこれから、親の決断によってバラバラにされ、内蔵をとり出され、その必要のままに、他の子供達の待つ病院に送られていくだろう。

彼の存在意義は、もう臓器にしか無いということなのか?
そんな疑問も浮かんだが、それを考えるには、私はあまりにも打ちのめされていた。冷静に考えることなど今はできないと感じていた。いやでも、私はこの事実を背負っていくだろう。これから、残された人生をかけて、私はこのことを見つめ続けていかなくてはいけないのだ。

『パパのお仕事って、どんなの』
息子が、大きな目をくりくりさせながら、尋ねてきた日のことを思い出す。

「お船で、新潟の港から佐渡まで、人を届けるのが仕事だよ」
私は答えた。息子は私のあぐらの上で大きな黒い瞳を、鮮やかに輝かせた。
『トキ見える?トキ?佐渡にいるんでしょ?』

私は笑った。
「……いるいる。でも、船からは見えないなあ。まだ、ゲージの中にいるんだ」

えーっ。
息子は頬をふくらませた。夏が近づき、白かった彼の頬は男の子らしくたくましく、褐色に焼けはじめていた。

そんなぁ。

そうは言ったものの、息子の興味は尽きないようだった。
船の上ってどんなの?酔わない?イルカ見えるの?クジラいる?

そんな質問を矢継ぎ早に繰り出しながら、私たちは、夏休みに入って最初の連休を過ごしていた。彼にとっては人生最初の夏休みになる予定だった。私にとっても、息子と最初の夏休みなる。そう、予定していた。

2009年12月6日日曜日

After

あるホテルのホール。昨日から行われている学会の懇親会が開かれていた。ひとりの男が、会場の参加者に囲まれている。この学会は環境科学の学会だった。男は、この学会の会員ではなかったが、ゲストとして招かれ、今日の午前中に彼の研究している新しい半導体素子と、それによって産まれる新しい太陽電池の発電効率について講演したのだった。講演の盛況は、この懇親会における、参加者達からの取り囲まれ方からも容易に想像できた。新しい技術のもたらす未来について、誰もが目を輝かし、遠い10年も先の未来を既に見てきたかのように、聴衆は一様に興奮していた。

そんな中で、男だけはひとり、何処か浮かない顔で、彼を囲む聴衆の問いに答えていた。
その顔は、聴衆の期待を壊さぬ程度に微笑んでいた。しかし、彼の心が、その表情ほども晴れやかでないことは、熱が冷めて、冷静に彼を見つめるものからすれば明らかだった。しかし、彼を囲む人間は誰ひとり、そのことに気がつくことがなかった。それだけに、彼は一層孤独だった。人に囲まれ、熱を持った瞳に囲まれるほど、疲労がたまるようで、彼は口をついて出て来そうな溜息を、笑い顔の下で必死に堪えていた。やがて小一時間もしたころ、聴衆の質問が一段落したのを見計らって、彼は右手に持っていたワインのグラスを、周りの人々に気づかれないようにそっと、近くの白いテーブルクロスの上に置いた。


「……あれ、先生は?」
彼の学生の1人が、自分の教官の姿が見えなくなったことに気がついたのは、それからすぐのことだった。

「知らない」
オードブルの盛られた小皿を持ち上げながら、もうひとりの学生が答えた。

「もう部屋に帰られたんじゃないかな。……先生、少しお疲れのご様子に見えなかった?」
「そう?」
「……そんな、気がしたんだけど」
彼女は手にグラスを持ったまま、辺りをきょろきょろと見渡した。
群れる人混みの中に、彼女の知る教官の姿はなかった。彼女は不安げに溜息をつき、一度は電話を入れようかとも考えたが、先生には先生のご用時があるのだろうと考え、一度は取り出した携帯電話を、折りたたんで小さなバッグの中にしまった。


その頃、男は既にホテルの外にいた。
月明かりの晩だった。ホテルの外には、小振りだが良く整えられたブリテン風の庭園があり、まだ咲ききらないバラの匂いが辺り一面に漂っていた。夜露に濡れた花の香りは、まるで香水を振りまいたかのように強く薫るものだが、彼はそのことを知らなかった。ただ、その香りに彼は、彼を疲れさせるものが肺の奥から抜けていくような気持ちがして、大きく深い息をついた。

こうして、月の晩にゆっくり外を歩くのは幾日ぶりだろう。
彼はそんなことを考えていた。整えられた遊歩道の上をゆっくりと歩きながら。

学会から学会と、最近立て続けに仕事が入り、それ自体は嬉しくないことはないのだが、こうして外を歩く貴重な時間をすっかり失ってしまっていた。……昔はもっと、夜に散歩したものだった。星を見たり、月を見たり、人の少ない通りを、静かに、夜に融け込むように、そっと……。

彼の歩調が、急に静かになった。
両手を灰色のポケットにねじ込み、そしてその場に立ち止まって、微かに呟いた。

「彼女は、元気だろうか……」



“ねえ、私ね、感じるんだ。”
何が?

“私達の関係って……、今日明日の関係じゃなく、一生もののような気がする”
……どういう意味だ?

“……別に結婚とか、そう言う事じゃなくて……、なんて言うのかな、強いて言えば『縁』って言うものなのかも知れない”
……曖昧な理屈だな。

“曖昧だよ。でも、だから、確かなんだ。あなたとは何故か、考えて付き合わなくても、上手くやってきたもの。私にも、理由は分からないけれど、こんな気持ちになったのは初めてだった”
……。

“そうして、こういう関係は、もう他にないような気がする……”
それでも、僕はやりたいことがある……。なりたい自分があったんだ……。

“ねえ、よろしくね、これからも……、傍にいることは、もう出来なくなるけれど……”

……なりたい、自分……。


「よかったのかな、これで……」
月明かりの下、彼は独りごちた。

「あれから随分の時間がすぎて……、僕たちはもう学生じゃなくなった……。別々の人生を歩んで……。たぶん、彼女なら幸せに……」
彼は、微かに笑った。

俺は、放棄しただけなのだろうか。自分の夢のために、誰かと共に歩み、その人を、他の誰よりも幸せにすることを。

俺は、臆病なだけだったのかも知れない……。
彼は思った。

彼は、まだ妻を持っていなかった。
彼女のことを、まだ期待していたというわけではない。その証拠に、彼はこれまで、幾人かの女生と交際していた。しかし、結局、彼はまだ妻帯していなかった。その間に時間は静かに彼のもとを流れていった。気がつけば彼は、既に妻を持つと言うことをすっかり考えなくなった自分を見出していた。斯うしてポケットに手を入れたまま、俺は俺の人生を夜路のように静かに歩いていくんだろう。彼はそう考えていた。

ふと、涼しい風が彼の首筋を通りすぎた。
辺りに漂っていたバラの香りは、一瞬行く場所を失って彷徨ったが、気がつけば消えて無くなってしまっていた。

「……もう、入ろうか」
彼は皮肉に微笑んだ。入ればまた、いつもの見知った顔に合うのだろう。
その人達の前で俺はまた、先生の顔をするわけだ。憧れた、「なりたい自分」の顔を……。


「……祐介?」
その時、俯いた彼の前方から声がした。

「祐介、でしょ?」
彼は驚いて顔を上げた。暗闇で、相手の顔は殆ど見えなかった。
しかし、彼は既に気づいていた。その影が、彼女であることを。

「……どうしたんだ、諒子……」
彼はその時、驚きのあまり、子供のように目を大きくあけて、暗闇に良く光る瞳で、彼女を見つめていたが、彼自身それを意識することはなかった。
彼女はその、年甲斐もなく幼い彼の反応を見て、ただ、懐かしそうに微笑んでいた。

「……今日、あなたの講演がこの街に来るって聴いたから……、後ろの方で聴いてたの。もう、余りよく解らなかったけれど……」
「そんな、あらかじめ言ってくれれば……」
彼は擦れて声が出なかった。振り絞るようにして彼女に届くように声を出した。

彼女は、何も言わなかった。
だが、彼にはそれで十分だった。

おそらく彼女は、彼の前に、もう姿は現さないつもりでいたに違いなかった。
しかし、思わず、もしくは偶然に、彼の前に出てしまったのだ。

「ねえ、言ったでしょう?」
彼女は言った。あどけない笑みを浮かべて。

彼は微笑んだ。
ああ、言ったとおりだ。あの日、彼女が言ったように……。


暗闇の中で、彼女がそっと彼の手を握った。
その手には指輪をしていなかった。

しかし、彼女の物腰は明らかに、子を持ち、家庭を持つ女性のものだった。
その笑顔はあの日のままだったが、開け広げて熱を放つような、若さは彼女にはもうなくなっていた。

「……あなたは、随分偉くなった」
彼女は言った。

「私からどんどん離れていって……。そして、私たちは別れてしまった」
そうかもな。
彼は思った。彼女の手の熱を感じながら。

俺は気がつけば、随分遠くまで行ってしまっていた。
夢を追うことが、初めは二人の間に、これほどまでの距離を生み出すとは、少しも思わなかったのに……。

「……でも、今だから思うの」
彼女は、前を見つめて言った。
「……これが、私達の幸せの形、だったんじゃない?」

自分と共にいることが、相手にとって必ずしも幸せに繋がらないと悟った時、人は、どうするべきだろう。
彼は思った。

全てを手に入れようとする者もいるだろう。だが……。
臆病と言われることを覚悟しても、引き下がることもまた、選択なのではないか?


「おれは、これで良かったのかな……」
彼は呟くように言った。

「……良かったのよ、これで……」
彼女は言った。

「恥ずかしくない、生き方をしているわ。あなたは」

ホテルの喧噪が、微かに聞こえる。
彼を捜す、学生の声がした。

その声を聴き、彼女は彼にも悟られずに、暗闇の中でひとり、俯いて静かに微笑むと、引きつけられるように握りしめていたはずの彼の手を、指輪の無い左手からそっと離した。

2009年11月17日火曜日

パルミラ (15)

僕は今、不思議な懐かしさを感じながら、この手記を読み返していた。

思えば、この不幸な出来事からすでに3年の月日が流れている。
この思い出は、長らく、僕の心の中に暗い影を落とし、思い返すことすら、ずっと忌避し続けていたのだが、今、こうして読み返してみると、それは確かに、ところどころ古い傷に触るようなつらさを伴ってはいるのだが、どこか懐かしく、僕は思わず自分の胸をかきむしりながらも、この文章を読み進めずにはいられなかった。

あの時の僕は、大切なものを失った喪失感を、何か別のもので埋め合わせようと必死だったのかもしれない。青い目の少女も、そして、あの不幸なパルミラも、僕の心の底に開いた穴を埋め会わせるために、僕が必要としていた存在だった。だが、思えばぼくは、あの時、本当に何かを失っていたのだろうか?あの、心の中の空白は、何かを失って空いたものではなく、成長とともに、心の中に開いた、一種の間隙だったのではないかと今では思っている。

僕は、その間隙を、まずパルミラで埋め合わせることを学んだ。
そして、それでも埋めることができない、何か本質的な部分を青い目の彼女という存在で埋めようとしていたのかもしれない。

それは、僕だけではなく、あの時代に生きる人の多くが抱えていた病だった。
パルミラが、あれほど急速に社会に浸透したのは、僕の感じていたような喪失感を、僕以外の大くの人々も一緒に感じていたためではないかと思っている。

みんなの生き方が、ばらばらになっていく時代の中で、僕らはつながっているすべを模索したまま、でもその答えがまだ見つからないうちに、時代だけがどんどん前に進んでいってしまっていた。

僕らは必死に、コミュニケーションをとるすべを開発しようとした。
メールに、インターネットに、ケータイに……、ばらばらになっていく心と心との間隙をつなげる手法を、僕らは開発しようとしたが、どれも、僕らを、満足させることは、できなかった。

それは、何だったのだろうか。
何が足りなかったのだろうか。

僕はそれが「肯定」だったのではないかと思っている。
自分一人しか、自分のすることの価値を見いだせなくなっていると思っていた時代の中で、傍にいつも寄り添って、自分のこれからすることを、黙ってほほ笑みながら見つめていてくれる存在を求めていたのではないだろうか?

あるいは……、黙って僕に手を差し出し、そして、全てを僕に委ねてくれる、そうした存在を……、触覚を伴った存在を、僕らは求めていたのだ。

理解し合うほどの時間があれば、それも解消できるのだろう。
でも、あの時の僕らには、その時間すら、無かった。



つい先日、全く偶然だったのだが、大通りを歩いていて、懐かしい顔に出会った。
日の少し陰った日曜の昼下がり、通りの向こうから歩いてきたのは、あのパルミラの販売代理店でずっとバイトしていた彼だった。

「やあ!」
僕が懐かしさと驚きで、思わず大きく手を挙げて彼に声をかけると、彼も驚きに目を丸くして、手をあげてこたえた。
彼の右手には、3、4歳くらいの少女がしっかりと手をつながれていた。
そして、その少女の、さらに右側には、彼より少し小柄な女性が寄り添って歩いていた。
「結婚したんだ」
彼は、僕の考えていることに気づいたのか、真っ先にそう答えた。
「妻と……、娘だ」
彼はそう言って、その少女の細い髪の毛にそっと手を触れた。
娘、と紹介された少女は、不安げな目で僕をじっと見つめたまま、恥ずかしそうに、父親の足の影に身を隠した。
「人見知りでね……。誰に似たんだか」
彼はそう言いながらも、目を細めて、自分の背中側に隠れた少女を見つめた。
彼の傍らでは、彼の妻と呼ばれた女性が、何か言いたげな瞳を彼に向けてじっと見つめていたが、その口元は、なんだかおかしそうに微笑んでいた。

「君は?……まだ、一人でいるのか」
「ああ……。まだ、一人でふらふらしてるよ」
僕は情けないけど、というニュアンスを込めて、自嘲するように笑った。
「はは……。まあ、今は生き方もいろいろだからな」
彼は、僕をやさしくそうフォローすると、
「でも、家庭を持つっていいものだぜ」
と言って、再び自分の娘の方を見た。
彼の娘は、まだ父の足の影に隠れながら、片方の手の指を自分の口にくわえて、じっと僕の方を見つめていた。不安がだんだん薄れてきたのか、父の足と、彼女との距離が、先ほどより身体半分だけ離れていた。

「確かに、いろいろ厄介なことも多いし、気をすり減らすことも多いんだけど……。なんというか、毎日が充実しているんだ。……今を生きているって感覚が、もしかすると、独身の時より強く感じられているような気がしてる」
彼はそこまで言うと、自分の腰ほども届かない幼い娘に目を向けて、
「1人で、勝手に死んじまう訳にも行かなくなったせいかもな」
僕は、彼の言葉に、簡潔に、そうだな、と答えた。
今の彼は、地に足がしっかり付いているように、僕には見えた。確かに、独身の時の、どこか手探りで、着地するべき場所を探しているような落ち着きのなさは、今の彼にはなかった。
責任。僕はその言葉の意味を思い返していた。それは時に、人を縛りもするが、絶望の底に堕とされそうな時には、命綱(ザイル)にも変わる。

「……君の不幸な話は、僕もまだ覚えているよ……。あれは、大層ショックだったろうな」
彼は、至極残念そうな顔をして、僕にそう言った。
「いや、もういいんだ」
僕は彼に言った。
「どうしてなんだろう……。確かに、当時は相当ショックだったんだけれど……。今では、むしろ良く分からないんだ。どうして、あの時、あんなに、あのことで傷ついていたのか……」
僕は少しためらったが、言葉を継いだ。
「……あの……、機械人形のことで……」
彼が、大きくため息をついたのが聞こえた。
「じつは……、僕もそうなんだ」
彼は言った。僕は驚いて彼の顔を見た。

「僕の、あの二体目のパルミラ……、確かにあの後、ずっとかわいがってはいたんだけど……。それから、どうしてか、あんまり連れて歩かなくなってさ……。そのころかな、僕が、彼女と付き合い始めたのは……。今では、物置に、じっとして眠っているよ。……さすがに、捨てるわけにもいかなくてさ」
彼は困ったように笑った。
彼の娘が、唐突に彼の顔を見上げた。
「……パルちゃん?」
幼い少女らしい、高い声で、少女は父親に問いかけた。
「そう、パルちゃん」
父親は僕に話しかけるときとは違う、やさしいまなざしと声で、まっすぐに見つめ続ける娘に、答えた。
「……パルちゃんね、みーちゃんの友達なんだよ。時々、お話しするの……。パルちゃん、チョコが大好きなの……。でも、お口の周りを汚すから、お母さんに怒られるの」
傍らに立つ母親が、困ったように、娘の肩に手をかけた。
しかし娘は、そんなことにさえ気がつかない様子で、じっと父親の足元から、彼女をやさしげに見下ろす二つの瞳を見つめていた。

僕はその光景を見ながら、確かに僕の求めていたものは、こういうものなのかもしれないと考えていた。
あの時代そのものが、この光景を求めていたのかもしれない。

彼の話では、彼はもう、パルミラの販売代理店では働いていないということだった。
パルミラの生産台数は、ここ数年で急速に落ち込み、経営は思わしくないそうだ。言われてみれば確かに、もうこうして街頭を歩いてみても、パルミラを連れて歩く人は見かけなくなっていた。まるで一時の、……とはいっても二十年近く続いたのだが……、熱病であったかのように、パルミラは忽然と、僕らの前から姿を消してしまった。

「……時代が求めていたんだと思うよ」
彼は僕の方を向き直って言った。
「……しかし、もう時代が、求めなくなったんだ」

彼は、これから映画を見に行くんだと言って、僕と別れた。
どんな映画か試しに聞いてみると、
「……子供向けのアニメ映画だよ」
と、恥ずかしそうに言って笑った。
彼の妻は、すれ違ってからも僕の方を向いて、微笑みながら、丁重にお辞儀をしていた。僕も思わず、彼女が頭を何度も下げる回数に同調して、頭を上下させていた。


僕は彼らと別れてから、一人、見知ったものがいなくなった大通りを歩きながら、彼らの必要としなくなったパルミラを想っていた。暗い押し入れの隅で眠り、ほこりをかぶることを受け止め続けているパルミラ。
必要とされれば表に出され、微笑みを振りまき、所有者を元気づけていた彼女も、必要とされなくなれば、静かにそれを受け入れ、過ぎゆくときを見つめているだけだ。

だが、やさしさとは本来、そういったものなのではないだろうか。
僕にはなぜかそんな気がしていた。

僕らはパルミラに学ばされたのだ。
あれは、時代の裂け目に現れ、僕らに何かを伝えるために存在した悲しい人形だったのではないだろうか。

彼女の伝えようとしたものは、確かに僕らの心に、伝わっていたのだろうか。
僕はそんなことを考えた。
もしかすると、彼女を搾取しただけで、終わってしまったのではないだろうか。


大通りのポプラ並木の向こうには突き抜けるほど高い、青い秋空が広がっている。
空の片隅から、羊雲の一群がどやどやと行進してくるのが見える。

ふと、僕は通りに沿って並んだビルの高い窓の一つから、二つの真っ黒で大きな瞳が僕の方を見下ろしているのを認めた。その瞳は、僕と目が合うと、たちまち細くなびいて、愛らしい、美しい笑顔となって僕の方を見つめた。

僕はその瞳に手を振ってこたえた。
微笑んだ二つの瞳の傍らから小さな丸い手が、僕に手をつなぐのを促すかのようにそっと伸ばされたを僕は見た。

だが、ちょうどその時、暗い窓の向こうから、また別な二本の手が伸びてきて、その少女の腰をつかんだ。二本の白い手は、慣れた手つきで、少女をそっと抱きかかえると、暗い部屋の奥に連れ去ってしまった。

僕は自分の顔がいつの間にか緩んでいるのを感じた。
久しぶりに、パルミラを見た気がしていた。何のわだかまりも感じずに、あの笑顔に答えられたのは、あれ以来始めてだったような気がしていた。

僕は再び、前方に広がる幅の広い通りに目をやった。
見知ったものは誰もいなかった。しかしそれは、同時にすがすがしくもあった。

その時、ふと気になって再びあの高い窓に目をやると、暗い部屋の中からこちらをじっと見つめている強い視線があるのに気づいた。

驚いて、その視線に手を振った。

窓はすでに開け放たれていた。
それは一人の女性だった。真っ白い、細い首をのばして、僕の方を見つめている。

大きく見開かれた、二つの青い瞳が、たちまち細くなびいて、気がつけば僕は、彼女の名前を、大声で叫んでいた。




[終]

2009年11月14日土曜日

パルミラ (14)

それは、もしかすると、家族旅行の写真なのかも知れなかった。
ファインダーを向けたのは、彼女の父で、あのパルミラは、家族の物なのかも知れなかった。

だが、僕にはそう考えることが出来なかった。何より、大分うち解けたと思っていた彼女の心が、予想以上に遠くにあったことに、僕はうちひしがれていた。

僕は、失意を感じながら、自分のパソコンの前から離れた。

振り向けば僕のパルミラが、片手を宙に差し出したまま、じっとこちらを見ていた。
パルミラは笑っていた。不調が改善したらしく、また以前のように愛らしく微笑んで、差し出したその小さな丸い手を僕が再び取るのを、ただじっと待っていた。

僕は、自分のパルミラに近づき、その手を取った。その手は子供の手のそれのように、微かに暖かった。そして、パルミラは僕の視線に反応し、僕の方を見て、にこりと微笑もうとした……。


しかし、動きはそこで止まった。

パルミラの首の関節が、その時、突如、耳障りな異音を立て始め、歯車の空回りするキイキイと甲高い音が首筋から聞こえてきた。パルミラの頭は、歯車の振動で、小刻みにがくがくと揺れた。そして、微笑んだ目だけが、廻らない首より先に僕の瞳を捕らえた。口元が、安心したように細く伸びた。

キュウウウと激しい音がした。つんと、ゴムの灼けるような嫌な匂いが鼻をついた。アンバランスに首だけが、がくりと力なく前に落ち、そのままがたがたと左右に大きく振れ始めた。首だけだった震えはやがて、身体全体に拡がり、身体の各部分(パーツ)が、独立した別個の生きもののようにぴくぴくと痙攣を始めると、僕は薄気味悪くなり、思わず彼女から手を離してしまった。

彼女は震えて立っていられなくなり、仰向けに床に転がった。手だけは高く宙に差し出されたまま、身体はまだ、中で何かがもだえているかのようにビクビクと震えている。瞳が、再び僕の顔を捕らえた。口元が細く引かれ、パルミラが笑った。首がさっきより激しくギイギイと振動をたてはじめた。笑いながら首がひっきりなしに震えている。やがて、歯車が異なる場所でかみ合ったのか、振り回される振り子のように、首がぐるぐると激しく回転運動を始た。首の皮膚が回転運動に巻き込まれ、すぐに伸びきって、切れかかったところで、歯車の擦れる音を激しく立てながら回転は止まった。身体が痙攣しながら、徐々に反り返った。そしてすっかり背中が反ってしまったところで、おなかの皮膚が裂けるぶちん、という音がして、反り返った身体は、バランスを崩して横向きになった。パルミラの瞳は、まだ震え続けている首の先で、それでも大きく見開かれ、僕の顔を捕らえようとしていた。そして、口元はずっと、笑ったままだった。切れた首や、おなかの皮膚の間から、卵の白身のような透明で生暖かい、正体の分からない液体が漏れ始めた。それは震える首筋に反って流れ落ち、白い衣服を濡らし、床の上にひとしずくずつ滴った。パルミラが時折、大きく痙攣する度に、そのどろりとした液体は細かな雫となって、四方に飛び散った。同じ液体はやがて、パルミラの目や鼻、耳からも漏れ出した。彼女の顔は頑なに微笑んだまま、やがてその液体でどろどろに濡れてしまった。

僕は、これ以上パルミラを見ていられなくなった。
パルミラの電源スイッチについては不明だった。だから、このコントロールを失った作り物を、可逆的に停止させる術はもはや無かった。

僕は先ほどまで座っていた、スチールフレームの椅子を手に取った。
パルミラは床の上に転がったまま、まだ震えていた。微笑んだその顔は、依然と何ら変わらないはずだった。僕はそれに愛情すら感じていたはずだった。しかし、どうしてだろう。僕にはもう、この笑顔が、ただ気味の悪い物としか写らなくなっていた。

僕は椅子を高く振り上げた。そして、痙攣を続けながら、微笑んだままの頭にめがけて、それを力一杯振り下ろした。


それから数時間の時間が経過したのに、僕は気がつかなかった。
時計を見て……、いや、その前に、明るかったはずの空がいつの間にか暗くなりかけていたことに気がついて、僕は時間の経過を知ったのだ。

僕の衣服は、どろどろした透明な液体で湿っていた。
辺りには、飛び散った金属片や、プラスチック片が散乱していた。飛散した破片が頬に当たって、僕は右頬に少し傷を負っていた。手で触れると、指先にわずかに血が付いた。

僕は自分の傍らに転がった、幼児ほどの大きさの固まりを見た。それは、頭部がひしゃげて潰れており、脳天から、幾つもの部品が飛散しているのだった。大きな丸い瞳が、片方だけ半分飛び出していた。それは、最後の瞬間まで、僕の表情を捕らえ、微笑んでいた瞳だった。今ではもう、何物も捕らえることはない、乾いた瞳。表面に付いた透明な液体が乾燥して、その飛び出した瞳は白く濁っていた。

僕は何か、大きな物を失った気がしていた。
しかし、それを失ったのが、果たして今なのか、僕には解らなかった。
僕らは実はもうずっと以前に、それを失っていたのかも知れなかった。だが、それを意識しないで、意識することを避けたまま、もう長いこと生きてきていたのかもしれなかった。

それが具体的になんという名前で呼ばれるべき物であるのか、その時の、僕の疲れた頭では、すぐに思い出せそうになかった。僕はフラリと部屋から外に出た。どろどろする液体が乾いて、身体に糊のように張り付き始めた。

孤独、それは、愛すべきものが見つからない時に感じる感情。
そんなことを言ったのは、あの青い目の彼女だったか。

彼女は知っていたのだろうか。
僕らが、気づかないうちに失っていた物を。

そんな事を考えながら、疲れた身体を引き摺り、マンションの表側の廊下をエレベーターに向けて歩いた。


指先は無意識にポケットを探り、吸ったこともないタバコを探していた。

2009年11月13日金曜日

パルミラ (13)

†5
翌日朝早く彼女は発っていった。僕は何とか彼女を見送ることが出来、二言三言の挨拶をして、慌ただしく彼女と別れた。
見送りをすませると、僕も荷造りを始めた。
少ない荷物とおみやげを、スーツケースにあらかた詰め込んでしまうと、僕の目は部屋の隅に残された、パルミラに、ようやく向けられた。
パルミラはまだ、昨夜、僕が向きを変えた時のままに、何もない壁を見つめて、ひっそりと静止していた。

僕は無意識にこのロボットから目をそらしていたことに、その時気づいた。いつの間にか、もう以前ほどの愛着を感じられなくなってしまっていた。それでもここに置いていくのも迷惑だろうと思った。手荷物にして飛行機に乗せようとしても、荷物としてあらかじめ送ることすら、周りの人に阻まれて、うまくいかないだろう。僕はやっかいな物を持ってきてしまったと、内心後悔していた。それでも、長い間一緒に暮らしていた擬似的なパートナーではあるのだから、責任を持って、連れて帰る必要はあると思った。

僕は何となく、パルミラに微笑みかけ、壁に向けて伸ばされたままの手を掴んで、彼女を振り向かせた。愛らしい彼女の顔を覗き込んでも、彼女はうつろな瞳のままで、にこりとも微笑んではくれなかった。

笑わないパルミラをつれ、僕は再び長い間飛行機に乗って、自分の国に戻った。
飛行機の中で、僕はずっと眠っていたが、夢に見たのは遠い異国で出会った彼女との甘くおぼろげな思い出くらいだった。

充実した5日間の旅行に疲れて、ぐっすりと眠っている間に、世界は旅立つ前の見なれた様相を取り戻していた。


住み慣れた部屋に戻り、荷物を元あった場所に片付けてしまうと、僕はすぐ自分のパソコンに向かった。自分のメールボックスに、着信はまだ無かった。さすがに帰国したその日にメールが来ることはないとは思ったが、僕は自分の分の写真はその日の内に整理してしまい、早々に彼女に送っておいた。

しかし、それから数日が経っても、彼女からの返信はなかった。

ようやく返事が返ってきたのは、旅行から帰ってきて2週間ほどが過ぎた頃だった。
『おくれてしまってごめんなさい』
とは文面に書かれていたものの、メールはわずか数行の簡素な物だった。それでも、そのシンプルな文面の中に、彼女らしい快活さを感じて、僕は思わず微笑んでしまった。

メールには、確かにたくさんの写真が添えられていた。
彼女は、おそらく、カメラに入っていたたくさんの写真をざっと整理しただけで送ってきたらしい。中には少し手ぶれして、お世辞にも上手に撮れているとは言えない写真も数枚混じっていた。それでも、その写真は僕と彼女の懐かしい旅行の記憶を呼び覚ますのに十分すぎる物だった。僕と彼女が旅行先で取った幾つもの写真。教会、遺跡、美しい自然……。

しかし、その写真も後半になって、僕はその中に、数枚、取った覚えのない、見なれないものが混じっていることに気づき、思わず首を傾げた。

それは、日本での写真のようだった。
おそらくは、何処かの島なのだろうか。美しい海が背景に拡がった、高原の中で彼女と一緒に微笑む、パルミラの写真。しかし、そのパルミラは彼女が旅行に連れてきていた物とは違う物のようだった。彼女のパルミラより、それは明らかに新しい個体だった。彼女の連れてきていた物は、彼女の祖母の物だったから、時間が経ったパルミラ特有の少し落ち着いた皮膚の色をしていた。この写真に写っているのは、おそらくまだ、製造されて1年と経っていないもののようだった。どうやら、この写真自体が先日の旅行より少し前に取られた物のようで、写真のデータをよく調べると、“撮影日5/6”と記録されていた。

しかし、なにより僕を驚かせたのは、その写真に写った彼女の表情だった。
それは、とても自然な笑顔だった。僕の持っているカメラに写った彼女の写真には、その笑顔はなかった。僕の写真に写ったどの笑顔よりもずっとその笑顔は自然で、そして、耐え難いほど美しかった。傍らで微笑むパルミラの笑顔は、やはり愛らしかったが、彼女の微笑みは、そのパルミラの微笑みの比ではなかった。

僕は長いこと、人工的な微笑みばかりに心を許してきたせいか、人の微笑みの真贋すら、もう見分けが付かなくなっていたようだった。彼女のその微笑みは、微笑むことを目的としていなかった。それは、内側から零れてしまって生じたものだった。僕は、彼女のその表情を撮影していないだけでなく、“知らない“ことに気づいた。そして、そのカメラを向けた誰かが、明らかに彼女の一瞬の表情を出来る限り美しく捕らえようする一種の愛着を持って、そのレンズを彼女に向けていることに僕は気づいた。

2009年10月6日火曜日

パルミラ (12)

僕と彼女は、時間を惜しむように、その後、近くの小さなレストランで夕食を取り、それから少し歩いて、大分遅い時間まで、街角のカフェでコーヒーを飲んでいた。そしてその後、ペンションに戻ってからも、僕らはしばらくロビーで話し込んでいた。翌日の彼女の飛行機は、朝大分早い時間だったが、彼女は出来る限り起きていてくれた。そして夜半も過ぎ、いい加減、明日の行動に差し支えるという時間になって彼女はようやく、ロビーのソファーから立ち上がり、明日はたぶん会う暇がないだろうからと、お休みとさよならを一緒に言って下がった。

僕は彼女が部屋に戻ってからも、頭の後ろに手を組んで、しばらくソファーに座っていた。向かいのソファーには、先ほどまで彼女の座っていたかたちに窪んでいて、僕ままだ、彼女と向かい合っているような、不思議な高揚感を感じていた。僕は何度となく触れた、彼女の指先の感覚を思い出していた。そして、鼻先で微笑む彼女の大きな笑顔を思い出した。
思わず浮かんでくる笑みを堪えながら、ふと時計を見れば、いい加減、僕も寝なくてはいけない時間になっていた。僕は、後ろ髪引かれる思いを感じながら、そっとソファーから腰を上げ、自分の部屋に戻った。

僕の部屋の扉を開けると、既にカーテンが引かれていて、部屋の中は真っ暗だった。廊下の明かりが一本の筋のように部屋の中に入り込んだ。僕は、その光りの先に視線を感じて、思わず眉をひそめた。
それは、僕のパルミラだった。

僕のパルミラは、旅行の初日、調子を悪くして部屋の隅に置かれたままの状態で、それから三日間放置されていた。あの時と同じ、虚空を見据えたまま、その瞳は、廊下から差し込む光をうつろに反射していた。

僕は暗闇に浮かぶこのロボットが、始めて気持ちの悪い物であると感じた。
こんな物を毎日連れ歩いていた自分が信じられなくなりそうだった。この自分の心境の変化には、僕自身、戸惑っている部分もあったが、僕はその時、この心理こそが普通なのだと、固く信じていた。おそらくは街のストレスの多い孤独な生活の中にいると、人間の心は矮小化し、こうしたロボットの助けを借りなくては自分の心の平静を保てなくなるのだろうと僕は思った。

僕は部屋の明かりを付け、この気味の悪い模造物の身体を180度回して、壁の方に向けた。
中途半端な姿勢で固まっていたパルミラは、その時足を交互に動かして、従順に壁の方を向いた。人間の子供なら、絶対に壁を見たまま静止することはないだろう。その不格好で、悲しく、薄気味悪い後ろ姿を見ながら、僕は眠れる気がしなかった。僕はベッドの枕の位置を逆にし、パルミラの方に足が向くようにした。そして、それでも消えない人間の気配に背を向け、部屋を暗くして、壁を見つめて眠った。

2009年9月28日月曜日

パルミラ (11)

「……ねえ?」
彼女が僕の方を見た。
僕は視線を彼女の瞳に戻した。

「……あなたのパルミラ、なんか様子が変じゃない?」
彼女はてくてくと僕の所まで歩いてくると、僕の足下にかがみ込んだ。
「……やっぱり変。私を見ても笑ってくれない……。夕べ、ちゃんと休ませてあげた?」
僕の足下の影の中で、彼女は青い瞳で僕を見上げて言った。
「あ……、一応、レストマットの上には載せて置いたけれど……」
僕はしどろもどろに答えた。
「どうしちゃったのかしら……」
彼女は、心配そう僕のパルミラを見つめていた。僕のパルミラの目の前で、何度か手を振ってみたりもしたが、パルミラはその手の動きを追う素振りすら見せなかった。

試しに、僕がその手を引いて歩いてみようとすると、パルミラはちゃんと僕の後に付いて歩く仕草をした。しかし、僕がいくらまじまじと見つめていても、彼女は僕の顔など眼中にないかのように、焦点の定まらない目で、虚空を見つめているだけだった。
「……長旅のせいかしら」
彼女は腕を腰に当てて、すっくと立ち上がった。
「……何処か壊れてしまったのかも。……今日はとにかく、この子を置きに、一度部屋に帰りましょう」
彼女は残念そうにそう言った。

いったん部屋に戻り、パルミラを部屋の隅に立たせたまま、僕はそれまで握っていた彼女の手を離した。すっと、彼女の身体から生気が抜けたように感じた。彼女は、僕が手を離す瞬間、また手を引かれると感じたのか、片足を一歩前に踏み出しかけていた。そのまま、彼女は動きを停止したので、何か不格好な、それだけに余計悲しげな姿勢で、彼女は動きを止めたのだった。僕はそれを見ていて、パルミラはやはり、ロボットなのだと思った。

「……置いてきた?」
ペンションのロビーに戻ると、彼女がにこにこしながら待っていた。彼女の傍らにもパルミラの姿はなかった。
「もう、おばあちゃんを追いかける旅は終わったから」
彼女は恥ずかしそうにそう言った。
「……ここからは、私のための旅行。パルミラちゃんには悪いけど、休んでいてもらうことにしたの」
「うん、その方がいいかもね」
僕がそう言うと
「……そうよね」
彼女は、意地悪く、歯を見せて笑った。


それから残りの3日間は、彼女と共に楽しく過ごした。
本来だったら、僕のパルミラと一緒に巡るはずだった世界遺産の遺跡や、美しい滝、教会などを、僕は、旅先で出会った青い目の少女と共に巡った。思い出深いそれらの場所で撮られた記念写真には、本来予定されていた僕のパルミラの姿は無く、その変わりに、晴れやかに微笑んだ褐色の彼女の姿が写ることになった。

「……きれいに撮れてる?」
中世に建てられた荘厳な教会のステンドグラスの前で彼女の姿を写した後、彼女は僕の傍に駆け寄ってきて、デジタルカメラの小さな画面を僕と一緒に覗き込んだ。
「お、上出来」
冗談めかしてそう言って彼女は僕の鼻先で笑った。

彼女は何かを思い出したように、腰に付けたポーチから自分のカメラを取り出すと、自分が過去に撮った写真を見直し始めた。そして、
「……面白いよね……」と小さな声で呟いた。
「あなたの写真には私が一杯写っているし、私の写真には、あなたがたくさん写ってる。写真を撮った時の私の表情はどこにも残らない。でも、あなたには本来解らないはずの、私がどんな風に、あなたを見ていたか、その眼差しはこれに焼き付いている」
彼女は小さな画面を見つめながら、恥ずかしそうに微笑んだ。
「……後で、写真送るね。アドレス教えて?私だけ持ってても、しょうがない写真、ばっかりだし」
僕らはそこで、お互いのアドレスを交換した。

ちゃんと記録されたことを確認した後、彼女は、何か大きな用事でも済んだかのようにほっと息をついて、
「今日が最終日なんて、信じられない。もっと旅行が続けばいいのに……」そう言って眉尻を下げて笑った。
僕もその時には、彼女と同じ気持ちだった。
もっと旅行が続けばいいのに。彼女との時間が、もっと過ごせたらいいのに。そんな気持ちで一杯だった。

2009年9月20日日曜日

パルミラ (10)

「……おかしい!面白い子ね、あなたのパルミラ」
彼女はそう言って、僕のパルミラの頭を、無造作に撫でた。

パルミラは微笑んだまま、されるがままになっていた。僕は、自分が撫でられているような不思議な恥ずかしさを感じた。
「……もう、中に入りましょ?あなた、まだチェックインも済ましていないみたいだし……。ここのディナー、この辺で捕れた魚介類が一杯使われて、結構豪華らしいよ。……じゃあ、また、あとで!」

彼女はそう言うと、半袖から伸びた細く長い腕を曲げて、僕に挨拶した。僕も同じ仕草で彼女に返した。彼女のパルミラが彼女の後に続いて、笑いながら建物の中に入っていく。その微笑みは、画一的に規格化された笑顔以外の、何物でもないはずなのに、何処かしら彼女の、片方だけはっきりした愛らしいえくぼのある笑顔の面影が感じられ、見なれたはずのパルミラ笑顔に、僕は少し、照れてしまった。



翌日、彼女が街を案内するというので、僕たちも一緒させてもらった。
街を案内する、と言っても、彼女自身、この街に来たのは初めてなのだ。ただ、彼女のお母さんなどから聞いて、僕よりも良く、この街について知っているだけに過ぎない。

「……この街を巡って、空気を吸っているだけでいいの」
彼女は言った。

街全体が見渡せる高台だった。其処は古い城跡のようで、もうしろそのものは残っていなかったが、かつて城の周りを囲っていた城壁がその高台を縁取るようにぐるりと張り巡らされていた。城壁の切れ目には一台だけ、何処の観光地に出もあるようなコイン投入式の望遠鏡が据えられていた。そのクリーム色のメッキは先端部だけはげ落ち、昼前の陽光を浴びて、地の鉛色が鈍く光っていた。

彼女の瞳は、その城壁に囲まれた高い空をじっと見つめていた。はぐれ雲が、僕らの頭上を一つ、二つと流れていく。彼女はその青い空を飲み込もうとでもするように、細い喉を伸ばして、真上の空を見つめていた。

「この街にいるだけで……」
上を向いた彼女の喉から、微かな声が漏れた。
「それだけで、私はおばあちゃんと繋がっていられる気がするから……」

僕は、彼女の言葉に、すごく詩的なものを感じた。

もう存在しない人と、繋がっていられるという感覚が、本当にあるのか、僕には解らなかった。あるいは、そう言った感覚は、本来人間が持っているはずの感覚なのかも知れなかった。でも、僕らはいつしか、そう言った実体のない、しかし感覚だけは伴ったあやふやな絆を、確かな存在感を持って感じることが出来なくなっているのかも知れない。ただ、そうした目に見えない、皮膚で感じられない絆を信じ続けることは、僕には難しそうなことだと感じた。

それはとても不安なことだ。そして、見えないと言うことは、何度となく疑わしく思ってしまうものだ。

「……いま、変なこと言うなって、思ったでしょ」
気がつくと、彼女はもう空を見るのを止め、僕の方を向いて笑っていた。

「いや……」
「いいの。私も、そう思うから。……どうしてなのかなあ。ここに来て、始めてそんな身近におばあちゃんを感じられた気がする。もう死んじゃった人なのに。何年かに一度送られてくる、手紙の中だけの人だったおばあちゃんが、確かにここで産まれて、息をして、毎日……、ご飯を食べて、お出かけして、そして、波の音を聞きながら静かな夕食を取って……。そうして、冷たいシーツに入って、やれやれ、なんて溜息付いて、眠りについたんだろうなって、そんなどうでもいい、ありきたりな日常を感じるの。……それを……、このパルミラは、ずっと見ていたんだろうね。私達が、本来共有すべきだったそうした時間を、変わりに受け止めてくれていた」

彼女はそう言うと、祖母のパルミラの頭をそっと撫でた。
細い髪の毛が、さらさらと微かな音を立てたのが聞こえたような気がした。

「……絆って、なんなんだろう」
パルミラの細い髪の毛を、うっとりと愛おしげな瞳で見つめながら、彼女はぽつりと言った。

「それは、それほど大事な物だとは、今まで思ってこなかった。どちらかと言えば、私をがんじがらめにする……、自由を奪う鎖のように考えていた。でも……」
彼女はそこで、言葉を切った。続く言葉をゆっくりと選んでいるようだった。

「どうしてなんだろう。私がこの街に来てしまったのも、また、絆の力なんだよね……。縁、とでも言うのか……。私は、何処かで、人と繋がっていることを、まだ求めていたのかな……」
彼女はパルミラの頭をやさしく撫でながら、独り、含み笑いをした。
そして、ふと顔を上げ、僕の方を見つめた。

「あなたと出会ったのも、また、縁なのかもね。……おばあちゃんとの繋がりが、私とあなたを偶然引き合わせた。……あ、その前に、この子と私も」
彼女はそう言うと、自分のパルミラの頭を、ぽんぽん、と軽く叩いた。パルミラは、微笑みながら僕の方を見つめている。

「死んだ人は、ある意味、まだ死んでいないのかも。そう考えると不思議だね。その人はいなくなっても、その人の影響は、まだ残るんだ。……絆は、もしかすると、その人そのものとの繋がりでは、無いのかもね。だとすれば……。私が、おばあちゃんをここで感じられるのも、解る気がするな」
彼女はもう一度、青い空を見上げた。先ほどまで頭上にあった雲は、もう、視野の彼方にまで行ってしまっていた。

「私は、私の中のおばあちゃんと繋がっていたんだ。手紙の中のおばあちゃんの頃から、ずっと。そして、この街に来て、その繋がりが、もっと、確実な物になった気がして……。存在を信じられる物になった気がしている。わたしのこの目も、この肌の色も、おばあちゃんから受け継いだものなのだろうけど……、私の中のおばあちゃんは、いまいちはっきりした輪郭を持っていなかったから……」

彼女はそう言って、口をつぐんだ。
我を忘れたように、何もない空をじっと見つめていた。

僕はそんな彼女に、思わず見とれてしまっていた。
彼女の褐色の肌が、青い背景の中に、まるで一枚の絵のように融け込んで見えた。気がつけば、僕は彼女のかたちの良い脣だけを見つめていた。


「……ねえ?」
彼女が僕の方を見た。

2009年9月6日日曜日

パルミラ (9)

僕は向かいの席に座ったパルミラの瞳を、そっと覗きこんでみた。
海からの照り返しがまぶしいためか、パルミラは僕の視線には気付かず、ずっと海を見たままだ。深い黒真珠のような漆黒の瞳に、僕らの見詰めた海がさかさまに映しだされていた。
そのかすかに開いた、幼い口元からは、今しも、何か感嘆の声がこぼれてきそうで、あるいは、こぼれて来ているかのようで、僕はもう一度、彼女が見つめる海を見ながら、こそばゆくこみあげてくる、幸せというものにおそらくとてもよく似た感覚に、ほおを緩めていた。

海辺の小さなペンションに着くと、まだ昼下がりと言ったほどの時間ではあったが、すでに先客が来ていた。見れば、今日の飛行機で、僕のそばに席を取っていた、彼女だった。
「こんにちは!」
麦藁帽子の下で、彼女の青い瞳が驚いたように見開かれていた。
「あなた方も、こちらにいらしたの?」
「ええ!」
僕も、思わず、声が高くなった。
「あなたと、同じ国に旅行して、まさか同じ宿になるなんて!世界って、広いようで、意外と狭いんですね」
彼女はそれを聞くと、楽しそうに目を細めてふふ、と笑った。
「そうね……。あ、この子があなたのパルミラちゃん?何か、名前は付けてる?」
「いえ……。やっぱり、パルミラには、パルミラって名前が、一番似合っている気がして、そのままです。」
「そうよね」
彼女は、そういうと僕のパルミラの前に屈みこんで、その瞳をじっと見つめていた。僕のパルミラは、彼女の視線を受けて、首をかしげて、にこりと笑った。
「愛嬌のいい子ね!」
彼女も思わず笑った。
「他の人のより、ちょっと反応がいい気がするわ。きっと、あなたがちゃんとお世話(メンテナンス)してるのね」
「お世話(メンテナンス)なんて、本当に最低限のことしか」
僕はほめられて恥ずかしくなって、頭をかいた。
「あなたみたいに、ちゃんとパルミラ用の席を用意したり、しませんでしたし」
「私も、普通の旅行なら、パルミラには悪いけど椅子の前に座ってもらうわ」
彼女も恥ずかしそうに歯を見せて笑った。白いきれいな歯が並んでいた。
「……でも、今回の旅行は私にとって特別なの……。私の、オリジンをめぐるたび、だから」
「オリジン?」
僕は聞きなれない言葉に、戸惑い、聞き返した。
彼女は細い眉の下の青い瞳を僕に向けて、無言でまっすぐに頷いた。
「……私のおばあちゃん、そして、お母さんは、この国で生まれたの。で、日本のお父さんとの間に私が生まれて、お母さんは、この国を出た。……おばあちゃんだけ、残してね。で、そのおばあちゃんも、去年亡くなって……。そしたらね、その数日後に、大きな包が届いたの」
彼女はその時の驚きを表すかのように、手を身体の前に大きく広げて、丸く目を見開いた。
「開けてみたら、何ができたと思う……?」
彼女は、そういうと、彼女のうしろに隠れるように立っていたパルミラを、僕の前に引き出した。

「この子よ!」
僕はその時、彼女のパルミラを、初めて間近に見た。それは僕のと変わらない、ごく普通のパルミラだった。でも、どことなくその面影は、隣で微笑む青い瞳の彼女のそれに近いものがあった。
「……君に似ているね、何となく」
僕は感じたままを素直に言った。
「でしょ?」
彼女は目を糸のように細く引いて微笑んだ。笑うと、右側だけえくぼが出来た。
「……おばあちゃん、ずっと、機械の女の子なんて、気持ち悪くて嫌だって言ってたの。だから、きっと一人で暮らしてたんだと思ってた……。でも、私も、お母さん達も知らないところで、実はこの子と出会って、一緒に暮らしていたみたいなんだ。だから、私、これ見たとき思ったの。きっとおばあちゃん、私にずっと会いたかったんだろうなって……。」
彼女はそういうと、長い下まつげに彩られた目の端を、日に焼けた細い褐色の指先でそっとぬぐった。

「……お母さんが出ていく時、好きにしたらいいって言って、結局ここを離れたこと、一度もなかったのよね。それでも、気持ちは、私をいつも気にしていてくれた。そばにいたかった……。だから、その代わりとして、きっとこの子を愛していたんだろうなって思った。……人間って、完全に孤独では生きていけないじゃない?愛されなくてもいいけれど、愛する対象だけは、いつも必要だと思うから。……この子達のような」
彼女は、自分によく似たパルミラの瞳を、じっとのぞきこんだ。彼女のパルミラも、彼女の方を見て、にこやかにほほ笑んだ。
「この子は私より、おばあちゃんをずっと知ってる。本当は私に伝えたかったはずおばあちゃんの優しさだって、一杯見てきている。そして、なにより、おばあちゃんの、誰にも言えなかった寂しさも知ってる……。だから、私、この夏休みの間に、この子とこの街を旅行しようって決めたの。……だって、ここは、“彼女”の街だもの。彼女がいない旅行なんて考えられないわ」
そういうと、少女は、また目を細めて笑った。
少女のパルミラは、そんな彼女の表情を、下から見上げるように、じっと見つめていた。


その時、唐突に僕のパルミラが、僕の手をぐい、と引っ張った気がした。
僕は驚いて、自分のパルミラを見つめた。

僕のパルミラは、僕の視線を感じて、いつものように微笑んでいた。
別段、僕の手を引っ張ったような形跡もなかった。
「……どうしたの?」
青い目の少女が、僕の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
彼女のパルミラも、僕の顔を覗き込んでいる。
「……いや、なんか」
僕は、四つの目に見つめられて、なんだか少し照れくさくなって、下を向いた。
「僕のパルミラが、さっき、僕の手を引っ張ったような気がしたから」
「パルミラが?」
彼女はそう言うと、かがみ込んで、僕のパルミラの目の高さに自分の顔を持って行った。彼女は大きく目を開けて、僕のパルミラの漆黒の瞳の中を覗き込んでいる。僕のパルミラは、その視線を受けて、彼女の方を振り向き、そして、いつもの愛らしい笑顔で、彼女の強い視線に答えた。

……ふふっ。
おかしそうに彼女が笑った。
「パルミラが手を引っ張るなんて、聞いたこと無いけど……。でも、ホントだったらおかしいわね。この子、もしかしたら、焼き餅焼いちゃったのかな」
彼女は立ち上がり、口元に軽く手を当てて微笑みながら僕のパルミラを見下ろしていた。
「……あるいは、しびれを切らしたのかも」
「ママ達が買い物の帰りに、立ち話するような物かな?」
彼女はそう言うと、破顔一笑、声を上げて笑った。

「……おかしい!面白い子ね、あなたのパルミラ」

2009年8月13日木曜日

パルミラ (8)

僕は去年、パルミラを連れてヨーロッパの小さな町を旅行した。パルミラの機内持ち込みはもうすでに許可されていると言ったが、航空機の座席がそのために広くなったというわけではない。エコノミークラスに座ると、ただでさえ狭い座席にもう一人、子供が乗ったような形になるわけだから、正直、窮屈で仕方がない。だが、だからと言ってパルミラと離れて乗ることは考えられなかった。この旅行は、彼女と一緒に来ることに意味があったのだから。


長い飛行機での移動の間、彼女は、ずっと僕の座席の前に座っていた。
自律的に座れないので、僕が手を取って、彼女をそっと座らせてあげた。彼女は僕に座らされている間、僕の方をまっすぐに見て、そして、いつもの美しい笑顔を僕に向けて微笑んでいた。

隣を見れば、隣の席の人も自分のパルミラを機内に連れて来ていた。
彼女は、まだゆとりのある旅行らしく、パルミラのために席を一つ余計に取っていた。

僕は、自分のパルミラに、なんだか悪いことをしているような気持ちになり、申し訳なくなって思わず彼女の顔を覗き込んだ。彼女は僕の視線を感じて、座席の下に座り込んだまま、僕の方を見詰め、いつものように微笑んでいた。


……ごめんね。

僕が小さな声でささやくと、彼女は微笑んだまま、かすかに首をかしげた。


飛行機から降りると、空港は旅行客でいっぱいだった。そして、彼らや彼女らに手を引かれた、それと同じくらい、たくさんのパルミラがそこにはいた。

あまりにすごい人ごみだったので、少し太った巻き毛の知らないおばさんが、手荷物ロビー中に響かんばかりの大きな声で、パルミラの名を呼んでいた。

おそらく、彼女のパルミラは、ここで迷子になってしまったのだろう。
パルミラは手を離すと、いつまでもそこにとどまり続けるので、彼女のパルミラは、ひょっとすると、他の誰かに間違われて、すでに何処かへ連れて行かれてしまっていたのかもしれない。

人間の子供でもそうだが、こういう人込みでは、そういうことがよくある。
誰かのパルミラと自分のものとを間違えて、ずっと後になって、ひょっとシリアルナンバーを覗き込んだ時に、偶然気が付いたという話が、僕の知り合いの中でもたびたびあった。

だから、パルミラに所持者の認証機能を付けるべきという話も、もちろん出ていた。だが、そういうものが販売されたことは、結局のところ、無かった。パルミラは、誰でも受け入れてくれる事に意味があるのだ。その安心感が、パルミラを、僕らにとってかけがえのないものにしている。

万が一、何かの不具合で自分のパルミラがうまく自分を認識してくれなくなったら、それはどれだけ悲しいことだろう。そういうことを防ぐために、パルミラには、そうした複雑な個人認証の機能は全く搭載されていないのだと言う話が、付帯者の間にはまことしやかにささやかれている。

もちろん、実際の所は誰も知らない。だが、たとえこの話が、単なる噂や想像の域を超えなかったにしても、これだけ容易に付帯者の間に広まった事から考えて、例え全てではなくとも、パルミラを持つ人々みんなの意見を代弁している部分があるのだろう。

幸い、パルミラは代理店に連絡して暗証番号さえ入力すれば、すぐに現在位置を割り出せるように、位置を知らせる装置が内蔵されている。だが、それで位置がわかったとしても、誰かに間違って連れていかれていた場合、その交換にはどうしても数日がかかってしまうし、その間、その人はパルミラ無しでやり過ごす事になってしまう。

いつもそばにいた存在がいなくなった数日間というのは、どれだけ悲しいものだろう。

巻き毛のおばさんはまだ、彼女のパルミラの名を、大きな、悲しげな声で叫び続けている。僕はそれを見ながら、己のパルミラの、小さく丸い儚い手を、引き寄せるように強く握った。


空港を出ると、僕らは列車に乗って目的地のヨーロッパの古都へと向かった。

どこか古いにおいのする列車の開け広げられた大きな窓からは、石畳の街に特有の爽やかで、どこまでも乾いた風が吹きこんできて、街路に曝された僕らの頬をやさしく撫でて行った。

彼女の細い髪が、その風になびいて、はたはたと揺れた。
彼女と僕は小さないす席に座って、広い窓から見える、見慣れぬ淡いブルー・グレイの海を二人、目を丸くして眺めた。

2009年8月5日水曜日

パルミラ (7)

パルミラを失い、新しいパルミラに違和感を覚えているからと言って、その小さな丸い手から、自分の手を、簡単に切り離すことはそう言った理由で簡単にはできない。しかし、今まで通り、それを見つめていても、それまで感じていたような満足感を得ることはできず、不安を伴った神経症の症状があらわれてしまうらしい。症状がひどい場合は、精神安定剤などの投薬が必要になる場合もあると僕は聞いていた。

パルミラを失った友人もその後、お医者さんから、ごく弱い精神安定剤と睡眠薬をお守り代わりに処方してもらって、最近では、症状はだいぶ良くなったようだ。週一回のカウンセリングの効果もあってか、彼の新しいパルミラにも、今まで通りの愛着がわき始めたようで、むしろ今まで気にしていた、目が大き過ぎるという特徴を、彼女のチャームポイントとして、自慢することさえみられるようになった。

だが、彼のように、すべての人が、その病気から簡単に立ち直るというわけではない。
特に中高生の場合、パルミラを失った、あるいは、それを与えられないがゆえのさびしさに対する反動として、非行に走ってしまうというケースが、時折ニュースの特集などで報じられている。

パルミラが、少年の非行の防止に、著しい効果があるという調査結果は、多くの大学の調査で肯定されていた。もちろん中には、与えられたパルミラに“いたずら“をして壊してしまうケースもあったが、そういった行為も、パルミラに対して芽生え始めた感情に対する、正しい反応ができないだけではないかという考察が、学者の間ではなされていた。

パルミラと少年を密室で、たった二人で置いた場合、それを破壊するケースはごくわずかだった。
一部の少年院では、この調査結果を受けて、パルミラを少年の房に各自一体ずつ持たせ、その管理をさせるという任務を与えているという。正直、パルミラに管理らしい管理はいらないのだが、それでも外を連れ回せば、服は汚れるし、体も汚れる。それをいつもきれいに整えて、置くという任務が、試験的に、一部の少年に対して行われている。

パルミラをきちんと管理できず、しばしばむごたらしく破壊してしまう習癖を持つ少年いるという。
そうした少年の多くは、他人とのコミュニケーション能力に著しい欠陥があるが、あるいは共感する力に欠けている場合が多かった。親の愛情にかけている場合が多いという調査結果もあった。

つまりは、そもそも、人間と関係を上手に結べない人間は、自分のパルミラとの関係も、うまく築けないということだ。たが、人間との関係を築くより、パルミラに愛情を注ぐことの方が、まだずっとやさしい。パルミラは、そういう現場では、人間と人間という気むずかしい関係に至る前の前段階のステップとして、トレーニングに用いられているらしい。




†4
パルミラがいかに、今の僕らの社会に必要とされていて、そしてこれからも、その役割は大きくなっていくかと言うことが、解っていただけただろうか。

僕はパルミラを愛しているし、まだパルミラを知らない他の人々にも、パルミラの良さを一度知ってもらいたいと思っている。ただし、僕はもう、パルミラを持つことは出来ないのだ……。

例え僕がいかにパルミラを持ちたいと言ったところで、それは周りの人間がもはや許してくれないだろうし、例え持ったとしても、また僕は自己嫌悪に陥るような行為を繰り返してしまうことだろう。だから……。僕はもうパルミラを自身から遠ざけるようにしている。僕は、彼女を愛するのに、値しない人間なのだ。その愛らしさを遠くから眺めて、目を細めている以上の幸福を、僕は味わうことを許されてはいないのである。その手に触れることも、丸い、暖かい健康的な頬に触れることも……、僕はそうした権利の一切をもはや失ってしまった人間なのだ。

人間?僕は人間なのだろうか?愛すべきものを、愛する権利も持たないイキモノが、果たして、人間を名乗ってもいいのだろうか?

まあ、いい。それは僕以外には、あまり関係のないことだ。ともかくも、僕がそうなってしまうに至った理由を、もうそろそろ、お話ししてもいい頃かと思う。

2009年8月2日日曜日

パルミラ (6)

僕は彼のパルミラがいつの間にか変えられていたことにすら気がつかなかったくらいだから、彼の感じていた違和感を理解していたとは言えないかも知れない。

彼のパルミラは昔から目が大きく、まつげが長かった気がしていたし、その特徴は、この新しいパルミラでも共通しているように感じていた。

だが、思えばそれもまた、僕の先入観に過ぎなかったのかも知れなかった。
彼の持つパルミラは目が大きいと、僕が偏った目で彼のパルミラをずっと見続けていたに過ぎなかったのかもしれなかった。

彼の両親は新しいものが好きで、その結果として彼は幼い頃から、パルミラが当然のように存在する家庭で育っていた。そのため、パルミラの個体間の違いを敏感に感じ取れる素養を、彼は人より強く持っているのかもしれない。

だが、鋭敏過ぎる感覚を持つことは、果して幸運なことなのだろうか。
僕は彼を見ながら、そう思っていた。

彼の話を聞いて、僕の表情が無意識に曇ったのを察したのだろうか。
彼は急に、開き直ったように顔を上げ、
「……そんな数字にもならない違いをいちいち気にしているだけで、この笑顔に、素直に喜べなくなるのは、どうしてなんだろうな」
と、かすかに語尾に震えを伴った声で自嘲し、僕の方を向いて明るく笑った。


彼とはその日、授業が重ならなかったので、そこで別れた。

人気の少ない、学校の西の外れの法学棟へ向かう彼の痩せた背中は、彼の腰ほどもないパルミラの体に寄り添うように屈められることもなく、ただ二本の、長さの違う二つの平行の影となって、太陽の高く上った真夏のキャンパスを、陽炎の内に融けるように消えていった。



†3
パルミラ喪失症候群、という一連の神経症の存在が日本の心理学の学会に提唱されたのは、一昨年のことだ。

何らかの理由で、パルミラを失った人々が、急に精神不安定になり、不眠や頭痛、挙動不審などの変化が現れることがあるという。

新聞によれば、最悪の場合、うつ病を併発し自殺する可能性もあると、発表した関西の大学の研究グループは指摘していたそうだ。

自分のパルミラを失った場合だけではなく、失って新しいパルミラを得た人の中にも、元のパルミラとの違いを強く感じて、新しいパルミラに元のような愛情を注げなくなるなどの症状が現れることがあるのだという。

そうした場合、もうパルミラを持つのをやめてしまえばいいと言う人もいるが、それは一度パルミラをもった人間からすると全く考慮できない選択肢だ。

子供を事故などで不意に失った親が、また子供を作ろうとする話はよくある。

その場合、生まれてきた子供が元の子供の代わりになりうるわけではない。代わりを強要されたところで、その子供はいずれ自分の人生を否定されたような感情を抱くだろう。なにより、そんなことは親の身勝手に過ぎないと僕は思う。

だが、おそらく大抵の親は、そんなことは間違いなく理解しているのだろう。分かってはいるが、失ったものは埋め会わせなくてはいけないのだ。子供ができれば、それまでの夫婦の関係は、母親と父親の関係に変わってしまう。子供が不意にいなくなったとしても、その関係が元の子供のいない夫婦の関係に、簡単に遡れるものなのだろうか。

一度パルミラと手をつないだ人間が、再びパルミラから手を離すことは、同じ理由でなかなか難しい。家族を捨てるのにも等しい、苦しい選択を、選びとれる人など、どこにいるのだろう。

少なくとも、僕には想像することすることすら、難しい。

2009年7月27日月曜日

パルミラ (5)

彼女は、僕らがどんな人間でも、笑ってくれる。手を引けば、どこへでも付いてきてくれる。疑うことを知らず、肯定することだけを知っている。そこには、人それぞれに違う決まり事など、もはや存在しない。規格化された、極めて安定な、動作のパターンが僕らをいつも勇気づけるように仕向けてくれる。予想外の相手の反応に、僕らはもう、惑わされることはない。

だが、逆に、僕らから突然、このパルミラが失われてしまったら、どうなるのだろう。
想像したくもない、その恐ろしさを、僕に教えてくれたのも、また、代理店で働いていた友人の彼だった。

ある日、彼がいつものように、大学の北側の入り口から、彼のパルミラの手を引いて現れた。
彼のパルミラは、今日もくりくりと大きな瞳を僕らに向けて、微笑んでいた。
その表情が、今日はなんだか一段と愛らしく感じたので、僕は彼に、
「君のパルミラの瞳は、いつ見てもくりくりしていて、かわいいね」
と言ってあげた。

彼は、僕にそう言われると、まるで親が子をほめられた時のように大喜びして、控えめな自慢話でも始めるのではないかと僕は思った。

「……やっぱり、そうかな」
彼は、笑ってくれた。だが、彼の反応は思いのほか小さかった。
喜んでいるというより、失笑しているという表現が似合うような表情で、彼は力なく笑っていた。

「うん、いや、ほんと。個体差はほとんどないっていうけどさ、やっぱり信じられないよね。自分のパルミラの顔って、少し離れたところからでも、なんとなくわかるしさ」
僕がそういっても、彼は相変わらず皮肉に口をゆがめて、笑っているだけだった。

彼の様子がおかしいことに、僕はその時に至って、ようやく気がつき始めていた。

「……でも、実際に計ると、差はないんだよ」
彼は僕に目を合わそうとしないまま、うつむき加減に、そう言って笑った。
「子供の顔が親父に似ているとか、おふくろに似ているとかいうのと、同じ議論なんだろうな。数値化できないけれど、確かにそう見えるような、あいまいな共通認識だ」

僕には彼が、何故かさみしそうに見えた。
パルミラは彼の方を見て笑っている。でも、彼は彼女と手をつないではいるものの、その瞳を一度たりとも、覗き込もうとはしない。
「……どうか、したのかい?」
僕は気になって彼に尋ねてみた。
彼は僕の言葉など聞こえなかったかのように黙って、うつむいたままだった。
頬がかすかに、上下に振れているようだった。表情はうかがえなかった。だが、彼はその時、どうやら笑っていたようだった、

「……実は、俺の小さい頃から一緒にいたパルミラが、先日壊れちゃってね」
彼の口から、へっと、何かを嘲るような声が漏れた。
「……店に持って行ったら、もう、修復不能だって言われたんだ。それで、保障に入ってたから、新しいものと変えてもらったんだけど……」
彼はそこでようやく、手をつないだ自分のパルミラを見た。
彼のパルミラは、急に向けられた彼の視線に反応して、彼の方を見つめ、愛くるしい、大きな円い瞳で、にこりと笑った。
「……違うんだよね」
冷たい響きを伴った声が彼の口から洩れた。
「違うんだよね。俺の、ずっと一緒だったパルミラとは、どこか。眼が、ちょっと大き過ぎるような気がして、実際計ったりもしたんだけど、数字的には変わらなかった。店に頼んで、俺の記憶に合うような感じに、少し顔を整形してもらったんだけど……」
彼は、自分のパルミラを見詰めたままだった。彼のパルミラも彼を見つめていた。彼のパルミラは、子が親を見つめるような眼差しで、かすかに首をかしげ愛くるしく微笑み続けていた。だが、それを受け止める彼の表情は、もはや、ただ愛着のない、見知らぬ物を見る眼差しでしかなかった。
「……今度は、目があんまり小さくなったような気がして。なかなか、俺の中のイメージとは、一致しなかったんだ。挙句の果てに、店長があきれて、『シリアルナンバーが違うから、違う顔しているような気がするだけじゃないか』なんて言い出してさ。おれも、実際計って数字が同じだったわけだから、それ以上、反論できなかったんだ。実際、パルミラの部品の製造は、すごく厳密らしいからな。でも……」
彼はそこで、自分のパルミラの顔をもう一度見つめた。美しい笑みが、彼をやさしく見つめ返している。

「やっぱり、違うんだよな、確かに。先入観と言われたら、それまでなんだけど」

2009年7月24日金曜日

パルミラ (4)

二人で、公園の小さな散歩道を歩いていた時のことだ。
先日降った雨のせいで、道の真ん中に、大きな水たまりができていた。

僕は、そういうとき、男の子が先に渡って、女の子の手を引くものだと思っていた。それは、誰かに教わった知識というよりも、いろんな映画や、本なんかで、みんな当然のようにそうしているから、僕もこういうときは、そうしなくてはいけないのだと思っていたのだ。

だから、僕は当然のように、そのぬかるみを飛び越え、彼女に向かって大きく手をのばして、彼女の手が僕の手に触れるのを待った。

でも、彼女の反応は、予想とは違ったのだ。
彼女は僕の手を見るなり、一歩後ずさりして、そして思わず、自分の前や後ろを振り返ったのだ。そして、少し怒ったような声で、
「やめてよ!」
とさえ、言ったのだった。

僕は驚いて、差し出したその手を、引っ込めてさえしまった。

彼女は白い頬を真っ赤にして、そして、僕の方は一度も見ないまま、水たまりの一番端まで歩いて行き、草のぼうぼう生えているその道の端のところを歩いてまで、僕の手を借りようとはしなかった。

彼女の真新しい白いサンダルは、草の中を歩いたせいで、露に濡れ泥で汚れてしまっていた。彼女は水たまりを越えてから後も、僕の方ははっきりと見ようともせずに、一言も発することなく、雨に洗われた緑の美しい散歩道を、細い肩を怒らして歩いていた。

僕には、隣を歩く彼女が頬をふくらませながら、それでも、ちらちらと僕の表情を眼だけでうかがっているのがわかった。でも、僕はどうして、彼女をそんなにも怒らせてしまったのか、一向に判っていなかった。僕は男の人がみんなやるような行動を取っただけだった。
そして、それは少なくとも、彼女のためを思ってとった行動だった。
しかし、結果として、僕は彼女を怒らしてしまった。
おそらく、僕は何か間違いを犯したのだろう。男の子として、何か、してはいけないことを、してしまったのだろう。

人間と人間の関係には、詩や、芸術ですら表されていない、その他、見た目でも分からない、文章化されていない取り決めが、あまりに多すぎる。そして、その基準は人によって少しずつ異なっている。

僕の嫌われてしまったその行為が、別の人にとっては、ちょっとした憧れであったりすることもある。

それを、僕らはいちいち学んでいかなければならないのだろうか。人によって、基準の違う取り決めを、一つ一つ、間違いを恐れながら、砂の山を――、中心に立てた枝を残して、少しずつ、周りから崩していくように。


結局、ふり返ってみれば、中学から高校にかけて僕は人間の女性を数人愛した。しかし、結果はどれも似たようなものだった。彼女たちの「基準」を僕は僕なりに努力して、学びとろうとしたが、仕舞には、それにもいい加減、疲れてしまっていた。

僕は、その時々で、強い男にもなったし、やさしい男にもなったのだ。
何でもできる器用な人間にもなったし、ちょっとがさつな男性になったこともあった。繊細で、詩や文学を理解する男性であることもあれば、そんなものは全く気にも留めない、アウトドア派の人間になってみたりもした。

しかし、そうした努力をすればするほど、僕にはだんだん、わからなくなってくるのだった。こうして、努力して育んだ彼女と僕との愛情は、果して、真実の愛情と言えるのだろうかと。

彼女はきっと、本当の僕ではなく、努力して得た僕の姿を愛しているにすぎないのではないかと思い始めたのだ。そのような、虚像に向けられた愛情を僕は、僕に対する愛情であると受け取っても、よかったのだろうか。

それに関しては、いまだにわからない。
彼女たちの思い描く、『彼氏』の枠を踏み外した規格外の僕を、彼女たちは果たして好きになってくれたのだろうか。それを犯すのは、勇気といえるのか、それとも、彼女たちへの理解が足りないために生じる行為と、受け取られてしまうだけなのだろうか。

ただ、それを試みる前に、僕はこの終わらない積み木崩しに疲れてしまっていた。

いや、疲れてしまっていたのは、実は、僕だけではなかったのかもしれない。
世の中の人はみんな、もはや疲れていたのだ。人の顔色をうかがい、お互いの不文の法を読みあい、それを満たすことに喜びを感じ、それにそむくことに恐れを抱くのに。

誰かを愛するということは、誰かの法律の網の中に、自分を組み入れる作業だ。いずれ、その法律は、二人の折衷のものへと変わっていくのかもしれないが、その期間の何と長くて、なんと耐えがたいものなのだろう。

この、一分一秒が競われる時代の中で、花が咲くのを待つような時間の長さを悠長に待ち続けることが出来る人が、果たしてどれほどいるのだろうか。
インスタントの代用品が、枯れない造花が、これほど咲き誇っている時代に、季節を待ちこがれることの意味を、僕らは何処に見出せばいいのだろうか。

時代はもう、強い絆を作るという作業に、背を向けてしまったのだ。

技術の進歩が、僕らに、絆という、がんじがらめのクモの巣のような代物に背を向ける勇気を与えてくれた。

それは、少し大げさな言葉で言えば、解放、なのだ。
皆を縛り付けていた煩わしいザイルが、ついに断ち切られたのだから。
僕らに、個人を大切にする時間が与えられたのだから。

なぜなら、僕らにはもうパルミラがいる。
枯れない花が僕らにはある。