2009年4月5日日曜日

何も残さなかった

30まで生きるつもりはないと、男は日記に書いていた。

『僕のような人間が、いつまでも長生きしていいとはとても思えないのです。両親は、人の役に立つ人間になれ、と言って、僕を育てました。ですが、どうでしょう。生まれてきた僕は、人の役に立つどころか、人に迷惑を掛けてばかりの、ある種、社会の寄生者のような存在に、なってしまったのですから。両親も、心の底では、嘆き悲しんでいるに違いありません。実家に帰って、優しげに僕を受け入れてくれる老いた笑顔をみるとき、僕は自分の存在していること、そのものの持つ罪の深さに、目が回るようでした』

彼の日記は、所々手垢のような物で黄色い染みが浮かんでいた。彼はそれを一気に書いたのだろうか。乾いていないインクの上を掌が滑るように進んでいったものだから、文字が所々すれて、斜めに線が延びたようになっていた。
わたしはこれを書いた彼の肉体労働を知らない、皮の薄い掌が、きっとこの日記に使われたインクと同じ、ブルーブラックの曖昧な色に汚れていただろうと想像し、思わず苦笑せざるを得なかった。

『多くの人は、わたしを笑うでしょう。それならば何故、人の役に立つ仕事をしようとしてこなかったのか、と。いつまでの親にすがっていないで、自立することも出来たではないかと。幸い僕は健康ですし、肉体的に何の障害もありません。精神的に健康かと問われれば、それは自分では何とも判断の付きにくい部分もありますが、しかし、日常生活に特に支障は感じないので、おそらくは健康なのでしょう。そうなればなおさら、僕のしていることは罪以外の何物でもないような気がします。人を欺いてその金品を奪い、生活をしているのと、今の僕はどう違っていると言えましょうか。実質的には、そこに違いはないのです。ただ、一方が個人や法人と言った具体的なものを欺いているのに対し、僕は社会や世の中のような、とかく漠然としたものを欺いて生きていると言うだけの違いでしかありません。人の役に立っているような、さも一人の立派な人間のような顔をして、僕は人並みに通りを歩いていますが、実は、それだけでも一つの立派な犯罪なのではないかと、心の底ではびくびくと怯えているのです。いつか、僕の心の内を明晰に見抜いてしまうほどの眼力を持った人が、目の前に現れて、僕のどうしようもない本質を看破してしまうのではないかと、そのことばかりを恐れています』

彼の日記はここで、数行の空白を残して、次のページに飛んでいる。
しばらくここで何かを迷っていたのか、あるいは、時間的な間隔が実際に開いたのか、次の行からの文字は、以前のものより線が震えて擦れ、全体的に小さくなっているように見えた。

『全体、僕のような犯罪者ほど、社会において罪をなすものはないように思います。自分の利益のために人を殺す様な人間は、確かに極悪非道かも知れませんが、それはよりよく生きようとする、人類本来の向上心が、悪い方向に発露しただけとみることもできます。しかし、それならば、僕はどうでしょう。僕は何の向上も望んでいません。ただ今があり、そして、今日があれば、それで満足なのです。未来のことなど、考えてみても解りません。それはあまりに複雑すぎて、たとえ予定を立ててみても、土壇場になっていとも簡単に覆ってしまうと言うことに、僕は慣れっこになってしまいました。人間に、未来を予想するだけの知性があるのなら、失敗するものなど、そもそもいるのでしょうか。どれもこれもが、運のような気がしてなりません。努力に結果が付いてくると言うのは、誰も皆、成功者なのですから。彼らの足下に散らばる骸の声を、誰が聞こうとするでしょうか。彼らが努力したと言ったとて、皆口をそろえて、それでは努力が足りなかったのだ、と言いくるめます。そう言われれば、そうかも知れないとしか、答えられません。それは何の証明のしようもないからです。努力を測る物差しなど、誰も持ってはいないのですから。あったとしてもそれは、成功と失敗の2極しかない物差しなのでしょう。成功に至らないものは、すべて失敗なのです。言い換えれば、成功に導かない努力は、努力していなかったに等しい、と言うことも出来るでしょう。僕はつくづく、己の無力を感じています。努力とは時間の経過です。しかし成功は、その途中に構えられた一種の門のようなものに過ぎません。そして、人生もまた、時間の経過なのです』


彼の日記は、ここで一度終わっている。
次ページからは何の変哲もない毎日の記録に戻っていた。

彼のような、人生の敗北者に、耳を貸す必要など無いのかも知れない。
実際彼は、社会において何の役にも立たなかったし、私達家族に、彼が何をしてくれたのかと言えば、思い出すのも難しい。老後、彼がいなくなった後の私達夫婦を、支える羽目になるのは、彼の弟とその家族になるはずだ。彼はしっかりしているから、きっと兄のようなことにはならないと私達は期待している。

しっかりしている人間の話は、わかりやすい。
それはいつも、掴めるものを追うからだ。彼の兄のように、掌に入れられないものを追い掛けた人間は、いつも道に迷ってしまう。雲を掴む努力をしたところで、それが何になるだろう。わたしには正直、彼という人間が未だに理解できないでいる。親として彼を世に生み落としていながら、つくづく無責任なこととは思っているが。

ただ、不幸中の幸いは、彼があの飼われた生き物のような生活に、決して安んじていたわけではないと言うことだ。少しでも罪の意識を持っていたというのなら、それがたとえ、私達に向けた形式上のものであったとしても、親として少しは彼の『努力』を認めてやらないでもない。ただし、彼が言うように、成功に至る努力意外には、人は努力とは認めないものだ。そう言う意味では、彼は、何もしていなかったに等しかった。30年、生きていながら、何も。