2008年12月20日土曜日

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走り書き;主人公の心情

0.

テニスコート、午後6時半。

夏だから、まだ日は落ちてはいない。でも沈みかけてる。斜め光線。オレンジ色、みんな。
私は窓辺に座って、ずっとそれを見ている。野球部が見える。ずっと遠くに、えいえい、言っている。

アカネは、まだ出てこない。

ずっとシャワー室。そう、ずっと。
もう、出てこないの?

そんなことはない。いつか出てくる。
水が流れる音が聞こえる。彼女の、小さな歌声。誰かのワルツ。

出てこなければいい。
愛しい人ほど、そう思うのはなぜだろう。

ことに、それが、私を苦しめる、届きそうで、決して届かない存在だからこそ、
もう、出てこなければいいのに、そう言う気持ちにしてしまう。

彼女のことが、嫌い?

嫌い。でも、欲しい。
欲しいから、嫌い。欲望を駆り立てるものは、
みんな避けたくなってしまう。臆病な私が悪い。

ロッカー室に、いつの間にか差し込む、斜め光線。
オレンジ色。食べかけのお菓子の袋が、真ん中の机の上で、悲しげに口を開けている。

笑っている?泣いている。

夕日は、どんどん、ああ、斜めになっていく。

シャワーの音が聞こえる。
アカネの体を洗う音。

水が、走り抜ける音。

もう、出てこなければいいのに。
そう思いながらも、私はここで、彼女を待っている。


嫌い。



1.
私が大学に入って、一番喜んだのは、母だった。
私よりも、母が喜んだ。

私の選んだ学部が看護学部だったから。
母は私を女の子としての私を、誰より望んでいたから。

私が、私でいてはいけないと思わせたのは、母。
男の子と、毎日ケンカして帰ってきた私を、ひどく叱ったのは、母。

スカートより、ワンピースより、ハーフパンツを好んだ私を嫌ったのは、母。

母の買ってくる洋服は、みんな、恥ずかしい位ひらひらしていて、ピンクや白や、ありとあらゆる暖色系の色が優しく組み合わされている、さわり心地のよい服ばかりだった。青や、黒や、びっくりするような刺激的な言葉の書いてあるTシャツは決して着させてくれなかった。

反抗もした。でも無駄だった。
だって、母が生んで、育てている、私だから。
その抵抗にも、限界があるんだ。

高校の同級生と、結婚したいと本気で思って、彼女と一緒に逃げだそうとしたこともあったけれど、それも、準備しているところを母に見つかってしまった。

小さな頃から見ている彼女には、私よりも、私を知っている節があって、それがどうにも、私には疎ましい。

結局、二人の逃避行は見事に失敗した。

相手の彼女は、逃げ出した。
そして、帰ってこなかった。

行き先は、まだ解っていない。向こうの親とも、それがばれて噂になって広まってしまってからは、全く逢えなくなってしまった。

私は、彼女はもう、死んでしまったのではないかと思っている。
二人とも、それほど本気だった。
ただ、私の方には、母にそれ以上逆らうだけの気持ちがなかっただけ。


私は、その失敗があってから、ますます母には逆らえなくなってしまった。
彼女の言うとおりに大学を選び、そして、問題なく学年を進んだ。

私が、この学科に合格した時の彼女の喜びようと言ったら!
私をようやく檻に閉じこめた飼育係のように、彼女は安堵の表情を浮かべていた。

今でこそ、看護は男女の隔てがなくなりつつあるが、彼女にとっては、未だにそれは女性らしい職業の代名詞なのだ。女性らしい職業に就き、他人への奉仕を身につけることで、一種の行動療法のようにわたしの“ゆがんだ”心に作用するだろうと、彼女は考えているに違いなかった。

私の心は、そんな単純なものではない。
それは、何より私自身が一番よく分かっていた。

中学、高校と、『女の子らしい』格好を義務づけられていながらも、私の心は変わらなかったのだ。むしろ、そう言う格好をさせられることで余計に、私が通常とされる人々とどれだけ違っているかと言うことを強く意識させられる結果となった。

これが更に、看護学部だったとしたらどうだろう。
私はすでに、自分がどのような人間であるか、はっきりと意識していた。

もちろん、自分を変えようと思った時期もあった。それは中学校の不安定な一時期に限られてはいたが。
だが、今では、もうそのようなことを考えることはなくなった。

私は私なりの、幸福を見出せばいいのだ。
そう悟っている。


そうして、今、
私はテニス部の先輩として、シャワー室にこもったきりの、後輩が出てくるのを、事実上、待っている。

彼女は...、いや、もはや、私の過去を知るものなど、いないのだ。
私はなんの変哲もない、看護学科の女子学生として、彼女と付き合っている。

私の心の底にわだかまる気持ちなど、彼女は知るよしもない。
でも、それでいいのだ。

それを明らかにすらしなければ、私は、彼女に憧れるだけの男子であれば決して出来ないほど身近に彼女を感じ続けていることが出来るのだから。

越えられない一線が、普通の男女より、随分手前に設定されているだけのことだ...。

2008年12月13日土曜日

a-cross

もしも、君に出会えていなかったなら。

そんな陳腐な言葉は使いたくなかった。
嫌みできざったらしい言葉ばかりが、頭の中を駆けめぐっていて、この瞬間、目の前の彼女の心に残るような、確実で、またとを得た言葉が、浮かんでこない。

『搭乗手続中』

プノンペン行き202便には、さっきからそう表示されている。
もうそろそろ、ゲートをくぐらなくてはいけない時間。しかし、彼女はまだ席を立とうとはしない。

飛行場の滑走路のよく見える細長い造りのカフェに二人で入って、もう1時間近く経つだろうか。普段落ち着きのない君の割に、長く持った方だ。

君はさっきから、手元の紅茶が冷めていくのも気にせずに、着陸しては離陸していく何機もの飛行機の後ろ姿を、ずっと目で追い続けている。

紅茶の中に沈んだ小さな茶葉が、口の広いカップの底に不安げに漂っている。

君がここに座って以来、見送ってきた何機ものボーイングの背中には、幾人もの僕と君が、散り散りになって機乗している。幾つもの似たような運命の中に、物珍しくもない僕らのラブストーリーも存在している。

カフェの店員には、見慣れた光景だろう。
彼女の水をつぎ足す所作には、一瞬の乱れすら感じられない。

恭しく頭を下げ、水差しを傾けて、楚々と去っていく。

その一連の動作を、僕は目で追っていたが、君はそんなことなど、全く構っていないようだった。

「ねえ、」
僕が、無愛想な君に話しかけた。
「プノンペンには、何時間かかるの。」

「3時間。」
彼女はぶっきらぼうに答えた。

「3時間...。なんだか、中途半端だね。寝るにも足りない時間だ。」
僕は努めて、彼女に笑いかけた。

「そうね。」
彼女は僕の方を見ようともしなかった。

「ねえ...、気持ちは分かるけど、もう少し、ポジティブに考えてもいいんじゃない?会社はきっと、君の将来を見込んでいるんだよ。」
「...そう、かしら?」
彼女は突き刺すような眼光のまま、それでもようやく僕の方を向いた。
「あなた、本当にそう思う?これが、ニューヨークとか、せめて上海ならともかく、プノンペンよ。なんの仕事があるって言うの?明らかに、左遷じゃない?」
「それは...。」
「向こうでの事業は確かに、まだ始まったばかりだけど...、私が回されるのは、前回失敗した事業の尻ぬぐいよ。他人の失敗の後片付けに、どうして私が、わざわざ本社から回されなくちゃいけないわけ?」

僕には、返す言葉もなかった。

「いい加減なこと言わないで...。」
彼女は少し俯いて、それからぷいと、再び滑走路の見える窓の方を向いてしまった。
その目には、微かに光るものが浮かんでいた。

彼女のような、自分の仕事に誇りを持っている女性にとって、会社の今回の措置は、嫌がらせ以外の何物にも映らなかっただろう。

決して、何か間違いを犯したわけでもなく、彼女の仕事の成績はいつも人並み以上だった。

むしろ、彼女に仇なしたのは、この彼女の優秀さにあったのかも知れない。
彼女のこの性格のためもあって、社内のやっかみは相当あるようだった。

「...わたしが、何をしたって言うの...。」
彼女は大きな窓に目を向けながら、小さな声で、そう呟いた。

彼女は、プライドが高かったが、芯が強いわけでは無かった。そう振る舞っていただけで、内心は繊細で、傷つきやすい人間なのだ。

むしろ、だからこそ、彼女は周りの人間に対して、時に威圧的にも見える態度を取っていたのだと、僕は思っていた。

正直、耐えられないだろうな。
口惜しそうな表情で、窓を見つめる彼女の横顔を見ながら、僕はそう感じた。

だが、ついて行くわけにも行かなかった。
僕には僕で、やらなければいけない仕事があるのだから。

「...ねえ。」
消え入りそうな声で、彼女が言った。

「別れ、ましょ」

彼女は、体は向き直っていたが、うつむき加減で、僕の目も見ていなかった。

「もう、そのほうが、いいとおもうの。...お互い、歯車は、別方向に、動き、出したのよ」
言葉を絞り出すように、彼女は小さな声で僕に語りかけた。
長い髪が、顔の両側に黒い幕を下ろしたように垂れ下がって、表情を覆い隠した。


「....こんな、急な話で、ごめんね...。ありがとう、いままで。さよぅ...」
「あの、さ。」
僕は、おそるおそる、切り出した。

「結婚、しちゃわない。」

今まで俯いていた彼女が、驚いたように顔を上げた。
先ほどの泣き顔が、まだその顔には張り付いている。

「なんか...、僕の方こそ、こんな飛行機の待ち時間みたいな時で、悪いんだけど。」
「でも、」
「...いい考えだと思うんだ。僕には君の支えになれるか解らないけれど、だからと言って、放っても、おけないんだよね...。プノンペン行きは、君にとっては、そりゃあ....、不安だろうと思うけれど、僕にとっても不安なんだよ。だから...、ね。君にこれだけ振り回されても、ずっとここまで、くっついてきた僕なんだから、少しは....、考えてくれないかな。...この不安の、解消」

彼女は黙ったままだった。

ベージュのチノの膝の辺りをくしゃくしゃに握りしめて、彼女の体は微かに震えていた。

「式とか、手続きとか、そう言うかたちの上のことは、正月に帰ってきてから、またゆっくり話せばいいことだしさ」

彼女に僕の気持ちを言ってしまっても、僕の中にはまだ、少し後悔があった。

本当なら、もっときれいなところで、落ち着いた時間にきっちりとしたかたちでプロポーズするべきだったと思っていた。

彼女の転地が決まってから、お互い、ここ数ヶ月は忙しくて、ゆっくり会う暇もなかった。
それは、言い訳にしかならないのではないか。“男の勝手”な...。
彼女の、口癖だ。

膝を握りしめた彼女は、動こうとしない。

そうこうしているうちに、いよいよ飛行機の出発時間は近づいてきた。

「もう、行かない?」
彼女の手を取って、促した。
彼女は俯いたまま、ゆっくりと立ち上がった。

ベージュ色の生地に、雫に濡れた跡があった。

やはり、泣いていたらしかった。

彼女の黒いキャリーバックを引いて、手荷物検査場の手前まで歩いてきた。

ここから先は、彼女だけが行くことの出来る領域。
僕の手は、いよいよ、もう、届かなくなる。

彼女は、無言のまま、僕の手から、彼女の荷物を受け取った。
そして、俯いた顔をあげて、ようやく僕の顔を見た。

「...行ってくる。」

頬は涙に濡れたまま、にこりと微笑んでみせた。

2008年12月7日日曜日

潜る

それはまだ、赤い太陽が僕らの頭の上にぎらぎらと照っていた、夏の盛りのできごと。

僕とお姉さんは、二人して、近くの川辺に出かけていた。

その日のお姉さんは普段着たことのないワンピースなんかを着ていて、それは小さな水玉がいっぱい入っていて、お姉さんが動くと、模様のの水玉がはじけるようにはね回るのだった。

「ユウキ、泳がないの?」
お姉さんは僕に向かって笑いかけた。僕は思わず目をそらした。お姉さんの笑顔を、僕は真っ直ぐに見ることが出来ない。

「泳がないよ」
そのつもりはなくても、ぶっきらぼうな返事。お姉さんを怒らせたんじゃないかと不安になって、僕は目の端で、その表情を伺う。

「泳げばいいのに。ユウキ学校の水泳大会で、2等になったんでしょう。見たいな、ユウキの泳ぐとこ」
お姉さんは、僕の連れない返事なんかちっとも気にしていない様子で、相変わらずにこにこしていた。僕が水泳大会で賞を取ったのを、母さん当たりからどうも聞いたらしかった。

「母さんに聞いたの?...言わないでって言ったのに」
僕はむすっとして言った。
「いいじゃない。姉弟なんだから」
お姉さんは笑っている。
「姉弟って言っても...。」
僕は小さな声でそう言い欠けて、口をつぐんだ。これ以上言ったら、僕らの間に何か冷たい風が吹き抜けてしまいそうな気がしたから。

お姉さんは、僕のお姉さんなんだ。たとえ、何があったとしても。


お姉さんは当時、もう三十は少し超えていたように思う。でもずっと家にいて、昼間はお家で眠っていることが多かった。お仕事は夜で、明け方になるまで帰ってこなかった。帰ってきた時のお姉さんからは、いつも香水とお酒の匂いと、あとちょっと、タバコの匂いもしていた。

僕は知っていた。
お姉さんは、いつもお仕事から帰ってくると、眠っている僕を、そっと抱きしめてくれるのだ。僕の小さかった頃から、そうしていたようで、僕が中学生になっても、相変わらず帰ってくると抱きしめてくれた。僕は、実は起きていることもあったのだけれど、お姉さんにされるままにしていた。なぜだか、そうしている時のお姉さんは、いつもひどく、疲れているようだったから。

昼間の、水玉模様のお姉さんと斯うして外に出かけたのは、だから本当に稀なことだった。次の日のお仕事が、きっとお休みだったからだろう。

斯うしている時のお姉さんは、年齢よりもずっと若く見えた。まだ、少女のような、そんな微笑みを、お姉さんはときどき見せてくれた。それは、夜に疲れて僕を抱きしめるお姉さんとは、まるで別人のようだった。

「ユウキって、けちね。泳いでみせる位、何でも無いじゃない」
お姉さんは言った。ぼくはそっぽを向いたままだった。お姉さんの前で、何かをすると言うことが、全体的に恥ずかしかった。何をやっても、お姉さんの前では不自然になってしまうだろうと僕には解っていた。

ここ数日雨が降っていなかったので、川は川底がはっきり見える位澄んでいた。僕らの見つめる先を、鮎の魚影が流れに逆らうようにして鋭く横切っていく。

「おさかなって、いいわよね」
お姉さんが、突然そんなことを言った。
「こんなきれいな、冷たい水の中にいて。誰に構わず自分の好きなところに泳いでいける」

「でも、水の外には出られないよ」
僕はそんな意地悪を言った。
「ぼくは、いやだな。鳥の方がいい。鳥の方が自由だ」

お姉さんはそれを聞いて笑っていた。
そして、ふと空を見上げて、
「確かに、鳥になれるものなら、鳥になりたいけど。...みんな、羽を持っているわけでは、無いから」
と言って、ちょっと悲しそうな顔をした。


お姉さんは、もちろん、僕の本当のお姉さんではなかった。
それどころか、どこからやって来たのかも、誰も知らなかった。

僕の母さんが貸していた部屋にずっと前から住んでいて、僕はお姉さんを、本当のお姉さんのようにして、育った。

お姉さんのことを、悪くいう人もいた。
夜の仕事というものが大人達には印象が悪いようだった。

でも、母さんは、昔から住んでいるお姉さんの本当の人の良さを知っていて、そんな大人達とは見方が全く違っていた。

お姉さんと僕ら母子は一緒にご飯も食べたし、よく一緒に旅行にも行った。

お姉さんにはすごく借金があって、お姉さんがあんまりいい人だから、母さんはそれも、少し手伝おうとしたようだったけれど、お姉さんは決してそれには手を出させなかったそうだ。
それどころか、家賃も最初に決めた額を毎月きっちり払っていた。

そんな事情を知ったのは、もっと後のことだ。
僕にとって、物心ついた時からそばにいるお姉さんは本当のお姉さんと変わりがなかった。

「ユウキ、」
空を見上げていたお姉さんは、僕の方に目を向けて話しかけた。
「将来、なりたいものって、もう決めてる?」

「海上保安官」
僕は映画を見て、その職業に憧れていた。泳ぎが得意だと言うことも生かせそうな気がしていた。

でも、お姉さんはその答えを聞いても、あまりうれしそうではなかった。
「確かに、かっこいいけど...。人を守る人は、人に縛られるのよ。ユウキはそれに憧れる?私は、ユウキにはもっと違った職業が向いているような気がするけどな」

「じゃあ、何?」
気に入っていた考えを否定された気がして、僕は少し機嫌が悪かった。
「フリーダイバー」
お姉さんは、真面目な顔で言った。
「酸素ボンベも背負わずに、体一つで深い海に潜っていくの。光りの届かない、世界で最も静かで、透き通った蒼い闇の底。海は敵ではなくて、他人も関係ない。地球や、自分自身との会話を続けながら、潜っていくの。誰も到達したことのない、深い深いところへ」

「それって、職業といえるの?」
僕は気になって聞いた。
お姉さんは、少し困った顔をしていた。
「職業といえるか解らないけれど、一つの生き方ではあると思う。自分の可能性を、追い求める仕事ね。...ユウキにはそう言う仕事についてもらいたいな」

僕は、それでも、フリーダイバーを目指そうという気にはならなかったけれど、お姉さんが僕に求めていることは何となく解った。

蒼い静かな闇の冷たさを身に感じながら深い海の底へ一人潜っていく自分の姿を僕は想像した。

そのそばには、真っ白な長い手足を持ったお姉さんが連れ添って潜ってくれていた。

いつも、何をするにも、見守ってくれる人を当たり前のように想定していた。
孤独と言うことが、当時の僕には、まだ想像できなかったのかも知れない。


...でも、その孤独は期待していなかったかたちで、全く無慈悲に訪れた。

お姉さんは、首を吊って死んでしまった。
川辺で二人並んで話してから、そう幾日も経たないうちに。

二人で話した時にはお姉さん自身もまだ知らなかったのかも知れないが、おなかには、誰かの赤ちゃんがいたと言うことだった。あの頃のお姉さんはいろいろ、他に病気も持っていて、体はもう、ぼろぼろだったらしい。


そばにいたはずの僕は、結局、何も出来なかった。

誰も到達したことのない深みに潜っていくダイバーを、
追いかけられるものは誰もいない。

心はあまりに深すぎて、潜るにはあまりに危険なのに、たとえ、そこで溺れてしまった人を見つけたとしても、他人の心の海に飛び込んでまで助けることが出来る人など、この世界にはいないのだ。

僕は海面に浮かんで、沈んでいこうとする危険な、あまりに小さな、真っ白なお姉さんの手足を見つめていることしか、出来なかった。僕を何度も抱きしめてくれた、あの白くて温かな手が、目の前を沈んでいくのに。


夏の太陽が、一人川辺に佇む僕の皮膚をじりじりと焼いている。
本当に、雨の少ない夏だった。

僕は、空を見上げた。

お姉さんのいない夏の空は、いつ見ても寂しかった。
お姉さんがいなくても、空が青いということが、僕にはどうしようもなく悲しいのだ。

2008年12月5日金曜日

もう、幾度となく過ごしてきたクリスマスの、誰も買ってくれたことのないプレゼントとして、孤独な男が自分自身に買い求めたものは、小さな、少女の横顔の描かれた肖像画だった。

名のある画家のものではなく、無名の画家が40年ほど前に描いた絵であった。当時、これを描いた画家はすでに30代も終わろうとしていたが、描いた絵は全く売れていなかった。

己の才気を信じ、大都会で成功しようと意気込んで田舎を出てきたこの画家も、この絵を描いた頃には自身の才能をすっかりあきらめており、生まれた故郷に引き込んで両親と共に田舎暮らしをしながら、身の回りの何気ない風景を思うままに描く様になっていたのだという。

皮肉なことに、この画家の作品は、こうして己の才能に見切りを付けた後の方が一層瑞々しく、評価も高いのだそうだ。

「若い頃は誰でも、自分の身の丈を間違うものです」
この絵を売ってくれた温厚な画商は、丸くはげ上がった頭を撫でながらそう言った。
「自分の仕事、と言うものが誰にもあるはずなのですが」


この画商によれば、この絵のモデルとなった少女は、画家の姪御らしいと言うことだった。

フランスの田舎の娘であるらしい少女の横顔からは、まだ青いブドウの房の甘酸っぱい匂いが漂ってくるようで、男はそれを落ち着いたベージュ色の壁につり下げながら、微笑んでしまわずにはいられなかった。

絵の中の小さな少女は、その手の中に、もっと小さなティディベアの人形をしっかりと握っていた。その瞳は何を見ているのだろうか。向いている方向には大きな窓があるらしく、少女の青い瞳や表情が、明るい光りを浴びて輝いていた。

こうした少女の表情に、男は何処かで出会った気がしていた。しかし、それがどこであったのか、またいつであったのか、彼はついぞ思い出すことが出来なかった。

この絵を買ってしまったのも、この絵を気に入ったというのももちろんだが、何処か懐かしいような、不思議に引き込まれるようなものを感じたからであった。

「青い瞳の少女なんて、今まで海外旅行にでも行かない限り見たこともなかったのに」
男は独りごちた。
「...どうして、乞うも懐かしいのだろう。」

男は、キッチンの奥の小さな冷蔵庫を開け、冷えたビールの小瓶を取り出してきた。そして、手近にあった栓抜きで栓を抜くと、コップにも注がずに、それを飲み下した。

絵の中の少女は、彼女しか知らない窓の外を食い入るように見つめている。

男が見つめる先で、少女がクマの人形を握る手の力の強さを、男はふと感じた気がした。


男には、子供がいなかった。
子供どころか、彼には家庭というものが未だに無かった。

結婚というものを、考えたことがなかったわけではない。
節目節目で、場合によってはそれからの人生を共にしかねなかった女性には何人も出会ってきた。

それでも、男は結局彼女らと運命を共にすることはなかった。


面倒くさかったからかな。


男は時々、考えることがある。
仕事が思ったより早く、片付いてしまった帰り道に。

つまりは、面倒くさかったからだ。

関係を構築し、お互いのスケジュールをより合わせ、そして好き嫌いを妥協し合って、ふたり間をとりとめもなく割り算していくような、その作業が。


そもそも、それまで培ってきた20年を越える人生を、知らない他人と分かち合おうなどと言うことが、男には気の遠くなるような、無意味な行為に思えていた。

俺には、今が大切なんだ。

彼には解っていた。

何よりも、今が。


しかし、彼にも夢見たことが無かったわけではない。

小さくても、確かな生活。
慎ましい家庭。

むしろ、孤独な時間を人一倍長く過ごしてきた男にとって、こうした夢想は日常生活の一部ですらあった。

朝日を浴びた白い皿を彩る、緑色のレタスや、スクランブルエッグ。
真っ赤なトマト。

コーヒーの香り。
トーストの香ばしい焼き加減。

忙しい朝に、子供の声、そして、その母の声....。


男は、いつもそこまで考えると、自分の愚かさに、思わず笑ってしまうのだった。
そして、それを打ち消すかのように、心の内で自分に言い聞かせた。

俺には今が大切なんだ。

何よりも、今が...。


今を大切にしすぎたために、男は一人になってしまったのか。
果たしてこれが、一つの幸せというものの“かたち”であるのか。

まだ夢を見続けていた男には解らなかった。

しかし、彼が時折思い描くような家庭生活を送っている男達のすべてが、その時男が感じるような、甘い郷愁のようなものを、その生活からいつもを感じているかと言えば、そうではないだろうと思っていた。

苦いビールが、喉の奥を駆け抜けていく。

もしかしたら送っていたかも知れない人生が苦みと共に通り過ぎた。

生きていく、と言うことは、あり得たかも知れない未来の可能性を一つずつ、潰していくことなのだろうか。

男は大きく息を吐いた。そして、目の前に掛けた少女の絵を見ながら考えた。

少女が見ている窓の先には、きっと、いつか画家の夢見た希望の未来があるのだろう。
明るい窓を見つめている少女に、画家は、自分は叶えられなかった未来を見出し、託したのではないか。


そこまで考えると、男はふと何かを思いついたように、手に持った茶色の小瓶を近くの背の低いテーブルに置いた。

そして、書斎に入り、2、3の書類を丁寧にしたためた後、それを、それぞれ適当な大きさの封筒に入れ、しっかり封をして、しかるべき宛先を書き入れた。

その作業がすべてが終わると、彼はもう一度、大きく息を吐いた。

彼は、もはや、自分が、未来を次の世代に託すべき年齢になったのだと感じていた。
あのような絵に引きつけられたこと自体、その何よりの表れではないか。

あの懐かしさは、かつての若かった頃の自分の持っていた可能性への、懐かしさだったのだ。

もういい加減、俺は引き時なのだ。男は思った。

可能性にまぶしさを感じるような年になってしまった。
それは、もう自分自身が、光を失って久しいと言うことだ。

夢は十分、追わせてもらった。
男は愛着のある品々に囲まれたほこり臭い書斎の中で一人密かに笑った。

親父は、今頃どうしているだろう。
彼はふるさとへ向けた長い手紙を書きながら考えていた。

2008年11月24日月曜日

あと5分、まって

彼女が、化粧をしている。

僕の家の狭いユニットバスの、湿ったフロアの上に裸足で立って、所々、端っこからさび付いて、茶色い斑点が浮かび上がった鏡の前で、薄い青色のアイシャドーを、まぶたの下端に塗っている。

彼女は鏡に映った自分の顔を斜めからのぞき込むようにしてその青い塗料を、すっかり目尻の所まで、念入りに塗りつけている。

僕は玄関先に立って、その様子を見ている。
僕の方はもう、外出する準備は整っている。

彼女に比べて、僕はいつも軽装。

彼女は、近所のマックにちょっと出かける時でさえも、どうしてこれだけ荷物がいるのだろうと思うほど、いろいろなものを小さな手提げに入れて、そうしてそれを大事そうに左手の手首の上の方にぶら下げている。

化粧もそうだ。
できあがった彼女の顔は、決して厚化粧の方ではないのだけれど、その準備には、なぜだかとても時間がかかる。

シンプルな絵が、決して短時間で完成するとは限らないように、
彼女のメイクもそれだけ念の入ったものだと言うことなのだろうか。

はやくしろよ。

そんな言葉が、さっきから僕の頭の中に聞こえている。

でも、僕は口に出さない。
ありきたりな、お父さんのようなキャラクターには、染まりたくないから。

優しい彼、でいたいから。


でもそれは、僕の本当の姿なのだろうか。

僕はいつも自問自答している。

偽った僕の優しさを、彼女が僕の本来の優しさだと勘違いしているとしたら、そのまま、この関係が発展してしまうのは、危険じゃないだろうか。

どうせなら、偽らざる、醜い僕を、
彼女には好きになって欲しいけれど。

偽る、と言えば、彼女は、今、僕の前で、化粧しているが、
あれは、誰のための化粧なのだろう。

僕は、彼女の、ちょっと素朴な感じのする、素顔を知ってしまっている。
現代的なメイクの下の、そんな愛らしい素顔を知っている僕の前で、ああして念入りにメイクする彼女の行為の理由を、僕は知らない。

もしかするとあれは、僕以外の、他の誰かのために、メイクしているのだろうか。
そう考えると、軽い嫉妬を覚えてしまう。

大切な素顔は、あなたのために、取っておいているのよ

昔、そんな映画の台詞があったけれど、それならば、もっと適当でもいいだろう。
何が、彼女をあそこまで、念入りにメイクさせるのだろう。

ごめん、ちょっと待っててね。

斜めから鏡をのぞき込む、彼女の瞳が一瞬僕の方を向いた。
僕の贈った耳元の白いイヤリングがそれに併せてちらりと揺れた。


昔、幼かった頃、
母が何処かに出かけるために、化粧を始めると、
僕はなんだか不安になった。

化粧はそれ以来、僕にとって、
そばにいて欲しい大切な人が、自分から離れてしまうような
切ない幻想を抱かせる。

化粧をした母に、僕は泣いたものだった。

そうして未来に、怯えたものだった。


「お待たせ。」
すっかり準備の整った彼女が、美しい睫毛を交差させて、にこりと笑った。

そのまぶたには薄く引かれた青い影。

彼女が遠くに行ってしまうような、そんな幼いおののきを覚えて、
僕は差し出された彼女の手を、待ちくたびれた手で、しっかりと握った。

2008年11月22日土曜日

笑顔

しんしんと降り続く雪の中、男と少女は、雪深く沈んだ原野の上を、ただひたすらに、北を目指して歩いていた。

すでに、民家の建ち並ぶ住宅街を越え、未だ開発も行われていない裏山に、二人は入り込んでいた。2月を過ぎ、雪は二人の膝下位まで積もっていた。誰も歩いた形跡のない、ふわふわとした新雪の上を、赤い上着を着た少女に手を引かれるようにして、暗い灰色のコートに身を包んだ男が進んでいった。

「どこまで行くつもりなんだ。」
雪の中、腕を引かれた男が少女にたずねた。その声は少し、苛立っているようだった。
「....もっと上の方まで。」
少女はそう言うと、目を細めてにこりと笑った。
白い雪の中に融けるような笑顔であった。

少女は男の実の娘ではなかった。
亡くなった妻の連れ子だった。結婚した当時で、すでに小学校5年生になっており、性格的にすっかりませていたこともあって、それから5年もたった今になっても、彼のことを一度も「お父さん」と呼んだことがなかった。

彼女自身、元の、本当の父親によほどの愛着を感じていたらしかった。
実の父と母が離婚し、男と再婚するために、母と、遠く離れたこの街に引っ越してきた後になっても、男がいない時には、事あるごとに、そのことで母を詰っていたようだった。

しかし少女は、男の前では決して、そのような素振りを見せなかった。
普通の娘として振る舞い、男に対しても屈託のない笑みを振りまいた。

そんな少女に、男は、何処か掴み所のない不気味さを感じながらも、自分の愛する妻の娘として、惜しみなく愛情を注いできたつもりだった。


そんな折、つい先日、彼が愛してきた妻が、突然の病で亡くなってしまった。

少女の嘆き様は、痛々しいほどだった。
この世の終わりでも来たかのように、少女は母の棺にしがみついて大声を上げて泣いた。多くの参列者が、それを見て、思わずもらい泣きをしたほどであったが、妻を失った当の男一人は、少女のその様子を見ても、泣くことができなかった。

俺が死んだ時、この娘は、これほど悲しんでくれるだろうか。

式の間中、男の脳裏にはそんな疑問がずっとわだかまっていた。

実の母ほど、泣いてくれなくても構わない。
でも、娘となった少女に、これまで惜しみなく注いできた愛情の分だけでも、せめて、この子を置いて去った元の父親よりは、大切な存在であって欲しい。
心の内で男はそう、切に願っていた。

男のこの願いは、しかし実際には、確かめようのないことだった。
式が終わると、少女は、いつものように屈託のない笑みを、男に返してくれた。だが、そうなってしまうと、その笑顔の奥にある少女の本来の気持ちなど、男にはもう計りようがなくなってしまうのだった。

笑顔ほど、空恐ろしい表情はないな。
男は時々、思うことがあった。

どんな感情も、覆い隠してしまうことが出来る。
わざと泣くことは難しいが、わざと笑うことはたやすい。

男は、年を増すごとに美しくなっていく少女の微笑みを見ながら、つかみ所のない彼女の本心をどうにかして聞き出したい欲求に、いつもに駆られていた。



「裏山に行こうよ」
大雪の降った朝、少女が、突然そう言いだした。
それを聞いて、男は始め、何かの冗談かと思った。

しかし、彼女はとぼけた様子もなく、もう一度強く、そうせがんだ。男にはこれと言った理由も分からなかったが、彼女に気圧されるようにとりあえず身支度をして、同じように厚く重ね着した少女と共に、深く雪の積もった裏山に出かけて行った。

二人連れだって裏山に行く理由を、少女はなかなか教えてくれなかった。
何度たずねても、はぐらかすように笑うだけで、
その足がついぞ止まることはなかった。
少女の足取りは、明らかに、散歩のたぐいではなく、何か明確な目的を持っていることを感じさせるものだった。


そうして、もう小一時間も歩いただろうか。

男の言葉に耳も貸さず、ひたすらに斜面を登っていた少女が、もうじき山頂というところの
南を向いた斜面の上で、突如ぴたりと歩みを止めた。

「柳瀬さん」
少女は言った。

「なんだい。」
男は答えた。

「柳瀬さんは、どうしてお母さんと結婚したの。」
歩き疲れてうつむき加減だった男の顔が、不意の質問に驚いたように少女に向けられた。
雪の中に一層白い少女の頬が、生真面目に引き締まって、黒い瞳が野ウサギのように、じっと男を見すえていた。

その強い眼差しに耐えきれず、男の瞳は思わず一瞬、宙を泳いだが、
「...君のお母さんが好きだったからだよ」
俯いて、男はようやく、呟くようにそう答えた。

「それだけじゃ解らない。」
怒りを込めた口調で少女は言った。
「みんな、ありきたりの答えばっかり言う。誰も本当のことは話してくれない。...お母さんに言っても、おじいさんに聞いても、答えるのはそればっかり。柳瀬さんは、お母さんを好きだったんじゃないか...。...私は、そこまで子供じゃない。本当の理由は、何?」

町を離れた裏山に、他に人の気配はなかった。苛立ちと怒りに満ちた少女の声は、周りの深い雪に吸い込まれ、消えていった。

少女は、ずっと、この時を待っていたらしかった。
他人の目を気にせず、この男に、自分の中に長年わだかまっていた感情をぶつけられる、この大雪の降った日を。

それは、普段娘を演じてきた少女がみせた、初めてのあからさまな反抗だった。
観客のいない舞台に響く、役者の生々しい肉声であった。


男は、少女のその、強い口調で言い放たれた言葉を受けても、ただ小さく、悲しげに笑うのみであった。

それは少女の幼さに笑っているのではなかった。
なんの理由も答えられない自分に、ただ笑っていたのだった。

男は、本当に彼女の母が好きで結婚しただけだった。
それまで、積み上げてきたもの、ほとんどすべてを捨てて、男は彼女の母と結婚した。しかし、彼にそれほどの行動を取らせたのは、単に彼女に対する情熱にも似た感情だけであって、何らかの、明快な理由など、そもそも始めから存在していなかった。

彼女に、それをどう説明したらいいのだろう。
男には解らなかった。

大人の方が、時に子供よりも、理由のつかない行動に身を任せてしまうと言うことを、この時期の少女に教えることは、少し酷なような気がしていた。

「...何か、おかしいの?」
少女が気味悪そうに聞いた。

「...いや。...なんでもない。」
男は答えた。
「...君は、僕のことを嫌いか?」

「...そんなこと。」
少女は答えに詰まった。

「いや、それなら、それでいいんだ。...考えてみれば、父親とは、そう言う役目なのだから。」

男は手近なところから掌いっぱいに雪を取ると、それをさらさらと零して見せた。

「雪というのは何かに似ていると、ずっと思っていた...。それが、ようやく解った様な気がするよ。」
そう言って、男は笑った。

「表面に出して醜いことは、みんな笑顔の下に眠ってる。でも、それでいいんだ。笑顔の下など、本来、どう知りたいと願っても見れるものではないのだから。」

男はそう言うと、南の斜面から、彼らの住む町を見下ろした。
深い雪に沈んで、町は一時、沈黙しているように見えた。
普段の喧噪も、諍いも、その風景からは些かも感じられなかった。

「...きれいなものだ。雪が降っただけで。」
男はぽつりと呟いた。

少女は未だ、硬い表情を崩してはいなかった。

男はそれに気がつくと、自身の表情を和らげて、言った。
「俺に対して、どんな感情を抱いていても構わない。...ただ、見せかけだけでもいいから、今までのように笑っていてくれないか。娘、として。...俺は、それ以上は求めないから。」

少女は困惑しているように見えた。
まだ、難しいことなのかも知れないな。男は思った。


男と少女は、それからすぐに山を下りた。

彼らの歩いた後には、来た時と同じように、何もない雪原に、大きさの違う二列の足跡が、長く長く、残されていた。

しかし、それは少なくともたった一つの点で、彼らが山に登ってきた時とは異なっていた。

男の大きな足跡から、少し離れるようにして、少女の小さな足跡が、転々と続いていたからである。

2008年10月25日土曜日

クスリ

どこに行けばいいのだろう。

女は一人途方に暮れていた。
知らない田舎のはずれの無人駅。
すでに通る列車もなく、辺りは静まりかえっている。

女は死に場所を探していた。
死ぬのならば、誰も知らない、どこか遠くで、ひっそりと死にたいと思っていた。誰からも振り向かれることの無かった己の人生に、それが一番相応しい最後であると、彼女は思っていた。女はふと、手に提げた小振りのボストンバックを見た。中には、少々のお金と、そして、両親と、何人かの友人に当てた遺書が入っていた。遺書を残した友人のうち、一人はかつて、彼女が本気で恋をした男だった。しかしそれも、今となっては遠い昔の話で、おそらく彼も今頃は、別な女性と、幸せに暮らしているのだろうと、彼女は思っていた。彼女からの遺書が、万が一にでも、彼の元に届いたら、彼はきっと、迷惑するかも知れない。彼女は遺書を書きながら、ふと、そんなことを考えもした。
しかし、結局、遺書は書いてきた。
どうせ、死ぬのだから。
それで、この小さなわがままの一つ位、許してもらえたっていいのではないだろうか。

死と引き替えに、たった一通の手紙を残す。
それもなんだか不釣り合いな気がしていた。
彼と付き合ってさえいれば、そんなこと造作もなかったはずなのに、今のわたしにとって、この一通分の思いを伝えるのが、なんて難しく、つらいことなのだろうか。
女はそれを思うと、今彼と付き合っているであろう、見知らぬ女を恨みもした。
でも、それもすぐに止めた。恨み辛みを抱えたまま、己の死に際を、醜悪に終わらせたくはなかった。
せめて、散り際だけはさらりと、逝きたかった。

自殺の理由は、特にこれと言って無かった。何か特定の原因と言うよりも、いろいろな不安が押し重なって、彼女を死のきわまで追い詰めていた。生きるのが、嫌になった。そう言うのが一番正確なのかも知れない。生きていても、楽しい事なんて、期待できないのかも知れないな。彼女はそんな、脱力感にもにた思いに囚われたのであった。

彼女の持ってきた荷物の中には、多量の睡眠薬が入っていた。
首をつることも、海に飛び込むことも考えたが、苦しまずに死ねる方法を考えて、これにした。
実際、本当に苦しまずに死ねるかどうか、死んだ人が教えてくれるわけでもないので、知りようがなかった。ただ、テレビや映画では、みんなまさにに眠るように死んでいくような描かれ方をしていたし、死に際も醜くなる心配はなさそうだった。高いところに昇るのは怖かったし、怖じ気づいてしまうだろうという予測があった。首をつるのも、目玉が飛び出るほど苦しむという話を聞いていて、考えただけで吐き気がした。

彼女は鞄を開け、睡眠薬の入った小瓶を取り出した。
それを掌で暖めるように押し抱きながら、しばらく佇んでいた。

この小瓶を手に入れてからずっと、彼女は不安になるごとに、この瓶を抱いていた。
これを飲めば、いつでも楽になれる。
そう思うと、不思議と心が静まった。死ぬために買った薬で、これまで生き続ける事になろうとは、彼女自身、思っても見なかった。もしかすると、彼女に不安をもたらしていたのは、出口のない毎日であったのかも知れない。毎日というものから、脱出する出口を見出すことで、なんにせよ彼女は、その不安を軽くすることが出来た。

これで、この毎日も終わる。

彼女は辺りを見渡すと、誰もいない駅の待合室が目についた。ここなら、次の日の朝には、彼女の遺体を誰かが見つけてくれるだろう。ひっそりと死にたいとは言っても、誰にもその死を伝えたくないというわけではなかった。わたしは悩み抜いて死んだのだ。そのことを、一部の人には確実に伝えておきたかった。

彼女は、待合室のベンチに腰を下ろした。夜露に濡れたプラスチックのベンチは、座るとひやりとした。
彼女はそっと小瓶の蓋を開けた。そして、ありったけの錠剤をその掌に載せると、微かに微笑んでそれを飲み下した。

次第に、世界が揺れていく。

目の前はやがて真っ暗になった。




明くる日、まだ太陽が昇りきらないうちに、彼女は目を覚ました。
太陽は、真向かいの大きな山の頂から、赤く眩しい光りで、地上を照らしていた。

彼女は、のそりと起き上がった。頭が、がんがんしていた。
喉も少し痛かった。

おそらくは、風邪を引いたのだろうと思った。




こうして死ねなかった女が、どこへ行ったのか、誰も知らない。
ただし、彼女がもう一度、自死を試みたことだけはなかったと思われる。

彼女の去った後の駅のくずかごには、破り捨てられた彼宛の遺書が、
くしゃくしゃに丸められてうち捨てられていた。

2008年10月15日水曜日

ゴンドラ

この恋の先に、一体、何があるって言うんだろう。

わたしには、それが見えずにいた。


彼との時間は楽しかった。どんな些細なことでも笑いあえたし、二人の間にはなんの問題もなかった。
彼は優しく、頼りがいがあり、仕事もきっちり出来る人で、申し分のない男だった。
わたし達は、言うまでもなく「順調」だった。

でも、「順調」という言葉は、そもそも何が「順調」だというのだろう。

まるで二人の関係が、すでに行き先が決まっている旅のようで、そうしていずれ、決まり切った過程を経て、行き着くところへ行き着くとでも言うような...。その道すがら、わたし達は「順調」だというのだ。

まるで、わたしが、彼の運命を縛っているようにすら感じてしまうその「順調」と言う言葉。
進めるべき所に、進めているのは彼?それとも、やはりわたしなのだろうか。

ときどき、わたしは思うのだ。

彼は、この、私達の関係を、どのように考えているのだろう、と。
彼は、わたしの前ではいつも饒舌に、そして時々冗談を交えながら、陽気に振る舞ってはくれているけれど、その笑顔の下の本心には、何か、全く違うものが隠れているのではないだろうか。

それを考え始めると、怖くなる。
彼が笑えば笑うほど、その表情の下にもっと暗い何かが立ちこめているのが見えてしまいそうで、わたしの笑顔は硬くなる。

実際には、それは心配のしすぎなのかも知れない。
彼はいい人だし、これまで、そんな暗い兆候なんか、わたしの前では一度だって、見せたことはなかったのだ。

ただ、どうしてなのだろう。
彼が笑うと、わたしは不安になる。
幸せにならなければいけない場面で、わたしは思わず、尻込みしてしまうのだ。


いま、彼が朝のトーストを用意してくれている、ほんの僅かな時間に、
わたしはこの文章を書いている。

昨日も大分遅くまで仕事をしてしまったから、明るい窓から差し込む朝の光が、目に灼けるように眩しい。
カーテンは彼の好み。うすく、透き通るようなブルー。
庭のコスモスの淡い赤が、その色によく映えるように、彼は計算していたらしい。

わたしにはもったいないぐらい、出来る人だ。


昔、わたしが彼に、今のような不安をぶつけた時、彼はわたしをじっと見て、
僕は君を必要としている。
と、はっきり言ってくれた。

わたしは、その言葉を信じている。
なんの根拠もない言葉かも知れないけれど、他の誰でもない、
彼の言葉だし、わたしは信じてみたい。

でも、同時にわたしには分からないのだ。

一体、彼のどこに、わたしが必要だと、いうのだろう。


彼はあまりに、よくできた人なのだ。

わたしなどがいなくても、おそらく彼は十分にやっていけるだろう。
それなのに、「わたしが必要」とは?

たぶんわたしが恐れているのは、その不可解さなのだ。

かれが、わたしの何を必要としているかが分からないから、わたしは始終、彼を恐れている。
もしかして、彼の意に沿わない何かを、わたしはしてしまうんじゃないか。
あるいは、わたしの唯一、彼が必要としている「よい点」を、わたしは何時しか、失ってしまうのではないか。

そうなってしまうことを、わたしは恐れている。


彼が、帰ってくる。

今日も、優しく笑っている。
わたしも笑い返そうと思う。

今日も、綱渡りの
甘い一日

2008年10月4日土曜日

カスク

こいつは、何時か俺を裏切るに違いない。

男と並んで隣を歩いていた女が、親しげに腕を組んできても、男の心の中からそうした思いが消えることはなかった。手を握ること、腕を組むこと、口づけをかわすこと、夜を供にすること。そうした、物理的な二人の交差は、決して二人の行く末の安泰を保証するものではないことは、男は長い経験のうちから知っているつもりだった。むしろ、そうした事実の積み重ねを急ぐような恋愛は、得てして、短命に終わる。男はそう考えていた。

 決して、恋愛経験に乏しい男ではないにもかかわらず、未だに、うち解けたつきあいの出来る女を得られずにいることが、彼のすべてを物語っていた。それは、これまでの彼の恋愛が、仮に物理的な経験は十分にあったとしても、最後は心理的な行き違いで、後味の悪い感情だけを残して終わっていたことに、そもそも起因していた。

どの恋愛も、最後は裏切りで終わる。
それが、男がこれまでの経験から得た結論だった。

友達で終わるとか、きれいに別れる、などというのは、建前もいいところだ。
それは、そもそも始めから恋愛関係ではなかったのだ。

憎しみの伴わない愛が、どこにあるというのだろう。
相手に、自分の理想を抱けば抱くほど、その理想と現実とのズレが、いずれ憎しみとなって吹き出してくる。
それがない愛など、相手に理想を抱いていないも同然ではないか?

傍らの女は、男の腕にしがみついたまま、ひたと身をすり寄せてきた。
男は、感情のこもらない目で、女の顔を見た。女の目は彼を見ていなかった。
ただ前だけを見ていた。しかし、男から見られていると言うことは明らかに意識しているようだった。

男は何も言わず、ただ溜息をついた。


用事があるから、と適当な理由を付けて女と別れた後、男は一人街を歩いた。

何か当てがあるわけではなかった。ただ、女と歩くのにうんざりしただけのことだった。

俺にはそもそも、こういうのは向いていない。
男はそう感じていた。

街は次第に暮れ始めており、西の空深く太陽はは沈んで、薄赤い残光が夜の縁を照らすのみだった。

男はその太陽の残り火を求めるように歩きながら、ネオンの明るく灯り始めた街の中を一人歩いた。


「いらっしゃい」
手近な一軒の店の入り口をくぐると奥から声がした。金属の呼び子が、からからと音を立てた。まだ店は開いたばかりのようで、男の他に先客は客は誰もいなさそうだった。
「お一人様ですか」奥の方から、店の主らしい女の声がした。太く、枯れた女の声だった。
「ええ」
男は端的に答えた。

「では、どうぞお好きなところへ」
男は足の赴くまま、店の一番奥のカウンターテーブルの端に腰を下ろした。
よく磨かれた質朴なその机は、店の穏やかな白熱灯の間接照明を受けて、鈍い輝きを放っている。

「何にいたしますか」
店の主の女が、カウンターの奥から男にたずねた。女はこちらを真っ直ぐに見ていたが、暗さに目が慣れないため、表情までは読み取れなかった。

「タリスカーは、ある?」
男はなじみの酒の名を呼んだ。
「ええ。水割りでよろしいですか?」
「ダブルで」

男はそう簡単に答えると、差し出された手ぬぐいをそっと目に押し当てた。
どうしようもなく、疲れた気がしていた。

あの女と歩いた2時間は、彼に徒労以外の何物をも残さなかったと思うと、自分の人生のほとんどは、疲れるために生きているような気さえしてきて、彼は自分の32年間を無駄多いものとして実感するほか無かった。

もっと効率よく、生きる道もあったはずだった。
それが、どうしてこう、徒労の多い生き方を選んでしまったのだろう。

男は目に厚い手ぬぐいを押し当てながら、ふと笑った。

そして、何事もなかったかのようにそれを傍らへ退けると、差し出された冷たい酒を喉に流した。

男は通しとして差し出された小鉢の和え物を竹の箸でつまんだ。
何処か懐かしい味のする、牛蒡と人参の和え物だった。

「うまいな」
男はふと、独りごちた。
人気のない店内に、男の声は静かに響いた。

「気に入っていただけました?」
女は控えめに男にたずねた。ようやく目が慣れて来た様子で、男はその女の表情を灯るような薄明かりの中、はっきりと見ることが出来た。そして、はっと息をのんだ。

「気に入っていただけた?もう、10年にもなるものね。」
女はそう言うと、恥ずかしそうに目をそらした。
紛れもなくそれは彼がかつて恋した女だった。

よく見れば、見間違うはずもなかった。顔つきも、表情も昔のままだった。
しかし、10年の間に彼女の雰囲気はすっかり変わっていた。
和服を着て、しっかりと化粧をした彼女を彼は見たことがなかった。それに、声も昔よりは幾分低くかすれているように感じた。

「私は、変わってしまったでしょう」
女は眉を下げて困ったように笑った。見覚えのある表情だった。
「十年は、長いものね。でも、あなたは全然変わらない」
「こんなところで働いていたのか。」男はようやく声を出した。
「大学を出てから、君だけ連絡がつかなくなっていたと聞いたが...。」
「わたしは、私を捨てたのよ。」女は困ったような笑顔のままで言った。
「大学時代に見聞きしたものも、それまでに培ったものも、あなたとの思いでもすべて...。そうしないことには生きられなかったから。」
女は、手元の水割りを、マドラーで静かにかき回した。
乾いた氷の音が心地よく耳に届いた。

「あれから、何があったんだ?」男がたずねた。
「俺と別れてから、何が?」
「...何もなかったわ。何も。取り立てて、言うようなことなんか」
女は静かに言った。かすれ気味の声が、言葉じりを匂うように煙らせた。

男も、聞く言葉を失った。
そして、手元の酒をもう一度あおった。

二人は無言のままそれから半時ばかりを過ごした。
男の脳裏には、女の過去に対する疑念が次々に浮かんできたが、男はそのつど、浮かんでくる言葉を酒とともに飲み込んでいた。

男は、自分には彼女の別れて後の人生について、質問する権利を持たない気がしていた。傷を負い、傷を負わせた者の、それが最低限の慈しみのように、彼は思っていた。

女は男が酒を飲み干すと、無言のうちに同じものを差し出した。
それが、彼の無言の質問への彼女の答えなのかも知れなかった。女は慣れた手つきで、その行為を何度となく繰り返した。

二人の視線はその間、度々交差した。
しかし、その手が触れあうことすら、ついぞ無かった。


それは、男が幾杯目かのグラスを開けた時だった。
「....あと、30分もすると、別なお客が入ってくるわ。」
それまで黙っていた女が突如、口を開いた。
「...その前に、帰った方がいい...。...あなたは、見ない方がいいと思うわ...。」

男はなおも無言であった。
が、女の言葉に答えるかのように、最後のグラスを干してしまうと、席を立ち、
勘定を済まして店を出た。


「ちょっと待って」
男が店の前から立ち去ろうとした時、女が呼び止めた。
「これを」
女は一枚のハンカチを男に差し出した。

「昔、私が、他人に言われたことが悔しくて泣いた時、あなたがくれたの。私の...、お守りのようなものだった。すべてを捨てようとして、結局何も捨てられずにいる私の象徴だった...。私は、これを見ていて、私を許せたの。何も、変わっていないような気がする時、何かが、変わってしまったような気がする時、このハンカチが、私を元の私に、引き合わしてくれた。」

女は目を細めて微笑んだ。
「でも、もういいの。私は、私の道を見つけた。私はこれからも変わっていく。でも、私を失うことは、もう無いと思うわ。変わり続けても、変わりきれないものだと気づいたの。どうしても動かせない部分が、人にはあるのよ。...他人はそれを、不器用と言うけれど。」

男は、その言葉に、何かを言おうとした。
しかし、女はそれを遮るように続けた。

「あなたとは結局けんか別れしちゃったけれど、私にとっては最後の恋らしい恋だった。あなたのおかげで、いっぱいいっぱい、いろんな事を知った。...ありがとう。それだけは、言いたかった。」

そう言うと、女は昔のように、片手を上げて、小さく遠慮がちに手を振った。
男は無愛想な表情のまま、それでも軽く頭を下げた。

角を曲がって、女の姿が見えなくなってから、男は女のくれたハンカチを、まじまじと見た。
飾り気のない、暗いトーンの格子柄の、男物のハンカチだった。それは確かに、彼のものだった。女はそれを、肌身離さず持っていたのか、裾はすっかり擦り切れて、ぼろぼろになってしまっていた。布地からは、先ほどの女と同じ香水の匂いがした。彼の知らない彼女の香りだった。

彼の背後から、先ほどとは違う調子の女の声が、微かに男の耳に触った。
男はその声を聞きたくなかった。早足で逃げるように、ビルを出て、ほの暗い通りに出た。

通りでは幾組もの男女が、腕を組み、あるいは手を繋いで、親しげに通りを行き来していた。
男はその中を、両の手をポケットに突っ込んだまま、やや前かがみに、足早に通り抜けた。

男は行き交う群衆の中で、寂しい、と感じた。

裏切りのリスクを背負ってでも、誰かと繋がろうとする寂しさを、
彼は初めて、理解したような気がした。

2008年9月29日月曜日

夏の記憶

祖父は幼い私を、いつも抱きたがっていた。私がご飯を食べている時も私を膝の上に載せたがって、甘い声で、

「こっちへこねえが?」
と呼び寄せたりする。

私も、優しい祖父は大好きだったから、祖父がそう言ってくれればすぐにでも立ち上がって、彼のあぐらの上に喜んで腰を下ろした。でも、そう言う時は決まって、
「これ!」
と、傍らから檄が飛んできた。目尻をつり上げた祖母が、恐ろしい形相で、祖父を睨んでいる。その表情を見て、私は自分自身が怒られているような気がして、怖くて泣きそうになった。

なぜ、祖母が祖父をことある事に怒るのか、私には分からなかった。

祖父は庭仕事が好きで、天気のよい日にはよく庭に出て、花壇の土を掘り返しては、新しい花の苗を植えたり、植木の剪定をしたりしていた。

祖父が特に好きだったのは朝顔とチューリップで、中でも朝顔は殊更、力を入れていた。大きなおなかを窮屈そうに丸めてしゃがみ込み、せん定ばさみをくわえて、朝顔の蔓が巻き付きやすいように、細い竹の格子を作ったりしていた。祖父の太い指は驚くほど器用で、そうした物をあっという間にくみ上げてしまった。

私は、祖父の指が竹の格子の上を行ったり来たりしながら、見たこともない結び方で、どんどん格子が組上げられていくのを、まるで魔法のわざでも目撃したかのように、目を輝かせてみていたそうだ。

しかし、そうして、祖父と私が気分よく庭仕事をしていると、決まって後ろから聞こえてくるのは祖母の声であった。

「これ!」

私はいつも、その声を聞くと、驚いて立ちすくんでしまった。
祖父を見れば、彼も同じように立ちすくんでいた。まるで悪戯をとがめられた少年のように、すごく申し訳なさそうな顔をして、縁側から顔を出して怒る祖母を見ていた。

私は、祖母が嫌いであった。

こんなに、子供のような心を持つ祖父をガミガミ言う祖母が嫌いであった。
祖父が、自分の布団で私と一緒に寝ようとしている時に、それを取り返してしまう祖母が嫌いだった。
祖父と縁側に出れば怒り、庭に出れば怒り、散歩をしても怒る祖母が、嫌いだった。

祖母はきっと、祖父が嫌いなんだろう。
子供心に、それが分かった。

おじいちゃんは、いつもかわいそうだ。

私は祖父と一緒にいる時には、必ず祖母が居ないのを見計らうようになった。
そうすれば、私も、祖父も怒られずに一緒にいることが出来るからである。

私は、祖父と一緒にいたかった。
もっと、何時までも、一緒に。

なのに。


祖父が死んだのは、突然だった。

正確には、突然と思っていたのは、幼かった私だけだった。
祖父は、末期の脳腫瘍を患っており、実はかなり長い期間、入院していたのである。幼い私には何も知らされず、祖父は、遠い大きな街に住んでいるとしか、理解していなかった。

この退院そのものが、もう手の施しようのない祖父への、病院側の、せめてもの計らいだったのだ。

しかし、それは、おそらく祖父自身も知らなかった。
知っていたのは祖母と、私の両親だけだった。


私は覚えている。

朝食を食べている祖父の、白米の盛られた椀に、鮮血の雫が、ぽたり、と落ちるのを。

見れば、祖父の鼻から、血が滴り出ていた。数時間経っても祖父の出血は止まらず、そのまま病院に担ぎ込まれた。

私はその日から、祖父を見ていない。


大輪の朝顔が、華々しく裏庭に咲き誇った、夏の初めの出来事だった。
前日まで、祖父はそれを見ながら、満足げに笑っていたはずだった。

この世界の青を全部集めたような、色とりどりの朝顔が、祖父の用意した、大きな竹の格子を埋め尽くさんばかりに咲いていた、7月。

祖父の笑顔と、朝顔の青と、白米の赤い鮮血。


私の、最初の夏の記憶。




そらから程なく、家の前に、大きな提灯が飾られた。
白黒の幕が、周囲を取り囲んだ。

祖父の遺影が、先祖の遺影の列に、新しく加えられた。


祖母はその日から、誰も怒らなくなった。
もう、顔を真っ赤にして
「これ!」
と叱ることも、なくなってしまった。

2008年9月27日土曜日

避行

冷えた夜風が吹き抜ける夜道に、少年は片膝を立てるようにして座り込んでいた。辺りからはもうすっかり人影は消え失せ、季節に置いて行かれた秋の虫が、悲しげに、今にも消え入りそうな細々とした声を立てるばかりであった。

少年の前には、赤々と燃える炎があった。

拾ってきたライターで、落ちていた新聞紙をたき付けに、ようやく起こした火だった。
少年はその炎を切らさないよう、十分な量の薪を用意したつもりでいたが、それもどうやら足りなくなりそうだった。外気は先ほど降った小雨で、かすかに湿り気を帯びていた。どうやら、新しい薪を得ることは難しそうだった。

少年は、長く寒い夜になることを覚悟して、炎照らす闇の中、身を縮めた。

彼の前には、一人の少女が横たわっていた。
少女は彼らの持っていた唯一の毛布にくるまって眠っていた。今日一日の移動ですっかり疲れてしまったのか、少女は微かに寝息を立てていた。先ほどまで履いていたミュールは片方のかかとがすっかり外れて、革一枚で繋がっているような状態だった。

少年は、彼女がそれを、不安定に揺らしながら歩いている昼間の様子を思い出し、微かに微笑んだ。少年がいくら脱ぎ捨てろと言っても、少女はそれを捨てようとしなかった。思い出の品だからと言うだけの存在理由で、その折れたミュールは、彼女の足にくっついたまま、結局夜になってしまった。

それを考えると少年は、このミュールが自分自身のようにも思えてきた。
そもそも彼女を、彼の家出に誘ってしまったのは間違いだったような気がしていた。家を出るなら、彼一人、出ればよかったのだ。彼女を誘ってしまったのは、自分の弱さの表れにも他なら無かったように思えた。家に居続けるだけの気持ちのゆとりもなく、かといって、一人で出て行くほどの勇気もない。家を出て、僅か数時間で、彼女にメールをしてしまったことを、彼は今、悔やんでいた。

彼が呼び出すと、彼女はすぐに現れた。

いつもと代わらない軽装で、足下には彼の贈ったミュールが見えた。
彼に出会った時、彼女は始め、家に帰るように説得した。彼の母親が随分心配していたこと、父が落ち込んで、朝から黙り込んだままであることなどを彼女は彼に伝えたが、彼は今更、父母の居る我が家に帰ることは出来なかった。これだけの騒動を起こした後で、何事もなかったかのように家に帰るだけの図々しさを、彼は持ち合わせていなかった。一体家に帰ったところで、どんな顔で、それほど心を痛めた両親に会えばいいのか、彼には見当も付かなかった。

彼女は、彼の話を、大きく目を見開いて熱心に聞いていたが、やがてうん、と頷くと、
じゃあ、私も連れてって、と言いだした。

「いいでしょう?私がついて行っても」
彼女の半ば強引な要求を、彼は拒否することが出来なかった。彼一人になって心細さを感じ始めていた矢先でもあったし、彼女がそばにいるのは心強かった。とはいえ、彼女を巻き込んで、騒動をこれ以上大きくしてしまうことには抵抗があった。それでも、このときは、弱り切っていた自分の気持ちを補正することの方が、彼にとって差し迫った優先事項だった。

彼と彼女は、何も言わず連れだって歩いた。
彼らにこれといった目的地があるわけではなかった。ただ、一時的でも心の安まる場所を求めて、街のあちこちを歩き回った。その多くは、彼らの一度行ったことのある場所であり、知らない場所には滅多に行かなかった。どうやら気持ちの萎えている状況では、新しい場所に行く緊張と不安を、自然と避けてしまうようだった。彼らは彼らの思い出を、一つ一つたどるようにして、何時か来た場所を一つ一つ巡り歩いた。そうして歩いていると、彼は時々、まるで彼女と、いつものようにデートでもしているような錯覚に囚われることがあった。町並みも、そこを行き交う人々も、彼女の格好も、自分の服装も、いつものそうした状景と、何ら変わりはなかった。ただ一つ違うのは、彼らに帰る意志がないと言うことだけだった。これは日常からの別れの旅だった。

夜になり、辺りが暗くなってくると、彼は夜をどこで明かすかと言うことが心配になり始めた。何処かに泊まろうにも、彼らに、二人で宿泊するだけのお金はなかった。困った挙げ句、彼は幼い頃何度か隠れたことのあった、学校の裏手の小さな洞窟を思い出した。そこは洞窟と言っても、深さが1, 2メートルほどしかない、崖のくぼみ程度の物で、雨露をかろうじて防げる程度の物だったが、外からは見つけにくい場所にあり、今の彼らにとっては格好の隠れ家になってくれそうだった。

彼がそこに彼女を案内するのは初めてだった。
その洞窟を見た時に、彼女は何も言わなかったが、予想とは大分違っていたようで、思わず目を大きく見開いた。それを見て、彼は幼い頃の自分の恥部を見せたようで、なんだか恥ずかしくなった。

彼らは空腹を抱えながら、それでも暖だけは取ろうとたき火を起こした。
そして、近くに捨ててあったまだそれほど古くはなさそうな毛布を彼女に与えて、先に眠らせた。彼女は嫌がりもせず、その毛布に身をくるめると、横になって、後はすっかり、眠ってしまった。

彼は今夜は眠らない覚悟をしていた。体も、心も彼女同様にくたくただった。しかし、彼自身のわがままで家を飛び出し、そして彼女まで巻き込んでしまった以上、彼は何としても彼女を無事に送り返す必要があると感じていた。

彼女はおそらく、この様な汚い毛布にくるまって眠ったことはないだろうし、壊れたミュールを引きずってこれほど長い距離歩いたこともないはずだった。それでも何も言わず、彼に付いてきてくれた彼女を、これ以上、不幸な目に遭わせるわけにはいかないような気がしていた。

本当の幸せとはなんだろう。彼はふと、そんなことを考えた。
目の前に燃えるたき火の炎の中に、答えはなかった。彼にとっては今は幸福ではなかった。しかし、また、不幸でもないと感じていた。かつての日々は不幸だった。彼は少なくとも、不幸から逃避は出来ていると思った。

しかし、彼女にとってはどうだろう。彼は再び、彼女の方を見た。
赤い炎に照らされたその横顔は、あどけない少女のように、深い深い夢を見ていた。
彼はその横顔を見て、思わず微笑んだ。

彼女を好きだった。何時までも、この横顔を眺め、一緒にいたいと思った。でも、その彼女と一緒にいることが、彼女自身をかつてより不幸にしてしまうとするならば、それは本当に、彼女を好きな人間が取るべき態度なのだろうか?

彼には答えられなかった。
だが、彼女を明日、家に送り返すことで、実は自分は、また一つ逃避をしようとしているような気がして、彼の決意は右に左に、揺れ動いていた。

2008年9月23日火曜日

猪狩り鉄忠

江戸市中から大分離れた山奥の村に、たいそうな強力で知られた大男が居を構えていた。
この男、いつからここに住み着いたのか村のものですら正確には知らなかった。年は40とも、50とも言うが、時折見せる笑い顔は、童のそれのようで、実はもっと若い男なのかも知れなかった。

いずれにしろ、村の片隅にいるこの大男に、村人は、畏怖と好奇の両方が混じり合った気持ちで接していた。男は普段、家の周りにこしらえた畑にでて、他の村人と同様に鍬を振るい、自らが日頃食う分だけの菜物を育てていた。どうやらその畑で取れるものだけで腹は満たされているようで、村人の世話になることは滅多に無かった。

それどころか、男は月に数度、大きな大刀を一本下げて近所の山に分け入り、二、三日も帰ってこないかと思うと、大きなイノシシを抱えて降りてくることがあった。捕ってきたイノシシは当然のように村人にも振る舞われたから、村人は皆、イノシシが捕れる時期になると、内心、男が山に入るのを心待ちにしていた程であった。

村人はその猪肉の礼として、僅かばかりの米を男に分けた。
男はその米を日々の糧としていたのはもちろんだが、食べきれないと思った時には、町の市に持って行って売りさばき、必要なものを買ってきているようだった。

ただ男の家はいつ見ても薄汚いあばら屋のままだったし、何かが新しく買い足されたようでもなかったので、男が得た金を何に使っていたかというのは何時までも謎のままであった。

立派な大刀を持っていることから見て、男の出自は武士のようだった。
しかし、着ているのものは村人ですら驚くほど薄汚い身なりだったし、髷も十分に結っていなかった。刀の鞘もすっかりぼろぼろで、おそらくは中の刀はすでに刃が落ち、鉄の棍棒に等しくなっているものと思われた。

実際、男が捕ってきたイノシシには全く刀の傷がなかった。
ただ頭蓋だけが激しく陥没していて、これが致命傷になったと察せられた。

村人は男の名を知らなかったから、とりあえずの通称として、
「奥山の鉄柱殿」と彼のことを呼んでいた。


そんな折、一人の若い侍が村をたずねてきた。

「佐田雷哲様という御仁を捜しておるのですが」若い侍は村の長にたずねた。
「佐田雷哲様、ですと?....うちにはそのような立派な名前のものはおりませぬが...。見ての通りの寒村でして。」
しかし、若い侍は村長の言葉を聞いていないのか、
「いえ、佐田様はここにいらっしゃるはずなのです。この村の何処かに...。」
そう言って聞かなかった。

村長はすっかり困ってしまって、とりあえず村の中を案内することにした。
そうしてこの村のことを知れば、こんな村にそのような名前のものが居ないことなどじきに察せられると思ったからである。

村長が、若い侍を連れて村の中を歩いていると、山の奥から例の鉄柱が、イノシシの死体を引きずって歩いてきた。

彼の連れているイノシシはこれまでの中でも3本の指にはいるかという大猪で、運ぶだけでも常人ではひと苦労であるはずなのだが、この男にとってはそれもなんでもないらしく、平然とした顔で村の真ん中の道を歩いてきた。

すると突然、それを見た若い侍が
「もし、あの方は?」
と村長にたずねた。

村長は突然のことに驚いていたが、
「へえ...。私らも本当の名前は知らないんですが...。奥山の鉄柱殿と呼んでおります。」
と正直に話した。

「奥山鉄忠殿...。」
若い侍は突如、つととしてその大男の前に立った。
「もし、鉄忠殿」

呼び止められた大男は、ぼやりとした顔をして、目の前に立った細身の若い侍を見下ろしていた。

「わたくしは太田三朗ともうすもの。さる用向きにより、佐田雷哲様というお方を捜しておる。そなた、何かご存じないか。」

大男は、それまで、右手に猪を引きずり、左手に鞘に入った大太刀をかつぎ上げていたが、
佐田雷哲という名前を聞くやいなや、右手から猪を放した。そして、おもむろに太刀の束に手を掛けた。

若い侍もあわてて身構えた。

大男は太刀を引き抜くと、素早くそれを横になぎ払った。
刀を引き抜こうとしていた若い侍はその動きに全くついて行けなかった。

刀を半分抜いたまま、後ろに飛び退いて、かろうじて一太刀目をかわすと、ようやく鞘を払った。どっと全身の毛穴から汗が噴き出た。

男は間合いを一気に詰め、再び振り回すように太刀を振るった。
ぶうん、と風を薙ぐ音がして、若い侍のすぐ目の前を、大太刀の切っ先が通り過ぎていった。

若い侍は完全に劣勢だった。刀をよけるのに精一杯で、この大男に立ち向かう術はなさそうだった。

大男は青眼の構えから、咄嗟に切っ先を揺らし、相手を袈裟に切り上げる素振りを見せた。
若い侍は不意の動きによけきれず、思わず目をつぶった。

斬られる。

がちん、と耳をつんざくような大きな音がして、
無意識に突き出した彼の太刀が、ものすごい力で持って行かれるのを感じた。
太刀は彼の腕をすっぽ抜け、遠くの屋敷の軒へぶすりと突き刺さった。

恐怖に腰が砕けて、若い侍は尻餅をついた。おそるおそる顔を上げると、そこには大男が、先ほどと代わらぬ静かな瞳で若い侍を見下ろすように立っていた。だらりと下げられた右腕には大太刀が、指の太い手の中にしっかりと握られていた。

大男はしばらくそうして若い侍の顔を不思議そうに見ていたが、やがてくるりと向きを変えると、のそのそと、うち捨てられた猪のもとに戻り、そしてそれを再び引きずって、もとのように歩いて去った。

「大丈夫でございますか!」
遠くから見ていた村長があわてて若い侍に駆け寄ってきた。

「あの方はどういう...。」
若い侍はまだ放心した気持ちが戻らないまま、村長にたずねた。

「さあ、私どもも素性は存じないのです。...ただ、普段は優しい大男で、村人にもあの猪の肉を分け与えてくれるほどなのですが...。よもや、人様に剣を抜くとは...。」

「いや...。これは私の方に責任があるのでしょう。」若い侍は言った。「あの大男、私を斬ろうとしなかった...。追い返すだけが目的だったのか....。」

2008年9月22日月曜日

ナイフの世代

「届かないものを追いかけていると言うことぐらいは自分でも分かっていたんだ」
ユウキはコウイチを見ようともせずに、そう言った。
「でも、しばらく...。もうしばらくと思っているうちに....。」
ユウキの目はうつろだった。その瞳は、もう遠くなってしまった過去を...、静かにふり返っているようだった。

コウイチとユウキは同級生だった。いつも、何をするにも一緒で、なんにも面白いことがない時でも、二人して何やらごにょごにょと話しては、ひひ、と笑い会うような仲のよい男児の典型のような二人だった。

その二人の関係も、彼らが中学3年生を迎えた頃から、微妙な変化を示し始めた。

コウイチは一人の女性を恋したのである。
女性と言っても、同じ学年の女子生徒なのだが、それでも彼にとっては立派な初恋だった。彼女と過ごす時間は何をするのも楽しく、些細なことでも笑いあえた。彼は時々、人生でこんなに笑ったことがあっただろうかと思ってみることもあった。それほどに彼女と過ごす時間は幸福だったし、彼女も同じ幸福を味わっていると言うことを確認する度に、その幸福は更に倍加するようだった。

一方でユウキも、誰か女性を好きになったという噂は聞いていた。
それはコウイチのように、同じ学年の女子生徒ということでは、どうやらないらしかったが、彼らが話す中で、そのことを話題にすることはなかった。いつも一緒にやってきた二人の関係に、二人の違いが入り込むのが、怖かった。
彼らは何時までも、以前の彼らのままで、そういう時は無邪気に笑い転げた。


ある日の夕方、コウイチが部活の帰りで遅くなり、帰宅を急いでいる時のことだった。
春先のことで、日は次第に長くなってきてはいたものの、6時を過ぎるとだいぶ薄暗くなって、学校の周辺は人通りもまばらになった。紺色の空の下に聳える白亜の校舎は、1階の職員室を煌々と明るく照らしたのみで、普段明るい声の響く幾つもの教室のいずれもが、真っ暗な闇に飲まれていた。コウイチは薄闇に沈み逝く校舎に別れを告げて、校門を出た。

校門を出てしばらく歩くと交差点があり、底がコウイチとユウキが、いつも別れる場所だった。ユウキの家はそこを右に曲がった先にあり、コウイチの家は左に曲がった先にあった。今日は一人で家に帰るコウイチはいつもはユウキが曲がっていく右の通りを無意識に眺めながら自身は左に曲がった。

薄暗い左の通りは、彼の前に不穏に立ち上がっていた。点々と続く街路灯の明かりが断続的な平和をもたらす以外には、暗い不安が立ちこめていた。おそらく、女性一人では縮み上がってしまうだろうというような、不気味な通りだった。

コウイチはそのほの暗い道を転々と連なる明るい場所を突き抜けるようにして進んで行った。彼を覗いて通る人はなく、通る車さえない静かな道だった。

ふと、その時コウイチは目の前を見つめ、そして思わず立ち止まった。

二軒ほど先の、知らない民家から、ユウキが一人の女性に付き添われるようにして出てきた。
暗くてはっきりと分からなかったが、女性は、少なくともユウキの母親ではないようだった。ユウキが女性と親しげに言葉を交わすと、彼女は喜んでいるようだった。ユウキはやがて彼女に手を降って別れた。女性も、門の前に立って、同じように手を振りながら彼の背中を何時までも見送っていた。

コウイチはその様子を、通りの角からずっと見ていた。

自分の知らないユウキがそこにはいた。

彼は彼のことを、幼い時から、何一つ余すことなく、知っているつもりだった。
しかし、目の前にいる、ユウキの殻をかぶったような...、それは紛れもなくユウキ自身なのだが...、ユウキは、彼の全く知らない女性と、全く知らない親しみでもって会話していた。

それは、思わずコウイチを通りの角に隠れさせてしまうほどに、見てはいけない光景のように思われた。

ユウキはそんなコウイチには気がつかない様子で、彼のすぐ目の前を、少し早歩きで通り過ぎていった。そうして歩いていくユウキの姿は、いつものユウキと何ら変わることがないようだった。コウイチは嫌な夢でも見たような顔つきで、しばらくそこにいたが、やがて静かに歩き出すと、ふらふらと自分の家に帰っていった。


次の日、彼はユウキと話すのを躊躇っていた。
いつものように話しかけようにも、どのように話しかければいいか分からなくなってしまったのだ。いつも見慣れたユウキは、まるで赤の他人のように、今日は感じられた。だからコウイチは、ユウキがいつものように親しげに話しかけてくるまで、結局こちらから話しかけることが出来なかった。

話してみると、ユウキはいつものユウキだった。
そんな様子に、コウイチも次第にいつもの感覚を取り戻した。昨日のことは、悪い夢だったのだと思うようにした。彼の様子には、何も代わったところはなかったのだ。彼の見たものを裏付ける変化は、何も。


しかし、何時までも、夢のままでは終わらなかった。
事実は、いくら本人が思い違いをしようとも、事実として冷たいほどそこに居座り続けるものだ。コウイチにも、それを思い知らされる時が来た。

ある時ユウキが、全身あざだらけの無惨な姿でコウイチの前に現れた。

それは昼間の出来事だった。日曜の午後、いくら電話しても電話に出ないユウキに見切りを付けて、コウイチが公園脇の道を歩いている時だった。

向こうから、よろよろと歩いてくる人影があった。

始めはそれがユウキであるとはコウイチも気がつかなかった。
それほどまでに彼の姿は痛々しかった。

コウイチがそれがユウキであると気が付いて駆け寄ると、こちらに向かって居歩いてきたユウキの足取りが、ぴたりと止まった。彼は腫れた目を上げて、コウイチを見た。そして、悲しそうに切れた口元だけで笑った。


ユウキが洗いざらい、すべてを話してくれたのは、その日の夕暮れ、もはや遊ぶものの誰もいなくなった、小さな公園だった。
その話は、同級生どうしの無邪気な恋愛しか知らないコウイチにとってあまりに衝撃的なものだった。

静かに、その話しをしている時のユウキは、彼の知るユウキではないように思った。
またあのときの、遠い存在に、ユウキはなってしまったように思われた。
まるで、夜の闇と会話しているかのように、コウイチとは一度も目を合わせずに、ユウキは小さな声で一人語り続けた。

「当然なんだ。考えてみれば。」彼はそう言うと、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「僕は、いけないことをしたんだから」そうして、一つ、大きな溜息をした。
「好きになるって事は、どうしてこうも、自由にならないものなんだろう。それがいいことなのか、悪いことなのかも分からないのに、どんどん前にだけは進んでいく。...それは、彼女も同じだったと思うんだ。僕らは、ふたりとも、同じ気持ちだったのだから。」
ユウキはもはや、コウイチの存在を意識していないかのように、切々と話し続けた。
コウイチは彼が話し切ってしまうまで、質問を挟むことは憚られるように感じていた。

「彼女、泣いてたよ。僕が殴られている間、ずっと。」
コウイチはそう言うと、俯いたまま身を小刻みに震わせた。
口の間から、微かな嗚咽が漏れた。

「もう、こんな恋は嫌だな」
一言、ぽつりと言った。
その声さえも、夜の闇に吸い込まれていくようにコウイチには感じられた。

「僕らは結局、こうするしかないんだ」

ユウキの言葉をコウイチはよく理解できなかったが、それでもなぜか、胸の奥に迫るものを感じていた。
それは彼に突きつけられた、一本のナイフのようでもあった。

2008年9月8日月曜日

野辺送り

老人は嘆いていた。

彼のたった一人の孫が突発的な大波にさらわれ、数日前から行方不明になっていた。仲間が船を出し連日捜索してくれたものの、息子の安否を示す手がかりすらえられなかった。

毎日、浜辺に立ち、仲間の漁船が帰ってくるのを今か今かと待ち続ける老人に、手ぶらで帰ってくる友船の乗組員達は合わす顔がなさそうだった。

「じいさん、すまねえ...。」
若い衆を率いている大柄な男が小さな老人に申し訳なさそうに頭を下げた。

そんなとき、老人の瞳はただ青い海を見つめているだけだった。
彼の灰色の瞳には、彼の孫を飲み込んでも平然とした、穏やかな青い海原が拡がっているだけだった。

これに生かされ、そして殺されるものたちがいる。

老人もかつて漁師だったから、そのことはよく分かっているつもりだった。
彼の息子も、そして娘の婿も、この海に飲まれて死んだ。

しかし、それでも、自分の孫までが、こうしてが生死も判然としない状態になってしまうと、老人はもう気が狂ってしまいそうだった。今はもう亡い、彼の娘に...、すなわち、この孫の母に、彼は誓ったのだ。
先に逝くお前の変わりに、この子を一人前の人間にしてみせる、と。

彼の娘は、その夫が亡くなってそれほど経たないうちに、気をおかしくして海に飛び込んでしまった。
何とか助け出されたものの、溺れて長い時間息ができなかった影響か、もう立つことも話すことも出来なくなってしまい、目を回したような顔のまま、10日と持たずに息絶えた。

幼くして母を亡くした子供は、きっと乱暴者になると、村の老人達は口々に言った。かつてそういう者が出て、村はたいそう迷惑したことがあったという。その言葉に恐れをなして、その子を何処かへ里子に出すように彼に強く迫る者も少なからずいた。しかし、彼は結局、子供を手放さなかった。

この子を、一人前の、漁師にするまでは、私はこの子を育てなくてはいけない。
愛する娘を失った父の、それが生きる支えになっていた。

幸い、彼の孫は周囲の心配を他所に、すくすくと成長した。

そして、まだ随分幼いうちから、祖父について漁を習い、成人する頃には、すでにいっぱしの漁師を名乗れるまでに腕を上げてていた。

彼が港で一番の水揚げを上げたとひとから聞く度に、老人は有頂天になった。
実際、彼の孫は本当に上手に魚を捕ってきた。多くの漁師が、魚をあちこち傷だらけにして、ようやく仕留めるところを、息子はそれを本当に最小限に留めるので、魚の鮮度がほとんど落ちなかった。

街からやってくる仲買達も、彼の孫の捕った魚は特に高く買い取っていった。
おかげで、老人は普通より少し早く引退することが出来た。最近になって、孫の妻となる娘もようやく決まった。彼の孫に対する娘達の評判は悪くはなかったようで、妻となる娘の親ともすぐに話が付いた。


しかし、そんな折、事故は起こった。
孫の船が沈んだ場所は昔から三角波という、極めて大きな波が突然起こる海域で、漁船が転覆する事故がたびたび起こっていた。ただ、それも風向きと天候に左右されるようで、いつもはなだらかな、なんの変哲もない場所だったから、村人も、特にそこを警戒して避けるようなことはしていなかった。何より、その辺りは魚の好む岩礁もいくらかあって、村の漁師達はまずそこで小さな魚を捕まえてから、それを餌にして大魚をねらいに行く場合が多かった。

その日は彼の孫も、おそらくはカジキかマグロあたりを狙って、まずその餌を確保しようとその海域に船を向けたようだった。その様子は、近くで漁をしていた多くの仲間が目撃していた。しかし、少したった後、仲間の一人が彼の捕っていた場所で同じく魚を捕ろうとしたところ、先ほどまでいた彼の船がないことに気がついた。

始めは、いつの間にか立ち去ったのかと思って特に気にしていなかったが、海面に、彼の船名の書かれた板きれが浮かんでいるのに気がつき、あわてて持っていたメガネで海底を覗いた。

揺らめく海底に、途中から真っ二つに折れた一隻の小舟があった。人影までは確認できなかったが、男はあわてて仲間の船を呼びに船を走らせた。


それから、もう数日が過ぎていた。

老人は隠居したと言ってもまだ若く、はつらつとしていて、肌のつやも、目の輝きも未だ衰えを知らぬ印象だったのだが、孫が行方不明になったと聞いた日から、おそらく夜も眠れないのか、眼窩は深くくぼみ、頬はすっかりやせこけていた。心配した彼の姪が、毎日彼の家を訪れて、何かしらのものを食べさせようとしていたが、彼は一向に受け付けなかった。

起きればいつも、なだらかな海ばかりを見て、眠る時は闇の中、閉じられることのない眼を一晩中ぎらぎらと光らせていた。

このまま、彼の帰ってこない日が続けば、この老人もすぐに参ってしまうだろうと、村人は皆心配していた。


そんな折、遺体が浜に打ち上げられた。

知らせを持ち込んだのは、孫の幼なじみの娘だった。

その娘は、彼の孫が行方不明になったと聞いた日から、毎日浜に出て、砂浜の上を歩き回っていた。

昼間の浜には誰もいなかったので、歩き回る彼女の小さな足跡だけが延々とその砂の上に刻みつけられた。そしてそれが潮の満ち干でかき消される頃には、また彼女によって新たな足跡が刻まれた。生存を信じるほどの希望があったわけでもなかった。彼女の父親も、一昨年海の事故で死んだ。海に生きる漁師が海で死ぬのは当然のことだとは彼女もよく分かっていた。せめて、彼の身につけていたものでも流れ着いてくれれば、それだけを幼なじみの形見にしようと彼女は考えていた。
そうして何日目かのある日、視界の向こうに、彼女は、それまで無かった、何か大きなものが流れ着いているのを発見した。

気丈にも、彼女はそれに恐れず近づいた。そして、うつぶせに倒れていたそれをひっくり返し、彼女の幼なじみであることを確認しさえしたのだった。それは、ある種の気の動転のなせる業だった。彼女はその事実を、半ば無意識に、近所に住んでいた村長と、漁師の頭と、そして彼の父である老人に伝えてまわった。

「おじいさん、ヤンが...。」
娘がそう言うのが早いか、老人は家を飛び出してきた。そして娘について、一緒に浜に下った。
老人はそれまで不眠不休で孫の無事を祈っていたとは思えないほどの早足だった。とはいえ、娘の方もすっかり気が急いていたから、そのようなことにも全く気がつかなかった。

老人と娘が浜に付くと、すでに漁師仲間と村長がヤンの亡きがらを取り囲んでいた。
どこからか話を聞きつけたのか、他の多くの村人も浜に続々と降りてきて、そこにはすっかり人だかりが出来ていた。

村人達は、老人が来たのに気がつくと、すぐに道を譲った。
人混みをかき分けるようにして、老人とその幼なじみの娘はようやく、輪の中心にたどり着いた。

そこには、砂の上に眠ったようなヤンの亡きがらがあった。
顔は鑞のように白くなっており、長い間水の中にあったからか、体がふやけて、生前の彼より幾分膨らんでいるように見えた。
亡きがらを前にして、老人に言葉はなかった。
老いさらばえて、すっかり細くなった指を、愛する孫の髪に絡ませた。そしてそのまま、じっと動かなくなった。

その様子に、周りを取り囲んでいた村の女の一人が、さめざめと泣き始めた。鳴き声は静かに、二人を取り囲んだ輪の全体に伝わり、やがて輪全体が、静かな優しい涙に包まれた。

村人はそうして、しばらくみんなで泣いていたが、やがて漁師の頭が、似合わぬ涙声で
「じいさん、そろそろ、家に上げてやろうぜ」
と言った。

輪の中から男達が数人進み出て、ヤンの体を大きな戸板の上に寝かせた。
そして、板の両端を持って、彼を老人の家に向けて静かに運び始めた。

先頭には頭と村長が付き、その後に漁師仲間に囲まれたヤンの亡きがらが続いた。
女達はその後ろについて、老人は幼なじみの娘と彼女の母に支えられて最後尾を歩いた。

他の女達はまだ泣きやまず、そうして歩いている最中にも悲しげな鳴き声がしくしくと聞こえ続けていたが、老人を支える娘の顔には涙はなかった。彼女は、老人が悲しみの余り倒れてしまったりしないように、終始気を遣っていた。

娘の母は、始終泣いていた。
娘は、そんな母に、
「かあさん、ヤンのお父さんには私が付いているから、先に行って休んでいて。」
と気遣いを見せた。
彼女の母はその言葉に頷いて
「じゃあ、後はお願いね、スー」と言い残して、しずしずと進む隊列を抜けて、早足で老人の家に向かった。

老人は浜に駆けつけるために体力を使い果たしたのか、歩き続けるのさえ、ままならなかった。
時々立ち止まったり、左右にふらふらと力なく振れたりしながら、何とか前に進んでいた。
娘と老人は次第に隊列から遅れ始めた。

先頭の何人かがそれに気がついて、隊列を止めようとしたが、娘は手を高く挙げて、先に行っていてください、と合図した。先頭の男達は大きく頷いて、再び歩き出した。

娘は疲れ切った老人を励まし、少しずつ少しずつ、彼の家に向かった。
いつも通い慣れている丘の上の家が、今日は随分遠くに見えた。

こうやって坂を上って、いつもヤンの家に遊びに行ったっけ。
娘は自分が小さかった頃のことを思い出した。

ヤンったら、いつも、私の前では海のことしか話さないから、私まで、女なのに海の仕事に詳しくなっちゃって。
網を縫ったり、仕掛けを作ったり、銛を研いだり。
ああいう仕事をしている時のヤンは、本当に楽しそうだった。
私も、彼と一緒にいつもそんなことばっかりだった。
変な女だって彼も言ってたけど、私も一緒にやると、すごく、よろこんで...。

娘はふと顔を上げた。丘の上の老人の家が見えてきた。
「おじいさん、もう少しです」
彼女に肩を支えられた老人は、うめきとも返事とも付かない声を漏らした。
そして、膝を小刻みに震わせながら、一歩一歩坂を昇った。

ヤンは、本当はもっとかわいらしい女の子の方が好きだったんじゃないだろうか。
私が、彼の結婚相手に選ばれたのは、親の考えだったし、あの頃の彼の周りにはいつも女の子がいたから、私以外に好きな子がいたとしても、おかしくなかった。
悪いことをしたのかな、彼には。
彼の幸せを、私は奪ってしまった。私がはっきり断れば、それだけのことだったのに。
ヤンはおじいさんを大切にするから、きっと断りにくかったんだろうな。

ヤン。ごめんなさい。



二人が老人の家にようやく戻ると、中ではすでに弔いの準備が進んでいた。
村の女達は、弔いに出席する人数分の煮炊きに忙しく、泣くことも忘れていた。
スーの母親も、腫れたまぶたのまま、竈に薪をくべている。老人を座敷にようやく上げると、スーも母を手伝った。


やがて、山寺から僧侶が呼ばれてきて、弔いの儀式が始まった。
僧侶が念仏を唱え、ヤンの魂を山の頂にあるという仙人の国に送った。
そして、一通りの儀式が済むと、僧侶が先に立って、ヤンの亡きがらを山に埋めに行った。

そこから先は男だけの仕事と言われていたので、漁師仲間の数人が僧侶の後について山に入った。
そして、それほど経たないうちに彼らだけが軽くなった戸板を持って山から下りてきた。
それを見た時、スーはようやく、ヤンがいなくなったと言うことを実感した。

足下から力の抜けていくような感覚が彼女を襲ったが、まだ彼女にはすることが残っていた。
ヤンを弔う静かな宴が始まろうとしていた。

「全く、惜しい人を亡くしてしまった。それもこれも、俺の責任だ」
会の冒頭、漁師の頭はそう言って、老人に頭を下げた。老人はその言葉に、
静かに左右に首を振った。
「あんなに明るく、はつらつとして、腕も立つ若いものをみすみす溺れさせてしまうなんて..。」
老人はますます強く首を横に振った。老人の両の瞳から涙の粒がぼとりぼとりと落ちるのを出席した誰もが見ていた。

「スー、お前にも、本当に悪いことをした。」
頭は末席に腰掛けたスーに顔を向けた。
「婚約の日取りも、決まっていたというのに。」
「そんな...。わたしは...。」スーはそれだけ言うと、目を伏せた。

「二人の幸せを奪った、このことは忘れないようにしよう。あの三角波の場所での漁は、今後硬く禁じよう」
漁師達はみな、無言のうちに頷いた。

宴はそれから、静かに進められた。

そして、小一時間もすると、一人、また一人と客は帰っていき、やがてスーと彼女の母親だけが残った。
彼女らは宴の後を片付けていた。

老人は疲れてすでに座を払って奥で休んでいた。

「スー、あなたは大丈夫?」
母親がスーを気遣った。
「今日は疲れたでしょう。先に帰って休んだら。後片付けは、明日早く来てやってもいいんだから。」
スーは首を振った。
「おかあさんこそ、寝ててもいいよ。私もこれだけ片付けて、今日は下がるから。」
母はそれを聞くと、それならと言って、皿だけ机の上から下げて、家に戻った。
スーはそれをみんな水に浸けてしまった後、
「おじいさん、おやすみ」
と一言小さな声で挨拶して、老人の家を出た。


外は月もない夜空で、空には幾つもの星が瞬いていた。
カモメの星座や、海の神様の星が今日はいつもよりよく見えた。

海の神様の星は、他の町の人間は北極星と呼んでいるのだと、スーは以前ヤンから聞いたことがあった。
夜の海で陸が見えなくて迷った時、あの星を頼りに進んでくれば、きっと村までたどり着けるのだと彼は言っていた。

北極星は丘のふもとのスーの家の方から見れば、いつもヤンのいる丘の上に光っていた。
丘の上に立ってそれを見れば、ヤンの魂の昇っていった山の上に、その星は輝いていた。

スーはその小さな星の光を見て、もう一度、足の力が抜けてしまう感覚に囚われた。
そしてその場に座り込んでしくしくと泣き始めた。

風に揺られたすすきがさらさらと乾いた音を立て、
小さな声で鈴虫が鳴いているのが聞こえた。

スーの泣き声は、その中で、途切れ途切れに夜の闇に響いていた。

頭上には、彼の御魂の登った山が、夜空より更に深い闇として、静かにそびえ立っていた。

2008年9月7日日曜日

無題

翌朝老人はいつもよりやや遅く目が覚めた。
昨夜眠りにつく時間が遅かったためかもしれない。
目が覚めるとすでに太陽はすっかり昇っていた。

女もまだ起きていなかった。
彼女も、なかなか寝付けなかったのだろう。

知らない他人の家に泊まり込むほどの事情があった女なのだ。
おそらく、とても疲れているにちがいないと老人は察した。

彼女が起きるまで、そっと眠らせておくことにした。

顔を洗い、手早く着替えをすませると、外に出て、菜園からピーマンを数本取ってきた。
そして、それらをあらかじめ買っておいた他の葉野菜と合わせてサラダを作った。

老人は余り料理には詳しくなかった。せいぜい作れるものは、こういったサラダのような単純なものばかりだった。それでも、自分で野菜を作るようになって、実はこういうシンプルな料理の方が、素材が十分に新鮮な場合にはよっぽどおいしいと言うことがよく分かった。

料理をすれば、品質にややに劣る野菜であっても、ある程度のおいしさにまではすることが出来る。
でもそれは、結局醤油や砂糖などの調味料の味でごまかしているだけで、野菜の本来の味はだいぶ霞んでしまっている事が多い。野菜を作るようになって、老人はそのことをもったいないと感じるようになった。
生のピーマンの苦み、ニンジンの持つ香草のような爽やかな香り。そう言った生の食材の味を老人はこの年になってようやく意識するようになった。

台所で朝食を支度していると、後ろから誰かが歩いてくる音がした。
「...おはようござます」

老人が振り向くと所在なげに女が立っていた。
他人の家と言うことを意識してか、ある程度身は整えてあったが、疲れた表情は隠せていなかった。

「...あの、何か手伝えることは...」
女が老人に気を遣う素振りを見せたので、老人は笑って首を振り、
「あなたはお客さんなのだから。底に座って、新聞でも読んでいてください」
と言った。
「でもそれでは...、せめて何かさせていただかないと...」
女は何もせずに見ていることなど出来ない様子だった。

落ち着かないまま女をほうって置くわけにも行かないので、老人は
「じゃあ、うちのとらにえさをやってはもらえませんか」
と言った。女は老人が指し示したところにあった大きなえさの袋から、一鉢分のえさを取り出すと、その音に気がついてしっぽを立てて近寄ってきたとらを縁側に連れ出した。そしてそこで彼女にえさを与えながら、おそるおそる頭を撫でた。

老人はその様子をほほえましく思いながら、二人分の食事の用意を調えた。
「さあ、出来ましたよ」

二人はそれから、小さなテーブルに向かい合わせに座って静かに食事を取った。
お互いが、どんな人間かも知らないので、会話は僅かだった。

ただ、老人の作ったサラダと、味噌汁を口にした時女は思わず
「おいしい」
と小さな声を漏らした。

「昔から、お料理は得意だったのですか」
女がそんなことを聞くので、老人は首を振った。
「いえ...。元々は、料理なんてちっとも。ただ、妻が死んでからは、自分で作らなくてはいけませんから、何とか、覚えました」
「奥様は亡くなられたのですか...」
「ええ、もう2年になりました」老人は無意識に仏間の方へ目をやった。
「それは...」女は申し訳ないことを聞いたというように目を伏せた。
「いえいえ、気になさらんで下さい」老人は沈み込んだ女に笑いかけた。
「もう、すっかり立ち直りました。今では料理は大切な趣味になりかけていますよ」

「このサラダのお野菜は、ご自身が作られたものですか?」
「分かりますか?」老人は喜々として答えた。
「ええ...。先ほど猫ちゃんにえさをあげていた時に、お庭の畑が見えたものですから...。結構いろいろなものをお作りになられているようですね。」
「ピーマンになすにカボチャに...、季節に応じていろいろ作っています。今年はすいかも始めたのですが、どうもうまくいかなくて。なかなか、ああいう甘いものは難しい。」
「なんだか、とても楽しそうですね」老人が急に饒舌になったので、女が思わずそう言った。
「ええ...。すっかりはまってまして。他にやることがないからでしょうな」
「いえ、素敵なご趣味だと思います。」女は初めて微笑んだ。「なんだか、うらやましい。」
「余り、こういう事はやられませんか?」
「ええ...。うちはマンション住まいで、庭もありませんから...。」女は伏し目がちに答えた。
「庭など無くっても、プランターでも十分です。」家庭菜園のこととなると、老人の言葉は熱を帯びた。「それほど難しいことでもないですよ。」
女は老人の語気に、些か気圧されたようだったが、はにかむように微笑んで「今度挑戦してみます」とだけ、答えた。

食事が終わると、女は再び縁側に出た。
そこでは同じく食事を済ませたとらが、夏の陽光を避けて日陰で涼んでいた。
女は縁側に座って、眠る猫の頭を優しく撫でながら、そこから見える白い雲の浮かぶ広い空と、青い海を見つめていた。庭には青い野菜がたわわに実っており、食べ頃のトマトも、なすも、夏らしいすがすがしい彩りをその風景に添えていた。蝉が強い声で鳴いている。
海から涼やかな風が吹いてくる。

女は一つ深い呼吸をした。
先ほどよりも随分、くつろいだ様子に見えた。

老人はようやく穏やかさを取り戻しつつある女の後ろ姿を見守りながら、冷たい麦茶をグラスに注いだ。

「麦茶でもどうですか」
老人が冷たいグラスを差し出すと、女は
「何から何まで...本当にすいません」と言いながら素直にそれを受け取った。

二人静かに海を見ながらその香ばしい飲み物を味わった。

「...いつも、この海を見ながら過ごしておられるのですか。」
女は遠くを見つめながら言った。
「ええ。これが見たくて、この家に決めたのです。」
老人も女と同じ海を見つめた。
「私の憧れでした。海を見ながら、老後を過ごすのは」
「わたしも、そうありありたい。」女が言った。「こういう、のどかな暮らしを私もしてみたい。」
「したらよろしい。」老人は言った。女が老人の方を見た。
「遠慮などすることもない。独り身の老人が住んでいるだけなのだし。疲れたら、いつでもいらっしゃい。海は、そもそも私だけのものでは無いのだから」
女は老人のその言葉に、みるみる涙ぐんだ。そして、手に持った麦茶のグラスを握りしめるようにして、かろうじて涙をこらえていた。

老人は、女を、静かな瞳で見つめていた。
やがて、女は顔を上げると、絞り出すような声で、
「...ありがとうございます」と言った。そうして、ぼろぼろと涙をこぼした。

老人が差し出したタオルに、女は顔を埋めるようにして泣いた。

老人は女に連れ添って、彼女が泣きやむまでずっと見守っていた。


その日の夕方、彼女は帰った。
帰り際、女は名前と電話番号の書かれた紙を残していった。

樋口と言うのが女の名だった。


「また、お邪魔してもよろしいでしょうか」
遠慮がちに女がそう聞いた。

老人は微笑みながら無言で頷いた。

真っ青な自動車が、夕焼けに輝く海沿いの道を、しだいに小さく遠ざかっていく。
その様子を、老人は家の前まで出て車がすっかり見えなくなるまで見送った。

2008年9月3日水曜日

無題

始めそれは、老人の思い過ごしかと思われた。
彼はその亡き妻にうり二つな女を目の前にしても、まだ己の目が信じられずにいた。

女を客間に通し、かつては妻が使っていて、今は来客用に取ってある布団を与えると、老人は自室に戻って、タンスの奥から、古いアルバムを取り出してきた。

それは、彼と、妻が結婚した時に記念として撮った写真だった。

セピア色の画面の向こうで、若き日の老人と、彼の妻が、幾分緊張した面持ちでこちらを見つめていた。なれない装束を着せられた妻は写真越しにもぎこちなさが見えて、老人は当時の慌ただしさを思い出し、思わず微笑んだ。

その妻の表情はちょうど、先ほど彼の前で不安げに嘆願した女の表情に、やはりよく似ていた。彼の妻の方が、幾分丸い印象は受けたものの、それ以外は全くそっくりだった。

「こういう事もあるものか」
老人は独りごちた。
「涼子が帰ってきたかのようだ」

古いアルバムを、元の場所に大切に仕舞うと、老人の足は自然と、女の眠っている客間の方へ向かった。

特に、目的があったわけではないが、この奇跡のような光景を前にして、彼は居ても立ってもいられなくなっていたのだった。何となく、その奇跡に寄り添っていたい気持ちが、彼の中に働いたのである。そんなことは実際無理だとしても、彼はたとえ一寸でも彼女のそばにいたかった。

老人が客間のそばまで来ると、閉じられた襖の間から、僅かな明かりが漏れているのが見えた。女はまだ、眠っていないようだった。

「もしもし」
老人は襖の向こうへと声を掛けた。
「はい」
はっきりした返事が聞こえた。考えてみれば、今時分は普段の老人にとっては寝る時間だが、彼女位の年齢の人にとってはまだまだ起きていてもおかしくない時間だった。
老人が静かに襖を開けると、女は案の定、まだ着替えもせず、古い布団の上に座っていた。

「眠れませんか」老人がそう言うと、女は
「ええ...。」とだけ言って、困ったように笑って見せた。

「こんな夜更けに、どういう事情があったのか...。無理を言うわけではないのですが、もしよかったら聞かせていただけませんか。私ごときが、なんの話し相手になるか知れませんけれども。」

女はその老人の申し出が意外だったらしく、目を大きく見開いた。黒い瞳が鮮やかに濡れていた。
「ええ...。」女はしかし、何かを躊躇うかのようにその目を伏せた。
「それは...。」

女の様子に、何かよほど言いがたいものがあるのだと悟った老人は
「いえ、いいのです。...何か理由がおありでしょう。今日はとにかく、ごゆっくりお休みなさい。」とだけ言って、その場を立ち去ろうとした。

「!、 あの....。」立ち去ろうとした老人を、女が呼び止めた。「あの...。」
「どうしました?」老人は振り向いて、女の表情をのぞき込んだ。その目には、今にも零れんばかりに涙が溜まっていた。
女の、その涙の溜まった目は、老人の瞳を避けるようにしばらく何もない畳の上に向けられていたが、やがて、意を決したように老人に向けられた。
「しばらく、ここに置いていただけないでしょうか。」

その申し出が意外だったので、老人は驚いて思わず目を丸くした。
女はそんな老人に構ってもいられない様子で、
「理由は...。必ず話します。お願いです、2,3日でもいいんです。もう少しだけ、もう少しだけ...。」女はそう言うと、無意識にか、頭を布団にすり寄せるほどに下げて老人に懇願した。

「いや...。まず、頭をお上げください。」
老人は彼女の肩を支えるようにして、頭を上げさせた。
女の顔はもう、涙ですっかり濡れていた。まぶたと鼻の頭が、子供の泣いた後のように、すっかり赤くなっていた。
「2,3日と言わず....。あなたの気が済むまでいらっしゃったらよろしい。理由など、特に言う必要もない」
それを聞くと、女の瞳から、また涙が溢れた。そして泣きながら、何度も、ありがとうございます、ありがとうございますと、繰り返した。


部屋を出て襖を閉めると、老人はその足で仏間へ向かった。
そこには彼の妻の遺影が、梁の上に掲げられていた。姪の結婚式に出た時の、久しぶりに着飾った晴れやかな表情だった。彼女から彼に向けられる、静かな眼差しを老人は意識しながら、妻の遺影の前に頭を垂れ、これを信じていいのか?と妻に問いかけた。

女がここにしばらく泊まっていきたいと言い出した時、思わず浮ついてしまった自分の気持ちに老人は少なからず罪悪感を覚えていた。忘れていたはずのそうした感情が、まだ時分の奥底に確かに残っていたことに、老人は少なからず驚いていた。

「私が、世の中を避けてこんな田舎へ越してきたのは、もしかするとこういう気持ちを避けるためだったのかも知れない。」
暗闇の中で老人は一人呟いた。

「お前を失って、ただでさえ、流されそうな心を...。」
老人はそこまで言って口をつぐんだ。無言の内に、彼は亡き妻と会話しているようだった。

彼はしばらくそうして、暗がりの中で黙ってじっとしていたが、やがて、伏せていた顔を上げると、彼にほほえみかける妻の遺影に向かって
「いっそのこと気持ちの奥底まで、枯れ果ててしまえれば楽なのに...。」
ふと、そんなことを言って、一人、笑った。

遺影の妻は変わらぬ表情で、静かに男を見つめていた。

2008年9月1日月曜日

無題

ある晩のことだった。

季節はすでに秋で、7時にもなると辺りは暗くなった。老人にとって、特に遅くまで起きている理由もなく、その日も早くに寝るつもりだった。老人は自分一人の寝床を整え、そうして眠気が訪れるまで、布団の中で静かに横になっていた。

その辺りは、都市に近い海辺がみんなそうであるように、夜遅くになると暴走族がひっきりなしに通り過ぎた。当然警察もそれを警戒して、網を張っているので、毎晩彼の家の前の道路では、激しいカーチェイスが行われていた。老人にとっては、轟音を立ててバイクを乗り回す若者も、それを大声上げて追いかけ回す警察も、どちらも眠りを邪魔する騒音の主には違いなかった。故に、老人が早くに寝床に着くのは、そうした夜の喧噪が始まる前に寝入ってしまうためでもあった。

それは、柱時計の鐘が8つを打った時だった。
どんどんと、玄関の戸を叩く音がした。ちょうど寝入りばなだったので、始めは夢かと思っていたが、いつまで経っても、戸を叩く音は鳴りやまなかった。何事かといぶかしがりながらも、老人はゆっくりと立ち上がり、玄関の方へと歩いていった。

老人の動きが、あまりに遅かったので、扉を叩いていた主は、どうやらすでにあきらめていたようだった。老人が玄関へたどり着く頃には、もう扉を叩く音はすっかり止んでいた。それでも老人は念のため、鍵を外すと、戸をがらりと開けた。
そこには、薄暗い玄関の明かりに照らされて、不安げな女の顔があった。
老人は、その顔を見て一瞬はっとしたように目を開いたが、それは女には気がつかなかった。
「すいません、」女は不安げな表情のまま、老人に言った。肩まで伸びた髪は所々乱れていた。

「お宅の前で車が動かなくなってしまって...。この辺りに、ガソリンスタンドか何か、ありませんでしょうか。」女の声は押し殺したような小さな声だったので、老人には上手く聞き取れなかった。ただ、その女の様子から、随分困っているようには察せられたので、
「こんな夜分遅くに...。まあ、とにかく、中へお上がりなさい」
女にはとんちんかんな回答と思われるだろうと思いながらも、老人は彼女をとりあえず中へ招き入れた。女は、老人の目の前に現れた時からすでに、理由は分からなかったが、しきりに辺りを気にしていた。老人にはそれがずっと引っかかっていた。
「でも、車が...。」
女は、後ろを振り向いた。明かりの消えた車が、国道の真ん中で、老人の家の出口を塞ぐように止まっていた。
「車...。」老人はそれを見て、ようやく状況を察したらしく、
「あそこに置いておくと、夜中に騒がしい連中が来て、悪戯されることがあるから、私の家の庭に、とりあえず入れなさい。」そう言って、足下にあった草履を突っかけて、彼女に先立って歩き出した。女はどうして良いのかすっかり困っているらしく、その後ろから何も言わずにおずおずとした様子で付いてきた。老人が運転席のドアを開け、サイドブレーキを外して、ハンドルを取ると、女はようやく後ろからそれを押し始めた。車は、幸い軽自動車だったので、二人の非力な人間の力でも、それほど労無く動かすことが出来た。

車をすっかり庭の中に入れてしまっても、女の顔から不安げな表情は消えなかった。
「お電話、お借りしても良いですか。」
女は、老人の瞳をのぞき込むように言った。
「携帯をおいてきてしまったもので..。」
「ああ、どうぞ、どうぞ。」老人はそう言って、女を内に上げ、電話の前まで案内して、自分は居間に入っていた。

「...。」
電話を前にして、女は受話器は取ったものの、一向に何処かへ掛ける様子はなかった、じっと、受話器の無くなった電話機を見つめるようにしながら、女は何かを思い詰めているように見えた。

ややしばらくして、女は結局、どこへも電話した様子のないまま、受話器を置いた。
そして、老人の前に座り込むと、
「すいません、今日一晩だけ...、今日一晩だけ、泊めていただけないでしょうか」と言って頭を下げた。

「...ええ、それは構いませんが...」老人は女の何か必死な様子に、頷かないわけには行かなかった。
「ありがとうございます」
女がそう言って、一度顔を上げて老人を真正面から見た。その表情を見て、老人は再び、何かが胸の中に激しく渦を巻くのを感じた。この女を放って置いてはいけない。彼の奥底にそのような理由のない、熱い意志のようなものがわき上がるのに、彼自身驚いていた。

女は、年は30も後半だろうか。確かに美しい女ではあったが、どこにでもいる程度の美しさであることは、老人は十分認識していた。彼の年を経た精神は、もはやそのようなものに、闇雲に感情を乱されるほど素直ではなかった。むしろ、頭の一方で冷静にその場を見つめる余裕すら、彼にはあった。だからこそ、自分の心理の一方に、そうした理由のない感情がわき上がってきても、彼はそれはそれで受け入れながら、そんな様子はおくびにも出さずに、目の前の女を観察することが出来た。

それでも、老人は少なからず動揺はしていた。

その女は、若き日の、彼の妻の姿に、あまりにも似ていたからである。

2008年8月30日土曜日

無題

東京から神奈川に入り、海の見える海岸線沿いの道をずっと南下していった先に、小さな一軒家があった。

「早々庵」

その家の入り口には、古い木材に、筆字でそう書かれた表札がかかっていた。
その家に住む老人は、齢67に過ぎなかったが、頭はほとんどはげ上がり、見た目にはもっと年取って見えた。
先年妻が亡くなったため、彼は一人だった。それでも、家の庭に小さな畑を構え、そこでピーマンや白菜など日常使う野菜を育てては、自らの食事に供するという生活をしていた。幸い病気もなく、街に通うのも、数時間に一本走るバスに乗って、週1,2度出れば十分という生活をしていた。

早々庵、と言う名前は、彼の妻がまだ元気だった頃、せっかちな彼をよくからかっていたことに由来している。しかし、若い頃はせっかちだった老人も、今ではすっかり大人しくなった。

「お前ののんきさが、移ったのかな」
老人は姿のない妻に、時々、そう語りかける。

妻が亡くなり、家族は彼と、一匹の猫だけになった。
子供は結局授からなかった。妻は、それを気に病んで、死ぬ間際まで、度々それを口にした。
夫はそれを聞く度、
「そればかりは、運命みたいなものだ」
と言って妻を慰めてはいたが、何かしら後味の悪いものが残った。
彼も子供が欲しかったのは山々だったからだ。
結婚する前、子供は何人欲しい、などと喜色ばって二人で話していた頃を思い出す度に、夫は溜息をついた。

しかし、その妻もなくなった今では、その夫は、これはこれで、良い人生だったと思っていた。二人の間に、子供という存在がなかった分、彼らは何時までも、夫婦でいられた。他の同僚達が、何時しか夫婦から、父母へと移り変わっていったのとは対照的に、彼らは彼らを大切にして時間を過ごすことが出来た。それだけ、彼らの間には濃密な時間が流れていたし、おそらくは、子供のいた夫婦よりも、その絆は強かったのではないかと、老人は思っていた。

一匹の猫は、その時間を、特に後半の数年間を見てきた猫だった。
子供がいなかったので、夫妻は猫を数匹飼っていた。始めは、近所の数匹の野良猫に、妻がえさを与え始めたのがきっかけで、それから人なつこい赤い虎模様の一匹が、すっかり飼い猫のようになついてしまったのだった。飼ってみると、その猫は雌だったようで、ある日、縁側の下に捨てられた段ボールのなかで、かわいらしい子猫を数匹産んだ。その子猫のうちのほとんどは猫同士の力関係に破れたのか、家を去ってしまったが、一匹の斑の猫だけが家に残った。長い夫婦生活のなかで、猫は何度も子供を産み、そして世代が代わっていった。
今いる猫は、始めに飼った猫の、7代目か8代目くらいに当たっていた。心なしか、その頃の猫の面影が、ここにいたって再び蘇ったような気がするほど、その猫の毛並みはかつての猫に似ていた。名前は、初代の猫にあやかって妻が「とら」と名付けた。8歳の雌の猫だった。

老人は晴れた日には、縁側から道路越しに静かな海を見ながら、とらの頭を撫でているのが好きだった。とらも、もう長いことそうされてきたためか、老人の細い足の上で、大人しく丸くなっていた。

神奈川沖を通る船は昔老人が見た時よりも大きく代わっていた。
かつては小型の釣り船や、漁船が行き来していた頃もあったが、今では大きなレーダーを積んだモーターボートのような船が縦横無尽に駆け回ることが多くなった。遙か沖の方では、大型フェリーかあるいはタンカーや貨物船の様な巨大な船が、海に浮かぶ要塞のようにじっとして、そしてじりじりと前進しているのが見えた。
有機的に打ち寄せる波間に、そうした無機的な構造物が、浮かび上がっている様を見るのはなんだか不思議な光景だった。

それでも、老人は総じて海が好きだったし、それはかつての妻も同じだった。この家はそもそも、彼と彼女が老後に住まうために購入した家だったからだ。その妻は、この家にまもなく越すという段になって死んだ。

老人は計画を一年延期し、ここに住まうことを半ばあきらめた時期もあったが、結局ここに引っ越して来た。

妻の亡くなった家に何時までもいるのはつらかったし、彼女も夢見ていた生活であったから、老人は彼女の魂と暮らすつもりで、この家を彼の最後の住居にすると決めた。

越してきてすぐに、声を掛けてきたのは隣の家の夫人だった。
長川、と言うその家は代々その土地で漁師をしており、彼の夫もまた漁師だった。ゴム長に防水のカッパ姿で現れた長川の夫人は、老人が一人暮らしであることを知ると、幾分不安そうにしていたが、「何かあったらいつでも声を掛けてください」と気さくに受け入れてくれた。

田舎住まいの経験に乏しかった老人としては、そのような隣人の好意というものにほとんど触れずに過ごしてきたので、たったこれだけの心配りにも、大いに感激したものだった。

長川の夫妻は、実際本当に老人を気に掛けていた様子で、時々彼を食事に招いてくれた。
彼らには中学生になる男の子と、今年小学校を出る女の子がおり、家は常に騒々しかった。中学の男の子の方は、思春期と言うこともあって、見知らぬ老人にうち解けるのに随分時間がかかったが、この夫妻の子供だけあって元来素直らしく、半年もすると老人にぼそりぼそりとではあるが口をきくようになった。
女の子の方は早いもので、あっという間に老人と親しくなり、退屈な時は彼女の側から老人の家に遊びに来るほどだった。

長川の家で出される料理はどれも取れたての魚介で、一人暮らしでそういうものをなかなか食べる機会のない老人には大変ありがたかった。お礼に彼の方でも、季節事に、家で取れた野菜を持って邪魔することにしていた。

素人の作った、形の悪いものも多かったが、長川の夫人は喜んで、それをその日の夕食に早速使ってくれた。老人にとってそれは自分の努力の報われる、何とも言えず楽しいひとときだった。

2008年8月28日木曜日

サテライト

これは裏切りに当たるのだろうか。

なめらかな女の肌の上で、男は自問自答していた。
時は深夜。週末の捨て鉢のような喧噪が静まり、人々がふと、何か埋めがたい物寂しさを覚える頃。

男もまた、一人、あふれ出してくる孤独に耐えかね、同じような気色に囚われた様子の女と供に、他人の歴史に汚れた寝床の上で、夜を明かそうとしていた。

そのホテルに入ったのは、男にとって初めてのことだったが、彼が特にそのような素振りも見せなかったため、女は終始、男がよく、ここを利用するものだと思っていたようだった。

慣れた手つきで入り口の手続きを済ます男に、女はやや皮肉の混じった一瞥を向けた。
「何?」
男がその眼差しに気付き、問いただしても、女は特に返事せず、微かな笑みを浮かべたまま、不信げな瞳を向ける男を見つめ返していた。

男はその表情に、何か空寒いものを感じたが、特にそれ以上問うこともせず、先に立って、割り当てられた部屋に入った。

女も、何も言わず後に続いて入った。


男は、この女をよく知らなかった。
顔見知り。あえて言えばその程度の仲だった。彼がこの街に越してきてもう1年近く経つが、男は自分でも笑ってしまうほど、他の女との関係を持たなかった。

男の中には一人の女の面影が常にあった。
その女とは、結局、結ばれはしなかった。もう別れて、何年も経っていた。だが、どれほど時間が経っても、遠い土地に引っ越してきていても、その影はいっこうに消える気配がなかった。

男はもう、自分は十分に恋をしたと感じていた。

その、男をとらえて放さなかったかつての女のために、彼は身を焦がれるような思いを何度も経験した。思えば、青かったと男は今は考えていた。単に、女というものを、知らなかっただけなのだと。

しかし、なぜか男はその後、それ以上誰かに恋をする気には、なれなかった。
何度か試みたことはあったが、あの頃のように、自らを捧げるような気持ちには、いつまで経っても、なれなかった。

プロセスが似通っている。
男はそれが原因だと思っていた。

どの恋愛も、かつての恋愛を思い出すのに足りるほど、似ている。
それが男に、かつての女と、目の前の女を、容易に比較させ、色あせたものにしてしまう何よりの理由だと、彼は感じていた。

「どうしたの?」
体の下で、女が不思議そうに男を見上げていた。

「...何でもないよ」
男は静かに、女の体を撫でた。

「...変なの」
女はそういって、息を漏らした。
二人の間に、それ以上の会話はなかった。


なぜ、今頃になって、たいして好意を抱いていたわけでもないこの女を、ここへ連れ込むことになったのか、男は自分で、説明がつかなかった。

自分に関心を抱いてくれた女は他にもいたはずで、彼はそれを、これまで、ことごとく無視してきたはずだったのに、今夜はなぜか、この女をこうして受け入れてしまった。それが彼には解せなかった。

男はまじまじと、女の体を見た。
それは、かつての女とは、似ても似つかなかった。
貧相で、生臭いものに男には感じられた。

男は、かつての女の裸身を実際に見たわけではなかった。
それは彼なりの、空想に過ぎなかった。そしてその空想は、長い時間のうちに美化されてしまい、最終的には彼女の顔のような、それまで幾度となく見てきたはずのものでさえも、実物の彼女よりも、ずっと美しくなってしまっていた。

そうなるともはや、誰を本当に愛しているのか分からなかった。

しかし、男はそれを自分自身で知りながら、ずっと黙認していた。
どうせ叶わない恋ならば、それは現実でも、空想でも、同じ事だった。
むしろ空想の方が、彼の望みに従っている分だけ、ストレスが少なかった。

実際に恋愛している時に、どれだけ現実の女を、俺は見てきたのだろう。
そう思うとおかしかった。
実際には、自分の空想を、多分に現実の彼女に重ねていなかったか。

結局、俺は空想に始まって、空想の内に終わったのだ。男は思った。
彼女を題材にして、一人で夢を見ていたに過ぎなかったんだ。

目の前にいる、生身の女からは、男はあまり魅力を感じなかった。
普段のすました表情からは想像しえない、しかめしい表情や鬼女のような声に、男の心はむしろ滑稽さを見た。

ただ、生理的に男は女を求めていた。
二人の間に展開されているのは、ただそれだけの行為だった。

俺は二人の人間を裏切った。
行為が終盤に至った頃、男は思った。

この後に続く恍惚と快楽は、その代償になりうるのだろうか。
そもそもこの行為は、何かの約束か?

そんなことを考えている内に、あえなく女が音を上げた。


あいつも、今頃誰かの下で...。

そんなことを考えながら、男は、その行為を締めくくった。

2008年7月21日月曜日

metamorphosis

さなぎは窮屈だよね。
それまでは自由に、好きな葉っぱに昇っておいしい緑の葉っぱを食べていた芋虫が、さなぎになってしまうともう1センチも動けずに、狭い土壁に囲まれた個室の中で、身動き取れないで眠ったようになっている。私、あれに似たもの見たことあるんだ。昔近くの美術館でエジプト展をやっていた時に、エジプトの偉い王様のミイラが、固い木か何かで出来た入れ物にすっぽり収まってたの。そのミイラの入れ物にも、きれいな絵が描いてあって、王様の似顔絵がしっかり描いてあるんだ。まるで、これはこの王様の入れ物ですって言ってる見たいに。さなぎもよく見ると、そんな感じじゃない?よく見ると成虫に似た形はしているけれど、ちっとも動けない。固い殻をかぶった入れ物。あの中では、内蔵がどろどろに溶けてるんだってさ。古い自分を壊して、全く新しい自分になるんだ。自分が壊れるってどんな気分かな。新しくできた自分は、本当に「自分」なのかな。虫に聞かないとわかんないんだろうけど、無駄と分かってて時々考えちゃうよね。自分が造り変わるって、どんな気分だろう。気持ち悪いんだろうな、相当。初めて生理が来た時みたいに、なんだか自分が自分でなくなっていくのはやっぱり怖いよね。自分の意志とは無関係に、大人に引きずり込まれていくあの怖さ。きっと昆虫も、あれをずっと味わっているんだよ。暗い、湿った土の中にいて。
 自分が作り替えられると、自分の考えも変わるのかな。でも、それを感じる自分も変わっているんだから、けっきょく変わったことには気がつかないのかもね。私も気がつかないうちに、たぶん去年の私とは変わってる。弟から見たら、私は変わってしまったんだろうな。大嫌いなお父さんやお母さんみたいに、私は弟からは見えているんだろうな。弟の目はいつも子供みたいだから。男の子ってどうしてああなんだろう。どうして何時までも子供みたいな目をしていられるんだろう。同級生の男子を見てもそう。何であんなにはしゃげるの?まるで小学生。ただ体が大きくなっただけの。でも、あの人達もいずれ、お父さんみたいになるんだ。それは何時なんだろう。早く来なければいいな。弟がお父さんみたいなことを言い出したら、悲しいだろうな。私は理解者を一人失った気持ちになるんだろうな。家の中に、ますます居づらくなってしまいそう。
 だってお父さんったら、いつも勉強しろってうるさいんだもん。私は勉強してるんだよ?私が勉強しているところを見もしないくせに、勉強しろ、勉強しろって。じゃあ私は、どこまでがんばればいいの?お父さんが勉強したなって認めてくれるのは、いつ?
 私も、始めはがんばったんだ。だから、お母さんやお父さんが行けっていった難しい中学にも、入ったし。結構大変だったんだよ。難しい中学に入れば、もう口うるさく言われることもないと思ったんだ。でも、けっきょく何も変わらなかった。むしろ、優秀な子達と比べられて、ますます窮屈になっただけだった。こんな調子じゃ、大学に入っても同じ事言われるんだろうな。会社に入っても、もっと上を目指せ、同級生の何々さんはもうお前より給料もらっているんだぞって。どこまで行ったら許してくれる?私が、ほっと出来る時は、何時?
 結婚してしまえばいいのかな。女の子だから、と言うことで。そうすれば、そういう上ばっかり見せられる生活からは抜け出られる。でも、お父さんはそれでも言うんだ、今はそんな時代じゃないぞって。女だから、男だからと言う考えはもう古い。結婚して、出産しても、また会社に帰ってくる人はたくさんいる。お前もだから見習えって。お母さんの時代がうらやましいな。ああやってママできる時代が。子供を抱えて、会社で働いて、そして上ばかり見せられて。女は不利じゃない?どうして女なんかに生まれてきたんだろう。
 私、正直もう、疲れてきたんだ。実際、テストの成績も最近伸びてないし。こないだなんかは、一つ落としちゃった。お父さん達には言ってない。言うとどうなるか、想像できるでしょ。考えただけでもうんざりだよ。だから私は風邪を引いたことにして、その日の追試は受けないでお家に帰ったんだ。先生は私の姿が見えないから、わざわざ家まで電話してきた。ちょうど弟が取ったから、風邪を引いててでられないって言ってもらったんだ。かわいい弟だよね。私の言うことを、真っ直ぐきれいな目で信じてくれた。あんな風に信じてくれる人に私は何人逢えただろう。
 お父さんは早く帰ってきて、私が風邪だと弟から聞いて、寝かしつけようとしたけど、私はもう大分よくなったって言ったんだ。実際熱もなかったし、あんまり重病人っぽくするのもかえって変でしょ。嘘を吐くのが上手くなったのかな、私。お父さんはすんなり信じてくれた。考えてみれば、私はずっと嘘ばかり吐いていたからね。もう心の中は、子供の頃の私とは全然似ても似つかない私になっているのに、お父さんとお母さんの前では、子供の頃の私を演じてる。そのほうが、二人を失望させずに済むから。私小さい頃はいい子だったんだ。お父さんとお母さんの自慢の娘。でも、あるとき、私はそんないい子な自分を無くしてしまったことに気づいた。今まではしっくりいっていた感じがなくなったんだ。自分の思いどうりにやろうとすると、それまでの私とは違った方向に行ってしまいそうになる。今までは思いどうりに行動しても、褒められることしかなかったのに。何かしていて思うんだ、あ、これ絶対に怒られるって。でも、それをやっちゃう。で、怒られる。お前がこんな子だとは思わなかった。小さい時はこんな事無かったのにって言われるんだ。
 小さい頃の自分と比べられるって不幸だよ。そんな自分は、もうこの世に存在していないんだから。親はそんな幻のあたしに、私を何時までも縛り付けておこうとする。生まれたての無垢なわたしに。そんなの無理だよ。でも、私はできるだけ、それを演じてきたんだ。小さいころ好きだった食べ物は、今嫌いになりかけていても喜んでおかわりした。そうしないと、お母さんが悲しむと思ったから。お父さんは心底嫌いになっていたけど、好きだって言い続けた。小さい頃はお父さん子だったんだってさ。お父さんと結婚したいとか言ってたんだってよ。今じゃ、全く理解できないんだけど。
 とにかく、週末だったし、お父さんが買い出しに出てカレーを作ると言い出したから、私もついて行ったんだ。だって、お父さん大好きな私だからね。行くか?って言われたら、うん、行きたいって、喜んで言わなくちゃいけないでしょ?正直に嫌いなら嫌いと、言えたらよかったんだ。でも、そうしたら、家の中がぎくしゃくするのは目に見えていたし、弟や、お母さんが必要以上に悲しむだろうと思ったから、それはしたくなかった。お母さんたら、お父さんのことが、なんだかんだ言って大好きなんだもの。弟もそう。あの二人...、特に弟を悲しませることは、私には出来ないんだ。
 お父さんと二人でカレーを作って、そしてお母さんを待って、一緒にご飯を食べた。お父さんが借りてきたDVDを見て、一緒に笑った。正直私とは少し趣味が違った。でも、私は喜んで見た。弟は随分のめり込んでいたみたいで、目をまん丸にして見ていた。私はあの子がうらやましかった。本気で、お父さんと趣味が一致しているんだから。何の気を遣う必要もないんだから。昔は私もそうだったんだよ。でも、今の私は、もう、あの頃の私では、ないんだ。演技の中にしか、両親の知る私は、いない。二人ともそれは気がつかないみたいだけれど。
 ただ、弟は気がついていたんじゃないかな。私はあの子にだけは嘘を吐かなかったから。正直、最近弟と話す機会が減り始めたと感じていたんだ。前みたいに、どこ行くのも一緒、では無くなってきた。弟も、少しずつ変わり始めていたんだね。でもあの子は素直だから、私みたいにそれを隠したりしなかった。それがますます、私にはうらやましかった。ああやって、自分をさらけ出せれば、私みたいになることもないんだろうね。
 その晩私は夢を見たんだ....。お父さんが、家族みんなを殺してしまう夢を。理由は分からない。追試のことが、いよいよ、ばれたのかも知れない。弟は泣いていた。お母さんも泣いていた。お父さんだけが、真顔だった。怒っているようにも見えた。手に包丁を持って、家族みんなを刺して歩いていたんだ。始めに弟を刺した。それから、お母さんを刺して、私の方に向かってきたんだ。顔色は青かった。お父さんの怖い顔で目の前がいっぱいになって目が覚めた。私は怖かったんだ。体が汗でぐっしょりだった。手がわなわな震えていた。膝もかくかくしていて、立ち上がるのにも苦労した位だった。でも、私は、夢から覚めても恐怖は残っていたんだ。逃げられない。なぜだかそんな気がしていた。
 逃げたいのに、逃げられないんだ。私はまだ震えていた。怖くて、怖くて仕方がなかった。だから、台所に行ったんだ、そして、何かお父さんを殺せるものを....。

そう、そのとき、殺そうと思ったんだ。

そうしないと“私”が、殺されてしまうと思ったから。



 

2008年7月17日木曜日

シンボリック

君が美術館に行きたいというので、僕は対して興味もないのに、君が行きたいというその近代美術館とやらへ、ひょこひょことついて行った。

君はどこで学んだのか、絵画や、芸術に並々ならぬ興味を見せて、時折熱っぽく語ることがあるが、僕は君が実際に油絵だとか、水彩画だとか、スケッチですら、実際に絵筆を取って描いている姿を、これまでとんと見たことがない。

音楽鑑賞を趣味と公言するひとのほとんどが、実際には楽器を扱えなかったりするように、君もまた、受け手側の観衆の一人に過ぎないのかも知れない。長い髪を伸ばして、なんだか文系の女の子のようにその日の君は落ち着き払っていたけれど、数日前までは真夏の渚で、波しぶきを上げながらはしゃいでいたのだ。あの日の君の名残は、本当は肩口の水着のひもの当たっていた辺りにくっきりと残っていたのだけれど、その日の君は文系の女の子で、きっちりとダークグレーの衣服を身に纏って、ちょっと膝上位のスカートまではいていた。僕とのはしたない、ひとときの夏の思い出は、硬い衣装の下にしっかりと隠されてしまっていた。
 波打ち際ではじけた君の姿など、そこに居合わせた、上品な紳士淑女の皆様方には、きっと知るよしもなかっただろう。彼らはきっと、ちょっと地黒の女の子程度にしか、その日の君を見てはいなかった。UVカットローションのSPFを間違えて低いものを買ってしまった君の勘違いなんて、彼らは想像だにしなかった。

君が見たいと言いだしたそれは、戦前にパリに行ったある日本人画家の展覧会だったっけ。その人は白の使い方の上手なひとで、女性の肌を透き通るようなパールホワイトで表現したことで有名なそうなのだ。けれど、それは僕があくまで、その日、実際に展覧会に行った時に仕入れた情報で、なんの予備知識もなく言ったわけだから、居並ぶ名画も、ただ女の人の裸だけがたくさん並んでいる程度にしか、僕には印象を残さなかった。

必然的に僕が見ていたのは、古い額縁の中の絵を真っ正面から真面目に見ている君の横顔と、立ち姿だった。でも、それは君も、その日はしっかりと意識していたのだろう?そうでもなかったら、あんなにまじまじと、絵なんて見るもんだろうか。目をいつもより大きく開けて、ほのかな微笑をたたえ、胸を張ってまっすぐに立った君は、テレビカメラの前に立つ女優のようで、自然体を『繕って』いるようにしか僕には見えなかった。

絵の中のパールホワイトの裸婦像が、ベッドの上で、何をしているのか、ぐったりと力なげに横たわっている絵を見ながら、君は美術館の落とされた照明の中、鼻と瞳の陰影をくっきりと際だたせていた。

まあ、その日の君は文系の少女だったのだ。そのくらいのことはするだろう。読みもしないドストエフスキーの本を抱えて、街を歩いてみる眼鏡の男のように、今日の君は文系の少女なのだ。裸婦像の前で、目をしばたかせることもなく。その価値を知るもののように、静かに見入っていた。

「いい絵だね。」君は言った。その裸婦像の前で。
芸術家の書いた裸婦像だから、その輪郭はおぼろげで、表情は簡素化されていて、なぜかみんな太り気味に見えた。パンフレットには『官能的』と表されていたけれど、どの辺に官能を見出せばいいのか、僕には全く分からなかった。

「そうだね。」僕は言った。
今日の僕は文系の君の彼なのだ。コーラよりも、ストレートの紅茶が似合う顔をしていなければいけない。スポーツドリンクなんて、汗臭い話は無しだ。
「なんだか表情が物憂げで。」
「そうだね。」
君はあっさりと同意した。そしてまじまじと、その絵を見返した。
僕の口から出任せを、こうも簡単に受け入れてくれたのは、この芸術を解しない僕へのせめてもの慰めか。それとも、君も、実際なんだか分かっていないから、知ったかぶってみただけだったのかも知れない。いずれにしろ、僕らのしていることは茶番だ。おかしな茶番を1200円の入場料を払ってしている、おかしな男女の二人連れ。

こんな二人の時間の過ごし方は、
楽しいに決まってる。

「ほら、見て。」君はその絵の脇の小さな説明の書かれたパネルを指さした。
「...この女性は、この画家の後に妻になった。だって。」そうして、何を思ったのか脣の辺りにそっと手を添えてかすかに笑った。
「言われてみるとどことなく、画家の愛情を感じるかな。」僕はまた、心にもないことを言った。「表現が軟らかくて。」
「そうだね。」彼女はまた、僕の言葉を受け入れた。穏やかな白熱灯の明かりの中で、君の影が揺れた。「...優しさって、絵に現れるものなんだね。」
君はそう言うと、静かに僕の手を取って、先に歩き始めた。僕はようやく先に進めるのでほっとしていた。行けども行けども続く、白い裸婦像よりも、幾つもの影を従えて暗がりを歩く君の後ろ姿の方が、僕には印象的だった。握った手の肉の感じや、皮膚の感覚までは、彼女の言うように、優しさまでを描いてしまうような、優れた画家でも、描くことは出来ないだろう。
握られた手の中にしか、その感覚はない。表現して、他人と分かち合うまでもなく。そしてそれは今、僕の手の内にある。文系の君も、渚の君も、僕の手の中では同じようにしか感じられない。
そんなのは極めて些細な違いだ。夜の眠るまでの、極めて、些細な。

美術館を出て、外に出ると、太陽はすでに傾き、辺りはトワイライトのうす紫色に染まっていた。君はまた、新たな色彩演出を得て、涼しい夕暮れの風の吹く中で静かに笑った。

2008年7月12日土曜日

失われた指

久しぶりにあった彼女は、何もかもが変わってしまっていた。

以前には見られた、はじけるような快活さは身を潜め、沈鬱で、どこか世を捨てたような諦めに似た空気を背負った彼女がそこにいた。

「幻滅したでしょう。」
男に出会った時、開口一番、彼女はそう言った。
「だから、会いたくなかったのよ。」
そう言うと女は皮肉に笑った。彼の知っている彼女なら、決して見せなかった笑顔だった。彼は驚きの内に、しばらく言葉を失っていたが、ようやく絞り出すように、
「そんなことはないよ...、」と的外れなことを言うのがやっとだった。
女はそれを聞いても何も言わなかった。彼と目も会わそうとせず、斜め前方の何もない薄緑色の床のタイルを、ただじっと眺めているだけだった。

彼女が、不慮の交通事故に巻き込まれたと言う話を、彼は数ヶ月前に知った。しかし、彼はその時海外にいて仕事の都合上すぐに帰国するのは難しい状況だった。彼女とは3年前、国を出る前に一度関係を清算していたつもりだったし、彼の知らないところで、幸せな生活を営んでいるのだろうと、勝手に考えていた。事故の一報の後、彼女が依然として結婚もせず、これと言った恋愛もせずにいたことを知って、彼はまずおどろいた。

ようやく彼女の見舞いに訪れる事が出来たのは、事故が起こってから1ヶ月以上が過ぎた後だった。
「アンバランスなものね。」車いすの彼女は言った。
「これじゃ、畑のカカシにも劣るわ。」彼女の顔からは化粧気がすっかり無くなっていた。
彼女は、利き腕と、右足を失っていた。交差点に無理矢理突っ込んできた車と側面から衝突し、彼女の車は運転席を中心に大破していた。事故の写真を見せてもらった時、彼は彼女が一命を取り留めたことすら、奇跡と思えたほどだった。それでも、彼女は事故後2週間は生死の境をさまよったと聞いていた。久しぶりに見た彼女の顔には、何か死相にも似た暗い影がまだ、はっきりと見て取れた。
髪はぼさぼさと乱れ、たった3年の間に10も余計に年を取ったようだった。
「もう、用は済んだでしょう。」彼女は言った。「帰って。あなたを見ていると、私の気持ちがざわつくの。」
「そんな...。」彼は何事か言おうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。「せっかく助かった命じゃないか...、どうしてそんな諦めた目をして....。」
「助かった命?」
はっ、と彼女はせせら笑った。
「これが?死んだも同然じゃない。」彼女は膝から下の無くなった自分の右足をこれ見よがしに持ち上げた。「....私は死んだのよ。あなたの知ってる女は死んだの。」
「君は生きている。」男は諭すように言った。「まだそうして、息をして、声を上げて...、」
「あなたの知ってる女はこの程度の女だったの?」彼女は目を見開いて彼をにらみつけた。
「こんな欠損だらけの女だった?そもそも?あなたはかつての私をそんな風に見ていたの?」
「そう言う意味じゃ...。」男は予想外の反応を見せた女にたじろいでいた。「今の君でも十分に素敵じゃないか...。」
「十分に?」女の語気は荒くなった。
「なにそれ?必要は満たしているって事?」女は車いすから立ち上がると、松葉杖をつきながら、男の胸ぐらに迫った。
「私はあなたの道具じゃないわ。『十分に』なんて評価を受けるような代物じゃない。」
「そう言う意味じゃ...。」女がことごとく男の予想を裏切り続けるので、男はすっかりおじけづいていた。
「じゃあどういう意味?あなたにとって十分でも、私にとってはちっとも十分じゃない。欠けているところ、だらけなのよ、この体は。」彼女は残された右腕の付け根を振り回した。怒りの余り、無くなってしまった右腕で思わず彼の頬を打った様だった。女は自らの咄嗟の行為に気がつくと、自身を嘲笑うように笑った。
「ほら見なさい。」女は言った。「私は、何も出来ない女よ。欠損だらけの不良品。もう死んだのよ。」
女の残された片膝が力を失ってがくりと折れた。たちまち落下しようとした胴体を、男が腕を伸ばして支えた。ずしりとした体の重みが、男の腕にかかった。手放された松葉杖が、がらん、と音を立てて、床に転がった。
「...殺して。」女は言った。
「こんな体じゃ、自分一人で死ぬことも満足に出来ない...。いっそのこと、殺してよ。」
女は左手で、男の胸ぐらを掴んだ。女の目は真剣だった。涙の浮かんだ大きな瞳が、彼の頼りのない目をのぞき込んでいた。
「そんなこと...。」
「...出来ないって言うの?」女は掴んだ襟元を力一杯揺すった。
「出来るでしょう?あたしを愛していたなら?あの女は死んだのよ?ここにいる私は、その面影を崩す、ただの滅びかけの残骸に過ぎないわ!」
女は男の腕の中で激しく暴れた。男は女をなだめようと、それを必死に抱きすくめるのに精一杯だった。しばらくそうした状況が続いた後、やがて暴れ疲れたのか、女が大人しくなった。男はその体を、そっと車いすに戻した。女は始終、そっぽを向いたままだった。暇があれば、男の瞳をのぞき込んで微笑んでいた、かつての女の面影を男はふと思い出して、底抜けに悲しい気持ちになった。
「...いつでも良いわ。」女は言った。
「いつでも良いから、ここに来て。私を殺しに。」
「...分かった。」男は言った。「そう遠くないうちに、また来るよ。」

帰りがけ、病室の出口で、男に手招きするものが居た。女の母親だった。
母親もまた、この3年の歳月の内にすっかり老け込んでしまっていた。髪型はきちんと整えられていたが、数本の毛がほつれて、あらぬ方向へ突き出していた。娘と並ぶと、仲のよい姉妹のようにすら見えた以前の若々しい面影は、彼女からもすでに失われていた。
「ありがとう。」彼女は言った。「これを...。」
彼女はそう言うと、小さな銀色の指輪を差し出した。
「これは...。」
「あなたが、昔、娘に贈ったものです。」母親は言った。「返すようにと、娘が。」
母親の掌の上に、小さな飾り気のない、銀の指輪は静かに光っていた。彼はそれをはめていた、彼女の、今は失われた愛おしい右手の姿を、その母親の手の中にありありと見た。
「もう、はめる指もないから、と言うことでした...。これは吹き飛ばされた娘の腕から拾い上げたもので...、恐縮なのですが...。」そう言うと母親は、指輪を捧げた腕だけは彼に指し出したまま、俯いて泣き始めた。彼は嗚咽する母親に、そっと手をさしのべた。そして、彼女の差し出していた指輪を、再び彼女の元に返した。
「いただけません。」彼は言った。「一度あげたものですから。」
「でも...。」母親は言った。「受け取ってください..。娘も過去を清算したいのだと思います。新たな人間として、生きようとしているのではないでしょうか。」
彼はその言葉を聞くと、一瞬言葉に詰まったようだった。
しかし、母親の差し出す指輪をしばらく見つめた後、
「彼女に伝えて下さい。...君の指は、すべて失われた訳じゃない、と。」
と言い残すと、現在の自分の連絡先の書かれた小さなメモを残して、足早に病院を出て行った。

女は病室の明るい窓から、男が病院を背に去っていく様子を、冷たい目で見送っていた。
その目はどこか怒っているようでもあり、悲しんでいるかのようでもあり、いずれの感情も深く内に湛えた、押さえられた瞳だった。

私の失った物はなんだったのだろう。

女は男の背中がもう見えなくなってからも、じっと窓の外を見つめたまま、考え込んでいた。

ベランダの縁に止まって鳴いていた二羽の鳩が、何かに怯えたようにあわてて窓辺から飛び立った。

2008年7月9日水曜日

二人の酔いどれ

「体を意識しない恋愛は恋愛ではないのさ。」
Tは言った。長く片思いと失恋を繰り返していた私に。
「そうなのか?」私は彼の言説には懐疑的だった。「君は純愛というものを否定するのか?」
「そもそも、どこにそんなものが存在する?」彼は声を張り上げた。早い時間から飲み始めたためか、彼は少し酔っていた。飲み始めた時はビールだったが、今彼の前にあるのは冷えた芋焼酎だった。私は先ほどから冷や酒を飲んでいた。彼は、そんな水みたいな、癖の足りない酒は飲まないと言って、私の酒には見向きもしなかった。
「清純派女優の何人が実際に清純だと言うんだ?そんなのまやかしだ。」彼は卑屈に笑った。「君もとっとと夢から覚めることだな。」
「君に言われたくはないね。」私は手元の猪口をあおった。「大体、君は私にそれだけのことを言うだけの権利があるのか?」
「君よりはあるさ。」彼は一向に尊大な態度を改めない。「少なくともまだ、純情を捨てきれない君よりはね。」
「君には彼女が居たっけか。」私は言った。彼に言われ続けるのがいい加減、しゃくに障り始めた。
「現状は、たいした問題じゃない。」彼は鼻先で私の言葉を笑った。「ようは経験だ。」
「経験、経験と、それがそんなに偉いものかね。」私はこれまで私に対して使われた経験という言葉すべてを憎んでいた。「昨日女と別れた男が、次の日には別な女と寝ている...。そりゃ、経験豊富だわな。」
「生来、雄とはそう言うものだ。」彼は言った。「そのためにこそ彼の精細胞は永年分裂を続けている。」
「ここまで進化しておいて、精細胞の理屈に従うこともあるまいに。」私は笑った。「理性の足りないことの裏返しだよ。」
「理性を保った君は、けっきょく恋に破れたんじゃないか?」彼はしてやったり、という風に笑った。「理性を保った合理的な君は幸せだったか。」
「少なくとも、自分に従った部分に於いては満足しているよ。」私は虚勢を張った。「誰かのように、節操のない振る舞いはせずに済んだからね。」
「それは、女に困らない男の言う台詞だな。」彼は言った。「君のような男が言うことではない。」
「はいはい。」私はあきれた素振りを見せた。「浮気性がたたって、知り合いの女すべてから距離を置かれる君には敵わないよ。」
「大体女どもは、」彼が手を挙げると、近くを通りかかったウェイトレスが駆け寄ってきた。彼はおかわりを注文した。「大体女どもは、自分の浮気性を棚に上げて、男の浮気を責める。これは大いなる不条理だ。」
「浮気性と、浮気は違うと思うけどな。」私は彼を冷やかした。
「第一、恋愛などと言う感情は永続するものか?」彼の声は一段と高まった。「あれはあくまで刹那的な...、少なくとも、太陽が昇るまでの命しかない感情なのではないか?夜に恋していた女を、朝に恋しているとは限らない。そうは思わないか?」
「思わないね。」私は言った。「経験の少ない身分で恐縮だが。」
「まあ、君ならそう言うだろうな。」彼は笑った。歯並びのよい歯が見えた。「だから逃げられるんだよ....、あ、逃げられたわけでもなかったか。君の一方的な勘違いに過ぎなかったんだっけな。」彼は肩を小刻みに震わして笑った。「まったく、今時の中学生もおどろく失態だ。」
「今の時代には不足した純真さ。」私は開き直った。「中学生も是非見習うべきだね。」
「絶滅危惧の天然記念物として。」彼が言った。「性教育の時間にでもな。」

ウェイトレスが、銀の盆に酒を持ってきた。澄み切った色の焼酎だった。二人の酔いどれの目にその銀盆の彼女は美しく見えた。
「ここの大学の人?」彼は聞いた。「学部はどこ?」
「人文です。」彼女はおくびれることなく答えた。
「Xを、知ってる?」彼は言った。「僕の友人なんだけど。」
「X...。」彼女は目を浮つかせ、何人かの顔を思い浮かべているようだった。
「君、何年生?」彼は待ちきれなかったのか、問いを重ねた。
「2年です。」
それを聞くと、彼は微かに笑った。そして、「ありがとう、じゃあ分からなくても当然だ。」
そう言って、手を振った。彼女は何かすっきりしない表情で、空の盆を抱えて立ち去った。
「人文に知り合いが居たのか。」私は彼女の立ち去った後、彼に聞いた。「意外だな。」
彼はふん、と笑った。「馬鹿だな、お前、嘘に決まってるだろう?」彼は言った。「人文に知り合いなんか、いないよ。」
彼は、ウェイトレスが持ってきたばかりの冷えた酒をあおった。
「用は話の種だ。嘘だろうと、真実だろうとな。俺は彼女の年を聞きたかっただけだ。」
「年下は好みじゃないのか。」私は笑うほか無かった。「汚い男だな。」
「どうとでも言え。」彼は全く気にしなかった。「潔癖なまま、何も得られず生きるのは趣味じゃない。」
「汚い生き方は趣味じゃない。」私も言った。「どこまでも合わないな、俺たち。」
ふん、と彼がまた鼻で笑った。そして、もう一度片腕をあげて、近くを通りかかった別のウェイトレスを呼び止めた。
「こいつ、今日失恋したんだ。」彼は私を指さしていった。「猪口を二つと、何か一番辛い日本酒を2合。」
「日本酒は飲まないんじゃなかったのか?」私は彼に尋ねた。
「いいんだよ。」彼は笑った。「今日はお前の記念日だ。」
彼はそう言うと、グラスの焼酎を一気に飲み干し、ウェイトレスの銀盆に帰した。

2008年7月6日日曜日

スターリー・スカイ

離島の夜空は晴れ渡っていた。

バーベキュー大会の時に見えた厳かな夕日はすでに水平線の向こうへと沈んでしまっており、辺りは静寂と、暗闇だけが支配していた。

施設周辺は港町になっているため、昼間はそれなりに賑わいがあった。観光客目当てのサザエの壺焼きを売るおばさん達が、狭い通路の両脇で威勢の良い声を上げていて、どこからか焼きトウモロコシのにおいも漂ってくる、そんな場所だった。

冬は分厚い雪雲に閉ざされ自殺志願者が絶えないと噂されるこの島だったが、夏は打って変わって、本土の毎日がまるで一続きの悪夢だった気がするほどに、陽気で開放的な空が視界の果てまで拡がっているのだった。

そのような島の夜空である。見渡す限りの星空だった。
これほどの星が存在していることすら、私は知らなかった。あるいは、広い土地に来て、自分の目が少しよくなったのではないかとすら思った。しかし、いくら何でも、ここに来て数日でこれほどの星に気づく位目がよくなるとも考えられなかった。おそらくは六等星だとか、暗い星の代名詞のように数えられるそんな星までも、今日は私の瞳の中に、控えめに光を投げかけてくれているようだった。

私は施設の屋上に寝ころんで空を見上げていた。幼い頃、獅子座流星群を見るために、道路に段ボールを引いて寝ころんで同じように夜空を見上げたことがあった。その時は、一時間に数個ほどの流れ星を容易に発見することが出来た。ともすれば自分が、偉大な星空に落ちていって仕舞いそうになる倒錯した感覚を味わいながら、幼い私は飽きもせず数時間もそうして星を見上げていた。

そのような思い出も、施設の屋上で寝ころぶ私の脳裏には確かに去来していた。見つめている物は星だったが、それはその時目に映った星では、必ずしも無かったのかも知れない。いつ見ても大きく変化しない星空は、私に時間の経過を忘れさせるのに十分だった。現在が過去になり、過去を現在形で語るように、星を見上げる私の脳裏は時間を自由に行き来していた。

「どうしたの?」
ふいに声がして私は顔を上げた。見れば一人女が立っていた。女は何かおかしいのか、微笑みを湛えた顔で私の顔をのぞき込んでいた。

「...いや。」
私はそう答えるだけだった。
星を見ていた。そう答えるのも余りきざな気がした。

「寒くない?」
女は肩をすくめ言った。昼間に来ていたT-シャツの上に薄いカーディガンを羽織っただけの格好で、確かにその格好では夜の空気はつらそうだった。
「中に入ってたら?」私は彼女に言った。「まだ宴会は続いて居るんだろう。」

その日は、3日続いた大学の臨海実習の最終日だった。昼間海に出て取った魚介を器用な学生数名が調理し、振る舞っていた。私はその会に最初の1時間ほど参加していたが、やがて疲れてしまい、喧噪を離れてこの施設の屋上に上がってきていたのだった。

ここは私だけが知る場所のはずだった。
ここへ来た初日の夜に、施設内を歩き回っていて偶然見つけた屋上への出口。私はそれを、まだ誰にも教えていなかったから、その日の夜は一人で、この偉大な夜空と向き合った。別れの日を前にして、私はどうもこの夜空が恋しくてならなかった。それで、またこの場所に戻ってきていた。

「よくわかったな。」私は正直に言った。「結構わかりにくい場所にあるだろ。」
「そうかな。」女は言った。「何となく分かったよ。」
そう言うと彼女は私の寝ころぶ隣に座った。肩から提げたカーディガンの裾が私の腕に柔らかく触れた。何かの弱い香水のにおいがした。

「わあ!確かにすごい星!」女は言った。「これを見に来てたんだね!」
私は何も言わず、彼女の見上げる空を見上げた。星は暗闇の中で私達を取り囲んでいるようだった。
「みんなも呼んでこようかな。」女は言った。
「...いいよ。まだ宴会してるんだろう。」私はそれを止めた。「星を見るって気分でもないんじゃないかな。」
「...そうだね。」女は応じた。「あんまり人がいても、ね。」
彼女はそう言うと、後ろ手をついて夜空を見上げた。そうして僅かに口元を開けたまま静かに星空を見つめ続けた。

「...ねえ。」行く分かの沈黙の後、女は言った。「あの子とはどうなったの?」
あの子、というのは、同じ学年の同じ学科に所属する別の学生のことだった。私と彼女は当時、付き合っているという噂がささやかれていた。
「...知らないよ。」私は言った。「実際に付き合っているわけでもないし。興味もない。」
それは部分的には嘘だった。私自身はその時、その噂を決して嫌な気持ちで受け止めていたわけでもなかったから。私は人を愛する方法を知らない人間だった。「やさしさ」とは何か、と言う問いに、中学時代から悩み続け、すっかり疲れ果てているような人間だった。

「...そうか。」女はすんなりと私の嘘を受け入れた。微かに苦い気持ちが私の心の内を走った。「彼女、今回は来なかったね。いろいろ言われるのが面倒になったのかな。」
「かもな。」私は言った。実際私も面倒に感じることはあった。事実ではないことを言われ続けるのも、なんだか後ろめたかった。

くしゅん。
女が小さくくしゃみした。
「さっさと中に入ったら?」私は彼女に言った。「明日また、しばらく船に乗るんだから」
「そうだね。」彼女は言った。「でも船からじゃ、この星空は見えないから。」
彼女はそう言うと、私の隣にごろりと寝ころんだ。彼女の腕が微かに私の掌に触れた。

「わあ、空に落ちそう。」彼女が歓声を上げた。「あの光っている奴は、何?」
「...知らない。」私は答えた。星の名前など、実際知らなかった。
「知らないで見てたの?」彼女は私の方を見て笑った。「なにやってんだか。」
「星の名前なんて知らなくたって」私は言った。「きれいだと思えればそれで良いだろ。」
「でも、星の名前をたくさん知っている方が、なんかかっこよくない?」彼女は言った。「そう言うところは欠けてるな。」
「きざったらしい。」私は言った。「名前なんてみんな後付だ。そもそも世界には一つの名前もなかったのに。」
彼女は笑った。「負け惜しみ。」

ふう。言葉を失って、私は溜息を吐いた。彼女に勝てそうにもなかった。
「...でも、一理あるかな。」彼女は再び星空を見た。「私達が生まれた時も、けんかして泣いた夜も」彼女は言った。「うれしくて笑った日も、悲しい別れのあった日も、」
「星は同じように空にあって、同じようにまわっていたんだね。...そうして何時か、私達が、この世界とサヨナラする時だって、」彼女は少し間をおいて言った。
「星は同じように世界の空をまわってる。生まれた時と、ほとんど変わらない配置で。」
彼女は笑った。「後から出てきたのに、元々ある物に名前を付けちゃうなんて...、人って自分勝手な生き物だよね。...ていうか。」彼女はがばと跳ね起きた。
「何言ってるんだろ、わたし。」彼女はそう言って私にほほえみかけると、両手で私の手を取って体を起こした。
「さあ、立って。」
「何?」私は嫌々立ち上がった。彼女に握りしめられた腕の辺りが微かにひりひりした。
「今日は火星の再接近日!」
それは数日前から世間を賑わせていたニュースだった。火星が、数十年に一度の大接近をする年に、その年は当たっていた。
「こんな星空を独り占めする気?みんなを呼びに行こう。」彼女はそう言うと、私の手を引いて屋上の出口へ導いた。


空には満天の星。そのどれが火星であるのか、私は知らなかった。だが、友人の誰かが、どの星が火星であるのか、正確に知っているとも思えなかった。我々は各々の火星を見上げ、そしてその地球への接近を心から祝うのだろう。

それもまた、私達らしいと思った。

2008年7月4日金曜日

One for Helen

少年にとって18回目の誕生日を祝ってくれたのは、幼げな顔の少女だった。
「高校生最後の誕生日だね。」彼女は言った。
「私達にとっては始まりだけど。」そう言って彼女は目を細めて笑った。

少年も併せて笑ったが、その裏で、彼は付き合いの不思議を考えていた。数ヶ月前まで、誰が、彼女と一緒に誕生日を祝うなどと考えていただろう。彼女は彼にとって、無数にいる友人の一人に過ぎなかった。それが今や特別な存在になり、彼にほほえみかけている。彼は彼女の微笑みを見ながら、何やら空恐ろしいものを感じた。今こうして目の前にある幸せも、あるいは同じように急速な時間の内に失われてしまうような気がした。水のように形のない、彼と彼女の幸福。

「どうしたの?」差し出されたプレゼントに、おどろいた反応を見せない彼に、彼女は不思議そうな目をして問いかけた。
「...ああ、なんでもないよ。ありがとう。」少年は大人しい笑顔を浮かべた。
「どういたしまして。いつもお世話になっています。」少女は口先だけ改まったが、顔つきは親しげに笑ったままだった。
「中身は何?」少年は差し出された緑色の柄の小包を掌に載せて言った。
「開けてみて。」少女がそう言うので、少年は包みを開けた。

中には小さな犬のマスコットが付いた、携帯ストラップが入っていた。
「あんまりバイトも出来ないから、こんなので精一杯なんだけど、」彼女が言った。
「でも、ほら。」
少女が差し出した、彼女の携帯には同じマスコットの色違いのストラップが取り付けられていた。
「おそろいを買ったんだ。...何かいつも身近にあるものを、プレゼントしたくてさ。」そう言うと少女は少し恥ずかしそうに俯いた。
「...ありがとう。」少年は微笑んだ。「大切にするよ。」そう言うと彼は早速それを包みからだし、自分の携帯に取り付けた。はにかんでいた少女もそれを注意深く見守っていた。
「..ほら。」少年が少女の前に自らの携帯を差し出すと、少女も自分の携帯をもう一度見せた。
そして、また、さきほどのように、目を細めて笑うのだった。

そこは位夕暮れの公園だったので、少女は少年の手元まではよく見えていなかった。少年の手の中には、それまで付けられていたストラップが、むしり取られるようにして握られていた。
少年は、そのストラップを嘗て送ってくれたいつかの少女に、申し訳ないと思いながらも、それをむしり取ったのだった。
少女はそれに気づいていたかも知れなかった。むしろ気づいていたからこそ、似たような犬のストラップを送ったのかも知れなかった。
少年は彼女がそこまで自分を試すようなことをしたがっているとは信じたくなかったが、それでもそう考えざるを得なかった。彼女は嘗て彼の付き合った少女の、同じクラスの同級生だったからだ。二人は性格も正反対で、仲も余りよくなかった。

しかし少年はそのいずれをも好きになってしまった。

始め付き合った少女は今の彼女よりもずっと積極的で、むしろ彼の方が彼女からアプローチされたほどだった。彼はそれまで恋というものを余り知らなかったし、せっかくなので恋愛した。

付き合ってみると、恋愛はとても面白いものだった。彼女と居るのはとても楽しく、話が尽きても時間は十分に埋められた。彼がそれまで感じていた、話し尽きて沈黙することの恐怖は、恋人同士の場合には存在しなかった。逆に、沈黙は二人の間に関係の充足をもたらしてくれるということを、彼は恋をして初めて知った。

彼は彼女ともっと一緒にいたいと思い始めたが、しかしその恋は長くは続かなかった。メールのやりとりにつきまとう、小さな誤解が発端となり、彼と彼女の恋はあっけなく潰えてしまった。彼女に送るはずのメールが、別の女子生徒に送られてしまったのである。運の悪いことに、その女子生徒は彼の幼なじみだったため、誤解はより大きくなった。彼が弁解すればするほど、彼女の中で疑惑は大きく膨らんだ。そして、取り返しの付かない言葉まで言ってしまって、彼女はへたりとその場に座り込むと、
「...もう疲れた。」と言い残し、彼の前から去った。

その終わり方は、あまりに唐突だったためか、
彼の中でなかなか、彼女との恋愛に終止符は打たれなかった。彼の携帯の待ち受け画面は彼女が、近くの公園で見かけた犬と戯れている写真だったが、彼がそれを変更したのは、彼女と別れて数ヶ月も経った後だった。

実際それまで、彼の部屋には彼女からもらった手紙が目に付く範囲に置かれていたし、一緒に行ったゲームセンターの景品のカエルの人形が、にっこり笑って彼のベッドサイドに座っていた。

彼女と別れると、身の回りのものを急速に整理する人がいると言うが、彼はなかなかそのような感覚になれなかった。元々物に無頓着なこともあるのかも知れないが、それでも、物を見れば思い出すのは彼女であることに違いはなかった。

実に意外なところにまで、彼女の影響が及んでいることを知って、彼が驚きを感じたことも、一度や二度ではなかった。それでも彼は、気がついたところから、徐々に彼女の思い出を整理し始めた。そしてその年の冬が終わり、春になる頃には彼は彼女と廊下で擦れ違っても、何とか普通に挨拶できる程度には関係を作り直した。

その矢先である。彼が、今の彼女と付き合うようになったのは。

彼女のことは彼は以前から知っていた。1年の頃は同じクラスだったし、外見がかわいいと、ちょっと評判の子でもあった。彼も彼女のことは気にはなっていたが、ただ、それだけのことだった。そう言うこと付き合うと言うことが、自分のように平凡な人間にはあり得ないと決めつけていることもあったし、なにより、彼の最初の彼女が、あからさまにその少女を嫌っていたからである。

彼女に言わせれば、少女は「かわいい子」を気取ってるそうなのだ。

そう言うみんなからかわいがられようとする態度は、彼女の神経を逆なでするようだった。
「怒って脣を突き出すような高校生、どこが良いの?」彼女は時々彼に言った。
「男子の感覚って分からない。」

その言葉は決して、彼に向けられた物でないことは彼にも分かっていたが、彼は自分も怒られているような気がしてならなかった。案の定、彼もその後こうして、その少女を本格的に好きになり、つきあい始めるまでになってしまった。

人間関係は、つくづく不思議な物だと彼は思う。どうして、性格も正反対で、お互い仲の悪い二人の人間に、彼はいずれも恋することが出来たのか、自分の心の内をのぞき込もうとしてみても、答えはなかった。

今の彼女とつきあい始めてから、せっかく立ち直りかけた元の彼女との関係は見事に砕けた。彼女はもう、彼と廊下で擦れ違っても、笑顔一つ浮かべてはくれなかった。

「...あの子って、愛想悪いよね。」今の彼女はよく言う。「廊下であっても、なかなか挨拶してくれないでしょ。...よくないよね、ああいうのって。」
彼はそう言われても、ああそうだねと、肯定する気にもなれず、困ったように笑うだけだった。

そう言う無愛想な少女を愛したのも、また彼だったから。

今の彼女は時々、彼の前の彼女から言われたという、いろいろな皮肉や冗談半分の苦言を彼の前に披露することもあったが、彼は本気で以前の彼女を憎む気にはなれなかった。彼女をそうさせている一端は自分にもあると感じていたから、彼はその責任の一部は自分にあると考えていた。

「ねえ、どうしてあの子を好きになったの?」今の彼女は、元の彼女に皮肉を言われた言う時は決まってそう聞いた。
「さあ、なんでかな?もう俺にも分からなくなったよ。あんな奴のこと。」彼はそう言って空虚に笑った。大きな罪悪感が心の内で渦巻いていた。「あなたが振って正解だったよ。」彼女は言った。「あの子とずっと居たら、きっと幸せにはなれないよ。」彼女は、彼の方が彼女を振ったのだと信じ切っていた。彼は何も言わず笑うほか無かった。
「あの子があなたとうまくいくはずないんだから....。」


「そのストラップ気に入ってくれた?」彼はその声にはっとした。
「...ああ、ありがとう。」努めて穏やかに彼は笑った。気づかれないように手の中の古いストラップをポケットに仕舞った。
「よかった。」彼女はありきたりな笑みを見せた。彼は心の中で失笑した。
「これからも、仲良くいようね。」彼女は彼にそう言った。
そして、決して力強いとは言えない彼の肩にその身を預けた。

彼は、彼女の暖かさを感じながら、この恋はもう長く続かないと感じていた。

いずれ来るべき時が来て、彼のもとから、この水物のような幸せは奪い去られてしまうような気がしてしょうがなかった。

彼は彼女を強く抱いた。そして激しく脣を奪った。そう言う乱暴な手段に及んだのは彼にとって初めてのことだった。しかし、後先の知れた関係の末路に、気兼ねする理由もなかった。

煌々と照らす月明かりの下、見ている者はいなかった。


彼が彼女と別れたのは、その日から数日後の、ある晴れた朝のことだった。
幼なじみへ送るメールを、何も知らない彼女のアドレスに送信した。

彼の携帯にはその時のメールはもう無い。

物に頓着しない彼だったが、その時のメールから、彼女にもらった物もすべて、その日の内にみんな処分してしまっていた。

2008年6月28日土曜日

お姉さんになる日

「ねえ、先生。」
放課後、教室に残って先日の課題の添削をしていた私のもとへ、クラスの女子児童の一人がやってきた。
「なんだい?」
私は答案から目を外し、少女の顔を見ていった。少女はまん丸い目を更に円くして言った。

「お母さんが妊娠したの。」
私はどきりとした。少女の口から妊娠という言葉が飛び出すとは予測していなかった。
「ほんとかい。」努めて冷静に私は言った。「じゃあ、お姉さんになるんだね。」
「お姉さん?私が?」少女の円い瞳が喜々と輝いた。「私、お姉さんって呼ばれるの?」
「そうだよ。」私は微笑んで答えた。「もっと、お姉さんらしくしないと、赤ちゃんに笑われるぞ。」
「お姉さん、お姉さん。」少女はうれしそうに何度も繰り返した。
「お姉さんなんだ、ちいさい私が。」
「小さくても、お姉さんはお姉さんさ。」私は笑った。
「そうだよね。」少女は言った。「赤ちゃんは私よりきっと小さいもの。」
少女はその場で意味もなく、くるくると回った。うれしさが彼女をそうさせるようだった。
「先生は、赤ちゃん見たことある?」
「そりゃあるよ。」
「小さいよねえ。」少女は両の手を、赤ちゃんくらいの大きさに開いた。「おててなんかも、こんなに小さい」彼女の指をすぼめるようにして表した。「私見たことあるんだ、ケン君が家に来た時。」
「ケン君?」
「ケン君。お母さんのお兄さんの子供。」
「それはいとこって言うんだよ。」
「そう、いとこ。」少女は真面目な顔で言った。「ケン君とっても小さいの。」そう言うとまた両手でケン君の大きさを表した。「もうすぐケン君みたいな赤ちゃんが生まれるんだもんね。...先生、名前はどうしよう。」
「それは、お父さんお母さんが考えてくれるさ。」私は笑った。「君が心配しなくても、良いことだよ。」
少女は真っ直ぐに私を見ていった。「でも、家、お父さんいないよ。」不思議そうに首をかしげた。「じゃあ、お母さんが考えるのかな。」

私ははっとした。
少女の家庭は母子家庭だった。父親は存在しなかったのだ。
私は言葉を失った。
「先生、先生。」少女は不思議そうな顔で私を見ている。
「どうしたの先生。」
「ああ...、なんでもないよ。」私は努めて微笑んだ。「お母さん、うれしそうだった?」
少女は頷いた。
「うん。笑ってた。...でも。」
「でも?」私は聞き返した。
「でも、お母さん私に聞いたんだ。妹か、弟ほしくない?って。」
「なんて答えたの?」
「もちろんほしいって。」少女は自身の胸の内を表すように、体をきゅっと縮めた。「いもうとがいいなって。男の子って、すぐに散らかすでしょ。私、ご飯作って上げるんだ、サヤちゃんに。」
「サヤちゃん?それって、妹の名前?」
「そう。お名前。」少女はにかりと歯を見せて笑った。「私のサヤちゃん。」
「なんだ、もう勝手に決めてるんじゃないか。」私も笑った。
えへへ。少女は少し恥ずかしそうに身をくねらせた。

「おかあさん、結婚するの?」
私は努めて柔和な表情で彼女に問いかけた。

少女はきょとんとしていた。
「何で?」
「なら、いいんだ。」私は苦笑いした。「なんでもないんだよ。」
「変な先生。」少女は首をかしげた。「先生、お母さんと結婚したいんでしょ。」
「ち、違うよ!」私は今考えると不自然なほど慌てて否定した。
「だって、じゃあ何でお母さんが結婚するかどうかなんて聞くの?」少女が意地悪そうに笑った。「好きなんだ。ミワちゃんが、たっくんと結婚する時も、そうだったもん。」
私は苦笑した。
「先生は、お母さんが、もっと幸せになったらいいなと、思っただけだよ。」私はそう弁解した。
「ふーん。」少女は不思議そうに言った。「お父さんになくても、幸せだけどな。わたし。」そう言って首をかしげていた。

少女はしばらく話した後、生まれたら私にサヤちゃんを見せてくれる約束をして、手を振って帰って行った。

私は少女が帰ってからも、なかなか仕事に手が着かなかった。
そうしているうちに、上級生の担任をしている2つ上の彼女が来たので、その話しをすると、彼女は笑っていた。
「保護者の家庭の事情を詮索しなくても良いじゃない。」
「でも、担任としては、子供の家庭の様子くらい把握してないと...。」
「言わなくても、向こうからやってくるわ。」彼女はあきれていた。「知らせる必要のあることなら。」
私は返す言葉がなかったので、そのまま黙っていた。
彼女も私の脇に突っ立って、しばらく黙っていたが、やがて、
「サヤちゃんって、名前もいいかもね。」そう言って、教室を出て行った。

私は答案の丸付けを再開しようと赤ペンを持ったが、彼女の置いていった言葉の真意にそこでようやく気がついて、廊下の向こうに小さくみえる後ろ姿を慌てて追いかけた。

2008年6月26日木曜日

吠える犬

「俺、鹿児島に両親がいるんだ。」男は言った。
両軍の衝突から3日続いた戦闘は、彼の表情から少年じみたふくよかな頬をすっかり奪い去っていた。落ちくぼんだ眼下の奥から、緊張と恐怖の渦巻いた目が、ぎらぎらと光っていた。
「それでも戦わなくちゃ行けないのかな」
「まだ迷っているのか。」年上の男があきれたように言った。
「君は志願して、この隊に入ったはずじゃないか。それでもまだ...。」
「確かに、志願はしたさ。」若い男は声を荒げた。
「でもそれは、名目上だ。実際には...。」
「周りが、一斉に志願したから。」
部屋の奥で聞いていた、細身の女性兵士がぼそりと呟いた。黒い大きなライフル銃を丁寧に磨いている。
「あなたらしいわね。何時までも子供なんだから。」男の方を見もせずに女は言った。
「...お前はどうなんだよ。」子供と言われた若い兵士は不平そうに問い返した。
「あたし?あたしは...。」女性兵士はふと、微笑んだ。
「どこでもよかったわ。この子と一緒にいられれば。」そう言って、ライフル銃の銃身に軽く口付けた。
「気が狂ってる。」若い兵士はいぶかしがるように女を見た。
「お互い様。」女性兵士はまだうっとりと、黒い銃身を見つめていた。
「じゃあお前は、」二人のやりとりを黙って聞いていた、年上の兵士が口を開いた。
「その銃とさえいられれば、敵方にでも付いた、と言うことか。」
女はその言葉に、きょとんとして、男の方を見た。黒い大きな瞳だった。
「ええ。もちろん。」女は質問されたことすら意外と言った様子だった。
「考えられない。もう、この子と離ればなれになるなんて。向こうの軍じゃ、正規兵しか、こんな立派なスナイピング銃、使わせてくれないでしょう?流れ者は何時までも流れ者扱いよ。能力があってもなくても。」そう言うと、愛おしげに銃身を撫でた。
「だからこっちの軍に入ったの。」
「恐ろしい。こいつには政治の欠片もないのか。」若い男がうんざりした様子で言った。
「イデオロギーだの正義だの、正当性だの大儀だの、この女には一切関係ない。」
「はは、くだらない。」女は軽くあしらった。「だから何時までも坊やなのよ。」
「なにを!」若い兵士は立ち上がった。挑みかかろうとする彼を止めたのは年上の兵士だった。
「まあ、待て。」彼は言った。「勝てる相手じゃない。」
「こんな女ごときに!」若い兵士は言った。「俺が負けるとでも言うのか。」
「ばか!」年上の兵士は、叱責した。
「あの女の銃をよく見ろ。」
女は依然として何食わぬ顔で銃身を磨いていたが、その銃の安全装置はすでに外されていた。
「この距離からなら、あいつは確実にお前の脳天を打ち抜くぞ。」
「クソ!」若い兵士は、足下の椅子を蹴り倒した。部屋に大きな音が鳴り響いて、奥の方で壊れた通信機械を直していた老兵が思わず顔を上げた。
「静かにせんかいガキが。」老兵は大声で言った。「気が散って修理どころでないわい。」
「直りそうかい?じいさん。」年上の兵士は老兵に語りかけた。
「は?」老兵は問い返した。彼は耳が少し遠いようだった。
「直りそうかい?」兵士は大きな声で聞き直した。
「わからん。」老兵は首を振った。「何せ老眼で、細かいところまでは見えんからな。」
「役立たず。」若い兵士が、すねたように小声で言った。
「だまらっしゃい!こわっぱ。」老兵は大声で怒鳴った。
「まあ、じいさんも、あんなガキの言葉に一々腹立てなくても。」
「じじいでも、ガキでも、悔しいものは悔しいわい。」老兵は顔を真っ赤にしていた。薄くなった頭の皮膚まで、茹で上がったかのように赤くなっていた。
「わしはこう見えてかつては第92連隊で、くろがねの泰蔵と...。」
「また、昔の話しか。」若い兵士は皮肉に笑った。「昔のことしか語るべき事がないんだろうな。」
「お前はいい加減黙ってろ。」年上の兵士は低い声で叱った。「これ以上、隊の和を乱すと、それなりの罰を受けることになるぞ。」
そのとき、それまで無関心のように振る舞っていた女兵士が、安全装置を外したライフルを真っ直ぐに若い兵士の頭部に向けた。そして片目を照準に当てたまま、美しい歯を見せてにこりと笑った。
「ばん。」
そう言って女兵士は引き金を引いたのだが、それは銃の轟音にかき消されて誰の耳にも届くことはなかった。轟音が微かな響きを残して、部屋の中から消えていくと、あとには床に転がった若い兵士が残された。
「撃ったのか。」年上の兵士は女の方を見た。女はもう一度にこりと笑った。彼女は美しかったが些か色が白すぎた。青白いほどの笑顔だった。

撃たれた若い兵は、床に転がったまま動かない。目が天井の一点を見つめて凝り固まっていた。
老兵と、年上の兵が彼のもとに駆け寄ったが、女はそれに見向きもしなかった。
「おい!」「しっかりしろ!」
体を揺すっても彼は動かなかった。
「貴様!」年上の兵は女の方を見て怒鳴った。
「見方を撃つこと無いだろう!そもそもなぜ、安全装置を無断で外している?」
「かわいそう。」女は言った。「大好きな子の首を、首輪で縛っちゃうなんて。」女はそう言うと銃身をその身に抱いた。「噛みついてもくれない犬には、何の魅力もないわ...。あなたも、そう思わない?」
「たわけ!」老兵は言った。「まだ生きておるわい。」
若い兵士は天井を見上げたまま、硬直していた。恐怖のためか、体が小刻みに震えていた。彼は失禁したようだった。
「馬鹿め。」老兵は言った。
彼女の弾丸は、若い兵士の耳元をかすめ、板張りの壁に穴を開けていた。おそらくはこの兵士の耳には、銃弾の空気を切り裂く音が、しっかりと刻み込まれたことだろう。
「意気地無し。」女は笑った。
そして銃を大切そうに、革のケースにしまった。

2008年6月21日土曜日

すいかのたね

ぺぺはすいかのたねをうえました。
とおいとおい日本から、アフリカまで、船に乗ってやって来た、丸くて大きなすいかは、ぺぺたち小さなギャング団によってぬすみだされてしまい、すっかり食べられてしまいました。ぺぺははじめこのかみなりのようなくだものを見て、ばくだんではないかと思いました。おそるおそる近づいてみて、ちょんちょんと指でつついて、それでも何とも言いませんでしたので、ぺぺは勇気を振り絞って、それを近くにあった石でたたき割ったのです。

さくり、という音がして、石の下から赤いしるが飛び出してきました。
ぺぺはおどろいてとびのきました。動物の血か何かだと思ったのです。

「これは、肉だぞ。」ぺぺの仲間のカカは言いました。「赤い血が流れたんだから。」
もう一人の仲間のワワはくんくんと、その割れたすいかの匂いを嗅ぎました。
「ちがう、これは血のにおいじゃない。」ワワは自信を持って言いました。
「なんだろう、これ。」ぺぺは言いました。「肉じゃないけど、血が出てる。」
「血じゃ無いったら。」ワワが怒ったように言いました。
「食べられるのかな」カカが言いました。「おいら、腹が減ってるんだ。」
「食べてみようよ。」ワワが言いました。「いいにおいだよ。」
「食べるの?」ぺぺが言いました。「僕はちょっと怖いな。」
「いくじなし。」カカが言いました。
「いくじなし。」ワワも言いました。
「いくじなしなんかじゃない。」ぺぺが怒ったように言いました。

ぺぺは意気地無しなんかじゃないことを、ワワとカカに見せるために、そのすいかの赤いところを手で掬って、口に放り込みました。

「...あまい。」ぺぺが言いました。「なつめやしみたい。」
「そんなにあまいのか」カカが言いました。「肉なのに。」
「肉じゃないよきっと」ワワが言いました。「これは血じゃないもの。」

ワワとカカはぺぺの言葉を聞いて、われ先にとすいかを食べ始めました。ぺぺも混じって三人があんまり勢いよく食べたものですから、すいかはあっという間になくなってしまいました。
「ああ、おいしかった。」カカが言いました。
「もっと食べたかった。」ワワが言いました。
「ほんとにおいしかった」ぺぺが言いました。

ぺぺはすいかを食べているあいだ、お母さんのことを考えていました。すいかがあんまりおいしかったので、お母さんにも食べさせて上げたくなったのです。

ぺぺのお母さんは昼間は町に出て、ものごいをしていました。

ふつうの身なりでは誰もなかなかお金をくれないので、ものごいをする人の中には、わざわざ足の悪い人の動きをまねして、お金をもらう人もいました。中にはもっとすごい人もいて、わざわざ本当に足を折ってしまう人もいるようでした。ぺぺのお母さんは、体が一番だいじと、ぺぺにいつも言っているような人でしたので、そんなことはしませんでした。道路でしんごうを待っている車の間を縫うように歩いて、お金をくださいと、言って歩くのでした。

ぺぺはすいかを食べている内に、これがワワの言うように肉ではなくて、植物の実のようなものだと感じたので、その中にあった、黒いたねのようなものをいくつか拾っておきました。それからぺぺは近くの街路樹の下に、そのたねを埋めました。その街路樹はとても大きなもので、毎日管理人がその根本に、水を撒いていくのを、ぺぺはしっていました。管理人が水を撒けば、このたねにも水がかかるはずでした。ぺぺはこのたねが芽を出して、早く大きくなるように、おまじないをしてから、駆け足でお家に帰りました。

お家に帰ると、お母さんは先に帰っていて、夕食の用意をしていました。
「今日は余り稼げなかったよ。」と、お母さんは言いました。
「お金のありそうな人は、いっぱいいたのにねえ。」
お母さんの作っていたのは、ぺぺの大好きなマメのスープでした。平たくて丸くて大きな豆が、すりつぶされたのとすりつぶされていないのが一緒に入った、とっても栄養のあるスープなのでした。

ぺぺの家には、隣に住むタタおじさんも来ていました。おじさんもマメのスープを食べに来たようでした。おじさんはとてもけちで、人のものはもらうのに、自分のものを人にあげることはありませんでした。

「今日の豆は、わしがもらってきたものだぞ。」タタおじさんは言いました。
「だからわしがもらうのじゃ。」
でも、ぺぺはしっていました。おじさんの持ってきた豆というのは、近くで外国人が、お金のない人たちのために配っている豆だったのです。ぺぺたちの豆も同じでした。だから、けっきょく同じ豆だったのです。

お母さんはそれをしっているはずなのに、何も言いませんでした。お母さんはいつもそうでした。タタおじさんはひどい人なのに、余り文句を言いませんでした。タタおじさんが来る日は、お母さんの様子がいつもと違う気が、ぺぺはしていましたがそれがどう違うのか、ぺぺには分かりませんでした。

「はい。豆のスープだよ。」お母さんは大きな鍋のスープをおじさんに渡しました。「これで良いね。」
「ああ、」おじさんはにこにこ笑ってそれを受け取りました。そして、うれしそうに帰って行きました。ぺぺたちのもとに残ったのは、お母さんがこっそり取り分けておいた、ほんの少しのスープだけでした。

ぺぺとお母さんはそれを分け合って食べました。お母さんはぺぺより体が大きいのに、ほとんど全部をぺぺにくれました。ぺぺはいくらかお母さんに返そうとしましたが、お母さんはもう食べたからと言って、みんなぺぺに食べさせてしまいました。

「ぺぺ。」お母さんが言いました。「ぺぺはお父さんがどんな人か、知りたいと思ったことはないかい?」
「ないよ。」ぺぺは言いました。「僕のお父さんはペルペルポンだもの。」ぺぺは胸を張って答えました。
 ペルペルポンというのは、ぺぺたちの一族の英雄で、神様でもありました。昔、この土地にまだ土人間がたくさん住み着いていた頃、ペルペルポンが海から上がってきて、土人間を海の神様からもらったやりで、みんな打ち倒してしまったのでした。ペルペルポンがやりを空に掲げると、たちまち雨が降ってきて、土人間はみんな溶けてしまいました。そして、雨の降ったところにはオアシスが出来て、それがぺぺたちの住んでいる町の始まりになったのでした。
 だから、毎年雨期の始まりにペルペルポンのお祭りがありました。男の子は4歳になると、小さな槍を手に持って、空に突き上げて、みんなでペルペルポンのうたを歌うのでした。女の子はこのときだけ、特別なきれいな服を着て、それにあわせて踊りました。ぺぺたち、お父さんのいない子供は、みんなペルペルポンの子供でした。カカも、ワワも、そうでした。

「ペルペルポンねえ...。」お母さんは困ったように笑いました。

ぺぺの頭の中はそれどころではありませんでした。今日うえてきた、すいかのたねのことでいっぱいでした。豆のスープを食べていても、ぺぺはどうしても、すいかのことを考えてしまって、気がつくと自然に、顔がほころんでしまいました。

ぺぺが豆のスープを食べながら、あんまりにこにこしているものですから、お母さんは不思議がって、「どうしてそんなに、にこにこしてるんだい。」と聞きました。

ぺぺは笑って、「ないしょ。」と答えました。そしてまたにこにこしていました。
お母さんはそれを見て「変な子だねえ。」と言って笑っていました。すいかが大きくなるまで、ぺぺはお母さんには教えたくなかったのです。大きな甘いすいかを突然持ってきて、お母さんをびっくりさせて、喜ばせてあげたいと思ったのでした。
ぺぺはそれを考えると、ますます顔がほころんでしまうのでした。


その日の夜、ぺぺは夢を見ました。
もちろん、すいかの夢でした。

ぺぺの夢の中で、すいかは大きな木になり、
これまで見たことのない、真っ青な花を付けました。

ぺぺたちはそれを見ながら、うれしくて木の周りを何度も何度も踊りました。


青はペルペルポンの色でした。
ぺぺはそれからすいかのことを、『ペルペルポンの実』と呼ぶことに決めました。

でもそれを、ぺぺはまだ、お母さんには教えていません。
おいしいすいかの実がなったら、お母さんにこのことを一緒に教えて上げようと、ぺぺは思っているのでした。

老人と電車

抱き上げてみると少女の体は思ったよりずっと重かった。
老人はその重みに、自らの子を抱き上げた時のことを思い出した。妻の初めての出産は難産だった。当時は分娩室にはいることは許されず、老人は夜通し、待合室で、うろうろと落ち着かなかった。何度も外に出ては星を見上げ、月を見上げて、妻と、そして生まれてくる新たな命の無事を祈った。柔らかな産着に包まれて初めての娘が真っ赤な顔をして彼の前に現れた時、老人はどれほど泣いたことだろう。ストレッチャーに載せられて、妻が運ばれていく時、何度、ありがとうという言葉を口にしたか、今ではもう、覚えていない。

半日歩き続けた少女はすっかりくたびれてしまったようだった。
渠の肩にもたれるようにして、ぐっすりと眠ってしまっている。老人の耳元で、安らかな寝息が聞こえていた。

「この子を早く家に送り届けて上げないと。」
老人は独りごちた。

老人が、この少女と出会ったのは、老人がいつも利用する駅のホームでのことだった。
少女は自動改札の前で手間取り、辺りをきょろきょろ見回していた。

「どうしたんだい。」老人が尋ねると少女は、
「おばあちゃんちに、いくの。」と答えた。

どうやら少女は、一人で祖母の家に行くところのようだった。親もまた、子供に冒険をさせたものだ。老人は尊敬を通り越してあきれた。老人の目に少女は確かにしっかりしたこの様に見受けられたが、一人旅に出すにはあまりに幼い年齢に見えた。

「お母さんと来なかったのかい。」老人は尋ねた。
「お母さん、いない。」少女は答えた。

少女には元々、お母さんがいないのだろうか。老人は思った。今の家庭事情を考えれば、そんな家庭があってもおかしくないと感じていた。父子家庭なのだろうか。

「お母さんは、元々いないのかい」老人は念のためもう一度聞いてみた。
少女は首をかしげたまま、老人をきょとんとしてみていた。老人の質問が理解できないようだった。

「まあ、いい。」老人は仕方なく笑った。
「おばあちゃんちは近いのかい?」
「宮城県東郡陸前町字菅原1-10-5 ごとう、とめこ」少女ははきはきと答えた。
「ごとう、とめこ...。」老人はその名に聞き覚えはなかった。そのような住所も、この辺りには存在しなかった。
「ここの近くじゃないなあ。」老人は困ったように言った。
「間違えていないよね。」

「宮城県東郡陸前町字菅原1-10-5 ごとう、とめこ」少女はもう一度言った。
「...お父さんが言ったもん。」

「お父さんが、か。」誰が言おうと、存在しない地名は存在しないのであった。
どうやらこの子は完全に迷子のようだった。警察に引き渡すか、それとも自分でこの子を家に送り届けるか、そのどちらかしかなさそうだった。

老人はその日、特に何もすることがないので、近くの競馬場にでも行くつもりだった。元々、それほどギャンブルをする方ではない。しかし彼には、これと言って趣味がなかった。仕事を引退し、地元のこの田舎町に帰ってきてはいたものの、特にすることがあるわけでもなく、日がな一日、新聞を読んだり、縁側に出たり、その程度のことしかできなかった。娘も、そのあとに生まれた息子もとっくに独立しており、妻は先年先だった。

「じゃあ、おじいさんがついて行って上げよう。」老人は言った。久しぶりに小さい子を相手にしてみたかった。孫は娘夫婦にいたが、彼女は二年に一度も帰ってきていない。孫が生まれた時に年賀状に写真を貼って送ってきたきりだった。
「おばあちゃん地に行くのは難しいから、お家に戻ろうか。...さあ、お家はどっち?」
「海老原駅」少女は言った。ここから、一時間ほど電車で走ったところにある駅だった。
「よし。」老人は少女の頭を不器用に撫でた。「じゃあ、冒険に出発だ。」
少女はきょとんとした顔で、老人を見上げた。

海老原に出るには下りの列車に乗る必要があった。
ホームの時刻表で時間を確認しているうちに、海老原方面の列車が入ってきた。老人と少女はすぐに列車に飛び乗った。

列車の中で少女は、小さな財布をずっといじっていた。
子供に人気のマスコットキャラクターの絵柄の入った小さな小銭入れだった。

「お財布かい?」老人は尋ねた。
少女はそのお財布がお気に入りなのだろう。それを見せつけるようにぐいと老人の前に尽きだした。
「おお、かわいいねえ。」老人は笑顔で応じた。
少女はそれを手元で再びいじり始めた。そのうちそれにも飽きたのか、ふと顔を上げ、椅子に逆さまに座って、窓の向こうの景色を見つめた。そこは工業地帯であった。白と赤に塗り分けられた煙突が、数本、彼女の前を通り過ぎた。

「電電工業」少女は目の前に並ぶ建物の一つを指さした。老人は後ろの窓をふり返った。
「お父さんあそこにいるの。」少女はガラス玉のような大きな黒い瞳で、じっと電電工業の立ち並ぶ工場群を見つめていた。
「お父さん、何屋さんなの?」老人は尋ねた。
「さらりいまん。」少女は答えた。退屈を紛らわすためなのか、座席の上でぴょんぴょんと跳びはねたが、余り楽しそうではなかった。
「サラリーマンか...。」老人はその言葉に、思わず一人苦笑を浮かべた。そう呼ばれた頃の自分を懐かしんでいるようだった。

あの頃は、よく電車に乗った。老人は思った。
だが、俺はどのくらい、町の景色を見ていただろう。
20年住んだあの都会の町並みの、どの程度を俺は知っているだろう。

少女は電電工業の建物を見送ってしまうといよいよ退屈になったようだった。
しばらく椅子に座って足をばたつかせていたが、やがて、うとうとと眠り始めた。
老人は少女が反対側に倒れてしまわないように、腕を回して、自らの体の方へ抱き寄せた。
少女の体は大人しく、老人の体にもたれた。

老人は母親が子守歌を歌うときそうするように、少女の小さな肩を、はたはたと拍子をとるように打ち始めた。それは遠い物語だった。老人の母の、老人がまだ、老人ではなく、今彼のそばにいる少女のような、一人の子供だった時代の、母の残してくれた、体に刻まれた、拍子だった。

老人はその拍子で、体の思い出すままに、少女の肩を打ち続けた。
そのリズムに少女は気持ちがよくなったのか、より深い眠りに落ちたようだった。
老人は思わず、穏やかな微笑みを浮かべた。

2008年6月19日木曜日

雨の校舎

昨日から降り続いた雨が、今日もまた校舎の窓を濡らした。幾多の水玉模様で、きれいに磨かれた窓は濡れていた。くらい空の下で、蛍光灯に照らされた教室の中だけが妙に明るい。先生は黒板を見つめたまま、何やらぶつぶつ言っている。

少女はうんざりしていた。梅雨という季節は彼女を憂鬱にさせた。何時になっても、雨、雨、雨。夏が遠く、待ち遠しい。

しかも、少女をうんざりさせる物がもう一つあった。父だ。

彼女は傘を壊していた。来る途中、学校近くの電信柱とブロック塀の間に挟まれて、傘の骨はすっかり曲がってしまった。雨は相変わらず降り続いている。家に帰るには、父を呼ぶしかなさそうだった。

またあの緑色の車で来るのかな。
彼女は思った。思い出すだけで溜息が出た。
父は地元の小さな会社に勤めていた。車は、会社から貸し与えられている物だった。緑の古くさい型のライトバン。運転席と助手席のドアには、目立つ白抜きの文字で『山下工務店』と大きくプリントしてあった。

どうしてうちは、もっとちゃんとした車を持ってないんだろう。
少女は思った。
別に、ポルシェとか、ベンツとまでは言わないから、普通の車がないんだろう。

少女が思い描く『普通の車』には、少なくとも山下工務店という文字はプリントされていなかった。シルバー、あるいは青や赤とといった色をしていて、後ろはベニヤ板の敷かれた広々とした貨物室ではなく、ちゃんとしたリアシートが入っているような車だった。

それぐらいのお金もないんだろうか、家って。少女は危惧した。
あたし、高校行けないんじゃないだろうか。
それはそれで良いような気がした。目前に迫った高校入試は彼女を悩ませる一番の代物だった。家にお金がないという理由で、高校受験をせずに済むのなら、それに越したことはなかった。私はただ、残念、哀れ、と言う顔をして、あくせくと勉強するみんなを眺めているだけでいい。
それはどんなに気楽だろう。彼女は思った。そうなればいいのに。

「...瀬戸内、...おい。」
隣のコウイチが話しかけてきた。何?と言う顔で彼女が振り向くと、コウイチは黙って前の方を指さしている。少女がその指さす方を見ると、そこにさっきまでいた先生の姿がなかった。
「...自習だってよ。何でだろうな、急に。他のクラスの先生方も、みんな出て行った。」
コウイチが不思議そうに言った。教室に取り残された生徒はみんな、一様にコウイチと同じような表情をしていた。何人かの生徒が、教室を出て、廊下に半身を乗りだして、外の様子をうかがっていた。
「どうしたんだ。」生徒の一人が隣のクラスの生徒に話しかけた。
「わかんねえ」その生徒が答えた。

自習と言ってもすることがなかったから、教室は事実上の無法地帯になった。みんなそれぞれにしたいことをしていた。トランプを始める者があり、誰かをからかい始める者もあり、隣の教室から乱入してくる者もいた。受験を控えているだけあって、大半の生徒は大人しく机に向かっていたが、それでも気持ちは上の空のようだった。みんなしきりに、面白そうな声を上げているグループを気にして、きょろきょろしていた。

少女は、そのようなグループに参加する気分にもなれず、かといって勉強など、毛頭する気になれなかったから、頬杖をついてぼんやりと雨の降る校庭を見ていた。長雨で校庭はすっかり沼地のようになっており、所々に深い水たまりが出来ていた。誰かがおもしろ半分に歩いたのか、しばらく誰も出ていないはずなのに、一列の足跡が付いていた。その足跡は校庭の真ん中まで行って、そこから同じ道を通って引き返していた。

「何見てんだ。」コウイチが再び話しかけてきた。
「...足跡。」彼女は答えた。
「足跡?」コウイチはおもしろがって、身を乗り出してきた。彼女に覆い被さるように校庭を眺めた。「お、ほんとだ、誰か出たんだな、この雨の中。」コウイチは言った。「でも途中で引き返したんだ。意外と根性無いやつだな。」
「...コウイチ、臭いよ。」少女は言った。
浩一は思わず身を引いた。
「お、わりい。」恥ずかしそうに笑った。「ちゃんと部室でシャワーを浴びたんだけどな。」
「その後、なんかスプレーでもしなかった?」少女は言った。「その匂いが臭いの。」
「...お前、こういう匂い嫌いなのか。」コウイチは自分の着ているシャツをつまんで匂いを嗅いだ。「別に普通の匂いだと思うけど。」
「普通だとは思うけど。」彼女は言った。「でも私は、そう言う人工的な匂いは全部嫌い。...なんかトイレの芳香剤の匂いみたい。」
「まあ、言われてみれば。」コウイチは言った。「トイレの物ほど匂いは強くない気がするけど。」
彼女は、依然として雨の降る校庭を見ていた。思えば、嫌いな物ばかりが増えてくるような気がした。お父さんも嫌いになり、雨も嫌いになり、勉強も嫌いになり、コウイチの体に付いた匂いも嫌いだった。いずれ私は、世の中の物みんな嫌いになってしまうのかも知れないと、彼女はぼんやり考えた。世界はどんどん狭くなる。彼女は思った。

「お前、どんな匂いなら好きなんだ。」コウイチが言った。
「...考えたこと無い。匂いの種類なんて。」彼女は答えた。
「変な女だな。」浩一が言った。「女子ってみんな、香水みたいな物に興味あるのかと思ってた。」
「人それぞれじゃない?」彼女は言った。「女子って、ひとまとめにしないで。」
「その言い方も嫌い、なのか。」コウイチは言った。「...お前、好きな物って何か無いのか?」

「べつにいいでしょう、私の好きな物なんて!」彼女は強い口調で言った。「...うざいよ。ほっといて。」
コウイチはそう言われると口をつぐんだ。しかし、悲しげな目で、少女の方を見ていた。
「何?」いらついた口調で少女は言った。「何じろじろみてんの?」
コウイチは俯いた。「お前、楽しいか。」
「何が?」少女はコウイチをにらみつけた。
「...生きてるのがさ。」コウイチは彼女の方を見ずに言った。
「お前みたいな性格だと、なんか、世の中みんな嫌いになって、そのうち自分も嫌いにならないか。」コウイチは何かに困ったように頭を掻いた。「そんなの楽しくないだろ。」
「何で、楽しい必要があるの?」少女が言った。「私の人生でしょう。つまらなくっても、それは、私の物だよ。コウイチに言われる筋合いなんか、ない。」
「...まあ、そうなんだけどよ。」コウイチは言った。「まあ、そうなんだけど...。」
コウイチはそれ以上何も言わなかった。彼女は苛立った気持ちのまま相変わらず雨の降る校庭を見ていた。世の中ってなんて面倒なんだろう。少女は思った。
人間が一人で生きて行けたら、気持ちはどんなに楽だろうか。
少女は山奥で自給自足する自らを思い描いた。畑があり、田があり、せせらぎがあり、広い大地と空があった。いくらか鶏も飼っており、ヤギが大きな声で鳴いていた。そこはとても気持ちの休まる土地ではあった。気に障る物は何もなかった。人間関係の煩わしさもそこには存在しないようだった。
こんな所に住めたらいいだろうな。彼女は空想しながら思った。面倒な物は何もない。

ただ、会話だけが足りなかった。

会話がなかったから、笑いもなかった。流す涙もなかったし、心を揺さぶる感動もなかった。
想像の中の彼女は、いつも穏やかな微笑みを浮かべてはいた。しかし、それ以上の感情は生じなかった。
ヤギに笑ってもしょうがないか。

少女は一人笑った。

「...お前、気持ち悪いな。」コウイチが言った。「何、一人でにやにやしてんだよ。」
「何であんたに教える必要があるの」少女は言った。「どんな顔しようと、私の勝手でしょう。」
「ああほんとに勝手だ。」コウイチはそっぽを向いた。
「お前みたいな勝手な奴、どうにでもなれ。」

「...怒ったの?」少女はコウイチの顔をのぞき込んだ。「怒ったの、コウイチ?」
コウイチは答えなかった。むっつりとふくれたまま、黙って前を見ていた。
「コウイチ?」少女は再び尋ねた。反応はなかった。「ねえ、コウイチ?」コウイチの前に身を乗り出した。前を見るコウイチの目を真っ直ぐにのぞき込んだ。コウイチの顔は真っ赤だった。小刻みに震えていた。彼は笑いをこらえているのだった。

突然コウイチが吹き出した。
「コウイチ?、コウイチ?」コウイチは少女の口まねを始めた。
「コウイチ?コウイチ?」
「うるさい!」少女は手元にあった消しゴムをコウイチに投げつけた。コウイチはそれでも身をよじらせて笑っていた。

「コウイチ?、コウイチ?」コウイチは尚も口まねを繰り返した。
「うるさいったら!」少女も顔を赤くしてコウイチの二の腕を二度三度となく叩いた。
コウイチはそれでも笑うことを止めない。
大きな声でげらげらと笑っている。

少女は顔を真っ赤にして、唇を突きだしていた。
自分自身の世界を見る目が、このときを境に少しずつ変わり始めたことを、
後に少女は知ることになる。

2008年6月18日水曜日

再会

女と再会したのは十数年ぶりだった。

男は女の横顔を見ながら、長い時の経過を思っていた。男の目に、女はひときわ美しく映った。男の知る女に見られた、少女の面影はすでになくなっていたが、以前までは目立たなかった女性らしい容姿と物腰が今の女には見受けられた。女は左手をアイスコーヒーの冷えたグラスに伸ばした。その薬指には銀の指輪が光っていた。
「久しぶりね。」女は言った。「...何年ぶりかしら、こうして二人過ごすのは。」
「さあ。」男は言った。
「おそらく、十年は過ぎてるね。」
ふっ、と女は笑った。「余り言わないでよ。歳を感じるから。」
「そんなことはないさ。」男は言った。「...君があんまり変わらないから、こっちは驚いていたくらいだよ。」
女は口元に手を添えて笑った。
「あなたこそ、変わらないわね。」女は言った。「いつも顔だけは真面目なんだから。...それが嘘か本当かは、相変わらず分からないけど。」
「僕はいつも、本気のつもりだが。」男は言った。
「あなたの本気は、あんまり本気すぎるのよ。正直すぎるのも嘘になるわ。」女は言った。
「よく分からない。」男は言った。「君の言うことは。」
「分からなくてもいい。」女は意地悪そうな笑みを浮かべた。「それも、あなたらしくて素敵よ。」

昼下がりのカフェには、彼らの他にも幾人かの客が思い思いの方法で余暇を過ごしていた。
新聞を広げて読んでいる者もあり、恋人と楽しげに談笑する者もあり、一人黙々とノートに何かを書き付けている者もいた。各々のテーブルは一つ一つが小さな世界のようで、その間を行き来する背の高い初老のウェイター以外、その世界に立ち入る者はいなかった。

彼と彼女はその中でまったくの偶然に出会った。彼女は電話をしていた。電話の向こうの相手と親しげに話すその声に、男は聞き覚えがあるものを感じて、そちらを振り向いたところ、女と目があった。女は口の動きで、ちょっと待って、と彼に伝えた。
彼は微笑んでそれに応じた。

「相変わらず、小説を書いているの?」女は尋ねた。
「ああ。」男は答えた。「僕にはこれしかないからね。」
「素敵ね。」女は言った。「一つのことに一生を捧げるなんて。」
「君はどうなんだい。」男は尋ねた。「作詩はものになったかい?」
「全然」女は答えた。「...詩を作るのは止めたわ。」
「なぜ。...あんなに良いセンスしてたのに。」男は驚いたように身を反らせた。
「まったく...。」女はあきれたように言った。「あの頃は褒めもしなかったくせに。」
「そうだったか。」男は笑った。「心の内で僕は君の才能を賞賛してたよ。」
「...嘘つき。」女は言った。「あなたが正直者なのか、ただの嘘つきなのか...、だから信じ切れなくなるのよ。」ふくれた面で小さく呟くように言った。「あなたの言葉なんて...、信じなくて正解だったわ。」
「それは残念だった。」男は言った。「僕の言葉は、届かないままか。」
女はその言葉に、ちらと男の表情をのぞき込んだが、男が特に表情を変えていないことを認めると、すぐにまた視線をそらした。
男は苦笑した。

「君は、変わらないな。」
「おかげさまで。」女は言った。「小じわも旦那も、なかったことにすれば、ですけど。」
「それでも君は変わらないさ。」男は言った。「...確かに、あの頃のままとは言わないが。」
女はその言葉に沈黙した。男も黙り込んだ。じっと何かを思い返しているようだった。
「...ねえ。」女が口を開いた。「ねえ...、あの頃..、あなたは私と、本当に結婚しても良いと思ってくれてた?」
「それは、僕が聞きたいくらいさ。」男は言った。「君の方こそ、どうなんだい?」
「それは...。」女は躊躇った。「それは...。」
男は笑った。「答えなくてもいい。...過ぎた話なんだから。」
「好きだったわ。私は。」女は言った。「あなたのことを。」
じゃあ、なぜ...。男の脳裏に、思わずこの疑問が浮かんだが、こらえて口に出さなかった。
その質問を口にするには、二人はまだ若かった。年齢的にやり直しがきくだけ、この話題に深く踏み込むのは危険だった。
「真っ直ぐすぎたのよ。」女は言った。「あなたの言葉は。」
それ以上何も言わなかった。
風が沿道に立つ銀杏の葉を揺らした。木漏れ日が、彼らの上で瞬いた。
二人の間に置かれた白い小さな丸テーブルの上には、すでに空になったアイスコーヒーのグラスが薄い紙製のコースターを敷かれた上に載っていた。氷に冷やされて、二つのグラスは結露していた。

お下げしましょうか。

いつの間にかテーブルの脇に立っていたウェイターが、彼らの顔をのぞき込んだ。
「ええ、お願いします。」男は言った。

「真っ直ぐすぎたのか。」ウェイターがグラスを持って立ち去った後、男が言った。「それは、勲章だな。俺にとっては。」
「傷を負ったのが、勲章なの?」女は言った。「...男の人って馬鹿ね。」
「要領よく生きるより、不器用に死にたい。」男が戯けた調子で言った。「...誰かの言葉だ。」
女は笑った。
「あなたの言葉でしょ。...あなたが、小説の主人公に言わせた言葉。」
「そうだったな。」男は笑った。その小説は彼がまだ大分若かった頃に書いたもので、彼の作品の中でも、批評家から酷評されたものだった。それでも、彼は満足していた。その作品は、彼の人生観をやむにやまれず書き綴ったものだったから。他人に通じるかどうかは、そもそも度外視していた。

「青かったな。」男は言った。「誰にも通じない言葉を、平気で書き捨てていた。」
「そうね。」女は言った。「でも、近くにいた人間には、十分通じたわ。」
女はテーブルの上に置いていた革の財布をハンドバッグに仕舞った。
「じゃあ、また会いましょう。」女は言った。
「いつになるかな。」男は言った。
「さあ。」女は笑った。「忘れた頃かな。...私とあなたが、恋人だった過去なんて。」
女はそう言うと、紅い鰐革のハンドバッグを手に取って、大通りをすたすたと歩いて行った。
その後ろ姿を、男はもの悲しい目で何時までも見送っていた。

2008年6月17日火曜日

ハツカネズミと人間

 男はネズミの脳を取り出そうとしていた。同僚の多くはすでに夏休みを取っていたため、研究室には男一人しかいなかった。
 雲一つない青空が窓から見えていた。もう、お盆だもんな。男は窓の外に陽光を浴びて眩しくきらめく、隣棟の白壁を見つめながら思った。ネズミは麻酔を掛けられ、解剖台の上にうつぶせに手足を固定されて、観念したように大人しくしていた。鼻先が小さくひくついている。その様子は、男の胸中にも些かの同情を呼び起こしたが、解剖する前に、どうしてもそのネズミの息の根を止める必要があった。男は解剖台の引き出しから注射筒を取り出した。そしてそれに致死量の薬剤を詰めた。
 
 恨むなよ。男は心の中でそうネズミに語りかけながら、注射筒に針を接続した。針先がネズミの腹の位置に近づくと、男の中で躊躇する心は急速に膨らんできた。いつもこうだった。この一針を注射する時の抵抗感は男の針先を小刻みに震わせた。抵抗感が限界まで膨らみ、血圧が上がるような感覚があって、やがてそれを突き抜ける頃には、針はネズミの腹内に達しているはずだった。

 しかしその日の男は違った。いつまでも針を刺すことが出来なかった。針は小刻みに震えたまま宙に留まっていた。しばらくそうした状況が続いたあと、男は、やがてぷつりと糸が切れたように、針を持った手を下ろした。大きな溜息が出た。「やっぱり向いてないのかな。」男は一人呟いた。


 男は父親だった。三歳になったばかりの男の子がいた。たどたどしいながらも親と会話ができるようになり、笑ったり泣いたり、感情表現もずいぶん豊かになった。先日は、どこで捕まえたのか、小さな芋虫を捕まえてきて、彼の書斎の机の上にはい、と言って置いていった。彼の妻はその後ろに立って息子の小さな背中を支えていたが、そのような悪さを仕組んだのは他ならぬ彼女であることは明らかだった。
 彼は芋虫が嫌いだった。幼い頃、近所の悪戯好きな少女に、首筋に虫を投げ込まれて以来、彼は徹底して虫が嫌いだった。そんな彼が気づいてみれば、あのときの少女のような、悪戯好きの女性を妻にしてしまっていた。しかも、妻は息子まで、彼女と同じ悪戯好きの人間に育て上げようとしているらしかった。裏の小さな畑で泥遊びや砂遊びをするのは日常茶飯事で、ミミズをたくさん捕まえて一つの箱に閉じこめ、彼の机の引き出しの中に入れていたこともあった。庭に出ていたら、突然二階から布団が落ちてきたこともあった。息子がネクタイを締めて、七三分けにされて、すっかり中年サラリーマンみたいになって、彼の部屋に入ってきたこともある。町外れの古い町営の借家で、彼女は毎日そうした悪戯を考えながらにやにやしていた。

その妻に昨日言われた。
「あなたの仕事って、やっぱり面白い?」
休日の昼下がり、退屈しのぎに一緒にテレビを見ていた時だった。彼女は息子のために、実家から送られてきたトウモロコシを芯から剥いていた。
「ああ...、楽しいさ。好きで選んだ仕事だもの。」男はそう答えた。食べ終わったトウモロコシの芯を寝転がったまま皿に戻した。
「前から思ってたけど、今はどんなお仕事をしているの。」妻は身を乗り出して聞いてきた。
男はその質問を意外に感じた。「何だい、今頃...、どうしたんだ、今まで聞いた事なんて無かったくせに。」
妻は笑った。「結局私には分からないんだろうけど...、でも知っておきたいのよ。分からないなりに、夫のしていることくらい。わたくしの夫様が、昼間のほとんどを費やしている仕事ですもの。」そう言って、また笑った。「それに...、」
「それに?」彼は尋ねた。
「最近、思うの。あの子を見ていると。新しい命ってすごいんだなあって。生まれた時はあんなに頼りなかった小さな命が、今ではああやって、自分の手足をぶんぶん振り回している。」
妻がそう言って見た先には、口の周りにアイスクリームをいっぱい付けた息子がいた。自分で口の周りを拭こうと思ったのか、箱の中のティッシュペーパーを上手に引き出そうと、ティッシュの箱と格闘していた。彼は何時しか目的を忘れたらしく、ティッシュを箱から出すことに熱中していた。おかげで周りは、引き出されたティッシュペーパーが白い雪のように舞っていた。
 彼は妻の方を見て、丸顔でニカニカと笑った。妻も笑って答えた。

「あなたの仕事も、生き物を扱う仕事でしょう?」妻は言った。「だったらきっと、私が感じる命の不思議や、神秘的な出来事に、あなたは毎日たくさん触れているんだろうなって思って。」
「まあ、それは...、」
「それもいい仕事よね。」妻は言った。「役に立つ立たないは別としても、誰もが気がつかないものと、大切に向き合えるから。」そう言って彼女はティッシュをまき散らして誇らしげにしている息子に駆け寄った。そして、積もったティッシュで真夏に雪合戦を始めた。息子はきゃっきゃと声を上げて逃げまどっていた。

男には言えなかった。
自分の仕事はネズミの脳を取り出す仕事であることを。
命の神秘だとか、不思議だとか、そんな物を考える以前に仕事に忙殺されていることを。
彼は自分の仕事の意義を、ちょうどその時、見失っていた。唯ひたすらネズミの脳を採り続けるだけの人間になっていた。


 研究室の片隅の窓辺に立ち、男はタバコを吸っている。解剖台にくくりつけられていたネズミは飼育箱に再び戻されていた。命拾いしてほっとしたのか、小さな前足を器用に使って毛繕いをしていた。
 彼はプロだった。その自負もあった。必要とあれば、無論ネズミも殺すことも厭わなかった。実際、これまでにも相当数のネズミをさばいてきた。しかし、飼育箱から解剖台に移すためにしっぽを掴まれたネズミが、恐怖の余り失禁して、硬直する姿を見るにつけ、彼は心を締め付けられるような思いがした。普段は大人しい実験用のネズミたちも、その時は決まって大きな声で鳴いた。
(俺の研究は、この小さな命を奪うに値する研究なのだろうか。)男はネズミを殺す度、そのような疑念を抱かざるを得なかった。この研究で、脳の機能の一端は分かるかも知れない。でも、大勢の人の命が特に救われるわけでもない。俺は結局、研究者として自分が生きていくために、このネズミたちを殺しているに過ぎないんじゃないか?
 彼はこの疑念を、もうずっと繰り返し考えていたが、その答えはなかなか出なかった。妻の顔を思い出した。悪戯をする時の息子の顔を思い出した。(俺が科学を志したのは...、)男は思った。(そもそも、ああいう悪戯心が発端だったんじゃないのか?)

 男は首筋に青虫を投げ入れた少女に連れられて、野山を駆けめぐった日々を思い返していた。少女の手はいつも泥だらけだった。そして、あちこち擦り切れていた。
 あの頃は自分の手も、同じような手だった気がした。
男は、改めて自分の手を見つめた。白魚のようにきれいな指が並んでいた。多くのネズミを手に掛けながらも、その手は傷一つ負っていなかった。男は自らの手を見つめながら苦笑した。そして灰皿で吸っていたタバコをもみ消した。