2009年12月6日日曜日

After

あるホテルのホール。昨日から行われている学会の懇親会が開かれていた。ひとりの男が、会場の参加者に囲まれている。この学会は環境科学の学会だった。男は、この学会の会員ではなかったが、ゲストとして招かれ、今日の午前中に彼の研究している新しい半導体素子と、それによって産まれる新しい太陽電池の発電効率について講演したのだった。講演の盛況は、この懇親会における、参加者達からの取り囲まれ方からも容易に想像できた。新しい技術のもたらす未来について、誰もが目を輝かし、遠い10年も先の未来を既に見てきたかのように、聴衆は一様に興奮していた。

そんな中で、男だけはひとり、何処か浮かない顔で、彼を囲む聴衆の問いに答えていた。
その顔は、聴衆の期待を壊さぬ程度に微笑んでいた。しかし、彼の心が、その表情ほども晴れやかでないことは、熱が冷めて、冷静に彼を見つめるものからすれば明らかだった。しかし、彼を囲む人間は誰ひとり、そのことに気がつくことがなかった。それだけに、彼は一層孤独だった。人に囲まれ、熱を持った瞳に囲まれるほど、疲労がたまるようで、彼は口をついて出て来そうな溜息を、笑い顔の下で必死に堪えていた。やがて小一時間もしたころ、聴衆の質問が一段落したのを見計らって、彼は右手に持っていたワインのグラスを、周りの人々に気づかれないようにそっと、近くの白いテーブルクロスの上に置いた。


「……あれ、先生は?」
彼の学生の1人が、自分の教官の姿が見えなくなったことに気がついたのは、それからすぐのことだった。

「知らない」
オードブルの盛られた小皿を持ち上げながら、もうひとりの学生が答えた。

「もう部屋に帰られたんじゃないかな。……先生、少しお疲れのご様子に見えなかった?」
「そう?」
「……そんな、気がしたんだけど」
彼女は手にグラスを持ったまま、辺りをきょろきょろと見渡した。
群れる人混みの中に、彼女の知る教官の姿はなかった。彼女は不安げに溜息をつき、一度は電話を入れようかとも考えたが、先生には先生のご用時があるのだろうと考え、一度は取り出した携帯電話を、折りたたんで小さなバッグの中にしまった。


その頃、男は既にホテルの外にいた。
月明かりの晩だった。ホテルの外には、小振りだが良く整えられたブリテン風の庭園があり、まだ咲ききらないバラの匂いが辺り一面に漂っていた。夜露に濡れた花の香りは、まるで香水を振りまいたかのように強く薫るものだが、彼はそのことを知らなかった。ただ、その香りに彼は、彼を疲れさせるものが肺の奥から抜けていくような気持ちがして、大きく深い息をついた。

こうして、月の晩にゆっくり外を歩くのは幾日ぶりだろう。
彼はそんなことを考えていた。整えられた遊歩道の上をゆっくりと歩きながら。

学会から学会と、最近立て続けに仕事が入り、それ自体は嬉しくないことはないのだが、こうして外を歩く貴重な時間をすっかり失ってしまっていた。……昔はもっと、夜に散歩したものだった。星を見たり、月を見たり、人の少ない通りを、静かに、夜に融け込むように、そっと……。

彼の歩調が、急に静かになった。
両手を灰色のポケットにねじ込み、そしてその場に立ち止まって、微かに呟いた。

「彼女は、元気だろうか……」



“ねえ、私ね、感じるんだ。”
何が?

“私達の関係って……、今日明日の関係じゃなく、一生もののような気がする”
……どういう意味だ?

“……別に結婚とか、そう言う事じゃなくて……、なんて言うのかな、強いて言えば『縁』って言うものなのかも知れない”
……曖昧な理屈だな。

“曖昧だよ。でも、だから、確かなんだ。あなたとは何故か、考えて付き合わなくても、上手くやってきたもの。私にも、理由は分からないけれど、こんな気持ちになったのは初めてだった”
……。

“そうして、こういう関係は、もう他にないような気がする……”
それでも、僕はやりたいことがある……。なりたい自分があったんだ……。

“ねえ、よろしくね、これからも……、傍にいることは、もう出来なくなるけれど……”

……なりたい、自分……。


「よかったのかな、これで……」
月明かりの下、彼は独りごちた。

「あれから随分の時間がすぎて……、僕たちはもう学生じゃなくなった……。別々の人生を歩んで……。たぶん、彼女なら幸せに……」
彼は、微かに笑った。

俺は、放棄しただけなのだろうか。自分の夢のために、誰かと共に歩み、その人を、他の誰よりも幸せにすることを。

俺は、臆病なだけだったのかも知れない……。
彼は思った。

彼は、まだ妻を持っていなかった。
彼女のことを、まだ期待していたというわけではない。その証拠に、彼はこれまで、幾人かの女生と交際していた。しかし、結局、彼はまだ妻帯していなかった。その間に時間は静かに彼のもとを流れていった。気がつけば彼は、既に妻を持つと言うことをすっかり考えなくなった自分を見出していた。斯うしてポケットに手を入れたまま、俺は俺の人生を夜路のように静かに歩いていくんだろう。彼はそう考えていた。

ふと、涼しい風が彼の首筋を通りすぎた。
辺りに漂っていたバラの香りは、一瞬行く場所を失って彷徨ったが、気がつけば消えて無くなってしまっていた。

「……もう、入ろうか」
彼は皮肉に微笑んだ。入ればまた、いつもの見知った顔に合うのだろう。
その人達の前で俺はまた、先生の顔をするわけだ。憧れた、「なりたい自分」の顔を……。


「……祐介?」
その時、俯いた彼の前方から声がした。

「祐介、でしょ?」
彼は驚いて顔を上げた。暗闇で、相手の顔は殆ど見えなかった。
しかし、彼は既に気づいていた。その影が、彼女であることを。

「……どうしたんだ、諒子……」
彼はその時、驚きのあまり、子供のように目を大きくあけて、暗闇に良く光る瞳で、彼女を見つめていたが、彼自身それを意識することはなかった。
彼女はその、年甲斐もなく幼い彼の反応を見て、ただ、懐かしそうに微笑んでいた。

「……今日、あなたの講演がこの街に来るって聴いたから……、後ろの方で聴いてたの。もう、余りよく解らなかったけれど……」
「そんな、あらかじめ言ってくれれば……」
彼は擦れて声が出なかった。振り絞るようにして彼女に届くように声を出した。

彼女は、何も言わなかった。
だが、彼にはそれで十分だった。

おそらく彼女は、彼の前に、もう姿は現さないつもりでいたに違いなかった。
しかし、思わず、もしくは偶然に、彼の前に出てしまったのだ。

「ねえ、言ったでしょう?」
彼女は言った。あどけない笑みを浮かべて。

彼は微笑んだ。
ああ、言ったとおりだ。あの日、彼女が言ったように……。


暗闇の中で、彼女がそっと彼の手を握った。
その手には指輪をしていなかった。

しかし、彼女の物腰は明らかに、子を持ち、家庭を持つ女性のものだった。
その笑顔はあの日のままだったが、開け広げて熱を放つような、若さは彼女にはもうなくなっていた。

「……あなたは、随分偉くなった」
彼女は言った。

「私からどんどん離れていって……。そして、私たちは別れてしまった」
そうかもな。
彼は思った。彼女の手の熱を感じながら。

俺は気がつけば、随分遠くまで行ってしまっていた。
夢を追うことが、初めは二人の間に、これほどまでの距離を生み出すとは、少しも思わなかったのに……。

「……でも、今だから思うの」
彼女は、前を見つめて言った。
「……これが、私達の幸せの形、だったんじゃない?」

自分と共にいることが、相手にとって必ずしも幸せに繋がらないと悟った時、人は、どうするべきだろう。
彼は思った。

全てを手に入れようとする者もいるだろう。だが……。
臆病と言われることを覚悟しても、引き下がることもまた、選択なのではないか?


「おれは、これで良かったのかな……」
彼は呟くように言った。

「……良かったのよ、これで……」
彼女は言った。

「恥ずかしくない、生き方をしているわ。あなたは」

ホテルの喧噪が、微かに聞こえる。
彼を捜す、学生の声がした。

その声を聴き、彼女は彼にも悟られずに、暗闇の中でひとり、俯いて静かに微笑むと、引きつけられるように握りしめていたはずの彼の手を、指輪の無い左手からそっと離した。

2009年11月17日火曜日

パルミラ (15)

僕は今、不思議な懐かしさを感じながら、この手記を読み返していた。

思えば、この不幸な出来事からすでに3年の月日が流れている。
この思い出は、長らく、僕の心の中に暗い影を落とし、思い返すことすら、ずっと忌避し続けていたのだが、今、こうして読み返してみると、それは確かに、ところどころ古い傷に触るようなつらさを伴ってはいるのだが、どこか懐かしく、僕は思わず自分の胸をかきむしりながらも、この文章を読み進めずにはいられなかった。

あの時の僕は、大切なものを失った喪失感を、何か別のもので埋め合わせようと必死だったのかもしれない。青い目の少女も、そして、あの不幸なパルミラも、僕の心の底に開いた穴を埋め会わせるために、僕が必要としていた存在だった。だが、思えばぼくは、あの時、本当に何かを失っていたのだろうか?あの、心の中の空白は、何かを失って空いたものではなく、成長とともに、心の中に開いた、一種の間隙だったのではないかと今では思っている。

僕は、その間隙を、まずパルミラで埋め合わせることを学んだ。
そして、それでも埋めることができない、何か本質的な部分を青い目の彼女という存在で埋めようとしていたのかもしれない。

それは、僕だけではなく、あの時代に生きる人の多くが抱えていた病だった。
パルミラが、あれほど急速に社会に浸透したのは、僕の感じていたような喪失感を、僕以外の大くの人々も一緒に感じていたためではないかと思っている。

みんなの生き方が、ばらばらになっていく時代の中で、僕らはつながっているすべを模索したまま、でもその答えがまだ見つからないうちに、時代だけがどんどん前に進んでいってしまっていた。

僕らは必死に、コミュニケーションをとるすべを開発しようとした。
メールに、インターネットに、ケータイに……、ばらばらになっていく心と心との間隙をつなげる手法を、僕らは開発しようとしたが、どれも、僕らを、満足させることは、できなかった。

それは、何だったのだろうか。
何が足りなかったのだろうか。

僕はそれが「肯定」だったのではないかと思っている。
自分一人しか、自分のすることの価値を見いだせなくなっていると思っていた時代の中で、傍にいつも寄り添って、自分のこれからすることを、黙ってほほ笑みながら見つめていてくれる存在を求めていたのではないだろうか?

あるいは……、黙って僕に手を差し出し、そして、全てを僕に委ねてくれる、そうした存在を……、触覚を伴った存在を、僕らは求めていたのだ。

理解し合うほどの時間があれば、それも解消できるのだろう。
でも、あの時の僕らには、その時間すら、無かった。



つい先日、全く偶然だったのだが、大通りを歩いていて、懐かしい顔に出会った。
日の少し陰った日曜の昼下がり、通りの向こうから歩いてきたのは、あのパルミラの販売代理店でずっとバイトしていた彼だった。

「やあ!」
僕が懐かしさと驚きで、思わず大きく手を挙げて彼に声をかけると、彼も驚きに目を丸くして、手をあげてこたえた。
彼の右手には、3、4歳くらいの少女がしっかりと手をつながれていた。
そして、その少女の、さらに右側には、彼より少し小柄な女性が寄り添って歩いていた。
「結婚したんだ」
彼は、僕の考えていることに気づいたのか、真っ先にそう答えた。
「妻と……、娘だ」
彼はそう言って、その少女の細い髪の毛にそっと手を触れた。
娘、と紹介された少女は、不安げな目で僕をじっと見つめたまま、恥ずかしそうに、父親の足の影に身を隠した。
「人見知りでね……。誰に似たんだか」
彼はそう言いながらも、目を細めて、自分の背中側に隠れた少女を見つめた。
彼の傍らでは、彼の妻と呼ばれた女性が、何か言いたげな瞳を彼に向けてじっと見つめていたが、その口元は、なんだかおかしそうに微笑んでいた。

「君は?……まだ、一人でいるのか」
「ああ……。まだ、一人でふらふらしてるよ」
僕は情けないけど、というニュアンスを込めて、自嘲するように笑った。
「はは……。まあ、今は生き方もいろいろだからな」
彼は、僕をやさしくそうフォローすると、
「でも、家庭を持つっていいものだぜ」
と言って、再び自分の娘の方を見た。
彼の娘は、まだ父の足の影に隠れながら、片方の手の指を自分の口にくわえて、じっと僕の方を見つめていた。不安がだんだん薄れてきたのか、父の足と、彼女との距離が、先ほどより身体半分だけ離れていた。

「確かに、いろいろ厄介なことも多いし、気をすり減らすことも多いんだけど……。なんというか、毎日が充実しているんだ。……今を生きているって感覚が、もしかすると、独身の時より強く感じられているような気がしてる」
彼はそこまで言うと、自分の腰ほども届かない幼い娘に目を向けて、
「1人で、勝手に死んじまう訳にも行かなくなったせいかもな」
僕は、彼の言葉に、簡潔に、そうだな、と答えた。
今の彼は、地に足がしっかり付いているように、僕には見えた。確かに、独身の時の、どこか手探りで、着地するべき場所を探しているような落ち着きのなさは、今の彼にはなかった。
責任。僕はその言葉の意味を思い返していた。それは時に、人を縛りもするが、絶望の底に堕とされそうな時には、命綱(ザイル)にも変わる。

「……君の不幸な話は、僕もまだ覚えているよ……。あれは、大層ショックだったろうな」
彼は、至極残念そうな顔をして、僕にそう言った。
「いや、もういいんだ」
僕は彼に言った。
「どうしてなんだろう……。確かに、当時は相当ショックだったんだけれど……。今では、むしろ良く分からないんだ。どうして、あの時、あんなに、あのことで傷ついていたのか……」
僕は少しためらったが、言葉を継いだ。
「……あの……、機械人形のことで……」
彼が、大きくため息をついたのが聞こえた。
「じつは……、僕もそうなんだ」
彼は言った。僕は驚いて彼の顔を見た。

「僕の、あの二体目のパルミラ……、確かにあの後、ずっとかわいがってはいたんだけど……。それから、どうしてか、あんまり連れて歩かなくなってさ……。そのころかな、僕が、彼女と付き合い始めたのは……。今では、物置に、じっとして眠っているよ。……さすがに、捨てるわけにもいかなくてさ」
彼は困ったように笑った。
彼の娘が、唐突に彼の顔を見上げた。
「……パルちゃん?」
幼い少女らしい、高い声で、少女は父親に問いかけた。
「そう、パルちゃん」
父親は僕に話しかけるときとは違う、やさしいまなざしと声で、まっすぐに見つめ続ける娘に、答えた。
「……パルちゃんね、みーちゃんの友達なんだよ。時々、お話しするの……。パルちゃん、チョコが大好きなの……。でも、お口の周りを汚すから、お母さんに怒られるの」
傍らに立つ母親が、困ったように、娘の肩に手をかけた。
しかし娘は、そんなことにさえ気がつかない様子で、じっと父親の足元から、彼女をやさしげに見下ろす二つの瞳を見つめていた。

僕はその光景を見ながら、確かに僕の求めていたものは、こういうものなのかもしれないと考えていた。
あの時代そのものが、この光景を求めていたのかもしれない。

彼の話では、彼はもう、パルミラの販売代理店では働いていないということだった。
パルミラの生産台数は、ここ数年で急速に落ち込み、経営は思わしくないそうだ。言われてみれば確かに、もうこうして街頭を歩いてみても、パルミラを連れて歩く人は見かけなくなっていた。まるで一時の、……とはいっても二十年近く続いたのだが……、熱病であったかのように、パルミラは忽然と、僕らの前から姿を消してしまった。

「……時代が求めていたんだと思うよ」
彼は僕の方を向き直って言った。
「……しかし、もう時代が、求めなくなったんだ」

彼は、これから映画を見に行くんだと言って、僕と別れた。
どんな映画か試しに聞いてみると、
「……子供向けのアニメ映画だよ」
と、恥ずかしそうに言って笑った。
彼の妻は、すれ違ってからも僕の方を向いて、微笑みながら、丁重にお辞儀をしていた。僕も思わず、彼女が頭を何度も下げる回数に同調して、頭を上下させていた。


僕は彼らと別れてから、一人、見知ったものがいなくなった大通りを歩きながら、彼らの必要としなくなったパルミラを想っていた。暗い押し入れの隅で眠り、ほこりをかぶることを受け止め続けているパルミラ。
必要とされれば表に出され、微笑みを振りまき、所有者を元気づけていた彼女も、必要とされなくなれば、静かにそれを受け入れ、過ぎゆくときを見つめているだけだ。

だが、やさしさとは本来、そういったものなのではないだろうか。
僕にはなぜかそんな気がしていた。

僕らはパルミラに学ばされたのだ。
あれは、時代の裂け目に現れ、僕らに何かを伝えるために存在した悲しい人形だったのではないだろうか。

彼女の伝えようとしたものは、確かに僕らの心に、伝わっていたのだろうか。
僕はそんなことを考えた。
もしかすると、彼女を搾取しただけで、終わってしまったのではないだろうか。


大通りのポプラ並木の向こうには突き抜けるほど高い、青い秋空が広がっている。
空の片隅から、羊雲の一群がどやどやと行進してくるのが見える。

ふと、僕は通りに沿って並んだビルの高い窓の一つから、二つの真っ黒で大きな瞳が僕の方を見下ろしているのを認めた。その瞳は、僕と目が合うと、たちまち細くなびいて、愛らしい、美しい笑顔となって僕の方を見つめた。

僕はその瞳に手を振ってこたえた。
微笑んだ二つの瞳の傍らから小さな丸い手が、僕に手をつなぐのを促すかのようにそっと伸ばされたを僕は見た。

だが、ちょうどその時、暗い窓の向こうから、また別な二本の手が伸びてきて、その少女の腰をつかんだ。二本の白い手は、慣れた手つきで、少女をそっと抱きかかえると、暗い部屋の奥に連れ去ってしまった。

僕は自分の顔がいつの間にか緩んでいるのを感じた。
久しぶりに、パルミラを見た気がしていた。何のわだかまりも感じずに、あの笑顔に答えられたのは、あれ以来始めてだったような気がしていた。

僕は再び、前方に広がる幅の広い通りに目をやった。
見知ったものは誰もいなかった。しかしそれは、同時にすがすがしくもあった。

その時、ふと気になって再びあの高い窓に目をやると、暗い部屋の中からこちらをじっと見つめている強い視線があるのに気づいた。

驚いて、その視線に手を振った。

窓はすでに開け放たれていた。
それは一人の女性だった。真っ白い、細い首をのばして、僕の方を見つめている。

大きく見開かれた、二つの青い瞳が、たちまち細くなびいて、気がつけば僕は、彼女の名前を、大声で叫んでいた。




[終]

2009年11月14日土曜日

パルミラ (14)

それは、もしかすると、家族旅行の写真なのかも知れなかった。
ファインダーを向けたのは、彼女の父で、あのパルミラは、家族の物なのかも知れなかった。

だが、僕にはそう考えることが出来なかった。何より、大分うち解けたと思っていた彼女の心が、予想以上に遠くにあったことに、僕はうちひしがれていた。

僕は、失意を感じながら、自分のパソコンの前から離れた。

振り向けば僕のパルミラが、片手を宙に差し出したまま、じっとこちらを見ていた。
パルミラは笑っていた。不調が改善したらしく、また以前のように愛らしく微笑んで、差し出したその小さな丸い手を僕が再び取るのを、ただじっと待っていた。

僕は、自分のパルミラに近づき、その手を取った。その手は子供の手のそれのように、微かに暖かった。そして、パルミラは僕の視線に反応し、僕の方を見て、にこりと微笑もうとした……。


しかし、動きはそこで止まった。

パルミラの首の関節が、その時、突如、耳障りな異音を立て始め、歯車の空回りするキイキイと甲高い音が首筋から聞こえてきた。パルミラの頭は、歯車の振動で、小刻みにがくがくと揺れた。そして、微笑んだ目だけが、廻らない首より先に僕の瞳を捕らえた。口元が、安心したように細く伸びた。

キュウウウと激しい音がした。つんと、ゴムの灼けるような嫌な匂いが鼻をついた。アンバランスに首だけが、がくりと力なく前に落ち、そのままがたがたと左右に大きく振れ始めた。首だけだった震えはやがて、身体全体に拡がり、身体の各部分(パーツ)が、独立した別個の生きもののようにぴくぴくと痙攣を始めると、僕は薄気味悪くなり、思わず彼女から手を離してしまった。

彼女は震えて立っていられなくなり、仰向けに床に転がった。手だけは高く宙に差し出されたまま、身体はまだ、中で何かがもだえているかのようにビクビクと震えている。瞳が、再び僕の顔を捕らえた。口元が細く引かれ、パルミラが笑った。首がさっきより激しくギイギイと振動をたてはじめた。笑いながら首がひっきりなしに震えている。やがて、歯車が異なる場所でかみ合ったのか、振り回される振り子のように、首がぐるぐると激しく回転運動を始た。首の皮膚が回転運動に巻き込まれ、すぐに伸びきって、切れかかったところで、歯車の擦れる音を激しく立てながら回転は止まった。身体が痙攣しながら、徐々に反り返った。そしてすっかり背中が反ってしまったところで、おなかの皮膚が裂けるぶちん、という音がして、反り返った身体は、バランスを崩して横向きになった。パルミラの瞳は、まだ震え続けている首の先で、それでも大きく見開かれ、僕の顔を捕らえようとしていた。そして、口元はずっと、笑ったままだった。切れた首や、おなかの皮膚の間から、卵の白身のような透明で生暖かい、正体の分からない液体が漏れ始めた。それは震える首筋に反って流れ落ち、白い衣服を濡らし、床の上にひとしずくずつ滴った。パルミラが時折、大きく痙攣する度に、そのどろりとした液体は細かな雫となって、四方に飛び散った。同じ液体はやがて、パルミラの目や鼻、耳からも漏れ出した。彼女の顔は頑なに微笑んだまま、やがてその液体でどろどろに濡れてしまった。

僕は、これ以上パルミラを見ていられなくなった。
パルミラの電源スイッチについては不明だった。だから、このコントロールを失った作り物を、可逆的に停止させる術はもはや無かった。

僕は先ほどまで座っていた、スチールフレームの椅子を手に取った。
パルミラは床の上に転がったまま、まだ震えていた。微笑んだその顔は、依然と何ら変わらないはずだった。僕はそれに愛情すら感じていたはずだった。しかし、どうしてだろう。僕にはもう、この笑顔が、ただ気味の悪い物としか写らなくなっていた。

僕は椅子を高く振り上げた。そして、痙攣を続けながら、微笑んだままの頭にめがけて、それを力一杯振り下ろした。


それから数時間の時間が経過したのに、僕は気がつかなかった。
時計を見て……、いや、その前に、明るかったはずの空がいつの間にか暗くなりかけていたことに気がついて、僕は時間の経過を知ったのだ。

僕の衣服は、どろどろした透明な液体で湿っていた。
辺りには、飛び散った金属片や、プラスチック片が散乱していた。飛散した破片が頬に当たって、僕は右頬に少し傷を負っていた。手で触れると、指先にわずかに血が付いた。

僕は自分の傍らに転がった、幼児ほどの大きさの固まりを見た。それは、頭部がひしゃげて潰れており、脳天から、幾つもの部品が飛散しているのだった。大きな丸い瞳が、片方だけ半分飛び出していた。それは、最後の瞬間まで、僕の表情を捕らえ、微笑んでいた瞳だった。今ではもう、何物も捕らえることはない、乾いた瞳。表面に付いた透明な液体が乾燥して、その飛び出した瞳は白く濁っていた。

僕は何か、大きな物を失った気がしていた。
しかし、それを失ったのが、果たして今なのか、僕には解らなかった。
僕らは実はもうずっと以前に、それを失っていたのかも知れなかった。だが、それを意識しないで、意識することを避けたまま、もう長いこと生きてきていたのかもしれなかった。

それが具体的になんという名前で呼ばれるべき物であるのか、その時の、僕の疲れた頭では、すぐに思い出せそうになかった。僕はフラリと部屋から外に出た。どろどろする液体が乾いて、身体に糊のように張り付き始めた。

孤独、それは、愛すべきものが見つからない時に感じる感情。
そんなことを言ったのは、あの青い目の彼女だったか。

彼女は知っていたのだろうか。
僕らが、気づかないうちに失っていた物を。

そんな事を考えながら、疲れた身体を引き摺り、マンションの表側の廊下をエレベーターに向けて歩いた。


指先は無意識にポケットを探り、吸ったこともないタバコを探していた。

2009年11月13日金曜日

パルミラ (13)

†5
翌日朝早く彼女は発っていった。僕は何とか彼女を見送ることが出来、二言三言の挨拶をして、慌ただしく彼女と別れた。
見送りをすませると、僕も荷造りを始めた。
少ない荷物とおみやげを、スーツケースにあらかた詰め込んでしまうと、僕の目は部屋の隅に残された、パルミラに、ようやく向けられた。
パルミラはまだ、昨夜、僕が向きを変えた時のままに、何もない壁を見つめて、ひっそりと静止していた。

僕は無意識にこのロボットから目をそらしていたことに、その時気づいた。いつの間にか、もう以前ほどの愛着を感じられなくなってしまっていた。それでもここに置いていくのも迷惑だろうと思った。手荷物にして飛行機に乗せようとしても、荷物としてあらかじめ送ることすら、周りの人に阻まれて、うまくいかないだろう。僕はやっかいな物を持ってきてしまったと、内心後悔していた。それでも、長い間一緒に暮らしていた擬似的なパートナーではあるのだから、責任を持って、連れて帰る必要はあると思った。

僕は何となく、パルミラに微笑みかけ、壁に向けて伸ばされたままの手を掴んで、彼女を振り向かせた。愛らしい彼女の顔を覗き込んでも、彼女はうつろな瞳のままで、にこりとも微笑んではくれなかった。

笑わないパルミラをつれ、僕は再び長い間飛行機に乗って、自分の国に戻った。
飛行機の中で、僕はずっと眠っていたが、夢に見たのは遠い異国で出会った彼女との甘くおぼろげな思い出くらいだった。

充実した5日間の旅行に疲れて、ぐっすりと眠っている間に、世界は旅立つ前の見なれた様相を取り戻していた。


住み慣れた部屋に戻り、荷物を元あった場所に片付けてしまうと、僕はすぐ自分のパソコンに向かった。自分のメールボックスに、着信はまだ無かった。さすがに帰国したその日にメールが来ることはないとは思ったが、僕は自分の分の写真はその日の内に整理してしまい、早々に彼女に送っておいた。

しかし、それから数日が経っても、彼女からの返信はなかった。

ようやく返事が返ってきたのは、旅行から帰ってきて2週間ほどが過ぎた頃だった。
『おくれてしまってごめんなさい』
とは文面に書かれていたものの、メールはわずか数行の簡素な物だった。それでも、そのシンプルな文面の中に、彼女らしい快活さを感じて、僕は思わず微笑んでしまった。

メールには、確かにたくさんの写真が添えられていた。
彼女は、おそらく、カメラに入っていたたくさんの写真をざっと整理しただけで送ってきたらしい。中には少し手ぶれして、お世辞にも上手に撮れているとは言えない写真も数枚混じっていた。それでも、その写真は僕と彼女の懐かしい旅行の記憶を呼び覚ますのに十分すぎる物だった。僕と彼女が旅行先で取った幾つもの写真。教会、遺跡、美しい自然……。

しかし、その写真も後半になって、僕はその中に、数枚、取った覚えのない、見なれないものが混じっていることに気づき、思わず首を傾げた。

それは、日本での写真のようだった。
おそらくは、何処かの島なのだろうか。美しい海が背景に拡がった、高原の中で彼女と一緒に微笑む、パルミラの写真。しかし、そのパルミラは彼女が旅行に連れてきていた物とは違う物のようだった。彼女のパルミラより、それは明らかに新しい個体だった。彼女の連れてきていた物は、彼女の祖母の物だったから、時間が経ったパルミラ特有の少し落ち着いた皮膚の色をしていた。この写真に写っているのは、おそらくまだ、製造されて1年と経っていないもののようだった。どうやら、この写真自体が先日の旅行より少し前に取られた物のようで、写真のデータをよく調べると、“撮影日5/6”と記録されていた。

しかし、なにより僕を驚かせたのは、その写真に写った彼女の表情だった。
それは、とても自然な笑顔だった。僕の持っているカメラに写った彼女の写真には、その笑顔はなかった。僕の写真に写ったどの笑顔よりもずっとその笑顔は自然で、そして、耐え難いほど美しかった。傍らで微笑むパルミラの笑顔は、やはり愛らしかったが、彼女の微笑みは、そのパルミラの微笑みの比ではなかった。

僕は長いこと、人工的な微笑みばかりに心を許してきたせいか、人の微笑みの真贋すら、もう見分けが付かなくなっていたようだった。彼女のその微笑みは、微笑むことを目的としていなかった。それは、内側から零れてしまって生じたものだった。僕は、彼女のその表情を撮影していないだけでなく、“知らない“ことに気づいた。そして、そのカメラを向けた誰かが、明らかに彼女の一瞬の表情を出来る限り美しく捕らえようする一種の愛着を持って、そのレンズを彼女に向けていることに僕は気づいた。

2009年10月6日火曜日

パルミラ (12)

僕と彼女は、時間を惜しむように、その後、近くの小さなレストランで夕食を取り、それから少し歩いて、大分遅い時間まで、街角のカフェでコーヒーを飲んでいた。そしてその後、ペンションに戻ってからも、僕らはしばらくロビーで話し込んでいた。翌日の彼女の飛行機は、朝大分早い時間だったが、彼女は出来る限り起きていてくれた。そして夜半も過ぎ、いい加減、明日の行動に差し支えるという時間になって彼女はようやく、ロビーのソファーから立ち上がり、明日はたぶん会う暇がないだろうからと、お休みとさよならを一緒に言って下がった。

僕は彼女が部屋に戻ってからも、頭の後ろに手を組んで、しばらくソファーに座っていた。向かいのソファーには、先ほどまで彼女の座っていたかたちに窪んでいて、僕ままだ、彼女と向かい合っているような、不思議な高揚感を感じていた。僕は何度となく触れた、彼女の指先の感覚を思い出していた。そして、鼻先で微笑む彼女の大きな笑顔を思い出した。
思わず浮かんでくる笑みを堪えながら、ふと時計を見れば、いい加減、僕も寝なくてはいけない時間になっていた。僕は、後ろ髪引かれる思いを感じながら、そっとソファーから腰を上げ、自分の部屋に戻った。

僕の部屋の扉を開けると、既にカーテンが引かれていて、部屋の中は真っ暗だった。廊下の明かりが一本の筋のように部屋の中に入り込んだ。僕は、その光りの先に視線を感じて、思わず眉をひそめた。
それは、僕のパルミラだった。

僕のパルミラは、旅行の初日、調子を悪くして部屋の隅に置かれたままの状態で、それから三日間放置されていた。あの時と同じ、虚空を見据えたまま、その瞳は、廊下から差し込む光をうつろに反射していた。

僕は暗闇に浮かぶこのロボットが、始めて気持ちの悪い物であると感じた。
こんな物を毎日連れ歩いていた自分が信じられなくなりそうだった。この自分の心境の変化には、僕自身、戸惑っている部分もあったが、僕はその時、この心理こそが普通なのだと、固く信じていた。おそらくは街のストレスの多い孤独な生活の中にいると、人間の心は矮小化し、こうしたロボットの助けを借りなくては自分の心の平静を保てなくなるのだろうと僕は思った。

僕は部屋の明かりを付け、この気味の悪い模造物の身体を180度回して、壁の方に向けた。
中途半端な姿勢で固まっていたパルミラは、その時足を交互に動かして、従順に壁の方を向いた。人間の子供なら、絶対に壁を見たまま静止することはないだろう。その不格好で、悲しく、薄気味悪い後ろ姿を見ながら、僕は眠れる気がしなかった。僕はベッドの枕の位置を逆にし、パルミラの方に足が向くようにした。そして、それでも消えない人間の気配に背を向け、部屋を暗くして、壁を見つめて眠った。

2009年9月28日月曜日

パルミラ (11)

「……ねえ?」
彼女が僕の方を見た。
僕は視線を彼女の瞳に戻した。

「……あなたのパルミラ、なんか様子が変じゃない?」
彼女はてくてくと僕の所まで歩いてくると、僕の足下にかがみ込んだ。
「……やっぱり変。私を見ても笑ってくれない……。夕べ、ちゃんと休ませてあげた?」
僕の足下の影の中で、彼女は青い瞳で僕を見上げて言った。
「あ……、一応、レストマットの上には載せて置いたけれど……」
僕はしどろもどろに答えた。
「どうしちゃったのかしら……」
彼女は、心配そう僕のパルミラを見つめていた。僕のパルミラの目の前で、何度か手を振ってみたりもしたが、パルミラはその手の動きを追う素振りすら見せなかった。

試しに、僕がその手を引いて歩いてみようとすると、パルミラはちゃんと僕の後に付いて歩く仕草をした。しかし、僕がいくらまじまじと見つめていても、彼女は僕の顔など眼中にないかのように、焦点の定まらない目で、虚空を見つめているだけだった。
「……長旅のせいかしら」
彼女は腕を腰に当てて、すっくと立ち上がった。
「……何処か壊れてしまったのかも。……今日はとにかく、この子を置きに、一度部屋に帰りましょう」
彼女は残念そうにそう言った。

いったん部屋に戻り、パルミラを部屋の隅に立たせたまま、僕はそれまで握っていた彼女の手を離した。すっと、彼女の身体から生気が抜けたように感じた。彼女は、僕が手を離す瞬間、また手を引かれると感じたのか、片足を一歩前に踏み出しかけていた。そのまま、彼女は動きを停止したので、何か不格好な、それだけに余計悲しげな姿勢で、彼女は動きを止めたのだった。僕はそれを見ていて、パルミラはやはり、ロボットなのだと思った。

「……置いてきた?」
ペンションのロビーに戻ると、彼女がにこにこしながら待っていた。彼女の傍らにもパルミラの姿はなかった。
「もう、おばあちゃんを追いかける旅は終わったから」
彼女は恥ずかしそうにそう言った。
「……ここからは、私のための旅行。パルミラちゃんには悪いけど、休んでいてもらうことにしたの」
「うん、その方がいいかもね」
僕がそう言うと
「……そうよね」
彼女は、意地悪く、歯を見せて笑った。


それから残りの3日間は、彼女と共に楽しく過ごした。
本来だったら、僕のパルミラと一緒に巡るはずだった世界遺産の遺跡や、美しい滝、教会などを、僕は、旅先で出会った青い目の少女と共に巡った。思い出深いそれらの場所で撮られた記念写真には、本来予定されていた僕のパルミラの姿は無く、その変わりに、晴れやかに微笑んだ褐色の彼女の姿が写ることになった。

「……きれいに撮れてる?」
中世に建てられた荘厳な教会のステンドグラスの前で彼女の姿を写した後、彼女は僕の傍に駆け寄ってきて、デジタルカメラの小さな画面を僕と一緒に覗き込んだ。
「お、上出来」
冗談めかしてそう言って彼女は僕の鼻先で笑った。

彼女は何かを思い出したように、腰に付けたポーチから自分のカメラを取り出すと、自分が過去に撮った写真を見直し始めた。そして、
「……面白いよね……」と小さな声で呟いた。
「あなたの写真には私が一杯写っているし、私の写真には、あなたがたくさん写ってる。写真を撮った時の私の表情はどこにも残らない。でも、あなたには本来解らないはずの、私がどんな風に、あなたを見ていたか、その眼差しはこれに焼き付いている」
彼女は小さな画面を見つめながら、恥ずかしそうに微笑んだ。
「……後で、写真送るね。アドレス教えて?私だけ持ってても、しょうがない写真、ばっかりだし」
僕らはそこで、お互いのアドレスを交換した。

ちゃんと記録されたことを確認した後、彼女は、何か大きな用事でも済んだかのようにほっと息をついて、
「今日が最終日なんて、信じられない。もっと旅行が続けばいいのに……」そう言って眉尻を下げて笑った。
僕もその時には、彼女と同じ気持ちだった。
もっと旅行が続けばいいのに。彼女との時間が、もっと過ごせたらいいのに。そんな気持ちで一杯だった。

2009年9月20日日曜日

パルミラ (10)

「……おかしい!面白い子ね、あなたのパルミラ」
彼女はそう言って、僕のパルミラの頭を、無造作に撫でた。

パルミラは微笑んだまま、されるがままになっていた。僕は、自分が撫でられているような不思議な恥ずかしさを感じた。
「……もう、中に入りましょ?あなた、まだチェックインも済ましていないみたいだし……。ここのディナー、この辺で捕れた魚介類が一杯使われて、結構豪華らしいよ。……じゃあ、また、あとで!」

彼女はそう言うと、半袖から伸びた細く長い腕を曲げて、僕に挨拶した。僕も同じ仕草で彼女に返した。彼女のパルミラが彼女の後に続いて、笑いながら建物の中に入っていく。その微笑みは、画一的に規格化された笑顔以外の、何物でもないはずなのに、何処かしら彼女の、片方だけはっきりした愛らしいえくぼのある笑顔の面影が感じられ、見なれたはずのパルミラ笑顔に、僕は少し、照れてしまった。



翌日、彼女が街を案内するというので、僕たちも一緒させてもらった。
街を案内する、と言っても、彼女自身、この街に来たのは初めてなのだ。ただ、彼女のお母さんなどから聞いて、僕よりも良く、この街について知っているだけに過ぎない。

「……この街を巡って、空気を吸っているだけでいいの」
彼女は言った。

街全体が見渡せる高台だった。其処は古い城跡のようで、もうしろそのものは残っていなかったが、かつて城の周りを囲っていた城壁がその高台を縁取るようにぐるりと張り巡らされていた。城壁の切れ目には一台だけ、何処の観光地に出もあるようなコイン投入式の望遠鏡が据えられていた。そのクリーム色のメッキは先端部だけはげ落ち、昼前の陽光を浴びて、地の鉛色が鈍く光っていた。

彼女の瞳は、その城壁に囲まれた高い空をじっと見つめていた。はぐれ雲が、僕らの頭上を一つ、二つと流れていく。彼女はその青い空を飲み込もうとでもするように、細い喉を伸ばして、真上の空を見つめていた。

「この街にいるだけで……」
上を向いた彼女の喉から、微かな声が漏れた。
「それだけで、私はおばあちゃんと繋がっていられる気がするから……」

僕は、彼女の言葉に、すごく詩的なものを感じた。

もう存在しない人と、繋がっていられるという感覚が、本当にあるのか、僕には解らなかった。あるいは、そう言った感覚は、本来人間が持っているはずの感覚なのかも知れなかった。でも、僕らはいつしか、そう言った実体のない、しかし感覚だけは伴ったあやふやな絆を、確かな存在感を持って感じることが出来なくなっているのかも知れない。ただ、そうした目に見えない、皮膚で感じられない絆を信じ続けることは、僕には難しそうなことだと感じた。

それはとても不安なことだ。そして、見えないと言うことは、何度となく疑わしく思ってしまうものだ。

「……いま、変なこと言うなって、思ったでしょ」
気がつくと、彼女はもう空を見るのを止め、僕の方を向いて笑っていた。

「いや……」
「いいの。私も、そう思うから。……どうしてなのかなあ。ここに来て、始めてそんな身近におばあちゃんを感じられた気がする。もう死んじゃった人なのに。何年かに一度送られてくる、手紙の中だけの人だったおばあちゃんが、確かにここで産まれて、息をして、毎日……、ご飯を食べて、お出かけして、そして、波の音を聞きながら静かな夕食を取って……。そうして、冷たいシーツに入って、やれやれ、なんて溜息付いて、眠りについたんだろうなって、そんなどうでもいい、ありきたりな日常を感じるの。……それを……、このパルミラは、ずっと見ていたんだろうね。私達が、本来共有すべきだったそうした時間を、変わりに受け止めてくれていた」

彼女はそう言うと、祖母のパルミラの頭をそっと撫でた。
細い髪の毛が、さらさらと微かな音を立てたのが聞こえたような気がした。

「……絆って、なんなんだろう」
パルミラの細い髪の毛を、うっとりと愛おしげな瞳で見つめながら、彼女はぽつりと言った。

「それは、それほど大事な物だとは、今まで思ってこなかった。どちらかと言えば、私をがんじがらめにする……、自由を奪う鎖のように考えていた。でも……」
彼女はそこで、言葉を切った。続く言葉をゆっくりと選んでいるようだった。

「どうしてなんだろう。私がこの街に来てしまったのも、また、絆の力なんだよね……。縁、とでも言うのか……。私は、何処かで、人と繋がっていることを、まだ求めていたのかな……」
彼女はパルミラの頭をやさしく撫でながら、独り、含み笑いをした。
そして、ふと顔を上げ、僕の方を見つめた。

「あなたと出会ったのも、また、縁なのかもね。……おばあちゃんとの繋がりが、私とあなたを偶然引き合わせた。……あ、その前に、この子と私も」
彼女はそう言うと、自分のパルミラの頭を、ぽんぽん、と軽く叩いた。パルミラは、微笑みながら僕の方を見つめている。

「死んだ人は、ある意味、まだ死んでいないのかも。そう考えると不思議だね。その人はいなくなっても、その人の影響は、まだ残るんだ。……絆は、もしかすると、その人そのものとの繋がりでは、無いのかもね。だとすれば……。私が、おばあちゃんをここで感じられるのも、解る気がするな」
彼女はもう一度、青い空を見上げた。先ほどまで頭上にあった雲は、もう、視野の彼方にまで行ってしまっていた。

「私は、私の中のおばあちゃんと繋がっていたんだ。手紙の中のおばあちゃんの頃から、ずっと。そして、この街に来て、その繋がりが、もっと、確実な物になった気がして……。存在を信じられる物になった気がしている。わたしのこの目も、この肌の色も、おばあちゃんから受け継いだものなのだろうけど……、私の中のおばあちゃんは、いまいちはっきりした輪郭を持っていなかったから……」

彼女はそう言って、口をつぐんだ。
我を忘れたように、何もない空をじっと見つめていた。

僕はそんな彼女に、思わず見とれてしまっていた。
彼女の褐色の肌が、青い背景の中に、まるで一枚の絵のように融け込んで見えた。気がつけば、僕は彼女のかたちの良い脣だけを見つめていた。


「……ねえ?」
彼女が僕の方を見た。

2009年9月6日日曜日

パルミラ (9)

僕は向かいの席に座ったパルミラの瞳を、そっと覗きこんでみた。
海からの照り返しがまぶしいためか、パルミラは僕の視線には気付かず、ずっと海を見たままだ。深い黒真珠のような漆黒の瞳に、僕らの見詰めた海がさかさまに映しだされていた。
そのかすかに開いた、幼い口元からは、今しも、何か感嘆の声がこぼれてきそうで、あるいは、こぼれて来ているかのようで、僕はもう一度、彼女が見つめる海を見ながら、こそばゆくこみあげてくる、幸せというものにおそらくとてもよく似た感覚に、ほおを緩めていた。

海辺の小さなペンションに着くと、まだ昼下がりと言ったほどの時間ではあったが、すでに先客が来ていた。見れば、今日の飛行機で、僕のそばに席を取っていた、彼女だった。
「こんにちは!」
麦藁帽子の下で、彼女の青い瞳が驚いたように見開かれていた。
「あなた方も、こちらにいらしたの?」
「ええ!」
僕も、思わず、声が高くなった。
「あなたと、同じ国に旅行して、まさか同じ宿になるなんて!世界って、広いようで、意外と狭いんですね」
彼女はそれを聞くと、楽しそうに目を細めてふふ、と笑った。
「そうね……。あ、この子があなたのパルミラちゃん?何か、名前は付けてる?」
「いえ……。やっぱり、パルミラには、パルミラって名前が、一番似合っている気がして、そのままです。」
「そうよね」
彼女は、そういうと僕のパルミラの前に屈みこんで、その瞳をじっと見つめていた。僕のパルミラは、彼女の視線を受けて、首をかしげて、にこりと笑った。
「愛嬌のいい子ね!」
彼女も思わず笑った。
「他の人のより、ちょっと反応がいい気がするわ。きっと、あなたがちゃんとお世話(メンテナンス)してるのね」
「お世話(メンテナンス)なんて、本当に最低限のことしか」
僕はほめられて恥ずかしくなって、頭をかいた。
「あなたみたいに、ちゃんとパルミラ用の席を用意したり、しませんでしたし」
「私も、普通の旅行なら、パルミラには悪いけど椅子の前に座ってもらうわ」
彼女も恥ずかしそうに歯を見せて笑った。白いきれいな歯が並んでいた。
「……でも、今回の旅行は私にとって特別なの……。私の、オリジンをめぐるたび、だから」
「オリジン?」
僕は聞きなれない言葉に、戸惑い、聞き返した。
彼女は細い眉の下の青い瞳を僕に向けて、無言でまっすぐに頷いた。
「……私のおばあちゃん、そして、お母さんは、この国で生まれたの。で、日本のお父さんとの間に私が生まれて、お母さんは、この国を出た。……おばあちゃんだけ、残してね。で、そのおばあちゃんも、去年亡くなって……。そしたらね、その数日後に、大きな包が届いたの」
彼女はその時の驚きを表すかのように、手を身体の前に大きく広げて、丸く目を見開いた。
「開けてみたら、何ができたと思う……?」
彼女は、そういうと、彼女のうしろに隠れるように立っていたパルミラを、僕の前に引き出した。

「この子よ!」
僕はその時、彼女のパルミラを、初めて間近に見た。それは僕のと変わらない、ごく普通のパルミラだった。でも、どことなくその面影は、隣で微笑む青い瞳の彼女のそれに近いものがあった。
「……君に似ているね、何となく」
僕は感じたままを素直に言った。
「でしょ?」
彼女は目を糸のように細く引いて微笑んだ。笑うと、右側だけえくぼが出来た。
「……おばあちゃん、ずっと、機械の女の子なんて、気持ち悪くて嫌だって言ってたの。だから、きっと一人で暮らしてたんだと思ってた……。でも、私も、お母さん達も知らないところで、実はこの子と出会って、一緒に暮らしていたみたいなんだ。だから、私、これ見たとき思ったの。きっとおばあちゃん、私にずっと会いたかったんだろうなって……。」
彼女はそういうと、長い下まつげに彩られた目の端を、日に焼けた細い褐色の指先でそっとぬぐった。

「……お母さんが出ていく時、好きにしたらいいって言って、結局ここを離れたこと、一度もなかったのよね。それでも、気持ちは、私をいつも気にしていてくれた。そばにいたかった……。だから、その代わりとして、きっとこの子を愛していたんだろうなって思った。……人間って、完全に孤独では生きていけないじゃない?愛されなくてもいいけれど、愛する対象だけは、いつも必要だと思うから。……この子達のような」
彼女は、自分によく似たパルミラの瞳を、じっとのぞきこんだ。彼女のパルミラも、彼女の方を見て、にこやかにほほ笑んだ。
「この子は私より、おばあちゃんをずっと知ってる。本当は私に伝えたかったはずおばあちゃんの優しさだって、一杯見てきている。そして、なにより、おばあちゃんの、誰にも言えなかった寂しさも知ってる……。だから、私、この夏休みの間に、この子とこの街を旅行しようって決めたの。……だって、ここは、“彼女”の街だもの。彼女がいない旅行なんて考えられないわ」
そういうと、少女は、また目を細めて笑った。
少女のパルミラは、そんな彼女の表情を、下から見上げるように、じっと見つめていた。


その時、唐突に僕のパルミラが、僕の手をぐい、と引っ張った気がした。
僕は驚いて、自分のパルミラを見つめた。

僕のパルミラは、僕の視線を感じて、いつものように微笑んでいた。
別段、僕の手を引っ張ったような形跡もなかった。
「……どうしたの?」
青い目の少女が、僕の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
彼女のパルミラも、僕の顔を覗き込んでいる。
「……いや、なんか」
僕は、四つの目に見つめられて、なんだか少し照れくさくなって、下を向いた。
「僕のパルミラが、さっき、僕の手を引っ張ったような気がしたから」
「パルミラが?」
彼女はそう言うと、かがみ込んで、僕のパルミラの目の高さに自分の顔を持って行った。彼女は大きく目を開けて、僕のパルミラの漆黒の瞳の中を覗き込んでいる。僕のパルミラは、その視線を受けて、彼女の方を振り向き、そして、いつもの愛らしい笑顔で、彼女の強い視線に答えた。

……ふふっ。
おかしそうに彼女が笑った。
「パルミラが手を引っ張るなんて、聞いたこと無いけど……。でも、ホントだったらおかしいわね。この子、もしかしたら、焼き餅焼いちゃったのかな」
彼女は立ち上がり、口元に軽く手を当てて微笑みながら僕のパルミラを見下ろしていた。
「……あるいは、しびれを切らしたのかも」
「ママ達が買い物の帰りに、立ち話するような物かな?」
彼女はそう言うと、破顔一笑、声を上げて笑った。

「……おかしい!面白い子ね、あなたのパルミラ」

2009年8月13日木曜日

パルミラ (8)

僕は去年、パルミラを連れてヨーロッパの小さな町を旅行した。パルミラの機内持ち込みはもうすでに許可されていると言ったが、航空機の座席がそのために広くなったというわけではない。エコノミークラスに座ると、ただでさえ狭い座席にもう一人、子供が乗ったような形になるわけだから、正直、窮屈で仕方がない。だが、だからと言ってパルミラと離れて乗ることは考えられなかった。この旅行は、彼女と一緒に来ることに意味があったのだから。


長い飛行機での移動の間、彼女は、ずっと僕の座席の前に座っていた。
自律的に座れないので、僕が手を取って、彼女をそっと座らせてあげた。彼女は僕に座らされている間、僕の方をまっすぐに見て、そして、いつもの美しい笑顔を僕に向けて微笑んでいた。

隣を見れば、隣の席の人も自分のパルミラを機内に連れて来ていた。
彼女は、まだゆとりのある旅行らしく、パルミラのために席を一つ余計に取っていた。

僕は、自分のパルミラに、なんだか悪いことをしているような気持ちになり、申し訳なくなって思わず彼女の顔を覗き込んだ。彼女は僕の視線を感じて、座席の下に座り込んだまま、僕の方を見詰め、いつものように微笑んでいた。


……ごめんね。

僕が小さな声でささやくと、彼女は微笑んだまま、かすかに首をかしげた。


飛行機から降りると、空港は旅行客でいっぱいだった。そして、彼らや彼女らに手を引かれた、それと同じくらい、たくさんのパルミラがそこにはいた。

あまりにすごい人ごみだったので、少し太った巻き毛の知らないおばさんが、手荷物ロビー中に響かんばかりの大きな声で、パルミラの名を呼んでいた。

おそらく、彼女のパルミラは、ここで迷子になってしまったのだろう。
パルミラは手を離すと、いつまでもそこにとどまり続けるので、彼女のパルミラは、ひょっとすると、他の誰かに間違われて、すでに何処かへ連れて行かれてしまっていたのかもしれない。

人間の子供でもそうだが、こういう人込みでは、そういうことがよくある。
誰かのパルミラと自分のものとを間違えて、ずっと後になって、ひょっとシリアルナンバーを覗き込んだ時に、偶然気が付いたという話が、僕の知り合いの中でもたびたびあった。

だから、パルミラに所持者の認証機能を付けるべきという話も、もちろん出ていた。だが、そういうものが販売されたことは、結局のところ、無かった。パルミラは、誰でも受け入れてくれる事に意味があるのだ。その安心感が、パルミラを、僕らにとってかけがえのないものにしている。

万が一、何かの不具合で自分のパルミラがうまく自分を認識してくれなくなったら、それはどれだけ悲しいことだろう。そういうことを防ぐために、パルミラには、そうした複雑な個人認証の機能は全く搭載されていないのだと言う話が、付帯者の間にはまことしやかにささやかれている。

もちろん、実際の所は誰も知らない。だが、たとえこの話が、単なる噂や想像の域を超えなかったにしても、これだけ容易に付帯者の間に広まった事から考えて、例え全てではなくとも、パルミラを持つ人々みんなの意見を代弁している部分があるのだろう。

幸い、パルミラは代理店に連絡して暗証番号さえ入力すれば、すぐに現在位置を割り出せるように、位置を知らせる装置が内蔵されている。だが、それで位置がわかったとしても、誰かに間違って連れていかれていた場合、その交換にはどうしても数日がかかってしまうし、その間、その人はパルミラ無しでやり過ごす事になってしまう。

いつもそばにいた存在がいなくなった数日間というのは、どれだけ悲しいものだろう。

巻き毛のおばさんはまだ、彼女のパルミラの名を、大きな、悲しげな声で叫び続けている。僕はそれを見ながら、己のパルミラの、小さく丸い儚い手を、引き寄せるように強く握った。


空港を出ると、僕らは列車に乗って目的地のヨーロッパの古都へと向かった。

どこか古いにおいのする列車の開け広げられた大きな窓からは、石畳の街に特有の爽やかで、どこまでも乾いた風が吹きこんできて、街路に曝された僕らの頬をやさしく撫でて行った。

彼女の細い髪が、その風になびいて、はたはたと揺れた。
彼女と僕は小さないす席に座って、広い窓から見える、見慣れぬ淡いブルー・グレイの海を二人、目を丸くして眺めた。

2009年8月5日水曜日

パルミラ (7)

パルミラを失い、新しいパルミラに違和感を覚えているからと言って、その小さな丸い手から、自分の手を、簡単に切り離すことはそう言った理由で簡単にはできない。しかし、今まで通り、それを見つめていても、それまで感じていたような満足感を得ることはできず、不安を伴った神経症の症状があらわれてしまうらしい。症状がひどい場合は、精神安定剤などの投薬が必要になる場合もあると僕は聞いていた。

パルミラを失った友人もその後、お医者さんから、ごく弱い精神安定剤と睡眠薬をお守り代わりに処方してもらって、最近では、症状はだいぶ良くなったようだ。週一回のカウンセリングの効果もあってか、彼の新しいパルミラにも、今まで通りの愛着がわき始めたようで、むしろ今まで気にしていた、目が大き過ぎるという特徴を、彼女のチャームポイントとして、自慢することさえみられるようになった。

だが、彼のように、すべての人が、その病気から簡単に立ち直るというわけではない。
特に中高生の場合、パルミラを失った、あるいは、それを与えられないがゆえのさびしさに対する反動として、非行に走ってしまうというケースが、時折ニュースの特集などで報じられている。

パルミラが、少年の非行の防止に、著しい効果があるという調査結果は、多くの大学の調査で肯定されていた。もちろん中には、与えられたパルミラに“いたずら“をして壊してしまうケースもあったが、そういった行為も、パルミラに対して芽生え始めた感情に対する、正しい反応ができないだけではないかという考察が、学者の間ではなされていた。

パルミラと少年を密室で、たった二人で置いた場合、それを破壊するケースはごくわずかだった。
一部の少年院では、この調査結果を受けて、パルミラを少年の房に各自一体ずつ持たせ、その管理をさせるという任務を与えているという。正直、パルミラに管理らしい管理はいらないのだが、それでも外を連れ回せば、服は汚れるし、体も汚れる。それをいつもきれいに整えて、置くという任務が、試験的に、一部の少年に対して行われている。

パルミラをきちんと管理できず、しばしばむごたらしく破壊してしまう習癖を持つ少年いるという。
そうした少年の多くは、他人とのコミュニケーション能力に著しい欠陥があるが、あるいは共感する力に欠けている場合が多かった。親の愛情にかけている場合が多いという調査結果もあった。

つまりは、そもそも、人間と関係を上手に結べない人間は、自分のパルミラとの関係も、うまく築けないということだ。たが、人間との関係を築くより、パルミラに愛情を注ぐことの方が、まだずっとやさしい。パルミラは、そういう現場では、人間と人間という気むずかしい関係に至る前の前段階のステップとして、トレーニングに用いられているらしい。




†4
パルミラがいかに、今の僕らの社会に必要とされていて、そしてこれからも、その役割は大きくなっていくかと言うことが、解っていただけただろうか。

僕はパルミラを愛しているし、まだパルミラを知らない他の人々にも、パルミラの良さを一度知ってもらいたいと思っている。ただし、僕はもう、パルミラを持つことは出来ないのだ……。

例え僕がいかにパルミラを持ちたいと言ったところで、それは周りの人間がもはや許してくれないだろうし、例え持ったとしても、また僕は自己嫌悪に陥るような行為を繰り返してしまうことだろう。だから……。僕はもうパルミラを自身から遠ざけるようにしている。僕は、彼女を愛するのに、値しない人間なのだ。その愛らしさを遠くから眺めて、目を細めている以上の幸福を、僕は味わうことを許されてはいないのである。その手に触れることも、丸い、暖かい健康的な頬に触れることも……、僕はそうした権利の一切をもはや失ってしまった人間なのだ。

人間?僕は人間なのだろうか?愛すべきものを、愛する権利も持たないイキモノが、果たして、人間を名乗ってもいいのだろうか?

まあ、いい。それは僕以外には、あまり関係のないことだ。ともかくも、僕がそうなってしまうに至った理由を、もうそろそろ、お話ししてもいい頃かと思う。

2009年8月2日日曜日

パルミラ (6)

僕は彼のパルミラがいつの間にか変えられていたことにすら気がつかなかったくらいだから、彼の感じていた違和感を理解していたとは言えないかも知れない。

彼のパルミラは昔から目が大きく、まつげが長かった気がしていたし、その特徴は、この新しいパルミラでも共通しているように感じていた。

だが、思えばそれもまた、僕の先入観に過ぎなかったのかも知れなかった。
彼の持つパルミラは目が大きいと、僕が偏った目で彼のパルミラをずっと見続けていたに過ぎなかったのかもしれなかった。

彼の両親は新しいものが好きで、その結果として彼は幼い頃から、パルミラが当然のように存在する家庭で育っていた。そのため、パルミラの個体間の違いを敏感に感じ取れる素養を、彼は人より強く持っているのかもしれない。

だが、鋭敏過ぎる感覚を持つことは、果して幸運なことなのだろうか。
僕は彼を見ながら、そう思っていた。

彼の話を聞いて、僕の表情が無意識に曇ったのを察したのだろうか。
彼は急に、開き直ったように顔を上げ、
「……そんな数字にもならない違いをいちいち気にしているだけで、この笑顔に、素直に喜べなくなるのは、どうしてなんだろうな」
と、かすかに語尾に震えを伴った声で自嘲し、僕の方を向いて明るく笑った。


彼とはその日、授業が重ならなかったので、そこで別れた。

人気の少ない、学校の西の外れの法学棟へ向かう彼の痩せた背中は、彼の腰ほどもないパルミラの体に寄り添うように屈められることもなく、ただ二本の、長さの違う二つの平行の影となって、太陽の高く上った真夏のキャンパスを、陽炎の内に融けるように消えていった。



†3
パルミラ喪失症候群、という一連の神経症の存在が日本の心理学の学会に提唱されたのは、一昨年のことだ。

何らかの理由で、パルミラを失った人々が、急に精神不安定になり、不眠や頭痛、挙動不審などの変化が現れることがあるという。

新聞によれば、最悪の場合、うつ病を併発し自殺する可能性もあると、発表した関西の大学の研究グループは指摘していたそうだ。

自分のパルミラを失った場合だけではなく、失って新しいパルミラを得た人の中にも、元のパルミラとの違いを強く感じて、新しいパルミラに元のような愛情を注げなくなるなどの症状が現れることがあるのだという。

そうした場合、もうパルミラを持つのをやめてしまえばいいと言う人もいるが、それは一度パルミラをもった人間からすると全く考慮できない選択肢だ。

子供を事故などで不意に失った親が、また子供を作ろうとする話はよくある。

その場合、生まれてきた子供が元の子供の代わりになりうるわけではない。代わりを強要されたところで、その子供はいずれ自分の人生を否定されたような感情を抱くだろう。なにより、そんなことは親の身勝手に過ぎないと僕は思う。

だが、おそらく大抵の親は、そんなことは間違いなく理解しているのだろう。分かってはいるが、失ったものは埋め会わせなくてはいけないのだ。子供ができれば、それまでの夫婦の関係は、母親と父親の関係に変わってしまう。子供が不意にいなくなったとしても、その関係が元の子供のいない夫婦の関係に、簡単に遡れるものなのだろうか。

一度パルミラと手をつないだ人間が、再びパルミラから手を離すことは、同じ理由でなかなか難しい。家族を捨てるのにも等しい、苦しい選択を、選びとれる人など、どこにいるのだろう。

少なくとも、僕には想像することすることすら、難しい。

2009年7月27日月曜日

パルミラ (5)

彼女は、僕らがどんな人間でも、笑ってくれる。手を引けば、どこへでも付いてきてくれる。疑うことを知らず、肯定することだけを知っている。そこには、人それぞれに違う決まり事など、もはや存在しない。規格化された、極めて安定な、動作のパターンが僕らをいつも勇気づけるように仕向けてくれる。予想外の相手の反応に、僕らはもう、惑わされることはない。

だが、逆に、僕らから突然、このパルミラが失われてしまったら、どうなるのだろう。
想像したくもない、その恐ろしさを、僕に教えてくれたのも、また、代理店で働いていた友人の彼だった。

ある日、彼がいつものように、大学の北側の入り口から、彼のパルミラの手を引いて現れた。
彼のパルミラは、今日もくりくりと大きな瞳を僕らに向けて、微笑んでいた。
その表情が、今日はなんだか一段と愛らしく感じたので、僕は彼に、
「君のパルミラの瞳は、いつ見てもくりくりしていて、かわいいね」
と言ってあげた。

彼は、僕にそう言われると、まるで親が子をほめられた時のように大喜びして、控えめな自慢話でも始めるのではないかと僕は思った。

「……やっぱり、そうかな」
彼は、笑ってくれた。だが、彼の反応は思いのほか小さかった。
喜んでいるというより、失笑しているという表現が似合うような表情で、彼は力なく笑っていた。

「うん、いや、ほんと。個体差はほとんどないっていうけどさ、やっぱり信じられないよね。自分のパルミラの顔って、少し離れたところからでも、なんとなくわかるしさ」
僕がそういっても、彼は相変わらず皮肉に口をゆがめて、笑っているだけだった。

彼の様子がおかしいことに、僕はその時に至って、ようやく気がつき始めていた。

「……でも、実際に計ると、差はないんだよ」
彼は僕に目を合わそうとしないまま、うつむき加減に、そう言って笑った。
「子供の顔が親父に似ているとか、おふくろに似ているとかいうのと、同じ議論なんだろうな。数値化できないけれど、確かにそう見えるような、あいまいな共通認識だ」

僕には彼が、何故かさみしそうに見えた。
パルミラは彼の方を見て笑っている。でも、彼は彼女と手をつないではいるものの、その瞳を一度たりとも、覗き込もうとはしない。
「……どうか、したのかい?」
僕は気になって彼に尋ねてみた。
彼は僕の言葉など聞こえなかったかのように黙って、うつむいたままだった。
頬がかすかに、上下に振れているようだった。表情はうかがえなかった。だが、彼はその時、どうやら笑っていたようだった、

「……実は、俺の小さい頃から一緒にいたパルミラが、先日壊れちゃってね」
彼の口から、へっと、何かを嘲るような声が漏れた。
「……店に持って行ったら、もう、修復不能だって言われたんだ。それで、保障に入ってたから、新しいものと変えてもらったんだけど……」
彼はそこでようやく、手をつないだ自分のパルミラを見た。
彼のパルミラは、急に向けられた彼の視線に反応して、彼の方を見つめ、愛くるしい、大きな円い瞳で、にこりと笑った。
「……違うんだよね」
冷たい響きを伴った声が彼の口から洩れた。
「違うんだよね。俺の、ずっと一緒だったパルミラとは、どこか。眼が、ちょっと大き過ぎるような気がして、実際計ったりもしたんだけど、数字的には変わらなかった。店に頼んで、俺の記憶に合うような感じに、少し顔を整形してもらったんだけど……」
彼は、自分のパルミラを見詰めたままだった。彼のパルミラも彼を見つめていた。彼のパルミラは、子が親を見つめるような眼差しで、かすかに首をかしげ愛くるしく微笑み続けていた。だが、それを受け止める彼の表情は、もはや、ただ愛着のない、見知らぬ物を見る眼差しでしかなかった。
「……今度は、目があんまり小さくなったような気がして。なかなか、俺の中のイメージとは、一致しなかったんだ。挙句の果てに、店長があきれて、『シリアルナンバーが違うから、違う顔しているような気がするだけじゃないか』なんて言い出してさ。おれも、実際計って数字が同じだったわけだから、それ以上、反論できなかったんだ。実際、パルミラの部品の製造は、すごく厳密らしいからな。でも……」
彼はそこで、自分のパルミラの顔をもう一度見つめた。美しい笑みが、彼をやさしく見つめ返している。

「やっぱり、違うんだよな、確かに。先入観と言われたら、それまでなんだけど」

2009年7月24日金曜日

パルミラ (4)

二人で、公園の小さな散歩道を歩いていた時のことだ。
先日降った雨のせいで、道の真ん中に、大きな水たまりができていた。

僕は、そういうとき、男の子が先に渡って、女の子の手を引くものだと思っていた。それは、誰かに教わった知識というよりも、いろんな映画や、本なんかで、みんな当然のようにそうしているから、僕もこういうときは、そうしなくてはいけないのだと思っていたのだ。

だから、僕は当然のように、そのぬかるみを飛び越え、彼女に向かって大きく手をのばして、彼女の手が僕の手に触れるのを待った。

でも、彼女の反応は、予想とは違ったのだ。
彼女は僕の手を見るなり、一歩後ずさりして、そして思わず、自分の前や後ろを振り返ったのだ。そして、少し怒ったような声で、
「やめてよ!」
とさえ、言ったのだった。

僕は驚いて、差し出したその手を、引っ込めてさえしまった。

彼女は白い頬を真っ赤にして、そして、僕の方は一度も見ないまま、水たまりの一番端まで歩いて行き、草のぼうぼう生えているその道の端のところを歩いてまで、僕の手を借りようとはしなかった。

彼女の真新しい白いサンダルは、草の中を歩いたせいで、露に濡れ泥で汚れてしまっていた。彼女は水たまりを越えてから後も、僕の方ははっきりと見ようともせずに、一言も発することなく、雨に洗われた緑の美しい散歩道を、細い肩を怒らして歩いていた。

僕には、隣を歩く彼女が頬をふくらませながら、それでも、ちらちらと僕の表情を眼だけでうかがっているのがわかった。でも、僕はどうして、彼女をそんなにも怒らせてしまったのか、一向に判っていなかった。僕は男の人がみんなやるような行動を取っただけだった。
そして、それは少なくとも、彼女のためを思ってとった行動だった。
しかし、結果として、僕は彼女を怒らしてしまった。
おそらく、僕は何か間違いを犯したのだろう。男の子として、何か、してはいけないことを、してしまったのだろう。

人間と人間の関係には、詩や、芸術ですら表されていない、その他、見た目でも分からない、文章化されていない取り決めが、あまりに多すぎる。そして、その基準は人によって少しずつ異なっている。

僕の嫌われてしまったその行為が、別の人にとっては、ちょっとした憧れであったりすることもある。

それを、僕らはいちいち学んでいかなければならないのだろうか。人によって、基準の違う取り決めを、一つ一つ、間違いを恐れながら、砂の山を――、中心に立てた枝を残して、少しずつ、周りから崩していくように。


結局、ふり返ってみれば、中学から高校にかけて僕は人間の女性を数人愛した。しかし、結果はどれも似たようなものだった。彼女たちの「基準」を僕は僕なりに努力して、学びとろうとしたが、仕舞には、それにもいい加減、疲れてしまっていた。

僕は、その時々で、強い男にもなったし、やさしい男にもなったのだ。
何でもできる器用な人間にもなったし、ちょっとがさつな男性になったこともあった。繊細で、詩や文学を理解する男性であることもあれば、そんなものは全く気にも留めない、アウトドア派の人間になってみたりもした。

しかし、そうした努力をすればするほど、僕にはだんだん、わからなくなってくるのだった。こうして、努力して育んだ彼女と僕との愛情は、果して、真実の愛情と言えるのだろうかと。

彼女はきっと、本当の僕ではなく、努力して得た僕の姿を愛しているにすぎないのではないかと思い始めたのだ。そのような、虚像に向けられた愛情を僕は、僕に対する愛情であると受け取っても、よかったのだろうか。

それに関しては、いまだにわからない。
彼女たちの思い描く、『彼氏』の枠を踏み外した規格外の僕を、彼女たちは果たして好きになってくれたのだろうか。それを犯すのは、勇気といえるのか、それとも、彼女たちへの理解が足りないために生じる行為と、受け取られてしまうだけなのだろうか。

ただ、それを試みる前に、僕はこの終わらない積み木崩しに疲れてしまっていた。

いや、疲れてしまっていたのは、実は、僕だけではなかったのかもしれない。
世の中の人はみんな、もはや疲れていたのだ。人の顔色をうかがい、お互いの不文の法を読みあい、それを満たすことに喜びを感じ、それにそむくことに恐れを抱くのに。

誰かを愛するということは、誰かの法律の網の中に、自分を組み入れる作業だ。いずれ、その法律は、二人の折衷のものへと変わっていくのかもしれないが、その期間の何と長くて、なんと耐えがたいものなのだろう。

この、一分一秒が競われる時代の中で、花が咲くのを待つような時間の長さを悠長に待ち続けることが出来る人が、果たしてどれほどいるのだろうか。
インスタントの代用品が、枯れない造花が、これほど咲き誇っている時代に、季節を待ちこがれることの意味を、僕らは何処に見出せばいいのだろうか。

時代はもう、強い絆を作るという作業に、背を向けてしまったのだ。

技術の進歩が、僕らに、絆という、がんじがらめのクモの巣のような代物に背を向ける勇気を与えてくれた。

それは、少し大げさな言葉で言えば、解放、なのだ。
皆を縛り付けていた煩わしいザイルが、ついに断ち切られたのだから。
僕らに、個人を大切にする時間が与えられたのだから。

なぜなら、僕らにはもうパルミラがいる。
枯れない花が僕らにはある。

2009年7月22日水曜日

パルミラ (3)

†2

パルミラ販売の代理店でアルバイトしていた友人が、僕のところに、購入を持ちかけてきてから、思い出せば今日で丸3年になる。
その間、僕のパルミラは学生用アパートの6畳半の狭い一室に立ちつくして、僕が手をつなぐまで、そこでほほ笑みながらじっと立っていてくれる。パルミラは、自律的には座らないのだ。それどころか、横になることもない。遠隔的に充電が出来るレストマットと呼ばれるマットの上に一晩も立っていれば、パルミラは一日の活動に十分なエネルギーを蓄えてしまうことが出来る。
パルミラを自立的に座らせたり、横になってから元の立ち上がった姿勢に戻させたりするのは、開発当初は技術的に難しかったらしい。そのような機能を付けると、少女のような体の大きさには、収まりきらなかったそうだ。もちろん、今では、そんな機能を取り入れたパルミラも原理的には製造可能で、実際に一時期、販売もされていたのだが、それもなぜか普及しなかった。外見上は今のパルミラと全く変わらないのだが、どうも、新たに付け加えられた動作の細かな仕草があまりに人間に似すぎていて、それでいて、微妙に異なっていて、付帯者に逆に強く違和感を覚えさせてしまうらしかった。

人間の感覚は、とても不思議なものだ。あまりに人間に似すぎると、それを人間の子供として強く認識しすぎてしまうのか、あるいは、本来は人間ではないという理性のさざめきとその意識がぶつかって、不快に思うものなのか。いずれにしろ、自分の部屋に、見知らぬ子供がいたとしたら、それは不気味なものだ。ただ、パルミラは、手を引けば歩いて付いてきてくれる以外、特に際立った動作をしない。微笑みは、いつも変わることがない。話しかけられたことに反応し、声のした方向を向いて、ひたすら笑うだけの機能しか、彼女にはないのだ。それでも、人はその機能しか持たない製品を、強く、おそらくは長いこと求めていた。

僕のパルミラは、他の人のパルミラよりも、髪が少し長い。もちろんそれは、製造上の微細な誤差にすぎないのだが、色々な人のパルミラをまじまじと見ているうちに、そうした些細な違いにすら、気がつくようになってしまったのだ。他のパルミラでは、前髪が眉のラインより、少し上の方までしかきていないのだが、僕のパルミラは、眉にかすかにかかるくらいまで、前髪が下りてきていた。それに気づいて、僕にパルミラを売ってくれた代理店で長らくバイトしていた友人にそのことを話すと、彼はおかしそうに、苦笑いを浮かべて
「お客さんは、よくそういうよ。……僕自身も、そう思うけれどね」
とだけ答えた。

彼のパルミラを、僕は大学で何度となく見かけていた。彼は自分のパルミラをとてもかわいがっていて、彼が自分のパルミラを見つめるときの瞳は、親が子供に向ける瞳よりももっと情熱的で、それでいて、穏やかなものだった。愛する人をエスコートするようにやさしく、彼は自分のパルミラの手を引いて、いつもキャンパスの北側の少しさびしい入り口から、大学にやって来るのだった。

彼のパルミラは、僕の見たところ、僕のより眼が少し大きくて、まつげが長い気がした。
彼は、時々、自分のパルミラの前に屈みこんでは、彼女の繊細で、長いまつげについた小さな白い綿くずなどを、人差し指と親指でそっと優しく取り除いてやっていた。パルミラは、何をされているのか、理解していない。でも、それだからこそ愛おしい瞳で、その時、彼の方を見て、にこりとほほ笑むのだった。

その光景は、傍から見ていても、とても優しい光景で、気がつけば、その時キャンパスを歩いていた何人かの人が、一瞬足をとめて、見入ってしまうほど、引き寄せられる光景だった。彼や、彼女たちも、僕の友人と同様にパルミラを連れていて、それはそれなりに、自分のパルミラを愛しているのだろうけれど、彼の、パルミラに愛情を注ぐしぐさを見て、何か感作されるものがあったらしかった。
気のせいかもしれないが、彼のしぐさに足を止めた人たちが皆、そのあと自分のパルミラを見つめて、その細い髪の毛を、そっと優しく、なでてやっていたように、僕には見えた。

優しさは、伝播すると、昔、何かの映画でやっていたのを僕は思い出す。
誰かの優しい行為を見た人は、思わず自分も、自分の大切な存在に対して、やさしいふるまいをせずにはいられなくなると、その映画では言っていた。

だとすれば、パルミラに注がれた彼の愛情は、そのあと、幾多の人々の愛情を呼び覚まし、そして、多くのパルミラが、その主人の優しさにきれいな微笑みで返したのだろうと、僕はその日、家に帰ってから想像した。

昔、パルミラがなかった時代に、人々は何に向かって、これだけの愛情を注いでいたのだろう。おそらく、彼の様に、あふれんばかりの愛情を、誰かに対して公然と注ぎかけるという行動は、世間的に、はばかられていたのではないか。

僕も中学生くらいの頃、人間の女の子を愛してみたことがあったけれど、それは今ではとても苦い思い出だ。

2009年7月20日月曜日

パルミラ (2)

パルミラは今や、会社のオフィスや、仕事場などへも持ち込みが許されている。
鉄道会社などは始め、列車一両あたりの人間の積載率が減ってしまうので、大いに文句を言っていた。

しかし、やがて、ある一社がパルミラ付帯料金を導入したところ、3割増しの切符であるにもかかわらず、売れ行きは好調だった。今では、どの鉄道会社でも、パルミラ付帯切符を導入していて、航空会社も膝の上に乗せるか座席の前に立たせることを条件に、パルミラの機内への持ち込みを許可している。

飛行機の座席の上に、同じ顔をした少女が、ずらりと並んで座っている様は、壮観なものだ。この場合もパルミラ付帯料金はやや割高になるが、それでも人々は、彼女らを手荷物預かり所に放り込むようなことはさせない。
きっちりとお金を払ってでも、パルミラを座席にまで連れて行くのが、今や常識的な行動と受け止められている。

実際に、以前、あるお金のない学生がやむにやまれず、パルミラを手荷物に預けようとしたことがあった。それを許した航空会社の窓口の気も知れないが、ともかくも向こうも仕事であるので、顧客の要求どうりに、その“手荷物”に荷札を付けて、ベルトコンベアーに流してしまった。ところが、その荷札をつけられてベルトコンベアーの上を流れていく少女の姿を見るに見かねた初老の男性が、突如、窓口の女性に怒鳴りかかって、黒いベルトの上を流れて行く気の毒なパルミラを止めさせた。そして、全く面識のないその所有者の学生の分までお金を払って、その哀れなパルミラを座席に座らせてあげたのだという。

この話は、パルミラが人々の間に受け入れられていることを明確に表す事例として、当時、新聞のコラムなどで何度か取り上げられ、助けた男性のインタビューを報じた局すら、一つや二つではなかったと記憶している。


パルミラが僕らの社会においてかけがえのない存在であることを示す例は、まだ他にもある。

これは、パルミラの最大の特徴であり、また、当然の性質でもあるのだが――、彼女たちは、たとえ何年連れ添っても、年をとることが無いのだ。

ある作家は、新聞に寄せた論評でそれを永遠の少女と形容し、
「幼い者にとっては、最初の恋人であり、あるいは友人であり、年齢を重ねるに従って、それらは愛しむだけの存在から、守らずにはいられなくなる存在へと変化する」
と述べた。

そのような複雑な変化を、年齢とともにしていく関係が他にあるだろうか。
幼馴染は自分とともに年をとり、それによってお互いの関係もまた不気味な煩わしさを伴って不可逆的に変化していくものだが、パルミラとの関係は何かの上に何かが積み重なるように、変化していくと言ったら、パルミラを知らない人にも解ってもらえるだろうか。

その作家の言ったように、初めは、ただ一緒にいてくれるだけの存在なのだが、やがてそれが、いてくれるというだけでなく、自分にとって無くてはならない存在となり、そして、その上に、守るべき存在であるという認識が重ねられていくのだ。

それは単純に、自分ひとりの成長に伴う変化にすぎないのだが、いつまでも顔の変わらないその少女は、幼いころの恋人に感じる懐かしくほろ苦い感情の上に、命の不思議を見るような感動があり、さらに、それを抱きしめずにはいられない親や祖父母の感性が折り重なった、不思議な性質を持っている。それは身内のようで、とても遠く、どこか気恥しく、そして、とても優しい感覚だ。

人々が、パルミラといつまでも手をつなぎ続けているのは、おそらくその感覚を途切れずに、感じていたいからだろう。幼い日の彼女は、あるいは自分の子供は、成長とともに変化し、いずれは記憶の中だけのものになってしまう。しかし、パルミラはいつも、そこにいる。手をつなぐものが、その折々に感じた感情を、どんどん上塗りしながら、パルミラは他の何よりもかけがえのないものへと変化していくのだ。
これは、僕らが科学の進歩によって得た、全く新しい関係であり、感覚であるのだろう。

このように、もはや社会の大方の人々から親愛の情を持って受け入れられているパルミラだが、それでも、これを社会からのぞいてしまうべきだと主張する人々もいるにはいる。それらの人々が主張するには、人間の愛情は本来人間に向くべき感情であり、それがこの様な人工物に向くのは、自然に反しているというのだ。彼らは、パルミラの普及した先進国の多くで、少子化と晩婚化が進んでおり、それは、本来人間に向くべきだった愛情がこの人工物に向けられた結果、誰も結婚して、子供を作ろうとしなくなったためであると主張している。

しかし、人々は知っている。それら、パルミラに嫌悪感を抱く人々の多くは、実際には、パルミラに触ってみたことさえない人たちなのだ。だれでも、新しいものは怖いものだ、あの、今では持っていて当然になった携帯電話ですら、出て来た当初は、厳しい使用マナーでがんじがらめにされて、使用場所を限局されていたそうだ。でも、今ではむしろ、使えない場所の方が限られている。
「一人で、壁に向かってぶつぶつ話しているのは不気味だ」
なんてことを言っていた人は当時、一部のコメンテーターの中にさえいたそうだが、その人達はもし生きていれば今も、同じような主張を自信を持って繰り返せるだろうか。パルミラにまつわる批判も、携帯電話の時のように、やがて落ち着いてくるのだろう。現に、そう言った批判は年ごとに減ってきているように僕は感じている。

販売開始から15年が経ち、普及率はもう7割を超えている。パルミラが、僕らの社会に、本当に受け入れられるのに、もう、そう長い時間はかからないだろう。

2009年7月18日土曜日

パルミラ (1)

ある、今からそう遠くはない、未来の話。


†1
僕らはいつも、一人の少女を連れて歩いている。
白い服を着た、東洋人とも、西洋人ともつかない、愛らしい顔立ちの、4,5才くらいの、女の子。女の子は、パルミラ、と呼ばれていて、誰の連れているパルミラも、みんな同じ顔をしている。

でも、一緒に暮らしているうちに、みんなそれなりに、愛着がわくらしく、うちの子はちょっと背が小さいとか、鼻立ちがいいとか、そんな些細な違いを気にとめては、悩んだり、自慢したりしている。パルミラは、そんなとき、何も言わずに、ただ子供らしい、美しい笑みを浮かべて、にこにことほほ笑んでいる。

パルミラを僕らが連れて歩くようになったのは、いつからだったろう。
携帯電話が普及し、パソコンが普及した時も、そうだったような気がするが、すべて、まるで、あらかじめ用意された水路に、水が流れていく時のように、速やかに、静かに普及していった。気がついた時には、パルミラの販売が開始しされてから、ものの2年ほどの間に、普及率は3割を超えていた。そこから、みんな持っていて当然となるまでに、さらに5年ほどだっただろうか。ともかくも、販売開始から10年しないうちに、パルミラは人々の必需品の一つとなったわけだ。

パルミラ、というのは、そもそも、この製品の商品名に由来している。この少女を作った会社は、そもそも、何とかテクノロジーという、アメリカのベンチャー企業だったそうだが、この商品の爆発的な人気を受けて、ついに会社名をも、パルミラ社に変更した。

パルミラの不思議なところは、他の模造品企業が、似たようなものを作っているのだが、全く普及しなかったところにある。パルミラ社自身も、はじめのうちは、パルミラに、もっとおしゃべりする機能とか、簡単なお仕事をお手伝いできる機能を付けた商品を販売したが、すべて、初代のパルミラほど普及はしなかった。同様に、模造品企業の作ったパルミラ様の品物も、元のパルミラほどの人気を得ることはついぞなく、そうした会社はやがてすっかり諦めて、パルミラ関連の仕事からは、早々に手を引いてしまった。

パルミラ社も、もはや、パルミラの性能をさらに上げようなどと言う野心は捨てて、ただ、現行モデルの品質向上などのマイナーチェンジや、修理の対応などに専念しているそうだ。

パルミラは、登場直後から、あまりに完成されすぎていた。だからこそ、人々は、それ以上の変化をむしろ嫌うのだった。パルミラは、パルミラとして、何も言わず、ただ傍らにいて、時々話しかければ、こちらを見て、にっこりと笑ってくれればいい。ただそれだけの需要を満たすためだけの、品物だった。

人によっては、パルミラに愛着がわくあまり、名前を自分でつけている人もいるらしい。しかし、多くの人は、パルミラを、ただパルミラ、と呼んでいる。

パルミラの衣服の背中のボタンを少しだけ開けさせてもらうと、肩甲骨の間あたりに、"Palmira"という名前と、それぞれのシリアルナンバーの刻印が見える。しかし、パルミラが人間の少女らしくないのは唯一その点だけで、後は、完全に、人間の少女そのものなのだった。

手をつなげば、その皮膚の触感や、肌のかすかな暖かさに、驚かない人はいないだろう。

多くの人は、はじめ、販売代理店でデモンストレーション用のパルミラと手をつないでみて、目を丸くする。そして、思わず、その瞳にやさしく笑いかけるように体をかがめて、その愛おしい手を、両手で包みこまずにはいられなくなる。その時から、その人とパルミラとの関係が始まるのだ。パルミラは、そうした、購買者に決定的な変化をもたらすような事態においても、ただ美しく、愛らしい笑みを浮かべて、彼や彼女の微笑みに答えているだけだ。

2009年6月15日月曜日

ある責務のかたち

「……これ、落ちましたよ」

小さな細い手が、男の落とした一枚のハンカチを拾い上げた。
振り向くと、女はそれを右手に提げたまま、小首を傾げて微笑んでいた。

「……やあ、ありがとう」
男はそう言うと、女がつまんでいた緋色のハンカチを、照れくさそうに奪い取った。
「珍しいですね、男の人でそんな色のハンカチ」
女は犯しそうにそう言って、口元に手を当てた。

「……ああ、妻のでね、間違えて、持ってきてしまったんだ」
男はよほど照れくさいらしく、女の顔を見ずに言う。
「そうなんですか」
女はそう言うと、おかしそうにくすくすと笑った。

女が小さくお辞儀して通り過ぎてしまった後、男は一人受け取ったハンカチを右手に広げて、まじまじと其処に書かれた文字を見つめていた。

「……“妻の”、か」
男はそう言うと、ハンカチに書かれた小さなイニシャルを、親指で軽く撫でた。其処にはイタリックの書体で"N.S."と刺繍されていた。

「……この名字も、もうすぐ変わってしまうな」


ひと月ぶりにあった妻は、今までと変わらず一言もしゃべらなかった。
行きつけだった喫茶店の奥の机に互い違いに腰掛け、彼自身の目の前には、彼女の代理人である弁護士がその大柄な体躯をぴしりと決まったスーツで包んで座っていた。

「……こちらの条件はこうなっております」
弁護士は落ち着いた声でそう言って、黒塗りの革製の鞄から数枚の紙がクリップで束ねられたA4大の書類を差し出した。

「……端的に申しまして、依頼人、つまりあなたの奥様は、息子、信人君の親権と、あなたの現在の収入の20%の養育費、そしてここに描かれておりますような額の慰謝料を望んでおります」

弁護士が“奥様”と呼んだ時、彼の妻では無くなるその女は、その言葉を聞くのも忌々しそうに、一瞬目をそらし、顔をしかめた。組み替えた足の先に、未だ真新しい、見知らぬ色のヒールが見えた。

「……養育費は払います。親権も譲りましょう。確かに、僕は家庭を顧みた父とは言えないのだから。ですが……」
彼は一瞬言葉を躊躇った後、続けた。
「……しかし本当に、これは僕が慰謝すべき離婚なのでしょうか。彼女は……、」

「……奥様を一人にしたのは何方ですか?」
弁護士は妻の代理となって口を挟んだ。
「そのことは、すでに前回のお話し合いでも十分話されたはずです。あなたは自分の仕事に夢中になる余り、家庭を顧みてこなかった。その結果、奥様が他の何方に救いを求めようと、あなたにそれを責める権利はないのではありませんか?むしろ被害者は我々の方なのです。あなたのために待ち続けた奥様の心情を鑑みれば、慰謝料をお支払いになるのが当然と言うことになるでしょう」

弁護士が、勢いに乗って彼と妻を「我々」と呼んだ時、彼は何か苦い物を感じていた。それは斯うして向かい合った彼女の側と、彼の側とが、もはや永遠に隔てられていることを決定づける言葉のような気がしていた。以前なら、彼が我々と呼べば、それは妻も含めていたのであり、本来は他人である弁護士はそれには含まれなかったはずなのだ。
契約によって繋がった他人が、自分よりも、妻の側にある事実。それが男に突きつけられた、あまりに残酷な事実だった。

「……我々の側も、これでも譲歩しているのです。本来なら養育費をもう少しお支払いになることも出来たはずだ。ですが、奥様がそれを断られたのです。このくらいの額でよいからと」

それは、彼女がすでに、彼女の息子を養育してくれるような男を得ているからに過ぎないじゃないか。彼はそう思ったが、押して堪えていた。それでも、息子が幸せに成長できるなら、未だ良いのかも知れない。男はそう思った。彼女の男を彼は知っていたが、彼が思うに、その男が彼以上に、彼女を慕っているのは紛れもない事実のようだった。彼ならば考えつかないような愛情の示し方を、その男は彼女に向かって示していた。不器用な、仕事しかできない男には到底及ばないその愛情表現に、彼は、何か勝負事に負けたような失意を感じていた。

「……なあ」
彼はうなだれた頭を上げ、そっぽを向いたままの、妻を見つめた。
「お前達は、今、幸せか?」
妻は男の方を見なかった。いらいらとした気持ちを顔に表したまま、薄汚れた花の絵が飾られた茶色い壁の方を、ただじっと見つめているだけだった。

「以前は愛していた男を、金を払うだけの人間におとしめておきながら……、お前はそれでも、幸せになれるのか?」
女の眉間がぴくりと動いた。しかし彼女はそれでも、男の方を見ようとはしなかった。おそらくは、一切口を出さないように、弁護士から堅く口止めされているようだった。

「……志田さん」
弁護士は男の名を呼んだ。
「金を払うだけの人間、とはたとえが悪い。例え法律上の夫婦ではなくなっても、息子さんは実質、あなたの子供なのです。彼の幸せを祈っているのなら、養育費を払うのは、親として当然の責務だと思いますが?」
男はそれを聞いて、押し黙った。
責務。そんなことは解っていた。
しかし、親としての責務は、果たして、子供が成長するのに見合うだけの金を払い続けることなのだろうか。男はそう考えていた。親として、子供に道筋を付けて上げられるような、そのような働きかけをし続けることこそ、親の果たすべき、責務という奴なのではないだろうか。

男はそう思い当たった。
しかし、次の瞬間、男の表情に浮かんだのは、妻に対する荒々しい怒りではなく、うすく湿った失笑だった。

「……ええ、それが僕の責務ですね」
あきらめたように男はそう言った。
「……思えばこれまでも、家庭に金をもたらすようなことしかしてこなかったんだ。息子と一緒にキャッチボールをする時間すら、僕には取れなかったのだから」

「……解っていただけたのなら、幸いです」
弁護士は、そう言って口元だけで笑った。
「それでは、手続きを前に進めましょう。この場所に判とサインを。奥様のものはすでにいただいてありますので……」

弁護士の太い指が指さす何もないアンダーラインの上に、彼は書き慣れた自分の名前を書き込みながら、ふと、妻の名前の傍に書かれた息子の名前が、彼の書いた字によく似ていることに気がついた。

おそらくそれは、息子が自分で書いたもののようだった。
手続き上、訳も分からず書かされたのだろうが、その字は癖の付き方まで、彼の字と余りによく似ていた。

彼はその字を見つめながら、しばらく、ペンを持つ手を休めていた。

そして、再びそのペンが走り出した時、彼の心の中には大きな喪失感が渦巻いていた。
弁護士が彼から書類を受け取り、そこに書かれた彼のサインを一つ一つ念入りに確認して、つややかな革製の鞄にしまい込むと、彼の心の内に、何か大切な物が今しも、自分の手から遠く離れて行ってしまうのだという自覚が生じてきた。

彼は自分の心が、何か得体の知れない、冷たく、ひんやりするものに蝕まれていくのを感じた。そして、見知らぬヒールの音を響かせて去っていく、身体の大きな弁護士と小柄な妻の背中を、もはや、単なる一点の黒点に過ぎなくなった目で見送っていた。

2009年6月8日月曜日

a molecule

「タナベさんね、待ってたわよ」

大柄な婦人が身を揺らして笑う。派手な花柄の衣装はもうすっかり伸びきって、大きく開いた肩口から胸元がこぼれ出てしまいそうなのだが、彼女はそれにも構うことなく大仰な仕草で引き出しから鍵束を取り出すと、私の前に立って歩き始めた。よく太った体の割に、彼女の足取りは軽く、ともすれば、肩に重い荷物を提げた私は彼女に置いて行かれそうになり、慌てて古いビルディングの屋外に面した廊下を彼女の大きな背中を追いかけるようにして進んでいった。

「……主人が今入院しててね、 なに、この間家の物入れから荷物を出そうとしたら急に腰を痛めちゃって、病院行ったら、一週間の安静が大切なんて言われちゃって、それで、私と、近所に住んでる娘が交代で……、娘?ああ、あなたと同じくらいかしら、あなた、おいくつ?30才?あらやだ、娘はまだ17なのよ。日本人って、年齢わからないわ……」

婦人はそういうと、また身を揺らして笑った。鍵束のかぎが、それに合わせてかちゃかちゃと音をたてた。

「独立心が強いのはいいんだけど、うちの子、ちょっとスペシャルなんじゃないかしら。家が近いのに、わざわざ寮に入りたいなんて、普通言わないわよね。まあ、親に頼りっきりなのよりはいいけれど。……知り合いの男の子でね、いるのよ、そういう子が。もう大学出て四年もたつのに、まだ家にいて、親に甘えて暮らしてるわけ。噂じゃ、仕事もろくにしてなくて、隣町のドラックストアでアルバイトしているんだってよ。ほんとに、最近の若い子は、わからないわよね。小さいころは、あんなに利発そうで、お母さんも、大そうご自慢だったのに。今じゃすっかり二人ともしょぼくれちゃって、盛りを過ぎた七面鳥みたいになってるわ。……なかなか、開かないわね」

婦人は、太い二本の指の間に、小さな鍵を器用に挟み込んで、ドアノブの鍵穴に差し込んだ鍵をガタガタと動かしていたが、扉は一向に開かなかった。

「……時々、こういうことがあるのよ。こういうときは、力いっぱい回せば、開くことがあるんだけど」
「僕が、やりましょうか」

私は夫人の必死な様子を見ていられず、そう言って代わってあげようとしたのだが、彼女は、やや赤みのさしてきた顔で、O.K、O.Kと言うばかりで、一向に代わろうとしなかった。

そうしているうちに、鍵穴の中でゴリゴリと何かがこすれるような音がして、ガチャン、と鍵が外れた、

「……ようやく開いたわ」
婦人がやれやれ、というように両手を広げて見せた。

「前に住んでた子が、何かゴミでも詰めたんでしょう。……とはいっても、三年も前の話だけどねえ」
夫人はそういうと、自分の役目を果たしたと思ったのか、大きな体をゆすって、自分の部屋の方へと帰って行った。

私は、婦人がようやくこじ開けた部屋を、そっと覗きこんだ。
薄暗い入口の向こうには、リビングらしき部屋があり、そこの南向きの窓から差し込んでくる光が、部屋の中に舞い散ったほこりを、きらきらと照らしていた。知らない家に入った時の、かび臭いのにも似たようなにおいが、鼻の奥をつん、と突いた。

私は、戸口で深く息を吸うと、ずかずかと部屋の中に入って行って、呼吸も止めたまま、長いこと閉じられたままだったガラス窓を、一息に、あらかた開けて回った。

そして、たまったほこりを、夫人から借りたモップではきだしてしまい、ようやく、なんとか住める部屋になってきたと感じられたころには、、もうすでに、日も暮れかかってしまっていた。


異国の窓から、知らない色の空気がそよそよと流れ込んでくる。
夕暮れ時の虫の音も、この乾いた空気の中では、遠くにかすかに聞こえるのみで、隣の家の夕食の、何か知らない南国調のスパイスの強い香りが、風に乗って漂ってくるだけだ。

聞きなじんだ音さえもない、異国の夕暮れ。

私は、まだカーペットも敷かれていない、板張りの部屋に、ごろりと横になった。
黄ばんだクロス張りの天井が、日本にいたときよりもずっと遠くに見えた。

「……一人ぼっちなんだ、俺」

私は、天井を見ながらつぶやいた。

「……本当に、独りぼっちに、なっちまったな……」

私はそのまま目を閉じた。一人ぼっちの感覚が、皮膚を通じて、静かに、私の体にしみこんでくるような気がした。それは、私の体を構成していた何かが、何もない真空の中に溶けだして、散り散りに拡散していってしまうような、そんな感覚だった。自分がやがて薄れて、消えて行ってしまいそうな、一人ぼっちの感覚。しかし、私は、ある意味ではそれを味わうためにこそ、この遠い、異境までやってきていたのだった。知り合い一人いないこの国で、私に何ができるのか。あるいは、何もできないのか。すべては、これからだった。

「……さて、」
私は、勢いをつけて、起き上った。この国の太陽は、とてもゆっくり沈んでいくように感じていた。薄明の時間が、屋外ではまだ続いている。赤く、深い紫色に染まった大地の上に、ぽつりぽつりと、明かりがともっていくのが見えた。

「……行ってみようか、スーパーマーケットって奴に」

私は、そう呟くと、夫人から受け取っていた鍵をポケットに、ほこり臭い部屋を出た。そして、噂に聞く、ガロン瓶に入った牛乳や、一抱えもあるほどの肉の塊を想像しながら、知らない国の知らない通りを、ゆるい坂を少しずつ下るようにして、進んでいった。

2009年5月23日土曜日

one, single, alone.

人生は、何かがある時よりも、何もない日の方が遙かに多い。
男は、そう感じていた。薄曇りの空の下、絶え間ない霧雨で、アスファルトの路面はしっとりと濡れていた。傘を差すか、差さないか迷うような雨の中を、片手に傘を差した自転車が、脇目もふらずに通り過ぎていった。その後を追うように吹き抜けていく、湿り気を帯びた冷ややかな風を感じながら、男は自転車の通り抜けた後の路面を、ひたひたと歩いていった。

彼は、これまで自分が孤独だと感じたことはなかった。
彼の身の回りにはいつも人がいたし、彼らは彼をいつも必要としてくれているようだった。たとえ、一人になる時間があったとしても、男はその一人の時間を愛していた。周りに人がいる時には余り見せない、彼の一面――たとえば、古い友人に手紙を書くこと――も、消して彼の孤独な行為とは受け止められないだろう。それはまだ、一人の時間の過ごし方と言うだけのことであり、そのような時間は、人生の大半に渡って、特に青年期の初期から壮年期の前半にかけて顕著に表れる時間である。現に、彼は孤独のもたらす数多くの弊害、たとえば思考が狭まり、次第に厭世的な見方に偏っていくような兆候を示していなかった。むしろ、彼から一人でいる時間を奪った方が、彼はそのような兆候を示したかも知れない。そう言った点でも、彼はごく普通の人間だった。

しかし、この日の男は、何処か様子が違っていた。
地味なブラウンのコートを羽織り、傘も差さず、雨中に佇んでいた。両手には何も持たず、使い慣れた革の鞄すら、今日は持っていなかった。

それでも、上下はいつものスーツを着ていた点からみて、彼の服装はいつもの会社帰りとさほど変わらなかった。彼は裏露地の狭い道を歩きながら、ふと、目の前に、道を遮るように止まったタクシーに目をやった。しかし、彼はそれを見ただけで、結局乗ろうとはせず、競り建ったビルとタクシーの間をすり抜けるようにして、市の中心部の方向へ向けて歩いていった。

黒く湿ったアスファルトが、明るい光りに彩られた街を逆さまに、滲んで浮かびあげていた。街は今、水上に浮かぶ架空の都市のように、曖昧で儚い光を放っていた。ビルの上の赤い光りが男の網膜の奥に焼け付くほど強く差し込んできた。街の輻射に赤く霞んだ雲の中に浮かび上がる、その鮮やかな単色光に、男は一瞬、目を奪われる思いがした。

彼は、雨に濡れる身体を構うことなく、ひたすらに街の中心を目指して歩いていた。
そして、市の中心部の駅の前まで来たところで、彼の足はぴたりと止まった。

男はその場所に立ったまま、おもむろに、彼の頭上にあるものを見上げた。


そこには一本の高いビルが聳えていた。
2年ほど前に立ったばかりの駅前の超高層マンション。彼はそのビルの突端近くの高い窓を雨に濡れるのも気にせず見つめていた。

男の見つめるビルの高層階には、一部屋だけ明かりが灯っていた。他の部屋にはもう明かりは灯っておらず、それらの部屋の住人は、すでに眠ってしまっているようだった。

男は眼を細めて、その高いビルの一部屋だけ灯った明かりを見つめた。
その窓辺には、誰の姿もなかった。窓は堅く閉ざされており、誰かが出てくる気配すら感じられなかった。

「……幸せ、か」
男は、ぽつりと呟いた。
そして、顔を伏せて自らの足下を見つめた。

冷たく濡れた暗い路面が、彼の足下に拡がっていた。
その上に吸い付くように立ったままの、二本の彼の足。当たり前のそれが、今日はいつになく不自由なものに感じられた。

「……幸せ、なのか?君は……」

男は地面を見つめたまま、身じろぎもせず、そう言った。

高いビルの上の窓には、相変わらず煌々と明かりが灯っている。彼はしかし、もう一度その窓を見上げようとはしなかった。

「あの窓から見える景色は、僕らが憧れた……」
そう呟いて、しばらく口をつぐんだ。
僕ら。そう思っているのは、すでに自分だけかも知れない。彼は、そう感じたのだった。


彼はふと、辺りを見渡し、自分の周りにもう誰も人がいなくなっているのに気づいた。
駅も、すでに最終電車が過ぎ、僅かばかりの明かりが灯されているだけだった。

街は、煌々と夜の残余を残しながら、次第に眠りにつこうとしているようだった。
男はすでに、ここに立っている意味を見失っていた。僅かな霧雨は、しかし確実に、雨中に佇む男の身体を濡らしていた。茶色のコートが湿り気を帯びて、ずしりと身体にのしか掛かってきた。

「……次の誕生日には、もう少し、ましなものを用意しようと……」
男は呟いた。

「……しかし、それも必要なかったな。君には、君の幸せがもうあるのだから」
男の脳裏に、一人の女性の微笑みが浮かんでは消えていった。
渡そうとして渡せなかったものと、それをもらって喜ぶ彼女の微笑み。

しかし、それは恍惚とした喜びと一緒に、身をもだえるような苦しみを彼にもたらした。
男は微笑んだまま、眼を伏せ、暗い路面を見つめ続けた。

雨に濡れた街は逆さまに、夜の光りを映している。
彼の足下に、一点の光りがぼやけて映っていた。彼はそれを、彼女の部屋の明かりだろうと思った。その光りは、彼の背中にそびえる現実の塔から差し込み、彼の足下で揺らめいているように見えた。


その時、彼の足下に灯されていたその小さな明かりが、突然音もなく消えた。
驚いて、彼は背後の高層ビルを振り向き、高い塔の突端近くの部屋を思わず見上げた。

そこには、未だに明かりが灯ったままだった。
しかし、その窓辺に、これまでは見られなかった、一人の女性の姿があるのに、彼はすぐに気づいた。

女性は、窓辺に立ったまま、静かにビルの下の暗い世界を覗き込んでいた。
しかし、高い建物の上の、明るい部屋の中からは、暗い世界の底から見上げる彼の姿に、気づくことは不可能だった。

男はそれでも、高い窓の上から見下ろす彼女の瞳が、彼を捉えているように思えて仕方がなかった。それがあり得ないことは十分解っていたが、それでも、彼はそう信じたかった。


窓辺の影はそれからすぐに消えた。
彼女が立ち去ってまもなく、部屋の明かりも消えてしまった。

「……孤独ではない、そう思っていたのは私だけだったな。よりどころとしていた君は、ずっと、孤独だったのだから。」

男はそう言って、顔を伏せ、微かに嗤った。
「……僕と、一緒にいる時から、ずっと……」

そして、塔に背を向け、元来た道を歩き始めた。
「……君の孤独に、あの時、気づけなかったのは……」

それは、相手が君だったからだ。

男はその言葉を飲み込んだ。


夜は次第に更けていく。
街の明かりは、気づけば、もうほとんど落ちてしまっていた。

雨に濡れた身体を引き摺ったまま、男が、深い、深い夜のとばりの中へ、ゆっくりと吸い込まれるように、消えていく。

その後を追う者は誰もいなかった。
あるとすればそれは、音もなく降る、夜霧のような霧雨と、振り払っても身にまとわりつくような、湿った夜の影だけだった。

2009年5月10日日曜日

Potato Salad, a cup of,

隣の机に座る少女が机に伏せるようにして眠っている。
私は彼女を気に掛けながらも、目の前のパソコンに向かい、仕事を続ける。

彼女は昨日も遅かったのだろう。
仕事が立て込むと、眠れなくなることも多いのだそうだ。
私がそのことを尋ねると、
「……昨日は、ちゃんと寝ましたけど」
そう言って、頼りなげに笑った。

「……でも、ねむいんです。……なんか」
彼女はそう言って、また机の上に突っ伏してしまった。
私は声も出さずに笑って、お疲れ、と小さく呟いた。


彼女の向こうの窓に見える景色は、もうすっかり暗くなっている。
遠く、駅前の高層マンションの明かりが、はっきりと夜空に浮かんで見える。その先端の赤い明滅する光りが、星のない虚空に、受け取る者の無い信号を放ちながら、ただひたすらに、無事にこの夜が明けるのを待ちづつけている。

ふと、視線を感じて、隣を見れば、彼女が机に伏せたまま、顔を横に向けて、私をじっと見つめていた。
私の視線を感じると、彼女は咄嗟に私から目をそらして、向こうを向いてしまった。

私は再び、声のない笑いを漏らした。
「……昔、そう言う眼で、こっちを見てた人がいたよ」
私は、小さな声で、独り言のように呟いた。

「……その人とは、どうなったんですか」
彼女は向こうを向いたまま、独り言のように言った。

「……さあね。……忘れてしまったよ」
「……なんだ」
彼女の溜息が聞こえた。
「……つまんない」

私が彼女に言ったことは、言うまでもなく事実だった。私は確かに、昔あのような瞳で私を見つめていてくれた人が傍らにいたことを覚えている。彼女もいつも疲れた顔をして、同じ研究室でもなかったはずの私の机の隣に、いつも突っ伏していた。

逃げるようにやってきて、一眠りして、帰って行く彼女。
その背中に掛ける言葉を知らず、私はいつも、見守ることしかできなかった。

「……先輩」
向こうを向いたまま、彼女が呟いた。
「……その人とは、本当に何も、なかったんですか」

私はしばらく、黙り込んだ。
彼女との思い出を一つ一つたどってみた。

しかし、思い出すのはどれも、眠っている彼女だった。
笑顔でも、泣き顔でもなく、何故か疲れ果てて傍らでうずくまるように眠っていた、彼女の姿だけだった。

「……何も。……ただ、」
「……ただ?」
「……ポテトサラダ」
「え?」

私は彼女とのほとんどたった一つの思い出を思い出そうとしていた。
いつか彼女の作ってきてくれた、小さなカップのポテトサラダ。ほとんど料理など出来ないと、はっきり言っていた彼女が、どうしてそんなものを作る気になったのか私には解らなかった。

「……その子が、ポテトサラダを作ってきてくれたことがあったんだ。たった一回だけどね」
「……それ、」
彼女がこちらを向いた。
「……おいしかった、ですか」

私はその味を思い出していた。
ポテトとマカロニと、細く切ったキュウリとタマネギのようなものが顔を出していたのを、おぼろげに覚えていた。だが、その味付けは本当に薄味で、塩気が全くないのだった。彼女の父は塩分を控えるように医者から言われていたらしく、それで彼女の家庭では塩を控えるようにしていたのだと、私は聞いたことがあった。

それにしても、あの味の薄さは、それとはまた違っていた。
おそらくは、過剰な塩分はいけないという彼女の考えが先走って、おいしい味付けと言うものよりも優先してしまったのだろうと私は思った。

行動的に人前で振る舞う割には、肝心な時には一転して、ものを考えすぎてしまう彼女の性格が、そうした味の薄いポテトサラダを作らせてしまったのだろう。わたしはそう思っていた。

「……まあ、まあだったかな」
私は答えた。
「……優しい、味付けだったよ」

「……ふうん」
彼女は不思議そうな顔をして言った。
「……優しい味付け、ですか」

あのような薄味のポテトサラダには、今後も会うことはないだろう。わたしは思った。
彼女も今頃は上達し、もっとおいしいサラダを作れるようになっているのかも知れない。振り向いてほしい、何処かの、知らない誰かのために。

だが、もう誰も知らないのだ。

あのときの薄味のポテトサラダを愛していた人間も、この夜空の下に、いないわけではなかったことを。そして、その儚い味の中に、小さな幸福を噛みしめていた人間が、僅かにでもいたのだということを。

2009年5月7日木曜日

ある男の生涯

……まだ、終われないのか。
男は雨の中、一人呟いた。

早朝。雨降りしきる、抜かるんだグラウンド。校庭に子供らの姿はない。
すでに引率の手により、校舎の奥に避難している。

窓の向こうから、子供の不安げな瞳がこちらをじっと見ている。
男はそれに気づき、その瞳に笑いかけようとしたが、それだけの気力はもはや残っていなかった。

子供の影は、彼の引きつった笑顔を恐れたのか、不意に窓辺から消えてしまった。
男は力なく笑い、彼の敵の方を、ゆっくりとふり向いた。

「……何もこんな雨の中、襲ってくること無いだろうがよ……」
男は独りごちた。
「……悪戯が過ぎるぜ、全く……」

大小無数の水たまりが、疲れ果てた彼の表情を、砕けたガラスのように、あらゆる角度から散り散りに映し出す。

薄い雲の向こうに、おぼろげな太陽が見える。
しかし、それは、今日はあまりにも遠い。

太陽がこんなに、遠く感じるのは初めてだ。
男は雨雲に覆われた空を見つめ、そう思った。

身体は冷たい雨に濡れ、顔からは無数の雫がしたたり落ちている。


これは、汗か、それとも涙か。
男は地を向いて一人嗤った。

俺は、他人のためだけに尽くしてきた。
それなのにまだ、お前らは俺を喰らうというか?

一体何処まで、この身を捧げればよいのだ?
どれだけ苦痛を味わい、命を張っても、彼らは、彼女らは満足することを知らない。

初めはうれしがって、感謝の言葉を述べもするが、いずれはそれも当然のこととなって、礼の言葉すら、無くなってしまう。

俺は、何処に見出せばいいのだ。この犠牲の結果を。

救った人々の笑顔を、守った、ありふれた日常を糧に、この苦行のような戦いを、明日も続けろと言うのか?

ほら、見ろ。
霞の向こうで、奴が微笑んでいる。
大きな機銃を手にして、俺に照準を合わせたまま。何が楽しいのか……。

結局は奴だけが、俺の行為の無益さを、誰よりも良く、理解していたと言うことか。
痛みに耐え、苦しみに耐え、己を滅して、生きてきて、その果てが、これか?
何が残ったというのだ。俺の戦いの果てに。

日常の価値も忘れた、人々の当たり前の生活だけが、俺の消えた後も、延々と続いていくのか……。


男は黄色いグラブの下で、拳を握りかためた。
その手中には、何もなかった。汗に汚れ、血豆も破れ、むごたらしく傷ついた指だけが、彼の戦いのすべてを物語っていた。

しかし、その壊れた手は、今だ何も掴んではいなかった。
愛する人の賛辞も、賞賛も、栄誉も、幸福も……。

男は忘れていたのだ。
他人に尽くすことを美学とする余り、自身を省みることを。自身の心の内の、人間じみた人並みな欲求を受け止めることを。

男は再び、力のない笑みを浮かべた。

降りしきる雨の向こうで、黒衣の彼が、機銃の弾倉をゆっくりと付け替えているのが見えた。
逃げぬ獲物と解っているのだ。あとは、照準を外さず、一撃で仕留めることこそが、男と数限りなく死闘を演じてきた彼なりの、最後の餞だった。

……ばいばいきん。

彼が、雨の中でそう呟いたように見えた。


水に濡れた頭が重い。
足に力が入らない。いやにふらついて、立っているのがやっとだった。

「……膝が笑っていやがる」
男は独りごちた。

これは、疲労のためか?それとも……、
「……怖いのか?俺は……」

男は天を見上げた。
白い雲の中から、雨だれは灰色の影となって降り注ぐ。

水に濡れた男は嗤った。
このまま腹が裂け、胸板が砕け散るかと思うほどに、嗤い続けた。


英雄が何だ。
最後が、これか。

……俺は、ちっぽけな男だ。

あいつがまた、見かけに似合わず、豹のような周到さで、俺の命を狙っているかと思うと、いつも怖くて、怖くて、仕方がなかった。

出来ることなら戦いたくない。
このまま、逃げおおせてしまいたい……。

着古したマントを羽織り、グラブを嵌めながら、そう思ったことが、いままで何度あったか。

そんなどうしようもない俺を、励ましてくれる奴なんていなかった。
みんな、ケガを知らない、きれいな手を胸の前に組んで、固唾をのんで、神妙な顔して見守っているだけだ。

リングの上に上がるのは、いつも俺一人。
傷つくのも、苦しみを味わうのも、俺一人……。

俺を、恐怖から救ってくれたのは、他人の優しい言葉なんかじゃ、決してない。

それでも他人を裏切れない、俺の心の底のどうしようもない甘さと、がむしゃらな勇気だけだった。

だが……。
勇気≪とも≫の姿は、もう、見えない……。

ははっ。
腰が砕けそうだ。

お天道さんよ、
俺は最後まで、惨めなまねはしたくねえんだよ。

なあ、頼むよ……。
もう少し、この俺を、支えてくれよ……。


男は嗤ったまま、天を抱くように、くたびれた両手を大の字に広げた。


雨の向こうの彼の、漆黒の右手が、引き金を静かに引いた。

怒濤のように銃声は辺りに響き渡り、たちまち、無数の閃光が彼の身体を貫いた。


男の身体がぐらりと傾き、泥に濡れた大地に、うつぶせに倒れた。

水を吸った頭が身体から離れて、浅い水たまりの上に、ごろりと転がった。
仰向けになった頭が、泥に濡れた彼の、最後の引きつった笑みを、雨雲たれ込む白い空に向けていた。

“彼”は、左手に銃を提げたまま死体に近づき、喜びとも悲しみとも付かない引きつった表情を浮かべて、しばらく男の死顔を見つめていた。が、やがて、何を思ったのか、その命を奪った身の丈ほどの黒塗りの重機銃を、ぬかるんだ大地にずぶりと突き刺した。

彼は、泣いていたのだった。
声も枯れよ、とばかりに。


やがて、彼は大地に刺した機銃を引き抜くと、おもむろにその銃口を自身の方に向け、その先端に彼の額の中心を据えた。

……ばいばいきん。

彼は再び、そう呟いたように見えた。

雨に濡れた大地に、無数の雫が流れ落ちる……。



昼が過ぎ、雨は上がった。

太陽は白い雲の向こうから、溢れんばかりの日差しを、彼と彼の身体に投げかけた。

泥まみれの身体が、互いに頭を向けて大地に横たわっている。
降り注ぐ雨が、涙も、血しぶきも、きれいに洗い流してしまった。

駆け寄ってきた村人達は、しかし、それ以上近づくことが憚れ、遠巻きにその二つの遺体を見つめていた。


一人の老人が、村人達の輪から一歩踏み出て、彼らの身体にそっと手を触れた。
そして、嗤ったまま強ばってしまった二人の死相をまじまじと見つめて、その目尻を濡らしたものを、老いさらばえた細い指で、そっとぬぐった。

母に手を引かれたまま、老人の背中をじっと見つめていた、一人の幼い、やや知恵の遅れた少年が、その時、誰に言うでもなく、小さな声で呟いた。

「……勇気のすずは、もう鳴らない」

その声を聞いた母は驚いたように、思わず我が子の顔を覗き込んだ。
幼子はあどけない眼差しを、陰惨とした現場にじっと向けたまま、抑揚も付けずに、もう一度その言葉を呟いた。

「……勇気のすずは、もう、鳴らない」

2009年4月21日火曜日

田舎の生活

たらいに汲んだ井戸水に、ゆっくりと手を浸した。

冷たい感覚が、指先から静かに駆け上がって、腕の中を走る何本もの青白い血管を浮き上がらせ、内蔵の方までゆるゆると冷やして行く。寝ぼけて熱った体温が、それにつられて急速に冷まされて、背中が、きゅっと縮むような感覚があった。

たらいに映る顔は、朝の光を浴びていても、何処か未だ眠たげだ。
昨日、寝る前に鏡で見た時の自分の顔の、半分ほども目は開いていなくて、頬は幾分丸く膨らんでいる。蜂に刺されてふてくされたかのような、その寝起きの顔が、指先からこぼれ落ちる雫に、ゆらゆらと揺れていた。

洗面所。山奥の田舎にある、この古民家を借り切ってもう3年になる。大家のおばあさんは、去年まで、この家の向かいの母屋に住んでいたのだが、今はもう、この住み慣れた田舎町を去って、都会に住む息子夫婦の家に越して行ってしまった。

「...あの母屋も、好きにに使っていいから。家族が増えたら、今のところじゃ手狭でしょうに」
別れ際、僕らにそう言ってくれたおばあさんのしわがれた優しい声が、僕の耳には、未だ昨日のことのように鮮明に残っている。それは、キュウリか、レタスか、白菜か、幾分不格好でしわくちゃだけれども、何処か優しく、瑞々しく、それでいて、青臭い匂いのする、不思議な安らぎを持った声の主だった。都会から田舎のなんたるかも知らずに越してきた僕らが、この土地に根づく事が出来たのも、あのおばあさんがいてくれたからだと、時折、妻と昔話のついでに話すことがある。

この古い家の、薄暗い洗面所の中で、背中側から細く差し込む光が、ようやく僕の手元を照らす。コンクリートを塗った土間に、取って付けたような琺瑯の洗面台。おそらくは、どこかで要らなくなったものを、もらってきてそのまま置いただけなのだろう。立て付けが悪いらしく、全体が少し左手に傾いていて、鏡に映った僕の顔も、たらいに張った水も、どうやら少し、かしいでいる。

「今日は早いのね」
斜めに移った自分の顔を、未だ眠気の覚めない頭でぼんやりと見つめていると、後ろから声がした。ふり返ると、見慣れた顔が、こっちを向いて笑っている。
「……日曜日だからな」
「子供みたい」
そう言って笑うと、彼女は土間にすかすかと入ってきて、僕のわきをするりとすり抜け、洗面台の先にあるトイレに、先に入ってしまった。

がちゃり、と鍵の下りる音。
何処か拒絶されたような、錯誤した感覚が僕を襲う。それに伴う孤独と気まずさが、僕らの間に一瞬の沈黙を生み出した。

この何とも言えない間合いの可笑しさは、彼女も感じたらしく、扉の向こうから、フフ、と含み笑いをする声が聞こえた。

僕も思わず、声に出さずに笑った。
そして、また冷たい水に手を突っ込んで、ざぶざぶといつもより余計に音が出るようにしながら、大仰に顔を洗って、ううっと声に出して、大きく背伸びをした。

「……ねえ」
閉じた扉の向こうから、声がした。
「何?」
閉じた扉の方を向き、問い返す。
「……また、駄目だったんだ、私」
扉の向こうの声が言った。
「昨日、編集者から電話が来てね、今回の受賞はなさそうだって。二次選考までは通ったらしいんだけど、最終候補には残ってないみたい。……また、来年頑張ろうってさ。あの、いつも、ぐちぐち意地悪ばかり言う編集者が」

力のない笑い声が聞こえた。

「……あーあ。あたし、向いてないのかな。やっぱり」
「そんなこと無いよ」
「いや、やっぱり向いてないんだよ。甘かったんだ。OLやめて、自分の好きなやり方で、人生生きてやるって、思ったのはいいけど、それはやっぱり、単なる日常からの逃避だったんだよね。同じ繰り返しの毎日に、うんざりしてて、ちょっと変化が欲しかっただけだったんだ。それなのに、気まぐれに書いた文章が、ちょっと上手く書けたからって調子に乗って……、こんなの所まで、行き着いちゃった」
「こんな所って……」
僕は思わず、そう呟いた。

「……たしかに、こんな所、はないよね」
彼女は再び、笑ったようだった。
「……あたし、やっぱり、だめだ。いろんな人にお世話になって、それをすっぽかして、ふり返りもしないで……。あなたにも、迷惑掛けてばかり。人の人生巻き込んで、こんな田舎まで越してきて……」

扉の向こうの声が、不意に静かになった。
小さな嗚咽が聞こえた。

また、思い出したんだな。僕はそう思った。
最近の彼女は、いつもこうだ。
時期的なものもあるのかも知れない。春が近づき、草木が芽吹く季節になると、相対的に、自分の心の底にあるものが、どうしようもなく避けがたいものとして、はっきりと見えてしまう。浮かれる心の一方で、どうにも動かない、その深く、暗い悲しみ。それが春の、もう一つの側面であることは、僕もよく知っている。何度もこうして、雪解けを待ってきたのだから。

「……ごめん」
彼女は小さな声でそう呟いた。
「やっぱり、思い出しちゃって……。こういう時に限って、……なんで、かな……」
「無理もないよ」
僕は扉の向こうの彼女に慰めを言った。
「僕らのしたことは、そう言うことだ」
「……はは……、そう、だよね……」

僕と彼女の間に、一瞬の沈黙があった。
僕は言葉を躊躇った。
彼女は言葉を選んでいるようだった。

「……ねえ」
沈黙を先に破ったのは、やはり彼女だった。
「……ちゃんと産んでたら、幾つになったかな」

「4つ」
僕はその年齢を忘れていなかった。それは、僕の罪でもあるのだから。
「4つ、か……。私達、若かったよね。たった四年前の出来事だけど……。いま、あの子が生まれるのなら、私、迷わず産んでるのに……」

彼女の声が涙声になった。

「……たった、四年間で、変わってしまうような都合で、私達は、一つの命を捨てたんだ。今更、それを欲しいと願っても、それはわがままに過ぎないよね。……出来ないのも、無理は、無い、か……」
「……君だけが、背負う事じゃない」
扉の向こうの彼女に、僕は語りかけるように言った。
「それは、僕にとっても背負うべき事だ。僕ら、二人の命だろう。そして、二人で決めたことだったろう?」
「……私達、二人で決められることだったのかな」

彼女の声が訴えかけるような調子に変わった。ドアのすぐ向こうまで、彼女はせり出しているようだった。

「一つの命が、産まれるとか産まれないとか、そんな都合は、私達が、自分のスケジュールに合わせて決めていいことだったの?それで、展開していったはずの一つの可能性が、可能性のまま消えてしまっても、私達は、生きていけるだけの権利があるの?」
「……すでに生きているんなら、生きなきゃならない」
僕は、乱れた彼女の心を静めるように、一呼吸置いて続けた。
「消えていった命を背負えるのは、今生きている僕らだけだから」
「……勝手だよ。先に生まれたものの、勝手」
彼女は言い捨てるように言った。

「……今でも時々、子供を産む夢を見るんだ。朝起きると、夢の中では大きかったおなかはすっかりしぼんでしまってる。その喪失感に……、なんだか、涙が出るんだ」
彼女は言った。
「こんな感覚、男の人には、解らないだろうな……。子を宿すってことを、身体で感じられるのは、私達だけだから……」

彼女はその後しばらく、トイレから出てこなかった。
顔を洗って濡れていたはずの僕の両手は、気がつけばすっかり乾いてしまっていた。

僕は先に洗面所を出て、居間に入った。朝食の用意は、もう調っていた。
居間の冬には炬燵として使う机の前に座って、静かに物思いにふけりながら外の明るい景色を見ていると、ようやく彼女が奥から出てきた。

扉の向こうで泣いていたとはつゆとも感じさせない笑みを浮かべて、照れくさそうに僕の向かい側に座ると、古ぼけたしゃもじで、白いご飯をひとすくい、使い古した茶碗によそった。

2009年4月5日日曜日

何も残さなかった

30まで生きるつもりはないと、男は日記に書いていた。

『僕のような人間が、いつまでも長生きしていいとはとても思えないのです。両親は、人の役に立つ人間になれ、と言って、僕を育てました。ですが、どうでしょう。生まれてきた僕は、人の役に立つどころか、人に迷惑を掛けてばかりの、ある種、社会の寄生者のような存在に、なってしまったのですから。両親も、心の底では、嘆き悲しんでいるに違いありません。実家に帰って、優しげに僕を受け入れてくれる老いた笑顔をみるとき、僕は自分の存在していること、そのものの持つ罪の深さに、目が回るようでした』

彼の日記は、所々手垢のような物で黄色い染みが浮かんでいた。彼はそれを一気に書いたのだろうか。乾いていないインクの上を掌が滑るように進んでいったものだから、文字が所々すれて、斜めに線が延びたようになっていた。
わたしはこれを書いた彼の肉体労働を知らない、皮の薄い掌が、きっとこの日記に使われたインクと同じ、ブルーブラックの曖昧な色に汚れていただろうと想像し、思わず苦笑せざるを得なかった。

『多くの人は、わたしを笑うでしょう。それならば何故、人の役に立つ仕事をしようとしてこなかったのか、と。いつまでの親にすがっていないで、自立することも出来たではないかと。幸い僕は健康ですし、肉体的に何の障害もありません。精神的に健康かと問われれば、それは自分では何とも判断の付きにくい部分もありますが、しかし、日常生活に特に支障は感じないので、おそらくは健康なのでしょう。そうなればなおさら、僕のしていることは罪以外の何物でもないような気がします。人を欺いてその金品を奪い、生活をしているのと、今の僕はどう違っていると言えましょうか。実質的には、そこに違いはないのです。ただ、一方が個人や法人と言った具体的なものを欺いているのに対し、僕は社会や世の中のような、とかく漠然としたものを欺いて生きていると言うだけの違いでしかありません。人の役に立っているような、さも一人の立派な人間のような顔をして、僕は人並みに通りを歩いていますが、実は、それだけでも一つの立派な犯罪なのではないかと、心の底ではびくびくと怯えているのです。いつか、僕の心の内を明晰に見抜いてしまうほどの眼力を持った人が、目の前に現れて、僕のどうしようもない本質を看破してしまうのではないかと、そのことばかりを恐れています』

彼の日記はここで、数行の空白を残して、次のページに飛んでいる。
しばらくここで何かを迷っていたのか、あるいは、時間的な間隔が実際に開いたのか、次の行からの文字は、以前のものより線が震えて擦れ、全体的に小さくなっているように見えた。

『全体、僕のような犯罪者ほど、社会において罪をなすものはないように思います。自分の利益のために人を殺す様な人間は、確かに極悪非道かも知れませんが、それはよりよく生きようとする、人類本来の向上心が、悪い方向に発露しただけとみることもできます。しかし、それならば、僕はどうでしょう。僕は何の向上も望んでいません。ただ今があり、そして、今日があれば、それで満足なのです。未来のことなど、考えてみても解りません。それはあまりに複雑すぎて、たとえ予定を立ててみても、土壇場になっていとも簡単に覆ってしまうと言うことに、僕は慣れっこになってしまいました。人間に、未来を予想するだけの知性があるのなら、失敗するものなど、そもそもいるのでしょうか。どれもこれもが、運のような気がしてなりません。努力に結果が付いてくると言うのは、誰も皆、成功者なのですから。彼らの足下に散らばる骸の声を、誰が聞こうとするでしょうか。彼らが努力したと言ったとて、皆口をそろえて、それでは努力が足りなかったのだ、と言いくるめます。そう言われれば、そうかも知れないとしか、答えられません。それは何の証明のしようもないからです。努力を測る物差しなど、誰も持ってはいないのですから。あったとしてもそれは、成功と失敗の2極しかない物差しなのでしょう。成功に至らないものは、すべて失敗なのです。言い換えれば、成功に導かない努力は、努力していなかったに等しい、と言うことも出来るでしょう。僕はつくづく、己の無力を感じています。努力とは時間の経過です。しかし成功は、その途中に構えられた一種の門のようなものに過ぎません。そして、人生もまた、時間の経過なのです』


彼の日記は、ここで一度終わっている。
次ページからは何の変哲もない毎日の記録に戻っていた。

彼のような、人生の敗北者に、耳を貸す必要など無いのかも知れない。
実際彼は、社会において何の役にも立たなかったし、私達家族に、彼が何をしてくれたのかと言えば、思い出すのも難しい。老後、彼がいなくなった後の私達夫婦を、支える羽目になるのは、彼の弟とその家族になるはずだ。彼はしっかりしているから、きっと兄のようなことにはならないと私達は期待している。

しっかりしている人間の話は、わかりやすい。
それはいつも、掴めるものを追うからだ。彼の兄のように、掌に入れられないものを追い掛けた人間は、いつも道に迷ってしまう。雲を掴む努力をしたところで、それが何になるだろう。わたしには正直、彼という人間が未だに理解できないでいる。親として彼を世に生み落としていながら、つくづく無責任なこととは思っているが。

ただ、不幸中の幸いは、彼があの飼われた生き物のような生活に、決して安んじていたわけではないと言うことだ。少しでも罪の意識を持っていたというのなら、それがたとえ、私達に向けた形式上のものであったとしても、親として少しは彼の『努力』を認めてやらないでもない。ただし、彼が言うように、成功に至る努力意外には、人は努力とは認めないものだ。そう言う意味では、彼は、何もしていなかったに等しかった。30年、生きていながら、何も。

2009年4月2日木曜日

揺れる

前の席に座っていた彼女が、髪を少し染めてきた。

その変化に、初め僕は気がつかなかったのだが、仲の良い友人の一人が、冷やかすように、僕にその変化を告げたので、僕はようやくそれに気づいたと言う位、それは染めたと言っても微々たる色の変化に過ぎなかった。

ただし、彼女はそもそも優等生的な性格の生徒で、髪を染めるというような、教師に睨みをきかされる危険をわざわざ冒すような感じでもなかった。目立つことも余りしなさそうな、ごく大人しい、真面目な生徒。僕は最近まで、彼女をそう思っていたし、それはクラスの、他の生徒達も、同じはずだった。

何故、急に彼女が、髪をを染めてきたのか。
クラスの、特に僕の身の回りの男子達は、しきりにそのことを噂しだした。僕の顔をちらりちらりと嫌らしい眼差しで見ながら、へらへらとした笑いを浮かべて、彼らは楽しそうに各自の持論を述べ立てた。

「...やっぱ、彼氏だよ」
ある友人が言った。
「だって、急に髪染める理由なんて、他に考えられるか?ぜってえ、男」
彼はそう言うと、歯をむき出して、僕の方を向いてへへへと笑った。
「あいつが、C組の工藤と一緒に歩いて帰るの、見たって奴いるぜ」
「ああ、ヤスコだろ」
別な男子が言った。
「ヤスコがバイト帰りに、駅前で見たんだってさ。7時位だって言ってたから、結構遅い時間じゃねえ?」
「工藤、電車通学だもんな」
にたにたと笑って聞いていた、最初の友人が言った。
「...どっかで時間潰して、送ってったんだよ、きっと」

僕はその話しを、興味があるような無いような、微妙な表情を浮かべながら聞いていた。正直、その話しを詳しく知りたいとは思わなかった。ただ何か、自分の想像できない場所での、彼女の振る舞いや、見たことのないはずの情感のこもった表情が、ありありと脳裏に浮かんできそうになって、僕は慌てて、その思考を抑えていた。

「お前、いいのか?」
最初の友人が言った。
「工藤に取られちまうぜ」
「...べつに、いいよ」
僕は、薄ら笑いの表情を変えずに、彼に言った。
「付き合っているわけでも、ないし」
「だから、子供なんだよ」
あきれたように彼が言った。
「付き合ってるかどうかじゃないだろ、お前が好きか、どうか、だ」
彼は、また歯を見せて、にたにたと笑った。
「行っちまうぞ、そんなこと言ってると。いずれにしろ、損するのは、お前だ」


放課後、僕と彼女は、一緒の掃除の班だった。
体育館掃除という、何とも漠然とした掃除。運動部が、毎日、念を入れて磨いているアリーナに、僕らがすることなど、何もなかった。とりあえず、薄汚れたモップを持って、広い体育館を、縦横に往復する以外、することはないのだ。

掃除が終わり、班の他のメンバーらは、さっさと教室に戻ってしまった。
班長だった彼女は、掃除が終わったことを体育教官室に伝えに行った。僕はそれを見届けた後、他のメンバーの後を追い掛けて、教室に帰ろうとした。


その時、ふと、体育館のステージの上に、バスケットボールが一つ転がっているのに気がついた。誰かが、体育の時間にでも使って、そのままになっているのかも知れない。僕は余り気に留めなかった。だが、気づいていながら、そのままそこを立ち去るのも、後ろめたいように感じた。仕方なく、ステージの上に上がると、そのボールを拾い上げ、手持ちぶさたにドリブルをしながら、用具室の古びたカゴの中に、そのボールを放り込んだ。

「...まだ、なにかあったの」
後ろから、彼女の声がした。
「...ボール」
僕は振り向くと、彼女に向かって、手短にそう答えた。
僕がふり返るとほとんど同じ位のタイミングで、彼女は丸い目を大きく開けて、何か言いたそうにしながら、くるりと向こうを向いてしまった。そして、僕の先に立つかのように、ゆっくりと出口に向かって歩き始めた。

僕も何か話したいことがあったわけでもないし、彼女の後に付いていくようにして、何もない体育館を縦に歩いた。

先に立った彼女の髪は、言われてみると、少し茶色っぽいような気がした。しかし、それくらいの色であれば、光りの加減で、何とでもなるという程度の色の明るさだった。もしかすると、彼女は元々やや赤毛で、最近になって、ようやく周りがそれに気づいたというだけのことかも知れない。僕はその時、そう思った。

先だって歩く彼女の髪が、深い紺色の学生服の上で、彼女が歩みを進める度、ゆらゆらと迷うように大きく左右に揺れた。それは少々、僕にはわざとらしくも見えた。もしかすると彼女は、変化した髪の色に、気づいてもらいたかったのかも知れなかった。

それでも、正直、僕はもう、彼女に話すことなど無いと思っていた。
いつも通りを装っていても、彼女は本質的には別の人間になってしまったように僕は感じていた。恋愛をしてしまった人と、未だしていない人の間には、大きな差異があるように僕は思う。前者はいつも嘘つきで、可能な限り真実を小出しにしようとし、後者は悲しくなるほどに、自分を表にさらけ出そうとする。

今の彼女は、その嘘つきになってしまったのかも知れなかった。自分の気持ちのよりどころを隠し、いつもと同じ彼女を、装っているだけかも知れなかった。僕にかけてくれるどんな言葉も、それは装うための文句に過ぎず、本当の心のありかは何処か遠い、自分の知らない誰かの所にあるのに、違いなかった。

彼女の揺れる、やや赤い髪は、その内心を早く公にしたいという、相反する彼女の心の表れではないかと、僕は思っていた。僕はだから、彼女に、もう何も話しかけたくなかった。言った言葉のすべては、僕の中で嘘になり、傷つくことだけが、いつも真実になってしまうのだ。

真実など知りたくなかった。
嘘なら嘘で、ずっと優しい嘘をついていて欲しかった。
彼女をこのまま恨んでしまいたかった。もう、何を言っても、出来る限りぶっきらぼうに振る舞って、何も話すことなどしないでいてみようと、目の前で揺れる、やや明るくなった様にも見える彼女の髪を見ながら、僕は硬く、心に誓っていた。

「ねえ、」
前を歩いていた彼女が、少し僕の方を振り向いて言った。
「...あんまり、後ろばっかり、見ないでよ」
彼女はおかしそうに笑った。
「いつもそうなんだから。後ろを歩かないで、横に立ってくれればいいじゃない。話も出来ないよ」

僕はそう言われて、咄嗟に彼女の横に立った。
彼女は柔和な笑みを浮かべて、僕を見ていた。それが何を意味しているのかは、解らなかった。

「お姉ちゃんがね、」
やや唐突とも思える間合いで、彼女が言った。
「...わたしの髪は重いから、少し染めてみたらって言ったんだ。髪なんて、あんまり染めたこと、無かったんだけど、そんなに色は抜かないからって」
彼女は自分の髪を右手の指先に少しつまんで、首を傾げるようにして、それを見つめた。
「なんか、ちょっと赤かったかな」
「...気にならなかったな」
僕は言った。
「そう?」
彼女は、意外そうに僕の方を見つめた。
「結構、鈍感なんだね」
彼女はおかしそうに笑った。
「...ついでに、前髪も切ったの、気づいてた?」
「いや、全然」
僕は答えた。彼女はまた、口に手を当てておかしそうに笑った。
「...今日、教室の後ろの方で、わたしが髪染めたこととか、みんなで話してたでしょ?あの人達、今日わたしが学校来たらすぐ気づいて、何で何でって、その話しばっかりしてたの。わたしが、お姉ちゃんに言われたことを話したら、納得したくなかったみたいで、なんだか残念がってた。...みんな、変化をほしがってるんだね、たぶん。恋愛とか、失恋とか」
彼女は、穏やかな表情を浮かべたまま、静かに溜息をついた。
「そんな、面白いことばっかり続かないのは、お互い様なのに。....私達みんな、カゴの中の鳥みたいだよね。本当はもう飛べるのに、飛べないと思いこんで、大人しく、ご飯をもらったりして。出来ることと言えば....、誰かを思って、歌でも歌うくらい。届かないかな、なんて、思いながら」
彼女がふと、僕の方を見た気がした。しかし、それは気のせいのようだった。
僕が見た時には、彼女は平然とした顔で、前を向いて歩いていたから。

その時、彼女が僕の見つめる目の前で、またもや唐突に口を開いた。
「...コンタクトにしてみたら?」
「え?」
「ううん、部活でも楽になるかなって、思っただけ」
そう言うと、彼女は歩く速度を速めて、再び僕の前に立って歩き始めた。そして、体育館の入り口までたどり着くと、小さくなった身体で僕の方を振り向いて、
「...かぎ、閉めるよ!」
そう言って、本当に向こうから扉を閉めて、鍵を閉める動作をした。

僕が慌てて彼女に追いついて、扉を押し開け、今にも鍵を掛けようとしたその手を押さえてしまうと、僕の眼鏡越しに一瞬、僕の目を彼女が見た。そうして、今度は僕の見つめる前で、少し勿体ぶるように、ゆっくりと、誰もいなくなった体育館の扉に鍵を下ろした。

2009年3月31日火曜日

サマー・バケーション

何もない草むらの上にオレンジ色の縁取りのハンカチが一つぽつりと寂しそうに落ちていた。

誰の物だろう。
少年はいぶかしがりながらもそれを拾って、両手の指につまんで、そのハンカチを広げてみた。右下に、風船をもつくまの絵。

明らかに子供向けの、しかも、おそらくは女の子向けのハンカチだった。

尚ちゃんのだろうか。
少年は咄嗟に、近所に住む少女の名前を思い浮かべた。
でも、その少女は普段ハンカチを持ち歩いているような印象はなかったし、こんな何もない辺鄙なところまで、わざわざ遊びに来ているとも思えなかった。ここは集落から大分離れた、丘の上だった。来るのはせいぜい、山奥から木材を運び降ろす軽トラックか、少年くらいのものだった。

一体、誰のだろう。
少年は、ハンカチを裏返したり、ひっくり返したりしながら、何処かに名前が書かれていないかと調べた。しかし、ハンカチのわきに飛びだした説明に、『Made in Taipei』と本当に小さな文字で書かれている以外、名前らしい名前は見あたらなかった。

ひょっとすると、少年の知らない誰かが、わざわざ、ここまで遊びに来て、そうしてこれを落としていったのかも知れなかった。だとすれば、落とした人は困っているかも知れない。少年はそう思ったが、届けたくても、それを何処に届ければいいのか、見当が付かなかった。落とし物は交番に届けましょう。そう、学校では教えてくれたけれど、交番なんて物は、大人に車に乗せていってもらわなければ行けないほど遠くにあった。こんなハンカチ一枚のために、父親が、わざわざ車を出してくれるようにも思えなかった。

少年は仕方なく、そのハンカチを、もとあった草むらに置いた。
そして、後ろ髪引かれる思いで、その丘の上を後にした。



翌日は雨だった。
少年は家の窓から、白糸のように降りしきる雨を見つめていた。ざあっ、と言う音が、家の中のすべての小さな音をかき消して、そして世界の余計な音までも雨の音に染めていった。雨の降る日は、だから不思議と、雨音の分だけ世の中が急に静まってしまったような寂しさを感じた。

昼なのに薄暗い家の中から見える空には、分厚い雨雲がたれ込めていた。
少年が見ている間にも、雨雲は時々そのずっと上の方で、ぴかりぴかりと閃光を発していた。雲全体が、なんだか薄青い炎を纏っているようで、気味が悪かった。


ふと、目を地面に向けると、母親が取り込み忘れたのか、小さな靴下が一つ、雨ざらしになった庭の上に落ちていた。靴下は泣いているようにも、いじけているようにも見えた。忘れられていることをねちねちとひがんでいるのか、それはじっと雨に打たれたまま、泥を浴びた庭の上で、やけに白く光って見えた。

それを見て、少年は昨日拾いかけた、一枚のオレンジ色の縁取りのハンカチを思い出した。あのハンカチも、今あの靴下のように、雨に打たれて、すねたように昨日の草むらの上で、じっと拡がっているのだろうか。そう思うと、彼は、なぜだか後味の悪い物を感じた。

ハンカチに、実は謝らなくてはならないような、妙な気持ちを抱いて、少年は窓の向こうの一足の靴下に対してさえ、それ以上だまって見つめていることが出来なくなった。母親に見つかったら、むしろ怒られるのではないかと思いながらも、少年はわざわざ彼の青い長靴を履いて、そして、黄色い雨傘を差して、激しく雨の降る雨中に出た。

家の雨樋から垂る大きな水滴が、彼の傘の幕に当たって、ボツボツという張りのない、低い音を立てた。彼は、自分の手を必要以上に汚さないように、人差し指と親指の間に濡れた靴下をつまんで、汚い物でも運ぶような格好で、それを玄関の中まで持ってきた。

靴下からはびちゃびちゃと、汚い泥の雫が絶えず落ちていて、持ってきたのはいいものの、玄関に脱いだままになっていた父親の黒い革靴の上に泥水が随分と垂れてしまった。
そのまま上がってしまったら、母親に大目玉を食らいそうなことくらい、少年は重々承知していたので、迷った挙げ句、彼はその靴下を、玄関の誰も見向きもしない暗い片隅に、そっと寝かしつけるように、広げておいた。


玄関を上がって、元いた場所に戻ってきても、彼には、その靴下が心残りだった。
水を絞ることも考えたが、そうすれば、今度は自分の手が汚れてしまう。そこまでして、靴下を拾ったところで、泥だらけの靴下を、母が何処まで受け入れてくれるのか、解らなかった。それを洗濯機に入れるような母だろうか。それとも、それを汚いと捨ててしまうのだろうか。少年には解らなかった。どっちの結末も、彼には余りいい気がしなかった。

結局、雨中に忘れられた靴下は、いずれにしろ余りいい最後を迎えることはなさそうだった。少年は、靴下に対して、少し申し訳ないような気持ちを抱いた。昨日まで黙って履かれていた靴下を、こんな最後に終わらせてしまうのが悲しかった。


翌日は打って変わって、嘘のような快晴だった。
雨の降った後の空は、同じ空とは思えないほど高く、澄んでいた。
山の緑は生まれ変わったように鮮やかに輝き、草葉の先端には小さな雫が留まって、見る角度によって、女の人が耳に付ける宝石の飾りのように、ちらちらと踊るように光を放った。

少年は、朝ご飯を食べると、すぐにあの丘に登った。
あの日からずっと気がかりだった、一枚のハンカチの無事を、一刻も早く確かめたかった。

草むらにたどり着くと、少年はすぐに、ハンカチのあった場所を丁寧に探し始めた。
雨の乾ききっていない草は、すぐに少年の腕を濡らし、半袖のシャツに幾多の水玉模様を浮かび上がらせた。雫が半ズボンの先から出た腿を濡らして、ひやりと冷たかった。それでも彼は、筋の細い、硬い草をかき分け、その下にあのハンカチが、悲しげに眠っていないかを確認するために、あちこちに草むらを見つけては、そこに飛び込んだ。

しかし、彼がいくら探しても、その場所にはもう、あのハンカチは見つからなかった。昨日の雨の後、少し風が出ていたような気もした。少年は探す場所を少し変えて、近くに生えた高い木の途中まで昇ってみたりして、隈無く辺りを探したが、もうあのハンカチは、何処にもいなかった。

少年の頭の中に、あの風船を持ったくまの絵が寂しく浮かんだ。
風船を持ったくまは、頭の中でも楽しそうに笑っていた。ちょうど遊園地で、大人に風船を買ってもらった時の少年のような、跳ねるような足取りで、オレンジ色に縁取られたハンカチの中でくまは歩いていた。

少年は、一昨日、ハンカチを持って帰らなかった自分を悔やんだ。
あのハンカチが、好きだったわけではないのだけれど、それを持って帰るのを躊躇ったばかりに、永遠に、もう彼の前から失われてしまったことに気づいて、小さな背中が、なぜか、すうっと冷えていくのを感じていた。

2009年3月24日火曜日

メルカトル

ミドリガメが目の前をゆっくりと這っていく。
ナオコに言わせると、それは散歩なんだそうだ。

「だって、カメだって生き物でしょう」
彼女は妙な色のペディキュアを足の指に塗りつけながら言う。
「きっと、狭い水槽じゃ、気が滅入っちゃうよ」

カメに滅入るだけの繊細な神経があるのか、僕はよく知らない。
それを知ってたところで、何になるだろう。ただ、カメを飼うのに、以前よりもこっちが気を遣うようになって、何のために、この手の掛からない生き物を僕らのペットに選んだのか、解らなくなってしまうのが、オチじゃないだろうか。

「ミドリガメは、あんまり陸が得意じゃないみたいだよ」
僕は彼女の足の指先を見つめながら、控えめに言った。妙な色は次第に、足の爪の上で、面積を伸ばしていく。なんだか、気分が悪かった。

「でも、ずっと水に入れてたら、カビが生えてきたでしょう?」
彼女が苛立った調子で言う。
「それじゃいけないって、あなたが言ったんじゃない」
彼女はようやく満足がいく具合になったらしく、爪に色の付いた足を不格好に高く持ち上げて、少し見上げるような姿勢をして見せた。足の指の先を、無意味に曲げている。

「水をちゃんと換えてれば大丈夫だよ」
僕は彼女の高く上げた足を、一緒に見つめながら言った。身体の少し硬い彼女は、足を高く上げようとすると、膝が先に曲がってしまう。そのうち、腿の裏側の筋肉がつってきたらしく、高く足を上げるのを止めて、ごろりと背中を付いてしまった。

頭の後ろに手を組んで、口をへの字に結んで仰向けに天井を見上げている。

「あ、蛾の死体」
彼女が、天井の隅を指さしながら呟いた。

僕も、彼女の指さす方を見上げた。そこには確かに、蛾の死体がくっついたままになっていた。もう、ずいぶん古い物らしく、主のいなくなった蜘蛛の巣に絡まったまま、腐りもせずに残っていた。でも、よく見ると表面は、うっすらと、深緑色の藻のようなカビに覆われていた。

「...モス」
彼女は蛾の死体を指さしたまま、そう言って、おかしそうに笑った。
何がおかしいのか、僕には解らなかった。

「...ああ、つまらない」
彼女は持ち上げていた腕を、ばたりと畳の上に落とした。
そして、また口をへの字に結んで、天井を見つめていた。

「あのさ、」
僕はおそるおそる、彼女に話しかけた。
「何で、僕を呼んだわけ?」
今日は、バイトの日だった。彼女が急に、会いたいというものだから、僕は何かあったのかと思い、友達にわざわざ換わってもらって、ここに駆けつけたのだ。

「...悪かった」
彼女は、目だけを僕に向けて謝った。
「悪気は、無いの」
つまらなそうに、また天井を向いた。僕よりも、天井を見ていた方が、未だ飽きないらしい。

彼女はやがて、静かに目を閉じた。
キスでもしろ、と言うように、口を半開きにして見せている。

僕は戸惑った。
さっきから、気になっていたんだ。

カメが、僕らを見ていた。


「...ねえ」
僕は恐る恐る彼女に呼びかけた。
「...ん?」
半開きの口が答えた。
「...カメが、見てるよ」

彼女は、ふと、目を開くと、身体を半分起こしてカメを転がしておいた方を見つめた。しかしカメは、彼女が見つめる頃にはもう向きを変えていて、そっぽを向いたまま、つまらなそうに歩き始めていた。

「...見てないじゃん」
彼女が、ふてくされたように僕を睨み付けた。
見てたんだよ。
僕は言葉を口の中でかみ殺した。

「まあ、いいけどね」
彼女はごろりと横になると、身体の向きを変え、僕に背中を向けてしまった。
「...なんか、つまんないの」

彼女の背中が、少し小さく見えた。もしかすると、泣いているのかも知れなかった。でも、下手に触ると、彼女のことだから、きっと、ペディキュアの乾いていない足で、僕を足蹴にしてしまうのだろう。

僕はそれが怖かった。だから、あえて彼女には触れないようにしていた。

彼女の向いた先には、安っぽい窓枠の嵌められたガラス戸が僅かに開いたままに放置されていた。その向こうから西日が差し込んできて、部屋は妙に明るかった。

「...ねえ」
彼女が向こうを向いたまま言った。
「...もう、帰ってもいいよ」

彼女の小さな背中は、いつまでも小さなままだった。

気がつけば、カメの姿も、もう無かった。


でも、カメが見つめていてもいなくても、彼女の背中は触れるにはあまりに小さすぎて、僕は何も出来ずに、半分伸ばしかけた右の手を、静かに降ろした。

2009年2月21日土曜日

『カタワラ』:18

「ねえ、ちょっと、どこ連れてくの」
車の中でアイマスクをつけられた眞菜がうれしそうに声を上げた。

「また倒れたって知らないよ!」
「心配すんな」運転席の徹さんが言った。「優秀な担当医が二人も付いてる」
「……ぼくは医者じゃないですよ」賢治が言った。
「眞菜の専属医だ」徹さんは眼尻にいっぱいしわを寄せて笑った。
「この間の森での処置は、みごとだったぞ」

あれをやらなきゃ、眞菜はとっくに死んでたかもな。
徹さんはよほど上機嫌なのか、思わず、そんな物騒なことを言ったので、アイマスクの下の眞菜の口元が、風船のように膨れた。
「……医者にあるまじき、デリカシーのなさ」
眞菜はそう言って、見えないはずの窓の向こうを見るように、顔をそむけた。

車はやがて、どこかの場所についた。
賢治は眞菜にあの例のガスマスクをかぶせ、彼女の手を引いて足早に建物の中に駆けこんだ。
玄関先で、彼女の体にわずかについた花粉を念入りに取り除くと、そのまま建物の奥に入った。

「……やっときたあ」
ガラガラと扉を開ける音がして、聞き覚えのある声が眞菜の耳に入った。
「この声、聞き覚えがある……、瀬希?」
瀬希はうれしさに小さな体をいっぱいに伸ばして、ひとみをらんらんと輝かせた。

「マナマナ!ひっさしぶりい!中学校以来だね!」
見えもしないのに、瀬希は眞菜の顔の前で手を振った。
「早く、瀬希の顔が見たいんだけど」眞菜が言った。「……まだ、とっちゃダメ?」

「もう、いいよ」賢治が言った。
眞菜は恐る恐る、アイマスクを取った。
そして、はっと、息をのんだ。

目の前にあったのは、大きな柳のように流れる、枝垂桜だった。
そこは、かつて彼らの学んだ、小学校の理科室だった。窓も大きく、枝垂桜にも近いこの場所は、彼らが“花見”をするにはうってつけの場所だった。土日の連休中で、小学校に他の児童の姿はなかった。彼らは、その日当直だった知り合いの先生に頼んで、少しの間、ここへ入れてもらったのだった。

賢治と瀬希は、あらかじめこの部屋をきれいに清掃し、眞菜の家から持ってきた空気清浄機をかけっぱなしにして、昨日から準備していたのだった。

桜は、理科室の大きな窓いっぱいに、桃色の花をつけた枝を揺らしていた。そよ風が吹くと、その枝先から、零れ落ちる滴のように、花びらが舞い散った。

明かりを消した薄暗い理科室の窓から見えるその光景は、さながら、スクリーンに映る映画のワンシーンように、眩しく彼らの瞳に焼き付けられた。

「……満足した?」
眞菜の隣に立った瀬希が、下の方から、眞菜の顔を覗き込んだ。
「……ええ」
眞菜は涙をいっぱいにためた目で、その光景を見つめていた。
賢治はそれを見て、うれしそうに微笑んだ。

「……なんか、こうしてると、思い出すね」
瀬希が言った。
「小学校の時、みんなで、あの桜の下で、お花見、やったっけね」
「……あの時、一緒にいたのは、瀬希だったっけ」
眞菜が言った。

「もしかして、忘れてたの?」
瀬希があぜんとした顔で眞菜を見つめた。
「……ひどいよ、マナマナ……」

「そういえば、桜に気を取られて、ちゃんと見てなかったけど、」
眞菜がじっと瀬希の顔を見た。
「……ずい分、大人っぽくなって……、“きれい”になったんじゃない?瀬希」
瀬希の顔がみるみる喜びに満ちた。彼女は思わず、眞菜に抱きついた、小柄な彼女が抱きついても、肩ほどまでも頭が届かなかった。……親にじゃれる、子供みたいだな。脇で見ていた賢治は苦笑を浮かべて一人思った。

「……賢治」瀬希に抱きつかれたままの眞菜が、賢治の方を向いた。
「……薫さんは、どうなったの」

薫はそのころすでに、他県の大学に通うため、引っ越してしまっていた。本当は瀬希も賢治も引っ越しは既に済んでいたのだったが、この桜が咲く時期に合わせて、一度帰ってきていたのだった。

「……声かけたんだけど、新しい生活の準備で、いろいろ大変だから、今回は、ごめん、てさ」
賢治はそう、眞菜に伝えた。

「……そう、か」眞菜は残念そうに言った。
「……一度、ちゃんとお話ししてみたかったな、彼女とは」
眞菜は、桜に目をやった。二羽のモンシロチョウが、校庭の隅をじゃれあいながら、過ぎて行くのが見える。
校庭の隅の菜の花が、左手から右手へ流れる風にたなびくように揺れた。

「似てると思うんだよね。彼女」
眞菜は窓を見ながら言った。
「賢治からの話を聞いてるとさ、彼女、あたしに、よく似てるなって、思えた」
「……どういうところが?」
眞菜に抱きついたままの瀬希が、不思議そうに眞菜を見上げて尋ねた。

「なんだか、せっぱつまってるところ」
眞菜は困ったような表情を顔に浮かべて言った。
「せっつかれるように、今日を生きているところ、と言えばいいのかな……。今日を大事に生きてはいるんだけど、未来を見る余裕があまりないって感じが」

「……でも、眞菜の場合は、難しい病気を持ってるって所為もあるだろう」
賢治が言った。
「あいつは何ともないんだけどな」
「……彼女はたぶん、何かをし続けなければいけない人なんだよ」
眞菜が言った。
「ぐらつく足下の上で、彼女は必死にもがいているんだ」

何もしなければ、何も生まれない……。あの日、病院の待合室で聞いた薫の言葉が、ふと彼の頭の中をよぎった。

頼るもののない彼女が、未来を切り開いていくには、今、目の前にあるものと、格闘していくしかなかった。それは、先行きの見えない不安な生き方ではあるだろうが、賢治はひどく、それをたくましいと感じた。

「俺にはできないな、ああいう生き方は」
賢治が言った。
「そうだね」眞菜が言った。「……私も、見習わなくちゃな」

「……なあ、眞菜?」
急に改まったような賢治の語りかけに不意を突かれたのか、眞菜が、えっ、と驚いたような声を上げた。
「まだ、ケーキ屋さんになりたいと思ってるか?」
彼女はおかしそうに、ぷっと吹き出した。

「……そんなこと、まだ覚えてたの?」
恥ずかしそうに笑った。
「……もう私は、忘れてたよ」

「……なって、くれないかな」賢治が言った。
眞菜は、もう一度、えっ?、と小さく声を漏らした。

「……俺の、いつか開く喫茶店で、眞菜の焼くケーキを出すんだ」

それは、眞菜が初めて豆腐入りのケーキを作った日から、賢治がぼんやりと温めていた構想だった。賢治の開く田舎の喫茶店で、彼女がケーキを焼く。彼女の作る、アレルギー患者でも安心して食べられるケーキが店のメニューに並んだら、どれほどいいだろうかと、賢治は思った。アレルギーのある人も、無い人も、同じテーブルを囲んで、同じケーキをつつくことができるのだ。眞菜が夢に見た『あたりまえ』を実現できる小さな貢献ではないかと賢治は思った。

その提案を聞いて、眞菜は照れたように微笑んでいた。
そして、また、桜の方に向き直った。

「……早く帰ってこなきゃだめだよ」
眞菜が言った。
「賢治のお母さんみたいに、私は長くは待てないからね」

……おう。と賢治は小さな声で言った。
眞菜は桜を見たまま、照れくさそうに、しかし嬉しそうに、クス、と笑ったらしかった。

「マナマナが、ケーキ屋さん?」
隣で見ていた瀬希が、驚いたように言った。
「……コーヒーも入れられない、マナマナが……」

「瀬希」眞菜が瀬希をふり返った。
「それ、誰に聞いたの?」
眞菜の気迫に驚いた瀬希は、あわてて賢治の背中に隠れた。

「マナの……、お、お父さんに……」
「お父さん……」苦々しそうに眞菜が呟いた。
理科室の扉の向こう側から、一人の人影が、あわてて逃げ去っていくのを賢治は見た。

「賢治」賢治の背中に抱きついていた瀬希が賢治を見上げた。
「……が、がんばってね、これから。応援、してるから」
瀬希は心配そうに賢治を見上げていた。
ああ、お前もな。
賢治はそう言って、昔、そうしていたように、小柄な瀬希の頭をぐりぐりと撫で回した。

瀬希は頭を洗われる子供のような顔をして、ひい、と言って笑っていた。


賢治はふと気になって、窓から外の景色を見た。理科室の窓から見える春の空は青々と晴れ渡っていた。ところどころに浮かぶ綿菓子のような雲が、上空の強い風の流れを受けてか、いつもより早く流れ去っているように見えた。

それは天候の悪化する前兆だと、かつて父から聞いていた。

どんな天気にも、必ず前触れがある。父は幼い彼にそう言っていた。
それを読み取れるかどうかは、どれだけ毎日、空と向かい合っているかで決まるんだ。

空の機嫌を普段気にしてもいない奴に、快晴や嵐の前触れを自然は決して見せてくれないさ。

賢治、毎日怠るなよ。
父は口癖のように、そう言っていた。

普段何気なく身近にあるものでも、何気なく見ていてはだめなんだ。
父はそういうことを言いたかったのだと、今になって彼は解った。

空を流れる雲は次第に、元の丸い形から、細くたなびくような形に変わっていった。雲の底は上端の純白な、綿菓子のような様相とは打って変わって、雷雲を思わせる暗い色を帯び始めていた。

ひと雨、降るかもな。

賢治はまだ青い空を見ながら、ふと思った。



[終]

2009年2月20日金曜日

『カタワラ』:17

「一体、どうして、お前たちがあそこにいたんだ?」
病院の待合室。もう誰もいなくなった広い玄関ホールに、賢治の怒号が響いた。
薫は椅子にすわり、何も言わず、ただ口の先を幾分とがらせるようにして、じっと黙っていた。

「……まさか、お前が連れ出したのか」
ちがう!とでも言うように、薫は、きっと賢治を睨みつけた。
しかし、彼女はそうして目で訴えるだけで、それ以上何も言おうとはしなかった。

「……黙ってても始まらないだろう」
賢治が諭すように言った。「教えてくれないか」
「……私だって、知らないよ」薫がようやく口を開いた。
「ただ、私が眞菜さんの家に行こうとしたら、ちょうど彼女が玄関から出てきたの。マスクにゴーグルって格好で、どこか危ない所にでも行くのかと思った」
所在無げに、膝を動かしていた。

「どこに行くんだろうって思ったから、そのあと彼女についていったの。そしたら、あの木の下のところで立ち止まって……」
何かを、探してるようだった。薫はそういった。

「……でも、結局それを見つける前に、彼女胸をさえてうずくまりだしたの。だから……」

薫はそういって、賢治から顔をそむけた。泣いているらしかった。
「……ごめんなさい、勝手に、眞菜さんちにまで押しかけて……」
彼女の口から、嗚咽が漏れた。

彼はそれ以上、彼女に何も聞けなくなった。

眞菜が、何を探していたのか、彼には心当たりがなかった。だが、それは真菜が倒れていた場所にあったはずだった。
明日、明るくなったら、もう一度行ってみよう。賢治は思った。


「……ねえ、賢治」
泣いていたはずの薫が、賢治を見つめていた。
まだ涙が目尻に、零れんばかりの大きな雫となって残っていた。
「……眞菜さんのこと、どう思ってるの」

賢治は、すぐには答えられなかった。やや間が開いた後、呟くように、
「……幼馴染、だよ」
と、答えた。

「……それ、だけ?」
薫は言った。そして、涙のたまったひとみで、クスリ、と笑った。
「……最低」

薫が賢治を睨んだ。
その瞳には今までよりずっと強い、怒りに似た感情が込められていた。
「彼女がここまで思い詰めていたのに、あなたはまだ、私の前ですら、彼女との関係をはっきり認められないの?……いつまでも、そんな意気地のないこと、言ってるから……」

そういうと、彼女は、制服のポケットから、一個の錆ついた古い缶を取り出した。
封はすでに開いていた。
「……眞菜さんが倒れた木のそばに、転がってたの」薫は言った。
「彼女が探してたのは、これじゃないかってとっさに思ったから……、拾ってきた」
渡された缶の中には、二枚の紙切れが入っていた。
賢治は、紙きれの一つを缶から取り出し、おもむろに開いた。

手紙にはつたない字で、次のようなことが書かれていた。


おっきくなったら
しょうぼうしゃかきゅうきゅうしゃか
おいしゃさんになりたいです

けんじ

それは、幼いころの賢治の夢が描かれた紙だった。
そう言われてみれば、そう言うこともあったかも知れない。賢治はおぼろげながら、思い出した。眞菜と二人、まだ、小学校に入ったか入らなかったかの頃、あの樹の下まで、よく森を探検して、そうして、その時の二人の夢を、紙に書いて、埋めたと言うことが。

懐かしさに緊張を忘れ、彼はそれまで無意識に強ばらせていた顔が、穏やかさを取り戻していくのを感じながら、箱の中に残った、もう一片の紙切れを開いた。それは、眞菜が書いた手紙だった。


おっきくなったら
けえきやさんになりたいです

あと、けんじのおかあさんか、およめさんになりたいです

まな


「……私も、さっき中身読んじゃったの」
薫が言った。
「そうして、思った。……勝てないな、って」
彼女は誰もいない待合室の椅子の上に、ごろりと横になった。飾り気のない白い天井が、彼女の瞳にさかさまに映った。彼女の表情には先ほどの怒りはもう無かった。ただ、あきらめたような、安堵を伴った安らかな表情をしていた。

「離れているとか、手が届かないとか、あなたたちには正直、もう関係ないんでしょう?」
天井を見詰めたまま、誰に言うでもなく薫が言った。
「そういうの、どうしようもなく憧れるんだよね……。私、小さい時から、引っ越してばかりだったから」
体の向きを変えて、彼女は賢治に儚げな背中を向けた。短く切った後ろ髪越しに、彼女の細い首筋が透けて見えた。

「……幼馴染、か」
薫はぽつりと言った。

「簡単に言うけど、それに恵まれない人間だって、いるんだよ……」
言葉尻は、消え入るようだった。

彼は、その時、ふと、いつか夏の終わりに、薫と交わしたくちづけの味を思い出した。
そして、それに対して、動揺以外の心理が浮かんでこなかった自分を思い返していた。思えば、あれも似ているような気がした。どれだけ近くても、届かない、眞菜の差し出す荒れて硬くなってしまった、小さな手に。

触れあっているからと言って、わかり合ったことにはならない。
皮膚の表面から、身体の奥底までの、どうしようもない距離感を賢治は感じた。


しばらく、無言の時間が続いた。
やがて、彼女は向きを変えて、あおむけになった、そして、右の手を、不安から身を守るかのように、そっと自分の腹の上に乗せた。
彼女は楽しそうに笑った。

「……そんな固い絆に、この1年で挑もうとした私を、笑ってくれる?」
彼女は、おかしがって所々吹き出しながらしゃべったので、その言葉は途切れ途切れに賢治の耳に聞こえた。

「……でも、そうせざるを得なかったの」
彼女の表情に、ふと、悲しみの影が浮かんだ。

私には、自分から進んで作ってきた絆しか、無かったから。
彼女はそう言った。

「何もしなければ、何も生まれない……。もともと存在した関係なんて、血縁以外には、私には無いんだよ。仲良くなりたければ、恥ずかしいのをこらえてでも、相手にアプローチしなくちゃいけない。そうやって、みんなそれなりに苦労して、紡いできた関係なんだ」
薫の瞳はしっかりと天井を見据えていた。
もう、涙に濡れた悲しみも、自虐するような笑いも、その表情には無かった。
「……そして、それは、これからも続いていく」

「でも、真菜さんはそれを見つけて、どうするつもりだったのかな」
薫は賢治の方を向いて言った。
「……今更そんなものを掘り返すまでもなかっただろうに」

賢治には、おおよそ察しが付いていた。
眞菜は、この手紙を破り捨てようとしたのではなかったか。

過去の思い出とともに、賢治ともう縁を切る覚悟で、彼女はいたのではなかっただろうか。
気分のすぐれない中、寝室の見飽きた天井を見つめて、彼女は賢治よりも多くの時間、考え続けてきたに違いなかった。自分のこと、そして、賢治とのこと。その結果下した結論が、彼との別れだったのだ。

「……薫が言うように、おれが恵まれていたんだとすれば」
賢治が言った。
「それはある意味、ハンディキャップでもあるのかもしれない。……人と人のつながりを、あまり意識してこなかった。薫みたいに苦労しなかった分だけ、それを大切にしてこなかった。……なんか、そんな気がする」

賢治は、真菜の手紙を錆びついたクッキー缶にもどし、彼の学生服の上着のポケットにねじ込んだ。

『治療中』の赤い明かりが付いたままだった処置室から、ようやく徹さんが出てきた。
いつも見る、着古したスウェットのシャツではなく、上下真っ白な白衣を着て、しっかりとした造りの医療用のマスクも付けていた

「……ようやく、血圧が落ち着いたよ」
顔の半分ほどもある緑色のマスクを取り外しながら、ほっと安堵したように笑った。
「ただ、今回はちょっと重症だから、2、3日は容体が不安定になるかもしれない。……とりあえず今日のところは大丈夫そうだから、君たちはもう帰った方がいいよ」

賢治と薫は、ご迷惑をおかけしましたと、口々に謝って、病院を出た。


薫を家の前まで送って行ったあと、賢治は自転車をゆっくりとこぎながら、考えていた。
もう時間は夜半近くになっていた。町の中央を走る国道とはいえ、時々運送会社の大型トラックが走り過ぎる以外に、車の通りはなかった。

眞菜とは、確かに離れてしまうかもしれない。
賢治は思った。
でも、それが、何だというのだろう。

どんな遠くの海を目指した船も、いずれ、元の港に帰るのだ。

……幽霊船でもあるまいし。賢治はひとり笑った。
港がしっかりしてなくちゃ、安心して旅にも出られない。

賢治は自転車をこぐ速度を速めた。
開けた場所から見える港の全景が、かなたから聞こえる動力機関のベース音に乗せられ、賢治の耳は一瞬、船の甲板で聞く潮騒の音を聞いた気がした。

『カタワラ』:16

「いま、どこにいるんだよ!」
あわてて靴を履きながら、賢治は受話器に向かって怒鳴った。

「……わからない……、どこ?、なんだか深い森の中」
暗闇の森だ。賢治は真っ先にそう思った。
しかし、なぜ、二人があの場所に行ったのか、彼には全く見当がつかなかった。

「……眞菜の様子は、どうだ?」
賢治は放っておけばどこかへ行ってしまいそうな自分の気持を務めて抑えるようにしながら、彼女の容体を聞いた。
「……なんだか、ひどく苦しそう、ぜえぜえ言ってる」
喘息の発作が起こったのかもしれない。賢治はそう思った。
たとえマスクをしていても、原因物質を完全に防ぐことはできないと徹さんから聞いたことがあった。
ほおっておけば、真菜の呼吸はどんどん苦しくなるだろう。

薫に、少しそこで待っているように連絡して、賢治は一度電話を切った。
「……徹さん?」賢治はすぐに徹さんに電話をかけた。
「おう、賢治、どうした」明るい彼の声が聞こえた。
「……眞菜が……、倒れたらしいんです」
電話の向こうで、眞菜の父が医者の顔になるのが彼には分った。
「いま、友達がすぐそばにいるみたいなんですが……、どうも森の中らしくって、……いったいなんで、あんなところに!」
「……まあ、賢治、落ち着け」
徹さんが低い声で彼をいなした。
「森に行く前に、うちに寄ってくれないか。そこに、眞菜の緊急用の吸入薬がある。……それと、新しいマスクを持って行ってくれ」
徹さんは、そのほか、ニ三の処置を賢治に指示した。
「……いいか、賢治、落ち着いてやれよ。……僕もすぐ家に帰るが、それまでは君が頼りだ。特に森の中のことは、誰も知らないんでね」
そして、ややあって、一言、
「……眞菜を、頼む」祈るように、そう言った。

眞菜の家に立ち寄って、徹さんが指示したマスクと、吸入薬を探した。真菜はすぐに帰るつもりでいたのか、家のかぎは空いたままだった。指示したものは取り出しやすい場所にまとめて透明なビニールの手提げ袋に詰めて置かれていた。賢治はその袋を手に提げて、深い森の中に分け入っていった。


太陽はすでに、沈んでいた。
西の残光が、かろうじて森の中に、一本の道を示していた。紅葉は、紫色の夜の気配のなかで、不気味に闇を増すばかりで、風が吹くごとに、その乾いた葉が、かさかさと音をたてた。

「……賢治……」
再び薫に電話をかけると、不安げに彼女が言った。
「……まだ?……、呼吸が、どんどん荒れてきてる……、」
電話の向こうから、かすかに真菜の、ぜえはあ、ぜえはあ、と喘ぐ苦しげな呼吸音が聞こえてきた。
壊れたふいごのようなその声を聞いて、賢治はさらに道を急いだ。

「何か、目印はないか」
賢治は薫に言った。
「……目印……」賢治に言われて、薫はあたりを見回したようだった。しかしすぐに
「……そんなものないよ。この暗い森で、何を目印にすればいいわけ?」
取り乱したような声が聞こえてきた。
「……何か、些細なものでもいいんだ」
賢治は努めて冷静に言った。「……頼む」

薫は再び気を静めて、あたりを見回したようだった。しかし、彼女には目印になるようなものは見つけられなかった。
「……なんにもない……、なんか、葉っぱのすべすべした、変な木の下にいるってだけ」
「葉っぱの、すべすべした……」
賢治はそれを聞いて、はっと思い当った。遠い記憶をさかのぼった。秋になっても葉を落とさない、すべすべの葉っぱを持つ木。それは森の中に、複数生えていたが、真菜と彼が何度も通ったのは、そのうちたった一本だった。
……あの、タブの木の下だ。

「……待ってろ、薫。わかった」
賢治の口元に思わず笑みが浮かんだ。彼の足は速度を増して、暗がりに沈む森を駆けた。


「賢治!」
暗がりの中から、袋を持った賢治が飛び出してくると、薫は驚きと、喜びがないまぜになった顔をして、思わずそう叫んだ。
眞菜は、薫の膝にもたれかかるようにして、すでにぐったりとしていた。
苦しそうな真菜の息が、マスク越しに聞こえた。

賢治は急いで袋から、吸入薬を取り出すと、眞菜の頭にそっと大きな袋をかぶせて、余計な花粉が入らないようにした。暗くなってきたので、そして、その中で真菜のマスクを外し、吸入薬を彼女の口にあてがって、薬剤を気管にそっと送り込んだ。
しばらくそうした後、彼は彼女に、家から持ってきた新しいマスクをつけた。それは、作業用の防塵マスクのようなもので、口の先に、武骨な円形のフィルターがついたものだった。その形は、映画で見た、ガスマスクによく似ていた。彼女にとって、この世界は、ここまで住みにくいものなのか。賢治はとっさに、そんなことを思った。

「……早く行こう」
一通りの処置を終えると、賢治は真菜を背負って森の道を走り始めた。気を失った眞菜は、賢治の肩にしがみつくこともできず、何度もずれ落ちそうになった。薫がやがて、後ろから眞菜の両肩をそっと支えた。二人はそうして歩調を合わせるようにして、前へ前へと進んだ。

日はすっかり落ちていた。森の外よりも、森の中は、夜が早くやってきた。道はもう、ほとんど見えなかった。かろうじて森の木々の隙間から洩れて来る月の明かりだけが、彼らの頼りだった。森の出口は、太陽の明かりでのみ、彼らに認識された。こう弱い光の中では、すぐそばに出口があったとしても、それが出口と認識されるのは難しかった。正しいはずの道で、彼らは何度となく迷った。そうして、そのたびに、背中の真菜のすっかり冷え切った手脚が、彼の心に重くのしかかってきた。

そのとき、ぽつりと小さな光が、彼の視野に飛び込んできた。星というには明るい光だった。
「……車だ」
賢治が呟いた。

「……徹さん!」森の出口で待ち構えていた、徹の車のヘッドライトだった。

2009年2月18日水曜日

『カタワラ』:15

家に帰っても、賢治の気持ちは、囚われたままだった。
眞菜とのことがいつまでもぐるぐると頭の中を廻っていた。

夢なんて、無いよ。

あのときの眞菜の一言が、気になって仕方がなかった。

本当に、あいつには夢なんて無いんだろうか。
賢治は思った。

いくら、しんどい病気だからといえ、生きていれば、誰だって、小さな夢の一つくらい描くものではないのだろうか。

もし、本当に、今の眞菜に夢がないのだとしたら……。

彼はそれを考えると、背筋がぞっとした。
夢の描けない生活というものの、背後に寄る辺のない、せっぱ詰まった心境を、一端だけでも、かいま見た気がしたからである。

眞菜に、夢を与えなくちゃ行けない。
彼は強くそう思った。今のままでは、いくら何でも、悲しすぎはしないか?今の眞菜は、いったい何のために生きているというのか。ただ、いつか年取って、死んでしまうのを、待っているだけじゃないか。

同じ高校生で。
賢治は思った。
同じ高校生で、それは、あまりにひどすぎる。生きると言うことの価値を、誰よりも知っている人間が、どうして、誰よりも死に近い場所にいなくてはいけないのか。どうして、夢から遠い場所に、居なくてはいけないのか。

眞菜は彼女の言うように、普通の世界の『カタワラ』にいて、どれだけ手を伸ばしても、それに対して何も出来ない存在なのかも知れなかった。それならば、世界の方から、彼女に手を差し伸べることは出来ないのだろうか。彼は思った。

それが、自分が傷つけた眞菜に出来る、最大の罪滅ぼしになると彼は思った。そして、彼の中には、おぼろげながら、すでに、そのあてもあった。

だが、彼と彼女の関係は、今、すっかり冷え切っている。
何を始めるにせよ、まず、これをどうにかしなくてはいけないと考えていた。

「……賢治、いつまで寝てるの」扉の向こうから、母親の声がした。
「……悩み事」賢治は答えた。
「また、眞菜ちゃんのこと?」
扉の向こう側で、母親が溜息を吐くのが聞こえた気がした。
「なんだかんだ言っても、仲良しなのね、あなたたち」

「そうかな」賢治は母の言葉に素直に同意できなかった。
「……お互いを無視できないって言うことは、仲良しって事なの」
母は言った。「離れていても、相手のことを考えてるって事も」

「……でも、心配しているのは俺だけかもしんないよ」賢治は言った。
「あいつはもう、あいつと俺が仲直りしても、意味がないって言ってた」
扉の向こうの母は急に静かになった。
しばらくの間、沈黙が続いた。

「……賢治、一つ質問なんだけど」ややあった後、母が言った。
「あなたはもし、片思いの相手が、別な誰かを好きになりかけていることを知ったとして、」
「その別の誰かと一緒になる方が、その人のためになるって解った場合に、……その人を、諦めたり、する?」
「……わかんないよ、そんなの」
賢治はぶっきらぼうに答えた。

「……眞菜ちゃんは、今、そう言う心境なんじゃないかな」母は言った。
「あなたは、あの子があなたを思う気持ちを、未だに信じられないの?……もう10年以上も、あの子はあなたのすぐ傍で、あなたを見つめていたのに」
「……でも、これからは違うだろ」賢治は言った。
「眞菜の言うように……、これからはおれとあいつの距離はもっと開いてしまうんだ」

「……距離って、そんなに大切なものなのかな」母が言った。
「……あなた、前に、どうしてお母さんとお父さんが一緒になったのかって、聞いたよね」
賢治は思い出していた。随分前に、そんなことを聞いた気がした。しかしその時、母は、何も答えなかったはずだ。
「……お父さんに告白された時ね、実はお母さんには、別に好きな人がいたの」
母は小さな声で言った。
「……片思いだったけどね、結構真剣だった。お父さんはもう船乗りだったし、滅多に帰ってこないことも解ってた。お母さんはすぐにでも、断ろうと思った」

「でね、断りに行こうと思って、お父さんの住所のあった宿舎に行ったら……」
お父さん、もういなかったの。くすくすと笑いながら母はそう言った。
「……次の航海に出た後でね、帰ってくるのは半年先だって言われた。お母さん正直、迷った。お父さんに答えを返さないまま、今好きな人に告白しちゃって良いものかって。通信手段も満足にない時代だったしね。……結局それが気になって、お母さん告白に踏み切れないまま、半年経っちゃったの」

「そうして半年後、お父さんの船が帰ってきたって聞いて、お母さん、港まで出迎えに行った。……気がついたら、他の船乗りの奥さんと、同じことしてたんだよね。お父さんがタラップから下りてきて、きょとんとした顔でお母さんの顔を見たから、すぐ伝えたの『おかえりなさい』って」
お父さん、うれしそうににっこり笑って、ただいま、って言ってくれた。母が言った。

「その時、お母さん思ったんだ。離れるのも、悪くないかなって。……いつも近くで見ていたら、決して気がつかないようなことが、離れてみると、よく見えたりするんだなって」
母は扉の向こうで、しばらく黙りこんだ。何かを思い出したようだった。

「……帰ってくる度に、お父さんも私も、少しずつ変わってる。結婚して最初の航海の後、帰ってきたら、お父さんは6ヶ月の男の子のお父さんになってた」
母が笑っているのが、賢治には分った。

「本当に大切な関係は、離れることで薄まったりするものじゃないんじゃないかな。むしろお互いのことが心配になって、傍にいる時よりずっと近くに、相手を感じたりするものなんじゃない?……お母さんはそう思ってるよ」

シチューが冷めるから、早く来なさい。
そう言って母は扉の向こうから去っていった。


賢治は母の話を聞いたあともしばらく、あおむけにベッドの上に寝転がったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。

眞菜にいくらでも逢える季節と、そうでない季節と、彼女のことを真剣に考えていたのはどっちだったろう。
彼はそんなことを考えていた。

やがて賢治は、むっくりとベッドから起き上がると、母の作ったシチューの香りに誘われるように、茶の間に赴いた。
健介は先に卓について、貪るようにシチューを食べていた。
賢治も炬燵に入って、母のよそってくれた皿と向かい合った。

その時、賢介が手に握りしめていた古い船のおもちゃが、彼の目にとまった。どこかで、そのおもちゃを見たことがあるような気がしていた。だが、それがいつ、どこであったのか、彼は思い出せそうになかった。

それは、随分古い思い出か、あるいは些細な思い出であったようで、なかなか具体的な像となって彼の脳に浮かんでは来なかった。それ以上、そのことを考えても仕方ががないような気がした。彼は気を取り直し、皿によそわれたものを食べようと、添えられた大柄なスプーンを手に取った。

それはちょうど、ラジオで船舶情報が配信される、直前の出来事だった。
ズボンのポケットの中で、唐突に彼の携帯電話が、呻くように振動し始めた。

彼がポケットから取り出すと、携帯の表の小さな液晶画面には、『矢崎薫』の名が表示されていた。こんな時に、どうしたんだろう。何やら得体の知れない、不安なものを感じ、彼は何故か気が急くのを不思議に思いながら、二つ折りの携帯を開いて、その電話を受けた。

「……賢治!」
案の定、と言うべきか、耳元で聞こえた薫の声は、明らかに気が動転していた。


「早く来て!……眞菜ちゃんが、倒れてる!」

『カタワラ』:14

「ねえ、けんすけくん」
歩が賢介に話しかけた。「おっきくなったら、私達、結婚しない?」
「おう!」賢介は、意味もなく胸を張った。結婚すると言うことは、逞しいことだと彼は思っていた。

「じゃあさ、約束しようよ」歩が言った。
「紙に書いて、地面に埋めるの。……大人になったら、開けるのよ」

賢介と歩は、習ったばかりのひらがなで、小さな紙に結婚の約束を書いた。

ぼくたち
わたしたちは

おっきくなったら

けえっこんしまあうす

2年1くみ いとうあゆむ
1ねん1くみ のぐちけんすけ

「……できた」歩がうれしそうに瞳を輝かせた。「どこに埋める?」
「あゆむちゃんちの庭」賢介が言った。
「だめだよ!」少女はが大きな声で否定した。「うちのマリが掘り返しちゃう」
歩の家にはマリという、ちっとも言うことを聞かない大きな犬がいた。朝、学校に行く前に、彼女がマリに引きずられるように散歩させている姿を、賢介はよく見ていた。

「ほかに、ない?」
歩は大きな瞳をくりくりさせて、賢介の顔をのぞき込んだ。
賢介は彼女にじっと見つめられるのがうれしくて、しばらくうんうん唸って考え込む振りをしていたが、やがて、
「……まっくら森」と、さも、ようやく思いついたかのように言った。

「うん!それいいね!」歩も賛成した。
賢介の手を取り、「じゃあ、いこう」と言って、まっくら森に向かって二人は駆けだした。


森の中の道は、歩と賢介の頭の中にすっかり入っていた。
彼と彼女にとって、ここは唯一の遊び場だった。大人の入り込めない、子供だけの庭。見たことのない地味な色の花が、うっそうと茂る林冠から漏れ出た光の中に一輪、花を付けていた。

森の木々は燃えるように色づいていた。
彼らは秋に迷い込んでいた。

いつも知っている道が見知らぬ道のように彼らの前に展開し、そして彼らの背後に消えていった。目の回るような秋の回廊を、彼らはそれでも、子供に備わった本能なのか、臆することなく進んで行った。

大人にはかぶれるから触ってはいけないと言われている、赤い実をびっしり付けたマムシソウが、道を指し示す行灯のように、所々にのっそりと立っている。降り積もった厚い落ち葉が彼らのくるぶしまでをしっかりと覆い尽くし、踏まれる度にかさかさと、乾いた泣き声を上げた。


「……このへんで、いいんじゃない?」
しばらく突き進んだ後で、歩の足がぴたりと止まった。
その背中を追いかけてきた賢介もその隣に立ち止まって、彼女が見つめるものと同じものを、並んで見上げた。

それは大きく古いタブの木だった。
他のほとんどの木々がすっかり色づいていた中で、その常緑の樹は、てらてらと光る、冬でも枯れることのない緑の葉を場違いに身に纏っていた。

賢介は、手近にあった棒きれを拾って、そのタブの木の根元の、出来るだけ土の軟らかい場所を選んで、掘り返し始めた。歩は家からクッキーの空き缶を持ってきていて、その中に先ほどの結婚の約束を書いた手紙と、一番お気に入りの蒼いビーズの髪留めを入れていた。

「……けんすけ君、私が引っ越しても、忘れないでいてくれる?」
歩が、熱心に木の根元を掘り返している健介の背中に心細そうに問いかけた。
彼は聞こえないかのように返事もせず、作業を黙々と続けていた。

「……あたしね、実はちっともさびしくないんだ」
賢介から返事がないことは見通していたかのように、歩は続けた。
「だってさ、賢介君、ここにいるんだもの」
歩ちゃんは自身の胸のところに手をあてた。
「おうちで一人いてもさ、気がつくと、頭の中の賢介君とお話ししていたの。にこにこしてるから、お母さんに笑われちゃうくらい」
歩は、恥ずかしそうに身もだえしていた。
「……けんすけ君は、もう私の心の中にも住んでるんだ。だから、ちっともさみしくないのかも」
賢介はそれでも、歩ちゃんに背中を見せたままだった。
ざり、ざり、という音を立てて、彼は躊躇する様子すら見せなかった。

「……母ちゃんが」
そのとき、彼は歩に後ろを見せたまま、思い出したように、ぼつりとつぶやいた。
「触っても触れないところに、大事な人は住んでるって言ってた」
泣くのをこらえていたのか、彼の声はいつもよりずっと控えめだった。

「……だから、父ちゃんはいつも、母ちゃんや、おれや、にいの、カタタラにいるんだって」
「カタタラ?」少女は思わず首をかしげた。しかし、それは賢介の方からは見えなかった。

「……難しくてわかんないけど」
歩は一人笑った。
「でも、手を伸ばしても届かないけど、もう、いつもつないでいるような、そんな感じだよね」
歩は何かを思い出したのか、再び、恥ずかしそうに俯いた。そうして、
「……一人で歩いていても、お家まで、ゆっくり帰りたくなっちゃうな。……けんすけ君と居る時みたいに」
と、寂しそうにぽつりと呟いた。

「けんすけ君、掘れそう?」
歩は急に声の調子を変えて、賢介の手元をのぞき込んだ。
しかし賢介はすでに掘るのを止めていた。枝を持たない方の手に、何かをしっかりと掴んでいた。

「……なにか、あったの?」
賢介は、歩に、手に持っていたものを差し出した。

小さなクッキーの空き缶だった。
空き缶はすっかり錆びて、泥だらけになり、元の絵柄は解らなくなってしまっていたが、所々、元々塗られていた蒼い色の塗料を鮮やかに残していた。

「……なに、これ」
「埋まってた」賢介が言った。
「……誰かの、落とし物?」
あけてみようよ、と言うのが早いか、賢介はそのクッキーの空き箱を、小さな平たい石でこじ開けた。

「……?あ、お手紙」歩が言った。

箱の中には、小さな紙に書かれた手紙と、船のおもちゃが入っていた。
歩は、箱に入った小さな手紙を読み始めた
「おつきくなつたら……。……字が読みにくい」
賢介も彼女の隣から覗き込んで、その文字を読もうとしたが、だめだった。
色の薄い鉛筆で書かれた文字は、森の底の薄暗い光の中では、よく見えなかった。

「はやくしないと暗くなっちゃうよ」
手紙を読もうと、じっと見つめていた彼女は、ふと我に返り、林冠から見える空を見上げて、不安げに呟いた。太陽はすでに、西に陰り始めていた。森の底には光りの届かない暗がりが、所々にできはじめていた。
森に、夜が生まれつつあった。

賢介は、その古い缶をタブの根元に放り出すと、彼らの持ってきた新しい缶をその場所に埋めて、しっかりと土を覆い被せた。
「……よし」賢介が言った。
「……暗くなってきたから、もう帰ろう」歩が言った。
歩が手を差し出すと、賢介は待っていたかのようにその手を勢いよく掴んだ。


そして二人並んで、2匹の子鼠のように、もと来た道を駆け足で戻って行った。

2009年2月17日火曜日

『カタワラ』:13

「……もう、いいよ」不機嫌そうに眞菜が言った。「……気にしてない」
「ごめん、……眞菜を、傷つけるようなことを言ってしまって……」
玄関先で、賢治は頭を下げた。

賢治は眞菜の家に、謝りに来ていた。
そろそろ夏も終わりになり、秋の草花がぽつりぽつりと見られるようになった。

眞菜も、外出を控えるようになってきていた。秋はブタクサなどのイネの仲間の植物が良く花粉を飛ばす。それは眞菜にとっては、時にスギの花粉以上に、大きな影響を与えていた。中学の時、卒業アルバムの写真にほとんどのらなかったのも、この秋の花粉のためだった。

「……傷つけたって、本当に思ってる?」疑いのありありと籠もった目で眞菜が言った。
「……賢治、いつも本当に口先だけなんだから」
「……ホントに、そう思ってる」賢治は言った。「そうでなかったら、わざわざ出向いてまで謝りに来ないよ」

賢治はまず眞菜に電話をかけてみたのだが、案の定、彼女は電話に出なかった。
こういう時は、彼女が本当に怒っている時なのだと言うことを、賢治はよく知っていた。家から滅多に出られない彼女にとって、電話にすら出ないと言うことは、関係を完全に遮断したに、等しかったからだ。

彼が彼女の家に謝りに出向いたとき、彼女は、すぐには出て来てくれなかった。
インターホン越しのやり取りが、すこし続いた後、彼女もそれでは言い足りないものを感じたためか、ようやく彼の前に姿を現してくれたのだった。

しかし、目の前に現れた彼女は、彼の予想とはやや違っていた。
賢治は彼女が、明らかに怒っていると思っていたのだが、彼女は意外にも冷静だった。むしろ、観察するような疑念を含んだ瞳を彼に向けて、彼女は玄関の上がりのところに突っ立って、彼に向かっていた。


「……賢治」
彼の言葉を受け取って、しばらくの沈黙した後、眞菜が口を開いた。
「……わざわざ来てくれたのはうれしいけど、もう、帰ってくれない?」

「どうして?」
賢治は自分がうろたえているのを真菜に見せているのすら気がつかないほどに動揺した。

「なんか、気分が滅入るんだ」
眞菜が身体を縮めて身を震わせた。
「……それに、なんか今日は花粉が随分飛んでる気がするし」
くしゅん、眞菜は大きなくしゃみをした。眞菜は常に携帯しているポケットティッシュで鼻をかむと、手近なところから大きなマスクを取り出し、顔を覆った。

「……ほらね。それに……」
「それに?」
「……賢治さ、そうまで頭下げて、私と仲直りする意味、あるの?」
眞菜はさらりと言った。
「……どういう意味だ」賢治には理解できなかった。

「……私と賢治は、住む世界が違うんだよ」眞菜が言った。
「賢治はこれから、大学に行って、多くの人と知り合う。社会の一員になって、それを支えていく。……でも、私は、こうして家の中で、春と秋に怯えて生活していくの、……持って生まれた、命が尽きるまで」
眞菜は後ろを向いて、マスクをずらし、もう一度鼻をかんだ。
もう何度もそうしていたためか、鼻の奥の血管が破れたらしく、ポケットティッシュに少し血が滲んでいるのが賢治にも見えた。

「……正直、私ともう仲直りしなくても、あなたの人生には、なんの影響もないとは思わない?もっと、ためになる人と、賢治は知り合っていくべきなんだよ」
……薫のことを言っているのだろうか。賢治には、眞菜の心の内の声が聞こえるようだった。
だが、彼女は単純に薫に嫉妬しているというわけでもなさそうだった。もし彼女が嫉妬しているとすれば、自分を含めたすべての、「普通の」高校生なのかもしれない。そう彼は感じた。

「……もう、今日はいいや、……私だんだん、だるくなってきた。薬飲んで、もう寝るね」
眞菜はそう言って、玄関の内側のガラス戸をぴたりと閉めた。奥の寝室に歩き去っていく、眞菜の小さな素足が見えた。

眞菜が再び現れることはもう期待できなかった。
賢治は仕方が無く、眞菜の家を辞して玄関の戸を閉めた。


彼には、もう彼女と仲直りする当てがなくなっていた。この様なことは、初めてと言っても良かった。今までであれば、電話をするか、会いに行くかすれば、結局仲直りして、2日と立たないうちに、元通りの関係に戻ってしまっていた。だが、今日の眞菜はそのいつもの眞菜ではなかった。

彼と彼女の関係に、二人の持って生まれた、境遇の違いというものが重くのしかかっているのを賢治は始めて意識した。高校の三年生は進路を決める時期とよく言うが、進路を決めると言うことは、過去のものとの決別も意味していると言うことを今頃になって思い知らされた気がして、彼は恐ろしさに身が震えた。

今まで、身体の一部のように身近だった眞菜の存在が、手の届かないほど遠くに行ってしまったような気がしていた。考えてみれば、彼は眞菜との距離をこんなにも意識したことはなかった。逢えない時期であっても、彼にとって眞菜は常に傍にいる存在だったから。それは、眞菜にとっても同じはずだった。その眞菜が、仲直りする必要など無いと、言い切ったのだ。

それは、体の一部を、ほとんど永久的に失ったに等しい喪失感だった。
これからどうしていこうという、らせんを描いて落下するような狂おしい感覚を賢治は感じた。

彼には、彼女の思いは全く理解できなかった。ただただ、彼女が遠くなっていく感覚に怯えていた。

2009年2月14日土曜日

『カタワラ』: 12

「……ひっさしぶりい。薫」
薫が少し遅れて席に着くと、瀬希はカウンターに向かって、水、もう一つお願いします、と叫んだ。
背の高い男性が、彼女らの座るテーブルの傍までやって来て、薫の新しいコップを用意し、慣れた手つきでコップに水をつぎ足した。薫はアイスコーヒーを注文した。

「あつかったでしょう」
向かいに座った瀬希は、すっかりうなだれていた。
「家、エアコン壊れてて、いられないんだよね……。全く、もう9月だって言うのに、この残暑は、何?」
彼女は肩の大きく出た服を着て、下も短いパンツをはいていたが、小柄な彼女が着ると、まるで少年のようだった。とび色の瞳をぐりぐりと動かして久しぶりに会った薫を見つめていた。

「薫、本当に久しぶりだよね、……3年になってクラス代わってから、ほとんど会ってないでしょう?前は、飽きる位会ってたのに」屈託のない笑顔を浮かべて瀬希は言った。
「……ホントに」薫も笑った。
「でも、しばらく会ってなかったから、瀬希の顔見るとなんだかほっとするよ」
「へへ」瀬希はうれしそうだった。「……あたしって癒し系だから」
卓の上のオレンジジュースの氷が、からりと鳴った。

「……薫、もしかして、なんか疲れてない?」
瀬希は机に顎を載せたまま心配そうな顔で薫を見つめた。「……どうかしたのの?」

「……べつに」薫は言った。「……まあ、受験生だからね。お互い様じゃない?」そう言って笑いかけた。
「……だね」瀬希が言った。「私も毎日、もううんざりだ」
結露してすっかりびしょ濡れになったグラスを掴んで、瀬希はストローからオレンジジュースを飲んだ。

「勉強、してる?」瀬希が尋ねた。「結構しんどくない?モチベーション保つのって」
「……まあね」薫が答えた。
「誰か、一緒に勉強してくれるといいんだけど。誰も美術系なんて受けないだろうしな……。」
「実技試験があるんだっけ。それもまた、大変だよね」薫が言った。
「センター受けるのは一緒なんだけどね」瀬希が言った。「……受験生はみんな自分勝手になりがちだから、私のことなんか構ってくれない」めそめそと泣くような素振りを見せた。
「楽しいだろうにね、瀬希がいたら……」薫が慰めると彼女は、
「……そう言う、薫も一緒になかなか勉強してくれないくせに」恨めしそうに薫を見た。
「……ごめん」薫が言った。

瀬希はうなだれた様子の薫を、子供じみた大きな瞳をまん丸に広げて、珍しそうに見つめていた。
「……やっぱり、どうかしたの、薫。……元気ないよ」

薫は何も言わなかった。
これじゃあたしも、賢治と同じだな。心の内でそう思った。

「……まあ、いいや。乙女にひみつは憑き物だもんね」
瀬希は思い出したように、隣に置いたスヌーピーの鞄から、一冊のアルバムを取り出した。

「はい、これだよ。うちの中学のアルバム」
薫はそれを受け取ると、早速ページを開いた。
瀬希は立ち上がって、反対側からそれを眺めた。

幾分緊張した様子の生徒の写真が並んでいた。しかし、その数は決して多くはなかった。たった2クラスしかないんだ。薫は驚いていた。全部併せても、40人ちょっと……。

「少ないでしょう、うちの中学」瀬希が言った。
「今、もっと少ないんだ。一学年1クラスしかないんだよ……。ほおら、これ、あたし!」
瀬希が指さしたところには、制服を着た瀬希の姿があった。

「……今と、あんまりかわらないね」薫が苦笑した。
「ええ!そんなこと無いよ、随分純朴で、素朴な感じじゃない?」瀬希は怒って身体を起こした。
「……そうだね……、変わらず、“かわいい”って事だよ」薫は苦し紛れにそう言った。
「……言われ飽きたな“かわいい”は」瀬希が言った。
「一回でも良いから、“キレイ”って言われたい……」

薫は瀬希の言葉に構うことなく、生徒の顔の並んだページをめくった。
そして、その隅の名前に目がとまった。
「……これ、賢治?」
構ってもらえなかった瀬希は、一人でふてくされていたが、薫の驚いた様子に、首を伸ばしてアルバムをのぞき込んだ。
「そう。賢治も、この頃、かわいかったな……。今はもっとヒゲヒゲしてるけど」
薫は何も言わず、未だあどけなさの残る賢治の写真を見つめていた。

「そう言えば、薫と賢治って、同じクラスだよね」瀬希が言った。「どう?奴」
「……どうって?」薫が顔を上げた。
「惚れた?」いたずらっ子そのものの目で、瀬希が言った。
「……なわけ、無いじゃない」薫は表情も変えず否定した。「ただ、知ってる名前があったから……」
「ふーん」疑うような目で瀬希が言った。「……夜中に、急にアルバム見たいって電話してくる位だから、てっきり、賢治のことでも、詳しく知りたくなったのかと思ったよ」
そうして、彼女はくたびれたように頬杖を突いた。

薫は再び熱に浮かされたように、手元に広げられたアルバムをのぞき込み始めた。

瀬希はそれを退屈そうに見つめていた。そして、やがてそれにも飽きてしまったのか、一言、
「大人って、難しいね……」、
と呟いて、明るい日差しの照りつける、窓の外の何もない往来を、光の消えた琥珀のような瞳でぼんやりと見遣った。


アルバムを見つめる薫の耳には、もうその声すら、入ってはいないようだった。

……賢治と同じクラスの女子は、全部で、やっぱり11人いる。
彼女は思った。アルバムをぱらぱらとめくっていて、彼女は妙な事実に気がつきかけていた。

手渡されたアルバムの後半には、行事ごとに、クラスの集合写真が延々と続いていた。
しかし、その中には、どれも女子が一人だけ、常に足りなかったのだ。

「……あのさ、瀬希」
「ん?」ストローを咥えたまま、瀬希が返事した。
「一人、登校拒否だったの?」

「……?うちで?登校拒否?それは、無いよ。だって、和気あいあいだったもん」
「でもさ、賢治のクラスの女子、いつも一人少ないじゃない?」

窓の外に降り注いでいた強い太陽の光が、はぐれ雲に遮られたのか、一瞬翳った。
いつもは高校生らしくもない、子供のように無邪気な瀬希の表情に、年齢に相応の複雑な悲しみを伴った、影のようなものがしめやかに差したのを、その時、薫は確かに認めた。

「……マナマナ、だね」
「マナマナ?」
瀬希は薫の持っていたアルバムのページを始めの生徒の個人写真のページに戻した。そして、一人の少女を指さした。
「この子が、マナマナ」

彼女の指さした少女の写真は、他とは明らかに違っていた。
卒業を控えた時期の周りの写真に比べ、その表情は不自然なほど幼かった。

なにより、他の生徒の写真がみんな冬服だったのに、彼女だけは、何故か衣替え前の夏服を着ていたのだ。
「どうしてこの子だけ、半袖なの」薫は尋ねた。
「だって、マナマナ、倒れて入院してたから。ちょうど写真取る時、いなかったんだよね。……それ、たぶん、なんか別の時に撮ったやつを、使い回したんじゃないかな」

「この子……、身体弱かったの?」
薫が瀬希に尋ねると、瀬希はとりついた何かを振り払うように首を振った。
「まあね。……小学校に入る前に、東京から、ぜんそくの療養のために来たって聞いてる。都会の粉塵が、どうも身体に合わなかったらしくて……。この子のことに関しては、賢治が一番詳しいよ」
「……どうして?」薫はもう察しがついていた。しかし、確認せずにはいられなかった。
「……だって、仲良かったもん」瀬希が言った。
「……ホントの、幼なじみって、ああいう二人を言うんだろうね」

……やっぱり。
薫は思った。あの日、賢治と別れてから、薫はずっと彼の様子がおかしいことについて考えていた。彼女なんていない、と彼は言っていた。だが、そんなことがあるだろうか。薫にはどうしても、信じられなかった。

彼が彼女と出会う前、中学時代、あるいはもっと前に、誰か付き合っていたひとがいたのではないか。彼女はそう考えた。そしてもしかすると、彼はその人のことを、まだ心の中で強く思っているのかも知れない。彼女の直感は、彼女にそう告げていた。

賢治と小学校からずっと同じだった瀬希なら、きっと事情を知っているに違いない。
そう思うと居ても立っても居られず、昨日の、もう時間は深夜であったのだが、去年までクラスメイトであった瀬希に、咄嗟に電話を掛けてしまったのだった。


「……ありがとう。……これ、ちょっと借りるね」
薫はアルバムを閉じると、瀬希の返事を待つまでもなく、自分の鞄に入れた。
「……薫」瀬希が言った。
「何?」
「……マナマナのことなら……、そっとしておいて上げて」
瀬希は不安そうに言った。
「……なんだか、嫌な予感がする。眞菜は、今、きっと幸せなんだ。でも、その幸せも、賢治が遠くの大学に行っちゃえば、終わってしまうかも知れない……」

薫は、にこりと笑った。
「……解ってるよ、瀬希」
アルバムを入れた鞄を手にとって、椅子から静かに立ち上がった。

「……でも、それは私にとっても、同じ事なんだ」

『カタワラ』:11

……それから、眞菜は彼の前に姿を見せなくなった。

メールしても、返事が返ってこなかった。
電話をしようとも考えたが、もしも受け取ってくれなかったらと思うと、怖くて出来なかった。

賢治は、かろうじて繋がっていた眞菜との一本の細い絆が、ぷっつりと、あまりにあっけなく途切れてしまったのを感じていた。もう何をしても、彼女には届かないという絶望感が、底冷えの夜のように、静かに、彼の体温を奪っていくような気がしていた。


そうして梅雨は明け、季節は夏になった。

「……ねえ、賢治」
薫は心配そうに彼を見つめていた。
邪魔になるからと最近短くした髪を、無意識に掻き上げ、片耳を見せた。

「……ん?」
「どうしたの?」
薫は何も言わず賢治のペンの先を指し示した。
キャップが付いたまま賢治はペンを動かしていた。

「……考え事?」薫は心底心配しているようだった。
「なんか賢治……。時々そうなるよね。大抵、月曜日に。……休日に何かあるの?」

「……なんでもないよ」賢治は笑顔を取り繕って見せたが、薫の表情は晴れなかった。
「なんか心配事があるんなら、私にも相談してよ。……賢治が勉強はかどらないと、私もはかどらないんだから」
「……ごめん」
賢治は素直に頭を下げた。
考えてみれば、彼女が言うように、彼の様子がおかしくなるのはいつも月曜日だった。
それは、眞菜から連絡があるのではないかと期待して、週末を迎え、そしてなんの音沙汰もないままに週末が開けてしまうからに他ならなかった。今週も、何もなかった。そう言う虚脱感を感じながら、ここ数ヶ月の彼の一週間は始まるのだった。

突然、薫は開いていた参考書をばたん、と閉じた。
「……もういい。……今日は、何処か気分転換に行かない?」
「気分転換?」
「そう。賢治がそんな調子じゃ、私まで憂鬱になっちゃうし」
薫は言った。「……責任、取ってもらわないと」

賢治は何とも答えなかった。
薫と学校以外で出歩いたことは今まで無かったし、眞菜との関係がこじれてしまった今、誰かと一緒にいるところを知り合いに見られでもしたら面倒になると思った。
「……それは、勘弁してくれないかな」
恐る恐る賢治は言った。
「……どうして?」薫は不思議そうに尋ねた。
「どうせ、勉強に集中できないんでしょう?」

賢治はそれ以上何も言わなかった。
薫は黙ったまま、賢治の様子をじっと見つめていた。
しかし、いつまで経っても、彼が、彼女の期待した答えを言わないと解ると、やがて、抑えた声で
「……もしかして、賢治、彼女いるの?」
と、彼女の感じていた疑問の本質を突いた。

「……いねえよ」
賢治があまり真面目な顔で否定したので、彼女は思わずぷっと吹き出しそうになって、
「……いるんだ」と、疑うような目でそう言った。
「ねえ、どんな子?この学校の子?」
身を乗り出して彼女は尋ねてきたが、賢治はもう何も言おうとしなかった。

「……つまんない」
言葉とは裏腹に、薫の表情は明るかった。
「……あからさまに口に出して言えないような関係なら、別に良いじゃない。たまには外、行こうよ」

薫は賢治の右の二の腕に手をかけ、立ち上がらせると、そのまま彼のロッカーの前まで連れて行った。
賢治は為す術もなく、薫に促されるままに帰り支度をし、結局、二人連れだって下校した。


高校のある丘を下って少し川沿いを進むと、一軒のクレープ屋があった。
クレープ屋と言っても本業は釣具屋で、その店の一角の釣り客用の食事スペースでクレープのテイクアウトも出来るというだけの店だったが、高校の近くと言うこともあり、学校帰りの生徒がよく立ち寄る店だった。

賢治はそこに着くと咄嗟に、数人見かけた同じ高校の制服を着た生徒を見渡したが、その中に、彼らのことを知っている者はいないようだった。

薫はそこでイチゴの味のクレープを買った。
賢治はクレープの味など、別にどうでも良かったが、とりあえず無難なプレーンを買った。そして、二人は、つかず離れずの微妙な距離を保ちながら、川縁の大きな橋を自転車を押して渡っていった。

まだ溶けきっていない生クリームが、口に含むとアイスシェイクのようにじゃりじゃりと下に触った。クレープ生地はさっきまで凍らせていたのか、冷えすぎていて、硬かった。

橋を渡りきると、二人は、橋のすぐ傍にあった海浜公園の、手入れのあまりされていない、古い木製のベンチに腰掛けた。公園は町の公民館が管理していて、その一角は陸上のトラックになっていた。夏になり、昼間が長くなったこともあって、下校時間はもうとっくに過ぎていたが、太陽はまだ高い位置にあった。

熱せられたトラックがその向こうに見える海を陽炎の中に浮かべていた。


「……でさ、賢治は結局、彼女はいないの?」
ベンチに両脚をぴんと伸ばした姿勢で座って、薫はまだ、その話題を気にしていた。

「……しつこいぞ。……もういい加減にしろよ」
賢治は不機嫌そうに言った。
「……良いじゃない。興味あるんだから」
薫は怒ったように言った。「そうやって聞かれている内が、華だよ」
「ちっとも、うれしくねえ」賢治は言った。
「……彼女なんて、いないんだよ。本当に」

「……まさか、今まで誰とも付き合ったこと無いの?」薫は驚いたように言った。
「……珍しいね、今時。小学生だって、好きな子くらい、いるじゃない?」

賢治は何も言わなかった。暑さでクレープの生地は少しずつ柔らかくなっていた。
開きすぎた花の花弁のように、その縁はだらしなく垂れ下がっていた。

「……また、そうやって、黙っちゃうんだから」
薫が口をとがらせた。「……ずるいよ、賢治は」
手に持ったイチゴ味のクレープの残った端を、大きく開けた口の中にわざとらしく放り込んだ。

「……賢治がその手なら、私にも手段がある」薫は独り言のように言った。
「……何だよ」気になった賢治が彼女の方を向きもせず尋ねた。
「教えない」薫は向こうを向いたまま不敵に笑っていた。「……絶対、はっきりさせてやるんだから」


海浜公園の向かいは徹さんと涼子さんの勤める病院だった。賢治は、彼らにばったり出くわすのではないかと気が気でなかった。

眞菜はどうしているだろうか。
徹さん夫妻のことをを考えていると、自然に考えは彼女の事に飛んだ。

あれから、全然連絡がない。

こんな事は、初めてだった。
一体、彼女ははどうしてしまったのだろう。

彼は先行きの見えない不安を感じていた。


それまで、眞菜の心の内は手に取るように解ると、彼は感じていた。

病気になってからの眞菜の心情には、たしかに彼のの想像を超える部分があった。しかし、彼女の性格の本質的な部分を彼はしっかり理解していると自信を持っていた。それは身体に染みついている、と言っても良いほど確かな感覚だった。自分が何を言えば、彼女は喜び、何を言えば、嫌がるかを彼はほとんど本能的に感じ取ることが出来た。

彼女はある意味で、彼の一部だった。
それは同時に、彼が彼女の一部でもあることを意味していた。彼が落ち込むような出来事なのであれば、当然のように、彼女も同じ理由で落ち込んでいるはずだった。

眞菜も、仲直りする機会を見失っているのかな。
彼はそう思った。

そろそろ、電話、したほうがいいかもな。
残ったクレープを口に入れながら、賢治はそんなことを考えていた。


その時である。
それはまさに不意をつかれた感覚だった。

彼の右腕を、何者かが、ひしと掴んだ。


見れば、薫の白く長い指が、賢治の二の腕をしっかりと捉えていた。
夏の暑さのせいで、彼女の手はしっとりと湿っていた。

突然のことに、賢治は驚いた。
薫は身じろぎもせず、賢治より少し低い位置から見上げるようにして、彼の表情をじっと伺っていた。彼女の顔は、驚くほど近い位置にあった。指に込められた力は、少しずつ強くなっているようだった。

「……なんだよ」
薫が彼を見つめたまま何も言い出さないので、賢治はしびれを切らした。

彼女の口元が、何かを話そうとしているかのように薄く開いた。
しかし、そこから言葉は漏れては来なかった。

ただ言葉を待つように、その口元は僅かに開いたまま、少しずつ彼に近づいてくるように思えた。

何を……。
賢治がそう言おうと口を開いた刹那、目の前は真っ暗になった。

脣と脣が触れあう感覚がした。
メンソールか何かの涼やかな感覚と、先ほど食べたクレープの乳脂に混じった微かなイチゴの香りが、呆然とする彼の口元を通り過ぎた。


二人の身体は、気がつけば、もう離れていた。
薫はすでに半歩離れた位置に立って、驚きに目を丸くしてベンチに転がった賢治を見下ろしていた。

「……遠くに行っちゃ、駄目だからね」薫は独り言のようにそう言った。「……傍にいてくれなきゃ、困るんだから」

薫は、公園の入り口に止めた自分の自転車にまたがると、賢治の方は振り向きもせず走り去り、そして、その姿はあっという間に見えなくなった。


後に残された賢治は、混乱した頭で、その背中を見送ることしかできなかった。