2009年6月15日月曜日

ある責務のかたち

「……これ、落ちましたよ」

小さな細い手が、男の落とした一枚のハンカチを拾い上げた。
振り向くと、女はそれを右手に提げたまま、小首を傾げて微笑んでいた。

「……やあ、ありがとう」
男はそう言うと、女がつまんでいた緋色のハンカチを、照れくさそうに奪い取った。
「珍しいですね、男の人でそんな色のハンカチ」
女は犯しそうにそう言って、口元に手を当てた。

「……ああ、妻のでね、間違えて、持ってきてしまったんだ」
男はよほど照れくさいらしく、女の顔を見ずに言う。
「そうなんですか」
女はそう言うと、おかしそうにくすくすと笑った。

女が小さくお辞儀して通り過ぎてしまった後、男は一人受け取ったハンカチを右手に広げて、まじまじと其処に書かれた文字を見つめていた。

「……“妻の”、か」
男はそう言うと、ハンカチに書かれた小さなイニシャルを、親指で軽く撫でた。其処にはイタリックの書体で"N.S."と刺繍されていた。

「……この名字も、もうすぐ変わってしまうな」


ひと月ぶりにあった妻は、今までと変わらず一言もしゃべらなかった。
行きつけだった喫茶店の奥の机に互い違いに腰掛け、彼自身の目の前には、彼女の代理人である弁護士がその大柄な体躯をぴしりと決まったスーツで包んで座っていた。

「……こちらの条件はこうなっております」
弁護士は落ち着いた声でそう言って、黒塗りの革製の鞄から数枚の紙がクリップで束ねられたA4大の書類を差し出した。

「……端的に申しまして、依頼人、つまりあなたの奥様は、息子、信人君の親権と、あなたの現在の収入の20%の養育費、そしてここに描かれておりますような額の慰謝料を望んでおります」

弁護士が“奥様”と呼んだ時、彼の妻では無くなるその女は、その言葉を聞くのも忌々しそうに、一瞬目をそらし、顔をしかめた。組み替えた足の先に、未だ真新しい、見知らぬ色のヒールが見えた。

「……養育費は払います。親権も譲りましょう。確かに、僕は家庭を顧みた父とは言えないのだから。ですが……」
彼は一瞬言葉を躊躇った後、続けた。
「……しかし本当に、これは僕が慰謝すべき離婚なのでしょうか。彼女は……、」

「……奥様を一人にしたのは何方ですか?」
弁護士は妻の代理となって口を挟んだ。
「そのことは、すでに前回のお話し合いでも十分話されたはずです。あなたは自分の仕事に夢中になる余り、家庭を顧みてこなかった。その結果、奥様が他の何方に救いを求めようと、あなたにそれを責める権利はないのではありませんか?むしろ被害者は我々の方なのです。あなたのために待ち続けた奥様の心情を鑑みれば、慰謝料をお支払いになるのが当然と言うことになるでしょう」

弁護士が、勢いに乗って彼と妻を「我々」と呼んだ時、彼は何か苦い物を感じていた。それは斯うして向かい合った彼女の側と、彼の側とが、もはや永遠に隔てられていることを決定づける言葉のような気がしていた。以前なら、彼が我々と呼べば、それは妻も含めていたのであり、本来は他人である弁護士はそれには含まれなかったはずなのだ。
契約によって繋がった他人が、自分よりも、妻の側にある事実。それが男に突きつけられた、あまりに残酷な事実だった。

「……我々の側も、これでも譲歩しているのです。本来なら養育費をもう少しお支払いになることも出来たはずだ。ですが、奥様がそれを断られたのです。このくらいの額でよいからと」

それは、彼女がすでに、彼女の息子を養育してくれるような男を得ているからに過ぎないじゃないか。彼はそう思ったが、押して堪えていた。それでも、息子が幸せに成長できるなら、未だ良いのかも知れない。男はそう思った。彼女の男を彼は知っていたが、彼が思うに、その男が彼以上に、彼女を慕っているのは紛れもない事実のようだった。彼ならば考えつかないような愛情の示し方を、その男は彼女に向かって示していた。不器用な、仕事しかできない男には到底及ばないその愛情表現に、彼は、何か勝負事に負けたような失意を感じていた。

「……なあ」
彼はうなだれた頭を上げ、そっぽを向いたままの、妻を見つめた。
「お前達は、今、幸せか?」
妻は男の方を見なかった。いらいらとした気持ちを顔に表したまま、薄汚れた花の絵が飾られた茶色い壁の方を、ただじっと見つめているだけだった。

「以前は愛していた男を、金を払うだけの人間におとしめておきながら……、お前はそれでも、幸せになれるのか?」
女の眉間がぴくりと動いた。しかし彼女はそれでも、男の方を見ようとはしなかった。おそらくは、一切口を出さないように、弁護士から堅く口止めされているようだった。

「……志田さん」
弁護士は男の名を呼んだ。
「金を払うだけの人間、とはたとえが悪い。例え法律上の夫婦ではなくなっても、息子さんは実質、あなたの子供なのです。彼の幸せを祈っているのなら、養育費を払うのは、親として当然の責務だと思いますが?」
男はそれを聞いて、押し黙った。
責務。そんなことは解っていた。
しかし、親としての責務は、果たして、子供が成長するのに見合うだけの金を払い続けることなのだろうか。男はそう考えていた。親として、子供に道筋を付けて上げられるような、そのような働きかけをし続けることこそ、親の果たすべき、責務という奴なのではないだろうか。

男はそう思い当たった。
しかし、次の瞬間、男の表情に浮かんだのは、妻に対する荒々しい怒りではなく、うすく湿った失笑だった。

「……ええ、それが僕の責務ですね」
あきらめたように男はそう言った。
「……思えばこれまでも、家庭に金をもたらすようなことしかしてこなかったんだ。息子と一緒にキャッチボールをする時間すら、僕には取れなかったのだから」

「……解っていただけたのなら、幸いです」
弁護士は、そう言って口元だけで笑った。
「それでは、手続きを前に進めましょう。この場所に判とサインを。奥様のものはすでにいただいてありますので……」

弁護士の太い指が指さす何もないアンダーラインの上に、彼は書き慣れた自分の名前を書き込みながら、ふと、妻の名前の傍に書かれた息子の名前が、彼の書いた字によく似ていることに気がついた。

おそらくそれは、息子が自分で書いたもののようだった。
手続き上、訳も分からず書かされたのだろうが、その字は癖の付き方まで、彼の字と余りによく似ていた。

彼はその字を見つめながら、しばらく、ペンを持つ手を休めていた。

そして、再びそのペンが走り出した時、彼の心の中には大きな喪失感が渦巻いていた。
弁護士が彼から書類を受け取り、そこに書かれた彼のサインを一つ一つ念入りに確認して、つややかな革製の鞄にしまい込むと、彼の心の内に、何か大切な物が今しも、自分の手から遠く離れて行ってしまうのだという自覚が生じてきた。

彼は自分の心が、何か得体の知れない、冷たく、ひんやりするものに蝕まれていくのを感じた。そして、見知らぬヒールの音を響かせて去っていく、身体の大きな弁護士と小柄な妻の背中を、もはや、単なる一点の黒点に過ぎなくなった目で見送っていた。

2009年6月8日月曜日

a molecule

「タナベさんね、待ってたわよ」

大柄な婦人が身を揺らして笑う。派手な花柄の衣装はもうすっかり伸びきって、大きく開いた肩口から胸元がこぼれ出てしまいそうなのだが、彼女はそれにも構うことなく大仰な仕草で引き出しから鍵束を取り出すと、私の前に立って歩き始めた。よく太った体の割に、彼女の足取りは軽く、ともすれば、肩に重い荷物を提げた私は彼女に置いて行かれそうになり、慌てて古いビルディングの屋外に面した廊下を彼女の大きな背中を追いかけるようにして進んでいった。

「……主人が今入院しててね、 なに、この間家の物入れから荷物を出そうとしたら急に腰を痛めちゃって、病院行ったら、一週間の安静が大切なんて言われちゃって、それで、私と、近所に住んでる娘が交代で……、娘?ああ、あなたと同じくらいかしら、あなた、おいくつ?30才?あらやだ、娘はまだ17なのよ。日本人って、年齢わからないわ……」

婦人はそういうと、また身を揺らして笑った。鍵束のかぎが、それに合わせてかちゃかちゃと音をたてた。

「独立心が強いのはいいんだけど、うちの子、ちょっとスペシャルなんじゃないかしら。家が近いのに、わざわざ寮に入りたいなんて、普通言わないわよね。まあ、親に頼りっきりなのよりはいいけれど。……知り合いの男の子でね、いるのよ、そういう子が。もう大学出て四年もたつのに、まだ家にいて、親に甘えて暮らしてるわけ。噂じゃ、仕事もろくにしてなくて、隣町のドラックストアでアルバイトしているんだってよ。ほんとに、最近の若い子は、わからないわよね。小さいころは、あんなに利発そうで、お母さんも、大そうご自慢だったのに。今じゃすっかり二人ともしょぼくれちゃって、盛りを過ぎた七面鳥みたいになってるわ。……なかなか、開かないわね」

婦人は、太い二本の指の間に、小さな鍵を器用に挟み込んで、ドアノブの鍵穴に差し込んだ鍵をガタガタと動かしていたが、扉は一向に開かなかった。

「……時々、こういうことがあるのよ。こういうときは、力いっぱい回せば、開くことがあるんだけど」
「僕が、やりましょうか」

私は夫人の必死な様子を見ていられず、そう言って代わってあげようとしたのだが、彼女は、やや赤みのさしてきた顔で、O.K、O.Kと言うばかりで、一向に代わろうとしなかった。

そうしているうちに、鍵穴の中でゴリゴリと何かがこすれるような音がして、ガチャン、と鍵が外れた、

「……ようやく開いたわ」
婦人がやれやれ、というように両手を広げて見せた。

「前に住んでた子が、何かゴミでも詰めたんでしょう。……とはいっても、三年も前の話だけどねえ」
夫人はそういうと、自分の役目を果たしたと思ったのか、大きな体をゆすって、自分の部屋の方へと帰って行った。

私は、婦人がようやくこじ開けた部屋を、そっと覗きこんだ。
薄暗い入口の向こうには、リビングらしき部屋があり、そこの南向きの窓から差し込んでくる光が、部屋の中に舞い散ったほこりを、きらきらと照らしていた。知らない家に入った時の、かび臭いのにも似たようなにおいが、鼻の奥をつん、と突いた。

私は、戸口で深く息を吸うと、ずかずかと部屋の中に入って行って、呼吸も止めたまま、長いこと閉じられたままだったガラス窓を、一息に、あらかた開けて回った。

そして、たまったほこりを、夫人から借りたモップではきだしてしまい、ようやく、なんとか住める部屋になってきたと感じられたころには、、もうすでに、日も暮れかかってしまっていた。


異国の窓から、知らない色の空気がそよそよと流れ込んでくる。
夕暮れ時の虫の音も、この乾いた空気の中では、遠くにかすかに聞こえるのみで、隣の家の夕食の、何か知らない南国調のスパイスの強い香りが、風に乗って漂ってくるだけだ。

聞きなじんだ音さえもない、異国の夕暮れ。

私は、まだカーペットも敷かれていない、板張りの部屋に、ごろりと横になった。
黄ばんだクロス張りの天井が、日本にいたときよりもずっと遠くに見えた。

「……一人ぼっちなんだ、俺」

私は、天井を見ながらつぶやいた。

「……本当に、独りぼっちに、なっちまったな……」

私はそのまま目を閉じた。一人ぼっちの感覚が、皮膚を通じて、静かに、私の体にしみこんでくるような気がした。それは、私の体を構成していた何かが、何もない真空の中に溶けだして、散り散りに拡散していってしまうような、そんな感覚だった。自分がやがて薄れて、消えて行ってしまいそうな、一人ぼっちの感覚。しかし、私は、ある意味ではそれを味わうためにこそ、この遠い、異境までやってきていたのだった。知り合い一人いないこの国で、私に何ができるのか。あるいは、何もできないのか。すべては、これからだった。

「……さて、」
私は、勢いをつけて、起き上った。この国の太陽は、とてもゆっくり沈んでいくように感じていた。薄明の時間が、屋外ではまだ続いている。赤く、深い紫色に染まった大地の上に、ぽつりぽつりと、明かりがともっていくのが見えた。

「……行ってみようか、スーパーマーケットって奴に」

私は、そう呟くと、夫人から受け取っていた鍵をポケットに、ほこり臭い部屋を出た。そして、噂に聞く、ガロン瓶に入った牛乳や、一抱えもあるほどの肉の塊を想像しながら、知らない国の知らない通りを、ゆるい坂を少しずつ下るようにして、進んでいった。