2009年6月8日月曜日

a molecule

「タナベさんね、待ってたわよ」

大柄な婦人が身を揺らして笑う。派手な花柄の衣装はもうすっかり伸びきって、大きく開いた肩口から胸元がこぼれ出てしまいそうなのだが、彼女はそれにも構うことなく大仰な仕草で引き出しから鍵束を取り出すと、私の前に立って歩き始めた。よく太った体の割に、彼女の足取りは軽く、ともすれば、肩に重い荷物を提げた私は彼女に置いて行かれそうになり、慌てて古いビルディングの屋外に面した廊下を彼女の大きな背中を追いかけるようにして進んでいった。

「……主人が今入院しててね、 なに、この間家の物入れから荷物を出そうとしたら急に腰を痛めちゃって、病院行ったら、一週間の安静が大切なんて言われちゃって、それで、私と、近所に住んでる娘が交代で……、娘?ああ、あなたと同じくらいかしら、あなた、おいくつ?30才?あらやだ、娘はまだ17なのよ。日本人って、年齢わからないわ……」

婦人はそういうと、また身を揺らして笑った。鍵束のかぎが、それに合わせてかちゃかちゃと音をたてた。

「独立心が強いのはいいんだけど、うちの子、ちょっとスペシャルなんじゃないかしら。家が近いのに、わざわざ寮に入りたいなんて、普通言わないわよね。まあ、親に頼りっきりなのよりはいいけれど。……知り合いの男の子でね、いるのよ、そういう子が。もう大学出て四年もたつのに、まだ家にいて、親に甘えて暮らしてるわけ。噂じゃ、仕事もろくにしてなくて、隣町のドラックストアでアルバイトしているんだってよ。ほんとに、最近の若い子は、わからないわよね。小さいころは、あんなに利発そうで、お母さんも、大そうご自慢だったのに。今じゃすっかり二人ともしょぼくれちゃって、盛りを過ぎた七面鳥みたいになってるわ。……なかなか、開かないわね」

婦人は、太い二本の指の間に、小さな鍵を器用に挟み込んで、ドアノブの鍵穴に差し込んだ鍵をガタガタと動かしていたが、扉は一向に開かなかった。

「……時々、こういうことがあるのよ。こういうときは、力いっぱい回せば、開くことがあるんだけど」
「僕が、やりましょうか」

私は夫人の必死な様子を見ていられず、そう言って代わってあげようとしたのだが、彼女は、やや赤みのさしてきた顔で、O.K、O.Kと言うばかりで、一向に代わろうとしなかった。

そうしているうちに、鍵穴の中でゴリゴリと何かがこすれるような音がして、ガチャン、と鍵が外れた、

「……ようやく開いたわ」
婦人がやれやれ、というように両手を広げて見せた。

「前に住んでた子が、何かゴミでも詰めたんでしょう。……とはいっても、三年も前の話だけどねえ」
夫人はそういうと、自分の役目を果たしたと思ったのか、大きな体をゆすって、自分の部屋の方へと帰って行った。

私は、婦人がようやくこじ開けた部屋を、そっと覗きこんだ。
薄暗い入口の向こうには、リビングらしき部屋があり、そこの南向きの窓から差し込んでくる光が、部屋の中に舞い散ったほこりを、きらきらと照らしていた。知らない家に入った時の、かび臭いのにも似たようなにおいが、鼻の奥をつん、と突いた。

私は、戸口で深く息を吸うと、ずかずかと部屋の中に入って行って、呼吸も止めたまま、長いこと閉じられたままだったガラス窓を、一息に、あらかた開けて回った。

そして、たまったほこりを、夫人から借りたモップではきだしてしまい、ようやく、なんとか住める部屋になってきたと感じられたころには、、もうすでに、日も暮れかかってしまっていた。


異国の窓から、知らない色の空気がそよそよと流れ込んでくる。
夕暮れ時の虫の音も、この乾いた空気の中では、遠くにかすかに聞こえるのみで、隣の家の夕食の、何か知らない南国調のスパイスの強い香りが、風に乗って漂ってくるだけだ。

聞きなじんだ音さえもない、異国の夕暮れ。

私は、まだカーペットも敷かれていない、板張りの部屋に、ごろりと横になった。
黄ばんだクロス張りの天井が、日本にいたときよりもずっと遠くに見えた。

「……一人ぼっちなんだ、俺」

私は、天井を見ながらつぶやいた。

「……本当に、独りぼっちに、なっちまったな……」

私はそのまま目を閉じた。一人ぼっちの感覚が、皮膚を通じて、静かに、私の体にしみこんでくるような気がした。それは、私の体を構成していた何かが、何もない真空の中に溶けだして、散り散りに拡散していってしまうような、そんな感覚だった。自分がやがて薄れて、消えて行ってしまいそうな、一人ぼっちの感覚。しかし、私は、ある意味ではそれを味わうためにこそ、この遠い、異境までやってきていたのだった。知り合い一人いないこの国で、私に何ができるのか。あるいは、何もできないのか。すべては、これからだった。

「……さて、」
私は、勢いをつけて、起き上った。この国の太陽は、とてもゆっくり沈んでいくように感じていた。薄明の時間が、屋外ではまだ続いている。赤く、深い紫色に染まった大地の上に、ぽつりぽつりと、明かりがともっていくのが見えた。

「……行ってみようか、スーパーマーケットって奴に」

私は、そう呟くと、夫人から受け取っていた鍵をポケットに、ほこり臭い部屋を出た。そして、噂に聞く、ガロン瓶に入った牛乳や、一抱えもあるほどの肉の塊を想像しながら、知らない国の知らない通りを、ゆるい坂を少しずつ下るようにして、進んでいった。