彼女が、化粧をしている。
僕の家の狭いユニットバスの、湿ったフロアの上に裸足で立って、所々、端っこからさび付いて、茶色い斑点が浮かび上がった鏡の前で、薄い青色のアイシャドーを、まぶたの下端に塗っている。
彼女は鏡に映った自分の顔を斜めからのぞき込むようにしてその青い塗料を、すっかり目尻の所まで、念入りに塗りつけている。
僕は玄関先に立って、その様子を見ている。
僕の方はもう、外出する準備は整っている。
彼女に比べて、僕はいつも軽装。
彼女は、近所のマックにちょっと出かける時でさえも、どうしてこれだけ荷物がいるのだろうと思うほど、いろいろなものを小さな手提げに入れて、そうしてそれを大事そうに左手の手首の上の方にぶら下げている。
化粧もそうだ。
できあがった彼女の顔は、決して厚化粧の方ではないのだけれど、その準備には、なぜだかとても時間がかかる。
シンプルな絵が、決して短時間で完成するとは限らないように、
彼女のメイクもそれだけ念の入ったものだと言うことなのだろうか。
はやくしろよ。
そんな言葉が、さっきから僕の頭の中に聞こえている。
でも、僕は口に出さない。
ありきたりな、お父さんのようなキャラクターには、染まりたくないから。
優しい彼、でいたいから。
でもそれは、僕の本当の姿なのだろうか。
僕はいつも自問自答している。
偽った僕の優しさを、彼女が僕の本来の優しさだと勘違いしているとしたら、そのまま、この関係が発展してしまうのは、危険じゃないだろうか。
どうせなら、偽らざる、醜い僕を、
彼女には好きになって欲しいけれど。
偽る、と言えば、彼女は、今、僕の前で、化粧しているが、
あれは、誰のための化粧なのだろう。
僕は、彼女の、ちょっと素朴な感じのする、素顔を知ってしまっている。
現代的なメイクの下の、そんな愛らしい素顔を知っている僕の前で、ああして念入りにメイクする彼女の行為の理由を、僕は知らない。
もしかするとあれは、僕以外の、他の誰かのために、メイクしているのだろうか。
そう考えると、軽い嫉妬を覚えてしまう。
大切な素顔は、あなたのために、取っておいているのよ
昔、そんな映画の台詞があったけれど、それならば、もっと適当でもいいだろう。
何が、彼女をあそこまで、念入りにメイクさせるのだろう。
ごめん、ちょっと待っててね。
斜めから鏡をのぞき込む、彼女の瞳が一瞬僕の方を向いた。
僕の贈った耳元の白いイヤリングがそれに併せてちらりと揺れた。
昔、幼かった頃、
母が何処かに出かけるために、化粧を始めると、
僕はなんだか不安になった。
化粧はそれ以来、僕にとって、
そばにいて欲しい大切な人が、自分から離れてしまうような
切ない幻想を抱かせる。
化粧をした母に、僕は泣いたものだった。
そうして未来に、怯えたものだった。
「お待たせ。」
すっかり準備の整った彼女が、美しい睫毛を交差させて、にこりと笑った。
そのまぶたには薄く引かれた青い影。
彼女が遠くに行ってしまうような、そんな幼いおののきを覚えて、
僕は差し出された彼女の手を、待ちくたびれた手で、しっかりと握った。
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