2008年12月5日金曜日

もう、幾度となく過ごしてきたクリスマスの、誰も買ってくれたことのないプレゼントとして、孤独な男が自分自身に買い求めたものは、小さな、少女の横顔の描かれた肖像画だった。

名のある画家のものではなく、無名の画家が40年ほど前に描いた絵であった。当時、これを描いた画家はすでに30代も終わろうとしていたが、描いた絵は全く売れていなかった。

己の才気を信じ、大都会で成功しようと意気込んで田舎を出てきたこの画家も、この絵を描いた頃には自身の才能をすっかりあきらめており、生まれた故郷に引き込んで両親と共に田舎暮らしをしながら、身の回りの何気ない風景を思うままに描く様になっていたのだという。

皮肉なことに、この画家の作品は、こうして己の才能に見切りを付けた後の方が一層瑞々しく、評価も高いのだそうだ。

「若い頃は誰でも、自分の身の丈を間違うものです」
この絵を売ってくれた温厚な画商は、丸くはげ上がった頭を撫でながらそう言った。
「自分の仕事、と言うものが誰にもあるはずなのですが」


この画商によれば、この絵のモデルとなった少女は、画家の姪御らしいと言うことだった。

フランスの田舎の娘であるらしい少女の横顔からは、まだ青いブドウの房の甘酸っぱい匂いが漂ってくるようで、男はそれを落ち着いたベージュ色の壁につり下げながら、微笑んでしまわずにはいられなかった。

絵の中の小さな少女は、その手の中に、もっと小さなティディベアの人形をしっかりと握っていた。その瞳は何を見ているのだろうか。向いている方向には大きな窓があるらしく、少女の青い瞳や表情が、明るい光りを浴びて輝いていた。

こうした少女の表情に、男は何処かで出会った気がしていた。しかし、それがどこであったのか、またいつであったのか、彼はついぞ思い出すことが出来なかった。

この絵を買ってしまったのも、この絵を気に入ったというのももちろんだが、何処か懐かしいような、不思議に引き込まれるようなものを感じたからであった。

「青い瞳の少女なんて、今まで海外旅行にでも行かない限り見たこともなかったのに」
男は独りごちた。
「...どうして、乞うも懐かしいのだろう。」

男は、キッチンの奥の小さな冷蔵庫を開け、冷えたビールの小瓶を取り出してきた。そして、手近にあった栓抜きで栓を抜くと、コップにも注がずに、それを飲み下した。

絵の中の少女は、彼女しか知らない窓の外を食い入るように見つめている。

男が見つめる先で、少女がクマの人形を握る手の力の強さを、男はふと感じた気がした。


男には、子供がいなかった。
子供どころか、彼には家庭というものが未だに無かった。

結婚というものを、考えたことがなかったわけではない。
節目節目で、場合によってはそれからの人生を共にしかねなかった女性には何人も出会ってきた。

それでも、男は結局彼女らと運命を共にすることはなかった。


面倒くさかったからかな。


男は時々、考えることがある。
仕事が思ったより早く、片付いてしまった帰り道に。

つまりは、面倒くさかったからだ。

関係を構築し、お互いのスケジュールをより合わせ、そして好き嫌いを妥協し合って、ふたり間をとりとめもなく割り算していくような、その作業が。


そもそも、それまで培ってきた20年を越える人生を、知らない他人と分かち合おうなどと言うことが、男には気の遠くなるような、無意味な行為に思えていた。

俺には、今が大切なんだ。

彼には解っていた。

何よりも、今が。


しかし、彼にも夢見たことが無かったわけではない。

小さくても、確かな生活。
慎ましい家庭。

むしろ、孤独な時間を人一倍長く過ごしてきた男にとって、こうした夢想は日常生活の一部ですらあった。

朝日を浴びた白い皿を彩る、緑色のレタスや、スクランブルエッグ。
真っ赤なトマト。

コーヒーの香り。
トーストの香ばしい焼き加減。

忙しい朝に、子供の声、そして、その母の声....。


男は、いつもそこまで考えると、自分の愚かさに、思わず笑ってしまうのだった。
そして、それを打ち消すかのように、心の内で自分に言い聞かせた。

俺には今が大切なんだ。

何よりも、今が...。


今を大切にしすぎたために、男は一人になってしまったのか。
果たしてこれが、一つの幸せというものの“かたち”であるのか。

まだ夢を見続けていた男には解らなかった。

しかし、彼が時折思い描くような家庭生活を送っている男達のすべてが、その時男が感じるような、甘い郷愁のようなものを、その生活からいつもを感じているかと言えば、そうではないだろうと思っていた。

苦いビールが、喉の奥を駆け抜けていく。

もしかしたら送っていたかも知れない人生が苦みと共に通り過ぎた。

生きていく、と言うことは、あり得たかも知れない未来の可能性を一つずつ、潰していくことなのだろうか。

男は大きく息を吐いた。そして、目の前に掛けた少女の絵を見ながら考えた。

少女が見ている窓の先には、きっと、いつか画家の夢見た希望の未来があるのだろう。
明るい窓を見つめている少女に、画家は、自分は叶えられなかった未来を見出し、託したのではないか。


そこまで考えると、男はふと何かを思いついたように、手に持った茶色の小瓶を近くの背の低いテーブルに置いた。

そして、書斎に入り、2、3の書類を丁寧にしたためた後、それを、それぞれ適当な大きさの封筒に入れ、しっかり封をして、しかるべき宛先を書き入れた。

その作業がすべてが終わると、彼はもう一度、大きく息を吐いた。

彼は、もはや、自分が、未来を次の世代に託すべき年齢になったのだと感じていた。
あのような絵に引きつけられたこと自体、その何よりの表れではないか。

あの懐かしさは、かつての若かった頃の自分の持っていた可能性への、懐かしさだったのだ。

もういい加減、俺は引き時なのだ。男は思った。

可能性にまぶしさを感じるような年になってしまった。
それは、もう自分自身が、光を失って久しいと言うことだ。

夢は十分、追わせてもらった。
男は愛着のある品々に囲まれたほこり臭い書斎の中で一人密かに笑った。

親父は、今頃どうしているだろう。
彼はふるさとへ向けた長い手紙を書きながら考えていた。