ミドリガメが目の前をゆっくりと這っていく。
ナオコに言わせると、それは散歩なんだそうだ。
「だって、カメだって生き物でしょう」
彼女は妙な色のペディキュアを足の指に塗りつけながら言う。
「きっと、狭い水槽じゃ、気が滅入っちゃうよ」
カメに滅入るだけの繊細な神経があるのか、僕はよく知らない。
それを知ってたところで、何になるだろう。ただ、カメを飼うのに、以前よりもこっちが気を遣うようになって、何のために、この手の掛からない生き物を僕らのペットに選んだのか、解らなくなってしまうのが、オチじゃないだろうか。
「ミドリガメは、あんまり陸が得意じゃないみたいだよ」
僕は彼女の足の指先を見つめながら、控えめに言った。妙な色は次第に、足の爪の上で、面積を伸ばしていく。なんだか、気分が悪かった。
「でも、ずっと水に入れてたら、カビが生えてきたでしょう?」
彼女が苛立った調子で言う。
「それじゃいけないって、あなたが言ったんじゃない」
彼女はようやく満足がいく具合になったらしく、爪に色の付いた足を不格好に高く持ち上げて、少し見上げるような姿勢をして見せた。足の指の先を、無意味に曲げている。
「水をちゃんと換えてれば大丈夫だよ」
僕は彼女の高く上げた足を、一緒に見つめながら言った。身体の少し硬い彼女は、足を高く上げようとすると、膝が先に曲がってしまう。そのうち、腿の裏側の筋肉がつってきたらしく、高く足を上げるのを止めて、ごろりと背中を付いてしまった。
頭の後ろに手を組んで、口をへの字に結んで仰向けに天井を見上げている。
「あ、蛾の死体」
彼女が、天井の隅を指さしながら呟いた。
僕も、彼女の指さす方を見上げた。そこには確かに、蛾の死体がくっついたままになっていた。もう、ずいぶん古い物らしく、主のいなくなった蜘蛛の巣に絡まったまま、腐りもせずに残っていた。でも、よく見ると表面は、うっすらと、深緑色の藻のようなカビに覆われていた。
「...モス」
彼女は蛾の死体を指さしたまま、そう言って、おかしそうに笑った。
何がおかしいのか、僕には解らなかった。
「...ああ、つまらない」
彼女は持ち上げていた腕を、ばたりと畳の上に落とした。
そして、また口をへの字に結んで、天井を見つめていた。
「あのさ、」
僕はおそるおそる、彼女に話しかけた。
「何で、僕を呼んだわけ?」
今日は、バイトの日だった。彼女が急に、会いたいというものだから、僕は何かあったのかと思い、友達にわざわざ換わってもらって、ここに駆けつけたのだ。
「...悪かった」
彼女は、目だけを僕に向けて謝った。
「悪気は、無いの」
つまらなそうに、また天井を向いた。僕よりも、天井を見ていた方が、未だ飽きないらしい。
彼女はやがて、静かに目を閉じた。
キスでもしろ、と言うように、口を半開きにして見せている。
僕は戸惑った。
さっきから、気になっていたんだ。
カメが、僕らを見ていた。
「...ねえ」
僕は恐る恐る彼女に呼びかけた。
「...ん?」
半開きの口が答えた。
「...カメが、見てるよ」
彼女は、ふと、目を開くと、身体を半分起こしてカメを転がしておいた方を見つめた。しかしカメは、彼女が見つめる頃にはもう向きを変えていて、そっぽを向いたまま、つまらなそうに歩き始めていた。
「...見てないじゃん」
彼女が、ふてくされたように僕を睨み付けた。
見てたんだよ。
僕は言葉を口の中でかみ殺した。
「まあ、いいけどね」
彼女はごろりと横になると、身体の向きを変え、僕に背中を向けてしまった。
「...なんか、つまんないの」
彼女の背中が、少し小さく見えた。もしかすると、泣いているのかも知れなかった。でも、下手に触ると、彼女のことだから、きっと、ペディキュアの乾いていない足で、僕を足蹴にしてしまうのだろう。
僕はそれが怖かった。だから、あえて彼女には触れないようにしていた。
彼女の向いた先には、安っぽい窓枠の嵌められたガラス戸が僅かに開いたままに放置されていた。その向こうから西日が差し込んできて、部屋は妙に明るかった。
「...ねえ」
彼女が向こうを向いたまま言った。
「...もう、帰ってもいいよ」
彼女の小さな背中は、いつまでも小さなままだった。
気がつけば、カメの姿も、もう無かった。
でも、カメが見つめていてもいなくても、彼女の背中は触れるにはあまりに小さすぎて、僕は何も出来ずに、半分伸ばしかけた右の手を、静かに降ろした。
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