2009年2月21日土曜日

『カタワラ』:18

「ねえ、ちょっと、どこ連れてくの」
車の中でアイマスクをつけられた眞菜がうれしそうに声を上げた。

「また倒れたって知らないよ!」
「心配すんな」運転席の徹さんが言った。「優秀な担当医が二人も付いてる」
「……ぼくは医者じゃないですよ」賢治が言った。
「眞菜の専属医だ」徹さんは眼尻にいっぱいしわを寄せて笑った。
「この間の森での処置は、みごとだったぞ」

あれをやらなきゃ、眞菜はとっくに死んでたかもな。
徹さんはよほど上機嫌なのか、思わず、そんな物騒なことを言ったので、アイマスクの下の眞菜の口元が、風船のように膨れた。
「……医者にあるまじき、デリカシーのなさ」
眞菜はそう言って、見えないはずの窓の向こうを見るように、顔をそむけた。

車はやがて、どこかの場所についた。
賢治は眞菜にあの例のガスマスクをかぶせ、彼女の手を引いて足早に建物の中に駆けこんだ。
玄関先で、彼女の体にわずかについた花粉を念入りに取り除くと、そのまま建物の奥に入った。

「……やっときたあ」
ガラガラと扉を開ける音がして、聞き覚えのある声が眞菜の耳に入った。
「この声、聞き覚えがある……、瀬希?」
瀬希はうれしさに小さな体をいっぱいに伸ばして、ひとみをらんらんと輝かせた。

「マナマナ!ひっさしぶりい!中学校以来だね!」
見えもしないのに、瀬希は眞菜の顔の前で手を振った。
「早く、瀬希の顔が見たいんだけど」眞菜が言った。「……まだ、とっちゃダメ?」

「もう、いいよ」賢治が言った。
眞菜は恐る恐る、アイマスクを取った。
そして、はっと、息をのんだ。

目の前にあったのは、大きな柳のように流れる、枝垂桜だった。
そこは、かつて彼らの学んだ、小学校の理科室だった。窓も大きく、枝垂桜にも近いこの場所は、彼らが“花見”をするにはうってつけの場所だった。土日の連休中で、小学校に他の児童の姿はなかった。彼らは、その日当直だった知り合いの先生に頼んで、少しの間、ここへ入れてもらったのだった。

賢治と瀬希は、あらかじめこの部屋をきれいに清掃し、眞菜の家から持ってきた空気清浄機をかけっぱなしにして、昨日から準備していたのだった。

桜は、理科室の大きな窓いっぱいに、桃色の花をつけた枝を揺らしていた。そよ風が吹くと、その枝先から、零れ落ちる滴のように、花びらが舞い散った。

明かりを消した薄暗い理科室の窓から見えるその光景は、さながら、スクリーンに映る映画のワンシーンように、眩しく彼らの瞳に焼き付けられた。

「……満足した?」
眞菜の隣に立った瀬希が、下の方から、眞菜の顔を覗き込んだ。
「……ええ」
眞菜は涙をいっぱいにためた目で、その光景を見つめていた。
賢治はそれを見て、うれしそうに微笑んだ。

「……なんか、こうしてると、思い出すね」
瀬希が言った。
「小学校の時、みんなで、あの桜の下で、お花見、やったっけね」
「……あの時、一緒にいたのは、瀬希だったっけ」
眞菜が言った。

「もしかして、忘れてたの?」
瀬希があぜんとした顔で眞菜を見つめた。
「……ひどいよ、マナマナ……」

「そういえば、桜に気を取られて、ちゃんと見てなかったけど、」
眞菜がじっと瀬希の顔を見た。
「……ずい分、大人っぽくなって……、“きれい”になったんじゃない?瀬希」
瀬希の顔がみるみる喜びに満ちた。彼女は思わず、眞菜に抱きついた、小柄な彼女が抱きついても、肩ほどまでも頭が届かなかった。……親にじゃれる、子供みたいだな。脇で見ていた賢治は苦笑を浮かべて一人思った。

「……賢治」瀬希に抱きつかれたままの眞菜が、賢治の方を向いた。
「……薫さんは、どうなったの」

薫はそのころすでに、他県の大学に通うため、引っ越してしまっていた。本当は瀬希も賢治も引っ越しは既に済んでいたのだったが、この桜が咲く時期に合わせて、一度帰ってきていたのだった。

「……声かけたんだけど、新しい生活の準備で、いろいろ大変だから、今回は、ごめん、てさ」
賢治はそう、眞菜に伝えた。

「……そう、か」眞菜は残念そうに言った。
「……一度、ちゃんとお話ししてみたかったな、彼女とは」
眞菜は、桜に目をやった。二羽のモンシロチョウが、校庭の隅をじゃれあいながら、過ぎて行くのが見える。
校庭の隅の菜の花が、左手から右手へ流れる風にたなびくように揺れた。

「似てると思うんだよね。彼女」
眞菜は窓を見ながら言った。
「賢治からの話を聞いてるとさ、彼女、あたしに、よく似てるなって、思えた」
「……どういうところが?」
眞菜に抱きついたままの瀬希が、不思議そうに眞菜を見上げて尋ねた。

「なんだか、せっぱつまってるところ」
眞菜は困ったような表情を顔に浮かべて言った。
「せっつかれるように、今日を生きているところ、と言えばいいのかな……。今日を大事に生きてはいるんだけど、未来を見る余裕があまりないって感じが」

「……でも、眞菜の場合は、難しい病気を持ってるって所為もあるだろう」
賢治が言った。
「あいつは何ともないんだけどな」
「……彼女はたぶん、何かをし続けなければいけない人なんだよ」
眞菜が言った。
「ぐらつく足下の上で、彼女は必死にもがいているんだ」

何もしなければ、何も生まれない……。あの日、病院の待合室で聞いた薫の言葉が、ふと彼の頭の中をよぎった。

頼るもののない彼女が、未来を切り開いていくには、今、目の前にあるものと、格闘していくしかなかった。それは、先行きの見えない不安な生き方ではあるだろうが、賢治はひどく、それをたくましいと感じた。

「俺にはできないな、ああいう生き方は」
賢治が言った。
「そうだね」眞菜が言った。「……私も、見習わなくちゃな」

「……なあ、眞菜?」
急に改まったような賢治の語りかけに不意を突かれたのか、眞菜が、えっ、と驚いたような声を上げた。
「まだ、ケーキ屋さんになりたいと思ってるか?」
彼女はおかしそうに、ぷっと吹き出した。

「……そんなこと、まだ覚えてたの?」
恥ずかしそうに笑った。
「……もう私は、忘れてたよ」

「……なって、くれないかな」賢治が言った。
眞菜は、もう一度、えっ?、と小さく声を漏らした。

「……俺の、いつか開く喫茶店で、眞菜の焼くケーキを出すんだ」

それは、眞菜が初めて豆腐入りのケーキを作った日から、賢治がぼんやりと温めていた構想だった。賢治の開く田舎の喫茶店で、彼女がケーキを焼く。彼女の作る、アレルギー患者でも安心して食べられるケーキが店のメニューに並んだら、どれほどいいだろうかと、賢治は思った。アレルギーのある人も、無い人も、同じテーブルを囲んで、同じケーキをつつくことができるのだ。眞菜が夢に見た『あたりまえ』を実現できる小さな貢献ではないかと賢治は思った。

その提案を聞いて、眞菜は照れたように微笑んでいた。
そして、また、桜の方に向き直った。

「……早く帰ってこなきゃだめだよ」
眞菜が言った。
「賢治のお母さんみたいに、私は長くは待てないからね」

……おう。と賢治は小さな声で言った。
眞菜は桜を見たまま、照れくさそうに、しかし嬉しそうに、クス、と笑ったらしかった。

「マナマナが、ケーキ屋さん?」
隣で見ていた瀬希が、驚いたように言った。
「……コーヒーも入れられない、マナマナが……」

「瀬希」眞菜が瀬希をふり返った。
「それ、誰に聞いたの?」
眞菜の気迫に驚いた瀬希は、あわてて賢治の背中に隠れた。

「マナの……、お、お父さんに……」
「お父さん……」苦々しそうに眞菜が呟いた。
理科室の扉の向こう側から、一人の人影が、あわてて逃げ去っていくのを賢治は見た。

「賢治」賢治の背中に抱きついていた瀬希が賢治を見上げた。
「……が、がんばってね、これから。応援、してるから」
瀬希は心配そうに賢治を見上げていた。
ああ、お前もな。
賢治はそう言って、昔、そうしていたように、小柄な瀬希の頭をぐりぐりと撫で回した。

瀬希は頭を洗われる子供のような顔をして、ひい、と言って笑っていた。


賢治はふと気になって、窓から外の景色を見た。理科室の窓から見える春の空は青々と晴れ渡っていた。ところどころに浮かぶ綿菓子のような雲が、上空の強い風の流れを受けてか、いつもより早く流れ去っているように見えた。

それは天候の悪化する前兆だと、かつて父から聞いていた。

どんな天気にも、必ず前触れがある。父は幼い彼にそう言っていた。
それを読み取れるかどうかは、どれだけ毎日、空と向かい合っているかで決まるんだ。

空の機嫌を普段気にしてもいない奴に、快晴や嵐の前触れを自然は決して見せてくれないさ。

賢治、毎日怠るなよ。
父は口癖のように、そう言っていた。

普段何気なく身近にあるものでも、何気なく見ていてはだめなんだ。
父はそういうことを言いたかったのだと、今になって彼は解った。

空を流れる雲は次第に、元の丸い形から、細くたなびくような形に変わっていった。雲の底は上端の純白な、綿菓子のような様相とは打って変わって、雷雲を思わせる暗い色を帯び始めていた。

ひと雨、降るかもな。

賢治はまだ青い空を見ながら、ふと思った。



[終]