2009年5月23日土曜日

one, single, alone.

人生は、何かがある時よりも、何もない日の方が遙かに多い。
男は、そう感じていた。薄曇りの空の下、絶え間ない霧雨で、アスファルトの路面はしっとりと濡れていた。傘を差すか、差さないか迷うような雨の中を、片手に傘を差した自転車が、脇目もふらずに通り過ぎていった。その後を追うように吹き抜けていく、湿り気を帯びた冷ややかな風を感じながら、男は自転車の通り抜けた後の路面を、ひたひたと歩いていった。

彼は、これまで自分が孤独だと感じたことはなかった。
彼の身の回りにはいつも人がいたし、彼らは彼をいつも必要としてくれているようだった。たとえ、一人になる時間があったとしても、男はその一人の時間を愛していた。周りに人がいる時には余り見せない、彼の一面――たとえば、古い友人に手紙を書くこと――も、消して彼の孤独な行為とは受け止められないだろう。それはまだ、一人の時間の過ごし方と言うだけのことであり、そのような時間は、人生の大半に渡って、特に青年期の初期から壮年期の前半にかけて顕著に表れる時間である。現に、彼は孤独のもたらす数多くの弊害、たとえば思考が狭まり、次第に厭世的な見方に偏っていくような兆候を示していなかった。むしろ、彼から一人でいる時間を奪った方が、彼はそのような兆候を示したかも知れない。そう言った点でも、彼はごく普通の人間だった。

しかし、この日の男は、何処か様子が違っていた。
地味なブラウンのコートを羽織り、傘も差さず、雨中に佇んでいた。両手には何も持たず、使い慣れた革の鞄すら、今日は持っていなかった。

それでも、上下はいつものスーツを着ていた点からみて、彼の服装はいつもの会社帰りとさほど変わらなかった。彼は裏露地の狭い道を歩きながら、ふと、目の前に、道を遮るように止まったタクシーに目をやった。しかし、彼はそれを見ただけで、結局乗ろうとはせず、競り建ったビルとタクシーの間をすり抜けるようにして、市の中心部の方向へ向けて歩いていった。

黒く湿ったアスファルトが、明るい光りに彩られた街を逆さまに、滲んで浮かびあげていた。街は今、水上に浮かぶ架空の都市のように、曖昧で儚い光を放っていた。ビルの上の赤い光りが男の網膜の奥に焼け付くほど強く差し込んできた。街の輻射に赤く霞んだ雲の中に浮かび上がる、その鮮やかな単色光に、男は一瞬、目を奪われる思いがした。

彼は、雨に濡れる身体を構うことなく、ひたすらに街の中心を目指して歩いていた。
そして、市の中心部の駅の前まで来たところで、彼の足はぴたりと止まった。

男はその場所に立ったまま、おもむろに、彼の頭上にあるものを見上げた。


そこには一本の高いビルが聳えていた。
2年ほど前に立ったばかりの駅前の超高層マンション。彼はそのビルの突端近くの高い窓を雨に濡れるのも気にせず見つめていた。

男の見つめるビルの高層階には、一部屋だけ明かりが灯っていた。他の部屋にはもう明かりは灯っておらず、それらの部屋の住人は、すでに眠ってしまっているようだった。

男は眼を細めて、その高いビルの一部屋だけ灯った明かりを見つめた。
その窓辺には、誰の姿もなかった。窓は堅く閉ざされており、誰かが出てくる気配すら感じられなかった。

「……幸せ、か」
男は、ぽつりと呟いた。
そして、顔を伏せて自らの足下を見つめた。

冷たく濡れた暗い路面が、彼の足下に拡がっていた。
その上に吸い付くように立ったままの、二本の彼の足。当たり前のそれが、今日はいつになく不自由なものに感じられた。

「……幸せ、なのか?君は……」

男は地面を見つめたまま、身じろぎもせず、そう言った。

高いビルの上の窓には、相変わらず煌々と明かりが灯っている。彼はしかし、もう一度その窓を見上げようとはしなかった。

「あの窓から見える景色は、僕らが憧れた……」
そう呟いて、しばらく口をつぐんだ。
僕ら。そう思っているのは、すでに自分だけかも知れない。彼は、そう感じたのだった。


彼はふと、辺りを見渡し、自分の周りにもう誰も人がいなくなっているのに気づいた。
駅も、すでに最終電車が過ぎ、僅かばかりの明かりが灯されているだけだった。

街は、煌々と夜の残余を残しながら、次第に眠りにつこうとしているようだった。
男はすでに、ここに立っている意味を見失っていた。僅かな霧雨は、しかし確実に、雨中に佇む男の身体を濡らしていた。茶色のコートが湿り気を帯びて、ずしりと身体にのしか掛かってきた。

「……次の誕生日には、もう少し、ましなものを用意しようと……」
男は呟いた。

「……しかし、それも必要なかったな。君には、君の幸せがもうあるのだから」
男の脳裏に、一人の女性の微笑みが浮かんでは消えていった。
渡そうとして渡せなかったものと、それをもらって喜ぶ彼女の微笑み。

しかし、それは恍惚とした喜びと一緒に、身をもだえるような苦しみを彼にもたらした。
男は微笑んだまま、眼を伏せ、暗い路面を見つめ続けた。

雨に濡れた街は逆さまに、夜の光りを映している。
彼の足下に、一点の光りがぼやけて映っていた。彼はそれを、彼女の部屋の明かりだろうと思った。その光りは、彼の背中にそびえる現実の塔から差し込み、彼の足下で揺らめいているように見えた。


その時、彼の足下に灯されていたその小さな明かりが、突然音もなく消えた。
驚いて、彼は背後の高層ビルを振り向き、高い塔の突端近くの部屋を思わず見上げた。

そこには、未だに明かりが灯ったままだった。
しかし、その窓辺に、これまでは見られなかった、一人の女性の姿があるのに、彼はすぐに気づいた。

女性は、窓辺に立ったまま、静かにビルの下の暗い世界を覗き込んでいた。
しかし、高い建物の上の、明るい部屋の中からは、暗い世界の底から見上げる彼の姿に、気づくことは不可能だった。

男はそれでも、高い窓の上から見下ろす彼女の瞳が、彼を捉えているように思えて仕方がなかった。それがあり得ないことは十分解っていたが、それでも、彼はそう信じたかった。


窓辺の影はそれからすぐに消えた。
彼女が立ち去ってまもなく、部屋の明かりも消えてしまった。

「……孤独ではない、そう思っていたのは私だけだったな。よりどころとしていた君は、ずっと、孤独だったのだから。」

男はそう言って、顔を伏せ、微かに嗤った。
「……僕と、一緒にいる時から、ずっと……」

そして、塔に背を向け、元来た道を歩き始めた。
「……君の孤独に、あの時、気づけなかったのは……」

それは、相手が君だったからだ。

男はその言葉を飲み込んだ。


夜は次第に更けていく。
街の明かりは、気づけば、もうほとんど落ちてしまっていた。

雨に濡れた身体を引き摺ったまま、男が、深い、深い夜のとばりの中へ、ゆっくりと吸い込まれるように、消えていく。

その後を追う者は誰もいなかった。
あるとすればそれは、音もなく降る、夜霧のような霧雨と、振り払っても身にまとわりつくような、湿った夜の影だけだった。