2009年9月20日日曜日

パルミラ (10)

「……おかしい!面白い子ね、あなたのパルミラ」
彼女はそう言って、僕のパルミラの頭を、無造作に撫でた。

パルミラは微笑んだまま、されるがままになっていた。僕は、自分が撫でられているような不思議な恥ずかしさを感じた。
「……もう、中に入りましょ?あなた、まだチェックインも済ましていないみたいだし……。ここのディナー、この辺で捕れた魚介類が一杯使われて、結構豪華らしいよ。……じゃあ、また、あとで!」

彼女はそう言うと、半袖から伸びた細く長い腕を曲げて、僕に挨拶した。僕も同じ仕草で彼女に返した。彼女のパルミラが彼女の後に続いて、笑いながら建物の中に入っていく。その微笑みは、画一的に規格化された笑顔以外の、何物でもないはずなのに、何処かしら彼女の、片方だけはっきりした愛らしいえくぼのある笑顔の面影が感じられ、見なれたはずのパルミラ笑顔に、僕は少し、照れてしまった。



翌日、彼女が街を案内するというので、僕たちも一緒させてもらった。
街を案内する、と言っても、彼女自身、この街に来たのは初めてなのだ。ただ、彼女のお母さんなどから聞いて、僕よりも良く、この街について知っているだけに過ぎない。

「……この街を巡って、空気を吸っているだけでいいの」
彼女は言った。

街全体が見渡せる高台だった。其処は古い城跡のようで、もうしろそのものは残っていなかったが、かつて城の周りを囲っていた城壁がその高台を縁取るようにぐるりと張り巡らされていた。城壁の切れ目には一台だけ、何処の観光地に出もあるようなコイン投入式の望遠鏡が据えられていた。そのクリーム色のメッキは先端部だけはげ落ち、昼前の陽光を浴びて、地の鉛色が鈍く光っていた。

彼女の瞳は、その城壁に囲まれた高い空をじっと見つめていた。はぐれ雲が、僕らの頭上を一つ、二つと流れていく。彼女はその青い空を飲み込もうとでもするように、細い喉を伸ばして、真上の空を見つめていた。

「この街にいるだけで……」
上を向いた彼女の喉から、微かな声が漏れた。
「それだけで、私はおばあちゃんと繋がっていられる気がするから……」

僕は、彼女の言葉に、すごく詩的なものを感じた。

もう存在しない人と、繋がっていられるという感覚が、本当にあるのか、僕には解らなかった。あるいは、そう言った感覚は、本来人間が持っているはずの感覚なのかも知れなかった。でも、僕らはいつしか、そう言った実体のない、しかし感覚だけは伴ったあやふやな絆を、確かな存在感を持って感じることが出来なくなっているのかも知れない。ただ、そうした目に見えない、皮膚で感じられない絆を信じ続けることは、僕には難しそうなことだと感じた。

それはとても不安なことだ。そして、見えないと言うことは、何度となく疑わしく思ってしまうものだ。

「……いま、変なこと言うなって、思ったでしょ」
気がつくと、彼女はもう空を見るのを止め、僕の方を向いて笑っていた。

「いや……」
「いいの。私も、そう思うから。……どうしてなのかなあ。ここに来て、始めてそんな身近におばあちゃんを感じられた気がする。もう死んじゃった人なのに。何年かに一度送られてくる、手紙の中だけの人だったおばあちゃんが、確かにここで産まれて、息をして、毎日……、ご飯を食べて、お出かけして、そして、波の音を聞きながら静かな夕食を取って……。そうして、冷たいシーツに入って、やれやれ、なんて溜息付いて、眠りについたんだろうなって、そんなどうでもいい、ありきたりな日常を感じるの。……それを……、このパルミラは、ずっと見ていたんだろうね。私達が、本来共有すべきだったそうした時間を、変わりに受け止めてくれていた」

彼女はそう言うと、祖母のパルミラの頭をそっと撫でた。
細い髪の毛が、さらさらと微かな音を立てたのが聞こえたような気がした。

「……絆って、なんなんだろう」
パルミラの細い髪の毛を、うっとりと愛おしげな瞳で見つめながら、彼女はぽつりと言った。

「それは、それほど大事な物だとは、今まで思ってこなかった。どちらかと言えば、私をがんじがらめにする……、自由を奪う鎖のように考えていた。でも……」
彼女はそこで、言葉を切った。続く言葉をゆっくりと選んでいるようだった。

「どうしてなんだろう。私がこの街に来てしまったのも、また、絆の力なんだよね……。縁、とでも言うのか……。私は、何処かで、人と繋がっていることを、まだ求めていたのかな……」
彼女はパルミラの頭をやさしく撫でながら、独り、含み笑いをした。
そして、ふと顔を上げ、僕の方を見つめた。

「あなたと出会ったのも、また、縁なのかもね。……おばあちゃんとの繋がりが、私とあなたを偶然引き合わせた。……あ、その前に、この子と私も」
彼女はそう言うと、自分のパルミラの頭を、ぽんぽん、と軽く叩いた。パルミラは、微笑みながら僕の方を見つめている。

「死んだ人は、ある意味、まだ死んでいないのかも。そう考えると不思議だね。その人はいなくなっても、その人の影響は、まだ残るんだ。……絆は、もしかすると、その人そのものとの繋がりでは、無いのかもね。だとすれば……。私が、おばあちゃんをここで感じられるのも、解る気がするな」
彼女はもう一度、青い空を見上げた。先ほどまで頭上にあった雲は、もう、視野の彼方にまで行ってしまっていた。

「私は、私の中のおばあちゃんと繋がっていたんだ。手紙の中のおばあちゃんの頃から、ずっと。そして、この街に来て、その繋がりが、もっと、確実な物になった気がして……。存在を信じられる物になった気がしている。わたしのこの目も、この肌の色も、おばあちゃんから受け継いだものなのだろうけど……、私の中のおばあちゃんは、いまいちはっきりした輪郭を持っていなかったから……」

彼女はそう言って、口をつぐんだ。
我を忘れたように、何もない空をじっと見つめていた。

僕はそんな彼女に、思わず見とれてしまっていた。
彼女の褐色の肌が、青い背景の中に、まるで一枚の絵のように融け込んで見えた。気がつけば、僕は彼女のかたちの良い脣だけを見つめていた。


「……ねえ?」
彼女が僕の方を見た。