2009年9月6日日曜日

パルミラ (9)

僕は向かいの席に座ったパルミラの瞳を、そっと覗きこんでみた。
海からの照り返しがまぶしいためか、パルミラは僕の視線には気付かず、ずっと海を見たままだ。深い黒真珠のような漆黒の瞳に、僕らの見詰めた海がさかさまに映しだされていた。
そのかすかに開いた、幼い口元からは、今しも、何か感嘆の声がこぼれてきそうで、あるいは、こぼれて来ているかのようで、僕はもう一度、彼女が見つめる海を見ながら、こそばゆくこみあげてくる、幸せというものにおそらくとてもよく似た感覚に、ほおを緩めていた。

海辺の小さなペンションに着くと、まだ昼下がりと言ったほどの時間ではあったが、すでに先客が来ていた。見れば、今日の飛行機で、僕のそばに席を取っていた、彼女だった。
「こんにちは!」
麦藁帽子の下で、彼女の青い瞳が驚いたように見開かれていた。
「あなた方も、こちらにいらしたの?」
「ええ!」
僕も、思わず、声が高くなった。
「あなたと、同じ国に旅行して、まさか同じ宿になるなんて!世界って、広いようで、意外と狭いんですね」
彼女はそれを聞くと、楽しそうに目を細めてふふ、と笑った。
「そうね……。あ、この子があなたのパルミラちゃん?何か、名前は付けてる?」
「いえ……。やっぱり、パルミラには、パルミラって名前が、一番似合っている気がして、そのままです。」
「そうよね」
彼女は、そういうと僕のパルミラの前に屈みこんで、その瞳をじっと見つめていた。僕のパルミラは、彼女の視線を受けて、首をかしげて、にこりと笑った。
「愛嬌のいい子ね!」
彼女も思わず笑った。
「他の人のより、ちょっと反応がいい気がするわ。きっと、あなたがちゃんとお世話(メンテナンス)してるのね」
「お世話(メンテナンス)なんて、本当に最低限のことしか」
僕はほめられて恥ずかしくなって、頭をかいた。
「あなたみたいに、ちゃんとパルミラ用の席を用意したり、しませんでしたし」
「私も、普通の旅行なら、パルミラには悪いけど椅子の前に座ってもらうわ」
彼女も恥ずかしそうに歯を見せて笑った。白いきれいな歯が並んでいた。
「……でも、今回の旅行は私にとって特別なの……。私の、オリジンをめぐるたび、だから」
「オリジン?」
僕は聞きなれない言葉に、戸惑い、聞き返した。
彼女は細い眉の下の青い瞳を僕に向けて、無言でまっすぐに頷いた。
「……私のおばあちゃん、そして、お母さんは、この国で生まれたの。で、日本のお父さんとの間に私が生まれて、お母さんは、この国を出た。……おばあちゃんだけ、残してね。で、そのおばあちゃんも、去年亡くなって……。そしたらね、その数日後に、大きな包が届いたの」
彼女はその時の驚きを表すかのように、手を身体の前に大きく広げて、丸く目を見開いた。
「開けてみたら、何ができたと思う……?」
彼女は、そういうと、彼女のうしろに隠れるように立っていたパルミラを、僕の前に引き出した。

「この子よ!」
僕はその時、彼女のパルミラを、初めて間近に見た。それは僕のと変わらない、ごく普通のパルミラだった。でも、どことなくその面影は、隣で微笑む青い瞳の彼女のそれに近いものがあった。
「……君に似ているね、何となく」
僕は感じたままを素直に言った。
「でしょ?」
彼女は目を糸のように細く引いて微笑んだ。笑うと、右側だけえくぼが出来た。
「……おばあちゃん、ずっと、機械の女の子なんて、気持ち悪くて嫌だって言ってたの。だから、きっと一人で暮らしてたんだと思ってた……。でも、私も、お母さん達も知らないところで、実はこの子と出会って、一緒に暮らしていたみたいなんだ。だから、私、これ見たとき思ったの。きっとおばあちゃん、私にずっと会いたかったんだろうなって……。」
彼女はそういうと、長い下まつげに彩られた目の端を、日に焼けた細い褐色の指先でそっとぬぐった。

「……お母さんが出ていく時、好きにしたらいいって言って、結局ここを離れたこと、一度もなかったのよね。それでも、気持ちは、私をいつも気にしていてくれた。そばにいたかった……。だから、その代わりとして、きっとこの子を愛していたんだろうなって思った。……人間って、完全に孤独では生きていけないじゃない?愛されなくてもいいけれど、愛する対象だけは、いつも必要だと思うから。……この子達のような」
彼女は、自分によく似たパルミラの瞳を、じっとのぞきこんだ。彼女のパルミラも、彼女の方を見て、にこやかにほほ笑んだ。
「この子は私より、おばあちゃんをずっと知ってる。本当は私に伝えたかったはずおばあちゃんの優しさだって、一杯見てきている。そして、なにより、おばあちゃんの、誰にも言えなかった寂しさも知ってる……。だから、私、この夏休みの間に、この子とこの街を旅行しようって決めたの。……だって、ここは、“彼女”の街だもの。彼女がいない旅行なんて考えられないわ」
そういうと、少女は、また目を細めて笑った。
少女のパルミラは、そんな彼女の表情を、下から見上げるように、じっと見つめていた。


その時、唐突に僕のパルミラが、僕の手をぐい、と引っ張った気がした。
僕は驚いて、自分のパルミラを見つめた。

僕のパルミラは、僕の視線を感じて、いつものように微笑んでいた。
別段、僕の手を引っ張ったような形跡もなかった。
「……どうしたの?」
青い目の少女が、僕の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
彼女のパルミラも、僕の顔を覗き込んでいる。
「……いや、なんか」
僕は、四つの目に見つめられて、なんだか少し照れくさくなって、下を向いた。
「僕のパルミラが、さっき、僕の手を引っ張ったような気がしたから」
「パルミラが?」
彼女はそう言うと、かがみ込んで、僕のパルミラの目の高さに自分の顔を持って行った。彼女は大きく目を開けて、僕のパルミラの漆黒の瞳の中を覗き込んでいる。僕のパルミラは、その視線を受けて、彼女の方を振り向き、そして、いつもの愛らしい笑顔で、彼女の強い視線に答えた。

……ふふっ。
おかしそうに彼女が笑った。
「パルミラが手を引っ張るなんて、聞いたこと無いけど……。でも、ホントだったらおかしいわね。この子、もしかしたら、焼き餅焼いちゃったのかな」
彼女は立ち上がり、口元に軽く手を当てて微笑みながら僕のパルミラを見下ろしていた。
「……あるいは、しびれを切らしたのかも」
「ママ達が買い物の帰りに、立ち話するような物かな?」
彼女はそう言うと、破顔一笑、声を上げて笑った。

「……おかしい!面白い子ね、あなたのパルミラ」