2009年11月14日土曜日

パルミラ (14)

それは、もしかすると、家族旅行の写真なのかも知れなかった。
ファインダーを向けたのは、彼女の父で、あのパルミラは、家族の物なのかも知れなかった。

だが、僕にはそう考えることが出来なかった。何より、大分うち解けたと思っていた彼女の心が、予想以上に遠くにあったことに、僕はうちひしがれていた。

僕は、失意を感じながら、自分のパソコンの前から離れた。

振り向けば僕のパルミラが、片手を宙に差し出したまま、じっとこちらを見ていた。
パルミラは笑っていた。不調が改善したらしく、また以前のように愛らしく微笑んで、差し出したその小さな丸い手を僕が再び取るのを、ただじっと待っていた。

僕は、自分のパルミラに近づき、その手を取った。その手は子供の手のそれのように、微かに暖かった。そして、パルミラは僕の視線に反応し、僕の方を見て、にこりと微笑もうとした……。


しかし、動きはそこで止まった。

パルミラの首の関節が、その時、突如、耳障りな異音を立て始め、歯車の空回りするキイキイと甲高い音が首筋から聞こえてきた。パルミラの頭は、歯車の振動で、小刻みにがくがくと揺れた。そして、微笑んだ目だけが、廻らない首より先に僕の瞳を捕らえた。口元が、安心したように細く伸びた。

キュウウウと激しい音がした。つんと、ゴムの灼けるような嫌な匂いが鼻をついた。アンバランスに首だけが、がくりと力なく前に落ち、そのままがたがたと左右に大きく振れ始めた。首だけだった震えはやがて、身体全体に拡がり、身体の各部分(パーツ)が、独立した別個の生きもののようにぴくぴくと痙攣を始めると、僕は薄気味悪くなり、思わず彼女から手を離してしまった。

彼女は震えて立っていられなくなり、仰向けに床に転がった。手だけは高く宙に差し出されたまま、身体はまだ、中で何かがもだえているかのようにビクビクと震えている。瞳が、再び僕の顔を捕らえた。口元が細く引かれ、パルミラが笑った。首がさっきより激しくギイギイと振動をたてはじめた。笑いながら首がひっきりなしに震えている。やがて、歯車が異なる場所でかみ合ったのか、振り回される振り子のように、首がぐるぐると激しく回転運動を始た。首の皮膚が回転運動に巻き込まれ、すぐに伸びきって、切れかかったところで、歯車の擦れる音を激しく立てながら回転は止まった。身体が痙攣しながら、徐々に反り返った。そしてすっかり背中が反ってしまったところで、おなかの皮膚が裂けるぶちん、という音がして、反り返った身体は、バランスを崩して横向きになった。パルミラの瞳は、まだ震え続けている首の先で、それでも大きく見開かれ、僕の顔を捕らえようとしていた。そして、口元はずっと、笑ったままだった。切れた首や、おなかの皮膚の間から、卵の白身のような透明で生暖かい、正体の分からない液体が漏れ始めた。それは震える首筋に反って流れ落ち、白い衣服を濡らし、床の上にひとしずくずつ滴った。パルミラが時折、大きく痙攣する度に、そのどろりとした液体は細かな雫となって、四方に飛び散った。同じ液体はやがて、パルミラの目や鼻、耳からも漏れ出した。彼女の顔は頑なに微笑んだまま、やがてその液体でどろどろに濡れてしまった。

僕は、これ以上パルミラを見ていられなくなった。
パルミラの電源スイッチについては不明だった。だから、このコントロールを失った作り物を、可逆的に停止させる術はもはや無かった。

僕は先ほどまで座っていた、スチールフレームの椅子を手に取った。
パルミラは床の上に転がったまま、まだ震えていた。微笑んだその顔は、依然と何ら変わらないはずだった。僕はそれに愛情すら感じていたはずだった。しかし、どうしてだろう。僕にはもう、この笑顔が、ただ気味の悪い物としか写らなくなっていた。

僕は椅子を高く振り上げた。そして、痙攣を続けながら、微笑んだままの頭にめがけて、それを力一杯振り下ろした。


それから数時間の時間が経過したのに、僕は気がつかなかった。
時計を見て……、いや、その前に、明るかったはずの空がいつの間にか暗くなりかけていたことに気がついて、僕は時間の経過を知ったのだ。

僕の衣服は、どろどろした透明な液体で湿っていた。
辺りには、飛び散った金属片や、プラスチック片が散乱していた。飛散した破片が頬に当たって、僕は右頬に少し傷を負っていた。手で触れると、指先にわずかに血が付いた。

僕は自分の傍らに転がった、幼児ほどの大きさの固まりを見た。それは、頭部がひしゃげて潰れており、脳天から、幾つもの部品が飛散しているのだった。大きな丸い瞳が、片方だけ半分飛び出していた。それは、最後の瞬間まで、僕の表情を捕らえ、微笑んでいた瞳だった。今ではもう、何物も捕らえることはない、乾いた瞳。表面に付いた透明な液体が乾燥して、その飛び出した瞳は白く濁っていた。

僕は何か、大きな物を失った気がしていた。
しかし、それを失ったのが、果たして今なのか、僕には解らなかった。
僕らは実はもうずっと以前に、それを失っていたのかも知れなかった。だが、それを意識しないで、意識することを避けたまま、もう長いこと生きてきていたのかもしれなかった。

それが具体的になんという名前で呼ばれるべき物であるのか、その時の、僕の疲れた頭では、すぐに思い出せそうになかった。僕はフラリと部屋から外に出た。どろどろする液体が乾いて、身体に糊のように張り付き始めた。

孤独、それは、愛すべきものが見つからない時に感じる感情。
そんなことを言ったのは、あの青い目の彼女だったか。

彼女は知っていたのだろうか。
僕らが、気づかないうちに失っていた物を。

そんな事を考えながら、疲れた身体を引き摺り、マンションの表側の廊下をエレベーターに向けて歩いた。


指先は無意識にポケットを探り、吸ったこともないタバコを探していた。