2009年11月17日火曜日

パルミラ (15)

僕は今、不思議な懐かしさを感じながら、この手記を読み返していた。

思えば、この不幸な出来事からすでに3年の月日が流れている。
この思い出は、長らく、僕の心の中に暗い影を落とし、思い返すことすら、ずっと忌避し続けていたのだが、今、こうして読み返してみると、それは確かに、ところどころ古い傷に触るようなつらさを伴ってはいるのだが、どこか懐かしく、僕は思わず自分の胸をかきむしりながらも、この文章を読み進めずにはいられなかった。

あの時の僕は、大切なものを失った喪失感を、何か別のもので埋め合わせようと必死だったのかもしれない。青い目の少女も、そして、あの不幸なパルミラも、僕の心の底に開いた穴を埋め会わせるために、僕が必要としていた存在だった。だが、思えばぼくは、あの時、本当に何かを失っていたのだろうか?あの、心の中の空白は、何かを失って空いたものではなく、成長とともに、心の中に開いた、一種の間隙だったのではないかと今では思っている。

僕は、その間隙を、まずパルミラで埋め合わせることを学んだ。
そして、それでも埋めることができない、何か本質的な部分を青い目の彼女という存在で埋めようとしていたのかもしれない。

それは、僕だけではなく、あの時代に生きる人の多くが抱えていた病だった。
パルミラが、あれほど急速に社会に浸透したのは、僕の感じていたような喪失感を、僕以外の大くの人々も一緒に感じていたためではないかと思っている。

みんなの生き方が、ばらばらになっていく時代の中で、僕らはつながっているすべを模索したまま、でもその答えがまだ見つからないうちに、時代だけがどんどん前に進んでいってしまっていた。

僕らは必死に、コミュニケーションをとるすべを開発しようとした。
メールに、インターネットに、ケータイに……、ばらばらになっていく心と心との間隙をつなげる手法を、僕らは開発しようとしたが、どれも、僕らを、満足させることは、できなかった。

それは、何だったのだろうか。
何が足りなかったのだろうか。

僕はそれが「肯定」だったのではないかと思っている。
自分一人しか、自分のすることの価値を見いだせなくなっていると思っていた時代の中で、傍にいつも寄り添って、自分のこれからすることを、黙ってほほ笑みながら見つめていてくれる存在を求めていたのではないだろうか?

あるいは……、黙って僕に手を差し出し、そして、全てを僕に委ねてくれる、そうした存在を……、触覚を伴った存在を、僕らは求めていたのだ。

理解し合うほどの時間があれば、それも解消できるのだろう。
でも、あの時の僕らには、その時間すら、無かった。



つい先日、全く偶然だったのだが、大通りを歩いていて、懐かしい顔に出会った。
日の少し陰った日曜の昼下がり、通りの向こうから歩いてきたのは、あのパルミラの販売代理店でずっとバイトしていた彼だった。

「やあ!」
僕が懐かしさと驚きで、思わず大きく手を挙げて彼に声をかけると、彼も驚きに目を丸くして、手をあげてこたえた。
彼の右手には、3、4歳くらいの少女がしっかりと手をつながれていた。
そして、その少女の、さらに右側には、彼より少し小柄な女性が寄り添って歩いていた。
「結婚したんだ」
彼は、僕の考えていることに気づいたのか、真っ先にそう答えた。
「妻と……、娘だ」
彼はそう言って、その少女の細い髪の毛にそっと手を触れた。
娘、と紹介された少女は、不安げな目で僕をじっと見つめたまま、恥ずかしそうに、父親の足の影に身を隠した。
「人見知りでね……。誰に似たんだか」
彼はそう言いながらも、目を細めて、自分の背中側に隠れた少女を見つめた。
彼の傍らでは、彼の妻と呼ばれた女性が、何か言いたげな瞳を彼に向けてじっと見つめていたが、その口元は、なんだかおかしそうに微笑んでいた。

「君は?……まだ、一人でいるのか」
「ああ……。まだ、一人でふらふらしてるよ」
僕は情けないけど、というニュアンスを込めて、自嘲するように笑った。
「はは……。まあ、今は生き方もいろいろだからな」
彼は、僕をやさしくそうフォローすると、
「でも、家庭を持つっていいものだぜ」
と言って、再び自分の娘の方を見た。
彼の娘は、まだ父の足の影に隠れながら、片方の手の指を自分の口にくわえて、じっと僕の方を見つめていた。不安がだんだん薄れてきたのか、父の足と、彼女との距離が、先ほどより身体半分だけ離れていた。

「確かに、いろいろ厄介なことも多いし、気をすり減らすことも多いんだけど……。なんというか、毎日が充実しているんだ。……今を生きているって感覚が、もしかすると、独身の時より強く感じられているような気がしてる」
彼はそこまで言うと、自分の腰ほども届かない幼い娘に目を向けて、
「1人で、勝手に死んじまう訳にも行かなくなったせいかもな」
僕は、彼の言葉に、簡潔に、そうだな、と答えた。
今の彼は、地に足がしっかり付いているように、僕には見えた。確かに、独身の時の、どこか手探りで、着地するべき場所を探しているような落ち着きのなさは、今の彼にはなかった。
責任。僕はその言葉の意味を思い返していた。それは時に、人を縛りもするが、絶望の底に堕とされそうな時には、命綱(ザイル)にも変わる。

「……君の不幸な話は、僕もまだ覚えているよ……。あれは、大層ショックだったろうな」
彼は、至極残念そうな顔をして、僕にそう言った。
「いや、もういいんだ」
僕は彼に言った。
「どうしてなんだろう……。確かに、当時は相当ショックだったんだけれど……。今では、むしろ良く分からないんだ。どうして、あの時、あんなに、あのことで傷ついていたのか……」
僕は少しためらったが、言葉を継いだ。
「……あの……、機械人形のことで……」
彼が、大きくため息をついたのが聞こえた。
「じつは……、僕もそうなんだ」
彼は言った。僕は驚いて彼の顔を見た。

「僕の、あの二体目のパルミラ……、確かにあの後、ずっとかわいがってはいたんだけど……。それから、どうしてか、あんまり連れて歩かなくなってさ……。そのころかな、僕が、彼女と付き合い始めたのは……。今では、物置に、じっとして眠っているよ。……さすがに、捨てるわけにもいかなくてさ」
彼は困ったように笑った。
彼の娘が、唐突に彼の顔を見上げた。
「……パルちゃん?」
幼い少女らしい、高い声で、少女は父親に問いかけた。
「そう、パルちゃん」
父親は僕に話しかけるときとは違う、やさしいまなざしと声で、まっすぐに見つめ続ける娘に、答えた。
「……パルちゃんね、みーちゃんの友達なんだよ。時々、お話しするの……。パルちゃん、チョコが大好きなの……。でも、お口の周りを汚すから、お母さんに怒られるの」
傍らに立つ母親が、困ったように、娘の肩に手をかけた。
しかし娘は、そんなことにさえ気がつかない様子で、じっと父親の足元から、彼女をやさしげに見下ろす二つの瞳を見つめていた。

僕はその光景を見ながら、確かに僕の求めていたものは、こういうものなのかもしれないと考えていた。
あの時代そのものが、この光景を求めていたのかもしれない。

彼の話では、彼はもう、パルミラの販売代理店では働いていないということだった。
パルミラの生産台数は、ここ数年で急速に落ち込み、経営は思わしくないそうだ。言われてみれば確かに、もうこうして街頭を歩いてみても、パルミラを連れて歩く人は見かけなくなっていた。まるで一時の、……とはいっても二十年近く続いたのだが……、熱病であったかのように、パルミラは忽然と、僕らの前から姿を消してしまった。

「……時代が求めていたんだと思うよ」
彼は僕の方を向き直って言った。
「……しかし、もう時代が、求めなくなったんだ」

彼は、これから映画を見に行くんだと言って、僕と別れた。
どんな映画か試しに聞いてみると、
「……子供向けのアニメ映画だよ」
と、恥ずかしそうに言って笑った。
彼の妻は、すれ違ってからも僕の方を向いて、微笑みながら、丁重にお辞儀をしていた。僕も思わず、彼女が頭を何度も下げる回数に同調して、頭を上下させていた。


僕は彼らと別れてから、一人、見知ったものがいなくなった大通りを歩きながら、彼らの必要としなくなったパルミラを想っていた。暗い押し入れの隅で眠り、ほこりをかぶることを受け止め続けているパルミラ。
必要とされれば表に出され、微笑みを振りまき、所有者を元気づけていた彼女も、必要とされなくなれば、静かにそれを受け入れ、過ぎゆくときを見つめているだけだ。

だが、やさしさとは本来、そういったものなのではないだろうか。
僕にはなぜかそんな気がしていた。

僕らはパルミラに学ばされたのだ。
あれは、時代の裂け目に現れ、僕らに何かを伝えるために存在した悲しい人形だったのではないだろうか。

彼女の伝えようとしたものは、確かに僕らの心に、伝わっていたのだろうか。
僕はそんなことを考えた。
もしかすると、彼女を搾取しただけで、終わってしまったのではないだろうか。


大通りのポプラ並木の向こうには突き抜けるほど高い、青い秋空が広がっている。
空の片隅から、羊雲の一群がどやどやと行進してくるのが見える。

ふと、僕は通りに沿って並んだビルの高い窓の一つから、二つの真っ黒で大きな瞳が僕の方を見下ろしているのを認めた。その瞳は、僕と目が合うと、たちまち細くなびいて、愛らしい、美しい笑顔となって僕の方を見つめた。

僕はその瞳に手を振ってこたえた。
微笑んだ二つの瞳の傍らから小さな丸い手が、僕に手をつなぐのを促すかのようにそっと伸ばされたを僕は見た。

だが、ちょうどその時、暗い窓の向こうから、また別な二本の手が伸びてきて、その少女の腰をつかんだ。二本の白い手は、慣れた手つきで、少女をそっと抱きかかえると、暗い部屋の奥に連れ去ってしまった。

僕は自分の顔がいつの間にか緩んでいるのを感じた。
久しぶりに、パルミラを見た気がしていた。何のわだかまりも感じずに、あの笑顔に答えられたのは、あれ以来始めてだったような気がしていた。

僕は再び、前方に広がる幅の広い通りに目をやった。
見知ったものは誰もいなかった。しかしそれは、同時にすがすがしくもあった。

その時、ふと気になって再びあの高い窓に目をやると、暗い部屋の中からこちらをじっと見つめている強い視線があるのに気づいた。

驚いて、その視線に手を振った。

窓はすでに開け放たれていた。
それは一人の女性だった。真っ白い、細い首をのばして、僕の方を見つめている。

大きく見開かれた、二つの青い瞳が、たちまち細くなびいて、気がつけば僕は、彼女の名前を、大声で叫んでいた。




[終]