2009年12月6日日曜日

After

あるホテルのホール。昨日から行われている学会の懇親会が開かれていた。ひとりの男が、会場の参加者に囲まれている。この学会は環境科学の学会だった。男は、この学会の会員ではなかったが、ゲストとして招かれ、今日の午前中に彼の研究している新しい半導体素子と、それによって産まれる新しい太陽電池の発電効率について講演したのだった。講演の盛況は、この懇親会における、参加者達からの取り囲まれ方からも容易に想像できた。新しい技術のもたらす未来について、誰もが目を輝かし、遠い10年も先の未来を既に見てきたかのように、聴衆は一様に興奮していた。

そんな中で、男だけはひとり、何処か浮かない顔で、彼を囲む聴衆の問いに答えていた。
その顔は、聴衆の期待を壊さぬ程度に微笑んでいた。しかし、彼の心が、その表情ほども晴れやかでないことは、熱が冷めて、冷静に彼を見つめるものからすれば明らかだった。しかし、彼を囲む人間は誰ひとり、そのことに気がつくことがなかった。それだけに、彼は一層孤独だった。人に囲まれ、熱を持った瞳に囲まれるほど、疲労がたまるようで、彼は口をついて出て来そうな溜息を、笑い顔の下で必死に堪えていた。やがて小一時間もしたころ、聴衆の質問が一段落したのを見計らって、彼は右手に持っていたワインのグラスを、周りの人々に気づかれないようにそっと、近くの白いテーブルクロスの上に置いた。


「……あれ、先生は?」
彼の学生の1人が、自分の教官の姿が見えなくなったことに気がついたのは、それからすぐのことだった。

「知らない」
オードブルの盛られた小皿を持ち上げながら、もうひとりの学生が答えた。

「もう部屋に帰られたんじゃないかな。……先生、少しお疲れのご様子に見えなかった?」
「そう?」
「……そんな、気がしたんだけど」
彼女は手にグラスを持ったまま、辺りをきょろきょろと見渡した。
群れる人混みの中に、彼女の知る教官の姿はなかった。彼女は不安げに溜息をつき、一度は電話を入れようかとも考えたが、先生には先生のご用時があるのだろうと考え、一度は取り出した携帯電話を、折りたたんで小さなバッグの中にしまった。


その頃、男は既にホテルの外にいた。
月明かりの晩だった。ホテルの外には、小振りだが良く整えられたブリテン風の庭園があり、まだ咲ききらないバラの匂いが辺り一面に漂っていた。夜露に濡れた花の香りは、まるで香水を振りまいたかのように強く薫るものだが、彼はそのことを知らなかった。ただ、その香りに彼は、彼を疲れさせるものが肺の奥から抜けていくような気持ちがして、大きく深い息をついた。

こうして、月の晩にゆっくり外を歩くのは幾日ぶりだろう。
彼はそんなことを考えていた。整えられた遊歩道の上をゆっくりと歩きながら。

学会から学会と、最近立て続けに仕事が入り、それ自体は嬉しくないことはないのだが、こうして外を歩く貴重な時間をすっかり失ってしまっていた。……昔はもっと、夜に散歩したものだった。星を見たり、月を見たり、人の少ない通りを、静かに、夜に融け込むように、そっと……。

彼の歩調が、急に静かになった。
両手を灰色のポケットにねじ込み、そしてその場に立ち止まって、微かに呟いた。

「彼女は、元気だろうか……」



“ねえ、私ね、感じるんだ。”
何が?

“私達の関係って……、今日明日の関係じゃなく、一生もののような気がする”
……どういう意味だ?

“……別に結婚とか、そう言う事じゃなくて……、なんて言うのかな、強いて言えば『縁』って言うものなのかも知れない”
……曖昧な理屈だな。

“曖昧だよ。でも、だから、確かなんだ。あなたとは何故か、考えて付き合わなくても、上手くやってきたもの。私にも、理由は分からないけれど、こんな気持ちになったのは初めてだった”
……。

“そうして、こういう関係は、もう他にないような気がする……”
それでも、僕はやりたいことがある……。なりたい自分があったんだ……。

“ねえ、よろしくね、これからも……、傍にいることは、もう出来なくなるけれど……”

……なりたい、自分……。


「よかったのかな、これで……」
月明かりの下、彼は独りごちた。

「あれから随分の時間がすぎて……、僕たちはもう学生じゃなくなった……。別々の人生を歩んで……。たぶん、彼女なら幸せに……」
彼は、微かに笑った。

俺は、放棄しただけなのだろうか。自分の夢のために、誰かと共に歩み、その人を、他の誰よりも幸せにすることを。

俺は、臆病なだけだったのかも知れない……。
彼は思った。

彼は、まだ妻を持っていなかった。
彼女のことを、まだ期待していたというわけではない。その証拠に、彼はこれまで、幾人かの女生と交際していた。しかし、結局、彼はまだ妻帯していなかった。その間に時間は静かに彼のもとを流れていった。気がつけば彼は、既に妻を持つと言うことをすっかり考えなくなった自分を見出していた。斯うしてポケットに手を入れたまま、俺は俺の人生を夜路のように静かに歩いていくんだろう。彼はそう考えていた。

ふと、涼しい風が彼の首筋を通りすぎた。
辺りに漂っていたバラの香りは、一瞬行く場所を失って彷徨ったが、気がつけば消えて無くなってしまっていた。

「……もう、入ろうか」
彼は皮肉に微笑んだ。入ればまた、いつもの見知った顔に合うのだろう。
その人達の前で俺はまた、先生の顔をするわけだ。憧れた、「なりたい自分」の顔を……。


「……祐介?」
その時、俯いた彼の前方から声がした。

「祐介、でしょ?」
彼は驚いて顔を上げた。暗闇で、相手の顔は殆ど見えなかった。
しかし、彼は既に気づいていた。その影が、彼女であることを。

「……どうしたんだ、諒子……」
彼はその時、驚きのあまり、子供のように目を大きくあけて、暗闇に良く光る瞳で、彼女を見つめていたが、彼自身それを意識することはなかった。
彼女はその、年甲斐もなく幼い彼の反応を見て、ただ、懐かしそうに微笑んでいた。

「……今日、あなたの講演がこの街に来るって聴いたから……、後ろの方で聴いてたの。もう、余りよく解らなかったけれど……」
「そんな、あらかじめ言ってくれれば……」
彼は擦れて声が出なかった。振り絞るようにして彼女に届くように声を出した。

彼女は、何も言わなかった。
だが、彼にはそれで十分だった。

おそらく彼女は、彼の前に、もう姿は現さないつもりでいたに違いなかった。
しかし、思わず、もしくは偶然に、彼の前に出てしまったのだ。

「ねえ、言ったでしょう?」
彼女は言った。あどけない笑みを浮かべて。

彼は微笑んだ。
ああ、言ったとおりだ。あの日、彼女が言ったように……。


暗闇の中で、彼女がそっと彼の手を握った。
その手には指輪をしていなかった。

しかし、彼女の物腰は明らかに、子を持ち、家庭を持つ女性のものだった。
その笑顔はあの日のままだったが、開け広げて熱を放つような、若さは彼女にはもうなくなっていた。

「……あなたは、随分偉くなった」
彼女は言った。

「私からどんどん離れていって……。そして、私たちは別れてしまった」
そうかもな。
彼は思った。彼女の手の熱を感じながら。

俺は気がつけば、随分遠くまで行ってしまっていた。
夢を追うことが、初めは二人の間に、これほどまでの距離を生み出すとは、少しも思わなかったのに……。

「……でも、今だから思うの」
彼女は、前を見つめて言った。
「……これが、私達の幸せの形、だったんじゃない?」

自分と共にいることが、相手にとって必ずしも幸せに繋がらないと悟った時、人は、どうするべきだろう。
彼は思った。

全てを手に入れようとする者もいるだろう。だが……。
臆病と言われることを覚悟しても、引き下がることもまた、選択なのではないか?


「おれは、これで良かったのかな……」
彼は呟くように言った。

「……良かったのよ、これで……」
彼女は言った。

「恥ずかしくない、生き方をしているわ。あなたは」

ホテルの喧噪が、微かに聞こえる。
彼を捜す、学生の声がした。

その声を聴き、彼女は彼にも悟られずに、暗闇の中でひとり、俯いて静かに微笑むと、引きつけられるように握りしめていたはずの彼の手を、指輪の無い左手からそっと離した。