2010年8月1日日曜日

phantom pein (3)

入院からひと月近くたって、ようやくリハビリも本格的になってくると、男はそれまでの個室から6床の大部屋に移された。自分ひとりだけが静かに横たわるしか無い個室では、誰か他人が尋ねてこない限りは、まるで自分が死んでいるのか生きているのか、はっきりとしないように男には思えた。窓の外には、茫洋とした海と、ただ砂浜だけが続く人気のない海岸線が広がっており、市街地の反対側であったこともあって、彼は、この広い世界にたった一人、取り残されてしまったのだという寂寞とした気持ちに落ち込んでしまいやすかった。空が晴れていればいるほど、海が澄んでいればいるほど、その気持は強くなり、彼は冥府からの使者が、そっとあの青い海と空の間から自分に手を差し伸べてくれることを、気持ちの奥底で望んでいた。

大部屋に移って、彼には一番入口近くのベッドが与えられた。彼の右隣は無人で、足の向いている方には、右目と頭の上半分を包帯で覆った、労働者風の男が眠っていた。あとは膝を固定したふくよかな老婦人、背の高い、腕をつった青年、そして空きベットの向こう側の一番窓に近いベッドに、小さな少年がいた。

大きな部屋に移ったことは、彼の体が、確かに回復に向かっているのだという紛れもない事実を、彼につきつけるものだった。口には出さないまでも、心の奥底で、死に安らぎを見出しつつあった彼にとって、それはただ皮肉なだけだった。夏は盛りを迎え、窓の向こうに見える木々は緑を増し、病院から道路を挟んで向こう側の公園には、青々とした芝生が広がっていた。まさに彼の体も、彼自身の内心の状況とは無関係に、体に刻まれた生に向かう極めて原初的な生理作用によって、日一日を追うごとに、傷口を埋め、壊れかけた体の諸関節の可動範囲を大きくしていた。

彼は、彼自身の精神が、長年、つれそった自分の身体からさえも取り残されてしまった気分を切に感じていた。

魂だけが遊離し、遠く死へと向かうベクトルを希求しているが、それを引き止めているのは紛れもなく、彼自身の体であった。「身体は精神の檻である」どこかで聞いたそんな言葉を、彼はベットの上に休みながらじっと考えていた。


その時、彼はふと誰か彼をじっと見つめ続ける視線を感じ、そちらを振り返った。
見れば、そこには窓際のベッドの少年が、いつの間にか起き上がって、ベッドの上に腰掛けるようにしながら、じっと彼の方を見つめていた。

彼は、少年と目が合うと、反射的に、にこりと微笑んだ。
少年は驚いたように目を一瞬大きくしたが、恥ずかしかったのか、すぐにぷいと向こうを向いて、ベットに突っ伏してしまった。

だが、しばらく見ていると、彼はまたひょいと下のように起き上がって、先ほどと同じように彼の方を見るのだった。彼がまたにこりと微笑むと、少年はまた同じ動きを繰り返した。

そんなことを数回繰り返した後、少年は飽きてしまったのか、枕元のテレビを付けたようだった。テレビではちょうど、彼の好きなアニメか何かがやっていたらしく、次第に彼の瞳はその画面に釘付けになった。口をぽかんと開け、無心になってテレビを見ている丸刈りの少年の姿に、男は失った息子の姿を重ねそうになって、左手で目頭を抑えた。

少年は頭部を怪我していたらしかった。子どもらしい丸い頭に、白いネットが痛々しかった。左耳の付近は厚いガーゼで覆われており、その周辺に彼を入院に至らしめた創傷があるようだった。男は揺らぐ天井を見つめたまま、できるだけ少年のことを考えないようにしていた。遠くから聞こえてくるかすかな子供番組の声が、不思議に彼の心をかき乱すのを必死にこらえながら、彼は意固地になって、固く両目を閉じた拍子に、大粒の涙がボロボロとこぼれて、彼の枕を濡らしたのを知った。