2008年7月6日日曜日

スターリー・スカイ

離島の夜空は晴れ渡っていた。

バーベキュー大会の時に見えた厳かな夕日はすでに水平線の向こうへと沈んでしまっており、辺りは静寂と、暗闇だけが支配していた。

施設周辺は港町になっているため、昼間はそれなりに賑わいがあった。観光客目当てのサザエの壺焼きを売るおばさん達が、狭い通路の両脇で威勢の良い声を上げていて、どこからか焼きトウモロコシのにおいも漂ってくる、そんな場所だった。

冬は分厚い雪雲に閉ざされ自殺志願者が絶えないと噂されるこの島だったが、夏は打って変わって、本土の毎日がまるで一続きの悪夢だった気がするほどに、陽気で開放的な空が視界の果てまで拡がっているのだった。

そのような島の夜空である。見渡す限りの星空だった。
これほどの星が存在していることすら、私は知らなかった。あるいは、広い土地に来て、自分の目が少しよくなったのではないかとすら思った。しかし、いくら何でも、ここに来て数日でこれほどの星に気づく位目がよくなるとも考えられなかった。おそらくは六等星だとか、暗い星の代名詞のように数えられるそんな星までも、今日は私の瞳の中に、控えめに光を投げかけてくれているようだった。

私は施設の屋上に寝ころんで空を見上げていた。幼い頃、獅子座流星群を見るために、道路に段ボールを引いて寝ころんで同じように夜空を見上げたことがあった。その時は、一時間に数個ほどの流れ星を容易に発見することが出来た。ともすれば自分が、偉大な星空に落ちていって仕舞いそうになる倒錯した感覚を味わいながら、幼い私は飽きもせず数時間もそうして星を見上げていた。

そのような思い出も、施設の屋上で寝ころぶ私の脳裏には確かに去来していた。見つめている物は星だったが、それはその時目に映った星では、必ずしも無かったのかも知れない。いつ見ても大きく変化しない星空は、私に時間の経過を忘れさせるのに十分だった。現在が過去になり、過去を現在形で語るように、星を見上げる私の脳裏は時間を自由に行き来していた。

「どうしたの?」
ふいに声がして私は顔を上げた。見れば一人女が立っていた。女は何かおかしいのか、微笑みを湛えた顔で私の顔をのぞき込んでいた。

「...いや。」
私はそう答えるだけだった。
星を見ていた。そう答えるのも余りきざな気がした。

「寒くない?」
女は肩をすくめ言った。昼間に来ていたT-シャツの上に薄いカーディガンを羽織っただけの格好で、確かにその格好では夜の空気はつらそうだった。
「中に入ってたら?」私は彼女に言った。「まだ宴会は続いて居るんだろう。」

その日は、3日続いた大学の臨海実習の最終日だった。昼間海に出て取った魚介を器用な学生数名が調理し、振る舞っていた。私はその会に最初の1時間ほど参加していたが、やがて疲れてしまい、喧噪を離れてこの施設の屋上に上がってきていたのだった。

ここは私だけが知る場所のはずだった。
ここへ来た初日の夜に、施設内を歩き回っていて偶然見つけた屋上への出口。私はそれを、まだ誰にも教えていなかったから、その日の夜は一人で、この偉大な夜空と向き合った。別れの日を前にして、私はどうもこの夜空が恋しくてならなかった。それで、またこの場所に戻ってきていた。

「よくわかったな。」私は正直に言った。「結構わかりにくい場所にあるだろ。」
「そうかな。」女は言った。「何となく分かったよ。」
そう言うと彼女は私の寝ころぶ隣に座った。肩から提げたカーディガンの裾が私の腕に柔らかく触れた。何かの弱い香水のにおいがした。

「わあ!確かにすごい星!」女は言った。「これを見に来てたんだね!」
私は何も言わず、彼女の見上げる空を見上げた。星は暗闇の中で私達を取り囲んでいるようだった。
「みんなも呼んでこようかな。」女は言った。
「...いいよ。まだ宴会してるんだろう。」私はそれを止めた。「星を見るって気分でもないんじゃないかな。」
「...そうだね。」女は応じた。「あんまり人がいても、ね。」
彼女はそう言うと、後ろ手をついて夜空を見上げた。そうして僅かに口元を開けたまま静かに星空を見つめ続けた。

「...ねえ。」行く分かの沈黙の後、女は言った。「あの子とはどうなったの?」
あの子、というのは、同じ学年の同じ学科に所属する別の学生のことだった。私と彼女は当時、付き合っているという噂がささやかれていた。
「...知らないよ。」私は言った。「実際に付き合っているわけでもないし。興味もない。」
それは部分的には嘘だった。私自身はその時、その噂を決して嫌な気持ちで受け止めていたわけでもなかったから。私は人を愛する方法を知らない人間だった。「やさしさ」とは何か、と言う問いに、中学時代から悩み続け、すっかり疲れ果てているような人間だった。

「...そうか。」女はすんなりと私の嘘を受け入れた。微かに苦い気持ちが私の心の内を走った。「彼女、今回は来なかったね。いろいろ言われるのが面倒になったのかな。」
「かもな。」私は言った。実際私も面倒に感じることはあった。事実ではないことを言われ続けるのも、なんだか後ろめたかった。

くしゅん。
女が小さくくしゃみした。
「さっさと中に入ったら?」私は彼女に言った。「明日また、しばらく船に乗るんだから」
「そうだね。」彼女は言った。「でも船からじゃ、この星空は見えないから。」
彼女はそう言うと、私の隣にごろりと寝ころんだ。彼女の腕が微かに私の掌に触れた。

「わあ、空に落ちそう。」彼女が歓声を上げた。「あの光っている奴は、何?」
「...知らない。」私は答えた。星の名前など、実際知らなかった。
「知らないで見てたの?」彼女は私の方を見て笑った。「なにやってんだか。」
「星の名前なんて知らなくたって」私は言った。「きれいだと思えればそれで良いだろ。」
「でも、星の名前をたくさん知っている方が、なんかかっこよくない?」彼女は言った。「そう言うところは欠けてるな。」
「きざったらしい。」私は言った。「名前なんてみんな後付だ。そもそも世界には一つの名前もなかったのに。」
彼女は笑った。「負け惜しみ。」

ふう。言葉を失って、私は溜息を吐いた。彼女に勝てそうにもなかった。
「...でも、一理あるかな。」彼女は再び星空を見た。「私達が生まれた時も、けんかして泣いた夜も」彼女は言った。「うれしくて笑った日も、悲しい別れのあった日も、」
「星は同じように空にあって、同じようにまわっていたんだね。...そうして何時か、私達が、この世界とサヨナラする時だって、」彼女は少し間をおいて言った。
「星は同じように世界の空をまわってる。生まれた時と、ほとんど変わらない配置で。」
彼女は笑った。「後から出てきたのに、元々ある物に名前を付けちゃうなんて...、人って自分勝手な生き物だよね。...ていうか。」彼女はがばと跳ね起きた。
「何言ってるんだろ、わたし。」彼女はそう言って私にほほえみかけると、両手で私の手を取って体を起こした。
「さあ、立って。」
「何?」私は嫌々立ち上がった。彼女に握りしめられた腕の辺りが微かにひりひりした。
「今日は火星の再接近日!」
それは数日前から世間を賑わせていたニュースだった。火星が、数十年に一度の大接近をする年に、その年は当たっていた。
「こんな星空を独り占めする気?みんなを呼びに行こう。」彼女はそう言うと、私の手を引いて屋上の出口へ導いた。


空には満天の星。そのどれが火星であるのか、私は知らなかった。だが、友人の誰かが、どの星が火星であるのか、正確に知っているとも思えなかった。我々は各々の火星を見上げ、そしてその地球への接近を心から祝うのだろう。

それもまた、私達らしいと思った。