2008年7月17日木曜日

シンボリック

君が美術館に行きたいというので、僕は対して興味もないのに、君が行きたいというその近代美術館とやらへ、ひょこひょことついて行った。

君はどこで学んだのか、絵画や、芸術に並々ならぬ興味を見せて、時折熱っぽく語ることがあるが、僕は君が実際に油絵だとか、水彩画だとか、スケッチですら、実際に絵筆を取って描いている姿を、これまでとんと見たことがない。

音楽鑑賞を趣味と公言するひとのほとんどが、実際には楽器を扱えなかったりするように、君もまた、受け手側の観衆の一人に過ぎないのかも知れない。長い髪を伸ばして、なんだか文系の女の子のようにその日の君は落ち着き払っていたけれど、数日前までは真夏の渚で、波しぶきを上げながらはしゃいでいたのだ。あの日の君の名残は、本当は肩口の水着のひもの当たっていた辺りにくっきりと残っていたのだけれど、その日の君は文系の女の子で、きっちりとダークグレーの衣服を身に纏って、ちょっと膝上位のスカートまではいていた。僕とのはしたない、ひとときの夏の思い出は、硬い衣装の下にしっかりと隠されてしまっていた。
 波打ち際ではじけた君の姿など、そこに居合わせた、上品な紳士淑女の皆様方には、きっと知るよしもなかっただろう。彼らはきっと、ちょっと地黒の女の子程度にしか、その日の君を見てはいなかった。UVカットローションのSPFを間違えて低いものを買ってしまった君の勘違いなんて、彼らは想像だにしなかった。

君が見たいと言いだしたそれは、戦前にパリに行ったある日本人画家の展覧会だったっけ。その人は白の使い方の上手なひとで、女性の肌を透き通るようなパールホワイトで表現したことで有名なそうなのだ。けれど、それは僕があくまで、その日、実際に展覧会に行った時に仕入れた情報で、なんの予備知識もなく言ったわけだから、居並ぶ名画も、ただ女の人の裸だけがたくさん並んでいる程度にしか、僕には印象を残さなかった。

必然的に僕が見ていたのは、古い額縁の中の絵を真っ正面から真面目に見ている君の横顔と、立ち姿だった。でも、それは君も、その日はしっかりと意識していたのだろう?そうでもなかったら、あんなにまじまじと、絵なんて見るもんだろうか。目をいつもより大きく開けて、ほのかな微笑をたたえ、胸を張ってまっすぐに立った君は、テレビカメラの前に立つ女優のようで、自然体を『繕って』いるようにしか僕には見えなかった。

絵の中のパールホワイトの裸婦像が、ベッドの上で、何をしているのか、ぐったりと力なげに横たわっている絵を見ながら、君は美術館の落とされた照明の中、鼻と瞳の陰影をくっきりと際だたせていた。

まあ、その日の君は文系の少女だったのだ。そのくらいのことはするだろう。読みもしないドストエフスキーの本を抱えて、街を歩いてみる眼鏡の男のように、今日の君は文系の少女なのだ。裸婦像の前で、目をしばたかせることもなく。その価値を知るもののように、静かに見入っていた。

「いい絵だね。」君は言った。その裸婦像の前で。
芸術家の書いた裸婦像だから、その輪郭はおぼろげで、表情は簡素化されていて、なぜかみんな太り気味に見えた。パンフレットには『官能的』と表されていたけれど、どの辺に官能を見出せばいいのか、僕には全く分からなかった。

「そうだね。」僕は言った。
今日の僕は文系の君の彼なのだ。コーラよりも、ストレートの紅茶が似合う顔をしていなければいけない。スポーツドリンクなんて、汗臭い話は無しだ。
「なんだか表情が物憂げで。」
「そうだね。」
君はあっさりと同意した。そしてまじまじと、その絵を見返した。
僕の口から出任せを、こうも簡単に受け入れてくれたのは、この芸術を解しない僕へのせめてもの慰めか。それとも、君も、実際なんだか分かっていないから、知ったかぶってみただけだったのかも知れない。いずれにしろ、僕らのしていることは茶番だ。おかしな茶番を1200円の入場料を払ってしている、おかしな男女の二人連れ。

こんな二人の時間の過ごし方は、
楽しいに決まってる。

「ほら、見て。」君はその絵の脇の小さな説明の書かれたパネルを指さした。
「...この女性は、この画家の後に妻になった。だって。」そうして、何を思ったのか脣の辺りにそっと手を添えてかすかに笑った。
「言われてみるとどことなく、画家の愛情を感じるかな。」僕はまた、心にもないことを言った。「表現が軟らかくて。」
「そうだね。」彼女はまた、僕の言葉を受け入れた。穏やかな白熱灯の明かりの中で、君の影が揺れた。「...優しさって、絵に現れるものなんだね。」
君はそう言うと、静かに僕の手を取って、先に歩き始めた。僕はようやく先に進めるのでほっとしていた。行けども行けども続く、白い裸婦像よりも、幾つもの影を従えて暗がりを歩く君の後ろ姿の方が、僕には印象的だった。握った手の肉の感じや、皮膚の感覚までは、彼女の言うように、優しさまでを描いてしまうような、優れた画家でも、描くことは出来ないだろう。
握られた手の中にしか、その感覚はない。表現して、他人と分かち合うまでもなく。そしてそれは今、僕の手の内にある。文系の君も、渚の君も、僕の手の中では同じようにしか感じられない。
そんなのは極めて些細な違いだ。夜の眠るまでの、極めて、些細な。

美術館を出て、外に出ると、太陽はすでに傾き、辺りはトワイライトのうす紫色に染まっていた。君はまた、新たな色彩演出を得て、涼しい夕暮れの風の吹く中で静かに笑った。