2008年7月12日土曜日

失われた指

久しぶりにあった彼女は、何もかもが変わってしまっていた。

以前には見られた、はじけるような快活さは身を潜め、沈鬱で、どこか世を捨てたような諦めに似た空気を背負った彼女がそこにいた。

「幻滅したでしょう。」
男に出会った時、開口一番、彼女はそう言った。
「だから、会いたくなかったのよ。」
そう言うと女は皮肉に笑った。彼の知っている彼女なら、決して見せなかった笑顔だった。彼は驚きの内に、しばらく言葉を失っていたが、ようやく絞り出すように、
「そんなことはないよ...、」と的外れなことを言うのがやっとだった。
女はそれを聞いても何も言わなかった。彼と目も会わそうとせず、斜め前方の何もない薄緑色の床のタイルを、ただじっと眺めているだけだった。

彼女が、不慮の交通事故に巻き込まれたと言う話を、彼は数ヶ月前に知った。しかし、彼はその時海外にいて仕事の都合上すぐに帰国するのは難しい状況だった。彼女とは3年前、国を出る前に一度関係を清算していたつもりだったし、彼の知らないところで、幸せな生活を営んでいるのだろうと、勝手に考えていた。事故の一報の後、彼女が依然として結婚もせず、これと言った恋愛もせずにいたことを知って、彼はまずおどろいた。

ようやく彼女の見舞いに訪れる事が出来たのは、事故が起こってから1ヶ月以上が過ぎた後だった。
「アンバランスなものね。」車いすの彼女は言った。
「これじゃ、畑のカカシにも劣るわ。」彼女の顔からは化粧気がすっかり無くなっていた。
彼女は、利き腕と、右足を失っていた。交差点に無理矢理突っ込んできた車と側面から衝突し、彼女の車は運転席を中心に大破していた。事故の写真を見せてもらった時、彼は彼女が一命を取り留めたことすら、奇跡と思えたほどだった。それでも、彼女は事故後2週間は生死の境をさまよったと聞いていた。久しぶりに見た彼女の顔には、何か死相にも似た暗い影がまだ、はっきりと見て取れた。
髪はぼさぼさと乱れ、たった3年の間に10も余計に年を取ったようだった。
「もう、用は済んだでしょう。」彼女は言った。「帰って。あなたを見ていると、私の気持ちがざわつくの。」
「そんな...。」彼は何事か言おうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。「せっかく助かった命じゃないか...、どうしてそんな諦めた目をして....。」
「助かった命?」
はっ、と彼女はせせら笑った。
「これが?死んだも同然じゃない。」彼女は膝から下の無くなった自分の右足をこれ見よがしに持ち上げた。「....私は死んだのよ。あなたの知ってる女は死んだの。」
「君は生きている。」男は諭すように言った。「まだそうして、息をして、声を上げて...、」
「あなたの知ってる女はこの程度の女だったの?」彼女は目を見開いて彼をにらみつけた。
「こんな欠損だらけの女だった?そもそも?あなたはかつての私をそんな風に見ていたの?」
「そう言う意味じゃ...。」男は予想外の反応を見せた女にたじろいでいた。「今の君でも十分に素敵じゃないか...。」
「十分に?」女の語気は荒くなった。
「なにそれ?必要は満たしているって事?」女は車いすから立ち上がると、松葉杖をつきながら、男の胸ぐらに迫った。
「私はあなたの道具じゃないわ。『十分に』なんて評価を受けるような代物じゃない。」
「そう言う意味じゃ...。」女がことごとく男の予想を裏切り続けるので、男はすっかりおじけづいていた。
「じゃあどういう意味?あなたにとって十分でも、私にとってはちっとも十分じゃない。欠けているところ、だらけなのよ、この体は。」彼女は残された右腕の付け根を振り回した。怒りの余り、無くなってしまった右腕で思わず彼の頬を打った様だった。女は自らの咄嗟の行為に気がつくと、自身を嘲笑うように笑った。
「ほら見なさい。」女は言った。「私は、何も出来ない女よ。欠損だらけの不良品。もう死んだのよ。」
女の残された片膝が力を失ってがくりと折れた。たちまち落下しようとした胴体を、男が腕を伸ばして支えた。ずしりとした体の重みが、男の腕にかかった。手放された松葉杖が、がらん、と音を立てて、床に転がった。
「...殺して。」女は言った。
「こんな体じゃ、自分一人で死ぬことも満足に出来ない...。いっそのこと、殺してよ。」
女は左手で、男の胸ぐらを掴んだ。女の目は真剣だった。涙の浮かんだ大きな瞳が、彼の頼りのない目をのぞき込んでいた。
「そんなこと...。」
「...出来ないって言うの?」女は掴んだ襟元を力一杯揺すった。
「出来るでしょう?あたしを愛していたなら?あの女は死んだのよ?ここにいる私は、その面影を崩す、ただの滅びかけの残骸に過ぎないわ!」
女は男の腕の中で激しく暴れた。男は女をなだめようと、それを必死に抱きすくめるのに精一杯だった。しばらくそうした状況が続いた後、やがて暴れ疲れたのか、女が大人しくなった。男はその体を、そっと車いすに戻した。女は始終、そっぽを向いたままだった。暇があれば、男の瞳をのぞき込んで微笑んでいた、かつての女の面影を男はふと思い出して、底抜けに悲しい気持ちになった。
「...いつでも良いわ。」女は言った。
「いつでも良いから、ここに来て。私を殺しに。」
「...分かった。」男は言った。「そう遠くないうちに、また来るよ。」

帰りがけ、病室の出口で、男に手招きするものが居た。女の母親だった。
母親もまた、この3年の歳月の内にすっかり老け込んでしまっていた。髪型はきちんと整えられていたが、数本の毛がほつれて、あらぬ方向へ突き出していた。娘と並ぶと、仲のよい姉妹のようにすら見えた以前の若々しい面影は、彼女からもすでに失われていた。
「ありがとう。」彼女は言った。「これを...。」
彼女はそう言うと、小さな銀色の指輪を差し出した。
「これは...。」
「あなたが、昔、娘に贈ったものです。」母親は言った。「返すようにと、娘が。」
母親の掌の上に、小さな飾り気のない、銀の指輪は静かに光っていた。彼はそれをはめていた、彼女の、今は失われた愛おしい右手の姿を、その母親の手の中にありありと見た。
「もう、はめる指もないから、と言うことでした...。これは吹き飛ばされた娘の腕から拾い上げたもので...、恐縮なのですが...。」そう言うと母親は、指輪を捧げた腕だけは彼に指し出したまま、俯いて泣き始めた。彼は嗚咽する母親に、そっと手をさしのべた。そして、彼女の差し出していた指輪を、再び彼女の元に返した。
「いただけません。」彼は言った。「一度あげたものですから。」
「でも...。」母親は言った。「受け取ってください..。娘も過去を清算したいのだと思います。新たな人間として、生きようとしているのではないでしょうか。」
彼はその言葉を聞くと、一瞬言葉に詰まったようだった。
しかし、母親の差し出す指輪をしばらく見つめた後、
「彼女に伝えて下さい。...君の指は、すべて失われた訳じゃない、と。」
と言い残すと、現在の自分の連絡先の書かれた小さなメモを残して、足早に病院を出て行った。

女は病室の明るい窓から、男が病院を背に去っていく様子を、冷たい目で見送っていた。
その目はどこか怒っているようでもあり、悲しんでいるかのようでもあり、いずれの感情も深く内に湛えた、押さえられた瞳だった。

私の失った物はなんだったのだろう。

女は男の背中がもう見えなくなってからも、じっと窓の外を見つめたまま、考え込んでいた。

ベランダの縁に止まって鳴いていた二羽の鳩が、何かに怯えたようにあわてて窓辺から飛び立った。