2008年7月21日月曜日

metamorphosis

さなぎは窮屈だよね。
それまでは自由に、好きな葉っぱに昇っておいしい緑の葉っぱを食べていた芋虫が、さなぎになってしまうともう1センチも動けずに、狭い土壁に囲まれた個室の中で、身動き取れないで眠ったようになっている。私、あれに似たもの見たことあるんだ。昔近くの美術館でエジプト展をやっていた時に、エジプトの偉い王様のミイラが、固い木か何かで出来た入れ物にすっぽり収まってたの。そのミイラの入れ物にも、きれいな絵が描いてあって、王様の似顔絵がしっかり描いてあるんだ。まるで、これはこの王様の入れ物ですって言ってる見たいに。さなぎもよく見ると、そんな感じじゃない?よく見ると成虫に似た形はしているけれど、ちっとも動けない。固い殻をかぶった入れ物。あの中では、内蔵がどろどろに溶けてるんだってさ。古い自分を壊して、全く新しい自分になるんだ。自分が壊れるってどんな気分かな。新しくできた自分は、本当に「自分」なのかな。虫に聞かないとわかんないんだろうけど、無駄と分かってて時々考えちゃうよね。自分が造り変わるって、どんな気分だろう。気持ち悪いんだろうな、相当。初めて生理が来た時みたいに、なんだか自分が自分でなくなっていくのはやっぱり怖いよね。自分の意志とは無関係に、大人に引きずり込まれていくあの怖さ。きっと昆虫も、あれをずっと味わっているんだよ。暗い、湿った土の中にいて。
 自分が作り替えられると、自分の考えも変わるのかな。でも、それを感じる自分も変わっているんだから、けっきょく変わったことには気がつかないのかもね。私も気がつかないうちに、たぶん去年の私とは変わってる。弟から見たら、私は変わってしまったんだろうな。大嫌いなお父さんやお母さんみたいに、私は弟からは見えているんだろうな。弟の目はいつも子供みたいだから。男の子ってどうしてああなんだろう。どうして何時までも子供みたいな目をしていられるんだろう。同級生の男子を見てもそう。何であんなにはしゃげるの?まるで小学生。ただ体が大きくなっただけの。でも、あの人達もいずれ、お父さんみたいになるんだ。それは何時なんだろう。早く来なければいいな。弟がお父さんみたいなことを言い出したら、悲しいだろうな。私は理解者を一人失った気持ちになるんだろうな。家の中に、ますます居づらくなってしまいそう。
 だってお父さんったら、いつも勉強しろってうるさいんだもん。私は勉強してるんだよ?私が勉強しているところを見もしないくせに、勉強しろ、勉強しろって。じゃあ私は、どこまでがんばればいいの?お父さんが勉強したなって認めてくれるのは、いつ?
 私も、始めはがんばったんだ。だから、お母さんやお父さんが行けっていった難しい中学にも、入ったし。結構大変だったんだよ。難しい中学に入れば、もう口うるさく言われることもないと思ったんだ。でも、けっきょく何も変わらなかった。むしろ、優秀な子達と比べられて、ますます窮屈になっただけだった。こんな調子じゃ、大学に入っても同じ事言われるんだろうな。会社に入っても、もっと上を目指せ、同級生の何々さんはもうお前より給料もらっているんだぞって。どこまで行ったら許してくれる?私が、ほっと出来る時は、何時?
 結婚してしまえばいいのかな。女の子だから、と言うことで。そうすれば、そういう上ばっかり見せられる生活からは抜け出られる。でも、お父さんはそれでも言うんだ、今はそんな時代じゃないぞって。女だから、男だからと言う考えはもう古い。結婚して、出産しても、また会社に帰ってくる人はたくさんいる。お前もだから見習えって。お母さんの時代がうらやましいな。ああやってママできる時代が。子供を抱えて、会社で働いて、そして上ばかり見せられて。女は不利じゃない?どうして女なんかに生まれてきたんだろう。
 私、正直もう、疲れてきたんだ。実際、テストの成績も最近伸びてないし。こないだなんかは、一つ落としちゃった。お父さん達には言ってない。言うとどうなるか、想像できるでしょ。考えただけでもうんざりだよ。だから私は風邪を引いたことにして、その日の追試は受けないでお家に帰ったんだ。先生は私の姿が見えないから、わざわざ家まで電話してきた。ちょうど弟が取ったから、風邪を引いててでられないって言ってもらったんだ。かわいい弟だよね。私の言うことを、真っ直ぐきれいな目で信じてくれた。あんな風に信じてくれる人に私は何人逢えただろう。
 お父さんは早く帰ってきて、私が風邪だと弟から聞いて、寝かしつけようとしたけど、私はもう大分よくなったって言ったんだ。実際熱もなかったし、あんまり重病人っぽくするのもかえって変でしょ。嘘を吐くのが上手くなったのかな、私。お父さんはすんなり信じてくれた。考えてみれば、私はずっと嘘ばかり吐いていたからね。もう心の中は、子供の頃の私とは全然似ても似つかない私になっているのに、お父さんとお母さんの前では、子供の頃の私を演じてる。そのほうが、二人を失望させずに済むから。私小さい頃はいい子だったんだ。お父さんとお母さんの自慢の娘。でも、あるとき、私はそんないい子な自分を無くしてしまったことに気づいた。今まではしっくりいっていた感じがなくなったんだ。自分の思いどうりにやろうとすると、それまでの私とは違った方向に行ってしまいそうになる。今までは思いどうりに行動しても、褒められることしかなかったのに。何かしていて思うんだ、あ、これ絶対に怒られるって。でも、それをやっちゃう。で、怒られる。お前がこんな子だとは思わなかった。小さい時はこんな事無かったのにって言われるんだ。
 小さい頃の自分と比べられるって不幸だよ。そんな自分は、もうこの世に存在していないんだから。親はそんな幻のあたしに、私を何時までも縛り付けておこうとする。生まれたての無垢なわたしに。そんなの無理だよ。でも、私はできるだけ、それを演じてきたんだ。小さいころ好きだった食べ物は、今嫌いになりかけていても喜んでおかわりした。そうしないと、お母さんが悲しむと思ったから。お父さんは心底嫌いになっていたけど、好きだって言い続けた。小さい頃はお父さん子だったんだってさ。お父さんと結婚したいとか言ってたんだってよ。今じゃ、全く理解できないんだけど。
 とにかく、週末だったし、お父さんが買い出しに出てカレーを作ると言い出したから、私もついて行ったんだ。だって、お父さん大好きな私だからね。行くか?って言われたら、うん、行きたいって、喜んで言わなくちゃいけないでしょ?正直に嫌いなら嫌いと、言えたらよかったんだ。でも、そうしたら、家の中がぎくしゃくするのは目に見えていたし、弟や、お母さんが必要以上に悲しむだろうと思ったから、それはしたくなかった。お母さんたら、お父さんのことが、なんだかんだ言って大好きなんだもの。弟もそう。あの二人...、特に弟を悲しませることは、私には出来ないんだ。
 お父さんと二人でカレーを作って、そしてお母さんを待って、一緒にご飯を食べた。お父さんが借りてきたDVDを見て、一緒に笑った。正直私とは少し趣味が違った。でも、私は喜んで見た。弟は随分のめり込んでいたみたいで、目をまん丸にして見ていた。私はあの子がうらやましかった。本気で、お父さんと趣味が一致しているんだから。何の気を遣う必要もないんだから。昔は私もそうだったんだよ。でも、今の私は、もう、あの頃の私では、ないんだ。演技の中にしか、両親の知る私は、いない。二人ともそれは気がつかないみたいだけれど。
 ただ、弟は気がついていたんじゃないかな。私はあの子にだけは嘘を吐かなかったから。正直、最近弟と話す機会が減り始めたと感じていたんだ。前みたいに、どこ行くのも一緒、では無くなってきた。弟も、少しずつ変わり始めていたんだね。でもあの子は素直だから、私みたいにそれを隠したりしなかった。それがますます、私にはうらやましかった。ああやって、自分をさらけ出せれば、私みたいになることもないんだろうね。
 その晩私は夢を見たんだ....。お父さんが、家族みんなを殺してしまう夢を。理由は分からない。追試のことが、いよいよ、ばれたのかも知れない。弟は泣いていた。お母さんも泣いていた。お父さんだけが、真顔だった。怒っているようにも見えた。手に包丁を持って、家族みんなを刺して歩いていたんだ。始めに弟を刺した。それから、お母さんを刺して、私の方に向かってきたんだ。顔色は青かった。お父さんの怖い顔で目の前がいっぱいになって目が覚めた。私は怖かったんだ。体が汗でぐっしょりだった。手がわなわな震えていた。膝もかくかくしていて、立ち上がるのにも苦労した位だった。でも、私は、夢から覚めても恐怖は残っていたんだ。逃げられない。なぜだかそんな気がしていた。
 逃げたいのに、逃げられないんだ。私はまだ震えていた。怖くて、怖くて仕方がなかった。だから、台所に行ったんだ、そして、何かお父さんを殺せるものを....。

そう、そのとき、殺そうと思ったんだ。

そうしないと“私”が、殺されてしまうと思ったから。



 

2008年7月17日木曜日

シンボリック

君が美術館に行きたいというので、僕は対して興味もないのに、君が行きたいというその近代美術館とやらへ、ひょこひょことついて行った。

君はどこで学んだのか、絵画や、芸術に並々ならぬ興味を見せて、時折熱っぽく語ることがあるが、僕は君が実際に油絵だとか、水彩画だとか、スケッチですら、実際に絵筆を取って描いている姿を、これまでとんと見たことがない。

音楽鑑賞を趣味と公言するひとのほとんどが、実際には楽器を扱えなかったりするように、君もまた、受け手側の観衆の一人に過ぎないのかも知れない。長い髪を伸ばして、なんだか文系の女の子のようにその日の君は落ち着き払っていたけれど、数日前までは真夏の渚で、波しぶきを上げながらはしゃいでいたのだ。あの日の君の名残は、本当は肩口の水着のひもの当たっていた辺りにくっきりと残っていたのだけれど、その日の君は文系の女の子で、きっちりとダークグレーの衣服を身に纏って、ちょっと膝上位のスカートまではいていた。僕とのはしたない、ひとときの夏の思い出は、硬い衣装の下にしっかりと隠されてしまっていた。
 波打ち際ではじけた君の姿など、そこに居合わせた、上品な紳士淑女の皆様方には、きっと知るよしもなかっただろう。彼らはきっと、ちょっと地黒の女の子程度にしか、その日の君を見てはいなかった。UVカットローションのSPFを間違えて低いものを買ってしまった君の勘違いなんて、彼らは想像だにしなかった。

君が見たいと言いだしたそれは、戦前にパリに行ったある日本人画家の展覧会だったっけ。その人は白の使い方の上手なひとで、女性の肌を透き通るようなパールホワイトで表現したことで有名なそうなのだ。けれど、それは僕があくまで、その日、実際に展覧会に行った時に仕入れた情報で、なんの予備知識もなく言ったわけだから、居並ぶ名画も、ただ女の人の裸だけがたくさん並んでいる程度にしか、僕には印象を残さなかった。

必然的に僕が見ていたのは、古い額縁の中の絵を真っ正面から真面目に見ている君の横顔と、立ち姿だった。でも、それは君も、その日はしっかりと意識していたのだろう?そうでもなかったら、あんなにまじまじと、絵なんて見るもんだろうか。目をいつもより大きく開けて、ほのかな微笑をたたえ、胸を張ってまっすぐに立った君は、テレビカメラの前に立つ女優のようで、自然体を『繕って』いるようにしか僕には見えなかった。

絵の中のパールホワイトの裸婦像が、ベッドの上で、何をしているのか、ぐったりと力なげに横たわっている絵を見ながら、君は美術館の落とされた照明の中、鼻と瞳の陰影をくっきりと際だたせていた。

まあ、その日の君は文系の少女だったのだ。そのくらいのことはするだろう。読みもしないドストエフスキーの本を抱えて、街を歩いてみる眼鏡の男のように、今日の君は文系の少女なのだ。裸婦像の前で、目をしばたかせることもなく。その価値を知るもののように、静かに見入っていた。

「いい絵だね。」君は言った。その裸婦像の前で。
芸術家の書いた裸婦像だから、その輪郭はおぼろげで、表情は簡素化されていて、なぜかみんな太り気味に見えた。パンフレットには『官能的』と表されていたけれど、どの辺に官能を見出せばいいのか、僕には全く分からなかった。

「そうだね。」僕は言った。
今日の僕は文系の君の彼なのだ。コーラよりも、ストレートの紅茶が似合う顔をしていなければいけない。スポーツドリンクなんて、汗臭い話は無しだ。
「なんだか表情が物憂げで。」
「そうだね。」
君はあっさりと同意した。そしてまじまじと、その絵を見返した。
僕の口から出任せを、こうも簡単に受け入れてくれたのは、この芸術を解しない僕へのせめてもの慰めか。それとも、君も、実際なんだか分かっていないから、知ったかぶってみただけだったのかも知れない。いずれにしろ、僕らのしていることは茶番だ。おかしな茶番を1200円の入場料を払ってしている、おかしな男女の二人連れ。

こんな二人の時間の過ごし方は、
楽しいに決まってる。

「ほら、見て。」君はその絵の脇の小さな説明の書かれたパネルを指さした。
「...この女性は、この画家の後に妻になった。だって。」そうして、何を思ったのか脣の辺りにそっと手を添えてかすかに笑った。
「言われてみるとどことなく、画家の愛情を感じるかな。」僕はまた、心にもないことを言った。「表現が軟らかくて。」
「そうだね。」彼女はまた、僕の言葉を受け入れた。穏やかな白熱灯の明かりの中で、君の影が揺れた。「...優しさって、絵に現れるものなんだね。」
君はそう言うと、静かに僕の手を取って、先に歩き始めた。僕はようやく先に進めるのでほっとしていた。行けども行けども続く、白い裸婦像よりも、幾つもの影を従えて暗がりを歩く君の後ろ姿の方が、僕には印象的だった。握った手の肉の感じや、皮膚の感覚までは、彼女の言うように、優しさまでを描いてしまうような、優れた画家でも、描くことは出来ないだろう。
握られた手の中にしか、その感覚はない。表現して、他人と分かち合うまでもなく。そしてそれは今、僕の手の内にある。文系の君も、渚の君も、僕の手の中では同じようにしか感じられない。
そんなのは極めて些細な違いだ。夜の眠るまでの、極めて、些細な。

美術館を出て、外に出ると、太陽はすでに傾き、辺りはトワイライトのうす紫色に染まっていた。君はまた、新たな色彩演出を得て、涼しい夕暮れの風の吹く中で静かに笑った。

2008年7月12日土曜日

失われた指

久しぶりにあった彼女は、何もかもが変わってしまっていた。

以前には見られた、はじけるような快活さは身を潜め、沈鬱で、どこか世を捨てたような諦めに似た空気を背負った彼女がそこにいた。

「幻滅したでしょう。」
男に出会った時、開口一番、彼女はそう言った。
「だから、会いたくなかったのよ。」
そう言うと女は皮肉に笑った。彼の知っている彼女なら、決して見せなかった笑顔だった。彼は驚きの内に、しばらく言葉を失っていたが、ようやく絞り出すように、
「そんなことはないよ...、」と的外れなことを言うのがやっとだった。
女はそれを聞いても何も言わなかった。彼と目も会わそうとせず、斜め前方の何もない薄緑色の床のタイルを、ただじっと眺めているだけだった。

彼女が、不慮の交通事故に巻き込まれたと言う話を、彼は数ヶ月前に知った。しかし、彼はその時海外にいて仕事の都合上すぐに帰国するのは難しい状況だった。彼女とは3年前、国を出る前に一度関係を清算していたつもりだったし、彼の知らないところで、幸せな生活を営んでいるのだろうと、勝手に考えていた。事故の一報の後、彼女が依然として結婚もせず、これと言った恋愛もせずにいたことを知って、彼はまずおどろいた。

ようやく彼女の見舞いに訪れる事が出来たのは、事故が起こってから1ヶ月以上が過ぎた後だった。
「アンバランスなものね。」車いすの彼女は言った。
「これじゃ、畑のカカシにも劣るわ。」彼女の顔からは化粧気がすっかり無くなっていた。
彼女は、利き腕と、右足を失っていた。交差点に無理矢理突っ込んできた車と側面から衝突し、彼女の車は運転席を中心に大破していた。事故の写真を見せてもらった時、彼は彼女が一命を取り留めたことすら、奇跡と思えたほどだった。それでも、彼女は事故後2週間は生死の境をさまよったと聞いていた。久しぶりに見た彼女の顔には、何か死相にも似た暗い影がまだ、はっきりと見て取れた。
髪はぼさぼさと乱れ、たった3年の間に10も余計に年を取ったようだった。
「もう、用は済んだでしょう。」彼女は言った。「帰って。あなたを見ていると、私の気持ちがざわつくの。」
「そんな...。」彼は何事か言おうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。「せっかく助かった命じゃないか...、どうしてそんな諦めた目をして....。」
「助かった命?」
はっ、と彼女はせせら笑った。
「これが?死んだも同然じゃない。」彼女は膝から下の無くなった自分の右足をこれ見よがしに持ち上げた。「....私は死んだのよ。あなたの知ってる女は死んだの。」
「君は生きている。」男は諭すように言った。「まだそうして、息をして、声を上げて...、」
「あなたの知ってる女はこの程度の女だったの?」彼女は目を見開いて彼をにらみつけた。
「こんな欠損だらけの女だった?そもそも?あなたはかつての私をそんな風に見ていたの?」
「そう言う意味じゃ...。」男は予想外の反応を見せた女にたじろいでいた。「今の君でも十分に素敵じゃないか...。」
「十分に?」女の語気は荒くなった。
「なにそれ?必要は満たしているって事?」女は車いすから立ち上がると、松葉杖をつきながら、男の胸ぐらに迫った。
「私はあなたの道具じゃないわ。『十分に』なんて評価を受けるような代物じゃない。」
「そう言う意味じゃ...。」女がことごとく男の予想を裏切り続けるので、男はすっかりおじけづいていた。
「じゃあどういう意味?あなたにとって十分でも、私にとってはちっとも十分じゃない。欠けているところ、だらけなのよ、この体は。」彼女は残された右腕の付け根を振り回した。怒りの余り、無くなってしまった右腕で思わず彼の頬を打った様だった。女は自らの咄嗟の行為に気がつくと、自身を嘲笑うように笑った。
「ほら見なさい。」女は言った。「私は、何も出来ない女よ。欠損だらけの不良品。もう死んだのよ。」
女の残された片膝が力を失ってがくりと折れた。たちまち落下しようとした胴体を、男が腕を伸ばして支えた。ずしりとした体の重みが、男の腕にかかった。手放された松葉杖が、がらん、と音を立てて、床に転がった。
「...殺して。」女は言った。
「こんな体じゃ、自分一人で死ぬことも満足に出来ない...。いっそのこと、殺してよ。」
女は左手で、男の胸ぐらを掴んだ。女の目は真剣だった。涙の浮かんだ大きな瞳が、彼の頼りのない目をのぞき込んでいた。
「そんなこと...。」
「...出来ないって言うの?」女は掴んだ襟元を力一杯揺すった。
「出来るでしょう?あたしを愛していたなら?あの女は死んだのよ?ここにいる私は、その面影を崩す、ただの滅びかけの残骸に過ぎないわ!」
女は男の腕の中で激しく暴れた。男は女をなだめようと、それを必死に抱きすくめるのに精一杯だった。しばらくそうした状況が続いた後、やがて暴れ疲れたのか、女が大人しくなった。男はその体を、そっと車いすに戻した。女は始終、そっぽを向いたままだった。暇があれば、男の瞳をのぞき込んで微笑んでいた、かつての女の面影を男はふと思い出して、底抜けに悲しい気持ちになった。
「...いつでも良いわ。」女は言った。
「いつでも良いから、ここに来て。私を殺しに。」
「...分かった。」男は言った。「そう遠くないうちに、また来るよ。」

帰りがけ、病室の出口で、男に手招きするものが居た。女の母親だった。
母親もまた、この3年の歳月の内にすっかり老け込んでしまっていた。髪型はきちんと整えられていたが、数本の毛がほつれて、あらぬ方向へ突き出していた。娘と並ぶと、仲のよい姉妹のようにすら見えた以前の若々しい面影は、彼女からもすでに失われていた。
「ありがとう。」彼女は言った。「これを...。」
彼女はそう言うと、小さな銀色の指輪を差し出した。
「これは...。」
「あなたが、昔、娘に贈ったものです。」母親は言った。「返すようにと、娘が。」
母親の掌の上に、小さな飾り気のない、銀の指輪は静かに光っていた。彼はそれをはめていた、彼女の、今は失われた愛おしい右手の姿を、その母親の手の中にありありと見た。
「もう、はめる指もないから、と言うことでした...。これは吹き飛ばされた娘の腕から拾い上げたもので...、恐縮なのですが...。」そう言うと母親は、指輪を捧げた腕だけは彼に指し出したまま、俯いて泣き始めた。彼は嗚咽する母親に、そっと手をさしのべた。そして、彼女の差し出していた指輪を、再び彼女の元に返した。
「いただけません。」彼は言った。「一度あげたものですから。」
「でも...。」母親は言った。「受け取ってください..。娘も過去を清算したいのだと思います。新たな人間として、生きようとしているのではないでしょうか。」
彼はその言葉を聞くと、一瞬言葉に詰まったようだった。
しかし、母親の差し出す指輪をしばらく見つめた後、
「彼女に伝えて下さい。...君の指は、すべて失われた訳じゃない、と。」
と言い残すと、現在の自分の連絡先の書かれた小さなメモを残して、足早に病院を出て行った。

女は病室の明るい窓から、男が病院を背に去っていく様子を、冷たい目で見送っていた。
その目はどこか怒っているようでもあり、悲しんでいるかのようでもあり、いずれの感情も深く内に湛えた、押さえられた瞳だった。

私の失った物はなんだったのだろう。

女は男の背中がもう見えなくなってからも、じっと窓の外を見つめたまま、考え込んでいた。

ベランダの縁に止まって鳴いていた二羽の鳩が、何かに怯えたようにあわてて窓辺から飛び立った。

2008年7月9日水曜日

二人の酔いどれ

「体を意識しない恋愛は恋愛ではないのさ。」
Tは言った。長く片思いと失恋を繰り返していた私に。
「そうなのか?」私は彼の言説には懐疑的だった。「君は純愛というものを否定するのか?」
「そもそも、どこにそんなものが存在する?」彼は声を張り上げた。早い時間から飲み始めたためか、彼は少し酔っていた。飲み始めた時はビールだったが、今彼の前にあるのは冷えた芋焼酎だった。私は先ほどから冷や酒を飲んでいた。彼は、そんな水みたいな、癖の足りない酒は飲まないと言って、私の酒には見向きもしなかった。
「清純派女優の何人が実際に清純だと言うんだ?そんなのまやかしだ。」彼は卑屈に笑った。「君もとっとと夢から覚めることだな。」
「君に言われたくはないね。」私は手元の猪口をあおった。「大体、君は私にそれだけのことを言うだけの権利があるのか?」
「君よりはあるさ。」彼は一向に尊大な態度を改めない。「少なくともまだ、純情を捨てきれない君よりはね。」
「君には彼女が居たっけか。」私は言った。彼に言われ続けるのがいい加減、しゃくに障り始めた。
「現状は、たいした問題じゃない。」彼は鼻先で私の言葉を笑った。「ようは経験だ。」
「経験、経験と、それがそんなに偉いものかね。」私はこれまで私に対して使われた経験という言葉すべてを憎んでいた。「昨日女と別れた男が、次の日には別な女と寝ている...。そりゃ、経験豊富だわな。」
「生来、雄とはそう言うものだ。」彼は言った。「そのためにこそ彼の精細胞は永年分裂を続けている。」
「ここまで進化しておいて、精細胞の理屈に従うこともあるまいに。」私は笑った。「理性の足りないことの裏返しだよ。」
「理性を保った君は、けっきょく恋に破れたんじゃないか?」彼はしてやったり、という風に笑った。「理性を保った合理的な君は幸せだったか。」
「少なくとも、自分に従った部分に於いては満足しているよ。」私は虚勢を張った。「誰かのように、節操のない振る舞いはせずに済んだからね。」
「それは、女に困らない男の言う台詞だな。」彼は言った。「君のような男が言うことではない。」
「はいはい。」私はあきれた素振りを見せた。「浮気性がたたって、知り合いの女すべてから距離を置かれる君には敵わないよ。」
「大体女どもは、」彼が手を挙げると、近くを通りかかったウェイトレスが駆け寄ってきた。彼はおかわりを注文した。「大体女どもは、自分の浮気性を棚に上げて、男の浮気を責める。これは大いなる不条理だ。」
「浮気性と、浮気は違うと思うけどな。」私は彼を冷やかした。
「第一、恋愛などと言う感情は永続するものか?」彼の声は一段と高まった。「あれはあくまで刹那的な...、少なくとも、太陽が昇るまでの命しかない感情なのではないか?夜に恋していた女を、朝に恋しているとは限らない。そうは思わないか?」
「思わないね。」私は言った。「経験の少ない身分で恐縮だが。」
「まあ、君ならそう言うだろうな。」彼は笑った。歯並びのよい歯が見えた。「だから逃げられるんだよ....、あ、逃げられたわけでもなかったか。君の一方的な勘違いに過ぎなかったんだっけな。」彼は肩を小刻みに震わして笑った。「まったく、今時の中学生もおどろく失態だ。」
「今の時代には不足した純真さ。」私は開き直った。「中学生も是非見習うべきだね。」
「絶滅危惧の天然記念物として。」彼が言った。「性教育の時間にでもな。」

ウェイトレスが、銀の盆に酒を持ってきた。澄み切った色の焼酎だった。二人の酔いどれの目にその銀盆の彼女は美しく見えた。
「ここの大学の人?」彼は聞いた。「学部はどこ?」
「人文です。」彼女はおくびれることなく答えた。
「Xを、知ってる?」彼は言った。「僕の友人なんだけど。」
「X...。」彼女は目を浮つかせ、何人かの顔を思い浮かべているようだった。
「君、何年生?」彼は待ちきれなかったのか、問いを重ねた。
「2年です。」
それを聞くと、彼は微かに笑った。そして、「ありがとう、じゃあ分からなくても当然だ。」
そう言って、手を振った。彼女は何かすっきりしない表情で、空の盆を抱えて立ち去った。
「人文に知り合いが居たのか。」私は彼女の立ち去った後、彼に聞いた。「意外だな。」
彼はふん、と笑った。「馬鹿だな、お前、嘘に決まってるだろう?」彼は言った。「人文に知り合いなんか、いないよ。」
彼は、ウェイトレスが持ってきたばかりの冷えた酒をあおった。
「用は話の種だ。嘘だろうと、真実だろうとな。俺は彼女の年を聞きたかっただけだ。」
「年下は好みじゃないのか。」私は笑うほか無かった。「汚い男だな。」
「どうとでも言え。」彼は全く気にしなかった。「潔癖なまま、何も得られず生きるのは趣味じゃない。」
「汚い生き方は趣味じゃない。」私も言った。「どこまでも合わないな、俺たち。」
ふん、と彼がまた鼻で笑った。そして、もう一度片腕をあげて、近くを通りかかった別のウェイトレスを呼び止めた。
「こいつ、今日失恋したんだ。」彼は私を指さしていった。「猪口を二つと、何か一番辛い日本酒を2合。」
「日本酒は飲まないんじゃなかったのか?」私は彼に尋ねた。
「いいんだよ。」彼は笑った。「今日はお前の記念日だ。」
彼はそう言うと、グラスの焼酎を一気に飲み干し、ウェイトレスの銀盆に帰した。

2008年7月6日日曜日

スターリー・スカイ

離島の夜空は晴れ渡っていた。

バーベキュー大会の時に見えた厳かな夕日はすでに水平線の向こうへと沈んでしまっており、辺りは静寂と、暗闇だけが支配していた。

施設周辺は港町になっているため、昼間はそれなりに賑わいがあった。観光客目当てのサザエの壺焼きを売るおばさん達が、狭い通路の両脇で威勢の良い声を上げていて、どこからか焼きトウモロコシのにおいも漂ってくる、そんな場所だった。

冬は分厚い雪雲に閉ざされ自殺志願者が絶えないと噂されるこの島だったが、夏は打って変わって、本土の毎日がまるで一続きの悪夢だった気がするほどに、陽気で開放的な空が視界の果てまで拡がっているのだった。

そのような島の夜空である。見渡す限りの星空だった。
これほどの星が存在していることすら、私は知らなかった。あるいは、広い土地に来て、自分の目が少しよくなったのではないかとすら思った。しかし、いくら何でも、ここに来て数日でこれほどの星に気づく位目がよくなるとも考えられなかった。おそらくは六等星だとか、暗い星の代名詞のように数えられるそんな星までも、今日は私の瞳の中に、控えめに光を投げかけてくれているようだった。

私は施設の屋上に寝ころんで空を見上げていた。幼い頃、獅子座流星群を見るために、道路に段ボールを引いて寝ころんで同じように夜空を見上げたことがあった。その時は、一時間に数個ほどの流れ星を容易に発見することが出来た。ともすれば自分が、偉大な星空に落ちていって仕舞いそうになる倒錯した感覚を味わいながら、幼い私は飽きもせず数時間もそうして星を見上げていた。

そのような思い出も、施設の屋上で寝ころぶ私の脳裏には確かに去来していた。見つめている物は星だったが、それはその時目に映った星では、必ずしも無かったのかも知れない。いつ見ても大きく変化しない星空は、私に時間の経過を忘れさせるのに十分だった。現在が過去になり、過去を現在形で語るように、星を見上げる私の脳裏は時間を自由に行き来していた。

「どうしたの?」
ふいに声がして私は顔を上げた。見れば一人女が立っていた。女は何かおかしいのか、微笑みを湛えた顔で私の顔をのぞき込んでいた。

「...いや。」
私はそう答えるだけだった。
星を見ていた。そう答えるのも余りきざな気がした。

「寒くない?」
女は肩をすくめ言った。昼間に来ていたT-シャツの上に薄いカーディガンを羽織っただけの格好で、確かにその格好では夜の空気はつらそうだった。
「中に入ってたら?」私は彼女に言った。「まだ宴会は続いて居るんだろう。」

その日は、3日続いた大学の臨海実習の最終日だった。昼間海に出て取った魚介を器用な学生数名が調理し、振る舞っていた。私はその会に最初の1時間ほど参加していたが、やがて疲れてしまい、喧噪を離れてこの施設の屋上に上がってきていたのだった。

ここは私だけが知る場所のはずだった。
ここへ来た初日の夜に、施設内を歩き回っていて偶然見つけた屋上への出口。私はそれを、まだ誰にも教えていなかったから、その日の夜は一人で、この偉大な夜空と向き合った。別れの日を前にして、私はどうもこの夜空が恋しくてならなかった。それで、またこの場所に戻ってきていた。

「よくわかったな。」私は正直に言った。「結構わかりにくい場所にあるだろ。」
「そうかな。」女は言った。「何となく分かったよ。」
そう言うと彼女は私の寝ころぶ隣に座った。肩から提げたカーディガンの裾が私の腕に柔らかく触れた。何かの弱い香水のにおいがした。

「わあ!確かにすごい星!」女は言った。「これを見に来てたんだね!」
私は何も言わず、彼女の見上げる空を見上げた。星は暗闇の中で私達を取り囲んでいるようだった。
「みんなも呼んでこようかな。」女は言った。
「...いいよ。まだ宴会してるんだろう。」私はそれを止めた。「星を見るって気分でもないんじゃないかな。」
「...そうだね。」女は応じた。「あんまり人がいても、ね。」
彼女はそう言うと、後ろ手をついて夜空を見上げた。そうして僅かに口元を開けたまま静かに星空を見つめ続けた。

「...ねえ。」行く分かの沈黙の後、女は言った。「あの子とはどうなったの?」
あの子、というのは、同じ学年の同じ学科に所属する別の学生のことだった。私と彼女は当時、付き合っているという噂がささやかれていた。
「...知らないよ。」私は言った。「実際に付き合っているわけでもないし。興味もない。」
それは部分的には嘘だった。私自身はその時、その噂を決して嫌な気持ちで受け止めていたわけでもなかったから。私は人を愛する方法を知らない人間だった。「やさしさ」とは何か、と言う問いに、中学時代から悩み続け、すっかり疲れ果てているような人間だった。

「...そうか。」女はすんなりと私の嘘を受け入れた。微かに苦い気持ちが私の心の内を走った。「彼女、今回は来なかったね。いろいろ言われるのが面倒になったのかな。」
「かもな。」私は言った。実際私も面倒に感じることはあった。事実ではないことを言われ続けるのも、なんだか後ろめたかった。

くしゅん。
女が小さくくしゃみした。
「さっさと中に入ったら?」私は彼女に言った。「明日また、しばらく船に乗るんだから」
「そうだね。」彼女は言った。「でも船からじゃ、この星空は見えないから。」
彼女はそう言うと、私の隣にごろりと寝ころんだ。彼女の腕が微かに私の掌に触れた。

「わあ、空に落ちそう。」彼女が歓声を上げた。「あの光っている奴は、何?」
「...知らない。」私は答えた。星の名前など、実際知らなかった。
「知らないで見てたの?」彼女は私の方を見て笑った。「なにやってんだか。」
「星の名前なんて知らなくたって」私は言った。「きれいだと思えればそれで良いだろ。」
「でも、星の名前をたくさん知っている方が、なんかかっこよくない?」彼女は言った。「そう言うところは欠けてるな。」
「きざったらしい。」私は言った。「名前なんてみんな後付だ。そもそも世界には一つの名前もなかったのに。」
彼女は笑った。「負け惜しみ。」

ふう。言葉を失って、私は溜息を吐いた。彼女に勝てそうにもなかった。
「...でも、一理あるかな。」彼女は再び星空を見た。「私達が生まれた時も、けんかして泣いた夜も」彼女は言った。「うれしくて笑った日も、悲しい別れのあった日も、」
「星は同じように空にあって、同じようにまわっていたんだね。...そうして何時か、私達が、この世界とサヨナラする時だって、」彼女は少し間をおいて言った。
「星は同じように世界の空をまわってる。生まれた時と、ほとんど変わらない配置で。」
彼女は笑った。「後から出てきたのに、元々ある物に名前を付けちゃうなんて...、人って自分勝手な生き物だよね。...ていうか。」彼女はがばと跳ね起きた。
「何言ってるんだろ、わたし。」彼女はそう言って私にほほえみかけると、両手で私の手を取って体を起こした。
「さあ、立って。」
「何?」私は嫌々立ち上がった。彼女に握りしめられた腕の辺りが微かにひりひりした。
「今日は火星の再接近日!」
それは数日前から世間を賑わせていたニュースだった。火星が、数十年に一度の大接近をする年に、その年は当たっていた。
「こんな星空を独り占めする気?みんなを呼びに行こう。」彼女はそう言うと、私の手を引いて屋上の出口へ導いた。


空には満天の星。そのどれが火星であるのか、私は知らなかった。だが、友人の誰かが、どの星が火星であるのか、正確に知っているとも思えなかった。我々は各々の火星を見上げ、そしてその地球への接近を心から祝うのだろう。

それもまた、私達らしいと思った。

2008年7月4日金曜日

One for Helen

少年にとって18回目の誕生日を祝ってくれたのは、幼げな顔の少女だった。
「高校生最後の誕生日だね。」彼女は言った。
「私達にとっては始まりだけど。」そう言って彼女は目を細めて笑った。

少年も併せて笑ったが、その裏で、彼は付き合いの不思議を考えていた。数ヶ月前まで、誰が、彼女と一緒に誕生日を祝うなどと考えていただろう。彼女は彼にとって、無数にいる友人の一人に過ぎなかった。それが今や特別な存在になり、彼にほほえみかけている。彼は彼女の微笑みを見ながら、何やら空恐ろしいものを感じた。今こうして目の前にある幸せも、あるいは同じように急速な時間の内に失われてしまうような気がした。水のように形のない、彼と彼女の幸福。

「どうしたの?」差し出されたプレゼントに、おどろいた反応を見せない彼に、彼女は不思議そうな目をして問いかけた。
「...ああ、なんでもないよ。ありがとう。」少年は大人しい笑顔を浮かべた。
「どういたしまして。いつもお世話になっています。」少女は口先だけ改まったが、顔つきは親しげに笑ったままだった。
「中身は何?」少年は差し出された緑色の柄の小包を掌に載せて言った。
「開けてみて。」少女がそう言うので、少年は包みを開けた。

中には小さな犬のマスコットが付いた、携帯ストラップが入っていた。
「あんまりバイトも出来ないから、こんなので精一杯なんだけど、」彼女が言った。
「でも、ほら。」
少女が差し出した、彼女の携帯には同じマスコットの色違いのストラップが取り付けられていた。
「おそろいを買ったんだ。...何かいつも身近にあるものを、プレゼントしたくてさ。」そう言うと少女は少し恥ずかしそうに俯いた。
「...ありがとう。」少年は微笑んだ。「大切にするよ。」そう言うと彼は早速それを包みからだし、自分の携帯に取り付けた。はにかんでいた少女もそれを注意深く見守っていた。
「..ほら。」少年が少女の前に自らの携帯を差し出すと、少女も自分の携帯をもう一度見せた。
そして、また、さきほどのように、目を細めて笑うのだった。

そこは位夕暮れの公園だったので、少女は少年の手元まではよく見えていなかった。少年の手の中には、それまで付けられていたストラップが、むしり取られるようにして握られていた。
少年は、そのストラップを嘗て送ってくれたいつかの少女に、申し訳ないと思いながらも、それをむしり取ったのだった。
少女はそれに気づいていたかも知れなかった。むしろ気づいていたからこそ、似たような犬のストラップを送ったのかも知れなかった。
少年は彼女がそこまで自分を試すようなことをしたがっているとは信じたくなかったが、それでもそう考えざるを得なかった。彼女は嘗て彼の付き合った少女の、同じクラスの同級生だったからだ。二人は性格も正反対で、仲も余りよくなかった。

しかし少年はそのいずれをも好きになってしまった。

始め付き合った少女は今の彼女よりもずっと積極的で、むしろ彼の方が彼女からアプローチされたほどだった。彼はそれまで恋というものを余り知らなかったし、せっかくなので恋愛した。

付き合ってみると、恋愛はとても面白いものだった。彼女と居るのはとても楽しく、話が尽きても時間は十分に埋められた。彼がそれまで感じていた、話し尽きて沈黙することの恐怖は、恋人同士の場合には存在しなかった。逆に、沈黙は二人の間に関係の充足をもたらしてくれるということを、彼は恋をして初めて知った。

彼は彼女ともっと一緒にいたいと思い始めたが、しかしその恋は長くは続かなかった。メールのやりとりにつきまとう、小さな誤解が発端となり、彼と彼女の恋はあっけなく潰えてしまった。彼女に送るはずのメールが、別の女子生徒に送られてしまったのである。運の悪いことに、その女子生徒は彼の幼なじみだったため、誤解はより大きくなった。彼が弁解すればするほど、彼女の中で疑惑は大きく膨らんだ。そして、取り返しの付かない言葉まで言ってしまって、彼女はへたりとその場に座り込むと、
「...もう疲れた。」と言い残し、彼の前から去った。

その終わり方は、あまりに唐突だったためか、
彼の中でなかなか、彼女との恋愛に終止符は打たれなかった。彼の携帯の待ち受け画面は彼女が、近くの公園で見かけた犬と戯れている写真だったが、彼がそれを変更したのは、彼女と別れて数ヶ月も経った後だった。

実際それまで、彼の部屋には彼女からもらった手紙が目に付く範囲に置かれていたし、一緒に行ったゲームセンターの景品のカエルの人形が、にっこり笑って彼のベッドサイドに座っていた。

彼女と別れると、身の回りのものを急速に整理する人がいると言うが、彼はなかなかそのような感覚になれなかった。元々物に無頓着なこともあるのかも知れないが、それでも、物を見れば思い出すのは彼女であることに違いはなかった。

実に意外なところにまで、彼女の影響が及んでいることを知って、彼が驚きを感じたことも、一度や二度ではなかった。それでも彼は、気がついたところから、徐々に彼女の思い出を整理し始めた。そしてその年の冬が終わり、春になる頃には彼は彼女と廊下で擦れ違っても、何とか普通に挨拶できる程度には関係を作り直した。

その矢先である。彼が、今の彼女と付き合うようになったのは。

彼女のことは彼は以前から知っていた。1年の頃は同じクラスだったし、外見がかわいいと、ちょっと評判の子でもあった。彼も彼女のことは気にはなっていたが、ただ、それだけのことだった。そう言うこと付き合うと言うことが、自分のように平凡な人間にはあり得ないと決めつけていることもあったし、なにより、彼の最初の彼女が、あからさまにその少女を嫌っていたからである。

彼女に言わせれば、少女は「かわいい子」を気取ってるそうなのだ。

そう言うみんなからかわいがられようとする態度は、彼女の神経を逆なでするようだった。
「怒って脣を突き出すような高校生、どこが良いの?」彼女は時々彼に言った。
「男子の感覚って分からない。」

その言葉は決して、彼に向けられた物でないことは彼にも分かっていたが、彼は自分も怒られているような気がしてならなかった。案の定、彼もその後こうして、その少女を本格的に好きになり、つきあい始めるまでになってしまった。

人間関係は、つくづく不思議な物だと彼は思う。どうして、性格も正反対で、お互い仲の悪い二人の人間に、彼はいずれも恋することが出来たのか、自分の心の内をのぞき込もうとしてみても、答えはなかった。

今の彼女とつきあい始めてから、せっかく立ち直りかけた元の彼女との関係は見事に砕けた。彼女はもう、彼と廊下で擦れ違っても、笑顔一つ浮かべてはくれなかった。

「...あの子って、愛想悪いよね。」今の彼女はよく言う。「廊下であっても、なかなか挨拶してくれないでしょ。...よくないよね、ああいうのって。」
彼はそう言われても、ああそうだねと、肯定する気にもなれず、困ったように笑うだけだった。

そう言う無愛想な少女を愛したのも、また彼だったから。

今の彼女は時々、彼の前の彼女から言われたという、いろいろな皮肉や冗談半分の苦言を彼の前に披露することもあったが、彼は本気で以前の彼女を憎む気にはなれなかった。彼女をそうさせている一端は自分にもあると感じていたから、彼はその責任の一部は自分にあると考えていた。

「ねえ、どうしてあの子を好きになったの?」今の彼女は、元の彼女に皮肉を言われた言う時は決まってそう聞いた。
「さあ、なんでかな?もう俺にも分からなくなったよ。あんな奴のこと。」彼はそう言って空虚に笑った。大きな罪悪感が心の内で渦巻いていた。「あなたが振って正解だったよ。」彼女は言った。「あの子とずっと居たら、きっと幸せにはなれないよ。」彼女は、彼の方が彼女を振ったのだと信じ切っていた。彼は何も言わず笑うほか無かった。
「あの子があなたとうまくいくはずないんだから....。」


「そのストラップ気に入ってくれた?」彼はその声にはっとした。
「...ああ、ありがとう。」努めて穏やかに彼は笑った。気づかれないように手の中の古いストラップをポケットに仕舞った。
「よかった。」彼女はありきたりな笑みを見せた。彼は心の中で失笑した。
「これからも、仲良くいようね。」彼女は彼にそう言った。
そして、決して力強いとは言えない彼の肩にその身を預けた。

彼は、彼女の暖かさを感じながら、この恋はもう長く続かないと感じていた。

いずれ来るべき時が来て、彼のもとから、この水物のような幸せは奪い去られてしまうような気がしてしょうがなかった。

彼は彼女を強く抱いた。そして激しく脣を奪った。そう言う乱暴な手段に及んだのは彼にとって初めてのことだった。しかし、後先の知れた関係の末路に、気兼ねする理由もなかった。

煌々と照らす月明かりの下、見ている者はいなかった。


彼が彼女と別れたのは、その日から数日後の、ある晴れた朝のことだった。
幼なじみへ送るメールを、何も知らない彼女のアドレスに送信した。

彼の携帯にはその時のメールはもう無い。

物に頓着しない彼だったが、その時のメールから、彼女にもらった物もすべて、その日の内にみんな処分してしまっていた。