……まだ、終われないのか。
男は雨の中、一人呟いた。
早朝。雨降りしきる、抜かるんだグラウンド。校庭に子供らの姿はない。
すでに引率の手により、校舎の奥に避難している。
窓の向こうから、子供の不安げな瞳がこちらをじっと見ている。
男はそれに気づき、その瞳に笑いかけようとしたが、それだけの気力はもはや残っていなかった。
子供の影は、彼の引きつった笑顔を恐れたのか、不意に窓辺から消えてしまった。
男は力なく笑い、彼の敵の方を、ゆっくりとふり向いた。
「……何もこんな雨の中、襲ってくること無いだろうがよ……」
男は独りごちた。
「……悪戯が過ぎるぜ、全く……」
大小無数の水たまりが、疲れ果てた彼の表情を、砕けたガラスのように、あらゆる角度から散り散りに映し出す。
薄い雲の向こうに、おぼろげな太陽が見える。
しかし、それは、今日はあまりにも遠い。
太陽がこんなに、遠く感じるのは初めてだ。
男は雨雲に覆われた空を見つめ、そう思った。
身体は冷たい雨に濡れ、顔からは無数の雫がしたたり落ちている。
これは、汗か、それとも涙か。
男は地を向いて一人嗤った。
俺は、他人のためだけに尽くしてきた。
それなのにまだ、お前らは俺を喰らうというか?
一体何処まで、この身を捧げればよいのだ?
どれだけ苦痛を味わい、命を張っても、彼らは、彼女らは満足することを知らない。
初めはうれしがって、感謝の言葉を述べもするが、いずれはそれも当然のこととなって、礼の言葉すら、無くなってしまう。
俺は、何処に見出せばいいのだ。この犠牲の結果を。
救った人々の笑顔を、守った、ありふれた日常を糧に、この苦行のような戦いを、明日も続けろと言うのか?
ほら、見ろ。
霞の向こうで、奴が微笑んでいる。
大きな機銃を手にして、俺に照準を合わせたまま。何が楽しいのか……。
結局は奴だけが、俺の行為の無益さを、誰よりも良く、理解していたと言うことか。
痛みに耐え、苦しみに耐え、己を滅して、生きてきて、その果てが、これか?
何が残ったというのだ。俺の戦いの果てに。
日常の価値も忘れた、人々の当たり前の生活だけが、俺の消えた後も、延々と続いていくのか……。
男は黄色いグラブの下で、拳を握りかためた。
その手中には、何もなかった。汗に汚れ、血豆も破れ、むごたらしく傷ついた指だけが、彼の戦いのすべてを物語っていた。
しかし、その壊れた手は、今だ何も掴んではいなかった。
愛する人の賛辞も、賞賛も、栄誉も、幸福も……。
男は忘れていたのだ。
他人に尽くすことを美学とする余り、自身を省みることを。自身の心の内の、人間じみた人並みな欲求を受け止めることを。
男は再び、力のない笑みを浮かべた。
降りしきる雨の向こうで、黒衣の彼が、機銃の弾倉をゆっくりと付け替えているのが見えた。
逃げぬ獲物と解っているのだ。あとは、照準を外さず、一撃で仕留めることこそが、男と数限りなく死闘を演じてきた彼なりの、最後の餞だった。
……ばいばいきん。
彼が、雨の中でそう呟いたように見えた。
水に濡れた頭が重い。
足に力が入らない。いやにふらついて、立っているのがやっとだった。
「……膝が笑っていやがる」
男は独りごちた。
これは、疲労のためか?それとも……、
「……怖いのか?俺は……」
男は天を見上げた。
白い雲の中から、雨だれは灰色の影となって降り注ぐ。
水に濡れた男は嗤った。
このまま腹が裂け、胸板が砕け散るかと思うほどに、嗤い続けた。
英雄が何だ。
最後が、これか。
……俺は、ちっぽけな男だ。
あいつがまた、見かけに似合わず、豹のような周到さで、俺の命を狙っているかと思うと、いつも怖くて、怖くて、仕方がなかった。
出来ることなら戦いたくない。
このまま、逃げおおせてしまいたい……。
着古したマントを羽織り、グラブを嵌めながら、そう思ったことが、いままで何度あったか。
そんなどうしようもない俺を、励ましてくれる奴なんていなかった。
みんな、ケガを知らない、きれいな手を胸の前に組んで、固唾をのんで、神妙な顔して見守っているだけだ。
リングの上に上がるのは、いつも俺一人。
傷つくのも、苦しみを味わうのも、俺一人……。
俺を、恐怖から救ってくれたのは、他人の優しい言葉なんかじゃ、決してない。
それでも他人を裏切れない、俺の心の底のどうしようもない甘さと、がむしゃらな勇気だけだった。
だが……。
勇気≪とも≫の姿は、もう、見えない……。
ははっ。
腰が砕けそうだ。
お天道さんよ、
俺は最後まで、惨めなまねはしたくねえんだよ。
なあ、頼むよ……。
もう少し、この俺を、支えてくれよ……。
男は嗤ったまま、天を抱くように、くたびれた両手を大の字に広げた。
雨の向こうの彼の、漆黒の右手が、引き金を静かに引いた。
怒濤のように銃声は辺りに響き渡り、たちまち、無数の閃光が彼の身体を貫いた。
男の身体がぐらりと傾き、泥に濡れた大地に、うつぶせに倒れた。
水を吸った頭が身体から離れて、浅い水たまりの上に、ごろりと転がった。
仰向けになった頭が、泥に濡れた彼の、最後の引きつった笑みを、雨雲たれ込む白い空に向けていた。
“彼”は、左手に銃を提げたまま死体に近づき、喜びとも悲しみとも付かない引きつった表情を浮かべて、しばらく男の死顔を見つめていた。が、やがて、何を思ったのか、その命を奪った身の丈ほどの黒塗りの重機銃を、ぬかるんだ大地にずぶりと突き刺した。
彼は、泣いていたのだった。
声も枯れよ、とばかりに。
やがて、彼は大地に刺した機銃を引き抜くと、おもむろにその銃口を自身の方に向け、その先端に彼の額の中心を据えた。
……ばいばいきん。
彼は再び、そう呟いたように見えた。
雨に濡れた大地に、無数の雫が流れ落ちる……。
昼が過ぎ、雨は上がった。
太陽は白い雲の向こうから、溢れんばかりの日差しを、彼と彼の身体に投げかけた。
泥まみれの身体が、互いに頭を向けて大地に横たわっている。
降り注ぐ雨が、涙も、血しぶきも、きれいに洗い流してしまった。
駆け寄ってきた村人達は、しかし、それ以上近づくことが憚れ、遠巻きにその二つの遺体を見つめていた。
一人の老人が、村人達の輪から一歩踏み出て、彼らの身体にそっと手を触れた。
そして、嗤ったまま強ばってしまった二人の死相をまじまじと見つめて、その目尻を濡らしたものを、老いさらばえた細い指で、そっとぬぐった。
母に手を引かれたまま、老人の背中をじっと見つめていた、一人の幼い、やや知恵の遅れた少年が、その時、誰に言うでもなく、小さな声で呟いた。
「……勇気のすずは、もう鳴らない」
その声を聞いた母は驚いたように、思わず我が子の顔を覗き込んだ。
幼子はあどけない眼差しを、陰惨とした現場にじっと向けたまま、抑揚も付けずに、もう一度その言葉を呟いた。
「……勇気のすずは、もう、鳴らない」
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