隣の机に座る少女が机に伏せるようにして眠っている。
私は彼女を気に掛けながらも、目の前のパソコンに向かい、仕事を続ける。
彼女は昨日も遅かったのだろう。
仕事が立て込むと、眠れなくなることも多いのだそうだ。
私がそのことを尋ねると、
「……昨日は、ちゃんと寝ましたけど」
そう言って、頼りなげに笑った。
「……でも、ねむいんです。……なんか」
彼女はそう言って、また机の上に突っ伏してしまった。
私は声も出さずに笑って、お疲れ、と小さく呟いた。
彼女の向こうの窓に見える景色は、もうすっかり暗くなっている。
遠く、駅前の高層マンションの明かりが、はっきりと夜空に浮かんで見える。その先端の赤い明滅する光りが、星のない虚空に、受け取る者の無い信号を放ちながら、ただひたすらに、無事にこの夜が明けるのを待ちづつけている。
ふと、視線を感じて、隣を見れば、彼女が机に伏せたまま、顔を横に向けて、私をじっと見つめていた。
私の視線を感じると、彼女は咄嗟に私から目をそらして、向こうを向いてしまった。
私は再び、声のない笑いを漏らした。
「……昔、そう言う眼で、こっちを見てた人がいたよ」
私は、小さな声で、独り言のように呟いた。
「……その人とは、どうなったんですか」
彼女は向こうを向いたまま、独り言のように言った。
「……さあね。……忘れてしまったよ」
「……なんだ」
彼女の溜息が聞こえた。
「……つまんない」
私が彼女に言ったことは、言うまでもなく事実だった。私は確かに、昔あのような瞳で私を見つめていてくれた人が傍らにいたことを覚えている。彼女もいつも疲れた顔をして、同じ研究室でもなかったはずの私の机の隣に、いつも突っ伏していた。
逃げるようにやってきて、一眠りして、帰って行く彼女。
その背中に掛ける言葉を知らず、私はいつも、見守ることしかできなかった。
「……先輩」
向こうを向いたまま、彼女が呟いた。
「……その人とは、本当に何も、なかったんですか」
私はしばらく、黙り込んだ。
彼女との思い出を一つ一つたどってみた。
しかし、思い出すのはどれも、眠っている彼女だった。
笑顔でも、泣き顔でもなく、何故か疲れ果てて傍らでうずくまるように眠っていた、彼女の姿だけだった。
「……何も。……ただ、」
「……ただ?」
「……ポテトサラダ」
「え?」
私は彼女とのほとんどたった一つの思い出を思い出そうとしていた。
いつか彼女の作ってきてくれた、小さなカップのポテトサラダ。ほとんど料理など出来ないと、はっきり言っていた彼女が、どうしてそんなものを作る気になったのか私には解らなかった。
「……その子が、ポテトサラダを作ってきてくれたことがあったんだ。たった一回だけどね」
「……それ、」
彼女がこちらを向いた。
「……おいしかった、ですか」
私はその味を思い出していた。
ポテトとマカロニと、細く切ったキュウリとタマネギのようなものが顔を出していたのを、おぼろげに覚えていた。だが、その味付けは本当に薄味で、塩気が全くないのだった。彼女の父は塩分を控えるように医者から言われていたらしく、それで彼女の家庭では塩を控えるようにしていたのだと、私は聞いたことがあった。
それにしても、あの味の薄さは、それとはまた違っていた。
おそらくは、過剰な塩分はいけないという彼女の考えが先走って、おいしい味付けと言うものよりも優先してしまったのだろうと私は思った。
行動的に人前で振る舞う割には、肝心な時には一転して、ものを考えすぎてしまう彼女の性格が、そうした味の薄いポテトサラダを作らせてしまったのだろう。わたしはそう思っていた。
「……まあ、まあだったかな」
私は答えた。
「……優しい、味付けだったよ」
「……ふうん」
彼女は不思議そうな顔をして言った。
「……優しい味付け、ですか」
あのような薄味のポテトサラダには、今後も会うことはないだろう。わたしは思った。
彼女も今頃は上達し、もっとおいしいサラダを作れるようになっているのかも知れない。振り向いてほしい、何処かの、知らない誰かのために。
だが、もう誰も知らないのだ。
あのときの薄味のポテトサラダを愛していた人間も、この夜空の下に、いないわけではなかったことを。そして、その儚い味の中に、小さな幸福を噛みしめていた人間が、僅かにでもいたのだということを。
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