2009年8月13日木曜日

パルミラ (8)

僕は去年、パルミラを連れてヨーロッパの小さな町を旅行した。パルミラの機内持ち込みはもうすでに許可されていると言ったが、航空機の座席がそのために広くなったというわけではない。エコノミークラスに座ると、ただでさえ狭い座席にもう一人、子供が乗ったような形になるわけだから、正直、窮屈で仕方がない。だが、だからと言ってパルミラと離れて乗ることは考えられなかった。この旅行は、彼女と一緒に来ることに意味があったのだから。


長い飛行機での移動の間、彼女は、ずっと僕の座席の前に座っていた。
自律的に座れないので、僕が手を取って、彼女をそっと座らせてあげた。彼女は僕に座らされている間、僕の方をまっすぐに見て、そして、いつもの美しい笑顔を僕に向けて微笑んでいた。

隣を見れば、隣の席の人も自分のパルミラを機内に連れて来ていた。
彼女は、まだゆとりのある旅行らしく、パルミラのために席を一つ余計に取っていた。

僕は、自分のパルミラに、なんだか悪いことをしているような気持ちになり、申し訳なくなって思わず彼女の顔を覗き込んだ。彼女は僕の視線を感じて、座席の下に座り込んだまま、僕の方を見詰め、いつものように微笑んでいた。


……ごめんね。

僕が小さな声でささやくと、彼女は微笑んだまま、かすかに首をかしげた。


飛行機から降りると、空港は旅行客でいっぱいだった。そして、彼らや彼女らに手を引かれた、それと同じくらい、たくさんのパルミラがそこにはいた。

あまりにすごい人ごみだったので、少し太った巻き毛の知らないおばさんが、手荷物ロビー中に響かんばかりの大きな声で、パルミラの名を呼んでいた。

おそらく、彼女のパルミラは、ここで迷子になってしまったのだろう。
パルミラは手を離すと、いつまでもそこにとどまり続けるので、彼女のパルミラは、ひょっとすると、他の誰かに間違われて、すでに何処かへ連れて行かれてしまっていたのかもしれない。

人間の子供でもそうだが、こういう人込みでは、そういうことがよくある。
誰かのパルミラと自分のものとを間違えて、ずっと後になって、ひょっとシリアルナンバーを覗き込んだ時に、偶然気が付いたという話が、僕の知り合いの中でもたびたびあった。

だから、パルミラに所持者の認証機能を付けるべきという話も、もちろん出ていた。だが、そういうものが販売されたことは、結局のところ、無かった。パルミラは、誰でも受け入れてくれる事に意味があるのだ。その安心感が、パルミラを、僕らにとってかけがえのないものにしている。

万が一、何かの不具合で自分のパルミラがうまく自分を認識してくれなくなったら、それはどれだけ悲しいことだろう。そういうことを防ぐために、パルミラには、そうした複雑な個人認証の機能は全く搭載されていないのだと言う話が、付帯者の間にはまことしやかにささやかれている。

もちろん、実際の所は誰も知らない。だが、たとえこの話が、単なる噂や想像の域を超えなかったにしても、これだけ容易に付帯者の間に広まった事から考えて、例え全てではなくとも、パルミラを持つ人々みんなの意見を代弁している部分があるのだろう。

幸い、パルミラは代理店に連絡して暗証番号さえ入力すれば、すぐに現在位置を割り出せるように、位置を知らせる装置が内蔵されている。だが、それで位置がわかったとしても、誰かに間違って連れていかれていた場合、その交換にはどうしても数日がかかってしまうし、その間、その人はパルミラ無しでやり過ごす事になってしまう。

いつもそばにいた存在がいなくなった数日間というのは、どれだけ悲しいものだろう。

巻き毛のおばさんはまだ、彼女のパルミラの名を、大きな、悲しげな声で叫び続けている。僕はそれを見ながら、己のパルミラの、小さく丸い儚い手を、引き寄せるように強く握った。


空港を出ると、僕らは列車に乗って目的地のヨーロッパの古都へと向かった。

どこか古いにおいのする列車の開け広げられた大きな窓からは、石畳の街に特有の爽やかで、どこまでも乾いた風が吹きこんできて、街路に曝された僕らの頬をやさしく撫でて行った。

彼女の細い髪が、その風になびいて、はたはたと揺れた。
彼女と僕は小さないす席に座って、広い窓から見える、見慣れぬ淡いブルー・グレイの海を二人、目を丸くして眺めた。