2008年12月7日日曜日

潜る

それはまだ、赤い太陽が僕らの頭の上にぎらぎらと照っていた、夏の盛りのできごと。

僕とお姉さんは、二人して、近くの川辺に出かけていた。

その日のお姉さんは普段着たことのないワンピースなんかを着ていて、それは小さな水玉がいっぱい入っていて、お姉さんが動くと、模様のの水玉がはじけるようにはね回るのだった。

「ユウキ、泳がないの?」
お姉さんは僕に向かって笑いかけた。僕は思わず目をそらした。お姉さんの笑顔を、僕は真っ直ぐに見ることが出来ない。

「泳がないよ」
そのつもりはなくても、ぶっきらぼうな返事。お姉さんを怒らせたんじゃないかと不安になって、僕は目の端で、その表情を伺う。

「泳げばいいのに。ユウキ学校の水泳大会で、2等になったんでしょう。見たいな、ユウキの泳ぐとこ」
お姉さんは、僕の連れない返事なんかちっとも気にしていない様子で、相変わらずにこにこしていた。僕が水泳大会で賞を取ったのを、母さん当たりからどうも聞いたらしかった。

「母さんに聞いたの?...言わないでって言ったのに」
僕はむすっとして言った。
「いいじゃない。姉弟なんだから」
お姉さんは笑っている。
「姉弟って言っても...。」
僕は小さな声でそう言い欠けて、口をつぐんだ。これ以上言ったら、僕らの間に何か冷たい風が吹き抜けてしまいそうな気がしたから。

お姉さんは、僕のお姉さんなんだ。たとえ、何があったとしても。


お姉さんは当時、もう三十は少し超えていたように思う。でもずっと家にいて、昼間はお家で眠っていることが多かった。お仕事は夜で、明け方になるまで帰ってこなかった。帰ってきた時のお姉さんからは、いつも香水とお酒の匂いと、あとちょっと、タバコの匂いもしていた。

僕は知っていた。
お姉さんは、いつもお仕事から帰ってくると、眠っている僕を、そっと抱きしめてくれるのだ。僕の小さかった頃から、そうしていたようで、僕が中学生になっても、相変わらず帰ってくると抱きしめてくれた。僕は、実は起きていることもあったのだけれど、お姉さんにされるままにしていた。なぜだか、そうしている時のお姉さんは、いつもひどく、疲れているようだったから。

昼間の、水玉模様のお姉さんと斯うして外に出かけたのは、だから本当に稀なことだった。次の日のお仕事が、きっとお休みだったからだろう。

斯うしている時のお姉さんは、年齢よりもずっと若く見えた。まだ、少女のような、そんな微笑みを、お姉さんはときどき見せてくれた。それは、夜に疲れて僕を抱きしめるお姉さんとは、まるで別人のようだった。

「ユウキって、けちね。泳いでみせる位、何でも無いじゃない」
お姉さんは言った。ぼくはそっぽを向いたままだった。お姉さんの前で、何かをすると言うことが、全体的に恥ずかしかった。何をやっても、お姉さんの前では不自然になってしまうだろうと僕には解っていた。

ここ数日雨が降っていなかったので、川は川底がはっきり見える位澄んでいた。僕らの見つめる先を、鮎の魚影が流れに逆らうようにして鋭く横切っていく。

「おさかなって、いいわよね」
お姉さんが、突然そんなことを言った。
「こんなきれいな、冷たい水の中にいて。誰に構わず自分の好きなところに泳いでいける」

「でも、水の外には出られないよ」
僕はそんな意地悪を言った。
「ぼくは、いやだな。鳥の方がいい。鳥の方が自由だ」

お姉さんはそれを聞いて笑っていた。
そして、ふと空を見上げて、
「確かに、鳥になれるものなら、鳥になりたいけど。...みんな、羽を持っているわけでは、無いから」
と言って、ちょっと悲しそうな顔をした。


お姉さんは、もちろん、僕の本当のお姉さんではなかった。
それどころか、どこからやって来たのかも、誰も知らなかった。

僕の母さんが貸していた部屋にずっと前から住んでいて、僕はお姉さんを、本当のお姉さんのようにして、育った。

お姉さんのことを、悪くいう人もいた。
夜の仕事というものが大人達には印象が悪いようだった。

でも、母さんは、昔から住んでいるお姉さんの本当の人の良さを知っていて、そんな大人達とは見方が全く違っていた。

お姉さんと僕ら母子は一緒にご飯も食べたし、よく一緒に旅行にも行った。

お姉さんにはすごく借金があって、お姉さんがあんまりいい人だから、母さんはそれも、少し手伝おうとしたようだったけれど、お姉さんは決してそれには手を出させなかったそうだ。
それどころか、家賃も最初に決めた額を毎月きっちり払っていた。

そんな事情を知ったのは、もっと後のことだ。
僕にとって、物心ついた時からそばにいるお姉さんは本当のお姉さんと変わりがなかった。

「ユウキ、」
空を見上げていたお姉さんは、僕の方に目を向けて話しかけた。
「将来、なりたいものって、もう決めてる?」

「海上保安官」
僕は映画を見て、その職業に憧れていた。泳ぎが得意だと言うことも生かせそうな気がしていた。

でも、お姉さんはその答えを聞いても、あまりうれしそうではなかった。
「確かに、かっこいいけど...。人を守る人は、人に縛られるのよ。ユウキはそれに憧れる?私は、ユウキにはもっと違った職業が向いているような気がするけどな」

「じゃあ、何?」
気に入っていた考えを否定された気がして、僕は少し機嫌が悪かった。
「フリーダイバー」
お姉さんは、真面目な顔で言った。
「酸素ボンベも背負わずに、体一つで深い海に潜っていくの。光りの届かない、世界で最も静かで、透き通った蒼い闇の底。海は敵ではなくて、他人も関係ない。地球や、自分自身との会話を続けながら、潜っていくの。誰も到達したことのない、深い深いところへ」

「それって、職業といえるの?」
僕は気になって聞いた。
お姉さんは、少し困った顔をしていた。
「職業といえるか解らないけれど、一つの生き方ではあると思う。自分の可能性を、追い求める仕事ね。...ユウキにはそう言う仕事についてもらいたいな」

僕は、それでも、フリーダイバーを目指そうという気にはならなかったけれど、お姉さんが僕に求めていることは何となく解った。

蒼い静かな闇の冷たさを身に感じながら深い海の底へ一人潜っていく自分の姿を僕は想像した。

そのそばには、真っ白な長い手足を持ったお姉さんが連れ添って潜ってくれていた。

いつも、何をするにも、見守ってくれる人を当たり前のように想定していた。
孤独と言うことが、当時の僕には、まだ想像できなかったのかも知れない。


...でも、その孤独は期待していなかったかたちで、全く無慈悲に訪れた。

お姉さんは、首を吊って死んでしまった。
川辺で二人並んで話してから、そう幾日も経たないうちに。

二人で話した時にはお姉さん自身もまだ知らなかったのかも知れないが、おなかには、誰かの赤ちゃんがいたと言うことだった。あの頃のお姉さんはいろいろ、他に病気も持っていて、体はもう、ぼろぼろだったらしい。


そばにいたはずの僕は、結局、何も出来なかった。

誰も到達したことのない深みに潜っていくダイバーを、
追いかけられるものは誰もいない。

心はあまりに深すぎて、潜るにはあまりに危険なのに、たとえ、そこで溺れてしまった人を見つけたとしても、他人の心の海に飛び込んでまで助けることが出来る人など、この世界にはいないのだ。

僕は海面に浮かんで、沈んでいこうとする危険な、あまりに小さな、真っ白なお姉さんの手足を見つめていることしか、出来なかった。僕を何度も抱きしめてくれた、あの白くて温かな手が、目の前を沈んでいくのに。


夏の太陽が、一人川辺に佇む僕の皮膚をじりじりと焼いている。
本当に、雨の少ない夏だった。

僕は、空を見上げた。

お姉さんのいない夏の空は、いつ見ても寂しかった。
お姉さんがいなくても、空が青いということが、僕にはどうしようもなく悲しいのだ。