2008年12月13日土曜日

a-cross

もしも、君に出会えていなかったなら。

そんな陳腐な言葉は使いたくなかった。
嫌みできざったらしい言葉ばかりが、頭の中を駆けめぐっていて、この瞬間、目の前の彼女の心に残るような、確実で、またとを得た言葉が、浮かんでこない。

『搭乗手続中』

プノンペン行き202便には、さっきからそう表示されている。
もうそろそろ、ゲートをくぐらなくてはいけない時間。しかし、彼女はまだ席を立とうとはしない。

飛行場の滑走路のよく見える細長い造りのカフェに二人で入って、もう1時間近く経つだろうか。普段落ち着きのない君の割に、長く持った方だ。

君はさっきから、手元の紅茶が冷めていくのも気にせずに、着陸しては離陸していく何機もの飛行機の後ろ姿を、ずっと目で追い続けている。

紅茶の中に沈んだ小さな茶葉が、口の広いカップの底に不安げに漂っている。

君がここに座って以来、見送ってきた何機ものボーイングの背中には、幾人もの僕と君が、散り散りになって機乗している。幾つもの似たような運命の中に、物珍しくもない僕らのラブストーリーも存在している。

カフェの店員には、見慣れた光景だろう。
彼女の水をつぎ足す所作には、一瞬の乱れすら感じられない。

恭しく頭を下げ、水差しを傾けて、楚々と去っていく。

その一連の動作を、僕は目で追っていたが、君はそんなことなど、全く構っていないようだった。

「ねえ、」
僕が、無愛想な君に話しかけた。
「プノンペンには、何時間かかるの。」

「3時間。」
彼女はぶっきらぼうに答えた。

「3時間...。なんだか、中途半端だね。寝るにも足りない時間だ。」
僕は努めて、彼女に笑いかけた。

「そうね。」
彼女は僕の方を見ようともしなかった。

「ねえ...、気持ちは分かるけど、もう少し、ポジティブに考えてもいいんじゃない?会社はきっと、君の将来を見込んでいるんだよ。」
「...そう、かしら?」
彼女は突き刺すような眼光のまま、それでもようやく僕の方を向いた。
「あなた、本当にそう思う?これが、ニューヨークとか、せめて上海ならともかく、プノンペンよ。なんの仕事があるって言うの?明らかに、左遷じゃない?」
「それは...。」
「向こうでの事業は確かに、まだ始まったばかりだけど...、私が回されるのは、前回失敗した事業の尻ぬぐいよ。他人の失敗の後片付けに、どうして私が、わざわざ本社から回されなくちゃいけないわけ?」

僕には、返す言葉もなかった。

「いい加減なこと言わないで...。」
彼女は少し俯いて、それからぷいと、再び滑走路の見える窓の方を向いてしまった。
その目には、微かに光るものが浮かんでいた。

彼女のような、自分の仕事に誇りを持っている女性にとって、会社の今回の措置は、嫌がらせ以外の何物にも映らなかっただろう。

決して、何か間違いを犯したわけでもなく、彼女の仕事の成績はいつも人並み以上だった。

むしろ、彼女に仇なしたのは、この彼女の優秀さにあったのかも知れない。
彼女のこの性格のためもあって、社内のやっかみは相当あるようだった。

「...わたしが、何をしたって言うの...。」
彼女は大きな窓に目を向けながら、小さな声で、そう呟いた。

彼女は、プライドが高かったが、芯が強いわけでは無かった。そう振る舞っていただけで、内心は繊細で、傷つきやすい人間なのだ。

むしろ、だからこそ、彼女は周りの人間に対して、時に威圧的にも見える態度を取っていたのだと、僕は思っていた。

正直、耐えられないだろうな。
口惜しそうな表情で、窓を見つめる彼女の横顔を見ながら、僕はそう感じた。

だが、ついて行くわけにも行かなかった。
僕には僕で、やらなければいけない仕事があるのだから。

「...ねえ。」
消え入りそうな声で、彼女が言った。

「別れ、ましょ」

彼女は、体は向き直っていたが、うつむき加減で、僕の目も見ていなかった。

「もう、そのほうが、いいとおもうの。...お互い、歯車は、別方向に、動き、出したのよ」
言葉を絞り出すように、彼女は小さな声で僕に語りかけた。
長い髪が、顔の両側に黒い幕を下ろしたように垂れ下がって、表情を覆い隠した。


「....こんな、急な話で、ごめんね...。ありがとう、いままで。さよぅ...」
「あの、さ。」
僕は、おそるおそる、切り出した。

「結婚、しちゃわない。」

今まで俯いていた彼女が、驚いたように顔を上げた。
先ほどの泣き顔が、まだその顔には張り付いている。

「なんか...、僕の方こそ、こんな飛行機の待ち時間みたいな時で、悪いんだけど。」
「でも、」
「...いい考えだと思うんだ。僕には君の支えになれるか解らないけれど、だからと言って、放っても、おけないんだよね...。プノンペン行きは、君にとっては、そりゃあ....、不安だろうと思うけれど、僕にとっても不安なんだよ。だから...、ね。君にこれだけ振り回されても、ずっとここまで、くっついてきた僕なんだから、少しは....、考えてくれないかな。...この不安の、解消」

彼女は黙ったままだった。

ベージュのチノの膝の辺りをくしゃくしゃに握りしめて、彼女の体は微かに震えていた。

「式とか、手続きとか、そう言うかたちの上のことは、正月に帰ってきてから、またゆっくり話せばいいことだしさ」

彼女に僕の気持ちを言ってしまっても、僕の中にはまだ、少し後悔があった。

本当なら、もっときれいなところで、落ち着いた時間にきっちりとしたかたちでプロポーズするべきだったと思っていた。

彼女の転地が決まってから、お互い、ここ数ヶ月は忙しくて、ゆっくり会う暇もなかった。
それは、言い訳にしかならないのではないか。“男の勝手”な...。
彼女の、口癖だ。

膝を握りしめた彼女は、動こうとしない。

そうこうしているうちに、いよいよ飛行機の出発時間は近づいてきた。

「もう、行かない?」
彼女の手を取って、促した。
彼女は俯いたまま、ゆっくりと立ち上がった。

ベージュ色の生地に、雫に濡れた跡があった。

やはり、泣いていたらしかった。

彼女の黒いキャリーバックを引いて、手荷物検査場の手前まで歩いてきた。

ここから先は、彼女だけが行くことの出来る領域。
僕の手は、いよいよ、もう、届かなくなる。

彼女は、無言のまま、僕の手から、彼女の荷物を受け取った。
そして、俯いた顔をあげて、ようやく僕の顔を見た。

「...行ってくる。」

頬は涙に濡れたまま、にこりと微笑んでみせた。