2008年9月1日月曜日

無題

ある晩のことだった。

季節はすでに秋で、7時にもなると辺りは暗くなった。老人にとって、特に遅くまで起きている理由もなく、その日も早くに寝るつもりだった。老人は自分一人の寝床を整え、そうして眠気が訪れるまで、布団の中で静かに横になっていた。

その辺りは、都市に近い海辺がみんなそうであるように、夜遅くになると暴走族がひっきりなしに通り過ぎた。当然警察もそれを警戒して、網を張っているので、毎晩彼の家の前の道路では、激しいカーチェイスが行われていた。老人にとっては、轟音を立ててバイクを乗り回す若者も、それを大声上げて追いかけ回す警察も、どちらも眠りを邪魔する騒音の主には違いなかった。故に、老人が早くに寝床に着くのは、そうした夜の喧噪が始まる前に寝入ってしまうためでもあった。

それは、柱時計の鐘が8つを打った時だった。
どんどんと、玄関の戸を叩く音がした。ちょうど寝入りばなだったので、始めは夢かと思っていたが、いつまで経っても、戸を叩く音は鳴りやまなかった。何事かといぶかしがりながらも、老人はゆっくりと立ち上がり、玄関の方へと歩いていった。

老人の動きが、あまりに遅かったので、扉を叩いていた主は、どうやらすでにあきらめていたようだった。老人が玄関へたどり着く頃には、もう扉を叩く音はすっかり止んでいた。それでも老人は念のため、鍵を外すと、戸をがらりと開けた。
そこには、薄暗い玄関の明かりに照らされて、不安げな女の顔があった。
老人は、その顔を見て一瞬はっとしたように目を開いたが、それは女には気がつかなかった。
「すいません、」女は不安げな表情のまま、老人に言った。肩まで伸びた髪は所々乱れていた。

「お宅の前で車が動かなくなってしまって...。この辺りに、ガソリンスタンドか何か、ありませんでしょうか。」女の声は押し殺したような小さな声だったので、老人には上手く聞き取れなかった。ただ、その女の様子から、随分困っているようには察せられたので、
「こんな夜分遅くに...。まあ、とにかく、中へお上がりなさい」
女にはとんちんかんな回答と思われるだろうと思いながらも、老人は彼女をとりあえず中へ招き入れた。女は、老人の目の前に現れた時からすでに、理由は分からなかったが、しきりに辺りを気にしていた。老人にはそれがずっと引っかかっていた。
「でも、車が...。」
女は、後ろを振り向いた。明かりの消えた車が、国道の真ん中で、老人の家の出口を塞ぐように止まっていた。
「車...。」老人はそれを見て、ようやく状況を察したらしく、
「あそこに置いておくと、夜中に騒がしい連中が来て、悪戯されることがあるから、私の家の庭に、とりあえず入れなさい。」そう言って、足下にあった草履を突っかけて、彼女に先立って歩き出した。女はどうして良いのかすっかり困っているらしく、その後ろから何も言わずにおずおずとした様子で付いてきた。老人が運転席のドアを開け、サイドブレーキを外して、ハンドルを取ると、女はようやく後ろからそれを押し始めた。車は、幸い軽自動車だったので、二人の非力な人間の力でも、それほど労無く動かすことが出来た。

車をすっかり庭の中に入れてしまっても、女の顔から不安げな表情は消えなかった。
「お電話、お借りしても良いですか。」
女は、老人の瞳をのぞき込むように言った。
「携帯をおいてきてしまったもので..。」
「ああ、どうぞ、どうぞ。」老人はそう言って、女を内に上げ、電話の前まで案内して、自分は居間に入っていた。

「...。」
電話を前にして、女は受話器は取ったものの、一向に何処かへ掛ける様子はなかった、じっと、受話器の無くなった電話機を見つめるようにしながら、女は何かを思い詰めているように見えた。

ややしばらくして、女は結局、どこへも電話した様子のないまま、受話器を置いた。
そして、老人の前に座り込むと、
「すいません、今日一晩だけ...、今日一晩だけ、泊めていただけないでしょうか」と言って頭を下げた。

「...ええ、それは構いませんが...」老人は女の何か必死な様子に、頷かないわけには行かなかった。
「ありがとうございます」
女がそう言って、一度顔を上げて老人を真正面から見た。その表情を見て、老人は再び、何かが胸の中に激しく渦を巻くのを感じた。この女を放って置いてはいけない。彼の奥底にそのような理由のない、熱い意志のようなものがわき上がるのに、彼自身驚いていた。

女は、年は30も後半だろうか。確かに美しい女ではあったが、どこにでもいる程度の美しさであることは、老人は十分認識していた。彼の年を経た精神は、もはやそのようなものに、闇雲に感情を乱されるほど素直ではなかった。むしろ、頭の一方で冷静にその場を見つめる余裕すら、彼にはあった。だからこそ、自分の心理の一方に、そうした理由のない感情がわき上がってきても、彼はそれはそれで受け入れながら、そんな様子はおくびにも出さずに、目の前の女を観察することが出来た。

それでも、老人は少なからず動揺はしていた。

その女は、若き日の、彼の妻の姿に、あまりにも似ていたからである。