2008年9月23日火曜日

猪狩り鉄忠

江戸市中から大分離れた山奥の村に、たいそうな強力で知られた大男が居を構えていた。
この男、いつからここに住み着いたのか村のものですら正確には知らなかった。年は40とも、50とも言うが、時折見せる笑い顔は、童のそれのようで、実はもっと若い男なのかも知れなかった。

いずれにしろ、村の片隅にいるこの大男に、村人は、畏怖と好奇の両方が混じり合った気持ちで接していた。男は普段、家の周りにこしらえた畑にでて、他の村人と同様に鍬を振るい、自らが日頃食う分だけの菜物を育てていた。どうやらその畑で取れるものだけで腹は満たされているようで、村人の世話になることは滅多に無かった。

それどころか、男は月に数度、大きな大刀を一本下げて近所の山に分け入り、二、三日も帰ってこないかと思うと、大きなイノシシを抱えて降りてくることがあった。捕ってきたイノシシは当然のように村人にも振る舞われたから、村人は皆、イノシシが捕れる時期になると、内心、男が山に入るのを心待ちにしていた程であった。

村人はその猪肉の礼として、僅かばかりの米を男に分けた。
男はその米を日々の糧としていたのはもちろんだが、食べきれないと思った時には、町の市に持って行って売りさばき、必要なものを買ってきているようだった。

ただ男の家はいつ見ても薄汚いあばら屋のままだったし、何かが新しく買い足されたようでもなかったので、男が得た金を何に使っていたかというのは何時までも謎のままであった。

立派な大刀を持っていることから見て、男の出自は武士のようだった。
しかし、着ているのものは村人ですら驚くほど薄汚い身なりだったし、髷も十分に結っていなかった。刀の鞘もすっかりぼろぼろで、おそらくは中の刀はすでに刃が落ち、鉄の棍棒に等しくなっているものと思われた。

実際、男が捕ってきたイノシシには全く刀の傷がなかった。
ただ頭蓋だけが激しく陥没していて、これが致命傷になったと察せられた。

村人は男の名を知らなかったから、とりあえずの通称として、
「奥山の鉄柱殿」と彼のことを呼んでいた。


そんな折、一人の若い侍が村をたずねてきた。

「佐田雷哲様という御仁を捜しておるのですが」若い侍は村の長にたずねた。
「佐田雷哲様、ですと?....うちにはそのような立派な名前のものはおりませぬが...。見ての通りの寒村でして。」
しかし、若い侍は村長の言葉を聞いていないのか、
「いえ、佐田様はここにいらっしゃるはずなのです。この村の何処かに...。」
そう言って聞かなかった。

村長はすっかり困ってしまって、とりあえず村の中を案内することにした。
そうしてこの村のことを知れば、こんな村にそのような名前のものが居ないことなどじきに察せられると思ったからである。

村長が、若い侍を連れて村の中を歩いていると、山の奥から例の鉄柱が、イノシシの死体を引きずって歩いてきた。

彼の連れているイノシシはこれまでの中でも3本の指にはいるかという大猪で、運ぶだけでも常人ではひと苦労であるはずなのだが、この男にとってはそれもなんでもないらしく、平然とした顔で村の真ん中の道を歩いてきた。

すると突然、それを見た若い侍が
「もし、あの方は?」
と村長にたずねた。

村長は突然のことに驚いていたが、
「へえ...。私らも本当の名前は知らないんですが...。奥山の鉄柱殿と呼んでおります。」
と正直に話した。

「奥山鉄忠殿...。」
若い侍は突如、つととしてその大男の前に立った。
「もし、鉄忠殿」

呼び止められた大男は、ぼやりとした顔をして、目の前に立った細身の若い侍を見下ろしていた。

「わたくしは太田三朗ともうすもの。さる用向きにより、佐田雷哲様というお方を捜しておる。そなた、何かご存じないか。」

大男は、それまで、右手に猪を引きずり、左手に鞘に入った大太刀をかつぎ上げていたが、
佐田雷哲という名前を聞くやいなや、右手から猪を放した。そして、おもむろに太刀の束に手を掛けた。

若い侍もあわてて身構えた。

大男は太刀を引き抜くと、素早くそれを横になぎ払った。
刀を引き抜こうとしていた若い侍はその動きに全くついて行けなかった。

刀を半分抜いたまま、後ろに飛び退いて、かろうじて一太刀目をかわすと、ようやく鞘を払った。どっと全身の毛穴から汗が噴き出た。

男は間合いを一気に詰め、再び振り回すように太刀を振るった。
ぶうん、と風を薙ぐ音がして、若い侍のすぐ目の前を、大太刀の切っ先が通り過ぎていった。

若い侍は完全に劣勢だった。刀をよけるのに精一杯で、この大男に立ち向かう術はなさそうだった。

大男は青眼の構えから、咄嗟に切っ先を揺らし、相手を袈裟に切り上げる素振りを見せた。
若い侍は不意の動きによけきれず、思わず目をつぶった。

斬られる。

がちん、と耳をつんざくような大きな音がして、
無意識に突き出した彼の太刀が、ものすごい力で持って行かれるのを感じた。
太刀は彼の腕をすっぽ抜け、遠くの屋敷の軒へぶすりと突き刺さった。

恐怖に腰が砕けて、若い侍は尻餅をついた。おそるおそる顔を上げると、そこには大男が、先ほどと代わらぬ静かな瞳で若い侍を見下ろすように立っていた。だらりと下げられた右腕には大太刀が、指の太い手の中にしっかりと握られていた。

大男はしばらくそうして若い侍の顔を不思議そうに見ていたが、やがてくるりと向きを変えると、のそのそと、うち捨てられた猪のもとに戻り、そしてそれを再び引きずって、もとのように歩いて去った。

「大丈夫でございますか!」
遠くから見ていた村長があわてて若い侍に駆け寄ってきた。

「あの方はどういう...。」
若い侍はまだ放心した気持ちが戻らないまま、村長にたずねた。

「さあ、私どもも素性は存じないのです。...ただ、普段は優しい大男で、村人にもあの猪の肉を分け与えてくれるほどなのですが...。よもや、人様に剣を抜くとは...。」

「いや...。これは私の方に責任があるのでしょう。」若い侍は言った。「あの大男、私を斬ろうとしなかった...。追い返すだけが目的だったのか....。」